2018年12月8日          怨 念         

 今日、12月8日は大東亜戦争が始まった日です。ラジオは真珠湾の奇襲攻撃成功をひっきりなしにガ鳴り立てていました。母親は青い顔をして、何故か、パン屋へ走りました。食パンは売り切れ、菓子パンを大量に買い込みました。

 戦争は人権を無視します。大東亜共栄圏を旗印に朝鮮半島、中国、満州で日本軍はどれだけ現地の人々に迷惑を掛けたことか! 初めの内は軍隊の食糧は補給されていたものの、補給路が絶たれてしまうと軍票を使っての現地調達です。軍票は敗戦と同時に紙っペラになりました。日本軍隊の得手勝手な振舞いにより、東南アジアの人々がどれだけ苦しんだか、計り知れないものがあります。

 韓国の最高裁判所が、戦中の軍需工場での徴用工の半ば奴隷的な雇用に対する賠償請求を妥当なものとし、当時の日本企業に支払を求める判決を下しました。応じなければ、韓国内の当該企業の資産を差し押さえるというのです。遥か昔、日本政府は韓国の国家予算に匹敵する賠償金を渡し、「申し訳ありませんでした。これで勘弁してください」「解りました」となっていたにも拘わらずです。 国家間の約束は犯すべからざるものであります。例え、政権が替わろうと反古にはできないものです。しかし、どうしたことか、韓国政府は今もって沈黙を貫いています。「既にお金は貰っているのだから、国内で処理します」と云うべきなのに、文政権はダンマリを決め込んでいます。そのため、韓国とは断交も止む無し、という空気が日本国内に漂い始めています。

 戦争による個人の人間性の犠牲、これは十字軍の昔から枚挙にいとまがありません。スペインによるアメリカ原住民の殺戮。アメリカの南北戦争。南米大陸の略奪と虐殺。イギリスによるインド、東アジアの征服と強奪。ナチスによるユダヤ人600万人の殺戮。世界史は人権無視の歴史です。

 とは言っても、強制労働に従事させられた、という過去を持つ人々が、今更のように、例え国家間で処理済みとはいえ賠償を申し出たからといって、何で咎められましょうか。難しい問題です。

 

2018年12月6日           師 走

 80年を超える年月を生きながらえて、今、師走を迎えています。悲しいこと、辛いこと、苦しいこと、いろいろありました。逆に、嬉しいこと、楽しいことも数多くありました。時には死にたくなったこともあります。予備校生時代、「もうこれまでだ、明日は死のう」と覚悟を決めたこともありました。所持金も底をついた師走のある日でした。どうせ死ぬならということで、映画館に入りました。テアトル銀座という和光の裏にあった映画館です。「モンマルトルの丘」という映画でした。コラボケールが主題歌を歌っていました。

 その時です。死ぬほどの苦しみも、裏を返せば喜びに他ならないのではないか! という、天からの言葉が降ってきたのです。辛さも、死ぬほどの苦しみも、結局は喜びではないか、苦しみの連続の人生であっても、最後は「ああ、面白かった」といえるのが人生ではないだろうか、だとしたら、「辛さよ、苦しみよ、ドンと来い」、おれはそれを面白がってやりましょう、、、

 爾来幾星霜、師走という時の中で、改めて越し方を振り返ってみても、「何という面白い人生を私に下さったのだろう、有難いことだ」という思いで一杯になっています。

 

2018年12月4日           嫌な事件

 カラオケへ行って私が歌うレパートリーに「小倉太鼓」があります。「小倉生まれで、玄海育ち、海も荒いが気も荒い、、、」というアレです。二年間の西部本社単身赴任中に覚えました。北九州には炭鉱が数多くありました。どの港にも沖仲士がいました。加えてヤクザ屋さんの縄張り争いも熾烈を極めていました。中でも小倉には今もって強い勢力があって、当時から市長さんが困っていました。

 既に炭鉱は無くなり、八幡製鉄も本土に移転し、いまの小倉の夜は寂れに寂れていますが、気の荒さだけは残っているらしく、ごく最近、嫌な話がありました。

 高速道路で「あおり運転」をして金をせびる常習犯が、何の罪もない家族連れの車を襲い、あろうことか高速道路で停車を強要し、止まったところに大型トラックが追突し、子供二人を残して夫婦が即死するという痛ましい事件がありました。主犯のこの男は北九州でも気の荒さで名が通っている「仲間」の出身だそうです。いま、問題になっているのは、この男の弁護団が「男の無罪」を主張していることです。停車させはしたが、追突して夫婦殺害したわけではない、争い事は民事だからこの男は道路交通法違反ではあっても死亡事故とは関係ない、だから無罪だ、というのです。では、追突したトラックが全面的に悪いのでしょうか? 前方不注意ではあっても、本来、高速道路での停車は絶対にあってはならないのです。どうして追突を咎められましょう。そう考えると、事件は複雑です。それをさせた男の責任はどうなのでしょうか? 新聞報道によれば、この男からは反省の色など全く感じられず、両親を失った被害者の子どもたちは、泣きながら訴えています。

 これは本当に痛ましい事件です。そして、因果関係が複雑なため、難しい事件でしょう。裁判でどういう結果が出るのでしょうか。 私は思います。こんな男のために弁護は必要ありません。もし、重罪が科されないようなら、私は弁護団を呪います。

 

2018年12月1日          ものの味

 京都の名だたる料亭の味の決め手は、どれだけ良質の鰹節を使うかによる、と聞き及びます。私自身も、勤め先の朝日新聞社が築地市場と隣接していましたので、鰹節屋へ行ってはそれらしきモノを求め、自分で削り器にかけて悦に入っていた時がありました。しかし、良質の鰹節は値段がはりました。

 九州の西部本社へ単身赴任してアゴの存在を知りました。飛び魚の稚魚をアゴと言います。煮干し状になったアゴでダシをとるという手法は、小倉住まいのときに知りました。以来、「ダシはアゴに限る」思っています。博多の老舗「やまや」から粉末のアゴダシを取り寄せ、味噌汁に、雑炊に鍋物に使っています。実に重宝しています。

 若かりし時、一年浪人して受験に臨みましたが都立大学と東京外語大学から及びがかからず、「オレはもうコックにでもなって一生やって行こう」と失意の余り銀座の洋食店のコック見習いになったことがありました。大きな鍋に鶏がら、豚骨、セロリ、ニンニク、玉ねぎを入れ、日がな一日地下の調理室に勤務していました。いわゆるソップの出来が洋食の決め手になることをその時知りました。

 二十日ほどして滑り止めだった明治学院大学の合格通知がきました。「あんたはいい料理人になれたのになあ」というオーナーの言葉を貰ってコック見習いにさよならしました。旬日ならずして早稲田大学の合格通知が舞い込みました。

 二月の半月ほどでしたが、料理の決め手は西洋流に言えば「ソップ」、日本流で言えば「ダシ」であるのを教わりました。

 巷では日本蕎麦屋が衰退し、ラーメン屋が跳梁跋扈しています。蕎麦にはそれなりの格式と味わいがあって、その道の達人が薀蓄を述べていますが、何せ、原価は極安です。原価率から言ったら蕎麦屋ほど儲かる商売はないのではないでしょうか。反対にラーメン屋はその味を競い合いに血道を上げています。合成味などもってのほかです。あくまでも、自然の味のスープ造りに命を懸けて商売している、と言っても過言ではないようです。

 現役で福島県を担当している時、喜多方の販売所長と元祖喜多方ラーメンの店に行ったことがありました。大鍋にスープが仕込まれていました。粉雪の舞う夜でしたが、ラーメンの旨さを堪能しました。つまり、ラーメン店は旨いスープを作る努力しているのです。それに反して日本蕎麦屋はどうでしょう。どんな努力を払っているのでしょう。薀蓄ばかり述べて原価率の低さにあぐらをかいているのが蕎麦屋ではないでしょうか。その報いが来て、蕎麦屋の数は全国で激減しているようです。

 

2018年11月24日        ニッサンの惨事

 私が自動車免許証を取得したのは、かれこれ50年前です。車体は黄色、屋根は黒の派手なスポーツカータイプの日産車でした。運転が面白くて毎日乗り回しました。夜明けとともに目白通りから護国寺のインターに入り、出来て間もない首都高速をすっ飛ばし、横浜から東名高速に出て等々力辺りから環7道路に下りて練馬へ帰ってくる、というのが、当時の日課でした。明け方の道路は空いているので、所要時間は2時間ほどでした。それから朝飯を食べて筑地の朝日新聞社へ出勤、、、今では考えられないことができたのでした。

 何故、日産の車かというと、東銀座駅で下りて新聞社に向かう道の右手に日産自動車の本社があり、その社屋の一階にはショールームがあってローレルの車がイヤでも目についていたからでした。

 当時の日産では労働争議が頻繁におきていました。たしか石原俊が会長で、社長は川又克二でしたが、実権は労組上がりの塩路一郎が握っていました。彼が率いる労働組合が余りに激しさを増すので、石原が塩路を経営に参画させたのでした。労働組合の親玉が経営に加わった会社というものは、会社の業績よりも社員の優遇に重きが置かれるのは世の理です。しかも、塩路ー川又時代は20年も続きました。日産はトヨタに益々水をあけられたのです。

 思い余って日産はフランスの国策会社ルノーに助けを求めます。そこで派遣されたのがブラジル生まれのカルロス・ゴーンとその腹心のグレッグ・ケリーでした。日産にしがらみのない彼らは辣腕を振います。大がかりな首切りの断行です。日産の業績は回復しました。ルノーと合わせて世界第二位の生産台数を誇るまでになりました。確かに、この二人は力があったのでしょうが、労働組合の経営参加を止めさせれば会社の業績は独りでに上がる、としたものです。

 逮捕されて留置場にいる二人は、日産という会社をいいように私物化していました。所得の隠ぺいによる課税逃れ。世界の四か所に作られた別荘、自分の肉親への日産の金を使っての援助、、、余りにも顕著な会社の私物化、、、

 奢れるもの久しからず。日産はまたしても惨事に襲われたと言えるようです。

 

2018年11月17日       佐藤優と高原剛一郎

 私は、ベッドへ入る時はいつもIPADが一緒です。ユーチューブで外務省主席分析官であった作家の佐藤優と、大阪の牧師・高原剛一郎の説教を検索し枕元に置きます。佐藤優の父親は福島県三春の出で、沖縄で仕事中に久米島出身の女性に出会い佐藤優が生まれます。同志社大学神学部から外務省に入りましたが、彼は北方四島の担当となり、時の北海道出身の議員で北海道開発長官になった鈴木宗男に加担して越権行為を犯し、刑務所生活を513日送ります。

 同志社と言えば新島譲です。彼は新島に優るとも劣らない論客として専らラジオで活躍しています。どういう訳かテレビには一度も出ません。実に正興を得た時事解説と、時局の推移とその見通しを述べるので、毎回聞き逃さずにしています。

 もう一人、高原剛一郎は大阪の牧師さんです。既に、一時間余の講演を100回以上ユーチューブに流しています。実に歯切れのいい、スカッとした講演です。世界の潮流を歴史的に、また聖書という文献を予言書として捉え、時事解説に熱弁を振います。旧約聖書は今から2500年以上前に書かれた文献ですが、彼はその時代のイスラエルを中心とする中東の歴史的盛衰のすべてについて勉強ができていて、国名、年号、人名を立て板の水のように迸り出します。その記憶力、判断力、洞察力は実に驚異的です。

 心すべきはユーチューブには時として「変なもの」も実しやかな顔をして登場していることです。「嫌韓、嫌中」など、どキツイまでの宣伝が紛れ込んでいます。日本の若年層に「将来成りたい職業は?」と聞くと「ユーチューバー」と答えが返って来るそうですが、これは困った現象です。スマホに毒された世代が大人になったとき、日本はどうなるのでしょうか。

 

2018年11月16日        10年カレンダー

 今日、仕事場の壁に貼ってある10年カレンダーに朱を入れました。今年の6月から過ぎた日を消していなかったので、約半年分でした。残りの日々は、あと、一年と一か月。2019年12月31日でこのカレンダーはお仕舞になります。このカレンダーの中に、私がオサラバする日があるに違いない、と変な確信の元に、無事に過ぎ去った日々に感謝の気持ちを込めて、一日一日を消してきたのでした。

 11月12日、販売OBの会が筑地本社のアラスカでありました。生憎、内山、山崎、池田、山本、芳川が集まる新宿の会(12時開催)と重なったのでしたが、その会は中座させてもらってOB会(2時開催)に30分だけ出席してきました。今年からOB会入りをした飯田朝日新聞副社長、小林取締役販売担当、増井販売局長らと話が出来ました。懐かしいメンバーでは、有隣堂書店の松信社長、熊本朝日テレビの植田会長に会えました。松信社長は私が宣伝部長の時の宣伝課長でした。新聞はもとより本も売れなくなった未曽有の時代をお互いに嘆きながらも、彼は有隣堂の売り上げを514億から520億へ伸ばしていました。ガタイも大きくなり、上背も体重も私を追い越しているのは驚きでした。顔つきは先代の父上にソックリになっていました。私が福島担当の時、最初に助務になってくれた植田君(取締役販売担当、西部本社代表、その後熊本朝日テレビ社長)も出席でした。彼は私に付いてくれた11人の助務の中ではトップバッターにして一番の出世頭です。この日の彼は、頭が真っ白な上に3分刈りをしていて、すっかり好々爺然となっていたのにはオドロキでした。

 杯を持ちながら、テーブルを回っていて気が付いたことは、このメンバーの中で私がいつの間にか練習生の中で最古参近くに位置していることでした。98歳の竹市さん、92歳の青山さん、出席できないでいる3人を除いて、生存している練習生の中では、81歳の私は6番目になっているのです。私の一年先輩の3人、私と同期入社の1人、一年後輩の5人、二年後輩の2人、皆さん既に居なくなっています。「私は恵まれている!」この命、大切にしないでおくべきか!と改めて思いました。

 

2018年11月14日              初めての映画会  

 11月6日朝7時、日の出と共に我々5人は、チェンマイから往復200キロを超える山奥に位置する「カレン族」という小数民族の小学校分教場に向かって車二台を出発させました。車の積み荷は70人の幼児・小学生に配るお菓子の入った袋、それに映写装置、映写時間1時間半をこえるタイ語吹き替えの「ドラえもん」のDVD。同じくタイ語によるのスタジオジブリの作品「紅の豚」のDVD。

 目指すカレン族のその分教場と周辺の集落には電気が通っていません。僅かに太陽光発電がお印のようにあるばかりです。そのお蔭で学校には一台のテレビと数本の蛍光灯はありました。その分教場には三人の女の先生がいて、そこでの映写会は学校開設以来初めてとのこと。

 山あり谷ありの悪路に苦戦を強いられながら、9時半、ようやく分教場に辿り着いてみると、70人の子供たちは今や遅しと暗くした教室に集まっていました。教室の壁がスクリーンです。映写技師の梶原さんの出番です。日大芸術学部出のこの方は教会の広報担当でもあります。毎回の礼拝の動画を会員全員に送って下さいます。その上、毎週月曜日ドッケオの高田さん宅で映画会を無料で催して下さり、これまでどれだけの映画を観させてもらったか、数えきれません。生徒への映画の解説はタイ語が堪能な堀田さんです。堀田さんは埼玉県飯能にご自宅がありながら、「埼玉県タイ慈善団体」の現地駐在員をしています。私がチェンマイに来るたびに日本から楽器を運んで少数民族の学校に寄付してきたのも、堀田さんあってのことです。キーボードが五台(一台はまだ自分が使ってる)、ピアニカが約20台ほどになりますか。家の倉庫にはいずれコンテナで運ぼうと思っているカワイのアプライトピアノが眠っています。

 午前の部が終わったので生徒一人ひとりに袋に入ったお菓子を配りました。その役目は名辺谷さんと林です。名辺谷さんは元看護婦、林は母親の転地療養のためにドッケオに住み始めました。

 特筆したいのは、ここの生徒たちが実に愛くるしい顔立ちである上に、立ち居振る舞いが極く自然であることです。文明に毒されないと人間はこんなにも清々しくなるものか、それに比べて、文明の享受を欲しいままにしている日本その他の地域の子どもたちとの違いは、何と大きいことか。

 午前の部が終わり、子供たちは給食の時間です。銘々、アルマイトの皿を持って大鍋から僅かな肉の入った野菜汁を先生に取り分けてもらいます。ご飯は各自が家から持参してきています。中には持って来れない子もいるとか。訊けば学校予算は一人一日10バーツ(約30円)だそうです。街中ではどんなに安い昼飯でも30バーツは(約100円)します。

 子どもたちがアルマイトの皿に野菜汁を盛り付けてもらって、最後に並ぶのは、身体の大きな上級生の前です。何と、大匙一杯のザラメ砂糖がアルミ皿の片隅に配られていました。大きな子には大盛り、小さな子には小盛り。一匙のザラメ砂糖がここの生徒たちの甘味おやつなのでありました。

 われわれ五人にも三人の先生たちと一緒に昼食が振る舞われました。生徒たちと同じ野菜肉汁の他に、焼き飯と卵焼きと小さな蜜柑が付きました。生徒たちに申し訳ない気持ちになりました。僅かな学校予算を侵食したからです。

 堀田さんに通訳してもらって、いま、学校で不足しているもの、欲しいものは何か、と訊いてもらいました。扇風機二台、運動会で使いたい小太鼓数台、低学年用の玉入れ運動具、だそうでした。前回の訪問の際ピアニカ五台を寄贈したのでしたが、これを扱って生徒に教える先生がいないため、ピアニカは使われていないようでした。そのため、改めて五台を車に積んできたのでしたが、堀田さんと相談し、寄贈は他の学校にすることにしました。

 私はいま、この子供たちが学ぶ学校が必要としているものに報いるため、節約を心掛けよう、と思っています。  

 

2018年10月30日        チェンマイ雑感

 タイ・チェンマイでの滞在も、あと10日ばかりとなりました。日本では朝夕の気温が10度を下回っているというのに、当地では半袖シャツ、短パンで毎日を過ごしています。タイも、バンコックではいつでも30度近くですが、常夏のハワイと同じ緯度上にあって、しかも海抜の高い当地では、一年中、窓を開けていられるいのです。最近は、街の中で日本人をみかけることは稀になり、代わりに「ファラン」つまり、ヨーロッパ系白人が多くなりました。ことにファランの女性は肌の露出が著しく、目のやり場に困るほどです。

 日本と二時間の時差のあるタイ国は、夜の明けるのが遅いという特長があります。日の入りが6時半、日の出が7時頃です。広大な敷地を持ち、門番もいるマッケン病院のアドミニストレーションの斜め前の一軒家を月額一万一千バーツ(約3万5千円)で借りているので安全上は問題ないものの、市内からはだいぶ離れているので、どうしても車が必要になります。三年前にチェンマイ日本語キリスト教会友である滝川基君が日本へ帰るので、彼の車ニッサン・マーチを32万バーツで譲ってもらいました。

 海外で運転するには国際免許証が必要です。それは難なく取れたのですが、最初はオッかなビックリでした。若い加藤君や堀田先生の指導を受け、今ではチェンマイ市内を縦横無尽に走り廻っています。幸い、タイが右ハンドル左側通行であるのも幸いでした。ただ、信号が殆どありません。その上、いつも渋滞です。無数のバイクが軽業のように走り廻っています。自賠責、任意保険もその度に更新していますが、この先、事故と無縁でいられるかどうか、それが問題です。

 日本では高齢者による交通事故が頻繁におきています。旧友のほとんどが免許を返納しているようです。私の場合はどうか? 日本でもチェンマイに於いてもこと運転に関して不都合を感じたことは、いまだ一度もありません。もし、一回でもそれがあったら、直ちに「潔く運転を止め、免許証を返納」する用意と覚悟は出来ています。

 

2018年10月20日        水の問題

 日本国以外を旅していて、一番気を使うのが水です。ご当地チェンマイもご多聞にもれず水道水は、まず、飲めません。カンボジア、ベトナム、ラオス、マレーシアもご同様でした。チェンマイの街の中をピン川が流れていますが水量は豊富でもドロ水です。川幅100メートル以上あろうか、というメコン川も泥水です。ではどうやって防衛するかというと、三本の筒が付いたろ過装置のお世話になります。タイの人たちは水道の水をそのまま飲んだり、煮炊きに使っていますが、チェンマイに居住する1000人余りの日本人の家庭では押しなべて三重のろ過装置を使っています。良質の水に慣れた日本人はアジアでは特別な民族なのでしょう。

 カンボジアのアンコールワットへ行ったときです。エアーポートのあるシュムリアップから二時間ほど行ったところに、泥水が流れ込む広大な湖が広がっていました。何と、そこには2000人ほどの湖上生活者が集落を作っていて、排泄物が浮いている水をくみ上げて飲料水や煮炊きに使っていました。

 いま、水の問題で最も苦しんでいるのが中国でしよう。特に雲南省では旱魃が酷く、地下水も枯渇しているといいます。人民をして高度成長を促した共産党は、大気汚染や水の問題など、人に命に関係する重大事項をなおざりにしてきました。いまや、揚子江や黄河の流れも途中で途絶えてしまって、海に流れなくなっている、というではありませんか。

 20年ほど昔、親戚の桜井家、中沢家の8人で上海を中心とする一週間の旅をしたことがあります。従弟の靖輝君の上海での商売相手の方が、万事、手配してくれました。その旅でのこと。薬を飲もうとしてレストランで出されていた水を飲みました。その晩、靖輝、国輝の二人と夜の街に繰り出し、氷の入ったウイスキーを飲みました。翌朝から強烈な下痢が始まりました。行く先々でトイレのご厄介です。中国の公衆トイレは団体で入るようになっています。隣の人の動向を伺いながら用を足すのです。これには閉口しました。爾来、上海へはゴルフなどを含めて十数回行きましたが、こと水に関してだけは細心の注意を払うようにしました。

 中東のドバイへ行ったとき、関心の一つは水でした。海岸に轟音を立ている巨大な機械が林立していました。何と、この国では海水を汲み上げ真水に浄化していました。山も川も樹木もないこの国が頼るのは海の水のみであるのを知りました。中国もやがては陸上の水が枯渇し、砂漠地帯の国のように海水に頼る他、生きる道はないかもしれません。しかし、上海の海岸はゴミの山です。海水も汚れ放題になっています。汚染物質を垂れ流し、ゴミも放置しっぱなしにしている以上、中国はマトモナ海水を汲み上げることができるでしょうか?

 海の汚れの酷さは香港とて同じです。それは上空からつぶさに見ることができました。何と、香港の海域だけ海の色が緑色に変色しているのです。明らかに沖合いの青と違う不気味な色の海が、香港からマカオにかけて続いていたのです。 日本はやがて、飲料水の輸出国になるような気がしてなりません。

  最近、日本の北海道、新潟県内などで、山林や河川の流域などの土地が外国人、特に中国人に買われる、という異常現象が頻繁に起き始めています。土地を買えば、そこを流れる河川や地下水の取得利権は買主のものとなります。外国人はそこを狙っているのでしょう。日本の良質な水を自国に運ぼうという狙いが覗われます。日本の現行の法律ではそれを阻止することはできません。

 「中国人による水資源の莫買い」に対し日本の法律は余りに無防備です。

2018年10月18日      

(今月12日からタイ・チェンマイに来ています。留守中にワイファイがおかしくなっていてインターネットが出来ませんでした。修理会社に頼んでも、ご当地のお祭りと重なって三日間お休み。ようやく今日回復しました)

 

                  疑 惑

 去年の一月初旬、例年のように福島浜通りへ出かけ、泉の佐藤彰牧師の教会の礼拝に出ました。その数日前、富岡の手前、広野の高野病院の院長さんが不慮の火事で焼け死んだ、というニュースが流れました。双葉原発まで22キロという放射能汚染源に一番近いところに位置する唯一の病院として力を尽くされていた方です。

 常磐高速を広野で降り、病院を捜しました。行って、せめてもの祈りを捧げたかったからです。病院は海が見渡せる高台にありました。駐車場にはかなりの台数の車が止まっていました。案内を乞うと事務長らしき人が裏の現場まで案内してくれました。

 小さな小屋がありました。10畳ほどの板の間の部屋で、ベッドが置いてありました。ベッドの横には薪ストーブがありました。ベッドには何かの書類が大量に燃えたような跡がありました。

 事務長の説明によれば、高野院長は、ほとんど家に帰らず、この部屋に寝泊りして朝早くから、夜遅くまで仕事に励んでいたとのこと。われわれは深く頭を垂れ、院長のご冥福を祈りました。

 ただ、お亡くなりになった現場を見ながら、数々の疑問を覚えました。ベッドは燃えていない、小屋もそのままだ。大量の紙の燃えた形跡はあってもこの程度のボヤで人は焼死するだろうか。特異だったのは、小屋の前に犬の放し飼いの広場があって大きな真っ白い犬がいました。われわれに向かって盛んに吠え立てましたが、火災の当夜、周りの人はこの犬の吼え声に気が付かなかったのだろうか。 

 今、高野院長はある筋によって殺されたのではないか? という噂が広がっています。放射能汚染が子供たちに与える影響にについて沢山のカルテをこの病院は所持していました。それがいつの間にか無くなっていたとのこと。ベットの上で燃やされたとも。

 不審を覚えた小屋のたたずまいも、自損行為でなかったなら頷けます。果たして院長の焼死は過失によるものか、それとも他者の侵入を許した殺人なのでしょうか。それを知っているのは、小屋の前の柵の中で放し飼いされている白い大きな犬だけなのでしょうか。

 

2018年10月10日           輪 島

 輪島が死亡しました。享年70歳。学生相撲出身の稀代の横綱でした。しかし、私には彼について苦い思い出があります。

 当時、早稲田の学生だった私は履修単位をとるため、体育の単位取得が課せられていました。アルバイト学生でしたから運動部へ入る余裕などありません。思い余って、理工学部校舎の裏手にある早稲田相撲部へ飛び込みました。最初はパンツの上にまわしを付け、当時の教官であった笠置山から指導を受けました。お蔭で単位はもらえましたが、教官から相撲部への正式入部を勧められました。身長174センチ、体重80キロ前後でしたから、ガタイでは他の部員に引けをとりませんでした。今度は直にまわしをつけ押しの練習です。学生相撲では押し以外は教えないのを始めて知りました。先輩が土俵の中央仁王立します。突進して先輩をズルズルと土俵外へ押し出します。すると、先輩はくるっと廻りこんでまたやれ、というのです。何回かやっていると力尽きて土俵に倒れ込みます。すると、倒れ込んで粗い息をついている私の背中を先輩は足蹴にして「まだ、まだ」というのです。腹いっぱい食べてよいチャンコ鍋に魅力はありましたが、結局三か月余りで辞めました。続いて早稲田の男性合唱団「グリークラブ」へ音感、音域テストを受けて入りましたが、これも、アルバイトと遠征旅行と両立せず、退部を余儀なくされました。閑話休題。

 私の母の妹の桜井家には、長男靖輝、次男国輝、三男和輝の三人の男の子がいました。遊びに行っては私が相撲の面白さを吹聴していたものですから、三男の日大生和輝は日大相撲部に入部した、というものです。そこに輪島がいました。当時、日大の相撲道場は阿佐ヶ谷にあって、早稲田相撲部以上の激しい稽古が行なわれていました。見に行ったところ早稲田以上に部員も多く、学生横綱一歩手前であった輪島の下手投げの強さには、正直、驚かされました。相撲根性が開花した三男和輝は専ら輪島の相手をさせられ、ガタイも大きくなりましたが、惜しむらくは上背がなかったため、一流選手にはなれず、4年生の時は輪島付きのマネージャーになりました。彼は我儘そのものの輪島の言動にはほとほと困り果てていたようでした。その彼が若年性糖尿病を発症します。その年の暮れ日本医大に入院し、叔母の懸命な介護の甲斐もなく亡くなりました。就職は「間組」に決まっていたのにです。葬式には輪島以下日大相撲部の大勢が見えました。でも、私が大好きだった三男和輝は、もう、戻って来ません。もし、私が彼に相撲の話などしなかったら、彼は相撲部などに入らず、別の道を歩いていたでしょう。

 彼が死んだ原因は私にあるのです。それに我儘な輪島の言動が彼を死に至らしめたのです。輪島の死は私にとって感慨深いものがあります。

 

2018年10月8日          野 心

 歴史的にみて、権力を握った者は必ずと言っていいほど「領土の拡大」という野心を持ちます。旧くはアレキサンダー大王、ローマ帝国のネロ、近世のドイツのヒットラー、日本の満州国併呑、皆そうでした。ごく最近ではロシアのプーチンによるクリミア半島の奪還が良い例でしょうか。

 このところ、最も顕著な現われが中国習金平による強引な領土拡大政策でしょう。香港の中国編入、ネパール紛争、南沙諸島での軍事基地拡大、尖閣諸島での紛争、台湾の中国一体化などなど。何故中国がそんなにも熱心なのか、その理由は中国の通貨元をドルに替わる世界の基軸通貨にしたいからであります

 世界の警察であることを放棄したアメリカの退潮ぶりは、誰の目にも明らかです。「国家の興亡は存外早い」のは歴史が示す通りです。そこを狙って中国はその野心を剥き出しにしているのです。共産党による赤色世界革命を習金平は標榜しているのです。毛沢東はある意味で成功したものの、紅衛兵に活動の場を与え、文化を替えようとした点で、その行き過ぎのが暗黒時代を招いてしまいました。餓死者が大勢出たことがその表れです。登小平になって、経済が復興し、深せんなどを始め見違えるような世界的工業都市が中国のあちこちに出現しました。労働力が安価だったので、日本を始め世界各国が中国に生産拠点を移した結果です。貧富の差を嫌った共産主義国あるはずが、今や世界で最もその差が大きい得体のしれない怪物国になってしまっているのです。

 衰えたとはいえ世界の覇者であったアメリカが、それに気づかない訳はありません。トランプをして貿易戦争、関税戦争を仕掛けさせたのはアメリカの焦り以外の何ものでもないでしょう。

 領土的野心を抱きながら、世界の覇者たらんとドルに対して元を持って戦いを挑んだ習金平にいかなる勝算ありや。今世紀の見ものです。

 

2018年10月5日         信州新町美術館

 さて、同級会の翌日もこの上ない快晴です。全員うち揃って近くの美術館へ行きました。この美術館は化石の展示で有名だとか、成程、恐竜や貝の化石が豊富に展示されていました。その全部が近くの山々から掘り出されたものだそうで、つまり、太古の大昔は、信州全体が海の底にあったことを物語っていました。ということは、日本列島は今から何億年か前に海の底から隆起したことになります。だとすれば、繁栄を極めている日本列島が何億年か後あるいは、そう遠くない未来に、再び海の底へ沈むことだってありうるわけで、自分の存在など目の前の化石に等しい、と思わされました。

 それより何より、入館した左側に三枚の大きな「書」が掲げられていました。等身大の大きさで一枚は「団欒」もう一枚「恭則壽」と読めました。作者は青山杉雨(あおやまさんう)という方です。実にいい字なのです。滅多に出会えない素晴らしい作品なのです。しばし見入ってしまいました。解説によれば「この作者が信州新町と関係を持ったのは長野の書家小出聖水さんによる」とあるではありませんか。あっと思いました。小出聖水さんは長野高校を長野北高と呼んでいた頃の書道部の先生です。上背が二メートルはあろうかという髭を蓄えた先生です。そして私は小出先生率いる書道部の部員でした。二年生の時、三枚の条幅を表装して長野県展へ出品し、首尾よく入選させてもらいました。

 私は思うのですが、書でも絵でも「線」が問題です。単純な一本の線に空間を切り裂いて止まない「美」が籠ってないと、あるいはその美の表現が出来る人でないと書家にも画家にもなれません。「努力すればそれは得られる」と思われがちですがそうはいかないようなのです。「才能は努力によって培われる」のではなく、不公平であっても「才能は与えられた者にだけの特権」と私は言いたいと思います。「美は照応にあり」とは恩師上野先生が良く使われていた言葉です。筆墨の表現にもそれは当てはまります。

 この日、初めて出合った青山杉雨という人の書にその美がありました。筆墨の表現にも「美」は宿るのです。滅多に出会うことはありませんが。帰宅してからこの筆者をネットで調べました。

 1912年愛知県江南市生まれ 1993年80歳で没 大東文化大教授 書道会の重鎮 1992年文化勲章受賞 1993年銀杯受賞

 恐れ入りました。

 

2018年10月3日            台風一過

 大型台風が、30日から1日にかけて関東から信越を通過するというので、1日の長野行きは無理かもしれないなあ、と思っていました。長野柳町中学の同級会「若草会」が信州新町の不動温泉で開かれるのです。

 幹事役の成沢君から「どんなことがあっても来てくれ、新幹線がダメだったら車組に連絡を取って便乗して来てくれ」と電話がありました。

 30日の夜半に猛烈な風が吹き荒れました。ところが朝起きてみると、空は雲一つない青天です。上野12時発の長野新幹線はこの上ない上天気の中、関東平野を突き抜けます。秩父連山はおろか、八ヶ岳連峰まで見えました。高崎、前橋の町並みの向こうに尾瀬の山脈まで一望出来たではありませんか。浅間山の雄姿を右に見て善光寺平に差し掛かると、左手に後ろ立山の連山が顔を出しました。

 長野駅前から参加者全員が旅館のバスに乗り、犀川の流れに逆行して信州新町へ向かいます。台風のせいで犀川の清流は泥水の激流に替わっていました。怖いような渦を作って千曲川との合流に向かっていました。

 宿は、かつては賑わっていたに違いない裏寂しいところでしたが、コスモスが咲き乱れ、柿の実が手の届くところに、オレンジ色にたわわでした。信州はいいなあ、故郷はいいなあ、と一人、宿の周辺を歩き廻りました。

 中学三年間を受け持っていただいた白鳥英人先生は、奥さんともども既に帰らぬ人になっていますが、今思うと「本当にいい先生に恵まれたなあ」と懐かしく思い出されるのです。中学一年、最初の授業で先生は黒板一杯に「真面目に、明るく、努力家であれ」と大書しました。それに、これは後で知ったのですが、先生ご夫妻は熱烈なキリスト者でありました。先生の追悼集は「進むべきだ」という表題の付いた、それはそれは分厚いものです。それだけ周囲から慕われていた証と受け取ることができます。私の仕事場には先生直筆の色紙が飾ってあり、そこには「明日のことを思いわずらうな」とあります。

 在籍した柳町中学は当時一学年500人のマンモス校でありました。クラス50人の内、既に半数近くの級友が他界しています。集まることのできた十数人も何らかの病や障害を抱えていました。お互い82歳まで生きて来れた、92歳まで頑張ろう、と幹事心づくしのジンギスカン鍋をつつき、美酒に酔いしれ、夜の更けるまで歓談し、雑魚寝をしたことでした。

 

2018年9月26日         ドル・元戦争

 この24日、アメリカは、「中国からの年間輸入額2000億ドル(22兆円)に対し年内は10%、一月から25%の関税をかける」と発表しました。もし、中国が報復措置をとるなら新たに2670億㌦(29兆円)の追加関税措置を実施する、とも付け加えました。

 これは中国に対する大喧嘩の口火と云えましょう。中国も負けてはいません。600億ドル(7兆円)の報復関税措置を実施しました。

 まだ「かけ声」だけであるにも拘わらず、世界市場では中国元がドルに対し大幅に値下がりし始めました。1ドルに対し8.2%安の6・857元になりました。中国の株安が始まりました。現在、約20%もの下落を余儀なくされています。株安は中国経済を更に混乱させるでしょう。そうでなくても中国国内経済は破綻寸前だと前から言われています。

 この現象の底流には、国際的に見た「アメリカの衰退」「中国の台頭」があります。習金平率いる中国の躍進が、長らく覇者を自認していたアメリカを脅かし始めているという現実があります。前大統領であったオバマ氏は「アメリカは世界の警察であることを放棄する」とまで言いました。しかし、現トランプ大統領はアメリカの凋落を許せないのです。

 歴史を観るまでもなく、アメリカはレーガン、ソ連はゴルバチョフの時代に互いの軍備拡張の煽りに耐えきれなくなり、経済が破綻し、社会主義体制が瓦解しました。自由主義経済がマルクス・エンゲルスに勝利した、ともいえる世界史的曲がり角を私たちは目の当たりにしました。

 それと同じことを、アメリカは中国に対して「やろう」というのです。中国の世界史的伸長を、アメリカは許せなくなっているのです。世界の基軸が中国を中心に回り始めているのをアメリカは苦々しく思っているのです。

 ほんの40年ほど前、日本経済は絶好調でした。アメリカに次ぐ世界第二の経済大国になりあがっていました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と囃されました。苦々しく思ったのでしょう、いつの間にかアメリカに依って潰されました。その頃、円は実に強かった。1ドル74円までいきました。今は110円前後でフラフラしていますが。

 余談ですが、ドル・円74円はオーストラリア旅行中に経験しました。私の三男がオーストラリアに語学留学していた頃です。確か、オーストラリアドルは60円台にまで落ち込んでいました。ゴールドコーストの瀟洒な別荘が、1000万円前後で買えてしまうほどでした。もし、買っていたら今頃どうなっているでしょう、閑話休題。

 いま、アメリカは、長らく世界の覇者であったアメリカが、中国の台頭によってその覇権が奪われつつあることに、強烈な嫌悪感を露わにしつつあるのです。「冗談じゃねえよ、世界の覇者は俺たちだよ、ドルを使うアメリカだよ。世界の通貨をドルから中国の元にしようったって、そうはいかねえ。俺っちのアメリカにあくまでも逆らう気なら、やってやろうじゃねえか。何なら、てめっちの社会主義とやらぶっ壊してやろうじゃないか。ロシアと日本がそうなったようになあ」 

 戦争はこうなった時に為政者が意地を張り、武力行使にまで発展するのです。それが世界史を彩っているのです。 

 

2018年9月13日         断捨離その後

 去年の今頃は、今住んでいる私の家を次男一家に明け渡すために、断捨離で大童でした。かなり処分出来たところで、次男から今しばらくは現状を維持しようという申し出があり、明け渡しはしばらく延期となりました。2トン車2台分の家具調度品は処分できたものの、書籍、CD,写真ネガなどは地下の音楽室に山積みになっています。昨日、それらを見ながら、「これではイカン」と一念発起しました。今しばらくはこの家にいる以上、本を読みたい、音楽を聴きたい、最上の機種による音も鳴らしたい、と切に思ったのです。

 「あんたはこの一年間といもの、ロクに本も読まず、音楽も聴かず、ピアノも弾かず、だらけにだらけていたではナイカ。それでイイと思っているのかね」

という声が自分の内部から聞こえてきたのでありました。早速、散らばっている本を揃えるべく、リサイクルショップへ行って本立てを購入してきました。5,6年の間一度も手を入れたことのない部屋の掃除を始めました。埃の出ることでること……思えば怠惰な一年間でありました。初心に戻って勉強を始めます。     

 

2018年9月12日         思い出の晴山会     

 先月の24日の夜、チェンマイ日本語キリスト教会の教会員7名は、清里の羽村市休暇センターで楽しい会食をしました。翌日4人は、野辺山、佐久を抜けて軽井沢を訪れました。つい5月に85歳で亡くなった推理作家内田康夫の夫人、筆名早坂真紀さんの経営するカフェ「軽井沢の芽衣」でしばしの時を過ごしました。軽井沢独特の爽やかな風は相変わらずでした。

 思えば、故宮沢恭人君、内山貢君、山崎憲三君、それに私の四人は毎年、軽井沢に集まってはゴルフに興じていました。西武系が運営するゴルフ場のコッテジに四人で泊まって翌日もやりました。晴山コースが最初だったのでこの会を「晴山会」と名付けていました。四人が四人とも長野高校の同期生で、奇しくも新聞社の販売局に勤務する同業者になっていました。

 「さあ、スタート」となると全員の目の色が替わります。何となれば一打ごとに金が掛かっているからです。ドラコン、ニアピン、何でもアリ。常に2、3万から4,5万の金が動きました。決まって宮沢君が大金をかっさらっていきました。負け頭は山崎君。私と内山君はどっこいどっこい。この「晴山会」は30年は続いたのではないでしょうか。宮沢君が清里に山小屋を建ててからは、戦場は清里や小淵沢に移りましたが。

 久しぶりに軽井沢入りをしてみて、旧軽の町並みがすっかり変わっていることに驚きました。賑わっていた商店街がなくなっていたのです。その代り、駅の反対側に巨大なショッピングモールが出来ていました。日本のどの町もそうなように、小売店がなくなる現象が軽井沢に及んでいました。その上、街中が夥しい車で溢れ、至る所で渋滞していました。勝手知ったる道を行ってもダメでした。昔なら20分で行けたインターまで1時間以上かかってしまいました。

 「軽井沢の芽衣」で、もしかすると早坂真紀さんにお会いできるかもしれないとの期待はむなしく、彼女は今、東京とのこと。彼女の本を二冊買い、いま、その一冊「空の青海の碧」読んでいます。彼女は実に文章が上手く、何回読み返しても面白い。内田康夫があとがきで述べています。「彼女は私より遥かに文章が巧い」と。私も同感しています

 

2018年9月10日         ハイチに学校を

 全米オープンテニスでセリーナ・ウイリアムスを破り、若干20歳の大坂なおみが優勝しました。彼女の父親はレオナルド・フランソワというハイチ人です。母親は大坂環(たまき)という日本女性です。彼女の父親は北海道根室の漁協の組合長をしています。二人は大阪で知り合い二児をもうけます。姉のまりは22歳。そして妹がなおみです。二人は小さい時から父親の手ほどきでテニスを始めています。

 ハイチという国はキューバの隣に位置する北海道の三分の一程度の島国です。人口は約988万人。1800年代はフランス植民地でした。独立と引き換えにフランスは莫大な賠償金を要求しました。その後、アメリカの軍政下におかれています。そのため、ハイチは世界でも最も貧しい国として現在に至っています。生まれた子供が小学校に行けるのは約50%、中学校へ行けるのは約20%。だからハイチの人たちの識字率は極端に低いのです。

 セリーナ・ウイリアムスは優勝回数23回の黒人女性です。大坂なおみに負けそうになった彼女は審番に暴言を吐き、おまけにラケットをぶっ壊して減点されています。観客の殆どが彼女の応援でした。だから、大坂は「こんな結果になり申し訳ありません」と健気な挨拶をしました。「勝って謝る」とは前代未聞の出来事でした。

 優勝賞金は何と4億円! この大金を彼女はどういう使い方をするのでしょうか? ハイチでは一つの小学校を作るのに700万円程度で出来るそうです。もし彼女が7000万円を投じて学校を10校作ったら、これは美談でしょう。しかし、これをやるのは彼女は兎も角、日本国がやったらどうでしょう。7億円を投じて「大坂なおみ記念小学校」を100校作るのです。もしこれを現政権がやったら「モリ・カケの罪滅ぼし」と世間は受け取るでしょう。そして歓迎するでしょう。折角、大坂なおみによって日本とハイチが仲良くなれる機会が生まれたのですから。

 

 

 

2018年9月8日         日本の不幸

 先頃、中国北京にアフリカ大陸の各国首脳が招待されました。習金平が大演説しました。「中国はアフリカのために6兆円の金を出す」と。習金平は既に中国からヨーロッパまでのシルクロードに替わる「一帯一路」をぶち上げています。そしてそれは着実に機能し始めています。安価な中国製品がコンテナに積み込まれポーランドのドデカい基地に到着します。ヨーロッパの各国は待ち構えていて争って車に積み込みます。空になったコンテナにはヨーロッパのチーズや粉ミルク、ソーセージなどが積み込まれます。栄養価の高い、乳製品で中国の子どもたちは生育されます。

 同じことをアフリカ大陸でやろう、というのです。アメリカや日本や韓国などもうどうでもいい、本気になってアフリカと勝負しよう、というのであります。「その意気やよし」ではないでしょうか。

 本来、こういうことは、アフリカの隣国という地理的条件を備えたヨーロッパがやるべきでした。しかし、アングロサクソンやアーリアン民族はブラックをはなから毛嫌いし、寄せ付けませんでした。自分たちに都合の良い数の移民だけを受け入れ下層労働させてきました。その結果ブラックはアメリカへ、アメリカへと流れます。南アメリカのカラードも、負けじとアメリカに押し寄せました。何となればアメリカは自由の国であったからです。最近になって制限し始めていますがブラックもカラードもアメリカの自由を謳歌しています。既に、人口3億2000万の半分はカラードが占めているのではないでしょうか。そのお蔭かどうか国力が落ちました。トランプなどという型破りの大統領を選出するまでに選挙民の知的水準が落ちてしまっています。国家の存亡は意外に早い、というべきでしょう。

 習金平が大上段に構えて海外政策を振りかざしているのを、私は必ずしも賛成するわけではありませんが、こういう意気込みが、何故、日本の政治にないのか、それが残念でなりません。何故、世界を相手にする政治が日本人にはできないのでしょうか。それは私たちが思う以上に政治が劣化しているからではないでしょうか。幕末から明治維新ににかけて、薩摩、長州、肥前、土佐の偉人たちはハタチから30代前なのに世界を見て仕事をしました。その心意気が、今の特に自民党の輩に感じられますか? 特に、嘘をつき通してまで政権にしがみ付こうとしている安倍晋三にありますか?

 わが日本国と云えども、国民が政治の動向に無関心である限り、国家の存亡は意外に早くやってくるのではないでしょうか。         

 

2018年9月6日         容赦ない自然の脅威

 今月の3日から4日にかけて大型台風が、高知県から徳島県、大阪、京都を駆け抜け甚大な被害を与えました。3メートルを超える高潮が沿岸を総なめしました。関西空港は壊滅的被害を受け、おまけに大型タンカーが連絡橋に激突し、橋の通行もままならない状態。再開のメドは立っていないとか。

 その上、今朝は北海道全域でマグニチュード6強の大型地震が発生しました。発電所がやられたため、殆どの市町村は停電になっています。電気が来ない、ということは、テレビも見れず、スマホの充電もままならず、夜は暗闇の中で過ごすのです。お気の毒なことです。

 大きな災害が二度あったことは、三度目が近づいていることの証左ではないでしょうか。云わずと知れた関東直下型地震、あるいは南海トラフによる太平洋沿岸の超大型地震の発生です。もし、これが現実のものとなれば、15メートルを超える津波が発生し、太平洋沿岸に居住する35万人が死亡する、と予測されています。

 一方、連日の猛暑は開闢以来の高温を更新しています。気候の変動は何も日本だけではなく、地球の真ん中でも、裏側でも起こっています。南極や、北極の氷が溶けだし、海面の水位が上がりキリバス共和国では島々が水没し始めました。つまり、地球が怒っているのです。人間の傲慢さに腹を立てているのでしょう。

 この度の台風は関東でも30メートル近い風が吹き荒れました。わが家でもその被害を受けました。玄関脇の洋ナシの木は、今年、どうしたことか100個近い実を付けて黄色く熟し始めていたのでしたが、風が吹き荒れたせいで8割方落ちてしまいました。道路に散乱した梨の実を昨日は拾い集め、今朝、ゴミとして出しました。

 先月24日から25日にかけて、チェンマイ教会の友4人を乗せ、清里の同じく同教会の友「花のワルツ」を尋ね、清里の森に一泊し、翌日は野辺山から佐久に出て、佐久総合病院を見て、ピンコロ地蔵で小休止。その後、軽井沢の故内田康夫の奥さんである早坂真紀さんが経営する「軽井沢の芽衣」立ち寄って帰宅したのでしたが、道中、桃やブドウやリンゴの木が目を楽しませてくれました。吹き荒れた強風によって、これらの果物、そして野菜が受けた被害は甚大だったのではないでしょうか。長野や青森のリンゴ、そして福島の梨。それにも増して受粉の最中であったに違いない稲田のお米。被害に逢われた方々の嘆き節が聞こえてきてなりません。心からご同情申し上げます。

 

2018年8月31日          ユーチューブ

 「最近のエッセイ」の(33)も満杯となり、いつものように、「最近のエッセイ(34)」の欄を増設作業中、フトした操作の誤りで「最近のエッセ(1)」の全文を喪失してしまいました。永久に戻ってこないことを知らされました。

 深い喪失感の中で改めて思ったことは、約10年間に亘って書きためてきた「中沢信男のホームページ」は、私の死後、どうなるのだろうということです。出来れば、痕跡だけでも残しておきたい、と思うのは未練がましいでしょうか?

 そこでハタと思ったのは「ユーチューブ」の存在です。ホームページの全文をそれなりの業者に頼んで加工してもらい、電波に飛ばすとします。すると、この全文は半永久的に宇宙を駆け巡っているのではないでしょうか? 勿論、読む人ひとりもいない状態であってもです。

 ページの掲載は、今はプロバイダーに依頼しています。月額5000円ほど払っています。死亡してしまえば、そこが金の切れ目になって掲載は途切れるでしょう。当たり前の話です。もし、ユーチューブに入れてもらえていれば、これは無料ですから、半永久的に再現閲覧が可能になるのではないでしょうか。例え読者が一人もいなくても、です。

 ある調査によると、最近の子どもたちに「将来なりたい職業は?」と聞くと異口同音に「ユーチューバー」と答えるそうです。スマホを駆使して捉えた面白い写真をユーチューブに載せます。もしそれがヒットすれば、1ヒットに付き何銭という見返りがあるそうです。だから、それを職業にしたい、と。何とも奇妙な方向に時代は進んでいるようで、呆れ果ててしまいます。

 ユーチューブへの掲載は、写真や動画では何回もやっているので操作方法は分かっているのですが、文章となると、これはどうしたものか見当がつきません。探してはみたものの、これは、という参考書を見つけられませんでした。アマゾンなどで再度試みよう、と思っています。

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