2015年8月30日 郷愁の大群衆
丸ノ内線銀座で降り、地下街を通って帝国ホテルの脇に出ると、練馬では降っていなかった小雨がパラついていました。傘を買って日比谷公園の中を国会方面に向かって歩き始めます。公園内は閑散としています。野外音楽堂から大音響のロックが流れていますが、デモとは関係なさそうでした。ところが、松本楼の辺からデモ参加の人たちが溢れだしました。外務省の通りを挟んで歩道は身動きできません。角の公園も人で埋まり、気勢を上げています。旧大蔵省の歩道も、人、人、人です。ビラを貰いました。14時、15時、15時55分に一斉に次の文句でシュプレヒコールをしよう、と書かれてありました。やっとのことで、財務省上の交差点にたどりつきました。交通整理をするお巡りさんで交差点付近はごった返していますが、機動隊の影はありません。交差点を渡り、首相官邸に向かおうとしましたが、歩道は極端に狭く規制されています。止む無く、国会正面に向かいます。人、人、人、をかき分けて進むのは一苦労です。そして、国会正面の大道路に大群衆がいました。車道は解放され、坂の下まで大群衆で埋まっているのです。全学連、オール明治、オール早稲田などの幟が立ち、出身学校単位で、打楽器で拍子をとりながら、思い思いのシュプレヒコールを唱和しています。次男の出身校東京農工大の幟もありました。ところが、良く観察すると、現役らしい学生が音頭を取ってはいますが、その数は決して多くはなく、昔、それも大昔に学生だった人たちに占められていました。
前回の安保闘争の時の30万人は、そのほとんどが学生でした。授業そっちのけでデモに参加しました。全学連が強い指導力を発揮していたからでしょう。今回も全学連の幟は立っていましたが、弱弱しい集まりです。今回のデモを企画したのは、ネットによって芽生えた「シーズ」という学生主体の自主的組織のようですが、時代背景が昔とは全く違います。マルキシズムによる社会主義革命という闘争意識がその根っこにありましたから、デモも膨れ上がったのです。今はどうでしょう? ベルリンの壁やソ連邦の解体のせいで、思想的背景がなくなりました。従って、デモの性格も憲法擁護一本に絞られました。
主催者発表では、群衆は霞が関周辺だけで12万人とのことでしたが、往きつ、戻りつした人を加えればその位は集まったかもしれません。しかし、警視庁発表の数字は3万3000人です。随分差があるなあ、と思いました。参加者の実感としては警視庁は過小評価し過ぎです。
三時になりました。拡声器が街路樹に隈なく設備されていて、一斉にコールしましょう、と呼びかけがありました。大群衆が大声で呼応します。「戦争法案絶対反対」「戦争法案今すぐ廃案」「安倍政権は今すぐ退陣」「安倍政権の暴走止めよう」……大群衆が発するコールは地鳴りのように、霞が関中に響き渡りました。
しかし、昔の安保闘争のデモを経験している人間からすれば、今回のデモは何か物足りない。切迫感がない。激しい勢いのようなものがないあ。そう思って辺りを見回すと、周りは高齢者だらけ。ジイサン、バアサンがほとんどなのです。4人に一人は65歳以上という日本の人口動態であってみれば、それもやむを得ないとしたものでしょうが、なぜ、学生団体の自主的デモだといいながら、半数以上が学生たちでないのか、女子学生らしき集団が見当たらないのか、ツクヅク考えてしまいました。
そう感じながら、木陰に佇み、コールに唱和しているジイサン、バアサンを見ているうちに、そうか、あなた方は昔の安保闘争で、機動隊と戦った同志たちではないか、一緒に手を組んで晴海通りをジグザグデモした仲間ではないか、「久しぶりだね、皆さん」と声を掛けたくなってきました。
何かがオカシイ、と感じながら郷愁のデモ参加から帰ってきました。
2015年8月29日 明日はデモに参加しよう
明日の日曜日は安保反対の大規模デモが予定されているようです。国会周辺で10万人、全国で100万人だそうです。
1935年の安保闘争の時は、早稲田のアルバイト学生でした。国会周辺には30万人のデモがありました。私も、その中の一人でした。日比谷交差点の晴海通りを全員で手を繋ぎ、シュプレヒコールを繰り返しました。勿論、車など通れません。ひと、ひと、ひとの波でした。深夜まで続いたと思います。不思議な充実感がありました。
翌年だったかの就職試験で、朝日新聞社を受けたのですが、二次面接で「君はデモに参加したのか?」と聞かれました。狼狽えました。「アルバイトが忙しく参加しませんでした」とウソをつきました。そのお蔭かどうか、受験者450人中、8人の合格者の中に入りました。だから、内心忸怩たるものがあります。
7月16日に衆議院で可決された法案は、いま、参議院で審議されていますが、恐らく通過してしまうでしょう。公明党が、もし、反対に回れば逆転する可能性はありますが、それでも、60日ルールによって法案は成立します。安倍内閣不支持の率が支持を上回っているのに、数の力によって日本は戦争の出来る国になっていきます。
あまつさえ、自民党総裁選挙に対立候補が名乗りを挙げず、無投票当選となることが取り沙汰されています。これだけ憲法を踏みにじり、国民の大多数が反対しているにも拘わらず安倍政権は続行されるのです。正に、呆れかえった自民党です。その不甲斐なさには涙も出ません。
明日は、蟷螂の斧であることを承知の上で、デモに参加し、シュプレヒコールを怒鳴ってきます。
2015年8月28日 荻窪ラーメン
ラーメン競争の始まりは、荻窪といわれます。丸福、春木屋が元祖のようです。調べてみたら荻窪には36軒のラーメン屋があって、今も、互いに覇を競っているようです。春木屋がいまでも一位とか。昨日、荻窪まで行ったので、久しぶりにその春木屋へ入ってみました。ワンタンメン1250円。スープには微かに昔の味が残っていました。ワンタンとの相性は良かったものの、麺がいけません。味もそっけもない、しかも、固くて噛めない代物になっていました。麺一本だけを食べて、あとはどんぶりに残しました。金返せの心境になりました。一昨年、新宿広場で開かれていたB級グルメで、佐野ラーメンと秋田の比内鶏ラーメンを食べました。化学調味料による味が余りに強烈だったので、両方とも捨てました。
今の若い人たちの味覚は、一体どうなってしまっているのか、驚き以外の何物でもありません。
ラーメンは、麺もさることながら、スープが命です。大鍋に野菜くず、豚骨、牛骨、内臓、煮干し、魚介類、香辛料、を加え、ラーメン店や中華料理店は店独自のスープを作ります。昔は、その匂が店先まで漂っていたものです。いま、スープはドラム缶に入って運ばれてきます。化学薬品を調合することによって、すべての味が出せるようになったからです。貝柱も、煮干しも、アワビの味も、上等な鰹節の味も、化学薬品で出せるようです。店独自の味とは、薬品の配合比率を替えるだけ、といわれています。だから、嫌な後味がいつまでも残るのでしょう。
ほぼ、全国を飛び回るのが、私の若い時の商売であってみれば、駅前のラーメン店から銀座や横浜中華街の高級店に至るまで、ラーメン、いわゆる中華蕎麦のお世話になってきました。札幌のラーメン横丁の味噌ラーメンがシミジミ旨いと思った時もありました。今でも銀座で昼時になると、維新號という店に行って1100円の五目そばをいただきます。自家製のスープの味を変えないでいる数少ない店です。その旨さは例えようもありません。
ベトナムの「フオー」は麺が違いますが、捨てがたい味です。味の素を使いすぎる害毒が東南アジアの常ですが、店を選べば、飛び切り上等の「フオー」にありつけます。獣肉の骨や内臓を煮ては、漉し、透明になったものにビーフンを加え、無数の薬草と共にいただく、というのが東南アジアのラーメンですが、共通しているのが、後味がサッパリしていることです。日本のラーメンのような、何時までも口内に残る化学薬品の味はありません。
ミャンマーのヤンゴンへ行ったときです。ガイドのカリアさんが案内してくれた店はごった返していました。みんな同じものを食べています。ミャンマー風の「フオー」です。無色透明なスープの底にビーフンが沈み、5、6個の肉団子が浮いています。好みの薬草を散らして掻き込みます。至福の時になりました。荻窪の春木屋の若主人に食べさせてやりたいです。
2015年8月27日 ミトコンドリア
人間の細胞に中にはミトコンドリアと呼ばれる微小の虫がいて、これが、人間の生命を司っているらしいのを、昨夜初めて知りました。生命力とか、持久力とかの源であるらしいのです。長生きしよう、と一日一万歩を歩いているだけではミトコンドリア増えない。限界に挑戦するぐらいの早歩きを加えなければダメだ、というのです。人間の身体は限界を感じると、細胞はそれを察して、急いで、細胞内にミトコンドリアを増殖させるそうです。ミトコンドリアが増殖すると、持久力や生命力が高まり、長生きに繋がる……
昨夜のNHKテレビ「試してガッテン」でその仕組みの神秘さを教えられました。ただ、安穏に過ごしていては、生命の本体はそれでいいと思って、ミトコンドリアを増やさない。増えなければミトコンドリアは枯渇していって、「ハイ、それまでよ」 になるらしいのです。ということは、一日一回は身体が悲鳴を上げるくらいの運動をして、ミトコンドリアを増やすチャンスを無理しても持たねばならない……なるほど、なるほどとガッテンしました。
7月末から8月上旬にかけて、感染症と熱中症で敗血症まがいになり、救急車で運ばれ一週間ほど入院しました。以来、身体全体が怠く、重く感じられ、怠惰な毎日を送っています。不思議なのは、自分で言うのもオカシイですが、あれほど積極的だった毎日にならないでいるのです。今日やることを、明日に延ばしてしまうのです。つまり、細胞内のミトコンドリアが減少しているのでしょう。
私は今日、これではいかん、と決心します。先ず、歩き方を変えます。背筋を伸ばし、速足で歩きます。ジムに通っていた頃を思い出し、室内で出来る体操をします。そして、私の身体の細胞の中に住むミトコンドリア達が、「大変だ、もっと増やせ!」と言うようにさせます。
追記 ここまで書いてから、歩き始めました。「ミトコンドリアよ、増えろ、増えろ」 と念じながら、荻窪に向かって歩き始めました。背筋を伸ばし正面を見て中杉通りを足早に歩きます。鷺宮を過ぎました。白鷺1丁目で中休みし、日大2高の脇を通り、天沼の高級住宅地を横目で見ながら荻窪駅に着きました。駅ビルルミネの地下生鮮食品売り場へ入ります。楽しい時間です。難点は値段です。練馬の田舎より2,3割高い。しかし、ものは飛び切りいい。両手に荷物をぶら下げて再び歩く元気は無くなりました。バスに乗って帰ってきました。
万歩計の数字は11600歩でした。少しはミトコンドリアが増えたでしょうか?
2015年8月25日 世界陸上
朝刊の報道によると、板門店での南北の折衝は、夜を徹して行われ、どうやら、合意に達したようです。南北の韓国人はホッとしていることでしょう。国の戦争も、個人の喧嘩も互いのメンツのつぶし合いから始まります。実に醜いものです。そこへいくと、同じ戦いでも、いま、北京で行われている世界陸上はスッキリしています。時には美しくさえあります。難点は日本選手が活躍出来ていないことです。昨日の女子一万メートルでもそうです。途中6000メートル付近までトップを切っていた日本選手二人(小原、高島)が、ガクッと力を落としビリになってしまいました。ビリになる位なら最初からトップを切るな、と言いたい。みっともないッたらアリやしない。いつの頃からか、世界陸上は黒人大会に変貌しています。ヨーロッパ諸国の代表選手も黒人がほとんどです。参加選手の三分の二が黒人、と言っていいでしょう。特筆すべきはアジアの有色人種がほとんどいない、ことです。中国人ですら見かけません。僅かに男子100メートル決勝で、ビリになった江選手位だったでしょうか。どうして、アジアの有色人種は世界陸上で活躍できないのでしょうか? いわんや、日本人においておや、です。鳴物入りで送り出された初日の男子マラソンの藤原が22位。やり投げの新井も決勝には残ったものの、ダメ。走り幅跳びの菅井も8メートルに届かず、ダメ。女子100メートルの福島も予選落ち。
圧巻は男子100メートルのボルトとガトリンでした。私の予測ではガトリンでしたが、ボルト9.79秒、ガトリン9.80秒で、新旧交代はなりませんでした。女子100メートルで二冠を制したフレーザー、プライスは小柄なのに力が強く、おまけに、愛嬌がありました。自分の顔をひまわりに見立てる化粧をするなんぞ、大したものです。
世界陸上は白人、黒人、有色人種など、肌の色で観戦すべきものではない、とは分かってはいるものの、今一つ、日本での盛り上がりに欠けるのは、何としたことでしょうか?
2015年8月24日 板門店
ソウルのロッテホテルに集まった各国の旅行者が、一台のバスに乗込みます。市内から2時間余りで行ってしまう板門店見学ツアーです。長男夫婦と孫娘の果南それに私です。板門店の手前に北朝鮮を指呼の間に臨める展望台があります。そこへは10年ほど前に来たことがあります。沢山の花に埋もれた祭壇があって、北に向かって、チョゴリを纏った人々が悲痛な祈りを捧げていました。板門店はそこから一時間ほど奥です。1000メートルごとに道路の両脇にコンクリートのアーチが建っています。いざという時は、これを爆破して相手の侵入を防ぐそうでした。到着した板門店は町というよりは、穏やかな村でした。観光地化されていて、ある部分公園になっていました。ところが、バスに軍人が乗り込んで来て、鋭い視線でパスポートの検閲が始まるや、緊張が高まりました。道路には有刺鉄線が置かれ、車はジグザグ進行を余儀なくされます。ある建物に到着すると、そこからは国連軍のバスに乗り換えさせられました。所持品はカメラ以外一切ダメです。傘も武器と間違えられるからダメとのこと。車内は一気に緊張が高まりました。
軍事境界線の上に建てられた建物に入ります。100メートル先に北朝鮮の灰色の建物が見えました。銃を持った兵隊が二人、こちらを凝視しています。軍服は建物と同じ灰色です。こちら側にも二人の兵士が身じろぎもせず北朝鮮側に向かって対峙しています。軍服は濃緑です。そして、どの兵士も1メートル80以上はある巨漢です。24時間の交代勤務だそうでした。気が付くと、韓国側の兵士はサングラスをしています。何でも、目つきが気に入らないと北側からクレームがつき、一触触発状態になったそうです。サングラスはそれを防止するためだ、と説明がありました。二つの建物の間に縦長の平屋がありました。軍事境界線を挟んで机と椅子が置かれていました。両国の話し合いが行われ、幾たびかの危機を回避してきたいわくつきの場所です。これから先、両国が、この椅子を蹴って再び戦争を始めることがないよう切に祈るばかりでした。
ところが、この数日、両国の高官4名がここに集まり、果てしない論議を繰り返しています。韓国側は、北朝鮮側が仕掛けた地雷で2名が負傷した、その責任をとれ、と主張しています。北側は、その報復として南側が新たに仕掛けた大音量を発する拡声器を撤去しろと迫っています。怪我人と拡声器、たったそれだけのことなのに、両国は準軍事態勢をとってしまいました。南北の閣僚は全員がすでに軍服姿です。パク・ウネ大統領まで軍服です。いやはや、国家のメンツとは恐ろしいものです。
高々と上がった板門店の両国の国旗をバスから見ながら、私は妙なことに気が付きました。見渡す限りの草原に、鳥がいないのです。蝶々もトンボもいないのです。虫ぐらいいるだろうと探してもいないのです。きっと強力な薬品が散布されているからに違いありません。地雷原だからこそ、動くものを徹底的に拒否しているのでしょう。
「ツチエ」という社会主義を信奉し、金一族を独裁者として崇め奉り、貧困に喘いでいる北朝鮮。一見、民主主義国でありながら、財閥の台頭を許し、韓国74%の富を僅か5%足らずの財閥に握られ、貧しい者が更に貧しくなっていく南朝鮮。
この先、両国の関係はどうなっていくのでしょうか。目が離せません。
2015年8月23日 同時株安
日経平均が2万円を割り込みました。ニューヨークも大幅に下落しています。ことの発端は中国です。ドルに対する元のレートを2%ほど下げました。中国でも株価が大幅に下落し始めたからです。GDPの期待値が予測を下回った結果です。中国政府は資金を投入して株価の下支えをしていますが、株価というものは正直なもので人為的な施策などには目もくれません。特に中国市場では株の信用買いが盛んです。一般市民でさえ元手の資金の10倍近くの株式を購入することが出来ます。株価が上昇傾向にある時は面白いように儲かっても、一旦、株価が下降し始めると、目も当てられません。追証を迫られます。莫大な負債を抱え込むことになります。自殺者が急増していると、漏れ聞きます。
日本経済がバブルだった頃、私もインターネットによるデイ・トレーダーまがいのことをやりました。そこそこの利益が出て、ヨーロッパへ出かけたりもしました。ところが、バブルが弾け、日経平均が7600円まで下落しました。持ち株は塩漬けとなりました。ただ、信用取引と売りだけは絶対にやるまい、という掟を自分に課していたので、損切りは免れました。安倍政権になって、株価が上昇し始めました。塩漬け株にも利益が出始めました。だからと言って、再びデイトレーダーをやろうかという気力はもうありません。
先月中旬、ギリシア問題が起きました。これは、世界同時株安を惹起するに違いない、と予測し、持ち株のすべてを処理しました。しかし、私の予測は見事に外れ、株価は上がり続けます。「もうはまだなり、まだはもうなり」なのでした。
しかし、ここへきて世界同時株安が起きました。一か月ずれましたが間違いなく株安は起きました。この株安のお蔭で、私は株という得たいの知れないものから完全に遠ざかることが出来るでしょう。これも、「ダンシャリ」の一つであるでしょう。
2015年8月20日 爆 発
バンコックの繁華街で、何者かが仕掛けた爆弾が炸裂し、大勢の死者と怪我人がでました。爆発地点は、何と、6月に私が歩き回ったところではありませんか!場合によれば私が被害者であったかもしれないのです。これには驚きました。中東で自爆テロが頻繁ですが、温厚にして、微笑の国タイ国の目貫通りも、テロの対象になったのです。何のためのテロなのか、タイの軍事政権も大慌てのようですが、いかなる理由があるにせよ、無辜の人間を大量殺人する行為は卑劣極まりありません。強い怒りを覚えます。
中国天津でも大規模爆発がありました。映像をみると、小規模の核爆弾が落ちたような傷跡が鮮明です。人家や建物が密集するところへは危険薬物を貯蔵してはならない、という掟があるにも拘わらず、共産党幹部である天津市副市長と業者との癒着がもたらした、これは全くの人為的禍でありましょう。住むところを失った住民が補償を求めに行っても、責任者は雲隠れしてしまっている。いかにも中国らしい対応ですが、こういう大事故の時こそ、習近平がまかり出て、「申し訳ない。私に任せてくれ」と言うべきではないでしょうか。
天津の、その工業地帯に進出を果たしている日本企業の被害も甚大です。爆風によって焼けただれた日本車の数は恐らく数千台ではきかないでしょう。しかも、多量の青酸カリが爆発した場合、どんな薬害が将来に亘って残っていくのか、それは全くの未知数です。恐らく永久に人の住めないところになる筈です。
習近平以下の共産党は9月3日に行われる「抗日戦争勝利70年記念式典」の準備に大童のようです。天津大爆発の処理が喫緊の課題じゃないの、と言ってやりたいです。
2015年8月18日 味な采配
天は時として味な采配をする、と今日はツクヅク感じてしまいました。甲子園野球の準決勝についてです。第一試合の早稲田実業と仙台育英は、おおかたの予想に反して、早実は惨めな負け方を喫しました。16歳で一年生の清宮幸太郎君は涙を堪えるのに必死のようでした。それだけ育英の投手が良かったのですが、早実の全員が浮足立っているように見えました。東京っ子の悪い面が出たと言えるでしょう。
関東一高と東海大相模の試合でも、気負いこんだ東京代表の敗北です。投手力というものが、いかに試合を左右するものか、という典型が今日の二試合であったと、納得しました。つまり、東京っ子のいわゆる脆さが全面に出てしまったのでしょう。
清宮幸太郎君の父親は「早稲田の英雄」の名を欲しいままにした、ラグビーの天才です。選手としても、監督としても、優れた力量を発揮しました。早稲田のラグビー部には「荒ぶる」という伝統の歌があります。大学で日本一になり、且つ、社会人の日本一を倒し、名実共に日本一になったときだけ歌うことのできる「ラグビー部歌」です。清宮の時代にその歌がグランドで歌われました。清宮幸太郎君はその息子です。しかも、母親は慶応大学でゴルフ部主将を務めた才媛です。血統としてこれ以上のものはないでしょう。世間の注目を集めたのは無理なからぬことです。
でも、天は「まだ、早い」と采配を振るったのです。
決勝戦は仙台育英、東海大相模の一騎打ちとなりました。投手力の差が勝負を決めるでしょう。私の予測は東海大相模ですが、心情的には、仙台育英です。巨人の原監督の出身校などに勝たせたくはないではありませんか。
この欄にも書きましたが、福島、仙台、新潟、茨城、栃木と旅をしてきて、一番感じたことは、仙台という都市の発展ぶりです。津波の被害などなんのその、仙台は都市として躍動していました。東北の物流の一大拠点にすでに変化を遂げています。何より勢いを感じました。「都市は北に向かって発展する」のでしょうか。
今年の100年目の記念大会は、それに相応しい盛り上がりを見せました。でも、高校野球を観戦するのは、ハラハラ、ドキドキが多くて困ります。
2015年8月15日 まるで人ごと
まことしやかに、「戦後70年安倍談話」なるものが発表されました。かりそめにも、日本国を代表して70年を総括する以上、人柄がにじみ出た相手の心に響くものでなければ、発表する意味がありません。美辞麗句を連ねた「厚化粧談話」以外の何物でもない、と受け取ったのは私だけでしょうか? しかも、脅しがまぎれこんでいるではありませんか。「反省もお詫びもここまでだ。これ以上言ったら承知しねえぞ」 と言っているのです。
「オレはだなあ、東京裁判は間違っていると言いたいんだ。植民地支配というけれど、当時の列強は世界中に植民地を持っていたではないか。日本だけが何故悪者にされねばならないんだ? 何故、日本だけが侵略者と言われねばならないんだ?反省せよだの心からのお詫びをせよだの、手前らに言われたくないんだよ。手前らが発展できたのは、言いたくはないけれど日本のお蔭じゃやないか。これ以上ツベコベいうなら、やってやろうじゃないか、こちとらにはアメリカが付いてらあ」
こういう、浅薄な考え方しか出来ていない薄っぺら人間が、世論に負けて、しかも支持率回復のために、八方にいい顔を振りまこうとするから「厚化粧談話」に成り下がったのでしょう。 一体、何のために談話など出したのでしょうか。
今日は8月15日。私が生きているのは、300万人の尊い犠牲のお蔭であることを、シミジミ思う日です。私も、大空の彼方に向かって「申し訳ない。ありがとう」と祈りを捧げます。
大島吉美さんへ
いつも、一つ一つのエッセイにご感想をお寄せいただきありがとうございます。筆者にとって、どれだけ励みになっているか、計り知れません。ところが、この一か月、ご感想が途絶えています。心配の余り、昨日メールをいたしました。届いていません。今日も試みました。やはり、宛先不明となりました。何事も無ければいいな、と思うものの、不安で一杯です。どうか、近況をお知らせください。
2015年8月13日 ナッシング人間安倍晋三
今週の「サンデー毎日」は、人間としての安倍晋三に対する批判記事が満載です。半藤一利、保坂康彦、青木理の三人は安倍について、こう結論しています。
1、語彙に乏しい 2、形容詞を連発する 3、議論しても5分と持ちこたえられない
どうしてそうなるか、と言えば、
1、教養がない 2、歴史を勉強していない 3、知性の片鱗もない 4、歴史修正主義者ばかりをお友達にしている 5、ネット右翼のみが彼の情報源である
その結果として、
1、落ち目の三度傘のアメリカに対して、わざわざ手を挙げて、あなたの行う戦争に協力しましょう、と時代遅れの発言をして、わざわざ、中国韓国の印象を悪化させている
2、中国・韓国・北朝鮮の脅威を、殊更に煽ぎ立てることにより、自分の独りよがりの思想を国民に押し付けようとしている
3、千万人が反対しようとも、我往かん、というソクラテスの言葉を金科玉条にしている
結論は、たまたま、小選挙区制の悪弊によって絶対多数を獲得しただけなのに、それをいいことに、国民大多数の反対を押し切ってまで、歴史修正主義的行為を成就させようとしている、岸、安倍家の三代目のお坊ちゃんの所業に対して、いまこそ、「NO!」を突き付けねばならない。
オントシ103歳になる聖路加病院の院長日野原重明さんには、数々の名著があります。昨夜、ふとして読み返してみました。
「人にはハビイングとビーイングが大切です」という件があります。つまり、人間としてどういう蓄積を持っているか、かつ、どういう人間であるか、ということです。この切り口で見れば、安倍晋三という人間のハビイングはナッシングではありますまいか。ナッシングの人間が突如としてまかり出てきて、国政をあらぬ方向へ捻じ曲げようとしている、しかも、88歳でヨチヨチ歩きのナベツネ率いる読売新聞が、この「ナッシング安倍」の黒幕を演じている、つくづく、日本は重大な岐路にいるなあ、と思えてなりません。
2015年8月11日 戦争の記憶
今から74年前の12月8日、吉祥寺の菓子パン屋の店先のラジオが絶叫していました。「わが国は大東亜戦争に突入せり。今朝未明、ハワイ真珠湾に奇襲攻撃を敢行、敵の損害は以下の通り、アメリカ軍艦3隻撃沈……。青い顔になった母は、沢山のカステラパンを買い込みました。4歳の私は母の只ならぬ様子に不安を覚えました。
自宅の防空壕に入ろうとした時、単発で飛来していたアメリカの双胴の戦闘機カーチスP38の機銃掃射を受けました。炸裂音が4〜5メートル先を通り抜けて行きました。電燈に黒い布を付け、光が漏れないようにしてラジオに耳を澄ませます。「東部軍管区情報、東部軍管区情報、敵B29の大編隊が房総半島より本土に近接しつつあり。空襲警報発令、空襲警報発令!」 下町の上空が真っ赤に染まっています。母は国民学校一年生の私を集団疎開へ出します。軍馬の医師であった父は、時折手紙はあっても、戦地に行きっぱなしです。福島県富岡駅前の集団疎開先へ、一度だけ母が面会に来てくれました。小麦粉を練って丸く焼いただけのパンを一杯持って来てくれました。数が足りず、皿に半分ずつ、全員が正座して食べました。食用の草や、躑躅の花まで食べました。中野の家が焼けました。海岸に居ては危険だというので、集団疎開先は会津の山奥に移っていたのですが、母は私を迎えに来てくれて、一緒に長野市の母の実家へ行きました。
そこで再びラジオです。廊下に持ち出したラジオから流れる玉音放送なるものを、全員が庭に正座して聴きました。母は庭の土を掻き毟って泣きました。長野の空は青空でした。その時の空に浮かぶ白雲の形は、今でも鮮明に覚えています。
地獄絵は 3月10日の大空襲 それでも9条 改めんと言うか
これは今度の連合書道展へ出品する条幅です。かれこれ50枚は書いたでしょうか。始めは万葉仮名で書いたのですが、途中から新書芸風になってしまいました。今月4日が提出日なのに、救急車入院を余儀なくされてしまい、出品は諦めよう、と決めたところへ、この歌の作者の幼友達から「新しい墨と下敷き」が送られて来ました。
連合書道展の会場は上野の山の東京都美術館です。下町の空襲を目の当たりにしたところです。この反戦の作品は、「戦後70年、上野の山に展示されたい」 と思っているに違いない、と気を取り直しました。何とか書き上げました。
作品は9月1日から6日まで、かつての下町空襲を一望する上野の山に展示されます。
せめてもの抵抗です。
2015年8月9日 秋風と遺言書
甲子園の熱戦が、6日から始まっています。今年は記念すべき100年目の大会です。大会会長である渡辺新社長の挨拶も、元気よくできました。この大会が終わるころ、決まって秋風を身に感じます。ところが、私は今日、その秋風をシミジミと感じながらパソコンに向かっています。
何と心地よい風でしょうか。何と生きている喜びを与えてくれる爽やかな風でしようか。そうなのです。もしかすると、実は、私は、死んでいたかも知れなかったからです。
7月27日の夜、いつものように39度近くに温度が上がっている2階の仕事場から階下に降りてくると、意識が尋常でなくなっているのです。気づいた三男が「オヤジ、救急車を呼ぼう」、「いいよ、呼ぶな」、「ダメダ、呼ぶ」……
救急車のサイレンの音が我が家に止まり、四人の隊員に抱えられ、救急車に乗せられたまでは覚えているのですが、後は記憶が抜けています。気が付くとベッドに縛り付けられ、横に、心配そうに私を覗き込む長男夫婦、次男夫婦、それに三男の顔が見えます。「何だ大げさな、おれは大丈夫だよ」と言いたかったのに、言葉が明瞭でありません。
悪性の風邪ビールスによる感染症と、熱中症の合併症による敗血症の疑い、という診断であることがあとから分かりました。おまけに、前立腺肥大という持病も悪化したようで、小水の出が悪くなり、順天堂大学病院の若い看護婦さんに人為的に膀胱へ管を入れ排尿する「導尿」までやってもらう始末。
入院は27日から29日までは江古田の鈴木病院、そのあと順天堂高野台病院へ移送されて、3日に退院し、5日から都立大久保病院の泌尿器科の主治医白川先生預かりとなり、処方された抗生物質が奏功したためか、排尿は元のようになりました。
問題は、意欲の減退です。病院にいて、美味しくはないけれど三度のご飯を与えられ、若い看護婦さんたちに、上から下までの世話をしてもらっていると、これもまた、いいもんだなあと思い、加えて、嫁の悦子さんや真弓さんに親切にされ、それが有難く、何もかも自分でやってきている意思らしきものに陰りが見えたことです。
つまり、自分はもう歳なのだ、黄泉路が近いのだ、その準備を怠るな、という現実を改めて感じさせられたことです。
秋風は私に、早く遺言書を書いておきなさい、と勧めているようです。
2015年7月24日 続・ショパン国際ピアノコンクール
このコンクールの第一次予選突破者の氏名が発表されました。1000人を超える応募者の中から選ばれたのは84名。全員の演奏がユーチューブにアップロードされています。一人当たりの時間は約30分。エチュードから3曲、マズルカから1曲、スケルツオ、バラード、ノクターンから2曲、が規定のようでした。ワルツ、ポロネーズ、ソナタは、今回は入っていません。
予選突破者の国別内訳は、ポーランド15、中国15、日本12、韓国9、ロシア7、アメリカ5、イタリア3、イギリス3、カナダ3、フランス1…… あとは一人だけの国が11です。奇妙なのは、ドイツ、オーストリア、スペインなどからの突破者がいないことです。世界で最も優れた音楽の歴史を持つ国からの参加がない、とはどういうことでしょうか? 思うに、東洋人に独占された感が深いこのコンクールに嫌気がさし、参加を見送りはじめたのではないか、ということです。それに、西欧の歴史をみても、何故か、ポーランドを軽視する傾向があります。そのポーランドが産んだ、天才ショパンの音楽まで、軽く見る歴史的風潮がありました。確かに、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナー、マーラーの音楽は重厚そのもので、ショパンとは異質でしょう。でも、原因はそれだけでしょうか?
ユーチューブにアップロードされた84人の演奏を、順繰りに聴くことを、このところの日課にしているのですが、中国人や韓国人のプレイヤーの派手なパフォーマンスには驚かされる以上に、嫌気がさしてしまいます。なにしろ、「我こそがピアニストでゴザイ」という態度に終始するのですから。その上、軽業師のようなピアノテクニックを披露し、してやったりという笑顔すら見せます。しかも、聴衆のほとんどが東洋人であってみれば、それを讃えて爆雷のような拍手をします。ヨーロッパ人は、中でも、ドイツ人やオーストリア人は、それが嫌な余り、参加を見送り始めたのではないか、と憶測してしまうのです。
ピアノ演奏におけるパフォーマンスは、私の最も嫌うところです。腕を振り上げたり、顔をしかめたり、自分の演奏への陶酔の素振りを見せられたりすると、私の場合は、途端に興ざめしてしまいます。自己陶酔型の演奏は聴く気になれません。極く自然な姿勢で、淡々とピアノに向かい、ピアノをして語らしめる演奏こそが私には好ましいのです。
家の、半地下の音楽室にあるヤマハのグランドピアノの調律、整音は、私が自分でします。音叉もハンマーもフエルトも揃っています。鋼鉄の三本のピアノ線をフエルトのハンマーが叩いて音を出すだけの器械がピアノですが、叩き方によって音は異なります。しかし、ピアノは、叩いては良い音が出ません。手の平を広げて鍵盤の上に置きます。腕と、掌と、指の重みを感じながら、一つの鍵盤を抑えてあげます。すると、その力がハンマーを押し上げてピアノ線に触れます。必要にして十分な音が響きます。この連続こそがピアノ演奏なのです。均一な音をだすためには、鍵盤上に延ばした掌と指は、高さが常に一定でなければなりません。高さは一定にして、強音の場合は速く、弱音の場合はゆっくり、と手の平と指と腕の重さで鍵盤に触れてあげるのです。
ホロヴィッツ、コルトー、ポリーニ、アルゲリッチ、そして、遥か昔のラフマニノフの弾き方もそうでした。現代では何といっても、稀代の女流ピアニスト・カチア・ブニアテッシュビリが、その正当な弾き方をしています。しかも、極く自然で、優雅な指の運びをします。彼女はパフォーマンスなどしません。無理な動きや過度な振舞いなど一切しません。だからでしょうか、ピアノがそれを喜んで、最良の音を彼女にプレゼントするのです。日本では最近人気の辻井伸行のタッチが彼女に似ています。盲目なため、自分の指の動きなど見られないにも拘わらず、ピアノの奥義を既に体得しています。このコンクール2位の実績を持つ横山幸雄が辻井君の先生ですが、ピアノタッチの本領を盲目の彼に教え込んでいます。
日本の12人の予選通過者のうち、半数の6人の演奏は聞き終わりました。「ピアノタッチの自然さ」という点で及第した者は一人もいませんでした。ピアノ教室の優等生であった小林愛美さんは、まだ、20歳前でしょうか、弾きながら腰を浮かせる小さいころの愛らしい仕草がまだ残っていました。
それにしても、このコンペの出場者は大変です。二次、三次、と通過すれば、最後には、二つのピアノ協奏曲のうちどちらかの、オーケストラとの協演が待っています。
追記 ポーランド15人の演奏を聴き終わりました。日本と違って、男性が多いのが特長です。タッチは実に素晴らしい。それは、ショパンを弾くタッチの基本を小さいころから叩き込まれてきた結果でしょう。東洋のピアニストのほとんどは音楽教室の出身者です。ヤマハ、カワイの音楽教室は駅ごとにあります。ピアノタッチの基本をみっちり教え込む、という姿勢は音楽教室にはほとんどない、と言っていいでしょう。ピアノ演奏では後進国の韓国、中国では猶更でしょう。だから、派手なパフォーマンスが横行するのでしょう。つまり、基本が出来ていない、
昔、ショパンが使ったピアノはプレイエルのものです。陰影が伴う、かそけき音がその特徴です。小人数のサロンでの演奏会でした。だが、現代のこのコンクールで使われているピアノはスタインウエイとヤマハのものですが、いずれもフルコンサート用のものです。当時と比べると約10倍位の音量になっているのではないでしょうか。所詮、東洋人には、そこのところが理解できないのではないでしょうか。
2015年7月23日 鳥が来ない、虫がいない
練馬の現在の場所に移り住んで、かれこれ50年になります。畑や雑木林が至る所にあり、近くの小川にはタニシやメダカがいました。我が家の猫額のベランダに鳥たちの餌場を作り、ひまわりの種や、食パンや、ご飯の余りものなどを、毎日用意してあげていました。
その習慣はいまも続いているのですが、変わったのは鳥たちの御来籠が、極端に少なくなったことです。昔なら、一時の間になくなっていたものが、翌日も、翌々日にまでも残っていることが多くなりました。ヒヨドリ、ムクドリ、セキレイ、メジロ、ヤマバトなど、もう来なくなりました。やってきているのはスズメだけです。それに、時々の、ドバト。
メジロが番(つがい)で来ることがしばしばでした。彼らには特別に果物を用意しました。可愛かったですね。定期便でやって来ていたのに、ここ10年、姿を見せません。
その気になって、周囲を見回すと、鳥たちの姿が極端に少なくなっているのに気が付きます。スズメの数も減っているのです。そういえば、ごみ集荷場に群がったカラスたちはどこへ消えたのでしょう。高圧電線に大集団で留まって、夕日を浴びていたヒヨドリたちはどこへ行ってしまったのでしょう。
虫もいなくなりました。玄関の脇に大きな梨の木があって、いつも、毛虫やアブラムシにたかられて往生していたのですが、この数年、そんなこともありません。散歩に連れ出した愛犬の脚を、玄関脇の水道で洗ってやるのですが、きまって、蚊に襲われていました。いまはいつも無事です。蝶々もトンボも、芋虫も、ミミズも、姿が消えてしまっています。
極め付けはゴキブリです。これは人為的に撃退しました。黒くて、小さなボタンのようなものを、二年前に部屋の隅のあちこちに置きました。一匹たりとも見かけなくなりました。
翻って、タイの国はチェンマイの、ドッケオという森の中の一軒家に居候させてもらう時は、虫たちとの戦いになります。ハワイと同じ緯度に位置する常夏のところですから、沢山の窓はあってもガラスを入れません。防虫網を張り、目隠し用の開閉式用木枠が窓ごとありますが、室内は、一年中、夜も、昼も外気と同じ温度です。日本のような寒暖の差は無いに等しいので、居住環境は快適そのものです。
朝は無数の鳥のさえずりで起こされます。近所の農家のニワトリが、あろうことか「ナッツカザワ、サーン」と奇声を発します。ヤモリが天井に這いつくばっています。ヤスデはおろかムカデまで靴の中に潜むことがあるようです。どんなに防虫網で防御しようとも、蚊取り線香は一年中の必需品です。蚊よけのスプレーを脚や腕に毎日使います。夜は屋外の蛍光灯にあらゆる虫たちが群がります。蝶々やトンボなど、どれだけの種類がこの森に生息していることか。
人間も生物であってみれば、こういう住環境の中で生活するのが、正に、理想的といえるのではないでしょうか。ハワイでは、夕方になると涼しい風が火照った身体を撫でて行きます。「ハワイっていいなあ」と思う瞬間です。同じ緯度に位置しているのでハワイと同じ経験を、チェンマイのこの森の中の一軒家では味わうことができます。
練馬光が丘から、この地に移って10年近くになる高田さんご夫妻がおっしゃいました。「私たち夫婦は、思い切ってこの地に移り住んだのですが、もし、あのまま東京にいたらこんなに長生きはできなかったでしょうね」 と。熱心なクリスチャンである高田ご夫妻は現在86歳。気候が人間の寿命まで左右するいい例でしょう。
人間は歳を重ねるごとに、環境に順応していく能力が低下していきます。暑さ、寒さに対する抵抗力が減少していきます。あまつさえ、鳥や虫たちがいなくなったところに、惰性のままに住んでいて、果たして幸福といえるのでしょうか。鳥や虫たちと共存しながら、且つ、自分の老いを楽しみながら寿命を全うしてこそ、それこそが幸せの極みと言えるように思えてなりません。
先ず、差し当たり、日本の暑いとき、寒いときはチェンマイへ行こう、と決めました。
2015年7月22日 ピアノ
ピアノが送られてきました。はるばる、愛媛県の新居浜から瀬戸内海を渡り、約1000キロの道のりを経て、到着したのです。鳴らしてみると、昔のカワイのいい音が出ます。掘り出し物といっていいでしょう。作りも頑丈そのものです。
このピアノと、私のローランドのグランド電子ピアノと、これから仕入れる小型の電子ピアノの三台が、コンテナに収まり、海を渡り、バンコックの港に着き、税関の検査を受け、陸路チェンマイへ運ばれます。カワイのピアノは、タイの少数民族であるワシ族の女生徒たちが暮らす学校の寮へ、電子ピアノはチェンマイから300キロ離れたパイという村の、同じく少数民族であるカレン族の学校へ運ばれます。ローランドのピアノは、しばらくは、ドッケオに置いてもらって、向こうへ行ったとき、私が弾きますが、やがては、必要とされる学校へ貰われていくでしょう。
これだけのことをやるのに、これからお金がいくらかかるのか、見当もつきません。でも、「やる」と決めた以上やる積りです。私の人生の中で無償奉仕はこれが初めてです。
先月中旬、バンコックの税関へ行って、日本の中古ピアノを少数民族の学校へ寄付したい、受け入れる学校からの書状があれば、関税は掛らないとと聞いているが本当か、と問い合わせに行ったとき、「こんなことやるのはあんたが初めてだ」と言われ、数人が寄ってたかって議論していました。結果的には10%の関税が掛かるようなのですが、その価格の算定はインターネットの市場価格による、とのこと。日本の市場価格なら二束三文ですが、タイの市場となると……
これから難問が目白押しになるでしょう。暑い、暑いといっておられません。
2015年7月18日 気に入らない
時は7月16日の午後9時、自宅へ向かう筈の安倍晋三の車が、踵を返し、報道陣をまくように方向を変えると、赤坂の料亭に到着しました。
玄関に出迎えたのは、読売新聞社の幹部一同。流石に、渡辺恒雄は出迎えはしませんでした。奥座敷に集まったのは、ナベツネと現社長、中曽根康弘、それに、安倍首相と首相補佐官の計5人。
「 いやあ、ご苦労さん」乾杯の音頭はナベツネだったようです。「大変だったね、良くやった」とは中曽根康弘。
同じころ、国会周辺は、大群衆による強行採決反対、のシュプレヒコールが深夜にまで及んでいました。
同じメンバーによる秘密会談は、昨年の10月に同じ場所で行われました。「衆議院解散を12月にしたまえ。議員数は少しは落ちても、絶対多数は維持できる。安倍君よ、君の思う通りにしたまえ。読売新聞は君を応援する。それが、日本国のためになるのだ」
この半年間、読売は、確かにそのようにしてきました。社内の異論は左遷人事でによって退けられました。公器であるべき新聞が、この半年間、ナベツネの私的新聞に変容しました。読売は日本最大部数を誇っています。それに便乗したのが安倍晋三というネトウヨ人です。ネトウヨとはネット右翼でのみ祭り上げられている人物を言います。インターネットで「ネトウヨ」を真っ先に開くのが、彼の日課の始まりです。次元の違う人間なのです、安倍晋三というお坊ちゃんは。それにつけ入ったナベツネは老獪そのものと言っていいでしょう。
自分の野望をとげるために、安倍晋三を囮にしたのです。それが今回の忌まわしい図式です。
この記述には、我ながら、誇張があるなあ、と内心忸怩たるものがあります。
しかし、16日の夜、読売新聞社大幹部と、安倍晋三が赤坂の料亭で会ったというのは紛れもない事実なのは確認済みです。
2015年7月15日 受信料支払い拒否
安保法制を巡る国会中継は、悍ましいと思いながらも、その攻防をテレビで見ていました。今日の午後、政権側は質疑を打ちきり、単独採決しました。維新の党は退席したそうですが、議場は大混乱だった筈です。「蟷螂の斧もこれまで」という結末を、せめて、目で確かめようと、テレビをNHKにしましたが、いつまでたっても中継が放映されません。
何らかの圧力がかかったのでしょう。公共放送であるNHKが、自ら、公共放送であることを放棄した瞬間が今日の午後です。時の権力に屈したと言っていいでしょう。
公共放送には、政権側に不利な映像になろうとも、また、どんな圧力がかかろうとも、それを撥ね退け、事態をありのままに国民に伝える義務があります。今回、NHKはその義務を放棄したのです。
情けなくて、涙も出ません。
義憤の余り、私はNHK受信料の支払いを拒否する行動を起こすことにしました。猛省してもらいたいがためです。
追記 NHKに電話しました。かなりの時間を要しましたが担当の女性は、「高度な判断により、中継しませんでした。申し訳ありません」といいました。高度な判断を下した責任者は誰ですか? と聞いたら、それは申し上げるわけにはまいりません、抗議の電話はかかってきていますか、と聞いたら、決して少なくはありません、とのこと。ちなみに、電話が繋がるまで20分を要しました。
2015年7月14日 ギリシア劇場 第二幕
チプラス首相が晴れ晴れとした顔つきで、アテネ空港に降り立ちました。
出発時の深刻で投げやりな調子など、微塵も見られません。17時間余に及ぶ会議の内容は、恐らく、こんな内容であったでしょう。
「お前なあ 、そんなに居丈高に開き直られても、俺たちも困るんだよ。当座の資金繰りに、11兆1520億円用立ててあげるからさあ、お前の方でも23%の消費税値上げは呑みなよ。年金改革も法律で施行してくれよ」
「イイや、国民が納得しないよ。国民投票がその結果だよ」
「じゃあ、何かい、ユーロから離脱してもいいんだね。おまえん所の借金の一部を棒引きしてあげようと思っていたが、それも出来なくなるよ。ユーロを使っていたいんなら、俺たちの要求を入れてくれなきゃ、話にならないよ」
「分かったよ。国民が納得してくれるかなあ」
「納得も、クソもあるもんか。やるっきゃないんだよ!」
「金は、確実に都合つけてくれるんだね?」
「まあな。但し、法律は15日までに作れよ。それに言っとくけど、7兆円分のお前んとこの国有財産を質草に取るぜ。電力会社か、空港かはお前に任せる」
「エー、それはないよ。前より条件が悪くなったじゃないか」
「仕方ねーだろ。先月末支払の2000億円を払わなかったんだから。言っとくけど、もし、15日までに、法律が施行出来なかったら、この話、ご破算だぜ。何なら、ユーロから出て行ってもらっても構わないんだぜ」
「分かったよ。じゃー、やってみっか」
カクシテ、単純頭のチプラス首相は、晴れ晴れとした顔つきで、空港に降り立ったのでありました。
果たして、ギリシャ劇場第三幕は如何になりますか、来週のお楽しみ。
2015年7月13日 自転車通学
長野高校卒業60周年記念総会が、11日、長野市犀北館で行われました。それに合流する形で、信濃毎日の内山、日経の山崎、朝日の宮沢、中沢、それに、筑波大の芳川、池田の6人による「晴山会」のメンバーは、前日に集まり、北7会長である、善光寺大僧正若麻績君の淵の坊で宴を張らせてもらいました。宴席の料理は実に美味でありました。精進料理でありますからして、肉や魚の類や、刺激のある香辛料など、一切を排除しているにも拘わらず、よくも、こういう味が出せるものだ、と感心する以外にない料理が次から次と漆塗りの椀や小鉢で供されました。しかも、会長のご寄附による八海山の銘酒が料理に良く合い、一同、大満足でした。この時期に合わせて個展を開催中の、武蔵野美大出身の長沢君も参加しました。個展の会場には、長沢君の力作が30点ほどあって、しかも、スタインウエイのピアノを美人が演奏するという、念の入れようでした。作品のすべてが、長野の山や里山の風景であり、彼の故郷を愛する気持ちが十二分に現れていました。
翌日の午前中、レンタカーで松代へ行きました。六人乗りの車は私が運転しました。犀川を渡り、千曲川を越えた先に位置する松代は、真田藩の城下町です。宮沢君や山崎君はここから長野高校へ毎日自転車で通いました。市内まで約8キロ、学校までは12キロぐらいでしょうか。雨の日も風の日も、通ったのです。場所は違うけれど、芳川君も内山君も自転車通学でした。朝、6時半ごろ家を出たそうです。私と池田君は市内居住だったので、そういう辛さは経験していません。つまり、足腰の強さでは二人は四人に劣っているでしょう。
78、9歳まで生きて来れた原因の一つは、若いときの自転車通学にあったのではないでしょうか。
真田城跡に登ると、善光寺平が一望で出来ます。目の前に飯縄、黒姫。その左隣が戸隠連山。、続いて、雪を頂いた白馬連峰、唐松、五竜 鹿島槍。この日は穂高、乗鞍まで見えました。一行は、佐久間象山神社、藩校跡は素通りして、山奥の地震観測所に向かいます。岩山を刳り貫いた地下壕の奥に、万一の時のための天皇陛下の御座所が有るとのことです。生憎、途中までしか入れませんでした。宮沢君の案内で、長野名物「おやき」の美味しい店へ行きました。隣りのスーパーに丸ナスがありました。一個98円。10個買いました。古戦場跡の売店でハタンキョウを買いました。今朝の味噌汁はその丸ナスと豆腐です。まだ、7個、残っています。
1時半、旧友76人が淵の坊に集まりました。揃ったところで、向かいの大本願に向かいます。大本願の管主は尼僧です。混声のお経が伽藍一杯に響きます。104人の物故者の名前が読みあげられました。10人余りの未亡人の顔もありました。卒業したのは確か340人前後でしたから、まだ、230人ほど生存していることになります。何故か、長野県の男女の生存率は日本一だそうです。われわれ「晴山会」の6人は、それぞれ、何らかの病気と共にあるのですが、そこはそれ、自転車通学で足腰を鍛えてきているのですから、残り100人に中に、きっと、入れるでしょう。私も、自転車通学したかったなあ。
この3,4年、会の終わりに歌われる応援歌と校歌のピアノ伴奏を、私がしてきました。ピアノは調律付で借り料が35000円。今回は会報の特別版に金がかかるため、ピアノは入れない、と聞かされていました。無断で犀北館へ電話しました。調律はいらない、まけてくれ、と頼みました。支配人から、今回はお祝いだから無料にしましょう、という回答がありました。幹事さんたちも無料ならお願いするという返事がありました。お蔭で、国立音大の有賀君の伴奏で、医師の桑原君がカンツオーネを披露しました。美声でした。
私の伴奏による全員の歌声は、犀北館館内に響き渡りました。
2015年7月7日 ギリシャの選択
5日のギリシャの国民投票は、私も予想したように、「EUの勧告案無視」となりました。投票率は62,5%で、反対61,31%、賛成38,69%でした。つまり、6:4で、チプラス首相の奇策が、一応、勝利したことになります。
しかし、届かなかったとはいえ、ギリシャ国民の4割が現状を憂い、厳しいけれどEUからの勧告案を受け入れるべきだ、と判断していることが、明るみに出ました。
今年一月、首相になったチプラス首相は、失礼ながら、顔つきが、沖縄出身の芸人ゴリ君に似ています。目が笑ってない点、ソックリです。でも、ゴリ君の最近は、いい仕事をしていて、穏やかないい顔をするようになりました。 チプラス首相はどうか? ダメな顔ですね。それはつまり、彼がポピュリストだからでしょう。
ポピュリズムとは何か?、それは情緒的大衆扇動民主主義のことを言います。民主主義は古代ギリシャで生まれましたが、それを、悪用したのが今回の選挙であることは明白でしょう。 1100万人の国民には重すぎる40兆円という借金を、返す当てもなく、更に他国からの救済を当然とする、開き直ったこのポピュリストの政治は、早晩、国の破滅を引き起こすに違いありません。
貸している方が辟易するぐらい、借りている方が威張っていていいものでしょうか? 「金は返せないが、ユーロ圏に留まり、ユーロを使っていたい。追い金をくれなければ重大な結果になりますよ。そうなって困るのはあなたたちではないですか?」 とこの選挙は、理不尽な道理をユーロ圏を問わず、世界経済に突き付けたのです。
日本はどうでしょう? 1億2000万人の借金は1030兆円になっています。一人当たり850万円の借金です。ただ、日本はギリシャと違って国民の預金残高が1000兆円を遥かに超えています。だからといって、このままで良い筈はありません。
安倍政権は、国の借金を減らす政策を打つ、といいながら、借金を膨らまし続けているのが現状です。しかも、国民大多数の反対を押し切って、日本を戦争の出来る国にしようとしています。安倍晋三は、チプラス首相以下です。
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