2013年2月27日           新聞普及率3%

 朝日新聞の普及率が全国で最も悪い県、それは富山県です。現在11,000部しかありません。北日本新聞223,000、読売新聞96,000.北国新聞42,000、北陸中日33、000あるのにです。普及率は僅かに3%。全国最低です。何故、そうなのか?部数は増やそうとすれば、増えるのか?

 富山県はもともと大阪本社の管轄でした。それが、私が販売6部長のときに東京本社所管となりました。東北6県、信越に富山が加わったのです。時の販売担当役員から一億五千万の予算を貰いました。当時13、000の部数を18,000にしろ、といういうのです。24店の従業員に毛が生えた程度の専売店主を叱咤激励し、宣伝部では富山出身のプロゴルファー森口祐子を使うなど、総力戦を展開しました。部数は確かに18、000まで伸びました。でも、一年後には元の13,000に戻ってしまいました。そして、いまは11,000です。何故か?どんなに紙面が良くても、どんなにサービスが良くても、よしんば、どんな大型拡材を使っても、新聞は増えるものではありません。

 原因は折込広告にありました。毎日の朝刊に挟まれて入ってくるチラシです。北日本新聞には毎日二十数枚入っています、読売新聞には十五、六枚入っています。朝日新聞ときたら多いときで五枚です。一般に家庭の主婦は、どんなに優秀な新聞でも、折込広告の少ない新聞を継続的にとりたがりません。

 それに気づいた私は、北日本新聞の販売局長と部長を富山の料亭に呼んで、当方も販売局長のお出ましを願って、ある取引を持ちかけました。折込広告会社の相互乗り入れです。長野県でも信濃毎日新聞とそれをやりました。この取引が今も継続しているかどうか?そこまでの責任はもう持たなくていいでしょう。ただ、その晩初めて氷見の寒ブリのしゃぶしゃぶを食べました。北日本の販売部長が気を回してくれていたのでした。その味が忘れられなくて、氷見へ出かけることになったのです。 

 


2013年2月26日            氷見の寒ブリ

 富山県は能登半島、氷見へ行って、旬の寒ブリを食べてみたい、とは予てより思っていました。それが実現したのです。羽田から小松へ飛んだのでは味がないので、北陸線周りにしました。雪の新潟や荒れ狂う日本海を見たかったのです。

 「トンネルを抜ける」とそこはやっぱり雪国でした。湯沢、中里、六日町…3メートル近い雪です。初めて乗る「ほくほく線」はトンネルだらけですが、懐かしい十日町、松代、松の山を突き抜けて犀潟から北陸本線へ入りました。途端に雪が無くなります。糸魚川も、魚津も、富山も、高岡も、殆ど積雪がありません。日本海も至って穏やかです。「なーんだ」と拍子抜けしてしまいました。高岡で降り、ジーゼルカーで30分、終点の氷見は生まれて初めての場所です。浜を走る送迎バスから富山湾越しに、冠雪した北アルプスの全貌が見えました。「あとは歩いてゆくから」とバスを降ろしてもらい、氷見の浜辺から夕日に映える北アルプスの雄姿を飽かず眺めました。立山、別山、剣岳、を中心に、左手は白馬三山から、右手は乗鞍辺りまで見えるのです。圧巻でした。

 「元禄」という船宿兼民宿に仲間7人が集まりました。二十数年前に、新聞事情視察団として新聞協会からアメリカへ派遣されたICMAのメンバーたちです。前回の同窓会の折、たまたま読売新聞の三角さんの出身が高岡と聞いていたので、「氷見の寒ブリ食べたいなあ、次回は氷見でどうだろうか」私が提案したら、「うん、やろう、やろう」となって三角幹事による今回の設営となったのです。ただし、民宿につき、全員雑魚寝でした。たまたま、自分としては体調の悪さが続いていたのですが、言い出しっぺでしたから、欠席するわけにはいきませんでした。

 氷見の寒ブリは7,8キロのもので一万二千円、10キロを超えると二万五千円します。翌朝、浜の市場で確認しました。その、刺身が出てきました。ぶり大根が出ました。次はブリシャブです。最後はブリの握りずしです。翌日、市場で捌かれつつある寒ブリの切り身を何種類か買い、発砲スチロールに入れて持ち帰り、二日連続で刺身を堪能いたしました。

 ブリは関東ではワカシ、イナダ、ワラサ、ハマチ、とその成長の大きさによって名前を変えます。80センチを超えて始めてブリと呼ばれるようです。養殖が殆どで、昔のハマチは餌の油粕の匂いがしました。今は養殖の技術が進んで、外洋と変わらぬ条件を魚に与えていると聞き及びます。密かに掴んだ情報によると、氷見の寒ブリといえども、広大な定置網の中に飼われている、疑似養殖であるらしいことを突き止めました。市場の安定性を保つための知恵の結晶とのことでした。「なーんだ」とこれも拍子抜けでしたが、氷見の寒ブリの味は流石でした。奥深く滋味があります。やはり、鮮度が問題で、どんなに冷凍保存しても半日経つと極端に味が変わってしまいます。カツオと同じ、青魚特有の鮮度の落ち方です。それをしみじみ知った旅でした。

 


2013年2月11日             公徳心の欠如

 中国大陸上空の空気汚染が極端に進んでいて、その有毒物が黄砂と共に日本列島に飛来するという有り難くないニュースが飛び交っています。この問題については、何度もこのホームページで取り上げています。今度は北京市で、毎日21本のタバコを吸わされているほど、空気が汚れ、深刻な健康被害が起きているという情報です。中国は、公害問題が抜きさしならぬ状態になっているのに、日本がやったような排気ガス規制に取り組めないでいます。何故か。私はその原因は、中国民族が持っている公徳心の欠如にありと見ます。自分の利益のためなら何でもするが、他人のことなどどうでもよい、という精神風土が底流にあるように思えてなりません。孔子や孟子の時代にあった〈仁義礼智〉は、共産党一党支配になってからは、影を顰めてしまいました。富国強兵の論理は全人格教育とは明らかに矛盾します。一党支配の欠点の一つは、人間教育をなおざりにしたままの、利益追求一辺倒の、自分さえよければ人はどうでもよい式の教育の蔓延にあり、と思われてなりません。

 ミャンマーでいま、中国人企業による大問題が発生しています。ヤンゴンから数百キロほど離れたラパタウンというところに、中国企業による銅の採掘と製錬工場があります。十数年に亘って、黄色い煙を毎日出しています。最初は気が付かなかった住民も、自分や、自分の子供たちに健康被害が出始めて、その危険性に気づきます。住民の抗議と座り込みが始まります。採掘のため土地を取り上げられたワットの坊さんも、数百人座り込みに参加します。ミャンマーの国会では、中国企業から軍の要人への莫大な賄賂の存在が明らかになります。一方、中国企業側は臆面もなく、黄色い煙は何の問題も無いと声明を出します。国営テレビまでもが期限付きの座り込み禁止の放送を流します。だが、住民も坊さんも、一人も座り込みを止めません。国営放送の予告通り、軍によって群衆に火薬が投げ込まれ、数人の死者、大量の負傷者が出ます。

 これは、日本に大昔あった足尾銅山事件そのものです。銅の製錬に付随して起きる猛毒ガスの存在は世界の常識です。にも拘らず、発生する煙や汚水は無害であると、臆面もなく発表する中国企業。利益のためならタイ人の健康などどうでもよい、と言わんばかりの中国人の姿勢。一党支配の教育制度の欠点がここに露呈している、と言っていいのではないでしょうか?

 アウンサン・スーチーさんが乗り出しました。住民全員の前で「この問題は私が解決します」 と言い切り、喝采を浴びました。私もスーチーさんに解決してもらいたいと思います。が、出来ないでしょう。純朴そのもののミャンマー人が、したたかな中国人を相手に勝てる道理はありません。

 ヤンゴンにある「ボイス」という新聞が、この問題に真剣に取り組んでいます。朝日新聞からの何らかのエールを送ることを、いま考え中です。
 

 


2013年2月1日            11日間の天国

 海外旅行は私にとって天国と同じです。期待と不安に苛まれながら、未知の国で過ごす時間ほど楽しいものはありません。今回はミヤンマー(昔のビルマ)を選びました。竹山道雄の名作〈ビルマの竪琴〉は、私の子供のころからの愛読書です。オレンジ色の僧服を身に纏い、竪琴を奏で、オウムを肩にとまらせ、山野に散った日本兵の亡きがらを弔い歩き、「おーい、水島、一緒に日本へ帰ろう」という戦友の言葉を跳ね返し、一人ビルマに残った水島上等兵に会いに行きたかったのです。出来れば、マンダレー、インパールまで行って戦死者に祈りを捧げたかったのです。ミャンマーへ行くのは半世紀に亘る私の夢の実現です。

 18日10:45分、タイ航空機でバンコック、チェンマイに向かって、一人旅立ちました。ミャンマーの首都ヤンゴンへはチェンマイから入ります。今回は右側窓際の席が取れましたので、琉球列島や台湾など、くっきりと見ることができました。香港島をはるかに見ながらベトナムから大陸上空です。やがてカンボジヤ、そしてタイのスワンナブーム空港。国内線に乗り換えてチェンマイまでは一時間のフライトです。

 

  ー壮大な夕日ー

 現地時間17時30分のジャンボジエットが、一万メートル上空に達したとき、壮大な夕日に遭遇しました。バンコックから北上したところにチェンマイがあるので、左手直角に今にも雲海の地平線に沈んでゆく夕日がありました。雲海はすでに朱に染まっています。輝く太陽が雲海に接した瞬間、光は黄緑に変化しました。続いて淡いオレンジ色になりました。太陽の中がドロドロに滾っているのが分かります。半分ほど沈むとまた色が変化しました。濃い目のレッドです。太陽の近くに浮かんでいる二筋、三筋の千切れ雲も鮮やかな赤になりました。すっぽりと太陽が隠れた途端、青い空も朱に染まりました。地平線全部が真っ赤です。やがて雲海は闇に閉ざされ始めました。雲間からチェンマイの街明かりが見え隠れします。高度を落とすにつれ、城壁都市らしい整然とした明かりの行列が迫ってきます。そしてドスン。着陸です。

 

  ーチェンマイというところー

 プラザホテルでのバイキング朝食を摂った後、散歩に出ました。快晴の青空、気温は恐らく26、7度でしょう。眩い熱帯性植物の緑が目に沁みます。寒気の只中の日本と何たる違いでしょう。快適そのものです。聞けばチェンマイは、乾季と雨季はあっても一年中こんなもの、とのことです。そこで調べてみました。チェンマイは常夏の国ハワイと同じ緯度線上に位置していました。北緯18度です。その上、海沿いのバンコック、ヤンゴンとは違ってかなりの高地にあるため、タイ国の軽井沢に相当します。チエンマイの山沿いにはプミポン国王一家の離宮もあります。チェンマイが世界的に見て、人気の都市になっている原因の一つがこのマイルドな気候にあるといっていいでしょう。日本からの高齢者の定住が多いのも、この都市の特徴です。気候が良く、物価が廉く、中国のような悪い対日感情もないここチェンマイは、高齢者にとっては地上の楽園のよなものです。一方、金が目当ての若い女性たちが独身高齢者に群がります。マッサージ店と称する派手な女性たちが屯している店が、ホテルの周りに数多くあります。別に日本人とは限りませんが、一目でそれと分かるカップルが手をつないで歩いていたり、朝食バイキングに現れたりします。チェンマイに定住する日本人社会では、心無い日本人の不作法ぶりが絶えず話題となり、顰蹙を買っているのも事実です。私の知り合いのSさん、Sさんを通してお知り合いになれたTさんご夫妻、Mさんご夫妻は皆、チェンマイの日本人教会に属する熱烈なクリスチャンたちですが、日本人高齢者の不作法な振る舞いには腹を据えかねていました。心すべきことです。

 

   −寺と民衆ー

 ホテルを出ると大きなお寺があって、何やら大音響でお経が読まれています。人の出入りにも只ならぬものがあります。タイのお爺ちゃんや、お婆あちゃんゃんたちが、白あるいは黒の喪服姿で右往左往しています。境内の一角には祭壇があり、一人の僧侶の座像があって、花や供物がところ狭しと飾られています。その奥には大きなテントが張られていて300人を超える人々が経典を誦していました。人々と対峙するように、オレンジ色の僧が上位者から子供の僧までが、約50人並び、その前には一人ひとりに供物が供えられていました。引き出物といったところでしょうか。聞けばこの寺の開祖に当たる高僧の命日なのでありました。テント内の300人の民衆は檀家代表といったところでしょうか。広大な敷地内にはもう一つテント張りの一角があって、おびただしい食べ物が山と積まれています。パック入りの弁当、大きな釜に入ったタイカレーのようなもの、そして山のような白飯。お菓子、果物、ETC。小さなミカンが5,6個袋に入った一件を買おうとしました。お金はいらないというのです。フリーだというのです。ここにあるすべての食べ物はフリーだというのです。タダなのです。つまり喜捨です。

 感動しました。翻って、こういうことをやっている仏教寺院が日本にあるだろうか、と思いました。例えば長野の善光寺。私の同級生は善光寺の管主の次に偉い、いわば、NO2なのですが、今度、彼に会ったら聞いてみようと思います。檀家、民衆総出で創設者の記念日を祝い、しかも、集まる者に食べ物をただで食わせるところがあるか、と。

 京都の観光寺の住職たちが、有り余る拝観料を祇園で使っている、正に反対のことがここチェンマイの仏教寺院にはあるのです。仏教が深く一般民衆の生活に根付いているからでしょうか。生活と共にあってこその宗教だと私は思っています。だから、ここでは仏教が息づいているのです。

 タイでは初めて人と会ったり、別れたりするとき、〈コップンカ〉と言って両手を合わせます。仏性同志の確認として根付いた風習なのでしょうが、なんとも奥ゆかしく、私は好きです。

 

  ープロペラ機でヤンゴンへー

  ミャンマーの首都ヤンゴンとチェンマイ間の便は、木曜日と日曜日の往復2便だけです。日本のHISでは予約できなかったので、Sさんに頼んで地元の旅行社で取ってもらいました。飛行時間は40分足らずなのに料金は9000バーツ(約3万円)とえらく高い。空港へ来てみて驚きました。なんと、プロペラ機に乗ることになっているのです。航空会社はミヤンマーの「イヤーン、バカン」です。本名は「AIR BAGAN」というのですが、回っているプロペラの排気ガスの熱風を浴びながら、この小さな飛行機に乗り込むときは、本当に「イヤーン、バカーン」と言いたくなりました。調べてみたらこの「バガン」航空は国内専用で外国便はチェンマイだけ、100人乗り、80人乗り、60人乗りのプロペラフォッカー機のみを所有していて、運賃は高く、外国人には極めて高く、経営者の大ボスは利権にしがみつき、大金持ちであるとのこと。ミャンマーの空が世界の趨勢には程遠いことが分かりました。

 機内で2人のCAが軽食を配り、慌ただしく後片づけをする間もなく、プロペラ機は雑草が生い茂るヤンゴン空港に着陸しました。気流が安定していたせいか、一度の揺れもない40分でした。まず、100ドルを現地通貨に替え、免税店で買い物をしながら売り子のお姉ちゃんたちから、片言の英語で情報を引き出します。予約してあるクローバーホテルまで、タクシーで約40分ですが720円見当で行けることが分かりました。現地値段から0を一つ取り、9を掛けると日本円の値段、それを9で割るとドルでの値段になることを、素早く計算します。

 湿気があって、チェンマイより幾分暑い二車線道路を、渋滞に遭いながらタクシーは日本大使館裏にあるホテルに向って進みます。道路には街路灯がありません。ネオン看板もありません。都市としての輝きがありません。薄暗い街だと思いました。ところがどっこい。朝起きてびっくりです。緑の中に街がありました。緑、緑、緑の輝きの中に街がありました。クローバーホテルはビジネスホテルの域を出ない新築間もないだけが取り柄のホテルでしたが、緑に囲まれていました。簡易舗装だけのホテル前の道路際に夜にはなかった小さなテーブルと腰掛が並んでいます。良く見ていると人が来て食事です。6階から降りて道路に沿って歩いてみました。朝市でした。ロンジン姿で肌の浅黒い小母さんたちたちがつつましやかな自分の店を道路脇に開店しています。すでに発酵が終わって腐臭と思われる臭いを発している魚の干物が売られています。道端は掃除などしないためか、不潔です。その中での商いです。チェンマイでも道路際や空き地はゴミだらけですが、ヤンゴンほどではありません。20円で丸く大きなアボガドを2つ買いました。少なくとも中身は不潔さから逃れているでしょう。

 

 ーヤンゴンのタクシー

 チェンマイの旅行社で、ヤンゴンには観光コースなどないから、ガイドを雇った方がいい、と聞いていたので、到着時にホテルに頼んでおきました。8時半に、カリヤさんという池袋に6年住んだことがあるというママさんガイドと、一時間520円契約のタクシーが来てくれました。カリヤさんは一日35ドルの条件です。タクシー料金が、日本に比べてベラボーに安いのに呆れます。ちなみに、世界の都市の料金を比較してみましょう。

  1000円でどれだけ走れるか

  バンコック 60.39キロ、 上海 38.41キロ、 ソウル20.15キロ、 台北 18.42キロ 

  ニューヨーク 9.51キロ、 パリ 8.95キロ、 東京 2.89キロ

 そしてヤンゴンでは、1000円で約二時間走ってくれます。一時間40キロとしても80キロです。どうです?ヤンゴンのタクシーは世界一安いのではないでしょうか? それに比べて日本のタクシーは? 外国人は乗れません。収入の少ない若い人も乗れません。日本は何かが狂っているのです。 

 

  ーグロテスクー

 そのワット(お寺のこと)に素足で入ると、奈良の大仏が寝転んでいました。蘆舎那仏さまと違うところは、顔一面が白粉、赤い唇、両眼はパッチリでアイシャドウ、おまけに付まつ毛。何でも大金持ちの喜捨によるものとか。グロテスク以外の何物でもありません。でも、柱の陰やあちこちで、ロンジン姿の老若男女が敬虔な祈りを捧げているのです。人間が没我の状態にあるとき、そこには美すら漂います。

 

 −スーチさんのお宅ー

 いま、世界的な脚光を浴びているアウンサン・スーチーさんのお宅の前で車から降り、64歳になる彼女が出入りしている門前で彼女の痕跡を捜しました。ありました。コンクリートの塀に沿って植えられている南国の樹木や草花の設えに女性の細やかさが感じられました。一年ほど前に解放され、補欠選挙で返り咲きはしたものの、まだ、少数野党とのことです。前途は多難でしょう。運転手君はスーチーさんの携帯写真を大事そうに見せてくれました。ガイドのカリヤさんも、軍部独裁のころより、いまがどれほど良いか、勢い込んで話してくれました。

 

 ー連合軍墓地公園ー

  緑に埋まった広大な敷地のミャンマー大学を垣間見ながら、車は北上し続けます。1時間以上走ったところに目指す墓地公園はありました。日本兵士が眠る墓地へどうしても行きたい、とカリヤさんに言っておいたのです。日本兵士の墓地はインパールやラングーンなど国内に4箇所あるが、ここもそうだというのです。平で四角の墓誌名が整然と並んでいます。墓と墓の間には思い思いの花が咲き乱れています。日本人のもある、とカリヤさんは言うのですが、そこは明らかにイギリスを中心とする連合軍の墓地でした。しかし、墓地の中心まで歩いて行って、祭壇に祈りを捧げました。死者に敵も味方もありません。

 

 ーヤンゴン最大のワットー

 翌日もカリヤさんに来てもらいました。カリヤさんは純然たる日本人兵士だけの墓地の所在を調べてきてくれていました。ヤンゴン駅から汽車に乗って郊外へ行きたいという希望も伝えてありました。汽車に乗り途中からタクシーに乗り次げば行けることも分かりました。朝一番はヤンゴンで一番大きい金ぴかのワットです。ホテルのレストランから、朝日や夕日に照らされて輝く金ぴかのワットが眺められ、好奇心がそそられていました。小高い丘の上にあり、東京ドームほどの大きさです。東西南北に出入り口があり、早くも大賑わいです。大小さまざまな金ぴかの仏像が並び、一つ一つが庶民の信仰の対象であるようでした。鬼がいました。悪霊を払うのだそうです。その肢体は男性的です。ご婦人方の信仰の対象であるとか。寺の四隅で聳えている菩提樹の大きさには呆れました。樹齢千年は超えているでしょう。

 

  ーヤンゴンの山手線ー

  タクシーでワットの丘を下ると、そこはダウンタウンで、ヤンゴンステーションがありました。色あせた廃墟のような駅舎です。窓はあってもガラスがありません。車線は六つほどありますが、日本と同じ狭軌の線路のほとんどは錆びついています。駅舎に入るための僅かな入場料を払い、ホームの中の古ぼけた事務所で切符を買います。三人いた駅員にカリヤさんがチップを渡したのには驚きました。鉄道地図は無いかと聞いたら執務机のビニールの下にあった手書きの駅名地図をくれました。チップの威力でしょうか。乗車する列車が入ってきました。よれよれののジーゼルカーに牽引された、これまたボロボロの6両の客車です。申し訳にガラスのない窓がそれぞありました。前後に出入り口があっても扉がありません。木製のベンチが窓際にあって、乗客は向き合って座ります。私たちは一つの車両の綱の張られた前に案内されました。粗末な制服を着た二名の警察官と隣り合わせになりました。外国人の安全のためだそうです。向かいの席には台湾から来た老夫婦が座りました。

 列車は何の合図もなしに発車しました。発車したはいいけれど、列車は時速20キロのままです。クラッチを踏まずに走る車の速度がほぼ20キロですが、それと同じです。揺れます。ポイントがあると、脱線するのでは?と心配になるほど車内が浪打ちます。とうとう、20キロ速度のまま次の駅に着きました。駅員に貰った地図と、駅舎の一隅の売店で買った地図とを照らし合わせると、列車はこのまま北上し、エアーポートあたりから楕円軌道を描いて一回りするようでした。駅は40余り、時間は二時間を超えるとのこと。これがヤンゴンの山手線であり一般庶民の足でした。貧しい市民のために運賃は上げられず、設備も更新できず、故障や事故が頻繁にあってもヤンゴン市はどうすることも出来ず、世界に冠たるオンボロ、ボロボロ鉄道のままでいるとのことでした。それはそれとしても、更に驚いたのは、鉄道敷地内が庶民のゴミ捨て場になっていることです。50年前のゴミが放置されたままです。大陸の人間の公共施設の汚れに対する鈍感さ、無関心さは、島国の日本人には理解を超えるものがあります。

 車内には大きな荷物を抱えて乗り込む人もいれば、ざる一杯のミカンを売り歩く者もいる。竪琴をかき鳴らして歌を歌って物乞いする盲目の老人もそれに加わる。いやはや、大陸は凄い、と感動しました。

 仮に、日本が交通インフラ整備を長期借款で引き受けても、運賃を上げることは恐らくできないでしょう。何しろ、これといった収入のない庶民には支払い能力がありません。では、どうすればいいのか?考えこんでしまいました。カリヤさんによると、市内郊外には、広大な敷地に工場団地を建設するミャンマーと日本との契約がすでにできているとか。何せ、ヤンゴンの街を走っている車の90%は全て日本車、という日本にとってはありがたい都市であります。

 

 ー鎮魂の祈りー

 それはありました。列車を降り、流しのタクシーを拾うとそこへ連れて行ってくれました。日本人墓地でした。見慣れた墓たちの中に一際大きな石組があって、〈鎮魂〉と刻まれていました。旧ビルマでは日本兵12万人余が第二次大戦で戦死し、今なお、4万人余の遺骨が山野に放置されたまま、と言われます。インパール作戦で敗れ、国境を越えてタイへ逃れ、そこで力尽きた兵士たちも2万を超えるとか。昭和12年生まれの私は、4歳のときに「大東亜戦争開戦」の報をラジオで聞き、8歳のときに疎開先の長野で玉音放送を聞きました。もし、10年早く生まれていたら私が彼らであったかもしれないのです。彼らは私の替りに死んでくれたのです。私が享受している現在の平和は、彼らのおびただしい屍の上に成り立ったものなのです。どうして、感謝せずにおられましょう。どうして、彼らの魂の安からんことを願わずにおられましょう。

 「オーイ、ミズシマ、ニッポンヘカエロウ!」竹山道雄の「ビルマ竪琴」は、例えフィクションであっても、異国で散った数多くの同胞の魂の存在はフィクションではありません。戦争の過酷さを僅かながら知る、最後の世代の一人として、心の底からの祈りを捧げました。

 

 ーバスに乗るー

 汽車に乗ったからには、今度はバスです。発着所周辺の部落はお祭り広場みたいに賑わっています。露店も出ていて新鮮な果物や野菜を売っています。北国と違って南国では植生が豊富です。何をしなくても食うだけには困りません。暑いから衣服もロンジンだけでいいのでしょう。ハダシで歩いているのは、黄色い僧服を纏った僧侶ばかりとは限りません。革靴を履いているのは、二、三百人の人混みの中で私一人だけなのに気が付きました。まして、上着をつけている者なぞ……。その大らかさがタイでもミャンマーでも国の発展を阻害しているのでしょうが、翻って、発展したからといってそれが何なのでしょう?人間の幸福が高い文化生活にあるなぞとは誰がきめたのでしょう。何物にも煩わされない心の幸福こそが真に願わしいものとするなら、ここの人たちは充分にその中にいます。

 私たちが乗ったバスは、二人掛け座席で日本のものと変わりはありませんでしたが、札束を直に握った車掌がいて定員以上乗せません。停留場ごとに、運転手君がマイクでがなり立てます。一方、出口まで人が鈴なりのバスもあります。庶民の移動手段はオンボロ山手線とこの二種類のバスと乗用車に限られているように見受けました。驚いたことにバイクは禁止されていました。ソンテウやトクトクなどの三輪車が我が物顔で走るバンコックやチェンマイとえらい違いです。何故、バイクはダメなのか?疑問に思いながらもカリヤさんから聞き漏らしてしまいました。

 

ーアウンサン・マーケットー

 昨日は休日だったアウンサン・マーケットへ行きました。宝石やアクセサリーを扱う店が100店余り、衣料品、日用品、食料品などなど、巨大なマーケットです。営業時間は9時から6時まで。ヤンゴンのほとんどの商店は6時というと店仕舞しています。自分の時間を大事にするのでしょうか。ミャンマーと言えば、宝石のルビーを産出するので有名です。ウインドウショッピングをしましたが、本物だ、という小指の爪位のルビーに4900ドルの値が付いていました。約45万円です。確かに奥深い真紅の輝きを放っていましたが、本物だという公認機関の鑑定書が付いているわけではありません。いまの世では、全ての宝石が人工で作れるそうです。サファイヤなどはバングラデッシュで大量に作られています。ある種の鉱石を処理して高電圧をかけると、たちどころにサファイアが出来るとか。中国製ルビーがミャンマー国境近くのタイの街で売られていました。バンコックやチェンマイのいいところは、カードでの支払いがほとんどの店でできることです。ヤンゴンでカード支払いの出来る店は一軒もありません。ホテルもそうです。通用するのは自国通貨とドルだけでした。今回の旅に当たり、所持金の半分をドルにしてきたのは正解だったのですが、とても、「本物と思われるルビー」を買えるほどの残額がありません。

 一月二日の家族新年会で、2人の嫁さんに「ミャンマーへ行ったら、日頃の苦労に報いるため本物のルビーを買ってきてやる。お前たちも一万円ずつ出しなさい」と大見得を切ったのはiいいけれど、長男から「本物のルビーが5万や10万で買えるわけないよ」と揶揄されました。全く、長男の言う通りでした。でも、ミャンマーを訪れる機会はこれからも作るので、次回こそ、嫁さんたちに、小さくてもいいから本物の粒を買ってきたいと思います。 

 

ー ロンジン姿で夜の街を歩くー

 ルビーの代りに買ったのがロンジンです。ミャンマーの男女が着けている腰巻のようなもの、あれです。500円で上等なものが買えました。付け方が分かりません。ホテルへ戻り、幸い7階の、レストランには4人のウエイターさんしかいなかったので、6階の部屋でその一件を身に纏い、結び方を教わりにいきました。すでに顔見知りにはなっていたのですが、4人のウエイターさんたちは私の恰好を見て笑い転げました。寄ってたかって正当な結び方を教えてくれようとします。下腹付近にキッチリと結び目が出来ると、ミャンマー人になったような気がしました。そうなると歩いてみたくてたまりません。サンダルを借りて夜の街に出ました。昼は暑くても夜はヒンヤリします。その冷気から身体を守るロンジンとは、真にいいものだなあ、と感心しました。自分はもしかすると、日本人になる前はビルマ人だったかもしれない、と思えてなりませんでした。 

 

 ー理想的食生活ー

 そう思うようになるもう一つの訳は、タイやミャンマーでの食事が美味しいからです。肉は何の理由でか、牛肉にいいものがありません。奇妙なことに酪農が発達していません。牛を神聖視するインドが近いせいもあるのでしょう。鶏肉、豚肉、そしてミャンマーではとりわけ鴨の肉、肉はそれだけです。それもあってか、両国で、デブを見掛けたことがありません。肉を貪り食い、ただ甘いだけの菓子をタラフク食べるアメリカ人。アルコールが入らないと食事にならないヨーロッパ人。タイでもミャンマーでも、肉だけを腹一杯なんていう料理はありません。食後のお菓子といえば、小さな餅菓子の類のみで、まして、食事の際のアルコールなどはご法度同然です。タイやミャンマーでの食事の主役は野菜と果物であります。そして、脇役はその料理の味を引き出すおびただしい種類の香辛料です。それがこちらの料理です。しかも、香辛料を薬膳と捉えているらしく、ふんだんに使うので、複雑怪奇な味がかもし出されます。それが、味覚人を自負する私をして、心から「旨いなあ」と思わせるのです。極め付けはチェンマイのニマンヘミンでSさんに案内してもらった、ある種の葉っぱが殆どと言ってよい焼き飯でした。ヤンゴンではカリヤさんに案内してもらったヌードルです。滋味、これに極まれりと言える、澄んだ肉汁に細めのビーフンが入り、チヤンツアイなどのが薬草がフンダンに入っていました。人気店の一つとのことです。私は料理の味の決め手は原材料の新鮮さに加えて、香辛料の使い方にあり、と思っています。どんな料理であろうと「万能王ジャン」や「X王ジャン」で画一的に調理してしまう中華料理にはいささか食傷気味であります。大好きな市場巡りを両国でしましたが、山と積まれている香辛料を、どんな料理に、どう使えば、どうなるのか、サッパリ分らないのが情けないやら悔しいやらでした。両国の薬膳に近い料理を、長期間滞在して習おうか、なんて真剣に考え始めたところです。

 

 −ぴんぴんころりー

 ミャンマーに五日間いて 再び「イヤンーバカン」のプロペラ機でチェンマイに戻りました。チェンマイが文化都市に見えるから不思議です。ロータスというホテルでしたが、夕方からホールでジャズ演奏が始まります。地下通路には屋台が店を出していて40バーツ(120円)で一食がまかなえます。ホテルも朝めし付で約4000円です。ヤンゴンのホテルはビジネスなのに115ドルでした。えらい違いです。チェンマイはホテルが多く、デラックスルームが朝食付きで一か月間36000バーツ(約10万円)というセールをやっていました。コンドミニアムなら一日1000円でその日から暮らせます。設備が整っているのです。ただし、一か月単位の契約です。

 私は、日本という国には四季があって、世界中でこれほど気候の良いところはない、と思っていました。ところが、加齢とともに冬の寒さがこたえるようになりました。加えて2,3,4月は忌まわしい花粉の季節です。南半球のオーストラリアに三男が留学している頃、花粉の無いメルボルンにセカンドハウスを買おうとしたことがありました。その当時、1000万程度で一軒が買えました。往復24時間かかります。買わなくて良かった、と思っています。チェンマイはハワイとほぼ同じ距離です。寒い時期や花粉の季節はチエンマイで長期滞在できたら私の生活はどうなるでしょう? 今年76歳になった私は、よく生きてあと10年。所持品の整理を始めるなど、店仕舞を意識的に始めています。どこで、どういう風に死を迎えるのか?少くともかかりつけではありますが、東京女子医大の集中治療室だけは御免こうむりたい。旅の途中で「ぴんぴんころり」と逝きたいなあ、と願っています。試みに、今度は一か月間、チェンマイに住んでみてその可能性を模索しよう、と思います。

 

 ータイ王室の離宮ー

 チェンマイの山奥に桜が咲いていて、お花見が出来るというのです。そこへ行く途中にはプミポン国王の離宮があって、カートに乗って園内が見られるというのです。旅行社にガイド運転手を頼みました。トヨタの乗用車でホテルにやってきた運転手君は、年配者で日本語は話せるものの、杖をついています。「こりゃ、困った」と思いましたが、杖の原因は交通事故で、脳の機能ではないとのこと。実際、悪路の運転でそれを実証してくれました。山道を標高1400メートル登ったところに、瀟洒な離宮がありました。広大な屋敷のほとんどは花壇です。何十種類もの薔薇が咲き乱れています。春夏秋冬の花がいっぺんに咲いている感じです。噴水庭園もありました。国王の庭園、妃のもの、王族たちのもの、来客用のもの…とセパレートされているので、順次、カートで回ります。歴史をみると、ヨーロッパの王侯貴族たちは争って絢爛豪華な宮殿や離宮を建てました。実に贅を尽くした作りです。それと比較すると、この離宮は豪華絢爛といえるのは花壇だけで、建物は意外に質素です。しかも、民衆に解放されています。好感が持てました。 離宮を出てからは、山を巻くような平坦な山道の連続です。一車線用のアスファルト道路があるだけで、車がすれ違うときは、互いに片側車輪を脱輪させ、やり過ごします。一方が山、片側は深い谷です。すれ違いに自信のない車は、出来るだけ片側に寄せて対向車を通過させます。一歩間違ったら転落です。わが運転手君は見事な運転振りを見せてくれました。でも、一度だけ、車の後輪が谷側にずり落ちそうになり、胆を冷やしました。

 

 ー庄内桜か?ー

 ようやく、山間の鞍部にひっそりと住んでいる山岳民族の部落に到着しました。5,60軒の、見るからに貧しげな集落です。しかし、電気は通じているし、タイ国民として選挙権もあり、大学進学も可能とのことでした。部落の集会所のような広場に、この部落の女性だけがが集まって、何やら賑やかにしています。どの女性も小柄で浅黒く、一般のタイ人とどこか違っています。小ぶりの桜の木を見つけました。殆どが散っていましたが、それでも花が僅かに残っていて、青空のもと、鮮やかなピンク色で咲いています

 「ワアッー、桜だ!」

 感動の一瞬でした。青森の彼岸桜ほど大きくもなく、沖縄ヤンバルで一月中旬に満開になる2000本の桜に似ていますが、種類としては庄内桜に近いものです。誰も通らない部落の道端で小さな子供をあやしながら小柄なママさんが民芸品主体の店を出しています。同行のSさんが600バーツほどの買い物をしました。そしてママさんから、桜は下の方へ行けば沢山咲いている、という貴重な情報を得ました。行ってみてビックリ。何と、10本ほどの桜が満開だったのです。買い物しなければ素通りしていたに違いありません。運転手君はしきりに申し訳ながっていました。何でタイの奥地に桜が咲いているのか?自生なのか、日本人が持ってきたのか? 沸々と疑問が湧いてきます。でも、それはさておき、タイでお花見ができたこと、望外の幸せでした。

 

 ―体調ー

 11月末にひいた風邪のあと、咳だけが残っていて、11日間の旅行中も咳をしてました。チェンマイに着いた翌日、Sさんご一家が罹りつけのラジャベイ病院へ連れて行ってもらい、日本語通訳の方の協力も得て胸の写真撮影や、血液検査をしてもらいました。やはり異常はなく、念のためタミフルなどの抗生剤を処方してもらい、旅行期間中服用していました。暑いところに11日間いて、零下1℃の日本に帰ってきた途端、風邪がぶり返しました。鼻水、咳、痰、もう滅茶苦茶です。今日までの約10日間何をする気も起きず、ただ、ひっくり返っていました。明後日はまた、女子医大で精密検査です。「旅」という天国の後は地獄が待っていたのです。神さまは何ごとにもバランスをお取りなさいます。でも、今日あたりから回復の兆しを感じ始めました。取り留めもないり見聞録をお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

2013年1月17日            喜 寿

 朝日旧友会から通知が舞い込みました。「お前たち昭和12年生まれは、今年、数えで喜寿になる。祝ってやるから出てこい。会費は今回だけ特別に免除する」

 今日、有楽町マリオンで、恒例の朝日新聞旧友会新年会が催され、白髪や禿げ頭の面々が集まりました。喜寿を迎える49人の名前が司会者から呼ばれ、返事をしてその場で起立し、前後左右に向かって礼をします。暖かい拍手で迎えられます。私の名前が呼ばれた時、ありったけ大声で「ハイ!」とやったので、会場にどよめきと笑いが起こりました。〈ハイ〉一つでも笑はとれるのです。前々社長の箱島信一さんも起立組でした。代表して論説主幹をやった村上吉男さんが挨拶に立ちました。

 ヨーロッパやアメリカでの特派員生活が長く、世界史的見地から日本の現在を俯瞰する解説は、なかなかのものでした。、日本が〈ジャパン、アズ、NO1〉と囃されていたのは、たった30年ほど前でした。トランジスタラジオや日本製の車がニューヨークで壊されたのが記憶に残ります。〈ジャパン バッシング〉が始まりました。台湾は韓国が台頭し始めます。〈ジャパン アズ ナッシング〉になり始めました。そしていまや、アメリカの相手は中国となっています。あろうことか、そしてアメリカは今の日本を〈ジャパン アズ フォーリング〉捉え始めています。つまり、アメリカは落ち目の三度笠の日本に、何の魅力も感じなくなっっているのです。とすると、尖閣列島で紛争が生じた場合、アメリカは中国を敵に回してでも、日本に加担してくれるでしょうか?

 村上さんは、〈否〉だと言い切りました。日本がアメリカの利益になっている国である間なら、守るだろうが、何も利益が無くなった国を、友好国という立場だけで国費を使う余裕は今のアメリカにはない、とまで言いました。

 安倍晋三内閣が誕生したとき、政府はアメリカに特使を派遣したが、何故、同時に中国へも同じことをしなかったのか?返す返すもタイミングを逸した、と村上さんは言います。なるほど、と思いました。国家間でどんな紛争を抱えていようとも、内閣が変わったなら、挨拶に行くのが当然と言えば当然の礼儀でありましょう。

 同じ12年生まれでも、朝日新聞の編集には勝れた人がいたものだ、と改めて思いました。

 


2013年1月1日             年頭所感

 明けましておめでとうございます。お蔭さまで穏やかな元日を迎えることができました。私の新年は、車を運転して新聞各紙の元旦号を買いにいくことから始まります。外は薄暗く、道路に車はほとんどありません。毎日新聞販売店へ行って、毎日と東京新聞を買います。次は日経店へ行って日経と流通新聞です。続いて読売と産経店へ。配達から戻った従業員で店は賑わっています。その様子からその系統の新聞の力を窺い知ることが出来ます。商売柄、それは一目で分かります。残念なのは、各店とも昔日の面影がないことです。新聞全体が退潮現象の渦中にあるからでしょう。特に産経と毎日が青息吐息なのが店の匂いで分かります。

 次に、家に配達されている朝日新聞を含めて、各紙の別刷りを比較検討します。そして、折込広告の種類、枚数などにも目を配ります。それをしてどうする?と言われても困るのですが、23歳で朝日新聞社に入った時から続いている習慣なのですから仕方ありません。 

 昼近くまで各紙の社説に目を通し、特集記事を読んでいて、ハタと思い当ったことがあります。それは、日本人は本当のところ、日本国憲法の改正を望んでいるのではないのか?ということです。竹島問題では韓国の李明博大統領にあそこまで踏み込まれ、尖閣列島問題では理不尽な中国に恩を仇で返され、これ以上我慢を強いられたくなくなったのではないか?ということです。その上、北朝鮮までもが大陸間弾道ミサイルの実験に成功し、無防備な日本であることに改めて思いを致し、何らかの変化を、少なくとも防衛力だけは負けずに持っていたいと、誰もが心の底で思い始めているのではないか?ということです。

 石原慎太郎は、そういう日本人の底流をいち早く察し、都知事職を投げ出しリーダーシップを取ろうとしたものの、如何せん、自民党を捨てた前歴から、再び戻ること叶わず、安倍晋三をして汚名挽回のチャンスを与えることになったのでしょう。

 橋下率いる維新の会も、憲法改正を標榜しています。しかし、石原を含むロートルたちを加入させたことにより、その維新八策は希釈されてしまいました。残念ではありましたが、今後、数々の紆余曲折があろうとも、私は橋下が、やがては必ず、日本国のリーダーになるだろうと確信しています。

 各紙の論評は、安倍晋三内閣が内憂外患、特に隣国三国に対する日本国としての失地回復への国民的期待と、選挙制度による利もあって自民党政治復活となったと解説し、今後の自民党が仮にも権力闘争にうつつを抜かしてはならぬ、と一様に釘をさしていました。

 恐らく半年後に行われる参議院選挙でも、自民党は過半数を握るでしょう。そうなれば、自民党はやりたい放題でありましょう。そして、憲法改正となっていくでしょう。自衛隊は国防軍と改称され、軍備は増強されていくでしょう。 核を保有するかどうかの議論にまで及んでいくかもしれません。

 私は早稲田大学時代、西洋史を専攻しました。基本的に学んだことは〈戦争のない時代はなかった〉という厳然たる人間の歴史です。国と国とは、力のバランスの上に成り立ち、友好関係というものは、その上に咲いた一輪の淡い存在としての花であって、どちらかの力のバランスが崩れるやいなや、花は無残にも摘み取られてしまう、という歴史的事実を学んできました。ルカーチやモーゲンソウの〈パワーポリテックス〉をどれほど貪り読んだことか。 

 太平洋戦争で日本が敗戦国になり、強大なアメリカ支配のお蔭で、この60余年あまり、大きな戦争はありませんでした。しかし、国家の興亡は存外早い、というのが歴史的見方であります。パワーバランスが崩れるときは必ずやってきます。これは、いままでの世界史が証明しています。バランスが崩れるときは何時になるのか?それは分かりません。でも、一つだけ確実に言えることは、〈戦争の歴史であった世界史は、これからも戦争の歴史であり続けるだろう〉、ということです。

 スイスはどうやって永世中立国であり得ているのでしょうか?スイスへは二回ほど行っていますが、高速道路が平坦で広いのにまず驚かされます。トンネルの脇には大きな鉄の扉があって、有事の際にはそこに隠されている戦闘機が現れ、広い高速道路を滑走路にして敵機を迎撃します。そして、国民のすべてが武器を所持し、有事の際にはすべての国民が兵隊になります。そのための兵役と日頃の訓練は国民の義務になっています。女性も子供も、それなりの役目を負うとのことです。スイスはそれにより、第一次、第二次世界大戦を乗り切ってきました。さしものナチスも手が出せなかったのです。

 お隣の韓国にも若者に対する二年間の兵役義務があります。それを忌避すると刑務所行きです。せめて日本でも、平和ボケしている若者に、韓国に負けないような兵役義務を与えたいものですね。

 


2012年12月30日             マッハの旅

 中学二年生の双子の男女の孫に、海外への旅をさせたい、と予てより思っていました。古い話ですが、長男、次男にはそれをさせてやっています。もうかれこれ40年前になりますか、正月休みに北京へ亡妻と四人で行きました。三男は両親に預けました。天安門広場に青い防寒服を纏った人々が恐らく一万人ほど、何をするでもなく、ただ、突っ立っているだけの風景、そして朝夕の自転車のラッシュ。人民元は使えず、法外なレートの兌換券のみが使用できまました。四人で六日間、70万円ほどだったと思います。

 北京ダックの店〈全衆徳〉の味は今でも覚えている、と長男、次男は折にふれいいます。寒さに震えながらの万里の長城の登攀でした。この強烈な体験は、2人にとって決して無駄ではなかった、と私は思っています。本当は孫たちを北京か、上海に連れていきたかったのですが、対日感情が悪くなっているいま、タイミングが悪いので、結局、台湾へいくことになりました。それも、22、23,24日のたったの三日間。忙しい次男は21日に名古屋から来て、24日の夜には名古屋へ戻ります。

 22日の朝8時、成田空港で初のパスポートを握りしめた孫たちと合流しました。出入国管理の人にパスポートを差し出すときは〈お願いします〉〈ありがとう〉を言うんだよ、と教えました。

 台湾の桃園空港に着いて驚きました。台湾も寒いのです。私は12月の始めにひいてしまった風邪による咳が収まらず、台湾の暖かさで治るだろうと期待していたのですが、逆に防寒のためのダウンジャケットを購入する始末。今年の異常な寒さが地球規模であるのを知りました。帰ってきた翌日、行きつけのクリニックで胸の写真を撮ってもらい、咳の原因がガンや肺炎系である心配はないことは分かったのですが、念のため、女子医大で新年4日に胸のCTを撮ってもらい、7日に診察を受けることにしました。小さいころから気管支が弱く、慢性化するのが私の弱点です。

 さて、孫たちは小龍包と北京ダックが食べたいと言っていたのでしたが、23日の観光ツアーの昼飯はお目当ての小龍包でした。小さな店で行列ができている専門店でした。そして、夕食は北京ダック。丁度嫁さんの誕生日と重なりました。台湾のスカイツリーならぬ〈101〉にも行きました。短時間でしたが、故宮博物館へも行きました。夜市も歩きました。24日の朝は5人で用はないけれど台湾の地下鉄にも乗りました。

 台北発3時のエバー航空は20分ほど出発が遅れました。来たときは3時間50分かかりましたので、今日中に名古屋へ帰る次男が心配になりましたが、驚いたことに2時間17分で成田へ着いてしまいました。成田ー台北は2200キロです。行きの飛行機の速度は時速645キロ前後でした。普通は800キロです。恐らく強い偏西風に逆らって飛ぶため、速力が落ちるのでしょう。ところが、帰りの速度は1145キロでした。音速は一秒間273メートルですから時速900キロです。つまり帰りの飛行機はマッハ1を超える速度で飛んだのでした。成田着は午後7時。相変わらず空港は閑散としていたので、通関も短時間、次男は楽勝で名古屋へ戻ることが出来ました。次男は翌日8時半に小牧から福岡へ飛び、とんぼ返りして、翌日は新潟。29日には仕事を収めて大宮の家族の元へ戻ります。彼もマッハで動いているようです。

 


2012年12月27日         皮肉な結果(小選挙区制に異議あり)

 16日の衆議院選挙から10日余り、あれよあれよという間に、安倍内閣が発足してしまいました。この人だけにはなってもらいたくない、と思っていた人が、再び登場したのです。面白くない私は、この10日間、新聞やテレビから遠ざかり、ひたすら本作りに没頭しながら考え続けました。

〈なぜ、世の中は民意とは違う方向に流れていくのだろう?〉

〈なぜ、日本人の多くは2度目の男の再来を望んでいないのに、結果がそうなってしまうのだろう?〉

〈なぜ、多数が原発の段階的縮小を望んでいるのに、再稼働に積極的な自民党が多数になるのだろう?〉

〈なぜ、民主党の中にいた優秀な人材が切り捨てられ、未知数の自民党議員が多数当選するのだろう?〉

〈民主党議員は60人以下となっってしまったが、そんなに悪いことをしたのだろうか?〉

 これを考えるに当たって、見落としてはならないポイントが二つありました。投票率が前回より10ポイントも下がって、戦後最低であったこと。もう一つは自民党への投票総数が前回より減って、自民党以外の党への投票数が大幅にあがっていることです。つまり、自民党の勝利は、死票が多くなった結果に過ぎないという事実です。

 すると、現在の小選挙区制は、必ずしも民意を反映する完璧な制度とはいえないのではないか?という疑念が生じます。

 アメリカの二大政党への憧れから、かっての中選挙区制が小選挙区制になりました。自民政権時代の産物です。長期政権を狙った自民の手前味噌的な改革でしたが、三年前の衆議院選挙で自民は壊滅的敗北を喫します。寄合い所帯的色彩の濃かった民主党が、政治的未経験の多数を取り込んでの圧勝でした。つまり、時計の振り子さながらの結果を招来するのが小選挙区制である、と言っていいでしょう。

 私は、日本は大選挙区制を取り入れた方がよい、と考えます。それが、呻吟した10日間の結論です。一県一区に近い区割りをして、人口比により議員の定数数を割り振ります。有権者の選択枝は今の二倍から三倍広がります。〈投票したい候補者がいない〉という現象は少なくとも回避されます。自民党同士、民主党同士が戦うのです。少なくとも、死票は激減するでしょう。投票率も結果的に上がるでしょう。

 改めて今日、新聞をひっくり返し、IPADを使って雑誌の論評を見ました。産経新聞のコラムで、元財務大臣の塩川正十郎が小選挙区制はダメだ、と論陣を張っているのを知りました。議員定数を削減し、一県一区の大選挙区制を採れ、と選挙前に言っているのでした、朝日新聞も同様な主旨の主張をしていました。わが意を得た思いでした。

 


2012年12月9日          投票したいが、人がいない

 私の選挙区は練馬9区です。立候補者は、自民党の菅原一秀、民主党を離党し、国民新党に入り、日本未来の党へ鞍替えした平田篤志、それに、新たに民主党で立候補した素人、それに共産党の小池一郎、この四人です。前回の選挙では私は民主党の平田候補に一票と投じました。ところが、彼は選挙民への断りなしに民主党を離党し、日本未来の党から立候補しています。私としては、落ち目の三度傘ではあっても、民主党を離党してもらいたくはなかった。立て直しに奔走してもらいたかった。至誠一貫してもらいたかった。こういう渡り鳥候補には一票を投じたくありません。日本未来の党がどうあれ、です。菅原一秀は、無名の頃は練馬区の駅頭に立って、演説してました。ポスターには「毎日駅にいる菅原一秀」とありました。当選してからは、駅にいたためしがありません。自民党のなんとか幹事長代理という役職に収まって、それっきりです。私は自民党には入れない積りです。では共産党か?はるか下位に留まってしまうに違いない政党に一票を投じるのは感傷というものです。

 結局、民主党の新人に入れるより仕方がないのでしょうか?

 私は現在の小選挙区制には以前より多大の疑問を持っていました。二大政党時代が成立する夢は、小選挙区制にあり、と思ってました。ところが、現実は綻びだらけとなっています。なら、中選挙区制に戻したら良いのか?そうとも言い切れないでしょう。なら、大選挙区制を採用したらどうか?選挙区を今の四倍程度にすれば、20人の候補者から選挙民は選ぶことができます。20人いれば選択に困ることは、まず、考えられません。その代り、候補者は大変でしょう。今までの、四倍の広さの区域を駆けずり回らねばならなくなるのですから。

 投票日まであと一週間となりました。世論調査によれば、誰にするか決められないでいる選挙民は56%に達しているそうです。国政にとって、大きな曲がり角の選挙であるはずなのに、すべてが混沌としているこの世相は、日本という国が大きなつけを払わされているからだ、私は思います。

 最も優秀は学生は官僚になりました。その次は、商社や銀行へ行きました。次に優秀な学生は重電、エレクトロニクスへ行きました。その次はマスコミ、テレビなどへ行きました。早稲田に例えれば、雄弁会や雄飛会から政治家になった者は、政治家二世や、優秀とは言い難い学生たちでした。つまり、政治家の資質が日本の場合、極めて異常なのでありました。

 弛まざる情熱と、優れた叡智と、ゆるぎない信念と実行力を持つ政治家を、この国は風土として育て挙げて行かねばなりません。例え100年かかろうとも。

 


2012年12月6日              文字は人なり

 11月30日、日本記者クラブ主催で11党の党首による公開討論会がおこなわれました。檀上に並んだ11人に対して、マスコミ各社が次々に質問を浴びせていくのです。その中の一環として、白紙の色紙大のボードに各党の主張を自筆してもらう試みがありました。直筆ですから、誤魔化しようがありません。例え、マジックによる短文であっても、文字は人となりを表します。恐ろしい事実がそこにあります。

 野田総理の字には呆れました。率直に言って下手です。小学生並みのかな釘文字です。船橋高校、早稲田大学をこの字でクリアーしてきたのでしょうが、人柄の朴訥さが余すところなく滲ませていました。安部代表の字は大きいだけで、線に味わいがありません。間延びしたお坊ちゃんの字です。成蹊大学に相応しい字ずらです。石原慎太郎は作家だけあって、書き馴れた装いはあっても品がありません。小沢一郎が隠れ蓑にした滋賀県知事の嘉田由紀子は、限られたボードのスペースに、文字をたくさん書き連ねる傾向がありました。京都大学出身ですが、きっと、状況の変化にのぼせているのでしょう。社民党の福島瑞穂の字は融通の利かない字です。その一徹さが取り柄なのでしょう。みんなの党の渡辺喜美は我儘で、勇み肌のお坊ちゃんの字です。関心したのは共産党の志位和夫の字です。まともでした。共産党であることが惜しいと思わせる風格を漂わせる字でした。最もいい、と思えたのは升添要一の字です。でも、一匹狼ではねえ……

 来年の1月4日から10日まで、恒例の日書展が上野の東京都美術館で開催されます。出品の許しをいただき、このひと月余り、想を練ってきました。思いあぐねた末、自作の句を畳一畳の紙に新書芸で横書きをしました。

         闇の中の 見えない薔薇を 見つづける

 これもまた、どんな風に表現しようか、試行錯誤している段階が面白いのであって、書いてしまえば「ハイ、それまでよ」であります。つくづく、自分の字が嫌になりました。少しの進歩もないのです。人は、持って生まれた品性の中でしか字の表現はできない、と悟らされています。ひと様の字のことなど言えないのであります。でも、長年書道をやり、古文書や万葉仮名に接しているお蔭で、自分にはその表現力がなくても、字の味や、時としてキラリと光る〈美〉のようなものが、垣間見えるようにはなりました。それだけが収穫でしょうか。 

 


2012年11月23日          シカトされた日本

 テレビ(BS1)で嫌な場面を見てしまいました。カンボジヤで開かれたアセアンの会議に出席した野田総理が、韓国の李明博大統領と、中国の温家宝首相から完全にシカトされたのです。笑顔で握手するでもなく、目を合わすでもなく、互いに無視。それに反して韓国と中国の2人はさも親しげな笑顔の連続。各国の代表が一列に並び、両隣と手を結びながらの記念撮影では中国と韓国が並び、一人置いて日本。野田総理は両国から最後までシカトされ続けたのでした。

 16日に衆議院解散を宣言したあとの出席でしたから、野田総理の再選はないと踏まれていたせいもあるでしょう。しかし、かりそめにも日本代表ですぞ。領土問題がどうであれ、中国も韓国も野田総理をシカトするとは余りにも大人気ないではありませんか!日本をシカトするに等しい悍ましい仕打ちですぞ。

 李明博は親日家の弟が汚職で逮捕され、大統領任期を終えた後検察の手が入るのは確実視されています。温家宝にいたっては、一族が汚職で貯めまくった2069億のアメリカにある資産が、問題視されるでしょう。真面目で愚直でバカ正直な野田総理には、いまのところそんな汚点はありません。それだけは救いでしょう。でも、野田総理には、進んで両国の代表に笑顔を向け握手してもらいたかった。

 国家を代表する者は、互いにどんな問題を抱えていても、憎しみの塊になっていても、笑顔で握手して欲しいと願うのは、私だけでしょうか?

 翻って、アメリカのオバマ大統領の笑顔は爽やかです。選挙人の数では303対206でしたが、投票数は59,688,807対57,065,053で、その差は270万票余りでした。僅差の勝利だったのです。

 私はオバマ大統領に好感を持っています。勝ったらいいな、と思っていましたし、実際に勝利したときは良かった、と思いました。ロムニーさんがもし勝利すると、アメリカの中東政策がガラリと変わるのが目に見えていたし、それを契機としてアブラ問題がエスカレートして、日本が更に苦境に追い込まれるのが必定でした。ロムニーさんはイスラエルのネタニヤフ首相と古くからの友人同士です。ネタニヤフの狙いはアメリカとの連携を更に強くし、イラン包囲網を築くことにありました。アメリカ政界のほとんどはユダヤ系で占められているのは周知の事実ですが、包囲網を築かれたイランはどういう手に出るでしょうか?ホルムズ海峡の封鎖です。すると戦争です。一番困るのは定めし日本でしょう。オバマはイスラエル寄りのアメリカ政界の基調に必ずしも同調していません。その政策は組んず解れずです。逆に突き放そうとしています。

 昨日、イスラエルとはガザ地区のハマスとの停戦が成立しました。オバマが派遣したクリントン夫人がエジプトを仲介役にして停戦合意を取り付けたのです。ロムニー政権になっていたら、この停戦はなく、ガザ地区がイスラエルに占領されるまで続いたに違いありません。

 中国と韓国にシカトされた日本は、一か月後に総選挙を控えることになりました。15余りの小党が林立しています。恐らく、自民党を中心とした勢力の勝利になるのでしょうが、私は安倍晋三にだけは総理をやってもらいたくありません。彼は、かって、お腹が痛いといって政権を投げ出した男です。男は二度出るものではありません。彼が再び首相になれば、これはもう世界の物笑いの種でしょう。シカトどころではありません。これだけは避けたいではありませんか! 「ぼくちゃん、お腹が痛いの」と再び政権を投げ出されたら、一体どうするのですか?

 


2012年11月18日             豊田市というところ

 11日の、銀座の会場での丸山さんの出版記念会は、無事に終わりました。4か月間苦労して作り上げ一冊一冊に丸山さんが署名し、それぞれの方々の席に置かれました。ピアニストの大野亮子さん、朝日の先輩の轡田隆文さん、料理研究家の岸朝子さんらとお話しが出来ました。佐々木愛さんは国立劇場に出演中のため、娘さんが代理でした。衆議院議長の横路さんは、遅れてやってきて、演説をするや、直ぐに席を立ってしまわれました。長野高校の丸山さんの同級生も6名ほど見えていました。皆さん80歳なのに顔の色つやも良く、見習わなければ、と思いました。

 13,14日は元朝日新聞東京本社業務局長で、私の前の朝日学生新聞社社長であった海野武さんの通夜並びに告別式でした。販売担当社員として指導を受けた親分でもあるので、8日の死去翌日から14日のお浄めまで、毎日通って、陰ながらのお世話をさせてもらいました。海野さんのお宅も、葬儀会場も、私の自宅から近かったため、それが可能でした。

 告別式のお浄めが終わったのが3時。それから新幹線に飛び乗り、名古屋から鶴舞線で豊田市に向かいました。赤池から先は、私にとっては全く未知の場所です。電車の一番前に陣取り、運転席から前を見たり、左右へ行ったり、暗くて良く見えなかったけれど、周囲の景色を観察しました。

 豊田市といえば、豊田織機に始まってトヨタ自動車発祥の地です。きっと、賑やかな街に違いないと思っていました。ところが、6両連結の電車から豊田市で降りた乗客は3,40人足らずです。駅には名古屋に住む従弟が出迎えてくれていて、一緒に歩いて、上海から今日着いたばかりのグさんの待つ割烹料理屋まで行きましたが、人が歩いていません。瀟洒な建物はそれらしくあるのに、まだ、8時を少し回った時刻なのに、人影がほとんどないのです。小雨がパラついていたせいもあるでしょうが、一種異様な雰囲気です。驚きました。

 翌日は名門貞宝カントリークラブでのゴルフでした。その翌日は豊田市を貫通している矢作川を15キロほど遡った山間部にあるセントクリークという難関コースでのゴルフでした。お蔭で、豊田市の街中から郊外まで隈なく観察することができました。トヨタの車は確かに沢山走っていました。でも、機材などを運ぶトラックや大型車は全くと言っていいほど走っていません。工場も二つほどありましたが、何だか閑散としていました。街並みもどこにでもある町と変わりなく、トヨタの恩恵による豊かさなど微塵も見られません。

 つまり、トヨタの機能の殆どは、豊田市になく、海外に行ってしまっているのだろう、と推測されました。

 これはいいことなのだろうか?悪いことなのだろうか? 真剣に考えてしまいました。

 安い労働力を求めて、日本企業はこぞって海外に進出しました。韓国を富ませ、台湾を豊かにし、中国を世界第二の工業国にし、いま、それらの国は領土問題に代表されるように、日本に刃向ってきています。一体、トヨタは豊田市を富ませる何かをやったのでしょうか?日本全体を富ませる何をやったというのでしょうか?

 半年ぶりのゴルフをやりながら、そんなことを考えていたためか、スコアは散々でした。ただ、二日目は絶好の天気に恵まれ、風一つない紅葉の中、スコアはともかく、クラブを振れたのは何物にも代えがたことでした。 

 


2012年11月5日            エプソン社社長さま

 パソコンとプリンターのお蔭で、いま、素人でも本が作れるようになっています。技術の進歩により、昔では考えられなかったことが、可能になっているのです。ずっと、キャノンのプリンターを使っていましたが、買い換えに行った際、エプソンの販売員に勧められてエプソンのPX-504Aという機種を求めました。エプソンの本社は安曇野にあります。私の郷里長野県の優良企業であります。応援の積りもありました。

 ところがです。使い勝手の悪さが次々に露呈してきました。本はA4の用紙に4ページずつ両面に印刷します。32ページのパンフレット(専門用語では折丁といいます)を8っ作って、タコ糸でかがり、扉やら表紙ボールをつけて250ページの本にしていきます。

 キャノンもエプソンもインクカセットは昔に比べればその大きさが半分以下になり、お蔭で4色のインクは直ぐに無くなります。それはそれで仕方がないことと諦めるにしても、問題は32ページの印刷中に「インクが無くなりました」という表示が出ると、印刷はそこで止まり、印刷中の紙が途中であるにも拘わらず排紙されてしまうことです。すると、その32ページはオジャンになります。キャノンのプリンターはそうはなりません。途中でインクが無くなりましたという表示が出ても、蓋を開けてカセットを入れ替えてやれば、継続することができました。つまり、オジャンにならないのです。

 更に、印刷中にエプソンからの、何らかの告知や宣伝がパソコン画面に表れます。すると、すべての機能が停止し、印刷が止まり無断で排紙されていまいます。そういう時は、怒り心頭に発します。キャノンでは考えられない技術的欠陥がエプソンにあるのです。

 もっともイヤなのはプリンターが発する音です。キャノンは微かな音しかしないのに、エプソンのプリンターはまるで工事現場のような、荒々しい音がします。加えてインクの汚れが予期しないところにしばしば付くことです。キャノンでは滅多にありませんでした。

 どちらの製品のプリンターも、しばらくすると、廃インクのタンクが満杯になります。キャノンの場合は新宿の三井ビルにある修理センターに持っていけば、その日のうちに交換してくれました。エプソンにはそういうサービスセンターが東京には一軒もありません。日野の修理センターへ送れ、というのです。一週間仕事が出来なくなりました。返送されてきたプリンターは、三倍もの大きさのダンボールに厳重丁寧に包装されていました。変なところに金を使うものだ!と呆れました。

 エプソンの社長さま、ご自分でキャノンと自社製品をお使いになってみては如何ですか?

 郷土の優良企業だから、と応援したくても、明らかにキャノンより劣っていては応援のし甲斐もありません。何とか以上述べた点について早急に改善を図ってください。

 更に悪いのは、エプソンのホームページには顧客からの意見などを排除していることです。「ご返事のいらないご意見はここにどうぞ」という10行ばかりのスペースが、申し訳のようにあるだけです。顧客の意見や感想を大事にしない企業はやがて滅びるとしたものです。同県人として残念でたまりません。まさに、「不思議の国の信州人」であるように思えて、持っていきどころのないエプソンのプリンターに対する憤りをホームページに記載しました。

 


2012年11月1日            凄まじいものを見た!

 9月24日、本作りが忙しく、余裕のない日々ではありましたが、かねてからの念願だった福島へ行きました。〈放射能の20キロ圏内へは若い者に任せるには忍びない、65歳以上に任せておけ〉、という合言葉で始まった〈福島原発行動隊〉からは一向にお呼びがかかってきません。私としては、どうしても、現場へ行って見たかったのであります。加えて、今は外国に居留していますが、福島の双葉に住んだことのあるSさんが、たまたま来日していて、福島へ行ってみたいという望みを私に寄せていたことも、今回の福島行に拍車をかけました。

 新幹線を福島で降り、レンタカーで南相馬市を目指しました。小雨がしょぼつく生憎の天気です。目的地は浪江町のすぐ隣に位置する小高です。Sさんは昔、小高のキリスト教会に縁があったそうで、是非、ということでした。距離にして約70キロ。交通量は極端に少なく、行き交うのは警察関係の車ばかりになってきました。直接、浪江に向かう道は閉鎖されていて、車は昔の原ノ町に入りました。商店のほとんどは入り口を閉ざし、人通りも余りありません。

 私は朝日新聞の販売担当社員として、30代の初めに福島を5年間担当しました。当時、全国で500万部の発行部数を持つ朝日新聞の福島県は6万8千部で、担当社員はその担当地区の部数の伸長、代金の回収、販売店主人事などなど、全権を任されました。月の内半分は出張で、いわき、福島、郡山、会津若松に定宿がありました。原ノ町は古川さんという元気のよいおじさんが販売店主で、一晩泊まって酒を酌み交わし、悩みをきき、部数を増やす方針を立て、朝は一緒に起きて店内の従業員を鼓舞するということをやりました。拡張資金として月額10万円を補助したことを彼は今でも感謝していて、今年の夏も今住んでいる郡山の梨を送ってくれました。

 福島ではフグ毒に当たって、危うく死にかけたこともあります。暮れの12月26日、選挙速報の日です。福島支局に詰めて、徹夜で選挙速報の別刷りの手配をしなければなりません。元気をつけておこうと、福島支局近くの「万世」という料理屋で、白子鍋を食べました。足腰が立たなくなり支局の前の大原病院に担ぎ込まれました。フグ毒に特効薬はありません。お花畑を垣間見ましたが、4日後生還して東京へ戻ることができました。「ヤツはフグで死んだらしい」と噂しながら忘年の打ち上げをやっていた東京有楽町の販売局に戻ったときは、驚きの目で見られながら拍手で迎えられました。

 福島県6万8千の部数は、5年後に7万8千部にして後任者に引き継ぎましたが、東京紙第一位を貫けたのも、福島県内の120店余りの販売店のお蔭です。原発の直接の被害を受けた双葉の渡辺さん、浪江町の鈴木さん、富岡の稲本さん、大野の金沢さんらのご一家は、今、どうしているのか、気になって、気になって仕方ありません。突然、降って湧いた未曽有の災難に遭われ、一切の生活基盤を失い、しかも、未来への見通しが全く立ちません。どんなに憎んでも憎み切れるものではありません。

 人の気配が感じられない原ノ町から、約10キロで小高に着きました。驚きました。車もなければ人もいません。駅前通りに面する家並みはすべて無人です。常磐線小高駅の前に車を止めました。駅は閉鎖され、ドアの間から雑草が顔を出しています。線路は赤く錆び、廃墟さながらです。キリスト教会の在り処を聞くため5,6軒の家の戸を叩いてみましたが、どの家からも応答がありません。道路もあるのに、家もあるのに、樹木は茂り、庭には秋の花が咲いているのに、人がいない。生活の息吹がない。ただただ、静まりかえっています。〈決して回復することのない異次元の世界だ!〉、凄まじいものを見てしまった、と心底思いました。

 かっては賑わっていた小高の海水浴場へ車を走らせました。一面の田んぼはまだ水浸しです。海水に洗礼されるとj草木は育たないらしく、あたり一面赤茶けたままです。道路のガードレールはぐちゃぐちゃに曲がり、津波の水圧の強さを見せつけています。小高い所に位置する集落は全くの無人ですが、畳の位置まで瓦礫に埋まっています。見渡す限りの荒涼とした光景の中に、これまた無人の排水場があって、力ないモーターの響きを轟かせています。海は荒れ、土気色の波しぶきが、瓦礫に埋まった浜に押し寄せていました。波の砕け散る音と、単調な人工のモーター音、まさに、地獄の音楽に聞こえました。

 期せずしてSさんと二人、海に向かって手を合わせました。「神さま、あなたは何と惨いことをこの地にお与えになったのですか?原発がお気に召さないとしても、何の罪咎もない人々まで、何故この地から追いやってしまわれるのですか?あんまりです。悲し過ぎます。どうか、何らかの回復の手立てをお与えください!」

 どんなに祈ったからといって、双葉の原発を中心とする30キロ圏内は、今も、これからも、そして半永久的に、人間はおろかあらゆる生物の住めない廃墟になることだけは、歴然としています。生物の根細胞に破壊的打撃を加える原発のメルトダウンから発した放射能は、除去することが出来ません。半減期は数万年単位です。数年か、あるいは数十年後か、福島では人間を含めた生物の奇形が発生してくるのは確実です。すると、福島県人というだけで、婚姻を嫌う人々が否応なく現れてくるでしょう。その傾向は、原発の30キロ圏内から福島県全体の及ぶのではないでしょうか。

 人が住まなくなる福島県。人がいない以上、新聞も存在できません。5年間に亘って福島県の朝日新聞の伸長に携わってきた私の努力は一体何だったのでしょうか?

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