エッセイ

 

2013年12月10日             帰ってきました

 14時40分(日本時間16時40分)バンコック空港から東京に向かう飛行機は、どうしたことか、不具合が見つかったらしく、機種が変更されました。替わって乗り込んだのが、ボーイング747大型最新式、すべてコンピューター制御で、ファースト、ビジネスクラスが広々とし、二階にはラウンジもある しかも新品に近い機材でした。エコノミークラスに150人ほど乗り込みましたが、ガラガラです。早速、エコノミー最前列の左窓際に席を移動し、外界観察の開始です。

 ところが、この飛行機は通常より1500メートルほど高い、12500の高度を維持するためか、海か、陸かの区別すらつかないほど、視界が悪いのです。お蔭で、見えるはずの香港島、台湾、石垣、西表など確認できませんでした。地平線が朱に染まり始めると下界は一気に暗くなり、飛行機の最後尾の窓からはジエットエンジンが発する気流までもが赤く染まり、尾を引いています。それも暗闇に包まれると、無数の星の輝きとダークグレイの雲だけになります。飛行機は微動だにしません。気密性が高いためか音も静かです。室内の明かりも消されてしまうと、これが1100キロの速度で動いている物体であることが、俄かには信じられなくなりました。

 それでも、目を凝らして外の景色を見つめます。時々はるか下の方を明かりを点滅させながら、航空機がゆき過ぎます。思わぬ方角で光がさく裂します。放電現象なのでしょう。それらがなかったら、この空間は静止しているに違いない、という奇妙な感覚に陥ります。微動すらなく、静かなエンジン音しか聞こえない室内。動いているという意識が感じられない空間移動。これは全く始めての経験でした。4時間50分後、日本時間午後11時に、この奇妙な空間は成田ではなく羽田に着きました。飛行機に乗るなら、少しの気流変動などにはビクともしない大型最新式に限る、と思いました。

 一か月留守にした我が家のドアを開けると、毛むくじゃらになった愛犬が飛びついて来ました。 

 

        首 長 族

 

 タイの奥地には、今なお、様々な少数民族が存在しています。その数、34部族余り、といわれています。ほとんど観光化されているようですが、中には好戦的な部族があって、いまでも紛争が絶えないようです。前回の訪タイの際、タイ最北端の魔の三角地帯と言われるラオス、ミャンマー、タイの国境へ行った帰りに、少数民族の二つの部落を訪ねましたが、いずれも、貧しい暮らしで、観光地化されていました。

 まず、高い入場料を払わされます。今回の首長族でもそうでした。500バーツを入り口で払わされました。日本円で1500円です。40バーツで一食が食べられる国では、500バーツは12食分です。日本なら7,8000円といったところでしょうか。そこへ、タクシーを半日チャーターして行ったのでした。

 その部族では女の子が生まれると、金の首環がはめられます。成長するにしたがってその数が増えていきます。その数が多いほど美人だというのです。実に妙な風習があったものです。

 入場料を払って、民芸品の売店を見ながら売り子の女性を観察していきます。どこも、普通の首の長さの女性たちばかりです。とうとう、部落の果てまで行ってしまいました。「騙されたか」と思って「ロングネック、オエア?」と聞きました。「あっち」と指差すではありませんか。稲の穂が垂れる小道の向こうに、目指す首長族の集落がありました。

 戸数にして50戸余り、粗末な小屋の前に民芸品を並べて首長族が存在していました。キリンの首ほど長くはありませんが、すべての女性が、子供にいたるまで、金色に光る首環をはめています。「わあー」と思いました。本当にいた、と思いました。思いがけなかったのは、首環女性が揃いもそろって〈いい顔立ち〉であることでした。手前の部落の女性には無かった気品がありました。どうぞ、動画をご覧ください。(青い文字をクリックするとユーチューブ画面が現れます。その画面を二度クリックすると全画面表示になります。画面を消すにはESCをクリックください。ユーチューブを消すのは右上端ではなく、画面一番上の小さな×印です)

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 更に驚いたのは、首長族の集落の一番上に教会があったことです。マリア像がありましたから、恐らくカソリックでしょう。日曜ごとには、出稼ぎに出ている男性が帰ってきて、約100人が集い、敬虔な祈りを捧げるのでしょうか。幸せを願わずにはおられませんでした。

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        ロイカトーン

 バンコックから飛行機で約一時間、チェンマイはタイの高地に位置する盆地です。北緯18度付近になるため、南国の島ハワイと緯度的には同じになります。そのため、低地の河口に街が広がったバンコックとは気温で約10度の違いがあるようです。朝夕は涼しく、湿気もなく、11月なのに半袖シャツでいられます。日中、ホテルのプールで泳いでいる人を見かけます。11月なのにです。この気候的条件の良さが、世界中の人を惹きつけるのでしょう、街中、外国人だらけです。特に、中国からの団体客が多く、朝食バイキングでは彼らの粗野は振る舞いが目立っていました。日本人は、ほとんど、見かけません。一時期、関西系と思しき高齢者がタイ女性相手に、傍若無人の振る舞いを尽くしていた時代もあったとか。日本人に対する風当たりは、いまも強いようです。それも、10年ほど前のことのようで、ブームが去ったせいか、驚くほど日本人がいなくなった、といわれています。ベトナムを含めて両国に1か月滞在したのですが、日本人観光団と遭遇したことは一度もありませんでした。

 過去二回を含めて、私が滞在したインペリアルホテルは、さして大きくない中級のホテルですが、このホテルは、世界中の人に愛されているらしく、朝食の席はさながら人種のルツボと化します。特に、浅黒い肌にベールをまとった母親と、愛くるしい顔立ちの子どもたちを連れた中近東の人たちを多く見かけます。そうそう、台湾出身の世界的女性歌手テレサ・テンも、このホテルに好んで滞在し、このホテルで不可解な死を遂げたようです。

 チェンマイの街の中央には、ピン川という日本の川とは似てもつかない川が、穏やかに流れています。東南アジアの川はミャンマーもベトナムもそうでしたが、川は黄土色した水の流れです。これらの水がこの地域の人たちの生活用水なのですから、日本は、なんと、水事情に恵まれた国でしょうか!

 17、18日がロイカトーンというお祭りの日でした。川に沿った道におびただしい店が並びます。ロウソクを付けた花筏が売られます。おしなべて20バーツ(60円)です。人々は仏前で祈りを捧げ、ロウソクに火を灯し、何ごとかを願いながら、ピン川の水面に浮かべます。緩やかな水面は一杯になった花筏を、静かに下流へと押し流していきます。

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 一方、夜のとばりが押し寄せると、熱気球を飛ばします。人の背丈ほどの、薄紙で作られた筒の下方には十文字の細い針金が環の中にできていて、中央に固形燃料が装着されています。その直径は約1メートル余り。固形燃料を点火すると、薄紙の袋が次第に膨らんできます。それが限界に達すると、その円筒は自力で空中に舞いあがります。そして、固形燃料が尽きるまで、空中に留まり続けます。ピン川の両岸で上げるものですから、夥しい火の玉が夜空にみちみちます。

 17,18日の両日は、それを間近に見るために、リバーサイドのホリデイインの16階に居を移しました。予約したホテルのガーデンパーテイで、夥しい外人観光客に交じって、タイの楽団の歌などを聴きながら一時を過ごしたのですが、熱気球が夜空を満たしたとき、あまりの壮観さに我を忘れ、シャッターチャンスを逃してしまいました。

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        水の問題

 11月19日から、キッチン付きのホテルに移動しました。マーケットから食材を仕入れてきて、自炊を始めたのです。その二日目の夜半から下痢になりました。発熱もあり、悪寒もあります。水様便に血も混じり始めたではありませんか。「やられた」と思いました。朝8時、教会友のHさんに頼んで、この街一番のラム病院へ連れていってもらいました。即、入院です。この病院の10階には日本人御用達の特別室があって、その部屋のベッドに寝かされ点滴が開始されました。抗生物質を含む、三種類の薬が投与されるや、夕方には症状が治まってきました。日本の本が200冊ほど置かれているコーナーから、三冊ほどを抜きだし、読んでいるうちに朝になり、昼過ぎには退院となりました。日曜日に発症したため、予定していた日本語キリスト教会の礼拝には出られませんでした。

 27000円を投じて、空港で海外医療保険に入っていましたから、医療費はかからなかったものの、請求書を見てビックリ、一泊入院なのに5万円を超えていました。どうりで、延べ30人位の看護婦さんが絶えず出入りし、至れり尽くセリであったわけです。スイスでも高山病で、掛け金の倍の治療費をとられましたが、今回もそうなってしまいました。保険会社には誠に相済まぬことです。

 飲み水はミネラルにしていますが、炊事となると、水道水を使わざるを得ません。水に対する免疫力の無い日本人は、東南アジアではどうすればよいか? 結局は慣れて、同化していくより仕方が無いのかもしれませんが、水に対する疑問が沸々と湧いてきました。

 チェンマイという都市の上水道、下水道は一体どうなっているのか? その現地を見たくてたまらなくなりました。泥水としか言いようのない、あのピン川の水を浄化して使っているのだろうか? 下水は同じピン川に流しているのだろうか?

 市庁舎へ行って処理場の在り処を聞きだし、見学を申し出よう、と決めました。ソンテウという乗合自動車を300バーツで単独貸し切りにし、出かけました。 連れていかれた先は、広大な敷地に堂々と聳える庁舎でした。どうも、市庁舎というより県庁のようでした。

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 元より、タイ語は話せませんからたどたどしい英語です。上水道、下水道を英語ではどう言うかも分かりません。「ウヲーターアクシヨンのセクション」では通じないのです。そのうち、女性職員が現れました。綺麗な日本語を使う、淑やかで、優雅な人でした。ただちに察してもらい、パソコンから浄水場の地図などの書類をコピーしてくれました。嬉しかったですね。6年ほど日本に居た、とのことでした。その地図を片手に道路際に30分もいたのですが、ソンテウも、ツクツク(軽三輪)、タクシーも通りません。止む無く、一般庶民が愛用している黄色いソンテウを捕まえて繁華街へ戻りました。後日、改めてその場所へ行きましたが、休日のため「ウヲーターアクションセンター」のほんの入り口部分だけしか見れませんでしたが、次のことが分かりました。大きなダムが山中にあって、そこから上水となる水路が市中を流れ、「センター」に流入していました。水路はコンクリート製で堤防は高く、花が植えられ清潔感をたたえていました。下水は? これはとうとう分からず仕舞いになりました。都市の下水処理、夥しい糞尿処理、私は東京都のそれについてさえ知りえないでいます。いわんや、チェンマイにおいておや。

 

https://www.youtube.com/watch?v=kY55C5Szyzw

2013年11月10日              お休み

 明日は5時に起きて、日暮里発7時のスカイライナーに乗り、成田発10:45分のタイ国際航空でバンコック、そこで乗り換え、チェンマイへ行きます。ロイカトーンという街あげての気球祭りを観ることも楽しみの一つなのですが、続いてベトナムのホーチミン、フエ、ハノイの三都市へ入ります。アメリカとの戦争で痛めつけられたベトナムがいまはどうなっているのか、いかに、あの戦争が無意味だったかをこの目で確かめて来ます。約一か月間、東南アジアに滞在します。私にとっては始めての長期滞在で、どうなることか、と不安もあります。でも、その不安こそが望むところで、敢てその中に飛び込んでいくのです。来月の九日、また舞い戻ってきます。その間、このエッセイ欄はお休みとさせていただきます。

 ここだけの話ですが、私はいま、40歳を超えてなお独身でいる三男と同居しています。福祉の仕事に就いていて、一応、パンクチュアルにやってはいるのですが、いまだに親をアテにしています。親離れが出来ていないのです。と同時に、私も子離れができないでいる。私にも大きな欠陥があるのです。何とか、それを断ち切りたい、それには私が不在になればよい。どうせ、遠くない未来に私は不在となるのだから、遅すぎたけれども、三男に一人で何もかもやる生活をさせたい、今回の旅を親離れ、子離れの序章にしたい……

 それが大きな目的でもあるのです。人には言えない切実な悩みを、私は抱えて苦しんでいます。

 どうか、皆さま、この件はご内聞に。願わくは、私が無事に戻ってきて、再び、この欄に登場できるよう祈っていただければ幸いです。帰ってきて、三男の生活態度に変化が認められない時は、今度は三か月の不在を決め込もうと思っています。

では、では。

 

2013年11月8日               線の美しさ

 書道でも、絵画でも また、あらゆる美術工芸でも、線が基本です。線そのものに美しさがあるかどうか、私の場合はそれが評価の基準です。画家の場合はつとめてデッサンを探します。書家でも漫画家でも、線に趣きを感じない場合はオミットします。

 かつての朝日新聞の連載漫画〈サザエさん〉はアイデアもさることながら、線がきれいでした。現役のとき作者の長谷川町子さんからいただいた直筆のお手紙を、私は大切にしています。続くサトウサンペイの連載も、始めのころはともかく、次第に線がこなれてきました。ご本人からいただいた漫画の色紙は、地下室に飾ってあります。それに続く朝刊と夕刊の漫画、いしいひさいちの〈ののちゃん〉、しりあがり寿の〈地球防衛家族〉この二つとも「線が汚い」。それと共に「絵も汚い」のです。15年近く続いてはいますが、私は全く見ません。依怙地なくらい遠ざかっています。まあ、私の偏見は兎も角、世間的に評価されているでしょうか?

 この二人の漫画家の登板を決めた、当時の朝日新聞社の学芸部長は〈広く会議を起こし、万機公論に決すべし〉 という掟を無視して、〈狭い会議で、自分の好み〉で決めたようでした。人となりも腺病質であったようです。編集には自分の好みを組織に押し込む、いろいろな人がいました。I専務の例では、ルリーという国際風刺家を朝日専属に抱え込み、パーテイをやれ、もっと宣伝しろ、と嗾けられました。また、この専務が理事長を務めるオリエンテーリング開催のため、宣伝部員はどれだけ苦しんだことか!閑話休題。

 漫画家では手塚治虫の線、山藤章二の初期の頃の線、画家では佐伯祐三の晩年の線が好きです。書道も線で構成されています。真っ白な紙面を、如何に魅力的な墨線で切り分けるか。そこに、もし、美しさが表現できれば、線そのものに美が宿るようになればシメタものです。なかなかそうはなりません。

 囲碁棋士の多くは、色紙を度々所望されます。熱海のニューフジヤ、湯河原の杉の宿の広間にはたくさんの囲碁棋士の色紙が飾られていいます。ところが、どの棋士の色紙も〈いわゆる下手〉 であり、稚拙極まりありません。一芸には秀でているのですから、まあ、よしとしたものでありましょう。

 文章を書く機会が少なくなり、ペン字、えんぴつ字の訓練もほとんどなくなりかけています。手紙はメールにとって代わりました。〈いい線〉にお目にかかる機会が極端になくなったのです。この先、自分が創り出す線はどうなっていくのでしょう。

 東京女子医大呼吸器科の山田先生の診察を仰いだときです。「この先、気をつけねばならないのは間質性肺炎です」と、紙に大きくボールペンで書いてくれました。その文字の美しかったこと!

 〈線の美が、ここにもあった〉 と思いました。いっぺんに信頼が芽生えました。

 


2013年11月6日                紙とネット

 日本シリーズで楽天が優勝しました。優勝を決めた仙台本拠地での試合は3−0でした。常勝巨人が一点も上げられずに敗れたのです。数日前に亡くなった川上さんは、さぞ、嘆いていることでしょう。

 楽天とは何者なのでしょうか? ネットの通販会社であります。あらゆるものをネットで扱っています。今度は医薬品まで扱うようであります。その規模は拡大の一途をたどっているやに見えます。読売巨人軍の親会社は紙を媒体とする会社です。同じ紙媒体である朝日新聞は約100年に亘り、読売新聞と刃を交えてきました。何としても、部数において読売を抜きたい、というのが朝日新聞全体の合言葉でありました。私の一生は敢て言えば〈部数で読売に勝ちたい〉というものでもありました。如何せん、読売巨人軍の影響は大きく、朝日が主催している甲子園の高校野球程度では勝負になりませんでした。

 ところが、その巨人が僅か9年の歴史しかない楽天に負けたのです。〈紙媒体がネットに負けた〉のです。たかが野球ではありますが、私はこの出来事に時代の大きなウネリを感じています。

 一昔前、広告といえば新聞広告、折込広告でした。テレビが登場し、テレビ広告の扱い高は新聞広告を凌駕し始めました。パソコンが普及し始めると、ネット広告が出始めました。パソコン画面に不必要なほど現れる液晶画面上での広告です。始めは微々たるものでした。ところが何と、いまや、ネット広告は紙媒体広告より多くなっているというではありませんか! 全国の新聞社の広告担当者の驚きと嘆きが、引退した私にまで聞こえてきています。ネット広告の扱い量は鰻登りに増えているのです。ここまで予測できた新聞関係者はいたでしょうか?

 電車の中で新聞を読んでいる人はいなくなりました。若者は新聞はとらない、読まない、触らない、です。その代り、争って液晶画面に熱中しています。歩きながら、自転車に乗りながらスマホを覗いています。10月の18日にオールド新聞人の集まりに顔を出したのですが、今の若者は〈タダでも新聞はいらない〉のだそうです。読売も朝日も、それにたくさんの地方紙も、有り余る売れない、読まれない新聞を抱え、四苦八苦しているのが現状です。将来に見切りをつけ、この業界から人は去っていっています。

 常勝巨人軍が楽天という新興ネット集団に、例え、野球という勝負事であっても負けた、ということは、この時代の流れを象徴するできごとではないでしょうか。

 


2013年11月3日                時間と空間

 私たちは毎日、何気なく〈時〉をやり過ごしています。一瞬、一瞬が、それこそ一瞬の間に過ぎていきます。過ぎてしまうとそれは過去です。そして、過去は永久に戻らない。これを、時間の不可逆性と言うようです。割れたタマゴは、それを元にもどすことはできない。誰もが納得しています。でも、何でそうなのでしょうか? 何で時間は元に戻らないのでしょうか? もっと言えば、時間は何時から始まったのでしょう? 何のための時間なのでしょうか? 時間は何時から始まって何時まで続くのしょう?! 不思議で不思議でなりません。

 ホーキンスは〈宇宙はビックバンに始まり、時間はそこを原点とし、時間と共に宇宙は膨張し続けている〉という理論を展開しました。いまのところ、それが定説になっているようですが、ならば、ビックバンの前に時間は無かったのでしょうか? 不思議で不思議でたまりません。

 一瞬はどこからやってくるか、というと、その一瞬前にその一瞬が存在しています。何が起きてもおかしくない一瞬の連続が、今の一瞬になり、過去へと繋がっていきます。

 般若心経はこれを見事に言葉にしています。〈色即是空、空即是色〉がそれです。色とは現在です。空とは未来と過去です。〈現在は一瞬のうちに過去になり、未来は一瞬のうちに現在となる〉と意訳しましょうか。また、これに続くのが〈色不異空、空不異色〉です。〈だから、現在は未来と過去と異なるものではない〉と言っているのです。空とは、何もないことをいいます。

 私の一生を例えれば、何も無かったところに、ある日生命を授かり、再び、何もなかった状態に戻っていく。
だから、ひたすら念仏せよ、と仏教ではいうのでしょうが、私が問題にしたいのは、時間とは何か、何で不可逆性であるのか、その時間が存在する空間とは何であるのか、ということです。

 そもそも、 時間と空間の理論を学問的に体系ずけたのはニュートンでありました。古典物理学の始まりです。アインシュタインが純粋相対性理論で、時間にゆがみがあることを発見し、横槍を入れました。それが量子物理学を誘発し、ハッブル宇宙望遠鏡が地球外に打ち上げられるに及んで、宇宙物理学が全盛を極めています。時間とは何か、空間とは何か、驚くべき論理が導き出されつつあります。

 宇宙空間は観測不可能なある物質で充ちている、それをダークマターと呼ぶ という観測結果もあれば、宇宙空間は莫大なエネルギーで埋まっているという理論もあります。ダークマターとは?エネルギーとは? 興味が尽きないところです。専門的な数式は分からないにしても、それに迫っていく学問的努力が、今の私に必要なことは理解しているつもりです。高度に飛躍した宇宙物理学こそが、私の疑問に答えてくれる領域でありましょう。

 残されている時間が僅かであっても、私は新しい知識の吸収を続ける積りです。

 それにしても、地球から600キロ離れたところで、宇宙を観測しているハッブル望遠鏡が捉えて送ってくる宇宙の星雲写真ほど、面白いものはありません。特に、オリオン座の精密拡大写真など、見飽きることがありません。加えて、メキシコの5000メートルの高地に建設されたアロマ望遠鏡も驚異そのものです。

 山梨県の野辺山にある、日本最大の宇宙望遠鏡基地を隈なく見て歩いたことがありましたが、一個一個の円形の望遠鏡が林立しているのに驚いたのに、メキシコのアロマでは一個一個の望遠鏡の面積の合計は、山手線の内側の面積に匹敵しているそうではありませんか!

 時間と空間に迫る現代の最新データーに目を逸らすことがあってはならない、としみじみ思います。

 やがて、喜寿を迎える私ですが、可能な限りの情報を仕入れ、それについて私なりの思いを巡らしながら、私は、私の時間の終焉を迎え、空間に還っていこう、と思っています。

 


 2013年11月1日                故郷は遠くにありて               

 湯田中の温泉旅館からの送迎バスが長野駅について、一夜を共にした柳町中学時代の仲間たちと別れ、私は、長野高校下に位置する後楽時へ、墓参りに行きました。7月の高校同窓会の折は仏花を供え、草むしりなどしましたが、今日は手ぶらでの墓参です。晴れ渡った空のもと、数十回の念仏を唱えていると、私を育ててくれた仏たちの在りし日のあれこれが偲ばれ、〈私が今日在るのは、皆さんのお蔭だったなあ〉と、しみじみ思いました。善光寺を参拝して長野駅まで歩いてみよう、と動物園下の急坂を登りはじめました。

 昼下がりのせいもあってか、懐かしい城山は閑散としていました。ほとんど人に逢わず、善光寺まで来てしまいました。大昔からある土産物屋も、人はただ行き交うだけで、買い物をしている人は殆どいません。呼び込みもなければ、店先に店員の姿もありません。旧態依然たる干からびた品物が、ただ、置いてあるだけです。

 同じ土産物屋でも、つい9か月前に行ってきた仏教国ミャンマーの首都ヤンゴンでは、恐ろしいまでの賑わいを見せていました。ほとんどが仏具売り場で、生花や、複雑に織りなす供え物、それに生きている鳥などなど、人々が争って買っています。それらをパゴタの敷地内にある無数の仏像に供え、横座りの姿勢で瞑想に耽っています。喧噪の中で没我の状態になっている庶民の姿は、一種荘厳でさえあります。生きている鳥は買ってから空中に放してやっていました。生き物への功徳なのでしょうか。街を歩けば、いたるところでオレンジ色の僧服を纏った僧侶に出会います。世界最貧国のレッテルが定着しているミャンマーですが、人々は柔和な笑顔を絶やさず、幸せそうです。

 仏教が生活であり、生活が仏教であるとさえ言えるこの国は、人々の心の在り方においては、最貧国どころか最恵国ではないか、と私には思えました。

 翻って、わが故郷の長野市の庶民は、善光寺と共にある生活をしているでしょうか?、天台仏教が人々の日常に入り込んでいるでしょうか?善光寺そのものが、庶民に対する布教活動をしているでしょうか?

 全くそうでないことに、改めて気づきます。仏教都市奈良や京都においても然り、寺社仏閣はただそこに存在しているだけ、いわば、観光するためだけの仏教でしかありません。辛うじて、葬式の時だけ庶民は仏教の世話になります。

 いい、悪いを言う積りはありません。民族にはそれなりの宗教との係りがあって当然であるし、日本の繁栄も、宗教と切り離された結果であるかもしれません。ただ言えることは、仏都長野市の衰退は今後も続いていくだろうこと、土産物屋の数も減っていくだろうことです。

 善光寺参道に軒先を連らねる宿坊の内の一つに、淵の坊があります。そこの当主若麻績君とは、昨夜、久しぶりに碁を打ちました。彼は中学同級会の会長で、長野高校7回生の同窓会長でもあります。家督を長男に引き継ぐまでは、善光寺ナンバー2の要職にありました。お互いに背が高いので、中学のクラスでは教室の後ろ側に席を並べていました。昼飯の弁当は、私がいつも粗末な麦飯であるのに、彼は白米の豪華弁当を持って来ていました。羨ましかったですね。その彼も、今は脊椎狭窄症を患っているため、囲碁は座敷に椅子を持って来ての対戦となりました。二段の彼は私に二子を置いたのですが、四目の惜敗となりました。麦飯の仇を返させてもらいました。長野市内中学校バレー対抗戦で私たちの柳町中学校は優勝したのですが、私が前衛のセンター、若麻績君がライトでした。懐かしい思い出です。聞けば奥さんがパーキンソンとのこと、気の毒でなりません。

 同級会の出席者は男子11名、女子5名でした。7,8年前からメンバーは固定されていて、出てこないものは、全く出てきません。この傾向は小学校でも大学でも同じです。奇妙なことに会社のOB会も同じです。

 どうやら、出ない者には過去に何らかの屈折があって、それがシコリになって、出てこないように思われてなりません。能天気な私には分かりかねる心理です。もう一つ付け加えれば、年を重ねるごとに、集まり自体に昔のような元気が見られなくなったことです。昨晩もそうでした。カラオケがありませんでした。酒量も減って部屋での二次会も賑わいが無く、皆さん早々に寝床へ入ってしまいました。翌日の観光も、5年前には半日かけて志賀高原から横手山まで行ったのに、今回は蓮池まで、それも、バスの中から紅葉を見るだけ。喜寿ともなればこうなってしまうのか、と感慨一入でした。

 善光寺の坂道を下り、繁華街の権堂町に入ってきました。昔は大賑わいだったアーケード街に人通りがありません。半分ほどの店がシャッターを閉めています。呆れてしまうほど寂れていました。おまけに、私のお気に入りのそば屋〈元屋〉まで休みでした。

 仕方がないので、東急デパート地下で弁当を買い、ガラガラの新幹線の中で淋しく食べました。故郷は遠くにありて思うもののようです。

 


2013年10月31日               松戸の赤ヒゲ

 千葉県松戸に、小板橋病院と同系列が運営する特別養護老人ホーム〈緑風園〉があります。院長の小板橋徳治君は一風変わり者で、県や市の医師会には属さず、独自の、弱者保護の経営をしていることで有名です。惜しくも、徳治君は6年前に亡くなりましたが、御子息がその志を継いで現在に至っています。

 私と宮沢君は、院長であった小板橋君に頼まれて、4,50人いる職員に対する研修講演をしました。宮沢君はカウンセラーの資格があるので、その方面のこと、私は〈音楽の力〉という講演をしました。(講演記録は私のショパンのノクターンにあります) 院長は講演料として10万円包んでよこしましたが、「同級生から金が取れるか」と返上しました。

 そう、小板橋君は長野高校から群馬大学医学部を出て、世にいう赤ヒゲになった同級生なのです。

 宮沢君は、自分の義姉をそのホームに入れさせてもらっっていることもあってか、月に一回以上通っては患者の囲碁の相手をしたり、シエーカーを振って飲み物をサービスしたり、童謡、戦時歌謡、演歌などを歌わせています。一切無料、全くの奉仕です。頭が下がります。それが6年間続いているのです。

 その歌の会のために、私は「歌碑を訪ねてー童謡名曲の旅75曲」の歌集を作ってあげました。5枚のCDやスピーカー、アンプなども寄付しました。歌の会には私も数回付き合い、宮沢君の助手を務めましたが、20人近くの患者に歌わせるのは大変です。

 同じ催しを、どう伝え聞いたか、練馬の〈グリーンホーム〉から頼まれました。つい最近、28日のことです。

 歌集はPCに保存してあるので、20冊を新たに作りました。一曲ごとに写真をあしらい、しかも読みやすい様に大文字での仕上げです。インク代と用紙代だけで、一冊の製作費は1000円を超えます。スピーカー、アンプ、CDなど車に積んで出かけました。

 2時からの開始なのに、セッテイングしている広間に、一時半には〈利用者〉さんの半分近くが集まってきました。車椅子の人、腰が曲がって付っきりの介助が必要な人いろいろです。

 私は一人ひとりと目を合わせ、名前を憶え、笑顔を振りまきます。15分前からCDを流しはじめました。すると、先に集まっていた数人が今や遅し、と歌い始めるではありませんか! この会は上手くいく、と確信した瞬間です。

 利用者さん18人、職員7名、それに館長さん。歌集を一冊ずつ配り、童謡が流れ始めます。高感度のスピーカーから、音羽ゆりかご会、倍賞千恵子、ダークダックスの歌の渦が広間に流れます。18人の利用者さんの内、5人は男性でしたが、照れくさそうに唇を動かしています。数えて6人の〈お姉さん〉が特に美声を張り上げました。中には口をもぐもぐさせているだけの〈お姉さん〉もいましたが、記憶を呼び覚まそう、一緒に歌おう、とする真剣な様子が手に取るように分かりました。このホームで〈女王様〉と呼ばれる90歳を超える長岡さんは歌詞も見ないでほとんどの曲が歌えていました。驚きました。〈夏の思い出〉を長岡さんにカラオケで歌ってもらいました。独唱したのです。曲と曲の間では、持参したお巡りさんの人形を使って、即席の腹話術をやりました。3時になって、お茶とショートケーキが配られ小休止です。何か演奏してくれというので、キーボードを使って2、3、曲やりました。「仰げば尊し」をやったときです。5、6人がケーキを食べるのを止めて歌い出したではありませんか。音程も確かです。

 かつて、松戸の〈緑風園〉で同じことをやったとき恥をかきました。オルガンがあったのでリクエストに応ずると大見得を切ったのはいいけれど、〈青い山脈〉をAモールで弾き始めたら、リクエスト者は別の調子で唄い始めたのです。間髪を入れずその調子で伴奏しなければならないのですが、上がってしまって、合わせることが出来ませんでした。絶対音感とまではいかなくても、寸時に転調演奏が出来なくては演奏者とは言えません。人前でやる以上、心すべきことなのでした。

 最後の三曲を歌ってもらって、館長が全員の集合写真を撮り、会はお開きとなりました。職員を含めて7,8人から、「また、やって下さい」 とのリクエストが届いています。しかし、約二時間小人数の集まりではあっても一つのことに集中するのは疲れます。

 家に戻って、一人で飲むビールの旨かったこと!

 


2013年10月23日              850円

 東京女子医大で私の尿管結石を治してくれた先生が、いまは新宿歌舞伎町の都立大久保病院に移っています。若い先生でありますが、初めての診察のとき、やおら、私の肛門に指を突っ込んで、「前立腺が肥大しています。ガン細胞の有無を調べる生検をした方がいいのですが、しばらく様子を見ましょう」と言いました。肛門を触られてしまうと どうも愛着が生じるようであります。だから、三年あまり、先生を追いかけて二か月に一回、血液検査、尿検査、PSA検査をしてもらっています。今回の血液検査では前回同様、糖も蛋白も尿酸値もOK,クレアチニンが閾値1,1のところ1,2と高く、中性脂肪も標準値を超えていました。PSAも閾値を超えていますが、安定していました。「クレアチニンを下げる方法は?」 と質問したのでしたが、「ありません。ただ、、食事療法によって、これ以上、上げないことはできます」 という答え。次回は、そのための栄養指導を受けます。

 朝飯抜きで行って、病院の支払いが終わったのが正午過ぎでした。病院の北側には都営グランドがあって、幟旗が林立し、大賑わいです。B級ご当地グルメ「つけ麺」の部の、日本一を投票で決める催しでした。

 「ま、いいか」 と群衆の中に入りました。850円の食券を買い、秋田の〈比内鶏つけ麺〉の列に並びました。左隣りは栃木県〈佐野の中華蕎麦〉、右隣りは〈博多のトンコツ〉です。見回すと、どのブースも同じ器を使っています。プラスチック容器にソバが盛られ、中に丸い容器があってつけ汁が入っています。これだけで850円は高いなあ、というのが印象でした。受け取る窓口でトッピングを半ば強制的に勧められました。仕方がないので、400円の比内鶏ダンゴを載せてもらいました。小さなダンゴが3個、つけ汁に入りました。

 ドロリとしたつけ汁とそばを口に入れた瞬間、〈ナンダ、コリャ!〉でした。不味いのです。旨くないのです。もちろん、比内鶏独特のうま味などありません。つけ汁はキリタンポ鍋の翌日のなべ底の味です。一個100円の小さな肉団子もブロイラーの味しかしません。〈コリャー、ダメダ〉 と食べ物を残したことなど、ついぞない私が、くずかごを探して捨てました。腹が立って、腹が立って堪りません。1250円返せ、と言いたくなりました。こうなると意地です。再び850円の食券を買い、〈佐野の中華蕎麦トッピング100円煮タマゴ入り〉に挑みました。最初の一口、これはいけるかなあ、でしたが、強烈な旨味は人工味そのものです。タマゴだけは食べましたが、もったいないなあと思いながら捨てました。投票箱に食券の半券を入れろと係員から催促されましたが、こちらは〈金返せ〉の心境です。つくづく、今の若い人たちの舌は、一体どうなっているんだ、と怒り心頭を発しながら、会場を出ました。

 昼間の歌舞伎町は煤けていました。コマ劇場も建て替え中です。昔、通い詰めたバー〈鎧や〉〈樽や〉〈いないいないバー〉など、いまは、得体のしれない風俗店に様変わりしています。風格のあった〈クラブ不夜城〉、小原重徳とブルーコーツの演奏を聴きに来た〈クラブ・リー〉など跡形もありません。ゴールデン街にも足を延ばしてみました。地上げは免れたものの、馴染みだった店は既になく、半分近くは閉店しているようでした。新宿二丁目も寂れていました。〈どん底〉だけは看板を掲げています。50年以上は続いているでしょう。

 懐旧に浸りながら、新宿御苑まで来ました。200円払って紅葉にはまだ間のある園内に入りました。

 来月5日正午、長野高校の親友6人がここに集まります。宮沢君を筆頭に、内山、山崎、池田、芳川、それに私です。毎年二回、宮沢君の別荘がある清里に集まっているのですが、今回は宮沢君の患いのため東京にしました。芝生に寝転んで四方山談義をすることになるとしても、敷物があるかどうか、アルコールは持ち込んでいいのかどうか、その確認のため、ここまで下見に来たのです。敷物は一枚300円で売っていました。アルコールの持ち込みはダメとのことですが、お茶のボトルに日本酒を入れ、偽装したお茶けを用意するつもりです。6人がちょうど入れる個室のある御飯処も見つけて、予約を入れました。

 そのご飯屋さんで、改めてサバ煮付で昼食をとりました。850円でした。二種類のB級グルメも850円。不味くて捨てた850円と、旨くて、もっと食べたかった850円。今日は850円に縁がありました。

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