最近のエッセイ

2019年10月13日                  長野・善光寺平水没

 今朝のテレビは驚くべき光景を映し出しました。長野の善光寺平が水没している写真です。犀川と千曲川が合流している地帯、地域でいえば屋代、川中島、篠ノ井のあたりと、その先の松代の西寺尾、柳原、村山などが一面に冠水しています。二つの川は その辺りで合流して信濃川になり、新潟県から日本海へ至るのですが、航空写真では信濃川になった流域の写真はありませんでした。新任の通産大臣が長野に向かったという情報も飛び込んできました。それにしても、冠水された長野の衆が気の毒で、気の毒で、今、私は涙ぐみながらこれを書いています。

 たった3日前の8日から9日にかけて、私はその善光寺平にいました。十数人の友と共に、小布施町の高台に位置する温泉ホテルで、硫黄の臭いの強い温泉に浸かりながら、善光寺平を俯瞰していました。天気は快晴そのもので、目の前には四つの山が聳えています。右から斑尾、妙高、黒姫、そして飯綱。遠く戸隠連山、北アルプスまで見えました。善光寺平らの河川の流域は、今、果物の最盛期でした。梨、リンゴ、ブドウ、そして栗、、、ブドウは袋をかぶり、リンゴは赤く染まっています。黙ってとって食べてもいいぐらい、その数は限りなく、平和そのものの風景が広がっていました。

 翌朝、所用のため、皆に別れを告げ、タクシーで長野電鉄小布施駅に向かいました。今は観光スポットになっている駅周辺には、無人のスタンドがあり、新鮮な果物野菜が売られていました。信濃川を渡る村山鉄橋の河川流域も一面が果樹園でした。柳原駅からは昔お世話になった上野先生のお宅を垣間見ることが出来ました。

 いま、先生のご遺族は浸水騒ぎで途方に暮れておいでになるのではないでしょうか。収穫を間近に控えていた果樹農家の皆さんは、強風と豪雨で煽られて落下した果物たちを前にして、悲嘆に暮れているのではないでしょうか。

 何ともやりきれない気持ちで一杯です。

 

2019年10月12日          高層ビルラッシュ

 9日にチェンマイから大阪経由でおいでになり、13日早朝の便で大阪伊丹へ戻られる鍋谷さんが、台風情報に恐れをなし、11日に戻りたい、とおっしゃいます。ネットも電話も大混雑です。ままよ、と車で羽田へ向かいました。環状6号線の地下の最近出来た首都高速へ入ったのが11時頃。こんなに長く続くトンネルを走行するのは初めての経験でした。羽田空港はごった返していました。なぜなら翌12日は全便が欠航するからでした。運良く、誠に運良く3時発の伊丹行きに変更出来ました。最後の一席がとれたのです。食事をしてお見送りし、さて、どの道を通って帰ろうか、と走り出しましたが、羽田周辺の道路は複雑怪奇になっていて、湾岸道路への標識を見失い、以前からある首都高速に入ってしまいました。ここ10年来走ったことのない懐かしい高速道路です。驚いたのは、道路の両脇は、これでもか!とばかりに林立する高層ビル群です。ひときわ目立ったのがラクテンのビルでした。カード会社に何でこんな大仰な建物が必要なのだろう? と思いました。芝浦のビル群に比べたら、かつての汐留シオサイトのビル群は霞んで見えました。その片隅に15階建てのわが朝日新聞の黄色い建物がチラっと見えましたが、小さい、小さい。読売のある大手町のビル群は以前より遙かに高層化されていました。台風のお蔭で日本経済を担うビル群を眺められたことに感謝しながら、練馬の小さい小さい木造家屋に到着しました。 

 

2019年10月11日          心温まる結婚式

 ところは埼玉県熊谷市籠原町の小さいながらも瀟洒な教会。関東平野は見事に晴れ渡り、雲一つない晴天です。

 恐らく身体中の痛みをモルヒネ押さえているに違いない野尻牧師が壇上から結婚式の開会を宣言。乳がん闘病中の明子夫人がグランドピアノで結婚行進曲を奏で始めました。新婦を支えてゆっくり歩み出したのは、この日のためにタイ・チェンマイから大阪経由でおいでになった84歳の鍋谷さん。新婦の愛さんと新郎太郎さんは幼なじみながら共に40代前半のお二人。讃美歌が流れ、祈りがあり、愛の誓いが交わされ、野尻牧師のウイットに皆が笑い、和やかで心温まる式が行なわれたのでした。

 才媛の誉れ高い新婦の愛さんは、日本の大学卒業後、チェンマイの大学院に進みます。しかし、うつ病を患い野尻夫妻を日夜苦しめます。鍋谷さんも愛さんの話に加わった一人でした。当時、チェンマイ日本語キリスト教会は影の薄い組織でありました。野尻夫妻が赴任し、日夜たがわずの懸命な努力により、時には100人近い組織にまでなりました。中国人教会の一隅を月6000バーツで借り受け、70万円のピアノを入れ、チェンマイの郊外に日本人墓地まで作り上げてしまいました。そのご苦労を誰よりも知っているのが新婦の愛さんでした。お世話になった野尻ご夫妻が今、病の床にいるなら尚更のこと、どうしても野尻ご夫妻に結婚式を挙げてもらいたい、新婦は新郎とそのご両親は、わざわざ、大阪から遠隔地の埼玉までやってきたのでした。なぜなら、野尻ご夫妻は熊谷の郊外の「幸せの苑」という施設にお住まいで、時にこの隣町の籠原教会に通われる、というご縁からここが式場に選ばれたのでした。

 野尻ご夫妻の住まわれる部屋には、私のところのローランドのグランド型キーボードが置かれています。たまたま拙宅に見えたご夫妻が気に入られたので、送って差し上げたのでありました。

 式が終わり、差し回しの小型バスに乗り、先生ご指定の料理屋での昼食会となりました。和気藹々の自己紹介があり、私は、野尻先生ご夫妻のご苦労のいくつかを申し上げ、新婦がここに「恩返し」をされた愛の力の導きについて触れさせて貰いました。そして密かに、先生ご夫妻の「食べっぷり」を観察していました。卓上に並んだほとんどを召し上がられたのを見て、実に、実に安堵したのでありました。  

 

2019年10月6日         パスポート更新      

 パスポートの更新は半年以上前なら、面倒な手続きがいらないそうなので、今日、池袋のサンシャインまで行って手続きをしてきました。5年にするか、10年にするか、いささか迷ったのですが10年にしました。92歳まで旅が出来るだろうか、という思いもあったのですが、「頑張らずにおくべきか」と自分に言い含めました。

 私は自分が常々未知なるものへの好奇心が旺盛なのではないか、と思っています。そのせいかどうか、年をとったなあ、という思いがあまりないのです。運動機能の衰えは切実さを加えていても、気力に関しては昔と変わっていないようです。と強がりをいってみても、気力を支配する脳みその衰え、それによる体力の低下は覆うベくもありません。努力、努力あるのみです。今日はよく歩きました。サンシャインから始まって西部・東部の両デパートの上から下まで、面白くて歩き回りました。1万歩を超えました。

         50,60花ならツボミ、70,80働き盛り、

         90になって迎えが来たら、100まで待てと追い返せ!

 

2019年10月6日          協調性

 ラグビーの世界大会が、いま、日本で行われていて国を挙げて熱狂しています。強豪国を倒し、三戦三勝しているのですから尚更です。釜石や磐田など、地方で行なわれた試合では、観客全員が相手国の国歌を歌ったり、 子どもたちがフィールドに出て相手チームの儀式パホーマンスを真似て披露したりするものですから、その意外性が世界中に報道され、いやが上にも雰囲気が盛り上がっています。おもてなしの国の真骨頂ではありましょう。

 母校早稲田のラグビー部は強豪チームとして昔から知られた存在です。いつの頃からか、朝日の業務局、主として販売担当員に早稲田、慶応のラグビー部の出身者が多くなりました。、私が新潟県担当だったときの助手は慶応ラグビー部の間宮君でした。東北担当の部長だったとき宮城県の担当は、早稲田のラグビー部の小林君でした。彼は乞われて早稲田ラグビー部の監督にもなりました。次長の石山君も早稲田ラグビー部の精鋭でした。同期名古屋入社の白根君も早稲田のラグビー部。他にも数人いました。東大、一橋もかなりいましたが、月日を重ねてみると数人を除いて彼らは販売の中枢からいつの間にか外れていることに気がつきます。何故か、と考えてみると、彼らには組織と共に歩む協調性に欠けているのです。自分勝手だからいつの間にか主流の仕事から外されてしまっているのでした。

 組織には飛び抜けた才能は必要ないようです。同じ目標に向かって互いに協調し合ってこそ、発展します。日本の発展は東大や一橋ではなく、早稲田、慶応を筆頭とした6大学や、私学の運動部出身者が担ってきているように思えてなりません。

 

2019年10月4日            天然キノコ 

 思い立って谷川岳の麓まで行ってきました。自生のキノコを買ってきて、キノコ汁にして食べたかったからです。一番良いのは高速道路を沼田で降りて尾瀬に向かって直進し、途中右折して日光へ向かう街道を行けば、道の両脇にキノコ屋さんが目白押しに並んでいるのですが、今回は谷川岳を仰ぎたかったし、まあ、その道すがらにもあるだろうと、水上インターから湯桧曽川を遡りました。

 無いのです。街道の何処にも出店がないのです。道の駅で売っているマイタケやシメジは東京のスーパーにもある栽培ものばかり。選択を間違ったと後悔しましたが後の祭り。10月だというのに、紅葉にはまだ早く、天気は快晴で無風。山の空気はすがすがしく、土合の出会いから芝倉沢に続くなだらかな道を、川に沿て歩きました。

 高校生の時、月夜野の駅から四万温泉に出て平標山に登って山小屋に一泊。翌日は千の倉岳を経て、谷川のトマの耳、肩の耳に登って谷川小屋に一泊。そして翌日、西黒沢、マチガサワ、一ノ倉沢、幽ノ沢の絶壁を眼下に見て、まだ、残雪が覆っていた芝倉沢をグリー制動で湯桧曽川まで下って来たのでありました。その時の開放感を再び味わうのも目的の一つでした。そこから谷川岳遭難者の慰霊碑を右に見て少し登ると、天神平へ行くロープウエイ、とリフトです。頂上に着くと目の前が谷川岳です。縦走した山々が指呼の間です。しばし見とれ、「ああ、また会えた」と静かな喜びに浸りました。

 下山して売店の親父に聞きました。「天然のキノコを売っているところは?」、「ないね、何処にも」、「何で?」 「放射能よ、福島、群馬、栃木と埼玉ではキノコを売ってはいけないことになっているんだ」、「うへー!」、「いつから?」、「7年前からよ。中には隠れて売っているところもあるらしいから、自分で探してみな」

 くそー!正力め、キノコまでダメにしやがって! 怒り心頭を発しました。

 

2019年10月2日            剪 定            

 玄関脇の猫額の空き地に植わっている洋梨、梅、グミ、キウィなどなど、今年は雨が多かったせいで繁り放題になっています。昨年は練馬区のシルバーセンターに頼みました。白髪頭の三人が来てトッタラ、トッタラやってくれました。今年は朝日新聞販売店から声がかかりました。何と、練馬のわが地区の販売店は植木の刈り込みを副業として始めているのでした。新聞では儲からなくなったからでありましょう。「ウヘー、何ともはや」と私は絶句してしまいました。とうとう新聞販売もここまで来たか、とやりきれない気持ちになりました。

 今日、販売店から若者二人に一人の老嬢が来て、剪定作業をしています。その早いこと早いこと。迂闊なことに、梅の枝は残しておいてと言い忘れたために、大事な枝振りまで切られてしまっていました。何か、後ろめたい気持ちになっていた私は、スーパまで行って10時と3時のおやつと飲み物、お昼の弁当を買ってきて、遠慮する彼らを部屋に上げて労をねぎらいました。決して自分のせいではない、と分っていても、せめてもの罪滅ぼしの気持ちでした。 

  一方、同時に後ろめたい気持ちも、剪定されて、車の荷台に山と積まれた枝や葉っぱに対しても起きています。昨日まで眺めていた、元気な枝や葉っぱが今は無い! 今頃何処にいるのだろう? 何処へ捨てられるのだろう? 伸び伸びと生きていた彼らに何の落ち度があったというのか。自分は何という無慈悲な人間なのだろう、という後悔の念です。 「生きているものを敢えて殺してしまった」という自分への情けない気持ちです。 でも、やがてはお互いに土に帰るんだから、少しだけ先に行って待ってておくれ、と呟いています。     

 

2019年10月1日           共有した時を懐かしむ

 何事も、初めがあれば終わりもあります。クラス会や同期会などが正にそうです。長野三輪小学校で三年間上野先生に受け持っていただいたクラス会「三都和森」は5年前まで続いていました。幹事役の山上正視のお蔭でした。長野高校のは同級会ではなく長野北高七回卒業生全員で組織する「北七会」です。今年も7月に開かれました。400人中150名ほどがあちらの世に移り、存命者はまだ多数いるのに出席者は38人でした。しかし、この会だけは最後のひとりになるまで存続するでしょう。少なくとも、会長が善光寺住職で高位を極めた若麻績侑孝君が天寿を全うするまでは。 早稲田での同じクラスは60人ほどでした。10年前の早稲田祭での集まりを最後にお仕舞いが宣言されました。ホームカミングデイの正式案内は75歳が最後でした。大前研一の講演を印象深く聴きました。昭和36年度の朝日新聞業務局入社は東京8人大阪6人の14人でした。思い出した頃に同期会が開かれていました。4年前、京都の祇園「白梅」で開かれたのが、誰言うとなく最後になっています。

 いま手元に、10月8,9日開催の中学のクラス「若草会」の通知があります。長野駅に2時に集合し、ホテルのバスで小布施の温泉に向かいます。会費は1万6千円。案内は7月に来て、催促の電話が二度ありました。9日の12時から日比谷のプレスセンターでの会合予定が入っているので、迷いに迷っていますが、私は行くと思います。なぜなら、共有した過去をお互いに語り合う機会が、もうほとんど無くなっているからです。

 私には共有した過去を一番語り合いたいと思う無二の親友は5人います。NHKの佐々木潤君、京都新聞の市川長年君、学習研究社の竹内二郎君、従兄弟の桜井靖輝、そして、高校から職場まで一緒だった宮沢恭人君、、、、きっと泉下で私が行くのを心待ちしているでしょう。

         秋風のたなびく雲の絶え間より漏れいずる月の影のさやけさ

 

2019年9月30日            行きたい

 9月中に新潟からの航空便でロシアのウラジオストックへ行って4,5日滞在してこよう、と計画を立てていました。かねてより日本海の対岸がどうなっているか、興味を持ち続けていました。ユーチューブで空港や街中の景色を調べました。ホテルも決めました。HISでチケットの予約もしました。空港から街の中心まではタクシーが一番なのを知りました。なぜなら列車の本数が少なく、夕方からは走らないのを知ったのです。ウラジオストックからシベリア鉄道に乗ると九日間でモスクワへ行けることも分りました。本当はそこへ行ってエルミタージュ美術館へ行きたいのですが、この歳ではシベリア鉄道は荷が重すぎるかなあ、と躊躇しました。

 当地は10月になると急に寒くなるとのことです。ですから、実行するなら9月中だ、と決めていたものの、今日は9月の末日です。野暮用の連続でチャンスを逸してしまっているのです。敏捷に行動すべきだったのに、いたずらに時を過してしまいました。我ながら情けない次第です。しかし、つらつら振り返ってみると、海外の旅に出て初めてのところで苦労するその勇気がこの歳になると欠けて来ていることにも気付かされます。安逸をむさぼるな、未知のものへ挑戦していく気概を失っては何のための人生か、自分自身に向かって厳重に問いかけているところです。

 

2019年9月29日            線の魅力

 音楽は音の表現であり、彫刻は質量の表現です。同じように絵画や書道は線と色彩の表現でありましょう。私はかねてより、魅力ある線が書けない者だったら表現者である資格はない、別の道を探すべきだという大それた偏見を持ち続けています。見る人を魅了して止まない芸術家はそんなに多くはありません。なぜなら、この才能は天から授かるものであって、修行を積んだからといって身につくものではないからです。

 「美は照応にあり」とは小学校時代の恩師上野先生から教えて貰った真理です。単純な一本の線であっても、そこに美は存在することが出来る、表現者たる者それを追求しなくて何の芸術であろうか、先生は絶えずおっしゃっていました。当時、私にとってはチンプンカンプンでしたが、長ずるに及んでそれが分ってきました。

 夭折した佐伯祐三の個展へ行ったときです。港に停泊している帆船のロープが数本描かれていました。その線が何とも美しく心にグサッときました。上野の国立博物館で開催された空海の書「ふうしん帖」の現物に接した時です。何とも闊達な筆の運びの中に美を見つけました。美が私に語りかけてくる不思議な体験をしました。

 中学時代に私は自分に画才がないことを知り、長野高校では書道部に在籍しました。書道部顧問の小出聖水先生のご指導よろしきを得て、作品が長野県展に入選したこともありました。故宮沢君の後釜で西武本社業務局長を引き受けた際、社内の書道部まで引き継ぎ、お互い退職してからも、月に三回、六本木の書道塾に通っていました。朝日が毎春主催する「現代書道20人展」も毎年欠かしませんでした。仮名部門では土橋やす子にその美をみつけたことがありました。結局私は、努力しても努力しても「これは!」という線の表現は出来ず、でお仕舞いになろうとしています。

 私の仕事場に一枚の色紙大の書が掲げられています。何とも美しい線で「さみだれをあつめてはやしもがみがわ」とあります、蕪村の有名句ですが、これがまた、何とも美しい線の集合体になっています。六本木の書道塾の大先生であった故飯島春敬先生の直筆です。また地下室には中学時代の同窓生であったY・Nさんの書が飾られています。師範代まで上り詰めたお方ですが、何とも気品のある半切を折にふれ送ってくださいました。

 書の筆であれ、絵筆であれ、一本の線の行き着く先は「美」ではないでしょうか。これから先、「線の美」を求める日常であったらどんなにいいか、と思っています。

 

2019年9月28日            汚染水

 例年、福島浜通りへは年二回ほど行っていたのに、今年はまだ一度も行っていません。いわゆる長野弁で言う「ズク」が無くなったのでしょう。最後に行った時は、広野町の隣り、富岡町の除染が完了し入居可能でした。常磐線も富岡まで開通して瀟洒な駅舎と駅前広場が出来ていました。今年は夜ノ森、大野まで除染されるようですが、果たしてどうなっているでしょう?

 いま、政治問題化しているのは、原発による汚染水の処理です。昼夜を違わず溢れ出てくる汚染水は大きな特製のドラム缶に入れられ、周辺にうず高く積まれているようですが、立ち入り禁止地区なので、見ることは出来ません。きっと、想像以上の恐ろしい眺めでありましょう。いま、この件に関して大阪の松井市長が「持ってきてくれれば、大阪湾に流してやるわ」と突拍子もない発言をして物議を醸しています。彼の発言の趣旨は汚染水問題は日本全国民が考えなければならない大問題だ、早急に対処しなければ、と言いたかったのでしょう。正にその通りであります。

 最近、最高裁の判決があって、東電の旧経営者三人が無罪となりました。15メートルを超える津波は予見出来なかった、というのが判決理由ですが、社内ではかねてから津波に対する防御策を早急に講じるべきだという進言があったにも拘わらずの判決です。私を含めて多くの国民はこの判決に納得していないでしょう。

 原発をいち早く日本に普及させたのは、読売新聞社主正力松太郎です。電源開発の総裁も兼務していた彼は、導入に反対の論陣を張る地方紙に対し、商業広告掲載という甘い汁を垂らして籠絡しました。電源開発、電力会社、取り仕切る電通が三つ巴になって、何と、1兆4800億円を使いました。もし、読売新聞と正力がいなかったら、日本に原発は導入されなかったでしょう。ああ、それなのに、それなのにです。この原発の汚染水処理について、読売新聞は知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいます。

 私は思います。読売新聞は正力のシデカシタ後始末について、もっと真摯に取り組むべきです。汚染水処理について大論陣を張って、もっともっと国民を喚起すべきです。ジャイアンツの優勝にうつつを抜かしている場合ではないはずです。

 

2019年9月27日         存在感なかった文在寅

 文在寅がワシントンに飛びました。トランプとの個別会談が行われました。その記者会見は約10分間、なんと、トランプのみがしゃべりまくりました。文在寅が発言しようとすると、トランプが遮ります。文在寅への発言の機会は全く与えられません。これはどういうことか? 元より英語が出来ない文在寅はトランプの発言が理解できない。反論しようにもチンプンカンプンです。情けない場面が世界に流れてしまいました。嫌韓か反日か、初めの頃のアメリカの論調はどっちもどっちでしたが、ここへ来て韓国非難に矛先が変わっています。なぜなら反日の狼煙はは韓国のみに見られる現象であって、日本には表だった反韓の姿勢が見られないからです。

 一方、韓国内では反日不買運動は、日本よりも自国内への影響の方が大きいことを国民は遅ればせながら知るようになりました。ユニクロや無印良品やアサヒビールがやり玉に挙げられていましたが、カメラやテレビ、音響機器、病院の医療機器、工作機械、その他日用品の数々において、不買出来ないことを、改めて知ったのです。国内に唯一存在する気象観測機器さえもが、彼らがやり玉に挙げている三菱製であるのを知りました。日本製品によって韓国民の生活が成り立っている現実に愕然としているのです。しかも、不買運動によって損害を被るのはそれに従事する韓国の事業体であり、労働者です。

 その結果、左翼政治家文在寅に任せておけない、という世論が沸騰し始めました。今回のトランプによる韓国冷遇の扱いは「お前さんではNO」という三行半を韓国の現政権に突きつけた、と言っても過言ではないでしょう。屈辱的な扱いに甘んじなければならなかった文在寅は、太平洋上の帰りの機内で、どんなに歯がみしたことか想像に余りあります。

 

2019年9月26日            ちょっと怖い話

 こども電話相談室出演の何回目だったか、回答者の一人に東京都でこども福祉に従事するお役人が呼ばれていました。一時間あまりの緊張から解き放たれた回答者たちは控え室に戻って雑談に花を咲かせます。おのずと滅多に聞けない話が飛びかいます。こどもの出産についての話題になったときです。彼は以下のような秘話を披露しました。「こどもは,そのすべてが正常に生まれてくるとは限りません。一定の確率で奇形児が生まれています。手が三本あったり、指がなかったり、目が三つあったりそれはそれは様々です。昔、出産がお産婆さんの手によっていた時は、奇形児だと分るやいなや、産婦には分らないように、それとなく、素早く処理出来ていました。今は、そういうわけにはまいりません。人権問題があるからです。例え奇形であろうと生きる権利は保障されねばなりません。産院はどうするかというと、いち早く、東京都と連絡を取り、ある施設に運んでもらいます。そこは東京都内のある場所です。その場所は秘中の秘であり申し上げるわけにはいきません。そこには外界と完全に遮断された施設になっていて、奇形児同士が集団生活を送っています」

 回答者全員、押し黙ってしまいました。しばらくして「やくみつる」がぽつん呟やいたのを覚えています。「その施設にいるこどもたちは、この放送を聞くことが出来ているのだろうか?」  これは強烈な印象として、私の脳裏に今でも残っています。

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2019年9月25日            こども電話相談室

 テレビのクイズ番組で「やくみつる」を度々見かけます。相変わらずの物知り振りにはあきれます。その節は大変お世話になりました。それは20年ほど前、TBSラジオの子供電話相談室に回答者として出演したときのことです。

 TBSには朝日新聞社の資本も入っていて、何かの都合で資本増強に応じたお礼だったのか、この番組への出演依頼が舞い込んできました。朝日学生新聞の社長であった私に白羽の矢が当たり、都合四回出演しました。回答者は毎回ゲストの三人と、司会の女性の四人でした。四回とも「やくみつる」が一緒だったのを覚えています。永六輔と共に彼も常連だったようでした。ご一緒した回答者で覚えているのは「ドラエモン」の声優大山のぶよ、太りに太ったオペラ歌手の中島啓子、オリンピックに出場した体操の森末慎二、女優の岸田今日子です。

 電話をかけてくる子どもの質問は千差万別でした。あらゆる質問に即興で答えなければなりません。女性の司会者が目配せで回答者を指名します。何故か新聞に関するものが沢山ありました。「新聞は何で朝刊と夕刊があるのですか?」、「新聞は何で沢山印刷できるのですか」、などなど。私の出演を漏れ聞いた学生新聞社の子持ちの社員が気を回してくれたのでしょう。有り難かったですね。

 「水道の蛇口の向こうはどうなっているのですか?」との質問を司会者が私に目配せしました。「長い長い鉄の管が初めは細く、次第に太くなりながら地下トンネルを通って多摩川や利根川のそばの浄水所という工場につながっているんだよ。そこで川の水がきれいにされて飲めるようになるんだね。川の水はどこから来るって?それは山に降った雨が川になるのさ。雨はどこから来るかっていうと、海の水が蒸発して雲になる。つまり水はぐるぐる回っているのだね。水を大切にしようね」とやったはいいけれど、話の途中で「やくみつる」から目配せが入りました。もっと簡潔にやれ、という合図でした。大山のぶよはドラエモンの声そのままでの回答です。これは受けていました。TBSラジオから一回につき3万円の出演料が振り込まれて来ました。

 朝5時起きして赤坂のTBSに向かい、近くの店でパンと紅茶で腹ごしらえをし、8時からの打ち合わせに遅れることなく出向いた労賃として半分は頂き、半分は学生新聞社の社員飲み会に寄付しました。 

 

2019年9月24日          渋子は凄い(2)

 渋子にはもう一つの記録がありました。それは28ホールを連続でボギーなしで回った、という快挙です。つまり、印刷通りのプレーを28回続けてなし遂げた、ということです。ゴルフでは各ホールごとに3,4,5の指示があります。3はショート、4はレギュラー、5はロングホールです。3のショートホールを2打で回ればバーデイ、また、4のところを3打、5のところを4打で回ればバーデイです。もし、4のところを2打、5のところを3打で回ればイーグルです。また、幸運にも5のところを2で回ることが出来れば、これはアルバトロスと呼ばれます。また、3のところを一発で入ればこれはホールインワンと呼ばれます。実は、この渋子は若年にしてこのホールインワンも成し遂げているのです。

 若かりし時、海野親分と共に原田、宮沢、中沢の四人は西武園GCでプレーしました。朝霧の立ち篭めるなか、ショートホールで宮沢君の打球がワンオンしました。近づいてみると、その球はカップに沈んでいるではありませんか!ホールインワンだったのです。大騒ぎとなりました。その晩、宮沢君は大盤振る舞いの支出を強いられました。三人からのお祝いの品はブレザーコートと決まりました。実はそのお祝いはいまだ実行に移されていません。「おーい、早く寄こせよ」という宮沢君の声が泉下から聞こえています。

 

2019年9月23日          渋子は凄い(1)

 東海クラシックの最終日、若干20歳でプロ一年目の渋野日向子がど偉いことをやってのけました。首位の申・ジエ他4名の上位者に対して8打差を跳ね返し、逆転優勝してしまったのです。圧巻は最後のショートホールでした。グリーンを外し、深いラフの位置から打ったにも拘わらず、チップインさせてしまったのです。見守っていた大勢のギャラリーが大歓声を上げました。当日のギャラリーは2万人を超えていたそうです。ほとんどが渋子の応援団だったようで、このとき、天にも届く大歓声が上がりました。渋子は全英女子オープンで日本人として樋口久子以来42年ぶりに優勝しています。その賞金1億円に加え1440万円が加わりました。もし、今年度の残り10試合で更に賞金が加われば今年の賞金女王も夢ではありません。何とも凄い20歳です。

 今月号の文春には、渋子の母親の手記の掲載もありました。興味を持って読みましたが、ご両親が二人とも筑波大学で投擲の選手であったことが、彼女の成育に好影響を与えたことを知りました。彼女は初め男子に混じって野球をやっていました。渋子一家は、オリンピックのソフトボールで大活躍した上野投手の大ファンだったそうで左打ちでバットを打っていました。良き指導者を得て右打ちでゴルフのプロテストに臨みますが、初回は不合格でした。しかし、彼女は右でも左でも存分に使えるバランスのとれた身体になっていたのです。常に微笑を絶やさないこと、これも母親からのアドヴァイスであるのを知りました。幼児期の家庭教育がいかに大切なものなのか、母親の手記はそれを如実に物語っていました。

 

2019年9月22日         藤原正彦と佐藤優(2)

 佐藤優は、福島県三春出身の父親が沖縄へ仕事に行っていた際、伊江島の女性と結ばれ1960年に生まれました。彼には沖縄の血が流れています。同志社大学神学部を卒業、外務省に入り主席分析官となります。モスクワの日本大使館にもいましたので、ロシア語が堪能であったことから、田中真紀子外相時代に、議員の鈴木宗男に使われ、本人は無罪を主張しましたが有罪判決を受け513日留置場に入ります。外務省は罷免されましたが、作家に転身し、見事な変身を遂げています。また、カルビン派のクリスチャンでもあります。

 月刊文春での彼の論文は、専ら韓国文在寅政権の「GSOMIA」破棄に至る分析に終始しています。2045年までに南北統一を図ることを最大の目的にしている文在寅ですが、北朝鮮はそれを望んでおらず、金正恩からもはや相手にされなくなっている事実を暴露しています。その上、アメリカが怒り心頭を発していて文在寅に愛想を尽かしている内部事情を詳細に述べています。

 今回の文春に納められている韓国関係の論文は、藤原・佐藤の他にも元釜山総領事の道上尚史のもの、「特に名を秘す韓国高官X氏」のもの、都合4編がありますが、いずれも今の状態はかなり長引くだろう、と予測することにおいては4論文共通の認識でありました。

 そして佐藤は外交的には日本の勝利だが、心配なの日韓関係の武力衝突であるとしています。中国とロシアが密かにそれを狙っている、とも推論しています。イエメンがイランの支援を得ながら、サウジの精油施設を無人機で爆破したような事態が日本に対して行われることが、今後、充分に考えられる、としています。

 だからこそ、日本は「武士道精神」に立ち帰り、韓国は「惻隠の情」を持て、という藤原正彦の進言が両国の現状打破に役立つのでは、としみじみ思わされた次第です。

 

2019年9月20日         藤原正彦と佐藤優(1)

 久しく月刊文藝春秋にはご無沙汰でしたが、今日、買ってきました。韓国問題について藤原正彦と佐藤優が巻頭執筆をしているからです。私はかねてより、このお二人の人間性とそのあり方に心からの尊敬と親しみを覚えています。ですから、二人の著書はほとんどは購入済みです。いま藤原は、お茶の水女子大の数学の教師を辞して作家活動をしていますが、どの著書もユーモアに溢れ読む者を惹き付けて止みません。

 彼は中央気象台に勤めながら作家であった新田次郎と、ベストセラーをモノした藤原テイの次男として1943年に満州で生まれます。敗戦でソ連兵が押し寄せる中、母は5歳の兄、0歳の妹、2歳になった彼を伴って朝鮮半島を南下し、這々の体で日本に逃げ帰ります。その途中、寒さと疲労で死にそうになった4人は韓国の貧しい人々に助けられます。その体験が藤原正彦の韓国観の原点になっていました。

 藤原には「国家の品格」という優れた著書があります。韓国にはその品格が希薄である、と彼は説きます。なぜなら朝鮮半島の歴史のほとんどは中国の隷属下にあったからです。漢字も儒教も朱子学も陶芸も中国から入ってきました。日本はというと、韓国からすれば夷狄であり蛮族でありました。大陸が島国を格下に見る理屈です。ですから、軽蔑する国から貢ぎ物があるのは当然でありました。新潟における佐渡、薩摩における沖縄、長州人が「九州島の奴ら」と蔑む悪弊は、昔も今も共通です。その格下の日本国によって朝鮮半島は明治・大正・昭和の初期の30年に亘って支配下に置かれます。それは、日本によってどんなにインフラの整備が行われようとも、この30年間は韓国にとって夷狄に支配された屈辱の歴史なのです。だから日本のインフラ整備も格下から格上への当然の貢ぎ物であり、有り難がる必要は全くない、という理屈なのです。昭和になってからの70年間、韓国は日本の技術供与を受けて世界14位の先進国の仲間入りを果たします。しかしこれも、中国経由で韓国から日本に供与された技術供与の格下国から格上国への貢ぎ物であって、そうあって当然のことと韓国は捉えるのです。

 その目下の国が目上の国に向かって貿易上の優遇措置「ホワイト国」から韓国を除外するとは何事か、とんでもない仕儀である、それなら日本製品不買運動を大々的に行い懲らしめてやる、左様心得よ、となったと藤原は解析します。

 では、どうしたらよいか?解決の道はあるのか? 藤原は日本は「武士道精神」に立ち返れ、韓国は「惻隠の情」を持て、と説きます。「武士道」は新渡戸稲造が英語で書いた名著です。世界の各国語に翻訳され読まれたあと、日本語になった曰く付きのものです。その精神をもって韓国と接しろというのです。韓国には元々儒教の教えからくる惻隠の情があると言われています。一部の社会主義かぶれの思い上がった一時的指導が大声で反日を扇動していますが、ほとんどの国民は優しい国民なのだ、と藤原は言います。なるほど、と納得出来ました。

 

2019年9月19日           ドローン

 サウジアラビアの製油施設を爆撃したのはイエーメンの 無人機ドローンです。10機以上のドローンが体当たりして施設を破壊しました。そのドローンの残骸が公開されていますが、紛れもなくイラン製であることが確認されました。ところがイランは関与を全面否定しています。一方、アメリカの偵察無人機もイラン上空で爆破されています。戦争の発端は国同士の小競り合いから始まるのが歴史の常です。しかし、戦争のカタチは極端に変わりました。空間を支配する電波こそが主力になりつつあります。自国の領域内に光りの網を張って、いかに早くそれを排除するか、が争われるカタチとなりました。70年前の戦争とは比較にならない変化がそこにあります。無人機やドローンの格段の進歩に伴い、世界各国はその規制にしのぎを削っています。ドローンは人間の識別など簡単にできてしまうのですから、暗殺や邪魔者の排除など簡単でしょう。

 一方、ドローンの平和利用も特筆すべきものがあります。広大な農場への薬品散布、遭難救助などその威力を発揮しています。なかでも航空写真は圧巻です。従前にはなかった視点からのアングルで、見事な写真撮影に成功しています。

 機械音痴の私ですが、いつかドローンを購入して操作を覚え、山岳地帯へ行って昔登った山を奇想天外のアングルで写真を撮りたいものだと願っています。

 

2019年9月17日             水の問題

 今年の1月30日の午前0時、バンコックのスワナブーム空港からテレアビブ空港に向かうイスラエル国営のエル・アル航空機に乗りました。空路は直線距離ではイラン、サウジアラビア上空を通れば近いのですが、イスラエルは両国と敵対関係にあります。海沿いに進路を取り、イエメンあたりから紅海上空に迂回してテレアビブに着きました。明け方、飛行機の最後部へ行って右側の窓から外の景色を眺めました。視界の全部が荒涼たる砂漠でした。建物も明かりも緑も何もかも見えませんでした。アラブ首長国連邦のドバイへ行ったときも、窓にへばり付きましたが、その時は遙か彼方に集落や、僅かな緑の茂みを見ることが出来ました。

 何故、緑がないのか? それは水がないからです。では、どうやって水を得ているのか? 海水を濾過して使っているのです。ドバイの海岸に行ってみると、海岸の至る所でモーターが唸りを上げて海水を汲み上げていました。イスラエルも同じです。エルサレム辺りはガリラヤ湖やヨルダン川の水を使っているようでしたが、テレアビブの周辺は地中海から海水を汲み上げています。その水を使って緑を茂らせ、田畑を潤し、果物を豊富に実らせていました。

 翻って、我らの日本です。我が国ほど水の豊富な国は世界でも希なのではないでしょうか。それなのに、今回の台風の被害を受けた房総半島では未だ数十万戸の住民が断水の被害に遭っています。同時に停電状態も回復していませんが、電気がないのは不自由ではあっても、何とが凌げますが、水は駄目です。死活に関わります。

 地球温暖化は益々苛烈を極めるのは、誰もが予想しています。ならば、各市町村は災害時に稼働出来る、自家発電による海水濾過装置を設備しておく必要があるのではないでしょうか。

 ところで数日前、サウジアラビアの主要油田精錬所が何者かによって攻撃され、爆発炎上しました。イエメンのテロ組織が「自分たちがやった」と名乗りを上げていますが、アメリカはそこにイランが介入しているという証拠を握って、イラン攻撃に梶を切ろうとしています。言うまでもなく、イランとサウジは恐ろしく仲が悪い。同じイスラム教国なのに、スンニ派とシーア派に別れているため、ダッカやメジナのご神体を巡って対立は激化しています。アメリカはイランとの交戦をどうやら視野に入れ始めました。第三次中東戦争の勃発が現実味を帯び始めました。どうやら「火の玉が飛び交い地球上の人間の半分は死滅する」という旧約聖書の予言が当たりそうな気配です。

2019年9月16日             自我の崩壊(2)

 私が初めて教会へ行ったのは中学三年の時です。長野市にある日本キリスト教団県町教会でした。牧師は小原福治さん。小原先生は私が通う柳町中学校の英語の先生でもありました。長野高校在学中も通い続けました。思春期の始まりであると同時に、「自分とは何だろう」「何のために生まれてきたのだろう」「生を受けた以上何をなすべきなのだろう」という思春期特有の(悩み)との闘いが始まっていました。

 文語体の聖書を読みふけりました。心にグサッと来る箇所には赤線を引きまくっていました。その聖書は今も残っていて大事にしています。ことに赤線が多く引かれていたのはロマ書とコリント書です。「我もはや生きるにあらず、キリスト我が内にありて生きるなり」の箇所は真っ赤っかになっています。「神は愛なり」とすれば、私自身を無にし、私自身を神の愛の器にして、その愛を具現するために私の生はある、そこで私の自我は崩壊するだろうし、そこに私の生まれてきた意義が成立する、と自分流の解釈をしていたのでした。

 東京に出てきて、アルバイトの連続で大学を卒業しましたが、その間、教会へ通ういとまなどはほとんどありません。しかし、神学書はなけなしの金をハタイテ買っていました。バルト、ブルンナー、フォロサイス、内村鑑三、矢内原忠雄、波多野精一、、、、卒業論文は当時世界的な耳目を集めた、イスラエルで発見された「死海の書」についての論評でした。同時に波多野精一の「時と永遠」についても触れました。 爾来幾星霜、実業の世界に入ってからは、朝日新聞を一人でも多くの人に読んでもらうこと、それが愛の具現ではないか、朝日学生新聞社へ移ってからは、小学生や中学生に質の良い新聞を読んでもらうこと、それも愛のカタチではではないか、と励んできました。入社時350万だった部数は860万までになりました。時節柄、親の方の新聞は激減していますが、子供の新聞の方は隆盛を維持しています。

 私の座右の書に小原福治先生の「切なる招き」がありますが、その主題はキリスト者たるには「崖を飛び越えろ」とあります。つまり、早く受洗しなさいと言うことです。確かに私はまだ洗礼を受けていません。チェンマイの日本語キリスト教会で同じ早稲田の後輩にあたる野尻牧師から受けるつもりでしたが、先生は牧師定年を迎えられ、その上、病のため今、埼玉の施設に入られています。心から感動を覚える牧師に福島磐城・泉に「翼の教会」を建てられた佐藤彰牧師がおられます。しかし、私は敢えて受洗を急ぐ気持ちはありません。「イマワの際」でもいいとさえ思っています。なぜなら、不完全ではあっても、私は「もはや我生きるにあらず」という心の底からの認識を持って日常を送っているからでありましょう。

 

2019年9月15日          自我の崩壊(1)

 タイ・チェンマイへ初めて行ったとき、高田さんご夫妻には大変お世話になりました。最も賑わいのあるニマンヘミンの瀟洒な家に住み、タイ人のメイドをおき、愛犬と暮らしていました。丸石自転車会社の社長さんでしたが、奥様を亡くされ、その後樺太で小学校同級生だった貞子さんと巡り会い、一時、練馬の光が丘にお住まいでしたが、チェンマイへ移住しました。移住の原因は社長の時の止むにやまれぬ約束手形の不祥事もその原因の一つだったかもしれません。お二人は当時のチェンマイ日本語キリスト教会で野尻牧師によって受洗され、熱烈なクリスチャンになりました。

 高田さんが88歳の米寿のとき、慎ましかったけれど心の籠もったお祝いをして差し上げましたが、90歳を前にして高田さんは突然変わります。まず、過去のことどもが思い出せなくなりました。奥様に暴力を振るうようになりました。嫉妬に狂い始めました。お金のことで猜疑心が強くなりました。温厚にして微笑を絶やさなかった高田さんはもうそこにいなくなってしまったのです。そして、一週間前の今日、90歳でお亡くなりになりました。人間は死期が迫ると自我が崩壊してしまうのでしょうか? 死の間際には人は赤子に戻ってしまうのでしょうか? 大いなる疑問が沸いてきました。

 私も早や82歳。来年の1月には83歳です。物忘れはするが、まだ人間としての尊厳は保っておられています。何としても自我を崩壊させずにこの世を去りたいものだ、と願っています。

 

2019年9月14日           個人賠償請求権           

 いわゆる徴用工問題で、個人に賠償請求権があるのかどうか、過日、プレスセンターで早大法卒の同志社大教授が呼ばれて、その見解を述べましたが、なるほどと思うところがありました。国家間の裁判としては成立しないが、個人請求権はある、というものでした。そして、最近の司法では世界的にみて個人を尊重する傾向にあるので、請求があれば話し合いの道は開けるだろう、というものでした。

  数日前、韓国で徴用工に対する各種団体が寄り集まって集会を開きました。喧々諤々の騒ぎで収拾がつかなくなりました。際立っていたのは、北朝鮮系と見られる「民族同盟」の暴れ放題の発言でした。世界のあちこちにまで建てられている、慰安婦像、徴用工像はこの団体が主導していることも分ってきました。もし、この問題で日本が妥協の隙を見せれば、北朝鮮にも徴用工、慰安婦はいるわけだから、恐らく、我も我もと言ってくるのは目に見えています。

 1965年の日韓賠償協定で取り交わされた文書では、個人賠償を含めて韓国側が対処すると明文化されているにも拘わらず、改めて要求してきたのは文在寅らの「日本憎し」「不買運動」「支持率アップ」という特殊性のお蔭ですが、もしそこへ、北朝鮮が絡んできたらどうなるか。日本政府はそこまで考えねばならないのではないでしょうか。

 折から、パチンコの換金を停止しようという動きが出てきています。500万人を超えるパチンコ依存症患者がいるというのに、手を付けられないでいるのは、退職した警察官僚がパチンコ業界に迎えられているからです。この悪弊は全国隈無く蔓延していて莫大な金額が韓国、北朝鮮に送金されているのを、あえて見過ごしています。

 パチンコは日本の恥部です。世界のどこにパチンコによる他国の搾取を敢えて見過ごしている国があるでしょうか。

 日本はなめられているのです。この際、毅然とした態度をとらねばなりません。「換金の停止」 新内閣が発足したのですから、思い切った政策に出るべきです。

 

2019年9月13日        ゴーヤー(苦瓜) 

 ゴーヤーに初めて巡り会ったのは、学生時代最後の年、沖縄へ行ったときです。妙な食べ物があるな、と訝しいまま、ゴーヤーチャンプルー、ソーミンチャンプルーを食べました。それ以来病みつきにになりましたが、生憎、本土でお目に掛かることは滅多にありませんでした。爾来幾星霜、今では朝の定番になっています。一本を半身にしてワタを取り、器具を使ってスライスし、オリーブ油か亜麻仁油で炒めます。シラスか小女子を加え、ナンプラーで味付けしたら卵二個を落として出来上がり。毎朝、ほとんど欠かしたことがありません。

 タイ・チェンマイにはゴーヤーらしきものは沢山あっても、日本と同じもにはほとんどお目にかかりません。ただ、チェンマイ空港の食料品売り場だけにはいつもありました。大きく新鮮なものがなんと25バーツ(約75円)。いつも5,6本買ってスーツケースに入れるのが常です。

 最近になって、ゴーヤーは癌に効くらしい、と言われだし、どこのスーパーでも見かけるようになりました。「二人に一人は癌になる」と言われている昨今、私が癌にならないのは、もしかすると、ゴーヤーのお蔭かな、とも思ったりしています。

 今朝、ゴーヤーが切れていたので、馴染みの安売り八百屋へ行ったところ、新鮮にして大きく丸々としたゴーヤー様が一本100円で出ていました。5本買って来て野菜室へ入れました。10日間は安心していられます。

 

2019年9月12日          中秋の名月

 あれは64歳の9月の中旬でした。中国少年報社の招待で北京から上海を周り、西安のホテルに滞在していた時です。同行の王編集長と女性社員の馬衛東さんが、食事を終えた我々朝日学生新聞の編集長、副編集長、そして私の三人を呼びに来ました。ホテルのベランダへ行ってみると、そこは祭りのように賑わっていました。我々6人と通訳を入れた7人の席が用意されていて、いろいろな種類の月餅や飲み物が用意されていました。「今日は中秋の名月です。月餅を食べながらお祝いしましょう」 西安の古代の城壁の雲一つない宙天に満月が輝いていました。

 あれは4年前のポーランドのワルシャワでした。朝早いフライト便でワルシャワからクラクフに向いました。そこからバスで3時間余り、600万人のユダヤ人を毒殺した施設の一つアウシュビッツへ着きました。涙ながらに一日を過し、再びワルシャワに戻ってきました。すると、ワルシャワの目抜き通りのトロリー電車が交差する中天に巨大な満月が今しも昇って来るではありませんか。中秋の名月でした。ノボテルという宿泊しているホテルに戻るのも忘れ、道路際に腰を下ろし小一時間は見とれていたでしょうか。恐らく、収監されていたユダヤ人も窓の隙間から月を仰いだことでしょう。人の世の理不尽な様を、満月はどんな気持ちで見下ろしていたでしょうか。再び泣けてきて仕方ありませんでした。

 今夜も猫額のベランダへ出て台風一過の月を見上げています。あと数日で中秋の名月です。

 

2019年9月11日          天の配剤

 8日の午後5時にホールアウトした千葉浜野GCを含む、千葉市、市原市はその八時間後に房総半島に上陸した台風によって大変は被害を受けました。送電線の鉄塔が軒並み倒され、停電は50万所帯に及び、一部復旧したものの、三日目になる今日も 12万所帯以上が停電したままです。水道も被害を受け住民は争って水を求めています。水も出ない、電気も付かない不便さは想像以上の苦痛でありましょう。また、成田空港ではJRも京成電車も動かないため1万人以上が足止めをくい、ごった返しているようです。

 こんなこと、一体、誰が予測出来たでしょうか? 数年前の東日本地震津波災害もそうです。あれよ、あれよという間に津波にのまれ、気がついたら死んでいたという人々が23,000余人もいたのです。

 災害は忘れた頃にやってくる、とは言い古された言葉ですが、島国日本はこれからも天変地異に脅かされるのは必定でしょう。次は南海トラフ地震によって引き起こされる巨大津波による災害です。15メートルを超える津波によって35万人が命を失う、と予想されています。首都圏も例外ではないようです。直下型地震の起きる確率は日ごとに高まっているようです。

 それにしても我々の8日のゴルフは幸運でした。8時間後に迫っていた強力台風の予兆はあったものの、希に見る静けさの中でホールアウト出来たのですから。その上行きは稲毛駅から両角さんの車、帰りは小林販売担当の車で新宿まで乗せていって貰ったのですから。天の配剤の妙に感謝するばかりです。 

 

2019年9月10日          京浜急行

 一昨昨日、横浜近くで京浜急行と大型トラックの踏切重大事故がありました。2昼夜で復旧こそしましたが、踏切の多い住宅地を突っ切って走る電車の速度が問題になっています。

 この4,5年余り川崎で毎月一回、囲碁の会があるので、練馬から大江戸線で大門浜松町へ行って、そこから京急の特急で川崎まで利用しています。いつものことながら、空席があっても電車の一番前へ行って運転席のカーテンが開くのを待ちます。三田の次の泉岳寺で、必ず運転手が交代します。そして品川から地上に出るとカーテンが下ろされ、前方が開かれます。次の停車駅の蒲田まで約10分、電車は鋭いカーブをものともせず110キロの速度で驀進します。川崎までは地上4階程度の高架を走るので踏み切りは全くありません。実にスリリングです。それがよくて、よくて、、、、京浜急行は何故高速運転が可能なのか、それはレールが狭軌でなく広軌だからです。新幹線と在来線の違いです。私が一番好きな私鉄は東横線でした。次が小田急、そして京王線、、、これらの都心部走行はすべて高架になるか、地下に潜るかして踏み切りはほとんどなくなっています。ところが、私にとって一番利用頻度の高い西武新宿線、西武池袋線は今もって従来のままです。踏切の多いこと、多いこと、、、西武のオーナー堤一族は何をやってるか、と言われても仕方ないでしょう。そんなこんなで、いま私が好きな私鉄は京急に代わって久しいのです。出来ることなら、今の西武沿線住まいから京急沿線に代えたい思いにすらなっています。今回の事故は踏切の多い区間も高速で走るという京急の盲点を突かれたカタチです。京急さんよ、願わくは終点の三崎口まで高架か地下へ潜るかして120キロ以上のスピードで突っ走って下さいな。

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