最近のエッセイ

2015年2月11日           ゴーヤー

 世界各国の空港の土産物売り場や飲食店の値段は、市中より2、3割高い、というのは誰しも経験していることですが、タイのスワンナブーム空港や、チェンマイ空港は殊の外高いのには辟易します。30バーツ(約100円)のチャンの缶ビールが70バーツ、バーガーセットが285バーツ(約850円)などなど、市中の倍以上の値段です。だから、横目で見ながら素通りするようになりました。

 飲食店が何もない空港もあります。ラオスのルアンパバーン国際空港や、ベトナムのフエ国際空港がそれでした。それでも、飲み物やスナックを売っている一郭はありました。ルアンパバーンではカップラーメンにお湯を入れてもらって、3分待って啜りました。フエでは飾ってある赤ワインを開けてもらって飲みました。それ以外にアルコール類が無かったからです。

 しかし、時には掘り出し物もあります。チェンマイ空港の一郭に生鮮食料品売り場がありました。30センチはあろうかという見事なゴーヤーが並んでいました。一本15バーツだというのです。約45円です。ゴーヤーの本場沖縄だって、どんなに安くても100円はします。夏の盛りであっても、東京なら150円以下のゴーヤーはほとんどありません。タイのゴーヤーは惚れ惚れするような色と形です。三本買ってスーツケースに押し込みました。

 東京に着いた翌々日、縦に二つに切ってワタを取り除き、厚めにスライスして、缶詰のハッシュドコンビーフと共にフライパンで炒め、卵でとじて、アツアツのご飯と頂きました。一回ではとても食べきれません。一本のゴーヤーを消化するのに一日かかりました。都合9回にわたってゴーヤー三本を完食しました。

 この真冬に、夏の野菜を鱈腹くいただけた幸せを噛みしめました。

 

2015年2月9日         佐藤優というキリスト者

 外務省の職員でありながら、衆議院議員鈴木宗男と北方領土返還交渉にあたって、利権を共有した疑いで541日間投獄された人物がいます。前科一犯ですから公務員は免職されたのですが、その後、凄まじいまでの言論活動をします。55歳の今日まで著作は100冊を超え、ラジオではありますが日本放送に自分の番組を持っています。その一連の発言をユーチューブで拾いました。

 優れた洞察力と、深い学識が無ければできない発言が、多々、ありました。

 調べてみると、彼は名門浦和高から同志社大神学部を大学院課程まで収めています。バルト、ブルンナーなど懐かしい神学書の名前がポンポン出てきます。外務省では所謂キャリアー組ではありませんでしたが、イギリスとロシアへ語学留学しています。原書を読みこなしながら語る学識は半端なものではありません。特に新教出版社のものは高く評価していました。外務省のラスプーチンと言われた男が、キリスト教関係出版物のオーソリテイである新教出版社を褒め上げる、その違和感は驚きでした。

 終戦後4年目に創立された新教出版社は、その印刷物を長野のカシヨ印刷のみに頼っていました。社長は秋山さん。そのお宅は西武新宿線の中井の高台にあり、大きなお屋敷でした。その一室を借りて長野のカシヨ印刷は、東京出張所としていました。所員はカシヨと縁続きの成蹊大学生の清水聡さん、それに、浪人になったばかりの私の二名。いわば使い走りです。飯田橋にあった、新教出版社は正に掘立小屋。校正、再校正などなど、どれだけ飯田橋へ通ったことか。秋山さんには可愛がってもらった記憶が鮮明です。秋山さんの中井の屋敷の離れには、ピアニスト佐々木悦子さんが住んでいて、毎日ピアノ練習していました。シューマンの「蝶々」、「謝肉祭」など、毎日のことなので、諳んじてしまいました。 出張所の仕事先はまだあって、さえら書房、理想社、角川、理論社などがカシオ印刷の得意先でした。出張所は、その後、経堂、中野、高田馬場、と変遷するのですが、いまはどうなっているのか、出版不況ですからいい話が聞けるはずもないでしょう。

 惜しむらくは、新教出版がそんな身近にありながら、なぜ、同社の出版物を読まなかったのか、なぜ、その全部を自分の蔵書にしなかったのか、ということです。宝の山の中にいたのに、私はそれに気づかないでいた、ということです。

 外務省のラスプーチンこと佐藤優は、新教出版の本のほとんどを蔵書にしていました。そのことは、彼の番組のユーチューブで知りました。55歳の彼に負けた、と思いました。

 佐藤優の父は電気技師でした。沖縄へ派遣されて米軍基地で働くうちに、久米島出身の娘と結婚します。母親は東京へ来て熱心なクリスチャンになったそうです。その母親の影響もあったでしょうが、彼は世界の宗教に関心を持ち始めます。若いころの私もそうでした。私と彼の違うところは、私が怠け者であったのに、彼は驚くほどの努力家であったことです。東西古今についての学識は半端ではありません。そして、今でも毎日、聖書の2,3ページは寝る前に読むそうです。

 ギョロ眼でイカつい身体つきで、ハッキリものを言う佐藤優に対する世間の反応はさまざまです。しかも、前科一犯であれば猶更です。でも、いまは、彼の評価は変わりつつあるのではないでしょうか。その真価が表れ始めたのではないでしょうか。

 見逃せない男の存在です。

 

2015年2月8日            水だけで…

 〈水だけで 命たぎらす ヒヤヒンス〉 この句は二年前の北7俳句会で3点を貰いました。初めての水耕栽培をしたときの、驚きの句です。

 今年もまた長野のYさんから、5ケの球根が送られてきました。5ケの広口ガラス瓶に水を満たし、水面スレスレに球根を置き、12月10日に地下音楽室に置きました。ピアノを弾く時以外は真っ暗闇です。球根からソーメンのような根が出始めたのがそれから10日後。勢いの良いのもあれば、チョボチョボとしか出ないのもある。同じ条件なのに、何で個体差が出るのか、不思議でした。

 元日の朝、真っ先にやったことは、5つの広口ガラス瓶を、リビングの陽の当たる場所に出してやったことです。ソーメンのような根は勢いを増し、青い花芽が顔を覗かせたのが7日ごろでしょうか。16日から30日までラオス、タイの旅で留守にします。わがヒヤシンスはその間に咲いてしまい、帰って来たときは萎れているのかなあ、残念だなあ、と心残りのまま旅に出ました。

 30日深夜、家に帰ってきました。何と、5つのヒヤシンスは見事に咲き誇って、私を迎えてくれたではありませんか! 純白が一つ、ピンクが二つ、紫は一つ、深紅が一つ。深紅のものを除いては20センチを超える背丈にまで成長していました。

 水と太陽の光だけで、何でこういう美しいものになり、しかも、僅かながら芳香を発しているのか! 不思議を通り越して驚異でした。

 それから10日余り、大したものだ、と思いながら見続けています。今日、よく見たら白とピンクの花の一部が萎れてきていました。もうしばらくしたら、プランターに培養土を入れ、「ご苦労さま」と労いながら、移し植えよう、と思っています。 

 

2015年2月6日             柑橘類

 若かりし頃、ある食事の席で、ミカンを勧められた先輩が「柑橘類(かんきつるい)は沢山だ」 と断る場面がありました。ミカンを柑橘類と呼ぶことに、いたく魅力を感じたことが思い出されます。

 タイにもラオスにもミカンはありました。概して小粒で色が悪く、しかも、マン丸で中身は堅くて酸っぱい。チエンマイからラオスのルアンパバーン行きのプロペラ機の中で、ランチボックスが配られました。丸パンのサンドイッチと二粒の小さなミカンでした。金柑を少し大きくしたようなミカンです。薄皮を剥き、一口で頬張ると、小さいにも拘わらず種が三つも入っていました。チエンマイの青空市場で買ったミカンも、ルアンパバーンの朝市で買ったミカンにも種が入っていました。種の無いミカンは東南アジアではお目にかかることが出来ない、それに、日本のような美味しいミカンはない、と結論しました。

 30日夜に帰国して約一週間が経ちましたが、実は毎日ミカンを7,8個ずつ食べています。三ヶ日ミカン、愛媛ミカン、和歌山産などいろいろですが、どれも実に旨い。悪性の風邪ウイールスを持ち込んだため、身体がビタミンCを要求しているせいもあるのでしょうが、日本のミカンが実に美味しくてならない。デコポン、八朔、ネーブルなどもいいが、普通のミカンで十分です。もう暫くすると、市場に熊本のブンタンが出てきます。そして早生の夏ミカンです。何と、日本という国は柑橘類に恵まれていることか!

 またまた昔の話になりますが、日刊スポーツ社にk君という部長がいました。彼こそ柑橘類フェチでした。この季節になると彼の身体は黄色くなり、眼まで黄変してしまうのでした。ミカンを見ると食べずにはいられななかったようです。まさか、私はそこまでにはならないでしょうが、ブンタンと夏みかんが待ち遠しくてなりません。

 

2015年2月3日              勇み足

 昨年5月、イスラエルのネタニアフ首相夫妻が来日しました。京都の迎賓館を使って日本料理最高の持てなしをするなど、最大限の歓待をしました。お互いに技術協力をしながら、第二同盟国になろう、と固い握手をしました。政府は模索をはじめました。イスラエルが持っている技術についてです。軍事に属するものが多いのですが、これから起こり得るの違いない新しい形態の戦争に備える、つまりサイバー攻撃を防御し、どうやって攻勢を保つか、については、イスラエルの技術が世界で飛びぬけていることを、日本は改めて知らされます。技術立国を目指す点では日本も同じですが、周りの国をすべて敵にまわしているイスラエルにとって、武器の精度を高めることは生きるか死ぬかの問題です。深刻度が違います。この国との技術協力が、どれほど今後の日本を有利に導くか、そのことだけにのぼせ上がってしまった安倍首相は、今年一月、40人余の武器に関係する会社の重鎮を帯同してイスラエルへ出向きます。

 そして、ネタニアフと二人仲良くテレビに写り、共同声明を発します。あろうことか、イスラム国と戦っている国への人道支援として2億ドルを差し上げます、と大見得を切ってしまいました。私たちの税金からですぞ。私たち高齢者の年金は年々減額されるのに、ですぞ。

 イスラム国と直接闘っている国にすれば、日本からの支援金があれば、その分、戦闘資金が潤沢になるではありませんか。間接的な軍事支援でなくて何でしょうか! イスラム国との戦争には参加しない、という安陪首相の言は単なる詭弁に過ぎません。

 中東の各国は従来から日本に好意的でありました。ヨルダンなどは王室同志が仲良しであり、パレスチナも日本に希望を託していました。一方、中東諸国はイスラエルが嫌いです。イスラム教徒のほとんどはイスラエルという国が無くなればいいな、と思っています。

 イスラエルという国が、ユダヤ人が嫌いなヨーロッパを含めて世界中から差別の眼で見られていることに、安倍首相は気ずかないほど能天気だったのでしょうか。日本の外務省はそれほど無能なのでしょうか。

 イスラエルとの技術協力関係を強化することを、仮によし、とするにしても、二人して共同声明を発し、2億㌦供与を申し出れば、周辺諸国や世界がどういう目で見るか、洞察できなかったのでしょうか。この勇み足以外の何物でもない蛇足を止められなかった外務官僚のお粗末さは何でしょう! 後世に残る失態でなくて何でしょう!

 いち早く反応したのがイスラム国です。結果的に湯川、後藤の両名は惨殺されました。

「お前らは8500キロも離れていて、何も関係ないのに、何で2億㌦の金をだすんだあ」というのがその言い分です。理屈は通っています。

 そもそもイスラム国は降って湧いたものではありません。アメリカがイラクに介入し、フセイン政権を倒し傀儡政権を樹立したけれど、スンニ派、シーア派の部族国家の対立はますます激化し、ごうを煮やしたアメリカは勝手にしろ、と手を引きます。それならば、とフセイン時代の政府を作っていた官僚たちが、「右手に剣、左手にコラーン」というムハンマドの教えの原点回帰をスローガンにして、建国を宣言した集団なのです。ムハンマドの原点は「右手に剣」だったんです。いいじゃないですか、放っておけば。テロ国家と決めつけるから益々テロ化するんです。

 翻って考えると、アメリカが自由主義と民主化を唱えて国家介入した結果は、すべてうまくいっていません。ベトナム然り、アフガニスタン然り、そしてイラクもまたそうです。手に負えなくなるとアメリカはいつも逃げ出します。それは歴史が証明しています。イスラム国を生み出したのはアメリカだ、と言い切っていいでしょう。

 イスラム国をテロ国家と決めつけ、空爆を繰り返して何になるのでしょうか。徒に一般市民を傷つけるだけです。北風を吹かすより、太陽の光です。時間を与えて、テロなどしなくても良い国になるのを世界各国は待てばいいのです。

 安倍首相はまたしても思慮の無さを、今度は全世界に露呈してしまいました。

 

  付記 1月30日夜11時、羽田着でチエンマイ・ラオス・ルアンパバーンの旅から戻ってきました。両都市ともハワイと同じ緯度なので快適だったのですが、咳は相変わらずでした。その咳が、帰路のタイ航空に乗込むや、激しくなりました。我が家は薄らと雪化粧をしていました。尚、悪くなりました。31日は会合があったので無理して出かけましたが、1日、2日、とも床に就きっぱなし、となりました。今日は少しだけ回復してきましたので、半月ぶりにパソコンに向かうことが出来ました。明日は呼吸器専門の、清瀬の複十字病院の予約が入っています。どうなりますことやら。

 

 

2015年1月15日           新社長と話をする

 恒例の朝日旧友会がマリオンで開かれました。霙混じりの荒天でしたが、350人が集まりました。中江会長の恒例の挨拶のあと、今年の喜寿組を代表して週刊朝日で活躍した池辺史生さんの想い出話がありました。そして、12月5日に就任したばかりの渡邉社長の挨拶です。

 この度の事態について、深々と頭を下げた後、〈自分はこうやりたい〉ということを、淡々と、ケレンミなく述べました。「思います」という言葉は一切使わず「……します」で挨拶を終始しました。好感が持てました。何かが変わるな、という実感が持てました。隣りの席の宮沢君に「なかなかいいじゃないか」と感想を漏らしたほどです。

 驚いたのは、彼の奥さんが朝日販売店の娘であったことです。それも千葉市の。私が千葉県を担当しているとき、ある町の所長から娘をアルバイトさせたい、どこかお世話願えないか、と持ちかけられたことがあります。色白の清楚な美人がそこのお嬢さんでした。親父の方は小男で、どちらかと言えば口八丁の所長でした。何でこの男からこんないい娘が育ったのか不思議でした。しかし、彼の奥さんは淑やかでシッカリ者でした。それとなく、千葉支局がアルバイト募集していたので手をまわしてあげた記憶があります。

 同じころ、ある千葉大生が支局のアルバイトになります。アルバイトをしながら東京の編集を受験をするのですが、落ちてしまいました。翌年、彼は大阪の編集を受験して合格します。そして社会部に配属になり、しばらくして結婚します。何とその相手が千葉支局のアルバイトとなった販売店のその娘だというではありませんか!

 驚天動地とは正にこのことです! 

 細見販売担当に伴われて、渡辺新社長と会いました。あなたが千葉支局でアルバイトをしているころ私は千葉県を担当していました。支局へも月に一度は顔を出していましたからお会いしていたでしょうね。あなたの奥さんのことは、娘の頃からよく知っているばかりか、千葉支局のアルバイトになれるよう応援させてもらいました、と名乗りました。私も驚いたが、彼も驚いた。いっぺんに打ち解けあいました。彼の義父は、10年前に死亡しているそうですが、持前のすばしっこさが祟って、朝日のあと、Y系統、S系統を渡り歩いています。ですが、そのことについては差しさわりもあるでしょうから、口にチャックをしましょう、となりました。そして、あなたの今日の挨拶には感動を覚えました。思い切りやって下さい、と固い握手を交わしました。聞けばアルバイト同志で千葉支局で知り合った二人の間の娘は、いまや成人して、宝塚ガールとして現役を張っているそうではありませんか。

 人間の出会いというか、巡り合いというものに、今更ながら、そこに神の御手のようなものを感じてなりません。私が千葉県を担当していた時の、千葉支局のアルバイト学生とアルバイト娘が、いまや、朝日新聞社長とその令夫人となっているのですから。

 今日は私の78歳の誕生日です。この事実は、私への最高の贈り物でなくて何でしょう!

 明日は私は機上の人になり、30日に帰国します。実に晴れやかな気持ちで出発できます。神さま、ありがとう。 

 

2015年1月15日           エスプリにも限界

 イスラム過激組織「アルカイダ」による、フランスのエスプリアニメを専門とする新聞社襲撃事件はヨーロッパを震撼させています。イスラム教徒のほとんどがカラードであることから、移民の拒否にさえ発展しそうな勢いです。オランド首相はフランス軍隊の兵士の削減を中止し、イスラム国空爆のため、空母を派遣することまで決めてしまいました。テロとの戦いは、こうなってくると、戦争の前触れのような様相になってきました。

 この新聞社は、発行を中止することは、テロに屈するに等しいとして、追悼号を発行しました。通常3万部足らずのところ300万部印刷し、完売してしまったので、さらに200万部追い刷りしたそうです。そのタブロイド新聞の第一面はムハンマドが涙を流している風刺画だそうです。

 イスラム教がキリスト教と違うところは、一切の偶像崇拝を排除しているところにあります。サウジアラビアのメッカには100万人がいっぺんに礼拝できる大伽藍があります。その中心に黒い大きな箱があります。その中には何が入っているか? 驚くなかれ、中は全くの空っぽなのです。つまり、イスラムではムハンマドを心の中に住まわせているのです。具象化されたムハンマドは全世界広しといえども、どこにも無いのです。ムハンマドは肖像画も無ければ像もない。ただ、その教えを説いた膨大なコラーンがあるだけです。西洋の教会はキリストや使徒やマリアの肖像だらけです。東洋も、お釈迦様を中心とする仏像や仏画だらけです。ところが、イスラムにはそういうものは全くありません。キリスト教徒や仏教徒はそこのところを誤解しています。〈ムハンマドを風刺画にして涙を流させる〉 なんてことは、イスラム教徒にしてみればあってはならないことなのです。

 案の定、この500万部の風刺画がまたまた物議を醸しています。

 アメリカがイラクに介入し、フセイン政権を倒して以来、中東は混乱の坩堝と化しています。正に、パンドラの函を開けたに等しい。スンニ派、シーア派、クルド人を問わず、中東は部族社会でありますから、そこへ民主主義や市場経済を持ち込んでも、どうにもならないことは、分かり切ったことだったのです。ベトナムの敗北に懲りず、イラクやアフガニスタンにまで手を出したアメリカの罪は大きいと言わざるを得ません。

 混乱を助長しただけのアメリカの撤退を機に、「イスラム国」が名乗りをあげました。過激思想と言われてはいますが、この国の拠り所は、厳格なコラーンの教えに還れというもののようです。女性は家を守るだけでいい、過度の教育など必要ない、というのもその表れです。「右手に剣、左手にコラーン」 というのが、所謂、イスラームの原点です。ムハンマドの伝記を読むと、そこのところがよく分かります。イエスキリストも、お釈迦様も人を切ったことはありませんが、ムハンマドは違います。血塗られた剣でイスラーム王国を造り上げたのです。私は、中東における宗教的権力闘争に、アメリカや西欧諸国が民主主義、自由主義、市場経済を標榜して介入することに反対です。いいじゃないですか、放っておけば。そしてまた、表現の自由のもとに、イスラームが嫌がるムハンマドの風刺画を公にする風潮にも反対します。

 人間が生きてゆくための心の拠り所を、揶揄したり、おちゃらかしたりすることには賛成できません。例え、それが何の宗教であってもです。 

 

2015年1月9日            円安の功罪

 円はいま、ドルに対して120円前後、ユーロに対して140円前後で推移しています。30年ほど前、円は1ドル76円を付けたことがあります。その時私は、オーストラリア旅行中でありましたが、オーストラリアドルも米ドルに比例して下がったため、かなりの恩恵にあずかりました。通貨というものは面白い、とその時を境にして、通貨取引に目覚めました。いまはもう、その元気はなく、株式も通貨もただ眺めているだけ、となりました。

 円安になって目立つことの一つは、外国人の日本流入です。銀座も、浅草も、外国人で溢れかえっています。ひと頃は閑古鳥が鳴いていた浅草ビユーホテルは中国人、韓国人、台湾人の観光客でいつも満杯のようです。箱根もそうです。ロマンスカーの一車両に平均3組以上の外国人がいます。長男が運営部長をしているデイズニーランドの売り上げは外国人のお蔭で儲かりに儲かっているそうです。秋葉原のフィギアーショップに勤めが替わった三男によると、売り場は外国人客で押すな押すなの混雑だそうです。しかも、5万、10万の買い付けはザラだそうです。これは良いことでしょうか、悪いことでしょうか。

 一方、あらゆる物価が上がりはじめました。消費税が上がったせいもあるでしょうが、食料品、日用品の買い物を自分でやっている私にとっては切実です。かつてと同じものを買っても、20%ほど高くなっている、というのが実感です。しかも、年金は年々目減りしていきます。これは良いことでしょうか、悪いことでしょうか。

 いま、政治は経済を動かそうとして躍起となっています。今日の朝日の朝刊で、ある識者が、〈経済は政治では動かない〉と言っていました。アベノミックスは〈富める者を益々富ませ、貧しいものを益々貧しくさせるだけ〉だそうです。私は、わが意を得た思いで読みました。そうなのです。〈今の政治は国家としての品格を損なうだけだ〉と藤原正彦が言っているように、何かがおかしいのです。

 そこで私は結論します。円安は私にとって、断じて悪い、と。最も切実なのは、私がいま罹っている悪性の風邪がその象徴です。円安のお蔭で秋葉原のフィギアーショップは連日満杯の大混雑です。従業員は国際的な雑菌の中で作業を強いられています。マスクで防御してもしきれないらしく、従業員全員が悪性の風邪にやられているようです。その風邪を三男は家に持ち帰ってきて私に染します。そうでなくても咳が止まらないで困っているのに、その悪性の風邪が私に追い打ちをかける始末です。いまも、鼻水を啜り、咳をしながらパソコンと向き合っています。

 16日から30日まで、チエンマイを起点にして、私にとっては初めてのラオスへの旅に出る予定を組んでいるのですが、恐らく、気候が替われば風邪も治るでしょう。しかし、円の値打ちは下がっているため、海外旅行者にとっては打撃です。

 円安は私にとって悪いことだらけのようです。

 

2015年1月2日            お言葉

 明けましておめでとうございます。関東平野のすぐそこまで雪が降り積もっているのに、東京は申し訳ないような青空です。私の新年は、例によって、近くの新聞店を回って、毎日、東京、産経、日経、読売新聞を買ってくることから始まりました。読売、産経以外、この国が憲法改正によって「戦う国」になっていくことへの危惧が中心になっていました。

 特筆すべきは、天皇陛下が「感想文」を発表されたことです。

〈昨年は大雪や大雨、さらに御嶽山の噴火による災害でおおくの人命が失われ、家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。また、東日本の大震災からは4度目の冬になり、放射能汚染により、かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や、仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時、それぞれの地域での人々が防災に関心を寄せ、地域を守っていくことがいかに重要かということを感じています。本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市への爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本の在り方を考えていくことが、いま、極めて大切なことだと思っています。この一年が我が国の人々、そして世界の人々にとり、幸せな年になることを心より祈ります〉

 天皇陛下が〈今後の日本の在り方を歴史に学べ〉、と感想文で発表されるなど、極めて異例のことではないでしょうか。しかも、陛下は、戦時中撃沈された対馬丸の弔いで沖縄に足を運んでいます。この船には沖縄から内地に疎開する1000人を超える子供たちが乗っていました。美智子妃殿下が、私も同じ年頃であり、もしかすると海に沈められたのは私であったかもしれない、と歌を詠まれています。

 しかも、両殿下は、パラオまで弔いに出かけています。激戦地だったペリュリュー島にまで足を延ばされています。これは、昨今の右傾化する政治に対する無言の抵抗に他ならない、と感じるのは、私だけでしょうか?

 新年の各紙を読みながら、目に止まったのは、ある識者の〈日本は戦後の70年を除いて、軍事政権の歴史であった〉という論評です。確かに、日本武尊以来、武力に秀でた者が時の政権を維持しています。源平の戦いも武力闘争なら戦国時代は言うに及ばず、明治になっても日清、日露戦争、そして、満州事変、日支事変、太平洋戦争……

 願わくは、戦争をしなかった70年が100年続くこと、そして、江戸時代がそうであったように、270年続くこと、それを願うのみです。


2014年12月31日           稀代の女流ピアニスト

 ショパンのスケルツオ2番は、アルゲリッチに止めを刺す、と思っていました。速いパッセージを彼女は悪魔的速度で弾きこなします。しかも、情感が豊かです。男性ピアニストにない表現の仕方です。ところが、彼女も老いには勝てません。大分で行われる音楽祭には必ず来ていますが、昔の面影は、もはや、なくなりました。髪を長く伸ばし、腰をかがめて弾く姿は、おとぎ話の魔女そのものです。今年の12月4日、同じく女流ピアニストのカーチャ・ヴニアテシヴィリがユーチューブでアルバムを発表しました。驚異のスケルツオ2番の登場です。前から噂は聞いていましたが、これほど凄いとは思わなかった。アルバムは約一時間の収録で、林間に舞台をしつらえ、スタインウエイのフルコンサートが置かれています。

 速いパーセージはアルゲリッチを凌駕していました。しかも、ペダルの使用を極端に抑えて弾くため、音は明瞭です。情感も豊かです。続いて、ドヴィッシーの「月の光」です。音が鳴らない時に音楽が流れます。ブラームスのインテルメッゾ117番です。チャイコフスキーの四季から「10月」です。、ラベルの難曲「バルス」を、一つの音のかすりもなく、弾きこなしました。私の好きなスクリアービンのエチュード2番もありました。ショパンの練習曲25−7もありました。続いて彼女の妹との連弾です。ドボルザークのスラブ舞曲、ブラームスのハンガリア舞曲、そして最後はギターの名手ピアソラの連弾編曲で締めくくりました。

 スケルツオ、月の光、10月、スクリヤービン、スラブ舞曲などは私のかつてのレパートリーだっただけに、興味津々で聴くことが出来ました。そして、知らされました。ピアノというものは、こういう風に弾くものなんだ、ということをです。

 この女流ピアニストはグルジアの生まれです。特徴は図抜けた美人で、しかもスタイルが抜群であることです。シューマンのコンチエルトの時は、背中まで露わにした白のドレス、グリーグのコンチエルトの時は赤いドレス、ショパンの2番のコンチエルトでは紫のドレスで弾いています。つまり、音楽と共に視覚までをも楽しませるピアニストなのです。もう一つの特性はピアノタッチです。腕や手のひらや指に余計な力を加えません。極く自然な指の運びで、フォルテシモやピアニシモを表現します。しかも、音のかすりやミスタッチなど一つもありません、全部、暗譜でこなしています。その記憶力たるや大変なものです。

 ユーチューブにはカーチャ・ヴァニアテシビリの音楽学生の頃のアルバムもありました。バッハやモーツアルト、ベートーヴェンをどう弾いているのか、聴くのはこれからです。幸い年末年始は時間がふんだんにあります。テレビのバカ騒ぎなど一切見ないで、このピアニストの演奏をユーチューブで楽しもう、と思っています。

 附 〉 彼女について調べてみました。1987年生まれの今年27歳。2003年のホロヴィッツコンクールで特別賞を受けています。16歳の時です。2008年のルーヴィンシュタイン国際コンクールに出場していますが3位でした。21歳の時です。そのコンクールの演奏を1位から3位まで、ユーチューブで聴きましたが、彼女が1位でないのが不思議でした。ショパンのバラード4番、リストのメフィストワルツは圧巻でした。彼女は一昨年日本にも来ていて浜離宮ホールで演奏しています。ということは、ホールのスタインウエイのフルコンサートピアノ、ベーゼンドウルファー、旧いスタインウエイのピアノの内どれかを使ったことになります。私が現役の時、旧いスタインウエイのピアノは本館講堂の隅にほったらかしになっていたので、暇を見つけては自由に弾かせてもらっていました。浜離宮ホールのこけら落としの日、檀上にはフルコンサートピアノが置かれていました。誰もいなかったので、私はショパンのスケルツオ2番を盗み弾きしてしまいました。販売局次長の大図さんと、岩田君がビックリしながら聴いていてくれました。その同じフルコンでカーチャは弾いたのでしょう。感無量です。正月2日は、この女流ピアニストの演奏だけに明け暮れました。 

 

2014年12月30日            お節料理は

 お節料理は、このところ長男が贈ってくれていました。妻が亡くなってからの8年間、ずっと続いていました。冷凍されているものを自然解凍すると、大晦日には食べごろになっていました。ところが昨年の31日、お酒をきこしめして食べ始め、しばらくすると気分が悪くなってきました。経験したことのない気分の悪さでした。休むに限ると思って寝てしまいました。除夜の鐘は聞かず仕舞いになりました。元日の朝には治っていましたが、御屠蘇の際、お節に手を付ける気になれません。〈薬品まみれのお節料理〉という雑誌記事を見て、なるほど、と合点がいきました。この顛末は年頭のエッセイに書きました。来年はどうするか?送ってくれる長男に言うべきか、言わざるべきか、ハムレットの心境です、と締めくくってあります。

 一大決心をしました。これから先何年生きるかわからないが、正月のお節料理は「買わない」、「貰わない」、「一切食べない」ことにしたのです。長男は理解してくれました。そして代わりのものを送ってくれました。正月らしい料理は自分で作ればいいのですが、それも面倒です。従って、正月の私の食卓は、いつもと変わらない粗末なものになるでしょう。

 母や、妻や、妻の母が入っている仏壇に向かって、その旨、報告しました。みんな、ガッカリした顔をしていました。

 

2014年12月29日            余りにも無残

 福島県の浜通りを貫通する国道6号線が開通しました。広野、富岡、夜ノ森、大野、双葉、浪江、小高、原ノ町、相馬、新地、を抜けて仙台へ至る道路です。行って見たくて堪らなくなりました。双葉原発の脇を通るため、危険区域に指定されていましたが、線量の除去に成功したのでしょう、一か月前から解放されていました。昨年は、福島市から入り原の町、小高へ行きました。死の町と化した小高の海岸で、余りの無残さに涙を流しながら、祈りを捧げました。

 今度はいわき市から入りました。常磐高速を広野インターで降り、6号線を北上します。大型店舗、飲食店、工場などの建物と看板は以前と全く変わっていないのに、人影がありません。民家の庭は荒れ放題です。富岡に着きました。右折すると富岡の駅に通じます。小さな駅前広場に着きました。駅前には大東館という旅館があります。今は鉄筋作りの三階建てですが、昔は、木造二階建てでした。この旅館こそ、東京都中野区上高田小学校の集団疎開の宿舎でした。国民学校一年生だった私が終戦近くまで移り住んだいた懐かしい場所です。一年生から六年生まで40人ほどだったでしょうか、辛い一時期を過ごしました。下着はおろか、布団までシラミだらけになり、潰しても潰しても、シラミは増えました。下着の縫い目は沢山のシラミの卵の行列となりました。食事は僅かで、木の芽や、つつじの花を食べました。訓練と称して夜中に非常点呼がありました。真夜中なのに、近くの山に掘られている横穴の防空壕まで、全力疾走させられました。毎朝、歌を唄わされました。

〈次の世を背負うべき身ぞ、逞しく、正しく伸びよ、里に移りて〉という皇后殿下の御製でした。それを生徒たちは〈次の世を背負うれっかい疎開の子、飯は一膳で……〉という替え歌にしていました。

 毎朝、6時になると、富岡発上野行きの鈍行列車がのろのろと発車してゆきます。牽引する蒸気機関車は5時には罐炊きを始めます。その音は、今でも耳の底で鳴っています。どんなに東京の母の元へ帰りたかったか!

 昭和20年5月25日の東京大空襲で、中野新井薬師の家が焼かれ、母が長野の郷里へ私を伴うため、福島まで迎えに来てくれました。どんなに嬉しかったかことか!

 辛い想い出であっても、富岡は私の77年の人生の一部でありました。荒れ果てた富岡駅の向こうに広がる海岸の松林を見ながら、私は戦争と原発を、新たに、心の底から憎んだのでありました。

 富岡は6号線から脇道へ入れたものの、さらに進んで夜ノ森、大野、双葉は、それぞれの脇道に監視員がいて、入れませんでした。仕方なく引き返したのですが、いわき市の町明かりを見たときは、ここが汚染されなくて本当に良かった、と心から思いました。


2014年12月15日                     憲法改正

 14日の選挙結果は自民党の圧勝となりました。選挙前には一言も言わなかったのに、選挙結果が出るや、安倍晋三は「憲法改正への道が開けた」とノタマイました。黒子役を引き受けていた読売のナベツネの高笑いが聞こえるようです。

 菅原文太の叫びも、大橋巨泉の遺言も、瀬戸内寂聴の祈りも、心ある識者たちの憂も、全く通じませんでした。しかも、投票率は最低です。有権者の二人の内一人は棄権しています。若者の投票率に至っては、無残としか言いようがありません。

 少しは面白い結果が出るのではないか、と期待していた私は、失望の余り、新聞もテレビも見る気が全く失せてしまいました。やるせなくて、情けなくて……

 どうして、こうなるのでしょうか? この結果は何を表わしているのでしょうか?

 やはり、〈民族として、中国や韓国の脅威に対し、立ち向かっていく必要がある〉という意識の存在が、その底流にあるように思われてなりません。〈ナニクソ、マケルモノカ〉という対抗意識です。〈やるならやってやろうじゃじゃないか〉 というむき出しの敵意です。

 世界史は、言うまでもなく、戦争の歴史でした。平和憲法下での72年は正に奇蹟の時代でした。その憲法は安倍政権下において、旬日ならずして改正され、日本はまた戦争をする国になっていきます。確実にそうなっていくでしょう。

 私が眠る墓の上で、核弾頭が炸裂する日は確実にやってくるでしょう。 

 

2014年12月15日           53年目の同期会

 今から53年前の昭和61年、朝日新聞社の業務へ入社したのは、東京本社で8人、大阪本社で4人、名古屋本社で2人の16名でした。受験者は総数で1000人を超えていましたから、全くの狭き門でした。

 16名の同期会は約10年目ごとに行われてきました。東京本社で総務へ配属された大矢君は若くして亡くなりました。経理の高木君は、今、舌癌を患っています。出版広告の君島君は相変わらずのノンベイです。出版業務の及川君は出不精を決め込んでいます。販売へ配属されたのは私と柳田君でしたが、柳田君は販売部から追い出され、転出先の広告部ともソリが合わず行方不明です。広告部は高尾君と高岡君と大野君の三人でしたが、高尾君は過労が祟って死亡し、高岡君は名古屋本社へ転属になりましたが退職しました。大野君は東京の広告局長のあと、取締役になり、代表権のある専務に付きました。我々18名の出世頭です。大阪販売の山崎君は咽喉ガンを患い、声を失い、嚥下力もなくなり、流動食と、いつも持参する小黒板による筆談という大変な状況なのに、いまも元気です。大阪広告の中尾君は東京の広告局長を務め、株式会社大広の社長もやり、同期の中では最も元気です。名古屋入社の白根君は東京で私と一緒に「アサヒコミューニテイ」という会社をやりました。

 大野君の肝いりにより、53年目の同期会が、15日、東京有楽町の「慶楽」で開かれました。集まったのは大野、中尾、白根、私の四人でした。君島君はドタキャンでした。選挙のこと、日本の将来のこと、目下、四面楚歌の状況にある我らの古巣のこと、談論は風発しました。自分の身体のこと、薬のこと、孫のことなど、少しも話題になりませんでした。気が付いたら、昼間なのにビール6本、紹興酒3本が空になっていました。

 自分が幸いにも元気で、16人の内4人になれて、53年目の同期会に出席できていることが奇蹟のように思われた数時間でした。

 

2014年12月3日          何がある?足の下

 小春日和の青空を見上げながら、今日は種子島から宇宙探索船「ハヤブサ2」が打ち上げられるんだなあー、と宇宙に思いを馳せます。宇宙は肉眼で見える範囲を超えても、ハッブル望遠鏡で見ることが出来ます。最近の研究によると、この宇宙の果てに、また、もう一つ宇宙が存在するらしいですな。

 翻って、私の足の下には何があるのでしょうか。コンクリートの道路の下には、土があります、石があります、水もあるでしょう、温泉が通っているかも知れません。でも、その先には何があるのでしょうか。東京の地下鉄の最深部は45メートルです。人間は足の下の45メートルは見ることができました。炭鉱や鉱物資源の掘削は10キロメートルを超える場合があります。つまり、10キロメートルの地下は見ることが出来たのです。だが、地球の直径は約6000キロです。つまり、人類は自分が住んでいる地球の地下について600分のⅠしか知ることが出来ていないのです。

 そこで、調べてみました。すべて、学者たちの想像でしかありませんが、地球の内部には内核と外核があるというのです。外核は高熱を帯びマントルとなって流動し、地表近くで海水で冷やされ対流しているらしいのです。地震や噴火はマントルの流動の結果であり、制御不可能だということです。高温と高気圧のため、貴金属や宝石が無尽蔵に生成され、ダイヤモンドがゴロゴロしているらしいのです。

 分かったことは、地球の表面は地球内部の事情により、まだまだ形を変える、ということでした。それは、1万年、10万年単位であろうとも、地球の地表は動く、ということです。

 日本は大昔、大陸から切り離されて島になった、とよく言われます。いつの日かまた動いて、大陸と陸続きになるか、あるいは、沈没してしまうのかは未知数としても、いまのままでは決してありえない、ということを知りました。そして、流動性のある日本には、核廃棄物を永久貯蔵できる場所などない、ということも改めて知りました。

 御嶽山が噴火しました。阿蘇山も続きました。箱根大涌谷の近くの金時山で大規模な噴煙が上がり始めた、といいます。富士山とは20キロの距離です。不気味です。

 私を含めて日本人は、自分の足元をよく見なければならない、のではないでしょうか。

 

2014年12月2日           文太さんの遺言

 亡くなる一か月前、文太さんは沖縄知事選で翁長さんの応援演説をしました。二つのことを聴衆に呼びかけています。〈国はすべての国民を喰わせねばならない〉、〈日本国を戦争をする国にしてはならない〉 貧富の差が顕著になっている昨今を憂いたのでしょう。安陪晋三によって右傾化していく現状を嘆いたのでしょう。「トラック野郎」の映画の底流に流れるのは、社会的弱者に対する労わりでした。と同時に、日本が負けた太平洋戦争を、身を以て潜り抜けてきた経験が、「日本は戦争をしてはいけないし、巻き込まれててもいけない」と言わせているのでしょう。今や、戦後の混乱と飢餓の悲惨な状況はを知る者は、75歳以上の高齢者に限られています。「日本を戦争が出来る国にしてはいけない」という叫びが、どれほどの重さを持った訴えなのかは、若い人たちの理解を超えているのかも知れません。

 たまたま、IPADで今週の週刊現代をパラパラと見ておりましたら、大橋巨泉が280回は続いている自分のコラムで、同じことを言っておりました。彼はいま、三度目のガン治療の最中で、私の遺言だと思って「皆さん、頼むから自民党以外に投票してください」 と述べていました。理由は私と同じでした。

 今日、選挙が告示されました。二週間後が投票日です。自民党以外の得票数が自民党の得票数を大幅に上回っても、小選挙区制により、議員の数では自民が圧勝するはずです。アメリカやイギリスの二大政党時代を作りたくても、民主党がミソをつけてしまったお蔭で、日本は理不尽な選挙制度のままでいるより仕方がないのです。

 国民の大多数は、日本が戦争のできる国になることには反対でしょう。でも、選挙で自民が勝つということは、集団的自衛権も、秘密保護法も、靖国参拝も、アベノミックスも、国民に是認されたのと一緒ですから、自民党は着々と憲法改正へ、と進むことが出来るのです。

 選挙の悪用でなくて何でしょう。文太さんは死にきれないのではないでしょうか。

 

2014年12月1日           菅原文太さんのこと

 テレビは、文太さんが81歳で亡くなったことを報じています。ガンの宣告を受けながらも山梨や飛騨高山で自然農業を営み、時には、吉永小百合さんと、細川さんの東京都知事選の応援演説をするなど、極めて自然人らしい晩年を過ごしておいででしたが、とうとう、逝ってしまわれました。

 朝日新聞へ入社した河北新聞の創始者の御曹司の一力英夫、東大教授の樋口陽一、劇作家の井上ひさし、それに菅原文太さんの四人は、仙台一高の仲良し四人組でした。一力さんが私より二年先輩の上司だったため、この四人の行動についてはいつも聞かされていました。一力さんが販売5部の部長の時、私は次長でした。販売5部は茨城、栃木、群馬がエリアです。従業員大会のゲストとして、一力部長の肝いりで菅原文太さんが呼ばれました。従業員は大歓迎でした。大きな会場で、文太さんを囲んで、従業員が恐る恐る遠巻きにしているときの文太さんは、実に格好が良く、惚れ惚れと見とれるほどでした。私が宣伝部長の時、一力、井上ひさし、樋口陽一、菅原文太さんの会合に呼ばれたことがあります。歌舞伎座近くの名だたる料亭でした。文太さんと差向いの席になりました。豪快な酒の飲み方でした。ふと、思い立って、彼に朝日新聞のテレビコマーシャルに出てくれないか、と水を向けました。「朝日から引き合いが入ったぞ、わっはっは!」と彼はのけぞって笑いました。話は進めたものの、彼はヤクザ映画に出ずっぱりであったため、朝日の印象には合わないという一部の勢力のため、ご破算になりました。逆を狙った私でしたが、その勢力には勝てませんでした。つまらぬことを口走ったせいでしょうか、その時の勘定書きが、一力さんから宣伝部へ回されて来てしまいました。

 井上ひさしさんも亡くなり、一力さんも昨年12月末亡くなりました。一年遅れての文太さんの悲報です。仙台一高の名物四人組は、樋口陽一さんを残すのみとなりました。今年4月、一力さんと慶応同級生であった宮内さんを筆頭に、私や宮沢君をはじめ、一力さんの助手だった人々を発起人にして、「一力さんを偲ぶ会」をプレスセンターで行いました。その際、文太さんを呼ぼうか、と考えたのですが、販売関係者の内輪の会にしたため果たせずじまいでした。中江元社長、上野社主はご参加くださいました。

 井上ひさし、菅原文太、一力英夫の三人はいまごろどんな会話を交わしているでしょうか。

 

2014年11月28日            節 約

 テレビ、固定電話、携帯、パソコン、IPADなど、外界との通信手段は、いまや、生活の必需品になっています。これらが無くったて、生活には困らないものの、無ければやっぱり不自由です。これらの経費を如何に安く抑えるか、頭の使いどころでありましょう。私の家ではテレビはJ-COM、電話、パソコンはNTTの光フレッツでやってきました。パソコンのプロバイダーはニフテイでした。月額9000円ほどでした。そこへ、J-COMから誘いがありました。テレビ2台、固定電話、パソコン2台を7000円でやる、というのです。欲につられて今年の一月、NTT関係をすべて解約してJ-COMにしました。始めは良かったのですが、そのうち気が付いてみると月額16000円を超えてしまっています。そこへ今度はNTTから月額すべてで6500円にする、という執拗な勧誘が始まりました。シエアーにおいて劣勢になったNTTが巻き返しを図り始めたな、じゃあ、それに乗ってみようじゃないか、と昨日、すべてをJ-COMからNTTに切り替えました。解約金は16000円ほどですが、それもNTTが負担するというのです。当然、工事費も無料でした。

 さて、どうなりますか、来月からの請求書が6500円で済むのかどうか、見ものであります。年金生活者にとって毎月の固定費は、安ければ安いほど有難いのです。そうでなくても物価は上がり続けています。自己防衛しなければなりません。

 医療費もまた、節約の対象です。75歳までは1割負担であったものが、後期高齢者の仲間入りをした途端、3割になってしまいました。先日、同級生の集まりがあったとき、聞いてみると5人全員が1割負担。理由は私の所得が高いからでした。私は朝日新聞退職時に貰った退職金の内2000万円を企業年金に預けました。17年後の今日まで、月額15万円を貰っているのですが、それが、厚生年金に加算されて年収に付加されてしまうのです。17年間に貰った金額は3000万を超えました。有難いことではあったのですが、確定申告は免れないので、何とかして課税所得を減らす努力をしています。

 節約のもう一方は、固定費の見直しです。ガン保険、生命保険、傷害保険などです。医療保険は入院の場合の差額ベット料は1万円のみの、1か所にしました。簡易保険は積立満期となり、500万円は死亡時に貰えます。障害医療保険は解約しました。200万余が戻ってきました。ガン保険は継続中です。ダイナースクラブで高額の障害保険に入っていたのですが、75歳になったとき、向こうから断ってきました。障害保険は77歳にもなると、どの保険会社でも扱ってくれません。海外へ出かける時だけ、空港で障害医療保険を掛けています。火災保険は母屋と隣接するアパートの掛け金だけで、年額10万円を超えます。地震保険を入れると15万円を超えます。地震になったらその時はその時です。だから加入していません。盗難と火災報知のための安全策として、セコムには加入しています。月額1万円はかかりますが、非常ベルを鳴らすと10分で来てくれます。これまで何度も鍋を焦がし、御厄介になりました。

 耐久消費財と衣料には、一切、お金をかけていません。かえって、どうやって、いまあるものを処分するかの方が問題となっています。いざ捨てる、となると、どれにもこれにも、愛着があって容易ではありません。これだけは、金がかかってもプロに頼んだ方がいいのかもしれません。厳しい気持ちになって断固として断捨離を実行する、これも節約の裏返しでしょうか。

 

2014年11月26日         ナベツネの野望

 「何で、この忙しい年末に選挙なんだ!」 「解散の理由がないじゃないか!」「安倍晋三の自己チュウ解散じゃないか!」という声が巷には充ち満ちています。確かに、今月の始め頃までは、「解散、総選挙」の文字は新聞にも雑誌にも現れていませんでした。

 この文字が躍り出たのは11月9日の読売新聞朝刊の第一面です。その記事を読んだ安陪晋三が人知れず会心の笑みを漏らした、と仄聞しました。これは、何かあるな、と探ってみました。親しい読売新聞販売OB社員にも、それとなく聞きました。

 10月末日、読売新聞主筆渡辺恒雄と安倍晋三が、秘かに会っていることを突き止めました。ナベツネは集団的自衛権の有識者会議の陰の座長でもありましたから、外部に漏れない形で逢うことなど、造作もないことです。

 「いま、選挙をやれば自民は必ず勝てる。数は少しは減るかもしれないが、絶対多数は維持できる。アベノミックスを含めて、集団的自衛権の閣議決定、秘密保護法など、くすぶり続けている懸案事項は、選挙という禊を受け、勝利してしまえば、国民に諒とされたに等しい。ということは、あなたがやりたいと思っている憲法改正は、私、渡辺と同じなのだから、選挙後、堂々とやることが出来る。解散の名目などなんでもいい。さしずめ、次回の消費税アップの先送りを決め、それを国民に問う、という名目で解散に踏み切ればよろしい。読売新聞は全面的にそれに協力する。11月初旬の朝刊第一面で読売が狼煙を上げる。それを確認したら、海外遠征中に解散風を吹かせればよい。重ねて言うが、解散総選挙はこの時期をおいてない」

 ナベツネ、アベの密談内容はこのようなものであった、と推測されます。

 朝日精神が人一倍旺盛な私にとって、読売のナベツネは不倶戴天の敵であります。それだけに、ナベツネの書いたもの、主義主張や言辞には人並でないウオッチングをしてきました。ナベツネが標榜する読売1000万部保持の覇権主義によって、新聞界はどれほどの迷惑を蒙っているか、どれだけの森林資源が浪費されているか、計り知れません。あまつさえ、原発再稼働容認の姿勢などなど、88歳でヨチヨチ歩きなのに、権力にしがみ付き、その上、公器であるべき新聞を、自分の野望実現の道具にして、国家権力にまで、その野心を敷衍させているナベツネとは、一体、何なのだ!と思わずにはおられません。

  「戦争の出来る日本にする」 これこそが、彼の究極の狙いであり、願望なのは、言わずと知れたことなのであります。

 翻って、ここ20年来「反安倍」と貫いてきた朝日新聞の体たらくには、目に余るものがあります。12月5日には株主総会が開かれ、社長以下役員の総入れ替えがあります。今度の社長は大阪入社の社会部出身で、編集局長を務めた千葉大卒です。朝日の社長は歴代東大卒で、経済部出身、次は政治部、その次はまた経済部、という順送りが不文律でありました。社会部、しかも、大阪入社などというのは、仰天以外の何物でもありません。全くの異例人事です。即時退社が妥当なのに、木村現社長は顧問室を要求しているとか……なにおかいわんや、であります。今年一月朝日旧友会総会で「読売の爺さんに負けるわけにはいかない」、と大見得を切って、満場の拍手を浴びたのは、一体、誰だったのですか。

 まだ、あります。私の後輩である飯田信也君が代表取締役会長になることです。これは、普通の時なら喜ばしいことであり、大歓迎なのですが、今は違います。販売出身者は編集優位の社内にあっては、いわば傍系です。過去、永井取締役常務、古屋取締役専務、前沢代表取締役専務はありましたが、代表取締役会長の例はありません。会長は社長より、表面上は、上位なのであります。これは、部数を減らさせない魂胆がありありの、異例人事です。醜い人事です。つまり、編集関係者の責任で発生した部数減が余儀なくされている現状に対して、販売出身者を祀り上げることにより、部数を維持してくれという、いわば場当たり的人事なのです。汚いではありませんか! 見え見えではありませんか!

 飯田君は優れた人材です。飯田君なら社長でも勤まるでしょう。でも、時期が悪い。編集のしでかした尻拭いを何故いま、しなければならないのでしょう。 こうなってしまうと、販売局は売れないで余っている部数を切れないではありませんか。「注文部数は販売店の意志で」という縮小均衡経営が、本社も販売店も採れないではありませんか。販売担当者は昔からそうであるように傍系に置いてもらっていいから、販売店との間は正しい取引を維持拡大させて行かねばならないのです。虚飾の部数維持は、返って屋台骨をおかしくしてしまうものなのです。ムダな紙は切らせてもらうしかありません。部数が、いかに新聞社のステイタスであろうとも、見せかけの部数はもはや通用しないご時世なのです。

 こうなった以上、私は後輩の飯田君に率直に申し上げたい。逆に考えれば、飯田君の一存で紙は切れる、と。君の一存で、僅か10年前にそうであった、正しい販売店と本社の関係を再び取り戻せ、と。そのためには、自分の身を捨てる勇気をもて、と。

 しかし、それは、恐らくできない相談でしょう。ナベツネの覇権主義が大手を振って是認されている以上、理想は通らないのでのあります。

 ああ、どうして「善は滅び、悪が栄え」ていくのでしょうか。私はいま、怒り心頭を発しています。

 

2014年11月15日           縄文土器

 今から5000年前ごろ、日本列島はその中央に位置する諏訪湖周辺に、人間が生息していました。夥しい土器が発見されています。それらは中国のものとは違って、はるかに稚拙でありますが、まぎれもなく、そこに生活があったことを覗わせる歴史の遺物であります。

 恒例の秋の晴山会が上諏訪の老舗旅館「朱白」で行われました。宮沢君と私は新宿から高速バスで、山崎、芳川両君は池田君の車で、塩尻住まいの内山君は車で、諏訪湖インターで落ち合いました。内山君設営の茅野の山奥の、「東屋」というところで、キノコ鍋と岩魚の丸焼き、新そばと地酒、を堪能した後、最近出土したばかりの「仮面の女神」という土偶を見に行きました。7,8点の土偶や器が国宝指定され、展示されていました。

 約30センチほどの背丈のその土偶は、顔は三角形の恐らく仮面であろうものをかぶり、腹が異様に突き出たグロテスクな物体でした。股間には女性であることの印がありましたが、女性であれば備わっているはずの乳房がありません。腹が異様に突き出ているので妊婦かと思い、係員に質してみると、妊娠の腹ではないとのこと。「では、何者なのか?」 識者の間にも議論が百出していて結論が出ていない、とのこと。

 縄文土器が出土した場所を、針で示す立体模型によれば、蓼科から諏訪湖周辺にかけて数百の出土があり、いまも、発掘が行われていることを知りました。

 5000年前にこれだけのものを作り、生活していた人間がいた以上、更に5000年を遡っても人間が生息していたに違いありません。同じように春には木の芽を摘み、秋には果物やキノコを食べ、動物を殺して食べていたのでしょう。

 いま、私たちは土器や土偶の発掘によって、5000年前の人間の存在を類推することができていますが、私たちが去り、そして、月日が流れ5000年経過したころ、私たちはどんな形で発掘されるのでしょうか。更に1万年経過したとき、どうなるのでしょうか。考えれば考えるほど不思議な気持ちにさせられます。

 上諏訪の旅館で、談論風発に時を忘れたわれわれ6人は全員が77歳か78歳。あと何年続けることがことが出来るのか。「仮面の女神」の性別に意見を闘わせながら、こういう時が持てる幸せを一人一人噛みしめたのでありました。

 翌日は、高遠を巡り、噴火した御嶽山の麓まで行く予定でしたが、私だけは失礼して高速バスで東京へ戻り、女子医大へ直行しました。完全予約制のため、その日を逃すとあぶれてしまうからでありました。肺のレントゲン写真は異常なし、肺炎や間質性肺炎、喘息などの兆候なし、と診断されましたが、咳は相変わらずです。アレルギーの薬を処方されました。いやはやです。

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