最近のえっせい

2014年8月14日              パワーポリテックス

 学生時代の私は、絵に描いたような苦学生でした。学費から、部屋代から、生活費まで、すべて自分で賄っていました。三年の時、茅場町にある日経新聞社の発送部で、毎日アルバイトするようになってから、生活が安定し始めました。当時、高田馬場から茅場町まで都電が走っていました。5時に早稲田から乗って茅場町に着くと、菜っ葉服に着替え、社員食堂で夕食を摂ります。10時半に仕事を終え、風呂に入り11時発の都電に乗り高田馬場に着くと、西武線に乗り換え、上井草の4畳半の部屋に着くのが、夜中の12時を回っています。その行き返りの電車の中が、わが書斎でした。

 アルバイト仲間に、法政大学大学院生の佐藤栄一さんがいました。勉強家の彼からいろいろ教わりました。丸山正男、埴谷雄高、清水幾太郎、モーゲンソウ、ルカーチなど、彼によって知るようになります。発送部での仕事は、新聞の梱包紙に駅符を張るという単純作業だったので、しかも、その作業を毎日するのが二人だけだったので、議論百出させながらできたのでした。約二年間、彼の講義は続きました。彼は卒業と同時に外務省の外郭団体である「国際問題研究所」へ入ります。当時はソ連とアメリカが核を含めて軍備増強に凌ぎを削り、冷戦状態が続いていました。しかも、キューバ問題を巡り、フルシチョフとケネデイの間で、一触即発の状態となりました。しかし、間一髪で回避されます。両国の核弾頭の保有数は地球を10回破壊しても有り余るほどになりました。

 ソ連邦が崩壊するに当たって、ロシアとアメリカは軍縮に向かい始めました。お互いに査察団を派遣し、核弾頭を一定の数ごと、縮小し始めたのです。それは今も続いています。誰がこの現象を予見できたでしょうか?

 ある日、佐藤栄一さんから、枕に出来るほど分厚い本が送られてきました。それは今から20年ほど前です。本の題名は「核軍縮、パワーポリテックスの諸問題」です。国家間のパワーポリテックスには限界がある。核軍縮は必然的に起こり得る、とその分厚い本は予見していました。佐藤さんは国際問題研究所で軍縮問題の権威になっていたのでした。

 その佐藤さんが、小倉で営業局長をしていた私を訪ねてきました。久々の邂逅でした。門司の万潮閣という料理屋でフグを堪能してもらいました。ただ、酒の酔い方が余りにも激しかったので危惧していたところ、数年して死去の報に接しました。お葬式で謝辞を述べたのは、彼が下宿していた家の娘さんでした。アルバイト時代、散々悪口ばかり言っていたのにです。

 パワーポリテックスとは国際政治の力学は軍備拡張、つまり、武力の法則が支配するものの、それには自ずから限界があり、微妙なバランスこそが平和であるための礎なのだ、というものです。

 世界各国の軍事力の勢力図が詳細に分かる、〈ミリタリーバランス〉を見るまでもなく、日本の軍事力は世界の中でもかなり上位に位置しています。しかし、抑止力になり得るか、というと核保有国やコンピューターのサイバー攻撃に莫大な予算を取っている国に叶うはずもありません。戦争があるとすれば、21世紀の今日は、丸っきり過去の戦争と同じようなの形態をとるわけはないのです。

 集団的自衛権の拡大解釈を可能にしてしまった閣議決定は、稚児の火遊びに似ているのではないでしょうか。日本が核武装出来る国ではない以上、そして、二度に亘る核の洗礼を受け、あまつさえ、原発事故の悲惨さの只中にある以上、例え、近隣諸国からバカにされようとも、「戦争をしない国」をもって貫くべきではないでしょうか。

 参考にすべきは永世中立国スイスです。この国の特徴は、国民全員がイザとなれば山の中に隠されている武器をとって戦うことにあります。高速道路は滑走路になり、断崖絶壁の中に格納してある戦闘機を飛ばすのです。世界に向かって「武力はこれを放棄する」と憲法に謳っている崇高な精神の発露としての憲法改正なら、国民は納得するのではないでしょうか。

 明日は8月15日、敗戦記念日です。戦争の何たるかを知っている我々の世代は、極く僅かとなりました。


2014年8月13日                ミラクル星稜

 今から35年前、私は42歳、1979年8月16日のことです。夏休み中なので、自宅で、寝転んで、星稜(石川県代表)対箕島(和歌山県代表)の試合を観ていました。4回に星稜が一点入れました。すかさず、その裏箕島が一点を返しました。よくあることです。試合は延長戦にもつれ込みました。12回星稜が一点入れました。もう、寝転んでなどいられません。何と、その裏、箕島は一点を返しました。試合は2対2のまま13、14、15回と進み、16回星稜は、また、一点を入れます。私はもう興奮して立ち上がっています。ところがその裏、箕島が一点を返し、3対3の同点にしたではありませんか。まさかの奇蹟に私は立ったまま震えだしました。「こんなことって、本当にあるのだろうか」 「これは神さまの領域だ」と芯から思いました。

 そして18回、箕島が1点を入れて試合は終止符が打たれました。私は涙が溢れて止まりませんでした。高校野球の神髄を見た思いがしました。と同時に、星稜高校野球部には何か魔物が潜んでいるように思えてなりませんでした。

 その星稜が、またまたミラクルを発揮して今年の甲子園に乗込んで来ました。地方大会決勝で、土壇場の9回表、8対0で負けていたのに、その裏、何と、9点をもぎ取って、県代表になったのです。これは、1979年の奇跡に次ぐもの、と言っていいでしょう。

 そして今日、強豪静岡との試合で、圧倒的に負けていたのに、4対5で逆転勝をしたのです。

 「ミラクル星稜」は、一体、今年はどこまでやるのでしょうか。 


2014年8月12日                博多の名物

 博多には名物がたくさんあります。中州川端の屋台、新三浦の鳥スープ料理。これは夜にならないとダメです。櫛田神社の山笠。7月15日は、もう、過ぎてしまいました。狭い櫛田神社ではありますが、山車は飾ってあるので、私が博多駅前の朝日新聞福岡本部へ寄っている間、少し待つようにと言っておいたのに、次男の車は待ち時間を利用して、櫛田神社を見てきたようでした。

 博多駅前の朝日ビルはその全部が朝日新聞の持ち物です。3階、4階以外は貸しビルになっていて最上階はホテルに貸しています。これは凄い財産であり、先人の先見の明に感謝しなければならないでしょう。一年前に営業局長で赴任したF君は在社していました。電話もしないで突然押しかけたのでしたが、F君は20年前の同じ立場であった私を、喜んで迎えてくれました。64万部の西部本社全体の部数を維持する苦労が、F君の言葉の端はしに伺えました。私が西部本社へ来たときは確か70万弱の部数で、それを73万部にして後任のT君に引き継いだ覚えがあります。

 しかし、部数は兎も角、問題は、販売網の弱体化でありましょう。この20年間で、有力な販売所長が、次々に、この業界から去って行きました。この傾向は朝日西部本社だけではありません。全国の新聞社が抱えている大問題なのです。新聞が読まれ、部数が増えていた時代は、新聞は成長産業でした。いま、若者のほとんどは新聞を読みません。新聞は「とらない、読まない、汚れるから触らない」のです。ということは、この産業に従事していて、売上を伸ばす、という喜びが無くなったのです。数字的に上昇が見込めない新聞購読所帯をお互いが奪い合ってみても、競争経費が跳ね上がるだけで、仕事としての喜びがありません。だから、優秀な人から順に、この仕事から離れて行くのです。この先、一体どうなってしまうのか、心細い限りです。

 再び、次男の車に戻り、博多のもう一つの名物「長浜ラーメン」へ行きました。豚骨ラーメンが売りの店が十数軒並んでいます。さして旨いとも思えない素朴なラーメンですが、古くからの博多の名物であるだけに、孫たちにも、一度は食べてもらっておかねばなりません。「旨いか?」 と聞いたら「別に」 という答えでした。

 いま、ラーメン業界は、「旨さ」の追及に凌ぎを削っているやに見えます。旨いという店には行列が出来る有様です。これでもか、と味に工夫を凝らしています。長浜ラーメンは昔ながらのトンコツスープと、固めの麺、青ネギ、紅ショウガ、それだけです。昔50円の麺の御代わり(カエダマと呼びます)が100円になっていました。月曜日の昼時だというのに、余り人が入っていない十数軒の長浜ラーメン店は、何やら新聞産業に似ているなあ、と思ってしまいました。

 福岡発6時40分にはまだ時間があったので、博多湾に突き出ている志賀島一周をしました。海の色は内海と外海では極端に色が違っていました。最後に、志賀島神社へ行き、今回の旅の御礼を申し上げました。

 そして空港へ向かう道すがら、もう一つの博多名物「めんたいこ」の老舗「やまや」を発見し、無着色のB級品と、「アゴダシ」40個入りのパックを買うことができました。探し求めていたものが、最後に手にはいりました。

 あれから半月が経過しましたが、何かに憑かれたように毎朝、味噌汁を作っています。鍋にアゴ一匹とアゴのパックを一個入れます。長野から取り寄せた丸ナスを皮ごとぶつ切りにし、水にさらして灰汁をとり、栃尾の油揚げ、ワカメを加え、最後に特製味噌と岩塩を加えて味付けします。旨いのなんの…

 まだ、聞いてはいませんが、大宮の次男一家でも「アゴダシ」を使って味噌汁を作っているでしょう。高校生の二人の孫との旅は、実に楽しく、有意義でした。しばらくしたら、「今度はどこへ行きたい?」 と聞く積りです。

 追記  昨日、第三試合の日大鶴ヶ丘と富山商業の試合は、0−2で日大鶴ヶ丘が負けました。富山商のピッチャーの出来が余りにも良かったせいですが、それにしても日大鶴ヶ丘の主軸打者5人が、一本も打てなかったとは、何たる屈辱でしょうか。口惜しくて、悔しくて、クヤシクテ……


2014年8月9日           フレー、フレー 日大鶴ヶ丘

 待ちに待った「夏の甲子園」の開会が延期になりました。大型台風が今日の夜から、明日にかけて近畿地方を縦断するらしく、事務局は大事を取って二日間延期し、開会式は11日月曜日の9時、と発表がありました。高校野球は、慌ててやる必要は全くないので、この決断は正解でしょう。

 東京代表は二松学舎と日大鶴ヶ丘です。二松学舎は、何度も帝京によって出場を阻まれた末の結果です。確か、決勝で、いつも帝京に負けていました。帝京高校は私の三男の出身高です。柔道部に所属し、喫煙が判明して、退学処分一歩前まで行きました。長男、次男が、曲がりなりにも国立大学だったのに、三男は専門学校でした。その後、オーストラリアへ留学したので、英会話は達者です。

 もう一方の代表校である日大鶴ヶ丘の甲子園出場は、確か三度目とか。

 実は、日大鶴ヶ丘高校の初代校長は私の実父なのです。校長は2年ほどで替わるため、いまの校長は十何代目らしいのですが、創立に係ったのは私の父でした。父は、駒場学園高等学校の創立にも係っていました。この高校の校歌の作詞作曲は私の腹違いの兄がやっています。

 日大鶴ヶ丘の前身は日本蹄鉄専門学校でした。獣医として競馬界に名を馳せた父は、東大農学部教授を退官してから、日大農獣医学部教授になり、蹄鉄専門学校を作り、その学校が日大鶴ヶ丘高校になったのでした。蹄鉄とは、馬の爪が擦り減らないようにする鉄製の環のことです。戦争中は軍馬のため、戦後は隆盛をきわめ出した競走馬のため、質の良い蹄鉄の需要が大きくなり、専門学校まで作らねばならなかったようなのです。

 私の子どもの時の玩具は蹄鉄でした。家に何種類もあって、叩くといい音がしました。その音は今でも耳の底に残っています。父の名は松葉重雄といいます。小学校へ上がるまで、私は松葉信男でした。戦後しばらくして、あることを契機に、母が父と離婚してしまい、私は母の中沢姓に戻り、中沢信男になりました。(母はその後、東京都庁の役人であった佐藤正男と結婚し93歳まで生きます)

 インターネットで松葉重雄を引くと、私にソックリの父の写真が出てきます。私と違うのは、父は歴史に残る数々の専門書を書き残していることです。学位論文は「白ねずみにおける去勢の、甲状腺、脳下垂体、胸腺及び副腎に対する影響について」でした。家畜外科が専門領域で、「東大では銀時計組だった」 と母が良く言ってました。

 離婚はしましたが、父は私が中学校へ入学したとき、蛍光塗料付の腕時計と、コンサイスの英和辞典を送ってくれました。時計は無くなりましたが、ボロボロになったコンサイスはまだあります。それに父と母との戦時中の往復書簡が箱一杯あります。先妻を亡くし、後妻で入った母と、軍医として(馬の世話)、長期間戦場へ行った父との赤裸々な会話です。〈信男はどうしているか?〉という文面が毎回のように表れる父の手紙は、今も、私の気持ちを揺さぶります。

 腹違いの兄は松葉良という画家、兼作曲家です。武蔵野美術大学の理事、多摩学園高校の理事長などをやっていました。私が朝日新聞社に入ったのをいいことにして、何度も使い走りをやらされました。当時、朝日学芸部に在籍していた小川正隆という美術評論家の評をもらって紙面に載せろ、というものでした。その度に彼の絵をもらいました。子どもを連れて私の家に来て、私にピアノ演奏させ、「お前の音は荒すぎる」と酷評しました。腎盂膀胱がんで最近死にました。87歳でした。だから私は、兄の歳の87歳までは大丈夫かな、と秘かに思っています。

 明日の日曜日の第三試合で、私の父が初代校長であった日大鶴ヶ丘が、今年の甲子園で戦うのです。どうして応援せずにおられましょう。


2014年8月5日              太宰府天満宮

 小倉から都市高速道に入り、九州道に合流すると、大宰府インターまでは、ほぼ、一時間ちょっとです。大宰府天満宮は、相変わらずの賑わいを見せていました。社務所でお礼参りを告げ、孫二人一万円を払うと、名前その他を記入する用紙が渡され、板敷の社殿に招き入れられました。神主が現れました。正座をしなければなりません。住所、氏名、学校名などが一人ずつ奏上されます。孫たちは神妙に頭を垂れています。私は懸命に膝の痛さをこらえています。昔は正座など苦にならなかったのですが、今回は応えました。やっと終わって、ホットしました。

 大宰府天満宮には、ほとんどの人が知らない隠れ座敷があります。宿泊もでき、山海の珍味が供されます。巫女さんがお酒のお相手をしてくれました。その時のメンバーは8人、読売の深谷西部本社代表と大塚局長、毎日の白根代表と田中局長、西日本の清水専務と島田局長、朝日は奥尾代表と私です。4社による定例会は代表者会と呼ばれ、三か月に一回、泊りがけで開かれ、翌日はゴルフ、と決まっていました。

 お互い、商売敵と一夜を共にし、ゴルフといえども戦を交えるのですから、なおざりにできません。8人はそれぞれ必死になって戦いました。新聞がまだ、良き時代を謳歌できていたからこその会合でした。しかし、新聞はその頃から衰退の道を歩み始め、いまや、のっぴきならない状況になってしまいました。液晶媒体が、ここまで紙媒体を駆逐するとは、誰が予想できたでしょうか。

 ついでながら、大宰府の奥座敷に泊まった翌日のゴルフで、私は優勝するのです。確か、43、45の88で回った記憶があります。そして、その余勢をかって、翌月の九州新聞人ゴルフ大会でも優勝してしまうのです。参加者50人を超える大きな会でした。

 それには伏線がありました。小倉のマンションで朝6時に起きると、ゴルフバックを車に積んで、近くのゴルフ練習場へ行き、100球は打ちます。アシスタントプロについて打法も学びました。すると、ボールは面白いように遠くへ飛び出しました。帰ってきてシャワーを浴び、自分の朝飯を作ります。それからピアノの練習です。120万で買ったローランドのグランド型ピアノは、弱音装置や、イヤホーンが付いているので音が漏れる心配はありません。それを9時40分まで、そして出勤です。歩いて15分なので、砂津の西部本社には5分前に着きます。この日課は、単身赴任の約2年間、ほとんど毎日続きました。「努力は実って」 当然だったのです。

 

2014年8月4日           おみくじで凶を引く

 田川ホテルの洋朝食は、オムレツ、ソーセージ、カボチャのスープ、サラダ、トースト、果物、紅茶でした。テーブルも器もそれなりに小奇麗で、昔の田川ホテルとは大違いになっていました。さて、三日目の旅は市内の小倉城から始まりました。生憎、閉館中で中には入れませんでしたが、城址公園の、朝からうるさいほどのセミの声を聞きながら、隣りの八坂神社へ行きました。ここにこんな立派な社があったのか、とビックリしました。2年いたのに一度もお参りに来たことがなかったからです。きっと、そのせいでしょう。神さまの仕返しが始まりました。

 旅の間中、寺社仏閣を訪れると、萌ちゃんは必ずおみくじを引きます。「あ、吉だ」「あ、中吉だ」 と言いながら、書いてある恋愛の項目を読みながら、ニヤニヤしています。大吉も凶も、まだ出ていないようでした。

 何気なく、萌ちゃんにならって、私もおみくじに箱に100円を投入しました。私がおみくじを引いたのは、恐らく、50年以上も前にあったか、なかったかであります。 チャリンと音がして、転がり出た紙切れが地面に落ちました。「拙い! これは凶だ!」 と咄嗟に思いました。そうなんです。おみくじでは滅多に出ない凶を引き当ててしまったのでした。文面には「これから起きる良くないことに、信心を持って対処し、乗り切るべし」 と書いてありました。

 私は、この偶然を、私への警告と捉えることにしました。「何の、おみくじ如き」 と思わないことにしました。「近いうちに、私の身にとって良くないことが必ず起きる」 と思うことにしました。普通なら気が付かないでいることを、おみくじが気づかせてくれた、感謝してこの予言に対処しよう、と心に決めたのでした。

 旅行から戻って一週間経ちました。今のところ、何とか無事でいます。      

 

2014年8月3日               兵どもの夢の跡

 本州の外れ下関と、九州島の入り口である門司との間が、俗にいう関門海峡です。海峡の幅が狭いので潮の流れが速く、その流れも一日に二回、方向を変えます。小倉住まいのころ、誘われてこの海峡で「白キス」釣りをしました。大きな船が立てる荒波を受け、乗っている釣り船が危うく転覆しそうになりました。

 大きな吊り橋を渡るのは高速道路だけですが、海峡の底には一般自動車道、新幹線、普通JR,一般歩道、が走っています。 車は、門司側の、関門海峡が見渡せる「めかり公園」へ行くため 、海底一般道を走ります。カーナビが「ここから福岡県に入ります」と告げました。真弓さんを含めて三人が「ワーイ」と言って手を叩きました。真弓さんも九州は始めてだったのです。

 秋も終わりになると、この付近の山々は渡り鳥の集結地になります。夥しい数の鳥たちが集まって来て、ここで上昇気流を捉え、順番に大空に輪を描きながら舞い上がっていきます。そして、点となって消えてゆきます。20年前、長い時間、見とれていたことがありました。 

 門司と小倉は地続きで、町並みは立派になってはいるものの、人影が疎らです。そういえば今日は日曜日なのでした。今夜の宿、小倉の田川ホテルは、昔と違って瀟洒で小奇麗なホテルになっていました。

 4時から7時まで、自由行動となりました。私が住んでいたマンションは、田川ホテルの窓から見える距離です。マンションの次は、今はない砂津の朝日新聞西部本社行き、続いて、行き付けだった料理屋へ行って、今晩の予約を入れよう、と歩きはじめました。

 20年前、新聞は未だ堅調でした。活気がありました。営業局長で赴任した私の部屋は、円形の西部本社の真ん中にあり、専属の秘書もつき、おまけに、ゴルフ会員権まで営業局長名のものがありました。 狭い土地のせいか、賑やかな夜の巷で、誰と、何処で飲んだか、翌日には社内に知れ渡っている、という有様でした。

 その西部本社がなくなっていました。広大な駐車場になっていました。地続きのバス会社が購入し、砂津地区の市政再編に協力するということで撤去したのでしたが、市政そのものが衰退し、計画通りになっていないことが、ひと目で分かりました。「兵どもの夢の跡」に立つのは、実に切ないものがありました。

 更に困ったのは、当にしていた料理屋さんや、寿司屋さんが、日曜日のため休業だったことです。新鮮な魚介類を食べさせてくれる家庭的な飲み屋さんもお休み。水餃子で有名な長崎宝雲亭の小倉支店もお休み。最も行きたかった「むらさき寿司」もダメ。孫たちに、小倉ならではの美味しいものを食べさせたかったのですが、叶いませんでした。結局、呑み放題、食べ放題の、ありきたりの焼肉屋で、北九州大学の学生コンパと一緒になっての食事となりました。でも、隣りの学生たちにつられて、良く飲み、良く食べました。          

 

2014年8月2日             奇兵隊にスポンサーあり

 不思議の街「萩」は、ご多聞に漏れず、寂れていました。アーケード街には人影がありません。飲食店もほとんどありません。昨日は、全員で検討した結果、「マル」という料理店で夕食をすることになりました。珍しいと思われるものを注文します。ナスの鬼焼き、20センチを超えるナスの半身に油味噌をのせ、オーブンで焼いたものが出てきました。黒いカマボコが出てきました。赤い地魚の塩焼きが出てきました。圧巻はこの土地ならではの「見欄牛」の生肉寿司でした。私と次男は、生ビールのあと、もっぱら地酒です。杯に入った7種類の酒を味わっている内に、出来上がってしまいました。

 ガイドの匠君の指示では、萩から高杉晋作の墓所のある東行庵へ行くのでしたが、私の希望で、山口の瑠璃光寺へ寄ってもらいました。林間に聳える五重塔を見ていると、種田山頭火や、中原中也が偲ばれてならないのです。「分け入っても、分け入っても、青い山」 種田山頭火です。中原中也を見るまでもなく、長州人は並の人間でないのかもしれません。「不思議の国の長州人」 と思えてなりません。

 東行庵は私にとって二回目です。高杉晋作と奇兵隊一色に染まった墓所です。29歳で戦死した晋作には、既に、二号さんがいました。65歳まで生きた2号さんがこの庵を結び、晋作や晋作と共に戦った奇兵隊の霊を弔らったのでした。晋作夫婦より一段下がったところに、この2号さんの小さくて丸い墓石がありました。

小兵でブ男で、大刀を引きずって歩いていたという高杉晋作も、並の人間ではなかったのです。続いて、長府の功山寺へ行き、武家屋敷跡を堪能した後、左に関門海峡の荒波を見ながら、下関の「奇兵隊組織跡」へ、ガイドの指示で行きました。外国船と戦う高杉晋作による奇兵隊が組織された跡地です。中国電力の敷地内でしたが、碑が立っていました。白石浩一郎という回船問屋の主を記念するものでした。合点がゆきました。
 高杉晋作率いる奇兵隊にはスポンサーがいたのです。それが、白石という豪商だったのです。戦には常に金が付いて回ります。歴史は常に表面の出来事だけを露わにするが、その底辺に横たわる財政問題には触れません。いかなる戦争といえども、金がなければ成立しません。歴史はその辺を曖昧にしがちですが、今回の匠君のガイドは「戦争は一面は金だ」 という歴史的事実を掘り起こしました。

 「ガイド、これで終わります」、という 匠君に対して全員が拍手を送りました。

 

2014年8月1日               萩の昔の郭に泊まる

 山口県の徳山宇部空港に着いた私たちは、直ぐ、予約してあったレンタカーに乗込みました。運転手は次男。助手席には、今年、高校一年になった孫の匠君。その後ろの席が同じく高校一年になった孫の萌ちゃん。二人は奇しくも男女の双子です。その隣が次男の奥さんの真弓さん。そして、最後部座席に、ジイサンの私。車は最初の目的地、山口県萩市に向かって、よく整備された高速道を快調に走ります。

 どこへ行きたい? と聞いたら、「僕は高杉晋作について勉強しているので、萩へ行きたい」 と匠君。「私は高校受験の時、太宰府天満宮に願をかけたので、お礼参りがしたい」 と萌ちゃん。私は20年前に、単身赴任で2年間住んだ小倉のその後に、興味がありました。

 そんなわけで、今朝は4時起きして、羽田発7時40分のJALに乗込んだのでした。

 萩は日本海に面した小さな街です。周囲は山に囲まれ、下関へ行くにも、山口、小郡に出るにも、険しい山越えをしなければなりません。驚くべきは、この人里離れた山の中から、明治維新で重要な役割を担った人物が数多く輩出された、という事実です。村田清風、吉田松陰、金子重輔、高杉晋作、久坂玄端、木戸孝允、伊藤博文、前原一誠、山形有朋……

 江戸末期、尊王攘夷を巡って、萩藩は俗論派と改革派に分かれていました。ペリーの船に乗込んで渡航を願い出た吉田松陰の願いは却下されたものの、その熱意が買われ、教えをこう者が現れ、松下村塾が出来ました、粗末な小屋です。松陰神社の中にありました。隣りには、これもやはり粗末な、松陰の生家がありました。密航を企てた松陰は、その咎により、俗論派によって幽閉され、最後は獄中死させられます。30歳です。したがって、松下村塾は大ぴらではなく、数人ずつによる、ヒソヒソとしたものであったようです。しかも、17歳の高杉晋作が27歳の吉田松陰に松下村塾で薫陶を受けたのは、僅か、一年余りです。つまり、当時の松下村塾は、いわば、非合法の秘密結社だったのです。それなのに、いやそれだからこそ、そこから多くの人間が育ち、保守的だった日本を改革したのでしょうか。

 今日明日のガイド役は、匠君です。勉強してきたとみえて、「次はここ、次はここ」とお父さんにカーナビで指示をだします。木戸孝允の生家にも行きました。高杉晋作、伊藤博文の生家も見ました。博物館では長時間費やしました。武家屋敷の土塀を縫うようにして、城跡から海岸へ出て夕日を見守りました。

 圧巻は、その日泊まった宿でした。ホテルが満室だったのでここにした、と次男は言うのですが、そこは何と、萩の昔の郭でした。ロの字型をした二階屋です。中庭に面して廊下があり、4畳半が並んでいます。明治末期に建てられたものらしく、柱は腐食が進み、畳はフカフカです。大の男が飛び跳ねたら、二階から 突き抜けそうです。トイレは共同で、しかも、ドボン式でありました。

027.JPG        どれだけ多くの萩の男どもが、この宿の御厄介になったか、その萩の歴史を共有す

るのだ、と幾分不満げな孫どもにお説教を垂れ、眠りについたのでありました。夜中
に大豪雨があって目が覚めました。屋根が破れそうな大雨でした。        

 翌朝です。一階の6畳間に朝食5人分並べられています。ワカメの味噌汁、ヒジキ
の煮ものと、きんぴら牛蒡の小皿、鮭の切り身、卵焼き、かまぼこ二切れずつ。そし
て、生卵。ところが、タマゴに使う醤油がテーブルにありません。「あ、お醤油がない」
「あ、ほんとだ」 5人の目が食卓と部屋の違い棚、隅々までいきました。どこにもあり
ませんでした。その時です。唐紙が開いて仲居さんから醤油差しが手渡されました。
と同時に部屋の棚の上に醤油差しが忽然として現れているではありませんか。「あれ、あそこにあった?」 「なかった…」                                           
「エーッ!?」                                          

 萩というところは、誠に不思議な街であります。

 

2014年7月24日              音の持つ力

 ところは長野市のホテル犀北館の広間。調律を終えたばかりのグランドピアノが置かれています。試弾したところ、いい音で鳴ります。定刻の5時、「長野北高校第7回卒業生同窓会」(俗称北7会)が始まりました。宴も半ばになり、マンドリン奏者で作曲家、合唱団指揮者の有賀君(国立音大卒)のピアノ演奏が始まりました。彼は難曲の「バンブルブギ」を難なくこなしました。続いて応援歌と校歌の斉唱になり、マイクが私に渡されました。檀上に声がいいと言われる4人に上がってもらいました。4人の中には元長野日赤院長の宮崎君も入っています。「これから発声練習をします。最初の人はドーと発声して長く伸ばし続けます。次の人はミー、次の人はソー、最後の人は高い方のドーと続いてください」 有賀君がピアノで音を指示します。Cコードのハモリが場内に鳴り響きました。場内は突然の和声にオヤという感じです。いつもはこれを、会場の全員でやるのですが、今回は省略です。「では、これに歌詞をつけてお願いします。「長野……高校……深志より……上だ……」 拍手が起きました。続いて「若麻績(わかおみ)……会長……いついつ……までも……」 本当は「そろそろ……くたばれ……」 としたかったのですが、そうもいきません。

 「では、応援歌〈南下軍の歌〉です。運動部は檀上にお上がりください」 野球部の依田君はじめ 7,8人が登壇してきました。指揮は有賀君です。私はピアノを弾き始めました。恐らく、ほとんどの人は忘れているでしょうから、ワンフレーズはピアノだけです。続いて力強い歌声が起こりました。「フレー、フレー、キ、タ、コ、ウー!」 の音頭は依田君がやりました。続いて校歌です。三番までやりました。

 声を出す、というのはいいものです。皆それぞれ満足げでした。私もホッとしました。やおら席に戻ってビールを一気呑みしました。私は「弾くなら呑むな、呑んだら弾くな」 をモットーにしています。

 去年のこの会にも出席したのですが、ピアノはなく、校歌も、ボソボソと一番だけ歌う会合でした。ハモニカが伴奏したこともありました。2、30年前は、私か有賀君が校歌の伴奏を務めていた記憶があるのですが、何時の頃からかなくなりました。会の財政が逼迫し、しかも、ピアノの借り料が法外の値段であったからです。

 去年のその時、有賀君や地元の幹事がいる前で、「こんなお通夜みたいな校歌は嫌じゃ。有賀君やオレがいるのに…」 と つい、放言してしまいました。20日ほど前に電話がありました。「ピアノを入れたからよろしく頼む」と。「高い料金は迷惑になるからイヤダ」、と固辞したのですが、安く交渉したから頼むというのです。

 そこで、有賀君と当日の構成を考えました。苦労したのは転調です。今まではハ長調で声がでていました。三度半音を下げることにしました。高い方のミの音をシの音にまで下げて伴奏することにしました。同時に応援歌もその音を基音にして、頭の中に楽譜を作り上げました。電話があって、承諾してしまってからの10日間、毎日練習しました。

 帰りの新幹線の中、三人の旧友とコップ酒をしこたまやりました。おかげで、上野駅からどうやって家に辿り着いたのか、記憶が定かでありません。

 

2014年7月23日            食の自給率を上げよう

 私が最初に中国へ行ったのは、今から46年ほど前です。小学校6年と5年の長男、次男を連れて4人で行きました。1月2日から6日まで、17万円を払っての西武観光のツアーでした。人民元は使えず、兌換券のみの通用でした。天安門の人民広場には、青い防寒コートを纏った1万人を超える人が、何をするでもなく、ただ、突っ立っていました。バイクや車は走っていず、広い道路は自転車の洪水でした。交差点で留まっていた自転車が走り出すと 「シャーッ」という音がして、轟音になりました。北京の建前飯店というホテルは建てつけが悪く、隙間風が入ってきました。道路に面する部屋だったため、一晩中、空車のトラックの音に悩まされました。しかし、食べ物は美味しく、殊に、北京ダックで名高い「全衆徳」では、1匹丸ごと家族で平らげた上に、おかわりを頼みました。長男も次男も、あれは旨かった、と今でも言います。万里の長城で食べた弁当も旨かったですね。その頃の中国の食材は、極く自然で、しかも、新鮮なものが使われていました。

 「中国少年報社」と「朝日学生新聞社」との、毎年の社員交流でも、社長、編集長、副編集長の3人で行きました。北京、西安、上海では小学校を見学させてもらいました。その時の食事も、極く自然で、旨かったという記憶があります。

 その後、上海へ頻繁に行くようになります。名古屋の従弟の商売の関係で、「兄さん、行くかえ?」 「行く、行く」 となるのです。その度にゴルフになります。バンカーの多い「ピンハイゴルフクラブ」 でバンカーに入れた数は、恐らく、100回は下らないでしょう。

 その頃からです。どこで何を食べても、旨くないどころか、極端な人口味が後味に残るようになったのは。
従弟と上海の〈グ〉さんの計らいで 、朝日囲碁クラブの面々を引き連れて、上海囲碁クラブと日中囲碁決戦をやりました。盛大な料理だったけれど、旨いものは何もなかったなあ、というのが、仲間の率直な感想でした。

 いま中国では、マツタケもフォアグラも、大豆蛋白を加工して作ります。上海蟹もすべて養殖です。上から餌が降ってきて、労せずして食にありつく蟹が、旨かろう筈がありません。

 折から、マクドナルドやコンビニのチキンナゲットに、正味期限切れの、7か月も前の鶏肉が混入されていることが発覚し、問題になっています。それ見たことか、と私は思います。水も土壌も汚染されっぱなしの中国の食材に、いつまで日本は頼っているのか、と義憤を感じてなりません。

 私たち日本人は、食糧の自給率にもっと関心を持たねばなりません。どんなに安かろうが、中国物は汚染されているのが明らかなのですから、遠ざけて当たり前なのです。

 いま、ほとんどの日本人は中国が嫌いになりつつあります。だとしたら、食についても、中国ものを、シャットアウトしたらどうなのでしょう。

 

2014年7月22日              いやなもの

 昨日の新聞の片隅に、韓国の例の事故を起こした船会社のオーナーの腐乱死体が、オーナーが所有する別荘の近くの畑の中で見つかった、とありました。自殺か他殺かは、まだ、判然としていないようですが、「天網恢恢疎にして漏らさず」を感じました。この経営者はキリスト教の教祖を気取っていました。統一教会や原理主義教会と同じ流れの、キリストの名を騙って、人心をマインドコントロールして利益を上げる、とんでもないエセキリスト者であったのです。人身を預かる船会社の実質オーナーでありながら、安全管理を怠り、重大事故であるにも拘わらず、アメリカホワイトハウスのブログに 「この事故への糾弾は、キリスト教への冒涜である」 と書き連ねた男でありました。恐ろしいほどの財を 海外に分散させているとも言われています。

 近来にない「いやなもの」 の典型でありましょう。

 もう一つ、最近、私が見た「いやなもの」 についてです。12日、東京駅で長野新幹線を待っていました。折り返し運転のため、発車6分前に長野からの列車が到着しました。すかさず、車内整備のため、一車両一人、合計8人の係員が乗り込み、車内清掃をし、座席を回転させました。その間僅かに5分。発車1分前には全員が出てきて、一旦、ドアが閉まり、再び開いて乗客が乗り込み1分後に発車です。その手際の良さは見事、というほかありません。いやなのは作業員全員がアロハを着て、揃いの中折帽子を被り、その上帽子に派手な花飾りをつけていたことです。かてて加えて、8人全員が列車を背にしてホームのわれわれに向かって最敬礼をしました。列車が発車するまで全員が直立不動です。発車するや、またまた、列車に向かって最敬礼です。

 従業員のモチベーションを考える余りの、清掃会社管理者の苦肉の策なのでしょうが、私には反吐を吐きたくなるような 「いやなもの」に映りました。文楽の裏方は目立たないことを持って最良とします。演劇の舞台で裏方が舞台にシャシャリ出ることがあったでしょうか? 裏方は、優れた裏方になればなるほど、自分の身を消すものなのです。東京駅の新幹線ホームには、不愉快な非常識がまかり通っています。

 私たちは、列車の清掃の手際よさを見物にきたのではありません。ただ、列車に乗りに来ただけなのです。


2014年7月21日              存在の余りの軽さ

 田舎で子供たちが戦争ごっこをしています。互いに武器を持ち、争いは真剣になってきました。そこへ、北海道のおじいちゃんから新しい武器が送られてきました。飛んでいる鳥を追いかけて行って撃ち落とすことが出来る武器です。たまたま、鳥が飛んできました。「試してみよう」 とその武器が発射されました。

 乗員乗客289名を乗せたマレーシア航空17便は、こうして撃墜されました。普通、紛争地区の上空は、航空機は迂回して飛ぶものです。いくら許可をもらっているからといって、危険地区を避けるのは航空会社の原則としたものです。更に、許可を与えた側にも問題があります。何よりもそんな危険な武器を与えた北海道のおじいちゃんに責任があるでしょう。

 撃ち落とされる運命など露知らず、不幸にも乗り合わせた乗客乗員はどんな思いで死んでいったのでしょうか。命というもの、存在というものの、余りの軽さに息を呑む思いがします。

 韓国のチジェ島で、悲惨な海難事故がありました。これは、女性の三等航海士が、初航海であるにも係らず、契約社員である船長から操舵を任されたことに端を発しています。

 更に、北京へ向かうマレーシア航空機が海上で行方不明になり、今もって、不明のままです。海の底から「オレタチのイノチ、ワタシタチのイノチ、ドウシテクレル!」 という悲痛な叫びが聞こえてきます。

 人間の存在というものは、峻厳なものです。一人ひとりに過去があり、一人ひとりが未来を思い描いていた筈です。決して自分のせいではないのに、、単なる他人の不注意という、それだけの理由でその存在を絶たれていいものでしょうか。

 せめて、その原因を作った当事者には厳罰を科さねばなりません。同時に手厚い補償をせねばなりません。武器を送った北海道のおじいちゃんは、全世界に対して土下座して謝まらねばならないでしょう。

 マレーシア航空は2万人の従業員を抱え、3500億円の負債を抱える不良会社ですが、例え、倒産に追い込まれようとも被害者への十分な補償を怠ってはなりません。国を挙げて補償に取り組むべきです。

 韓国の海難事故で、乗客をほったらかして、われ先に逃げ出した船長以下15名の乗組員には死刑の判決が出て当然でしょう。こういう杜撰な会社を存在させた責任は、国家体制にあるのですから、補償には国そのものが当るべきです。

 「存在の余りの軽さ」は、当然、私自身にも起きるものと、私は覚悟しています。この2年間で32回の飛行機の離発着を経験してきましたが、今までが幸運であっただけに過ぎません。いつも窓の外を眺めながら、「今日まで、自分の来し方は幸せであったな」 と思うのを常としています。だから、万一の場合、私に対しての補償はいりません。

 

2014年7月20日           IPAD礼賛 

 チェンマイのショッピングモールの中に、ピアノショップを見つけました。貸しピアノもあったので、一時間150バーツ(450円)払ってやらせてもらいました。中国製のアプライトピアノで、酷い音がしました。日本のヤマハやカワイのピアノとは比較になりません。日本のピアノは東南アジアでは、最高級品です。

 ヤマハのフルコンサートピアノも、世界中のピアニストに愛用されていますが、コンサートで使うのはスタインウエイかベーゼンドルファーです。ショパンの時代はプレイエルでした。チョット小型で柔らかい音がします。

 ヴァイオリンやチエロのような弦楽器は、自分で音を作らねばならないのに反して、ピアノは叩けば鳴るのですから、誰が弾いても同じだろう、と思われるのですが、弾く人の技量によって、全く違った音を出すのが、ピアノのピアノたる所以です。

 古今東西、大勢のピアニストが活躍していますが、その優劣を決める決め手は何か? と問われれば、私は楽譜にプレストと表示されている箇所を、どのような神技を発揮して弾くか、に置いています。

 ショパンには、難曲中の難曲といわれる練習曲集があるのですが、これを弾いたすべてのピアニストのCDをコレクションにしています。60枚以上あるでしょうか。(私の最初のエッセイ集〈ショパンの練習曲〉にその顛末があります) 聴き比べた結果ジョルジュ・シフラに止めを刺しました。ショパンコンクールの優勝者であるブーニン、ヴェレゾフスキーなど問題外です。

 私はいま、朝に夕に暇さえあれば、IPADを弄んでいるのですが、CDを買わなくても、ユーチューブで世界のピアニストの演奏がズラズラズラと聴けることを発見しました。そして今、やり始めたのがショパンの一番のバラードの聴き比べです。ほとんどのピアニストがこれを弾き、映像まで出しているので、比較検討が全く楽にできてしまうのです。ギーゼキング、コルトー、ホロビッツ、ミケランジェリ、アルゲリッチ、ポリーニ、ピリス、ゲルバー、エッシエンバッハ…中にはラフマニノフの貴重な演奏もあります…日本人では仲道育代、横山幸雄、辻井信行…中国人ではユンデイ・リー、らんらん……

 そして、聴き比べの対象となっているのが、この曲の最後の方の、主題のあとに続く僅か8小節のプレスト部分です。ここをどのような神技で弾くか、これが判定基準であり、私はこの部分が近づくと体中がゾクゾクし始めます。中国人の演奏家はそれなりに達者なのですが、「われこそはピアニスト」というオーバーワークが目立って嫌いです。思い入れタップリに顔をゆがめ、苦悶の表情で弾く仲道育代も、どうにかならなか、と思います。ピアノはポリーニのように姿勢を崩さず、淡々と弾きながら音にこそ表情を込めるのがいいのです。バラード一番では軍配はアルゲリッチでしょうか。彼女はショパンのスケルツオ2番の中でも神技を発揮しています。

 もう一つ、聴き比べしているのが、バッハのゴールドベルグ変奏曲です。言わずと知れた難曲中の難曲です。これはグレングールドに止め刺すと言っていいでしょう。至る所に神技が発揮されています。不思議なのは彼の演奏には飽きが来ません。私は車を運転しながらいつもピアノ曲を聴いているのですが、この一年、グールドのCDだけをを繰り返し、繰り返ししています。これからはいざ知らず、世界一のピアニストはグレングールドだ、と私は思います。

 

2014年7月19日               パンダ

 チェンマイ大学は緑豊かな、広大な敷地の中にありました。無料の電気自動車が走り、学生たちが行き来していました。御茶ノ水の高層ビル群の、日本の大学と何と違っていることよ。その隣が動物園でした。パンダが二頭いるというではありませんか! 私は、パンダは写真でしか見たことがありません。特別室で飼育されている二頭のパンダは、実に奇妙な生き物でありました。

 パンダは、竹だけを食べるようです。それも、青い皮は器用に剥いて、中の芯に近い部分だけを食べているように見えます。あんな固いものを、しかも、味も素っ気もないだろうに、何で竹だけなのか? それに、パンダのオチンチンが身体の大きさに比して、小さいのが奇妙にうつります。だから、繁殖能力に欠けるのかなあ、といらぬ心配までしてしまいます。面白くて、長い時間居てしまいました。

 

2014年7月18日              レールを走る乗り物

 東南アジアで、汽車または電車に乗った回数は? と問われると、「たった4回です」小さな声で答えます。それほど、乗っていないのです。団体旅行だとバス移動ですから、機会はありません。個人旅行に限られてしまいます。母親の喜寿を祝う上海旅行で、私の家族、従弟の靖輝家族合計9名で、上海から杭州までの往復、軟座車に乗りました。ガイドと一緒でしたが上海の地下鉄で博物館まで往復しました。次男の家族5人で台湾の地下鉄に乗りました。長男の家族とソウルへ行ったとき、一人で地下鉄に乗りました。ナニ、行けるところまで行って、同じ路線を還ってくれば、迷うことがありません。半時間程でしたが、ミャンマーの首都ヤンゴンの「オンボロ、ぼろぼろ山手線」にも乗りました。

 乗っていないだけに、「今日は汽車に乗るぞ」 と勢い込んで、タイはチェンマイの駅へ行きました。一時間ほど乗って、同じ路線を還ってくれば、いいのです。チェンマイの駅は街外れにありました。

DSC00093.JPG             ホームはありました。列車も留まっていました。ところが、
人がいないのです。その訳はバンコック行きの列車はあっても、
一日6便しかないのでした。右の写真が時刻表です。(写真は、
クリックしていただくと拡大されます)                   

 エクスプレスの表示はあるものの、ほとんどが夜行列車です。
しかも、バンコックまで13時間余かかっています。飛行機なら
8000円で1時間。高速デラックスバスだと、3000円で
6時間。鉄道は約1200円で13時間。日本の新幹線は一時間
当たり平均5000円でしょうか。結局、タイの鉄道は、時間
当たりにすれば、安くても割高なのでありましょう。だから、人がいないのかもしれません。列車に乗って郊外へ行く、という夢は破れてしまいました。仕方が無いので、寫眞だけ、むやみやたらと撮りまくってきました。                                             

ベトナムでも、ハノイやホーチミンの駅を見に行きました。それなりの駅舎はあり、みすぼらしい列車が留まっていましたが、人の流れは閑散としているし、人々が頻繁に利用しているようには見えませんでした。

 交通インフラが立ち遅れている、と言ってしまえばそれまでですが、それだけではないように思えました。つまり、必要がないから発達しなかったのではないでしょうか。日常生活の中で、遠方へ出かける用事など、余りないのです。自転車、バイク、車がありさえすれば、事足りてしまうのです。それ以上は望まないでも、平和な日常は送れているのです。

 一方、日本の鉄道網の発達ぶりは、恐らく、世界一です。山陽新幹線は、3分おきに300キロで走っています。東京の地下鉄は、網の目のように張り巡らされています。 その恐ろしいまでの発展ぶりを、私たちは日常、これこそが普通であって、何ら異常ではない、と思ってしまっています。

 果たしてそうなのでしょうか? 私は日本の交通インフラ整備は異常であり、過剰投資である、と断言します。一人ひとりが、平和で、慎ましい生活を送るのにこれほどの発展は必要悪だ、とさえ思うのです。

 もっとも、「東南アジアぶらり歩き」をしなければ、こういう発想にはなりませんでしたが。

 

2014年7月17日              プロペラ機

 現役で新潟県を担当しているとき、佐渡へ渡るためにプロペラ機に乗りました。海が荒れていて、毎月乗る新潟港からの佐渡汽船が欠航したため、やむを得ず乗ったのです。8人乗りのセスナで、席はパイロットのすぐ後ろでした。海が荒れているときは空も荒れます。セスナは乱気流の中、木の葉のように揺れました。パイロットも必死です。「ワッー」 とか 「クッソー」 とか言いながら操縦桿にしがみついています。「もう、駄目か」という時が何度もありました。着陸を何回かやり直し、佐渡空港に「ドスン」 と着いたときは乗客から拍手が出ました。 だから、プロペラ機には乗りたくないのです。

 008.JPG           ところが、バンコックーシュムリアップの往復便は、何とプロペラ機で
あったのです。そういえば、昨年行ったミャンマーの、チェンマイーヤ
ンゴンの往復便もプロペラ機でした。      006.JPG    

                    シュムリアップ国際空港は、カンボジア王宮の作
                 りを真似た、平屋造りでした。観光地らしくてそ
                 れも面白かったのですが、シュムリアップでは、
                 65メートル以上の建物を作ることは禁じられてい
                 ます。何となれば、アンコールワットが65メート
                 ルの高さである以上、それを超えることは「まかりならぬ」
                 そうでした。

2014年7月16日             泳ぐ

 16年前までは、戦火と貧困に喘いでいたカンボジアのシュムリアップは、ホテルだけは立派です。中でも一、二を争う「アンコールグランドリゾートスパ」は申し分のないホテルでした。その中央に位置するプールは青い水とたたえています。ホテルの売店で、22ドルのものを18ドルにまけさせて、水泳パンツを買いました。バスタオルを持ち、サンダルを履いて、ビーチパラソルの陰で軽い運動をしていると、20歳は若くなったような気がしてきました。裸足になった途端、焼けるような熱さと痛みが足裏にきました。プールのタイル全体が灼熱の太陽のため、高温になっていたのです。慌てて、走って水に飛び込みました。プールの水は沸騰こそしていないものの、まるで温泉です。外気温度40度、輻射熱によるタイルは50度、水温30度と推定しました。環状のプールを二周して、さて、上がることにしました。再び、タイルの足裏攻撃が待っています。でも、仕方ありません。猛ダッシュで木陰へたどり着きました。考えてみれば何のことはない、プールに入る手すりのところまでサンダルを履いていけばよかったのでした。

 街中では1ドルの大きなココナッツが、プールサイドバーでは3ドルでしたが、その甘くて冷たい果汁をストローで吸い、割ってもらって、果肉を掻き出して食べました。何やら、申し訳ない気持ちで一杯になりました。

2014年7月15日           大木が遺跡しとねに…

 12日に、長野高校同窓生10人による「句会」がありました。一人5句ずつ出して競うのですが、私はカンボジアでの大木が遺跡を破壊する凄まじさを見てきたことから、「大木が遺跡しとねに一世紀」 という句を出しました。動画をご覧いただければ、その現実が分るのですが、皆にはチンプンカンプンだったらしく、一票も入りませんでした。説明を試みたのですが、「この句には季語がない」 と一蹴されました。「カンボジアには四季がない、雨季と乾季だけだ」 と言い訳を試みたのですが、通じる筈もありません。ギャフンでした。

 このタ・プロームという寺院は、ジャバルマン7世が、母親のために建てたものだそうです。30メートルはあろうかという真っ白い幹を持つ、スポアン(榕樹)という名の大木が、寺院の石組みに絡みつき、破壊を行っていました。植物が、長い年月をかけて寺院を破壊していく。凄いものを見てしまいました。

2014年7月14日          アンコールトム

 アンコールトムは、アンコールワットに隣接する、周囲14キロの城郭に囲まれた一郭を指します。その中心に、大乗仏教の影響を受けた王宮「バイヨン」があります。いまから900年ほど前に建立されていますが、ジャバルマン7世が熱烈な仏教徒であったことから、バイヨンはインドの須弥山を模倣していると言われます。

 それだけに、ヒンズー教の神々を祭ったアンコールワットとは肌合いが違って、日本人には、こちらの方が馴染めるでしょう。しかし、ヒンズー教徒であった狂気の人間ポルポトは、仏教を弾圧しました。この、壮麗な寺院にも破壊が行われました。だから、いまもなお、修復作業が続いていました。           

 日本の奈良や京都の寺社仏閣が、仏教と無縁であったわけはなく、ヨーロッパに現存する文化財も、キリスト教と密接な関係がありました。宗教的色彩から無縁である文化財は、世界各地でほとんど見ることが出来ない、と言っていいかもしれません。偶像を否定するイスラームに於いてさえ、モスクの美的価値を否定することはできません。

 世界に残っている文化財は「人間が神との対話の中で生み出された、またとないもの」と言うことが出来ましょう。しかし、多くの文化財は、愚かな人間集団の権力闘争という戦乱によって、失われてしまいました。

 日本には現存する世界最古の木造建造物があります。1350年を経た法隆寺です。カンボジアの石組み王宮寺院は、およそ1000年から800年前のものがほとんどです。すべて石でできているのですから、2000年も3000年もって当たり前です。それなのに、アンコールワットを除くほとんどが破壊されている! 弾痕や大砲によると思われる破壊跡が石にこびりついている! それをしたのは誰だぁ! ポルポトだぁ! 狂信的コミュニストのポルポトと、彼に踊らされた軍人たちだぁ!

 私は、破壊された遺跡の中を歩きながら つくずく、カンボジアという平和な国に突如として起きた、理不尽な戦乱に想いを馳せました。怒りと汗と涙で滅茶苦茶になりました。 

 

2014年7月11日             マーケット大好き

 旅をしていて、我を忘れてしまう時があります。その街のマーケットを徘徊するときです。日本でも、異国でも同じです。

 函館の海産物市場、青森駅前マーケット、秋田の市場が北の方の三傑と言えるでしょう。殊に秋田は、その季節になると山菜が山と積まれます。山形、宇都宮、水戸、前橋、長野は、残念ながら見るべきものがありません。仙台にはあることはあるのですが、せせこましくて嫌いです。新潟の本町マーケットはまずまずでしょうか。日本海側では、何と言っても金沢の近江町市場です。余りにも広大で回って歩くだけで草臥れます。それに比べて、京都の錦小路の、何とせせこましくて、おまけにいじましいことよ。それに、値段も高い。東京の築地と同じです。那覇の公設市場も昔は素朴で良かったのですが、観光客が増えるにつれて面白くなくなりました。B円を使っていた頃の、那覇、宮古島、石垣島の市場は良かったなあ。小倉に単身赴任していた頃、旦過市場を愛用しました。時期を外すとカボスが一個10円でした。大量に買ってきて、搾り、冷凍保存しました。新鮮で安い、というのがマーケットの最大の魅力です。

 オーストラリア・メルボルンのビクトリアマーケットは、その規模の大きいいこと! チエコのプラハの市場は古色蒼然とした巨大な建物が市場でした。それに反してスイスはダメでしたね。コープがあるだけです。それに品数が極端に少ない。ベルリンはお祭り広場で活気がありました。

 東南アジアは市場の宝庫です。上海、台北、ソウル、ヤンゴン、バンコック、チェンマイ、ハノイ、フエ、ホーチミン、シュムリ・アップと回ってきましたが、最上位が台北で最下位がヤンゴンだったでしょうか。

 とにかく、台北の市場の規模の大きさにはブッタマゲました。色の濃い野菜や果物が山と積まれています。食肉販売のところでは、生きている豚や鳥がその順番を待っていました。だから、台湾での食事はどこで食べても旨い。日本も、新鮮な、いい食材が使われますが、台北の比ではない。日照時間の差にあるように思えます。

 カンボジアのシュムリ・アップには、オールドマーケット、ニューマーケット、マサヤ市場と三つありました。それぞれ特色があったのですが、最大の違いは売り場に男性の高齢者がいなかった、ということです。100万人を超える男たちが虐殺された国です。

 沖縄那覇の公設市場も売り場に立っているのは、オバアーだけです。ここも20万人を超える人々が戦争で殺されたのですが、カンボジアと違って男も女も子供も殺されました。沖縄では働くのは女性で、男どもは何をしているかというと、朝からサンシン片手に、泡盛を飲みながら唄を歌っているのです。

 

2014年7月10日             読売新聞の大罪 

 今回の、集団的自衛権行使の閣議決定に対して、新聞の論調は、見事に、二つに分かれました。

 歓迎の急先鋒は産経新聞(約130万部)でした。この新聞は昔から右翼系で知られています。比較的穏健でしたが、恐らく経済界を意識してのことでしょう、日経新聞(約300万部)も賛成の論調でした。そして、読売新聞(約950万部)と、読売系の福島民友(20万部)、北国新聞(約20万部)と富山新聞(約10万部)も賛成に回りました。 

 全国の日刊紙発行部数は、いま、4700万部(スポーツ紙を除く)です。10年前は5300万部でしたから、600万部減少しています。それでも、部数は余っています。広告料金維持のため、全国の新聞社の公称発行部数はいい加減です。2、3割差し引くのが当たり前となっています。哀しい現実ですが……

 朝日新聞(750万部)、毎日新聞[300万部)、東京中日新聞(350万部)ほか、全国に40社あるブロック紙、県紙は、こぞって反対の論陣を張りました。500万部といわれる聖教新聞も、始めは反対していました。 大ざっぱにみて、4700万部の内、1400万部が賛成で、3300万部が反対であったのです。

 読売新聞の内部ではいろいろな意見が飛び交ったようです。ところが、鶴の一声で潰されました。潰したのは誰か? 読売ホールデイングの社長であり、読売新聞論説主幹の渡辺恒雄です。

 ナベツネです。87歳のジジイです。

 新社屋が出来たら辞める、と言いながら、社屋は出来たのに、まだ、居座っています。覇権主義の権化です。新聞がITのお蔭で、斜陽産業になっているにも拘らず、1000万部の発行部数に固執し、あたら資源のムダ使いを何とも思わず、害毒をまき散らして平然としています。

 集団的自衛権に関する、安陪晋三の私的諮問委員会の初期の座長を務めたのが、他ならぬナベツネでした。そして、自分の考え方を押し付け、世論操作を買って出たのでありました。 

 もう一つあります。いま、日本には原子力発電所が53箇所ありますが、この導入に対して旗振り役を務めたのが、読売新聞社主正力松太郎でありました。原子力発電こそ、日本の基幹産業たるべきだ、と読売新聞が世論形成を買って出たのでありました。しかし、小泉元首相が喝破したように、日本には核廃棄物の貯蔵施設が作れないのです。チョット掘れば、温泉が噴き出てしまうのです。こういう日本の土壌の特殊性にまで考えを巡らすことなしに、ただ、闇雲に世論をリードしたのです。その罪は大きいと言わねばなりません。 

 ナベツネ自身が老害に苦しんだ時期があります。

 当時、専務だった彼は、販売出身の社長務台光雄に寄り添っていました。務台の演説は歳を取るごと長くなり、巨人軍の祝勝会では「乾杯の御発声」で、コップを持ったまま40分はやるのが常でした。老害の醜さを人一倍感じていた筈の彼が、いま、務台と同じことをして恥じるところがないのです。

 権力者は、擦り寄ってくる者を取り立てます。「俺は渡辺さんのために仕事をしている」と公言して憚らなかった読売担当員安原君は、西部本社の局長になり、東京の局長へと牛蒡抜きに昇進しました。一度だけナベツネに逆らっただけで彼は報知新聞に飛ばされ、ヒマラヤ山中で死にました。

 内山というナベツネべったりだった社長も、「紙を切ろう」 と進言しただけで首になりました。巨人軍問題で、唯一、編集出身者がナベツネに逆らいましたが、いま、裁判係争中だそうです。ナベツネは莫大な裁判費用を払っているといいいます。 

 全国で毎日、4700万部の新聞が印刷されはするものの、そのうち2,3割が人の目に触れることなく、古紙として中国へ運ばれていく現実を、私は検証したことがあります。ナベツネの覇権主義がそれをさせているのです。 「読売新聞は、大罪を犯している」と言っていいのです。

 最近、大手町に読売新聞の巨大社屋が建設されました。朝日新聞の大阪本社も巨大ビルになりました。幸いなことに、大阪ではテナントが全部埋まったそうであります。東京の読売社屋は,まだ、ガラガラだそうです。新聞が情報産業として、風を切っていた時代は、10年も前に終わりを告げられているのです。ナベツネは、それを見切って、新聞を諦め、ビルのテナント料で食っていく判断をしたのでしょうか。

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