最近のエッセイ(40)

2019年11月25日         人様のお役に立つ仕事(1)

 ディズニーランドが開園して間もない頃、朝日新聞社に朝日新聞だけのパビリオンを開設しないか、という話が持ち込まれました。宣伝部が関わることになり、宣伝部長であった私は、ディズニーランドを経営するオリエンタルランド社と度重なる折衝を重ねました。先方の担当者はボブ・クンツさんとおっしゃるアメリカ本社の役員でした。パビリオンは一業種一社に限定されていましたから、読売にとられてはならじ、と必死でした。建設費40億の協議書も社内を通過しかけました。ところが、そこへ新聞購読料値上げです。「値上げの原因が40億のパビリオン」では世間様は納得するまい、と時の社長判断でこの話はオジャンになりました。私は地団駄を踏みました。なぜなら、この遊園地は途轍もない成長の可能性を秘めているのを感じたからです。

 私には三人の息子がいますが、千葉大を卒業する長男から就職相談を持ちかけられました。当時、隆盛の極みだった「森ビル」と「日刊スポーツ」の他にオリエンタルランドを推薦しました。運良く長男は14人の幹部候補生の仲間に入らせて貰いました。カストーデアルという掃除人を振り出しにあらゆる職種を経験し、1万人を超えるアルバイトの人事部長、社員の人事部長、企画室長などを歴任し、最も重い役職である「ランド」と「シー」両方にあるパビリオンの総責任者である運営部長になりました。ある時、不幸にして乗り物事故が起きました。彼は6時間あまり、直立不動の立ち通しで対応したそうです。

 今、彼はオリエンタルランドの系列会社である「舞浜コーポレーション」の社長を務めています。「ランド」と「シー」には2000人を超える身体障害者が働いていますが主としてその方々の面倒をみる会社です。私は、彼が社会的弱者の味方になることを通じて、「人様のお役に立つ仕事」をしていることを心から嬉しく思っています。

2019年11月22日           嬉しい!

 立った今、韓国政府が「GSOMIA」の破棄を撤回するという報道が流れました。六時間前の緊急ニュースです。 理屈はともあれ、私は今、「良かった!嬉しい!」という思いで一杯です。さしもの文在寅も、世論はともあれ、影響の甚大さに思いをいたし、軌道修正に舵をきったのでしょう。「一歩退きながら、次に進む」という古来からの名言を彼は行ないました。正解です。

 国内からの熾烈な反応は起きるでしょうが、ここはジッと耐えて、次の機会を待とうではありませんか、文在寅どの。「朝鮮南北統一!」 この目標は実に正しいのです。そうあって然るべきなのです。ただ、余りに性急すぎるのです。ここは一歩下がって戦列を立て直そうではありませんか。日本も、アメリカも意識を新たにしてこれからの対話に臨むでしょう。

 隣人同士、韓国と日本は永久に切っても切れない仲なのです。 

 

2019年11月20日           政権の奢り

 

 今年の4月、「安倍総理と共に桜を観る会」に多数の山口県人がツアーもどきで参加し、多額の税金が使われたことを、世間は今、問題視し国会は紛糾しています。各界の要人や、功績のあった人々ならともかく、それには何ら関係のない山口県の選挙民が大挙して参加したのは、公私混同の最たるモノではないか、というのがその理由です。慌てた安倍総理は「花見の会は来年からは止める」との談話を発表しましたが、通常1700万前後であった費用が5000万以上の税金が使われたコトに対する責任はどうなるのか? 止める、では済まされない問題が内在しているとみて良いのではないでしょうか。

 長期政権の奢りが露呈した忌まわしい事件でなくて何でしょう。

 私が住む練馬区から選出された菅原一秀議員が経産省の大臣に任命されたのはいいけれど、選挙民に香典などを渡したカドで辞任に追い込まれました。選挙民に金品を渡すことは選挙法では堅く禁じられているからです。でも、こちらの方は人情としては許される行為でありましょう。余談ですが、この議員は昔は練馬区内の駅頭に立っていつも演説をしていました。「いつも駅にいる」と公約していました。それがどうでしょう、議員が長期に及ぶに及んで、駅頭からいなくなりました。

 議員は選挙民には弱いのは理解できても、今回の山口県民に対する公私混同振りは許されるモノではありません。長期政権がもたらした「奢り」でなくて何でしょう。辞任して責任を取って貰いたい、と思っているのは私だけでしょうか?   

 

2019年11月17日            理想と現実

 

 日米韓の軍事情報共有システムである「GSOMIA」が今月23日に失効しようとしています。アメリカの国防司令官 を含め三人の要人が韓国へ乗り込んで説得に努めましたが、奏功していません。文在寅が余りに頑なだからです。

 私は半年も前からこの大統領はダメだと烙印を押しています。何故ダメかという理由を何度もこの欄で書いています。繰り返しになりますが、南北の統一を目指す彼の理想主義は是認出来ても、そのやり方が余りに稚拙過ぎる点を指摘してきました。国民に対して反日を煽り、不買運動を盛り上げ、その勢いに乗じて政権を維持しながらアメリカを排除し、中国に阿り、北朝鮮との融和を目指す、これが彼の目的であります。落ち目のアメリカを脱却して共産党が支配する中国と和して、韓国をして共産党支配を受け入れる、そして、あわよくば自分も習近平のような指導者になる、その暁には、韓国と中国と北朝鮮が相和して日本をイタブル、これが彼の胸中にある図式でありましよう。北朝鮮との統一が成し遂げられれば、居ながらにして核を共有できる、これも彼の計算に入っているでしょう。

 だが、余りにコトを急ぎすぎる。確かに今のアメリカには昔日の面影はありません。「国家の興亡は意外に早い」というセオリーどうりになっているとは言え、アメリカはやはりアメリカです。今の韓国にアメリカに刃向かう力でもあるというのでしょうか。冗談ではありません。韓国経済はいま、瀕死の状態ではありませんか。韓国の底力であった大企業は軒並み赤字となり、失業者は溢れ、国家の外貨準備高は底をつきだし、スワップを申し込んでも応じてくれるところもない状態ではありませんか。しかも、投機筋さえ韓国から手を引き始めている、経済がこういう末期的状況示しているのに文政権は手を拱いている。なぜなら、文在寅は経済音痴だからです。

 翻って日本経済はどうか、なるほど、アメリカの株高に呼応して日本のダウも最高値を付けていますが、地合は決して良くありません。日銀が旗振り役の「アベのミックス」という低金利政策が日本の活力を弱めているからです。儲からなくなった日本の金融機関、中でも大手銀行は、いま収入がないので喘ぎに喘いでいます。銀行に口座を持つだけで金を取れないか、というとんでもない議論が取り沙汰されている始末です。韓国に負けず劣らず日本の財政は大赤字続きですが、膨大なお札を刷って世界各国に国債として買って貰って何とか凌いでいる始末。本当は韓国のコトなど言えない日本ではあるのです。

 ともあれ11月23日で「GSOMIA」は失効するでしょう。左翼政治家・理想主義者・経済音痴文在寅大統領に呪いあれ。

 

2019年11月15日              カボス

 

 およそ25年程前の九州小倉時代、大分のゴルフ場で九州の新聞社代表のゴルフ会がありました。プレーを終わって売店を見ると、大きな網の袋に入った青い果実が500円で売られていました。大分県特産のカボスでした。買って帰って、食事の度に絞って使いました。雑炊にも、鰯のつみれにも、カボスをふりかけるとモノの味が引き立ちました。「これはいい。お世話になった東京の皆さんに贈ってあげたら喜ばれるだろうな」と思い立ち、大分県山香農協に頼んで4キロ毎に箱詰めにして、50箱、送って貰いました。案の定、皆さんには大変喜んで貰いました。そうなると送るのを止めるわけにはいきません。翌年も、翌年も、東京へ帰ってきてからも毎年、毎年、送り続けてきました。ご主人がお亡くなりになっても、奥様にお送りさせて貰ってきました。

 爾来25年、一年も休むことなく続いてきました。しかし、数は少なくなりました。今年は31箱。あと何年続くでしょうか。私がこの世から去るときがお仕舞いになる時です。亡き宮沢君はカボスを搾って熱いご飯にかけて食するのが好きでした。恐らく今年も奥様は仏壇にそうしてやったに違いありません。   

 

2019年11月13日             犬の散歩

 

 内田百閒の随筆に「ノラや」という軽妙にして哀切感の漂う一文があります。ある日、突然いなくなった愛犬を、連日連夜探し求めて歩き回る、ただ、それだけの記述なのですが、人の心を妙に捉えて止まない名文です。内田百閒には他にも奇妙な文章が多々あります。全く何の用もないのに、東海道線に乗り、大阪まで行って折り返して戻ってくる、ただそれだけなのですが、妙に味がありました。名文家と言われる所以でしよう。

 我が家にも犬がいました。三人の男の子の成長と共に、シーズー犬ばかりが五代続きました。かれこれ五〇年余り、犬は家族の一員でもありました。曲がりなりにも家族がそれぞれ成長し、つつがない暮らしができているのも、歴代のシーズー犬のお蔭、と言っても決して言い過ぎではないでしょう。五代目の「ちゅら」という愛犬は一四年生きて六年前に亡くなりました。悲しかったですね。隣家に住む未だ独身の三男が六代目を飼ってくれ、とせがむのですが、私には今から一五年生きて次の代まで見届ける自信は全くありません。猫額の二階のベランダから見ていると、夕方は犬の散歩させる姿を否応なく見せられます。羨ましくてなりません。

 ただ、最近の世相は猫ブームです。ことによると、三男を伴って千葉県柏市の猫の施設に出向いて、可哀想な一匹をもらい受けてくることになるかもしれません。  

2019年11月12日             叙 勲  

 九州小倉から東京まで歩いた国際基督教大学生がいて、その記事が週刊朝日に載りました。その学生は九州小倉駅長の次男でもありました。その記事を見た当時の販売部長であった寺崎道春さんが「こういう学生こそ販売に欲しい」と言いました。入社してきた植田義浩君は180センチ近くの長身で、いつも「スーハー、スーハー」と落着かなげでした。私が福島担当の時、彼は私の助務になりました。販売の仕事は専門職ですから、最初の二,三年は先輩に付いて仕事を覚えるのが習わしです。私には合計11人の助務が付きました。植田君はその11人の最初の一人でした。

 上野駅から福島磐城に向かう特急列車のグリーン車に、「スーハー、スーハー」の植田君を伴って乗り込みました。(担当社員はグリーン車に乗れ、ホテルや旅館はその土地の最高のところを定宿にしろ、というのが当時の不文律でした)

 「植田君、我々はこれから何をしに行くか分るか?」「・・・・・・・?」「読売との闘いに行くんだよ。いいかね、闘いなんだよ」 私も随分キザなセリフを言ったものです。

 その植田君が見る見る頭角を現します。多摩、埼玉の販売網を構築し直し、朝日新聞躍進の原動力となってゆくのです。どれだけ多くの大物販売所長と「切った、張った」を繰り返したものか。そして販売部長、局次長、東京販売局長、取締役販売担当になり、最後の仕事が取締役西部本社代表。その後、彼は熊本朝日テレビの社長になり、会長を務め、お役御免となり、今は北九州行橋に居を移し、小さな美術館を開設しそこに収まっています。

 昨日、築地の朝日社内のアラスカで年一回の販売OB会が開かれました。その席上で植田君がこの度の叙勲に預かり、彼の助務たちが集まってお祝いの会を開いいたことを知りました。良かったなあ、としみじみ思いました。

 毎年、春秋の叙勲の度に、そのお名前が新聞発表されます。年々その数が多くなっているにも気がつきます。でも、新聞に携わった者が叙勲の栄に輝いた、ということは私の知る限り、今まで皆無であります。植田君も新聞でなくテレビのお蔭であったのでしょう。時の権力が右寄りになれば左に、左寄りになれば右に、国家の舵取りをしてきたのが新聞であり、ジャーナリズムでありました。偉大なジャーナリストは朝日のみならず地方紙にもブロック紙にも数多く存在していました。でも、ほとんど彼らは叙勲に預かっていません。本来、国家権力は、国家に貢献のあった者を叙勲の対象者にしているとすれば、何故、新聞人やジャーナリストを除外してきたのでしょうか? しかし、考えてみれば、叙勲の選考はそれぞれの団体からの推薦があって成り立っています。全国の新聞社の団体は日比谷のプレスセンタ−にある日本新聞協会です。この団体が叙勲申請をした、などという話は今まで聞いたことがありません。それは詰まるところ、新聞社を始めジャーナリストの叙勲は、今までも、これからもない、ということでしょう。それにしても今回の植田義浩君の叙勲、遅ればせながら「お目出度う」と、かつての親分から言わせて貰いましょう。

 

2019年11月11日          祝賀御列の儀

 

 快晴、無風、午後三時。物々しい車の大行列が皇居を出発しました。沿道には12万人を超える人々が集まり、日の丸の旗を打ち振ります。オープンカーに乗られた令和天皇ご夫妻は、赤坂御所までの約30分間、微笑を絶やさず手を小さく振られていました。平和であることの喜びが、心の底から沸き起こりました。

 一昔前、私たちが国民学校一年生だった頃、こんな歌を唄わされていました。

      勝ち抜くぼくら少国民、天皇陛下の御為に

      死ねと教えた父、母の尊い心を胸に占め、、、、、

         今日、増産の帰り道 皆で摘んだ花束を

         英霊室に供えたら 次は君らだ頼んだぞ

         しっかりやれよ と空高く 胸に響いた神の声

      あとに続くぞ僕たちは 君は海軍予科練兵 僕は陸軍 荒鷲に、、、、

 何という時の移り変わりでしょうか。戦争がないことがどんなに素晴らしいものか、それを心の底からの喜びを持って感じたのが昨日の「祝賀御列の儀」でありました。

 

2019年11月9日          紅葉と寂庵

 

 現役時代は旅烏であったので、主として東日本の紅葉の名所を訪ねることが出来ました。圧巻は北アルプスでしたが、楓、紅葉については、なんと言っても京都でしょうか。11月ではまだ早く、12月の初旬が見頃でした。京都へ行くと必ず寄るのが嵐山の大河内山荘でした。かれこれ20回以上、足を運んでいるでしょう。嵯峨野駅から歩き始め、鬱蒼たる竹林の道を分け入ってやれやれと一息ついたところに、その山荘はあります。丹下左膳役で有名な大河内傳次郎がモノした茶室と庭園ですが、心が癒やされる見事な名園です。登り詰めると眼下に桂川の流れが一望でき、その紅葉は見事です。続いて、常寂光寺、二尊院、祇王寺、落柿舎を経て清涼寺の門前で「あんかけうどん」にありつくのが毎回のコースでした。途中、瀬戸内寂聴さんの寂庵にも寄ります。中へは入れませから外回りから伺うだけです。寂庵の辺りは大昔、罪人の処刑場でありましたから地面を掘ると骨が出てきます。ですから、昔からそこは広い空き地になっていました。ところが、行く度に分譲住宅が出来ていました。ただ、その辺から見る山間の景色は秀逸で、寂聴さんはその眺めに魅せられたのでしょう。昔、寂庵のお庭番は毎日新聞出版局次長さんでありました。今は、ヤマオさんという妙齢の女性が秘書役になり、毎日、寂聴さんに牛肉を食べさせているようです。

 昨日の朝日新聞紙上で、図らずも97歳の寂聴さんと、84歳の横尾忠則さんの往復書簡が載りました。これは不定期連載になっていて、その都度、興味深く読んでいます。高齢でありながら、年齢を感じさせないお二人の考え方や、世の中の見方は実に高度で、参考になります。

 もう、4年前になりますか、祇園の「白梅」で同窓会が開かれ、翌日、久々に嵯峨野を訪れました。その折も寂庵の門前を訪れましたが、寂庵の周辺はともかく、嵯峨野は外国人観光客で押すな押すなの大混雑でした。貸衣装の着物姿の中国人と自撮り棒が竹林の道を塞いでいました。訪れる人が希であった大河内山荘内もヒト、ヒト,ヒトで溢れかえっていました。「ウヒャ−」となった私は、密かに「もうここへは来ない。新たな紅葉の名所を、それも、ヒトが余り来ない、自分用の紅葉の名所を見つけよう」、と心に誓ったのでした。永年、心に秘めていた「自分だけの場所」を放棄せざるを得ないのは何とも寂しい限りでした。                 

 

2019年11月6日                            松 茸

 

 スーパーで松茸を見かける頃となりました。しかし、値段は怖ろしく高く、しかも北朝鮮からの輸入物とか。カタチの良いものは1万円を超えています。とても口に出来ません。数十年前、沖縄の義弟夫妻が紅葉を見たいというので、長野の大町から黒部ダムへ案内したことがありました。その道すがら松茸が売られていました。やはり高価でしたが奮発してお土産にしてあげたのも懐かしい思い出です。

 九州小倉の西部本社へ赴任した年の秋、山口新聞社長の小川さんから「松茸狩り」の招待を受けたことがあります。部長の田中時雄君と、山口新聞販売部長の今地さんと共に松茸山に入りました。案内人に指示された通りに山深くへ分け入ると、あるは、あるは、あっちにもこっちにも。菌糸を傷つけないように、と言われた通りの採り方をしていると大きなビクが松茸で一杯になりました。身体中が松茸の馥郁たる匂いに包まれ我を忘れました。

 番屋に戻ると、火が焚かれていて、大きなすき焼き鍋と上等な牛肉が用意されています。別に用意されていた松茸が牛肉と共にふんだんに鍋にぶち込まれ、酒盛りの開始です。旨い、旨い、実に旨い。人は旨いものを食べると幸せな気分になります。大げさですが、その時私は生きている幸せを感じました。

 幸せはもう一つありました。自分が採った松茸はその全部を持って帰っていいというのです。その上、お土産用の一籠が追加されました。こういう機会を与えてくれた山口新聞の小川さんには十分頭を下げ、小倉の自宅に戻ったものの、山と積まれた松茸を前にして「さて、どうしたものか」と思案投げ首です。

 時間は四時、急げば五時半の羽田行きに間に合う。航空券は全日空の株主優待券を使えばよい。(朝日は全日空の株主でもあったので、優待券が常時ありました)

 突然の家主の帰宅と、段ボール一杯の松茸に家族が驚いたのなんの。松茸はご近所にも貰われて行きました。翌朝、一番でトンボ帰り。何事もなかったかのように十時には砂津の本社のデスクに座っていました。

2019年11月5日        12時間前の「マグロ寿司」

 11月1日は雲一つない晴天でした。タイ・チェンマイからわざわざ野尻先生のお見舞いに訪れた松村ご夫妻をお乗せして、関越道路をひた走り、熊谷総合病院へ向かいました。10月11日に同じ熊谷市の籠原教会で、愛さんご夫妻の結婚式を務められた野尻先生は、その後、体調を崩されて入院されているのでした。面会時間は午後1時から3時までです。東松山インターで降り、滑川町のスーパーでお見舞い用の生け花と果物を買いました。前回のお見舞いの時、持参したお寿司を先生は「美味しい、美味しい」と召し上がったので、今回も、と物色しましたが、いいものがありません。近くの「スシロー」へ行って私たちも食事しながら、一番いいものを握って貰っては、と同行の林さんがおっしゃいます。「本マグロ7巻盛り」を我々も頂き、一つを先生へのお土産にしました。

 病室のカーテンを開けると、先生は床にうずくまっていらっしゃいます。直ぐそばの洗面台まで行って歯を磨こうとして動けなくなっていたのでした。「いいところへ来た」と先生はおっしゃいました。軽いけれども重い先生を抱きかかえ車椅子にお乗せしました。先生はマグロ寿司を矢継ぎ早に5つ召し上がりました。残り二つを指さし、これは看護人さんに上げよう、とおっしゃいました。

 それが午後2時頃。この12時間後、先生は呼吸困難に陥り、ご親族が呼ばれ、午前3時に呼吸が停止し、昇天されました。76年の御生涯でした。

 野尻孝篤・明子ご夫妻は共に早稲田の教育学部のご出身です。法学部館の二階にキリスト者同盟という部室があり、その時からご夫妻は結ばれていらしたようでした。奥様はかの有名な救世軍山室軍平のお孫さんにあたる、と伺っています。いつ、何処へ行くにもご夫妻はご一緒でした。今は少なくなりましたが、一時期、タイ・チェンマイには3000人を超える日本人がいました。ご夫妻の日夜を問わないご努力により、チェンマイ日本語キリスト教会は100人を超える規模にまでなりました。どれだけ多くの人が、先生ご夫妻にご恩を感じているか計り知れません。立派な、立派な御生涯でした。

 翻って思うとき、何で私たちはお亡くなりになる12時間前にお見舞いに伺えたのだろう、何で特上のマグロ寿司をお土産にすることができたのだろう、とこの奇跡に驚いています。初めの予定は5日でした。それが松村ご夫妻の都合で急遽1日に変更されたのでした。しかも、滅多にスマホで写真など撮ったことのない私が無意識のうちに先生がマグロ寿司を頬張る姿をおさめていました。その写真のうち二枚を掲載させてもらいました

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2019年11月4日           残 響

 日比谷のプレスセンターの10階にあるレストラン「アラスカ」は天井の高いホールになっています。その一隅にヤマハのコンサートピアノが置いてあって蓋が開いています。4時から始まる会合の30分前に着き、幹事を通して許しを得て慣し演奏を始めました。何とも良く鳴り、響くのです。気持ちが高揚してきて、本番演奏の「朝日若人の歌」の他にポピュラー曲を弾いてしまいました。

 つくづく感じたのは、ピアノ演奏には残響空間が絶対に必要だ、ということです。でも空間が余り広くてもダメです。音が跳ね返ってくる前に消えてしまうからです。このアラスカのホールぐらいの高さと広さが理想的かな、と思った次第。

 100人ほどの宴が進んで歌の時になりました。司会者が「皆さん、ピアノの周りにお集まり下さい、とマイクしました。大勢に囲まれ、私は前奏を弾き始めました。そして、あれ!となりました。ピアノが鳴らないのです。響かないのです。焦りました。

 つまり、人間の壁が音を吸収してしまうのでした。今更、皆さん席に戻って、とも言えません。でも、100人の歌声は迫力満点でした。ホール全体が男性の声で沸騰しました。恐らく、出席者全員が自分たちの出す声とその残響に酔いしれたのではないでしょうか。大拍手の内に会はお開き近くになり、私はそこで注いで貰ったビールの最初の一口を飲みました。なぜ、そこで最初の一杯なのかですって? 何故って私は「弾くなら飲むな、飲むなら弾くな」をモットーにしているからです。  

 

2019年11月3日           宮沢君の四回忌

 

  渋谷から二つ目の京王線東大駒場駅の渋谷寄りの改札口は、エスカレータもエレベーターもなく極めて殺風景です。渋谷駅界隈の喧噪振りからすれば別世界です。その駅の階段を降りて少し行ったところに浄土真宗の小さなお寺があり、その一隅に宮沢恭人君のお墓があります。彼がこのお墓を買うとき、私は相談を受けました。「250万する出物なんだが、何せ狭い。郊外の広い墓地にすべきだ、とも思うんが」 私は言下にいいました。「迷わず、即刻手続きし給え。朝に夕にあんたの母校の東大駒場へ通う学生の足音が聞けるなんて、こんないいことないではないか。それにご自宅からも近いし、、、、」

 宮沢恭人君は私が長野高校の二年の時、隣の屋代高校から転入してきて、一浪して東大へ入りました。駒場寮の牢名主となり、空手部に所属し、朝日新聞社業務に合格し販売局へ配属となりました。一年遅れて私が入社、同じ販売局へ配属となりました。お互い、「やあやあ」となったのはいいけれどり、何せ、こちとらは一年遅れの身でありますからして、副課長、課長、次長、部長、局次長、局長すべて彼のアト、アト、アト、、、、つまり、尻拭い専門でした。ですが、半世紀以上に亘る彼とのお付き合いは、今思うと宝石以上に貴重なものでした。そんなに長く彼と共にいて、喧嘩したことは? 一度もありませんでした。イヤな思いをしたことは? 全くありませんでした。共通の趣味は囲碁、音楽、ゴルフで、どれだけの時間を二人で共有したでしょうか、数えきれません。そして仕事上での二人の共通の目標は「朝日新聞の部数を増やすこと」でした。入社時350万の全社部数は、退社時には830万になりました。

 晩年、六本木の書道塾へ二人して月に三回通いました。終わると近くで軽く一杯きこしめします。彼が患った膀胱癌治療については二人で真剣に考え、対処してきました。日本一の病院、日本一の専門医に罹ることが出来たのも二人で真剣に模索した結果でありました。ポーランドへ行くに当たって、彼の病室を訪ね、握手して別れましたが、何としたことか、彼は私が帰朝した翌日、他界したのです。待っていて呉れたのです。涙が止めどなく流れました。

 その彼の4回忌が29日でした。毎年墓参しているので、私には3回忌も4回忌もありません。生きている限り、私は彼へのお参りを欠かさないでしょう。生憎の雨の中、渋谷へ出て彼が馴染みだった店「駒形のどぜう」へ行きました。奥様もことのほかお元気で、お孫さんの成長を語って下さいました。しつらえた彼の陰膳に向かって「おい、安心しなよ、ご家族の皆さんはお元気そのものだ。俺もそろそろだから、行ったら囲碁を打とうな。ちゃんと碁盤を用意しておいてくれよな」、と語りかけたのでありました。

 

2019年10月28日           ナカザワノブオさん 

 

 日曜日は教会から戻ると、NHKの囲碁トーナメント番組を見るのが習慣です。それが終わるとテレビは「日本の芸能 、落語、講談」に切り替わります。何気なく見ていたら三遊亭円歌がでてきました。先代の円歌が亡くなって何代目かを襲名した新人です。枕に師匠・円歌の思い出話を始めました。

 円歌のご自宅は麹町の一等地にありました。右隣が英国大使館、左が旧有島生馬邸です。 一時、彼の両親、先妻の両親、奥さんの両親の6人を養っていました。その6人との生活を新作落語にしていました。しかし、彼の落語はいつも品位にかけているため私は好きになれずにいました。

 テレビのない時代、落語はもっぱらラジオから流れました。ある時、円歌の落語が「ナカザワノブオ君!」と叫びました。ギョッとなりました。私の名が呼ばれたのです。何と、彼の本名は私と同じでありました。彼は落語家になる前は新大久保駅の駅員であり、おまけに、大変なドモリ(吃音者)あったため、それを直そうとして落語を始めたのだそうです。実は私も 小学校高学年から中学にかけてドモリで苦しみました。

 それだけでも互いに共通点があるのに、今日、更なる共通点が分りました。新・円歌は亡くなった師匠の奥さんの名を言いました。何と和子!今年13回忌を迎えた私の連れ合いの名も和子!「ナカザワノブオとカズコ!」 円歌のところも「ナカザワノブオとカズコ!」   うひゃーとなりました。

 朝日新聞社が有楽町日劇と隣り合わせだったころ、私の預金口座は近くの富士銀行にありました。数寄屋橋交差点の向かい側がお菓子の不二家、隣がリーガル専門の靴屋、富士銀行(今のみずほ)はその隣でした。

 あるとき、地方銀行からかなりの金額を私の口座「ナカザワノブオ」へ電信送金しました。数日しておろしに行ったら入金の事実がないではありませんか。青くなりました。幸い、受け取りを持っていたので提示しました。結果、銀行員が仕事場まで謝りに来ました。同じ銀行の「ナカザワノブオ」口座へ誤って入金されていたのです。その口座が本名「ナカザワノブオ」こと三遊亭円歌さんの口座でした。          

 

2019年10月25日         朝日販売の歌

 

 今月30日の午後4時から、日比谷のプレスセンター10階のアラスカで「赤富士の会」が開かれます。永年に亘り朝日新聞販売所長であった方々には、葛飾北斎の「赤富士」の絵の複製が贈られてきました。その方々と本社のオールド社員が一同に会し、「やあ、やあ」と旧交を温める会です。いつも100人は超える集まりで毎年10月に開かれています。会場は、その時どきで替わるのですが、ピアノがある場合は、最後に全員で「朝日若人の歌」か、甲子園でおなじみの「栄冠は君に輝く」を合唱するのが常でした。そのピアノ伴奏を私が務めてきました。

 今年の会場になったプレスセンタのーアラスカには、いい音で鳴るヤマハのグランドがあります。「伴奏を、、」と頼まれたので、練習を始めているところです。実は、朝日の販売には、「朝日販売人の歌」という名曲が存在していました。

 私が宣伝部長だったとき、販売店全員が集まる新年総会の出し物に、歌手の千昌夫を予定し、徳間庚快音楽事務所へ依頼に行きました。その頃の徳間さんは朝日新聞の協力紙「東京タイムス」の社長でもありました。同行者は次長の松信君です。彼は、今、父親から引き継いだ有隣堂書店の社長として四苦八苦しています。千昌夫の出演は快諾してもらいましたが、難題も押しつけられました。「実は、千昌夫の弟子に、青森出身の吉幾三という駆け出しがいる。作曲もするいい男だ。売り出したいので朝日の協力を頼む」というものでした。

 それなら、と全店、全販売店従業員に「作詞」公募のオフレを出しました。集まったのなんの。二つ選んだところで吉幾三が作曲。大会の当日、彼は自分でギターを弾きながら披露しました。二曲の内の一つは演歌調でもあったので、かなりの期間アチコチの会合で歌われていました。ところが今はどうでしょう。すっかり忘れ去られています。儚いものです。

 当日、徳間さんは私と松信君にお土産を呉れました。社長室の片隅に山と積んであった「ドクダミ茶」です。ひとしきり、「このお茶は長生きの効用大なり」と能書きを垂れた徳間さんでしたが、その後、しばらくしてお亡くなりになりました。  

 

2019年10月23日       突然、雨が止んだ

 

 昨日、一昨日は台風の影響でずっと雨でした。明け方、雨だれが強くなった音で目が覚めました。小降りにはなりましたが午前中も降り続いています。何とか止んでくれないかなあ、祈るような気持ちでした。今日は日本国にとって大事な、天皇陛下が即位を宣言する「即位正殿の儀」が宮中で行なわれます。世界200カ国ほどの国からその国の要人がお祝いに駆けつけています。雨の中では興がそがれるではありませんか。12時、雨は小降りになりましたが降り止みません。即位の儀は1時からです。「おい、何とかなら無いかね」と、天を睨み付けました。1時15分、その時です。天皇が「高御座(タカミクラ)」に上がられたと同時に、雨は突然止み、陽が差し込み始めました。

 「ウヒャー」と私は叫びました。「日本国には、やっぱり、八百万の神がついている!」と確信しました。報道に寄れば、各地で虹が見られたそうです。

 そして、今日は快晴。雲一つ無い秋晴れの空です。各国の要人のほとんどがお帰りになります。昨晩7時からは、プリンスホテル謹製の山海の珍味の日本料理を召しあがり、日本について改めて好印象をお持ちになり、この青空のもと、機上の人になるのではないでしょうか。

 

 2019年10月22日         ショパン(3)

 

 学生時代の六年間(浪人一年・留年一年)はピアノどころではありませんでした。でも時々、遠い親戚の学芸大学の石塚さん宅へ行ってベートウベンの「悲愴ソナタ」などを弾かせて貰っていました。社会人になり、練馬に建て売り住宅を買い、アプライトピアノが入ったときは嬉しかったですね。自宅の敷地を広げ、アパートを建て、ヤマハのC3のグランドピアノが入ったときは、更に嬉しかったですね。家を何度か建て替えるに及んで、このグランドは地下音楽室に移動しています。「なかなか触ってくれないね」と嘆いているでしょう。

 有楽町日劇横の朝日新聞社が築地に移転するに及んで、講堂にあった古いスタンウエイのグランドが新社屋の小さな講堂に移りました。「これ、幸い」とばかりに仕事の合間に弾きまくっていました。音が漏れる心配が無かったので守衛さんたちも大目に見てくれていました。やがて、新社屋の隣に別館が出来ました。その一階は500人収容の浜離宮朝日ホールです。そのこけら落としの日、そのホールを販売局でも使うので局次長三人で様子を見に行きました。すべてのドアが開け放たれたホールには誰もいません。見ると壇上には私が弾かせて貰っていた古いスタンウエイが鎮座しているではありませんか。「久しぶりだね」とばかり私は壇上に上がって、あっけにとられている同僚を尻目に、弾き始めました。その頃暗譜出来ていたショパンのスケルツオ2番です。「ジャン、ジャーン」と劇的に始まるアノ曲です。曲が半ばにさしかかったとき、7,8人の人の気配を感じました。正面入り口から近寄ってきます。ままよ、「ここが一番いいところだ」と続けました。下を見て吃驚しました。今夜のこけら落とし主役をなさるピアニスト安川加壽子さんがいらっしゃるではありませんか。社長の中江さんまでおいでになりました。慌てて外しましたが、幸い、おとがめはありませんでした。

 ベートウベンの32曲ピアノソナタの半分ぐらい、シューベルトの前奏曲集、シューマンの「飛しょう」「子どもの情景」、チャイコフスキーの「四季」、ドビッシーの「ベルがマスク組曲」など、ヤマハ音楽教室の先生に付きながら、いろいろやってきましたが、なんと言っても一番はショパンです。「ワルツ」、「マズルカ」、「アンプロンプチュ」、「ノクターン」、「ポロネーズ」、「練習曲」、、、、

 私がピアノに向かうとき、いつも最初に弾くのは前奏曲の4番です。短い曲ですが、この曲はショパンのパリでの葬儀のときに流れた曲です。そして、ショパンの心臓はホルマリン漬けにされ、ワルシャワに戻り、去る教会の柱の中に安置されました。その教会を探し訪ね、その前に立った瞬間、身体が震えだし、涙が滝のごとく流れ、困りました。

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パリで亡くなったショパンの心臓がこの教会の柱に埋め込まれています

2019年10月21日       ショパン(2)         

 

  私がピアノを習いだしたのは小学校五年生の時です。バイエルの教則本を胸のジャケットと下着の間に挟んで習いに行きました。男子がピアノをやるなんて恥ずかしい時代だったのです。専ら、学校のアプライトピアノを使わせてもらいました。中学二年の時にはモーツアルトのソナタに憧れて作曲までするようになりました。「ロンドへ短調」という7分もかかる曲を作ったら、それが信州大学音楽部が主催する作曲コンクールに入賞し、当時の長野放送局から自作自演しました。長野高校には二年先輩に当たる小林昇さんというピアノの名手がいました。難曲中の難曲リストのラプソデイを苦もなく弾いていました。私の弾くベートウベンのソナタを聴いて、小林先輩は「お前の弾き方はダメだ」というのです。「ピアノは指を立てて弾いていてはやがて限界が来る。平手で弾きなさい。平手とは鍵盤に手のひらを置き、そのままの姿で弾くのです」と酷評されました。てっきり東京芸大のピアノ科へ行かれる、と思っていた小林先輩は新潟大学音楽部へ行きました。私は、というと高校文化祭でモーツアルトのトルコ行進曲付ソナタ全曲を弾いたり、歌曲の伴奏をやったりしましたが、進学勉強も疎かに出来ず、練習曲はチエルニーの30番を終え、40番曲集の中程まででピアノを中断しました。

 

 ところで、ピアノを平手で弾くとはどういうことか? 特にショパンの曲は平手演奏ででないとショパンの音にならない、と言われます。例えば、名ピアニストホロビッツです。大きな手をそのまま鍵盤に置いて弾いていました。私が大好きな女流カチア・ブニアステビリがそうです。決して指を立てて弾いていません。指の重さで鍵盤に触れてあげるのです。自然で、美しい音が出ます。叩くと音は大きいがイヤな音になります。それに速さが違います。プレストが連続するのがショパンのピアノ曲です。「ショパンは平手で弾け」と言われる所以でしようか。

 

 思えば、ピアノを最初に教えて下さった先生から私は「指を立てて弾け」と教わりました。そのお蔭でピアノは趣味の段階でとどまりました。もし、最初から平手で弾く奏法を会得していたら、才能は無いながら音楽の道に進んでいたかもしれません。きっと、朝日新聞社に入社していなかったでしょう。人生の岐路が平手奏法か、指を立てて弾く奏法か、によって決まっていたかと思うと、何やら怖ろしく思われてなりません。

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 ショパンが使ったプレイエルのピアノ

2019年10月21日        ショパン(1)

 

 四年前の今頃、私はポーランドのワルシャワを訪れていました。五年ごとに開催される「ショパンコンクール」を目の当たりにしたかったからです。どんなにネットを駆使しても席はとれませんでした。現地へ行けば「何とかなるだろう」と出かけましたが、やつぱりダメでした。どの日も、どの日も中国人、韓国人の団体客に買い占められていて、ダフ屋すら出ていません。会場近くの「ノボテル」というホテルで専らテレビにかじりついていました。

 

 一日、市内観光のツアーに参加しました。ショパンが愛した市内の公園は紅葉の真っ盛りでした。公園内には天使と共に空へ羽ばたくショパン像がありました。公園のベンチに腰を下ろすとショパンのピアノ曲が流れ出し、腰を上げると曲は止りました。ショパン記念館にはタクシーで行きました。そこにはショパンが使っていたプレイエルのピアノがありました。まだ、スタインウエイやヤマハのない時代です。プレイエルのピアノは繊細にして優美な音を出しますが、あくまでも室内用です。もし、スタンウエイやヤマハのフルコンサートグランドピアノがあったとしたら、ショパンは大喜びでもっともっと名曲を紡ぎ出したに違いありません。

 

 このときのコンクールには、日本からは小林愛美ほか6人が予選通過していました。だが、六位までの入賞者に一人も入りませんでした。第一位は韓国の若い男性でした。入賞者6人による凱旋演奏会がありました。壇上ではヤマハのフルコンが置かれていて、二位から六位まではこのピアノを使いました。ところがです。一位の韓国入賞者はこのピアノを代えさせました。かなりの時間をとってヤマハをスタインウエイに取り替えさせたではありませんか! 日本のピアノはイヤだ、という反日姿勢を公の場で見せたのです。私は怒り心頭を発し、テレビを切ってしまいました。

 

 この時の会場には日本から大山のぶ代夫妻が見えていました。高円宮妃の姿もありました。高円宮妃はよせばいいのに、本選会の前日、日本人出場者7人を集めてお茶会を開いたそうです。

 

 このショパンコンクールは5年ごとの開催ですが、その度ごとに変質してきていることに気づかされます。昔は出場者も観客もドイツ、フランス、ロシアを中心とするヨーロッパ人で占められていました。それが、近年は中国、韓国などアジア系がほとんどになり、観客も出場者もヨーロッパ人は数えるほどになりました。しかも、その観客のほとんどは中国・韓国の旅行会社が募った団体客です。中国人のピアニストは得てして派手な身振りでピアノを弾きます。身振り、手振りを曲芸師のようにして観衆にアッピールします。このコンクール優勝者の中国のランランなどはその筆頭です。実に、実にイヤな感じです。

 

 観光化されたショパンコンクール! もう二度と来るものか!と私は自分自身に言い含めたのでありました。

 

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ショパン記念公園

2019年10月20日           ゴ ミ

 

 今日、テレビで感動的な場面を見ました。沖縄列島のある島の海沿いに住んでいる家族が、毎朝、海に出て漂着しているゴミを拾うのを日課にしている、というお話です。小さな子どもまで含めて6人の家族が、毎朝欠かさず、ゴミを拾っているのでした。上海へ行ってピンハイゴルフ場でゴルフをしたとき、海岸にゴミの山が出来ているのを見て「何だこれは!」と驚いたことがありました。南の果てパラオのコロール島へ行ったとき、島の一角にゴミの山が出来ていて、それも50年以上も前からのゴミが山と積まれていて燻っていました。なんとかしなければ、というのが島全体の課題ですが、何とも出来ずに現在に至っているのでした。ミャンマーのヤンゴンでは30キロ以上の速度で走ると脱線を免れない鉄道線路の両側は、50年前からのゴミが山積していました。対岸に渡る渡船の桟橋の周囲もゴミの山でした。

 

 人類が発明したプラスチックは便利この上ない容器ですが、処理機能が十分でないため、そのほとんどが海洋投棄されています。世界中では想像を絶する量のプラスチックゴミが、一番安易な方法、つまり「海に捨て」られているのが現状です。波の力により、ペットボトルなどは次第に分解され、粉々になり、それを魚が餌と思って食べてしまいます。魚の腹の中がプラスチックだらけ、という報告が世界各地で報告されています。

 

 もう一つは下水処理です。香港は数々の島で成り立っていますが、その島の周囲が緑色に染まっていました。本来の海の色であるブルーの領域が大胆に侵されていました。つまり、香港人がひり出す下水がそのまま海に放出されているので、そこにアオコが発生し色が変わっているのに違いない、と推測されました。

 

 更に世界各国が海に放出しているに違いない原発の汚染水です。日本は困っていますが、世界では人知れず汚染水は海に流されています。韓国は日本の汚染水処理に神経を尖らせていますが、自国では既にやっているではありませんか。

 

 海は、確かに広大であって、その許容量は無限ではあっても、そこには自ずから限界があるはずです。私たちはそれに気づきながらも、敢えて見過ごしている。人類の怠慢だと思えてなりません。

2019年10月18日            團伊久麿(2)

 

 團さんが東京に出てくるときは横須賀線の逗子駅からグリーン車の一番前の席に座ります。人さまに顔を見られることもなく、思いに没頭出来たからでありましょう。新橋で降りて銀座通りをぶらつく、それも決まったコースを歩かれるのを好んでいました。まず、新橋よりの天麩羅屋の「天国」。去る有名人の実家でした。続いて時計の老舗清和堂へ寄っておしゃべり。次は名代の呉服店。そして煙草の老舗「菊水」。そこでパイプ用煙草「アーリーモーニング」と「マイミクスチャー」を仕入れながら、ご主人としばし談笑。最後は千疋屋ビルの三階レストランへ寄って「若鶏の壺煮」を召し上がる。この壺煮は絶品だそうで、私も行って味わってみたい、と思いつつ、まだ実行できていません。

 

 團さんに憧れる余りパイプを真似たことがあります。菊水から同じ銘柄のものを仕入れて吸ってみました。30代の頃です。その後、煙草は身体に良くないという風潮のお蔭で、長い禁煙期間がありましたが、最近になって、時々復活させてもいます。私が團さんから最も影響を受けたのは、なんと言っても「エッセイ」です。團さんのように、軽妙で洒脱で、その上、深く考えさせる文章を毎日書いていたい、という願望でした。お陰さまでこの「最近のエッセイ」は40回までになりましたが、つらつら顧みると、私のこれは、軽妙でも洒脱でも何でもなく、ただ、ただ駄文の積み重ねに過ぎないことを、否応なく知らされます。

 

 何とか「團伊久麿のパイプのけむり」に少しでも近づきたい、それにはもっともっと神経を研ぎ澄ませて人生の「もののあわれ」に立ち向かって行かねばなりません。恐らく今年は團さん13回忌。心からご冥福を改めてお祈り申し上げます。

2019年10月17日            團伊久麿(1)

 

 私は團伊久麿が大好きでした。有楽町の朝日本社に忽然と現れて、当時、5階にあった出版局へ行き、アサヒグラフの熊倉編集者との会談に臨んだ時から私淑し始めていました。その時から始まったのがグラフ巻末の連続エッセイ「パイプのけむり」です。このエッセイは一年ごとにまとめて単行本になり、27巻まで続きました。当時、朝日の定期出版物は(アサヒカメラ、アエラ、週刊朝日、アサヒグラフなど)販売部の外務社員全員に、定期的に配られていました。私は真っ先に「パイプのけむり」から目を通していました。販売局の100周年記念大会がサントリーホールで開かれた時です。東京フィルハーモニーと指揮者に團伊久麿が呼ばれ、関係者だった私は、團さんのお世話をさせて貰いました。

 

 葉山にお住まいだった團さんはピアニストだった76歳の奥様を失います。その数年後、日中交流協会の催しの最中、ご本人は北京のホテルで突然死を迎えます。76歳でした。お孫さんの飛鳥ちゃんに「お土産何がいい?」と電話した直後だったそうです。葬儀は文京区の護国寺で行なわれ、私も弔問に行かせて貰いました。小泉純一郎総理も見えていました。その時、会葬者全員にいただいたのが「パイプのけむり27巻」でした。会葬御礼のご挨拶を母親が違う二人のご子息がなさいました。けれど、その挨拶が長くて閉口したのを、昨日のように覚えています。

 

 團さんのご自宅を探しに探して訪ねたことがあります。逗子駅からバスに乗り、子産石というバス停で降り、ダラダラ坂を登ります。続いて200段はあろうかという石段です。小高い丘の中腹の丸屋根の瀟洒な建物がお住まいでした。(猫額の庭)とパイプの煙で團さんおっしゃる斜面には、植物好きだった團さんが世界各地から集めた奇妙奇天烈な植物が植えられていましたが、世話する人もなく、半ば枯れかかっていました。團さんはまた、八丈島の断崖の突端に仕事部屋を持っていました。その家でのシロアリの発生はいかんともしがたく、その顛末は「パイプのけむり」で詳らかです。

 

 戦時中、團さんと芥川也寸志さんは軍楽隊に属し、戸山が原で居住を共にします。二人の目の前に、今では珍しいが当時はどこにでもいた「シラミ」が這いずっています。そこはそれ音楽家同士、どちらからともなく「♪ソラソラ、シラミー」と歌い出します。「♪ドラドラ、シラミー」、すべて音階になっています。「♪ミレド、ミレドシラミー」、二重唱で「♪シ、ラ、ミ、-」、この件が良くて良くて、何度、読み返したことでしょう。

 

  翻っていま、團伊久麿は世間から全くといいほど顧みられていません。名前もマスコミに上がっていません。数々の彼の優れた歌曲も、オペラも話題になっていません。何でだろう? どうしてだろうか?と考え込んでしまいます。

2019年10月16日          法相辞任の韓国

 

 昨日、就任したばかりの韓国の法相チエ・グクが辞任しました。家族ぐるみの不正が次々に明るみに出て、耐えきれなくなったからでありましょう。文在寅大統領は「混乱を招いてしまい、国民の皆様に申し訳ない」との談話を発表しました。

 

 一方、文在寅の支持率は大幅に下落し始め、反日不買運動も陰りが出始めています。ユニクロやアサヒビールのみならず、韓国の日用品の隅々まで日本製品が入り込んでいることに、国民が改めて気付き始めたことも原因です。つまり、日本製品をボイコットしては生活が立ちゆかなくなるのです。

 

 左翼政治家の文在寅の命運も今年中に決まるのではないか、と私は予想します。南北統一という志はいいけれど、余りに性急過ぎた、その付けが回ってきたのです。ところで今、韓国内では00という人が書いた00という本がベストセラーになっています。日韓の諸問題について歴史認識から説き起こし、その事実について冷静に分析、解析した本です。韓国の学校で使われている教科書の余りに偏った日韓の歴史の記述に、痛烈な批判をしているところに、この本の特徴があります。慰安婦問題についても、徴用工問題についても、その事実を冷静に分析して書いています。この著者はユーチューブにも登場しているので、その主張は日本人の我々も知ることが出来ます。ああ、「韓国にも人はいたんだ」と思うのは私だけではないはずです。

 

 翻って、何で韓国には熱しやすくて冷めやすい熱情家が多いのか、を考えるとき、唐辛子と山葵が比喩に例えられます。以前、このホームページでも書きましたが、日本人はその料理に唐辛子よりも山葵を好んで使います。しかし、韓国ではあらゆる料理に唐辛子を使います。「とんとん唐辛子は辛いね、ああ、ヒリヒリ」と端唄にもあります。日本人にはとても我慢が出来ない極めつきのヒリヒリで長い間培われた韓国民の人間性、、、、

 

 しかし、山葵人間と唐辛子国民は永遠のお隣同士。藤原正彦の言う「惻隠の情」と「武士道精神」をもってお付き合いしていきたいものです。

2019年10月15日          ボランテア

 一夜明けて、新聞テレビの報道は水害一色です。東日本全域に及ぶ水の被害は想像以上であることが明らかになりました。「あそこもか」、「ここもか」、「あんなところまでもか」、と深いため息をついています。

 若いときの仕事柄、福島、新潟、茨城を担当し、東北6県信越富山を管轄したので、その土地のたたずまいや、河川の状況については人並みでない記憶が鮮明に残っています。

 水戸市の那賀川流域、利根川の茨城寄りの平地、渡良瀬川の足利や佐野、田島、館林市の一部、 福島中通りの阿武隈川、平市に注ぐ磐越東線の夏井川。宮城の北上川、山形酒田へ注ぐ最上川、秋田・能代の米代川、青森・八戸の馬淵川などなど、報道はされないが、恐らく甚大な被害を受けているでしょう。

 不思議なのは、新潟県を貫流する信濃川の流域がどうなっているかです。かつて三条市が同川の決壊で甚大な被害を被ったことがあります。きっと、護岸工事が適切だったのでしょう。もう一つ、富山の黒部川流域はどうなっているのでしょうか? 北アルプス激流は周辺に被害を与えず日本海に注いでいるのでしょうか?

 更にもう一つ、長野の松本平から狭い谷間を貫流して千曲川と合流する犀川周辺が気がかりです。大町へ抜ける街道沿いに信州新町という集落があります。2年前の同級会では川の辺の旅館に泊まりました。10メートル下には犀川の激流が轟音を立てていました。恐らく水没したかもしれません。すると、隣接している有島生馬記念館もでしょうか?

 堤防決壊によって平地に溢れ出た水は、そう田安く退くものではありません。千曲川沿いの浸水された皆さんのこれからのご苦労が思いやられます。私がもっと若かったら、お世話になった長野の衆のために、ボランテアを買って出るのになあ。

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