2012年10月30日              本の製作

 9月7日から、今日10月30日まで、ホームページの更新ができませんでした。ジョークも269番で止まったままです。理由は、本の製作依頼があって、寸暇を惜しんで作業をしていたためです。長野高校の四年先輩で、テレビ朝日のデイレクターから作家に転身した丸山一昭さん(不思議の国の信州人他5冊の著者)から、「オレの本を作ってくれないか?」と夏の初めに持ちかけられました。

 いま、本は売れません。それでも、出版社は売上を立てるために出版はしますが、市販されたとしても数少ない書店の店頭に並ぶのは数日だけで、すぐに送り返されます。だから、著者側に一定の部数の買い取りを約束させて採算割れを防ぎます。いわば、自費出版です。印税を貰う、なんていうのは一昔も、二昔も前の、出版文化華やかなりし頃の話です。丸山さんも、かって、自分の本を出版してくれた出版社に持ち込んだらしいのですが、「テーマが曖昧だ」と渋られたようなのでした。

 私の工房の製作方式は、インターネットによるオンデマンド出版です。本の全文をインターネットに載せます。本の形で買いたい、と注文があった場合にのみ、作って差し上げます。利点は在庫を抱えないでいられること、欠点はなかなか人の目に触れないこと、でしょうか。

 細ま切れの原稿を、何とか250ページ内に収めることが出来たのが9月初旬でした。今年の夏の暑さは一通りではありませんでした。わが工房は陽当たりが良いためか、連日39度近くまで上がります。40度になったときも一日ありました。冷房は嫌いなのでつけません。汗みどろになりながらでパソコンとの格闘です。本の題名が「旅は二度目が面白いー半世紀の記憶」と決まりました。テレビカメラマンでもあった丸山さんが、世界各地で撮り貯めた写真が50枚近く入りました。苦心を重ねてレイアウトした250ページの試し刷りを持って、新橋の馴染みの居酒屋「魚福」で丸山さんと会いました。「オレの傘寿の祝いを兼ねて、この本の出版記念会をやる」とおっしゃるのです。 

 丸山さんがテレビ朝日の出版部に移ったころ、私は朝日新聞社の宣伝部長でした。長野高校の東京同窓会でお会いし、「やあ、やあ」となったのですが、爾来、顔の広い丸山さんにどれだけお世話になったか計り知れません。日本ペンクラブの例会に連れて行ってもらって、日本詩人の会の会長であった筧慎二さんを紹介してもらいました。筧さんの詩集と短編小説集を作りました。劇団文化座の代表佐々木愛さんの「舞台生活50年を祝して」を作って、愛さんに喜んで貰うことが出来たのも、丸山さんあってのことです。「よし、いいものを作って差し上げよう」と心に決めました。

 いままで、いろいろな方々の本を作ってきましたが、私の本作りの建前は「面倒な仕事を私に与えてくださいましてありがとうございます。お蔭様で充実した毎日が送れます。ただ、紙代インク代だけは頂かせてください」というものです。つまり、タダ働きを旨としています。それでいいのです。毎日本作りに没頭していたら、呆ける暇などないではありませんか。

 ところが、丸山さんの本の印刷を始めて驚いたのは、プリンターのインク代が湯水の如く出て行く、ということでした。その原因は、プリンターは「新式になればなるほどインクカセットが小さくなってゆく」という恐るべき現実にありました。プリンターそのものは実に安いのです。新しく買い換えた両面印刷できるプリンターも2万円しませんでした。しかし、インクカセットの大きさは従来の三分の一ほどになり、値段は従来のまま、一個1千円前後です。キャノンもエプソンもブラザーもインクで儲けているとは分かっていましたが「まさか、ここまでやるか!」でありました。カラー写真が多かったせいもあるでしょうが、140部印刷するインク代が15万円を突破してしまいました。10年前の約10倍です。紙代、クロス代、お願いしている本の綴じ料、断裁代などを入れると丸山さんから頂く原価料をオーバーすることが分かりました。つまり、作れば作るほど赤字になるのです。

 しかも、当方は製作のみ、校正は作者側と初めに決めてあったにも拘わらず、出発進行してからも直しが入ってきます。作者にしてみればそれは当然のことですが、当方はその都度、刷り直しです。辛い毎日が続きました。

 仕事はまず、段取りをつけ、毎日のノルマを決めます。約12時間、同じ作業の繰り返しです。飽きても、イヤになっても、その日のノルマだけは厳格に守りました。終わって、冷えたビールを「グー」とやります。その旨いこと!沖縄の泡盛をコップに一杯やります。この仕事を与えてくださった丸山さんへの感謝の一瞬です。

 丸山さんの出版記念会は11月11日と決まりました。顔の広い丸山さんですから、傘寿のお祝いを兼ねた記念会には約80人の方が集まるそうです。発起人には星野智子さんや佐々木愛さんが名を連ねています。その方々に、私が作った本が作者の署名入りで配られます。何とも喜ばしいではありませんか!

 今日、40日ぶりに風呂に入り、頭を洗い、髭を剃りました。やっと完成したからです。すべての会合への出席を断り、万が一ゴルフ場で倒れたら取り返しがつかなくなるので、2回あったゴルフの誘いも断り、知人の葬儀も欠礼し、必要な買い物と、犬の散歩だけに生活を絞った約40日でした。

 これから、ビールを「グー」とやります。北高の大久保鉱一君が送ってくれたワインをあけ、丸山さんを始め、綴じのお手伝いして下さった竹内さんへの感謝をこめ、自分自身の努力を讃える乾杯をします。

 


2012年9月7日              上野の森

 9月1日から7日まで、上野の森の東京都美術館で、私の書道作品が展示されました。私が属する書道塾のほぼ全員の作品が、他の教室の作品と共に展示される連合書道展です。何を書こうか、随分悩みましたが、畳一畳の紙に次ぎの詩を、新書芸の筆致で横書きしました。

          たれにゆだねん 夢にしあらず

          ひと日ひと日を己のものとはせよ

          粉骨砕身  鉄心石腸

          道を過またざりしあの日の心を

          いま再び暖めよ 己の胸に入れよ

 この詩は、戦時中アメリカの日本人難民収容所で散った加川文一の詩を合成したものですが、私の現在の心境を端的に表しているため、座右の銘にしています。私の夢は、このホームページのトップに掲載してある自作の散文詩集「えーつ?うっそおー(地球環境報告ジュニア版)」を全国の中学校図書館に無料で贈ることなのです。まだ緒についたばかりですが、〈粉骨砕身、鉄心石腸〉で日々を送らねばならくなっているのです。〈たれにゆだねん夢にしあらず〉なのです。

 書道もそうですが、一般に表現活動というものは、それを創りあげるまでの過程が面白いのであって、捻り出してしまうと、もう、触れたくも見たくもなくなってしまいます。恐らく、誰でもそうでしょう。だから、上野の森に行きたくなかったのですが、渋々時間をとりました。ちょうど昼時でしたが、上野の森で面白い出し物に遭遇いたしました。東京芸術大学の〈芸祭〉にぶつかったのです。音楽、工芸、絵画のそれぞれの学部が、青森のねぶた祭りさながら、山車をこしらえて学部ごとに担ぎ上げ、気勢をあげていたのでした。意外に女性が多く揃いのハッピを着て黄色い声を張り上げています。東京芸大といえばどの学部も最難関で狭き門です。そこを潜り抜けた若い人たちがどんな顔立ちで、どんな行動をするのか、興味津々でしばらく眺めていました。学部ごとの5台の山車は、ねぶたまがいにしてはいかにも幼稚な出来で、テーマも主張もありません。表現力の豊かさが互いに交錯しあうと、こうなってしまうのか、とがっかりでした。わずかに音楽学部が多様なリズム楽器を駆使し、斬新な音を表現していました。若者のエネルギーの発散は、しかし、実に気持ちのよいものでした。

 折から、東京都美術館ではフェルメールの絵画展もやっていました。会場外まで長蛇の列で、驚きました。フェルメールはつい最近東急文化村でやったばかりなのに、どうしてこんなにも、と訝りました。誘われて二度も観に行きましたが、三点の実物以外に取り立てるものはなく、この画家のものは世界に三十数点しかないという話題性に大衆が酔っているとしか思われません。修復されたフェルメールブルーを穴のあくほど見てはきましたが、ただそれだけのものでありました。〈美は照応にあり〉といいますが、迫ってくるものはありませんでした。

 東京都美術館はフェルメールで大混雑、大混乱でしたが、書道展の方は閑散としたものでした。日本古来の芸道をなんと心得る、と群衆に向かって物申したい気分になりました。

 


2012年8月27日             文言の解釈

 竹島問題に対する韓国の政府、国民のアツアツ振りは想像を絶しているようですね。そこまでするか、そこまで言うか、という韓国大統領を国民は褒め称え、熱狂しています。心ある人たちも勿論いるでしょうが、その声は霞んでいます。なにしろ、韓国の学校教育では歴史的事実を踏まえたとして、日本の不当性を教えているのですから。翻って、日本の学校ではどうでしょう。領土問題は徒にナショナリズムを煽るだけだとして教えていません。この差は一体何でしょうか?

 明治38年、明治政府はこの無人島を竹島と名つけ、島根県に入れました。それが公示され、山陰新聞でも報じられました。そのとき、韓国は反応していません。江戸時代、江戸幕府は島根藩を通じ、鬱陵島(当時は竹島と呼んだ)への渡航許可を与え、竹島(当時は松島と呼んだ)でのアワビやアシカ漁を許可しています。

 問題は第二次世界大戦で日本が敗戦国になったあとです。昭和46年〈連合国総司令部覚書677号〉で竹島に対する日本の行政権が排除され、同じ年の9月、〈連合国総司令部覚書1033号〉で日本の漁船の操業区域を規制する〈マッカーサーライン〉が設けられ、竹島がそのラインの外側に置かれたことです。

 韓国はこの連合国決定をもって、歴史認識の根拠にしていますが、問題はさらに続きます。日本は韓国との対日講和条約締結の際、異議を唱え、条約の第六次草案では歯舞・色丹と共に、竹島も日本領になりました。ところが、条約の最終決定ではそれらの島の名前が消えました。

 日韓講和条約第二条A〈日本国は朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含むすべての権利権限および請求権を放棄する〉

 この最終条約には竹島の名がありません。だから、竹島は放棄していないとの解釈もできますが、〈含む〉という文字の中に竹島も含まれている、との解釈もできます。問題の根は実のところ、曖昧なのであります。

 国際司法裁判所に日本は提訴しますが、この文言の解釈については、裁判官も裁定に苦しむのではないでしょうか。だから、韓国側も〈国際司法裁判所への提訴は一顧だに値しない提案である〉として日本への歩み寄りを見せない態度を改めて、堂々と裁判をに持ち込んだらいい、と私は思います。解釈の仕方によっては韓国にも勝ち目はあるのですから。同時に、日本jも負けることを想定しておかねばなりません。           

                          (参考・朝日OB田岡俊次「領土問題の勝敗を読む」)

 


2012年8月18日              本のない国

 中国は、北京、上海、西安、香港しか行ったことがありませんが、それぞれの都市を歩いてみて一番奇異に感じたのは、〈本屋がない〉ということでした。書店の数は日本も少なくなっていますが、神田の古書店街、紀伊国屋、ジュンク堂、有隣堂など、どこへ行っても本屋はまだあります。領土問題について調べたければ、古本屋へ行っても、図書館へ行っても、すぐ調べることができます。図書館は市町村などの行政が運営していて、何についてでも無料で、即座に調べることができます。

 何故、中国には本屋がないのでしょうか?文化大革命で、おびただしい過去の文献が焼かれてしまったことも理由の一つでしょうが、その原因のすべては中国の共産党一党独裁にあり、といっていいでしょう。つまり、民衆が余計な知識を持つことを好まない体制になってしまっているのです。上海の浦東国際空港は広大でした。本屋を探そうと隈なく歩いてみました。小さな本屋が二軒申し訳のようにありました。雑誌はおろか新聞も一部たりとも売られていません。あったのは観光案内まがいのものだけ。したがって、空港に行き交う誰もが新聞を持っていません。雑誌を読んでいません。本も読みません。ただ、ポカーンとしているだけ…

 尖閣列島に香港の活動家が上陸し、14人が逮捕され、強制送還されましたが、彼らはハッキリした歴史的文献にのっとて行動を起こしたのでしょうか?まったく考えられません。日本政府は拘留期間を長くして、彼らの思想的背景について、何故、聞きださなかったのでしょうか? 彼らはこういう理論的背景のもとに行動を起こした、と発表しなかったのでしょうか?そうすれば、その論拠が歴史的に間違っていることを日本は世界に公表することができたではありませんか?彼らの行動が、売名行為の何物でもなく、付和雷同にすぎなかったことを、彼らは納得しなくても、世界に理解させられ得たのではないでしょうか?

 日本の対応は、ことを荒立てまい、内々ですまそうとし過ぎです。〈領土問題は解決済み〉との姿勢は改めるべきです。何しろ、本の無い国が相手なのですから。

 韓国大統領の竹島上陸と、一連の無礼な発言に対して、日本政府が国際裁判所に提訴することに踏み切りました。提訴の条件は両国の同意ですが、韓国は今回で三回目の申し入れなのに、〈一顧だに値しない〉と徹底拒否の構えです。でもここは、両国の友好関係を犠牲にしても、日本は提訴に踏み切り、韓国の反論と共に、世界に向かって公表すべきです。

 一つだけ、日本には弱みがあります。70年以上前、大日本帝国が両国を思うままに蹂躙してきた、あの忌まわしい過去です。両国民の怨念となって心の底に渦を巻いているのは間違いないところです。日本人はあの悲惨な記憶を早く忘れたがっていますが、彼らはそうはいかないのです。いまだに戦時中の売春婦問題を俎上に挙げてきます。だからといって、日本は弱腰を続けていていいでしょうか?

 翻って、一般の家庭でも、お隣同士というのは仲が良くないもの、と相場が決まっています。塵一つ、落ち葉一つ、物音一つにも神経を荒立てます。同様に、日本と韓国の間も、世界的には同民族にみられていても、仲の悪さは続いていくでしょう。両国の永遠の平和などというものは、恐らくあり得ないでしょう。平和などというものは、隣人同士でも隣国同士でも、絵空事としたものです。

 中国に対しても、韓国に対しても、ここは国を挙げて断固たる行動に出るときになりました。

 


2012年8月15日              母の記憶

 67年前の今日正午、天皇陛下による終戦の玉音放送のラジオを、長野市の敦賀緑町の母の実家で聞きました。ラジオが縁側に持ち出され、親戚中が中庭に土下座して聞きました。母は狂ったように、土を掻き毟り、声を振り搾って泣きました。青空と白い雲を見上げた私は二年生でしたが、実に晴れ晴れとした気持ちになりました。そのとき見上げた空の色や雲の形は、いまでも鮮明に覚えています。

 その年の5月15日、東京中野の家が空襲で焼かれ、福島県に集団疎開している私を、母が迎えにきてくれました。福島の浜通りにある富岡駅前の大東館が、上高田国民学校の宿舎でした。原発のある双葉の近くなので、今は廃墟になっているでしょう。予科練航空兵が、訓練の途中で、同じ宿舎に泊まったことがありました。飛行機の絵を描いてもらいました。その後、鹿児島の知覧へ行って神風特攻隊として沖縄へ出撃して散って逝った、と後から聞きました。集団疎開に加わる前に、中島飛行場を爆撃にきたB29の大編隊に出会ったことがあります。地上からの高射砲が炸裂しますが、高度が足りないせいか、敵機はビクともしません。地上から戦闘機が二機舞い上がりましたが、撃ち落とされました。それでも高射砲の一発がB29に当たり、ヒラヒラしながら落ちてきて爆発しました。ラジオから流れる〈東部軍管区情報、敵B29の大編隊が房総半島上空より本土に近接しつつあり〉 という忌まわしいアナウンスを何度聞いたことでしょう。その度に絶望的な激しさでサイレンが鳴り響きます。黒布を掛けた電燈を更に暗くし、遠くで炸裂する爆弾や焼夷弾の音を聞きながら、次はここかもしれないなあと思いつつ防空壕に潜みます。もはやこれまでと思ったのでしょう、母は国民学校の最下級生の私を集団疎開に参加させました。新井薬師から中野駅まで、他の父兄と共に見送ってくれたのですが、母は顔面を蒼白にして、終始無言で、食い入るように私を見つめていました。その母が、空襲で焼け出されて、長野の実家へ私を伴うべく、福島まで迎えに来てくれたのです。私は嬉しくて、嬉しくて……人生であれほどの喜びを感じたことはありません。

 その母も92歳で没し、今年で5年目を迎えます。親孝行は充分にした積りですが、今になってみると何もかも足りなかったように思えて…… 終戦記念日は私にとって母の記憶と重なります。

 翻って考えると、戦争の恐ろしさ、堪えられない息苦しさを知っているのは、私ぐらいの年代が最後であるように思います。あと10年もすればほとんどいなくなってしまうのではないでしょうか。それと共に戦争は風化されていきます。あの、国家としての狂気は一体何だったのか?、いまも、133万体の遺骨が周辺諸国に散らばって、収容されないままになっているというではありませんか。国家の安寧を願い、無残にも散って逝った人々の思いはいかばかりでしょう。申し訳ないなあという気持ちで一杯になります。

 せめて今夜は、戦中、戦後を生き抜いて私を育ててくれた母や、故知らず国家の理不尽さによって死なねばならなかった人々を弔う、ささやかな時にしようと思います。

 


2012年8月15日             悪者スターリン

 情緒的な終戦記念日の感想と同時に、厳正な史実をもとに、この日を振り返ってみるこもあってよいでしょう。すると、ソ連のスターリンの存在が大きく浮かび上がります。それは昭和20年の5月から8月までの僅か3カ月に集約されます。20年5月、アメリカのルーズベルト、イギリスのチヤーチル、ソ連のスターリン他で、ヤルタ島で秘密会談が持たれました。その時、日ソ不可侵条約があるにも拘らず、ソ連がそれを破って参戦するという密約ができました。その事実は日本がヨーロッパに放っていた諜報機関によってキャッチされ各地から日本に打電されました。同じころ、日本でも、いかに戦争を終わらせるかについて、阿南陸相、東郷、米内ら6人による極秘会談がもたれ、論議されています。もし、そこへソ連参戦とのヤルタ会談の結果が知らされていれば、事態は急変していた、と思われます。ところが、極秘情報であるはずのソ連参戦の密約情報は日本に届いていたにも拘わらず、軍部によって握りつぶされていたのでした。その軍部とはは海軍か陸軍か。恐らく阿南は知っていたのか、知っていたのに黙っていたのか、これが歴史的謎です。

 6月23日、沖縄が玉砕しました。23万人が殺されました。そして、7月29日のポツダム宣言です。日本は無条件降伏を迫られました。もし、その時、間髪を入れず受託していたら、7月9日からのソ連による満州侵攻はなかったでしょう。マンを持していたソ連軍1000万人が怒涛のように襲い掛かってきました。不可侵条約を一方的に破ってです。そして8月6日広島、9日の長崎の原爆です。7月29日以降、どれだけの人間が死んだことか、恐らく200万人ではきかないでしょう。

 今から10年ほど前、観光旅行で、統一された西ドイツ、東ドイツ、オーストリア、ハンガリーへ行きました。コースには東ドイツのポツダムも含まれていました。そこは訪問するのは、日本人としては辛らかったのですが、歴史的名所なので、つぶさに見てきました。4者会談が行われた建物は湖水のほとりの瀟洒な一戸建ての民家でした。ルーズベルトが使った部屋も見ました。チャーチルは途中から中座したためか、小さな部屋を割り当てられていました。問題はスターリンの部屋です、一番広く豪華でした。それすなはち、連合国側はスターリンを歓待したかったのでありましょう。ソ連の参戦が決め手になる、と各国が踏んだ証左に違いないと思いました。

 ヤルタ会談でソ連が参戦の密約を結んだ卑怯な態度、その事実を日本の諜報機関が掴んで報告しているにも拘わらず、スターリンを信じ続けた日本の最高機関。5月から7月末までの3か月間こそが日本の曲がり角でありました。

 スターリンは日本人捕虜を、終戦になっているのに、シベリヤへ抑留し、大勢を死なせました。その上、北方四島を奪いました。火事場泥棒そっくりの卑怯なやり方です。

 社会主義社会は、資本主義爛熟した末に起こるもの、とマルクスもレーニンも資本論や反デユーリング論で述べています。にも拘わらず、スターリンは資本主義的には未熟なソ連邦に社会主義革命を起こしました。ところがその制度が、国民を弾圧するスターリン独裁の、社会主義とは似ても似つかぬ専制政治になり、数千万人への弾圧と粛清が行われたのは歴史が示す通りです。いま、ソ連邦はありません。解体されて、どの国も民主化への道を歩んでいます。結果的にソ連は、70年にわたる無用な空白の歴史をつくってしまったのです。スターリンという権力志向の強い男によって。

 一方、マルクス、レーニン主義は、一体、どこへ行ってしまったのでしょう? いま、日本であれほどもてはやされた向坂マルキシズムを云々する学者は一人もいません。資本論や共産党宣言は古本屋の店頭から姿を消しました。安保闘争、砂川闘争などにみられた学生運動は過去に葬られたかにみえます。僅かに中国が共産党一党独裁制度を維持していますが、市場開放を契機に変質に次ぐ変質を遂げています。キューバや北朝鮮はいうに及ばず、いわんや、日本共産党においておやです。

 果たしてこれでいいのでしょうか?民主主義、資本主義は勝者と敗者を明確化していきます。アメリカにおける貧困率の増加は目に余るものがあります。黒人やヒスパニック系はどんなに足掻いても元のままです。一方、中国でも商業主義に乗り遅れた貧困層が激増しています。資本主義や民主主義は爛熟の極みに達しているのではないでしょうか?

 私はこれからがマルクスレーニン主義の出番だと思っています。世界の二割の富裕層による資本は当然解体されねばなりませんが、労働者絶対であってもならないと思います。なぜなら地球上の資源には限りがあります。しかも人口は増加の一途です。統制をかけて資源の数理的分配がどうしても必要になります。言ってみれば数理統制経済です。あと50年生きて見守りたいものです。

 


2012年8月15日               ロック

 オリンピックの閉会式は、ロックの競演でした。いまをときめくバンド、過去の栄光の中にあるバンド、閉会式のために再結成されたものなど、5つ、6つありましたかねえ。脈絡もなく、テーマらしきものなどもなく、ただ、だらだらと続きましたが、まあ、良しとしましょうか。どの国にも盆踊りはあるのです。

 さして大きな事件もなく、また、英国をことさらにひけらかすこともなく、淡々として閉会式までこぎ着けた英国民の態度は流石に紳士の国であった、といえるでしょう。7万人のボランテアの皆さん、ご苦労さまでした。お蔭でオリンピックの素晴らしさを堪能できました。ありがとうございました。

 唯一、不愉快だったのは、韓国のサッカー選手の振る舞いでした。負けた日本選手の目の前で〈竹島は韓国領土〉という旗を持って会場内を走りまわったことです。日本選手は二重の屈辱を味わったことになります。これはいかに何でもフェアープレイの精神に反します。〈オリンピックに政治を絡ませない〉というのは古来からの不文律であるどころか、オリンピック憲章にも明確にうたわれています。仮に選手の偶発的独断行為であったにしても、これを制止すべき韓国選手、役員が一人もでなかったことは、全員同罪とみなされても仕方ないでしょう。メダル剥奪になって当然です。IOC委員会が調査に乗り出しましたが、厳罰が課せられるべきです。それほどこの行為は汚いのです。

 折も折、韓国大統領が竹島を訪れました。ヘリコプターで来て、ロックを登りました。その余勢をかって、〈日本の天皇は訪韓して、韓国独立のために死んだ英霊に衷心から哀悼の意を表せ〉と公式発言をしました。〈謝罪の単語を選んで来るなら、来なくてもよい〉〈日本の国際的地位は昔とは違う〉と追い打ちをかけました。

 日本人は、こと天皇にそれが言及されると、心の底から〈この野郎〉と思います。心の琴線に触れるからです。韓国大統領はこともあろうにその一線を越えてしまいました。日本人の一番深いところを足蹴にしました。いまのところ、政財界は大統領のこの豹変ぶりに唖然としていますが、せっかく好転していた両国民の感情が一気に冷え込んでいくのは明らかです。

 大統領の実兄は親日家で知られていました。汚職事件で、この兄を含めて大統領の一族が逮捕されました、加えて、彼の任期はあと数か月です。再選されるための破れかぶれの一手かもしれません。だが果たして人気は回復されて再選するでしょうか?心ある韓国人たちは大統領のこの一連の言行を、本当は苦々しく思っているのではないでしょうか。為政者に人を欠いた典型的な例といえるでしょう。

 ソ連のメドベージェフが北方4島を訪れました。中国を片目で意識しながら、香港や台湾の中国船が尖閣列島の領海侵犯を始めました。

 そうさせているのは日本にも責任があるのではないでしょうか?政治の足元を見られているからです。国際政治はパワーポリテックスです。一日でも早く周辺諸国に侮られない政治家の出現が望まれます。

 さて、四年後のオリンピックはブラジルです。日本から行くと24時間かかります。私はそれでも次のオリンピックを観戦に行きます。そう決めました。仮に2020年に日本が開催国に当選しても、いま75歳の私はそれまで生きている自信がありません。あと4年ならば何とかしのげそうです。だから行くのです。実は今度の史上最高のメダルを獲ったロンドンへ何故行かなかったのか、悔やみに悔やんでいるところです。

 


2012年8月9日                メダル坂

 新潟県の山の中の一軒家、女子レスリング選手がそろって猛練習する合宿所があります。オリンピックが始まる一か月前、吉田、伊調、小原、浜口の4人を含む未来のオリンピック選手、総勢25人余りがこの合宿所に泊まり込んで、朝から晩まで猛練習を重ねていました。全員が過酷とも思われるメニューに挑戦していきます。その凄まじいシーンがスマップの中井レポーターによって放映されました。スパルタを通り越した地獄を思わせる練習風景には、正直、痺れてしまいました。今は昔、女子バレーで金メダルを取った大松監督よる鬼特訓が思い起こされます。恐らく、それを超える厳しい練習風景といえましょう。ブリッジしている吉田選手の上に80キロ以上と思われる監督が乗ります。ビクともしません。金メダル坂と呼ばれる坂道を浜口が2人の人間を背負って上がってゆきます。恐らく100キロは超えている筈です。浜口は足早に登り切りました。中井が同じように試みました。だが、途中でギブアップです。食事風景がまた楽しさそのものです。ヘルシーな食べ物を好きなだけ食べます。キャアキャア言いながら、モリモリ詰め込んでいます。その旺盛な食欲には度胆を抜かれました。でも、朝5、昼2、夜3のバランスは厳格に守られ、排便、排尿の回数まで管理されているやに聞きました。

 鬱病にまでなった31歳の小原日登美が、オリンピック初出場で金メダルを獲得しました。大泣きする31歳のその顔は爽やかでありました。美しく輝いていました。結婚2年目、応援席で旦那も感極まって泣いています。思わずもらい泣きしてしまいました。そして、伊調が金メダル3連覇の偉業を成し遂げました。前人未到の快挙ですね。姉の千春の応援の声が天の声に聞こえた、と言いました。2人は青森県八戸出身です。「いがった、いがった」と言わせてもらいましょう。

 そして今日、吉田沙保里がまたまた金メダルを獲得、三連覇の偉業を成し遂げる、という朗報が入りました。団長でもある父親を肩車し、日の丸をはためかせました。浜口はというと、残念ながら二回戦敗退でした。父親の「気合だ!、気合だ!」は実らなかったことになります。

 50年ほど前、八田一朗が日本レスリング協会を立ち上げ、徹底したスパルタで選手をたたき上げてきました。一時、オリンピックの男子レスリングは全盛を極めました。その八田の思想が女子レスリングにも及んで、この快挙に繋がったのだろうと思います。この偉業の源流は八田イズムに遡れると言えましょう。

 八田は日本柔道に反抗してスパルタイズムを貫いたのですが、今回の日本柔道に金メダルは一つもなく結果的に二流国に成り下がりました。八田が真摯に取り入れたスパルタイズムがこのロンドンオリンピックの女子レスリングに結実したのでした。

 〈努力は実る〉という月並みな言葉の真実を、女子レスリングは改めて私たちに示してくれました。

 それにしても、亡き八田を彷彿とさせる禿げ頭の女子レスリングの監督さん、あんたは大したタマだぜ!

 


2012年8月5日                「金」はなくても

 ロンドン・オリンピックも、あっという間に会期も半ばを過ぎました。実に爽やかな気持ちになれた9日間でした。水泳の400メドレーで女子が銅、男子が銀。快挙そのものです。三連続金を狙った北島選手はメダルは逸したけれど、トップとの差は1秒以内。12年間にわたって、常に、最高水準を維持してきたのその努力は見上げたものです。そして、リレーでは渾身の泳ぎを見せてトップになり、次に繋げました。背泳ぎ、バタフライ、自由形の三選手が「康介さんには手ぶらで帰ってもらうわけにはいかない」と密かに話合い、必勝を期したといいますから、泣かせるではありませんか!北島選手にとって、何よりも嬉しいメダルだったのではないでしょうか!フェンシングも四人が力を合わせて史上初の銀に輝きました。アーチェリーの女子三人組がメダル獲得です。バトミントンでも2人組が史上初のメダルです。卓球も個人戦ではダメでしたが、福原、石川、平野の団体が決勝に進みます。ナデシコも、男子サッカーも準決勝進出です。個人では今一歩でも、団体戦になると思わぬ強みを発揮する日本。何故だろう、と考えてしまいます。

 憂うべきは柔道でした。日本発祥の柔道が、いまや世界中で行われるようになった現象は喜ぶべきなのでしょうが、本来の「一本柔道」が、指導や技あり柔道に変質させられ、異質のゲームになってしまったのは残念です。北朝鮮の選手が開始直後に指導をとるや、腰を引き、及び腰で勝負にこだわった姿勢は、本来の日本の柔道とは似ても似つかぬものでした。差し手争いにだけ拘り、指導の数で勝負が決まってゆく今の世界の風潮は、見ていて少しも面白くありません。僅かに、ウルフ松本の狂気が救いでしたが、監督以下、柔道界のお偉方は今回の無様な結果の責任をとって、総辞職すべきでしよう。

 陸上が始まりましたが、これはもう、アフリカ系カラードの世界。マラソンもそうでした。人種的偏見を持っている積りはありませんが、山野や高地を跋渉し、ハングリー精神で臨んでくるカラードに、都会的なホワイト系が敵うわけもありません。ウサイン・ボルトが9秒63で100メートル優勝でしたが、ホワイト系は一人もいませんでした。

 どういうわけか、水泳の選手でカラードはほんの2,3人しか見かけませんでした。隠然たる不文律があるように思えてなりません。2メートル近い逞しいカラードたちに水泳が占拠されるのも、決して遠い将来でない気がいたします。

 


2012年7月28日                ヘイ・ジュード

 朝5時、眠い目をこじ開けてオリンピックの開会式を見ました。四年前の北京の時もそうでしたか、アトラクションにどんな趣向が飛び出すのか、実に興味があります。204か国の入場行進も目が離せません。世界の小国が堂々と行進します。カラードが多くなったなあ、というのが実感です。それに、女性が多くなったことも。アスリートたちが民族衣装を身にまとい、喜色満面で行進するさまを見るのは実に気持ちがいい。平和とはいいものだなあ、と改めて思います。ベッカムが聖火と共に現れました。モハメッドアリまで登場しました。音楽家のアシュケナージが旗手を務めました。圧巻は聖火の点灯でした。行進する各国の旗手の左手には国名を示すプラカード、右手にはジュニアの男女が何やら壺のようなものを抱えています。聖火という大輪を咲かせる花びらであることが、やがて、分かってきます。円形に並べられた204の花びらが点火されました。それが中空に舞い上がって、一つの炎に結集しました。この演出は見事でしたね。

 サマランチに代わったロゲ会長が、オリンピックは勝つことではない、どう戦うかが問われる、と述べたのも印象的でした。高齢をもとともせず、エリザベス女王が開会を宣言しました。ロイヤルボックスに日本の皇室がいなかったのは淋しかったですね。

 フィナーレはビートルズのポールマッカートニイのヘイジュードです。そのリフレインのところを会場全体が歌い始めました。何回繰り返されたでしょうか。これだ、これだ、これがオリンピックだ、と感動しましたね。

 実は、3時間を超えるイベントの中で流れる音楽や、音響効果には、正直ガッカリしていたのです。サイモン・ラトルが指揮する、世界的オーケストラであるロンドン交響楽団の出番はほんのわずかでした。ロックやレゲエ、讃美歌などありましたが、いずれもぞっとしませんでした。それはそうです。イギリスはヨーロッパの中では音楽的にはプアーなのです。ブリテン以外に名だたる作曲家もおりません。そのためでしょうか、イベント全体を包み込むテーマとなる音楽が聞こえてこなかったのです。リズムも稚拙でした。きっと、音楽監督がいなかったのでしょうねえ。いても、その能力が発揮できなかったのでしょうか。大ブリテン国は音楽的には相変わらず鈍いですねえ。まあ、音の祭典ではないのですから、ビートルズのリフレインでよしとしましょうか。

 会場内に緑の丘を作り、204本の旗をそこにたなびかせ、演壇をその丘の中腹にしつらえた演出は見事でした。イギリスの初期の田園風景を水車や、牛馬や、アヒルまで登場させて再現し、、それが産業革命で、煙突や工場のスモッグのに変化し、イギリスのなんたるか戯画化した手法も、さして感動は与えないにしても面白く見せました。また、ビデオ画像を随所に挿入したのも画期的でした。総監督が映画監督だったから映画的手法をふんだんに取り入れたのでしょう。ユーモアもありました。喜劇俳優を使ったり、エリザベス女王がバッキンガム宮殿からヘリコプターで会場上空に達し、パラシュートで飛び降りるなんていう際どさは、まさに映画人の発想です。人海戦術や奇を衒った演出が目立った北京の出し物は、それはそれで面白かったけれど、目をそばだてる緑や、アットホーム感は一つもありませんでした。この点ではイギリスに軍配があがり、さすが、といわざるを得ません。ただただ、惜しむらくは会場を支配する音楽、つまり、繰り返して鳴らしたいテーマとしての心に沁みるメロデーや 和音や、効果音の欠落でした。小太鼓の連打ばかりの繰り返しは、実に、実に、興ざめでした。

 競技するアスリートたちを見ると、昔はほとんどが白人で、カラードはほんの数えるほどであったのに、今は白人は僅かになり、カラードが大部分になっています。40年ほど前、ニューヨークのブロードウエイの舞台で踊る人たちのほとんどは白人で、カラードはほんの二、三人でした。今は大逆転しています。これは世界的傾向といっていいのでしょう。、オリンピックが回を重ねるごとに、それが顕著になってきていることからも分かります。白人の独壇場だったテニスも優勝者はカラードです。水泳の世界はまだそこまでいっていないようですが、はて、どうなりますことやら。

 さて、待ちに待った競技の開始です。「勝つことよりどう戦う」か、ジックリと見させてもらいましょう。楽しみな二週間の始まりです。

 


2012年7月18日                色つき雲

 飛行機に乗るときは、必ず窓側の席を予約します。トイレに立つときは厄介ですが、席が通路側になったり、翼の上になったりすると損した気分になります。下界や雲の動きを見て飽きることがありません。バンコックへ行くときは、生憎、進行方向左側の窓際だったので、見えるものは雲と海でした。丸い地球の果てまで積乱雲が発生していて、その形の変化が想像を掻き立て時間を忘れます。視界のすべてが純白の積乱雲と青い海で、この中に飛び込ん行って死ねたらいいなあ、なんて思ったりもします。5時間40分の途中まで来たころでしょうか、左前方に島影が現れました。フィリピンかもしれないなあ、その上空を通過するのだなあ、と見てましたら、近づくにつれ、それが巨大な色つき雲であることが分かりました。陸地ではなかったのです。色つき雲は、またしばらくして現れました。何で雲に色が着いているのだろう?光線のせいでは全くない洋上に漂う色つき雲。本来、雲は水滴であるからして無色のはず。それが汚いオレンジ色に染まって漂っているとは何ごとか?そうか、スモッグのなれの果てだ、浄化されずに洋上を漂う廃棄物だ、そうに違いない、と推論しました。進行方向にはベトナム、タイ、インド、スリランカがあります。その先はパキスタン、イラク、イランなどの中東諸国が連なっています。それらの国々が作り出す大気汚染物質が、それぞれの国の上空では処理しきれずに、こうやって偏西風に乗っ太平洋や南シナ海へせり出してくるんだ……と思うことにしました。

 人間がひりだした汚染物質が、色つき雲となって太平洋や、南シナ海の洋上を漂っているこの現実。飛行機に乗るときは、できるだけ多くの人が、窓を開けて汚染が地球規模で進んでいる様を見てほしい、そう思いました。

 


2012年7月15日               人工肉 

 丑の日が間近ですが、シラスが不漁のせいで、ウナギが例年より高いのには困ったものです。では、代わりに焼き肉でもやろう、とスーパで、見るからに新鮮そうな、丸い容器にボタンの花状に盛られた牛肉を買ってきました。カルビ、ロース、ハラミそして真ん中にタン。1500円也。安い。お買い得をほくそ笑みました。ところがです。焼いてみると、全部、同じ味がします。タンの旨さもカルビの脂っこさもありません。一体これは何だろう?そうか、これが噂の人工肉なのだ!道理で安いわけだ!そう合点がいって、つらつら肉を観察しました。カルビのアブラのサシが同一形態をしていました。タンも同じです。いかにも旨そうな着色が施されていますが、形に大小がありません。全部、同一形態す。口に入れても僅かな旨味はあるものの、歯ごたえに差はなく、、肉本来の味がありません。

 上海でアワビのステーキを食べたことがあります。廉価であったので、これはメッケものだとはしゃぎましたが、大豆から作るコピーなのが分かってガッカリしました。フォアグラのコピーも食べました。そのとき、中国にも、台湾にも精進料理としての主に大豆蛋白を加工して、いわゆるモドキ料理を作り出す分野が急成長しているのを知りました。ベジタリアン向け、と尤もらしい理屈をつけていますが、13億4500万人が毎日本物を食べていた日には、家畜の頭数に不足をきたすのは明らかでしょう。

 モドキ食品はコピー食品とも呼ばれます。カニ蒲鉾がその草分けでした。イクラ、キャビアなど人造ものが大手を振っています。海藻から抽出したアルギンサンナトリウムやカラギーナンに、着色した調味液や食用アブラを混ぜ、塩化カルシウム水溶液に水滴状に落とし込めば、粒の表面がゲル化したカプセルになります。安価で形状不安定な屑肉をゲル化し、脂肪や大豆蛋白、色素を混ぜ、接着剤で成型すれば、カルビ、ハラミ、ロースが出来上がります。それが、一般精肉に交じって堂々と売られているのです。サイコロステーキなどは、こんなのはあり得ないと思うから、加工肉だと分かりますが、人工肉は近頃は本物と見分けがつかないから、堂々と店頭に並んでいるのでしょう。しかも、見栄えがいいし、廉価だから買ってしまうのです。そして「しまった」という思いをするのです。

 ミルクを使わないコーヒーフレッシュ、クリーミングパウダー。高級果物ゼリーに本物の果物は使われていません。ハム、ロースハムも本物の豚はほとんど入っていないとのことです。米を使わない合成清酒、麦芽を使わない発泡酒、近頃は第三のビールまで現れました。驚くべきは牛乳を使わないチーズが、世界的に急速に広まっていることです。ドイツでは年に10万トンも生産され問題となっていますが、本物とまったく見分けがつかないそうです。

 私はレトルト入りの即席もの、カップめんの類は食べないことにしています。学生時代の自炊生活の延長として現在をとらえているので、原材料を買ってきて自分で調理するのを習慣としています。調理後の片づけだけは嫌だな、とは思いますが、好みの材料に好みの調理を施し、少々のお酒と共に食事するのは生きている醍醐味の一つだと思っているのです。だが、いまや、その原材料までがコピーとなってくると、それがコピーなのかコピーでないのか選別する必要が生じます。実に、厄介な時代になったものです。

 せめて、あと幾許かの人生の食事には、コピー物はなるべく介在させず、粗食でいいから原材料だけの食事に徹して、黄泉路につくつもりでいます。 

 


2012年7月8日            ゴールデントライアングル

 チエンマイから車で北上すること3時間でチエンライの街に着きます。そこから2時間余りで、タイとミャンマーとラオスの3カ国が国境を接するタイの最北端に到達します。そこは、俗にゴールデントライアングルと呼ばれていて、警察すらも手が及ばない無法地帯だそうです。麻薬の栽培、精製で世界的に有名を馳せたところです。そこへ日帰りの現地ツアーで行ってきました。ツアー客は全部で9人。ドイツ人の新婚さん、イギリスの若い女性二人、ニュージーランドの男性、台湾の女性、香港の男性、それにチエンマイに2年半前から住んでいるSさんと私。7時半に呉越同舟のライトバンはチエンマイを出発しました。

 車の最後部に陣取った私は目を皿のようにして、過ぎゆく風景を観察します。まず、沿道に生い茂る植物の種類の多さに圧倒されました。途中には名だたる王立植物園があるそうでしたが、残念ながら素通りです。沿道の商店らしきものは自動車バイクなどの部品を扱っている店ばかりで、あとは仏事に関する諸々を製造販売している店があるくらい、これといった産業がほとんど無いのを知りました。田んぼには水が張られ、青々とした苗代がいたるところにありましたから、きっと、二毛作の田植えが間もなく始まるのでしょう。奇妙なのは、広大な荒地がいたるところにあるのに、牧草地がなかったことです。鶏の放し飼いは見つけました。だが、牛や馬にはついに一頭も会わずじまいでした。酪農が発達していないのは、ホテルの朝のバイキングにミルクやチーズがが供されていないことからも分かります。なぜ牛がいないのか、そして馬もいないのか?なぜ、広大な土地を酪農に使おうとしないのか?大きな疑問を抱えてしまいました。

 途中、温泉が噴き出しているところや、すべてが白色で出来上がっている「白い寺」で小休止をとった後、目的のトライアングルに到着しました。黄土色の水を満々とたたえたメコン川の川岸から今度は船で遡上です。左手がミヤンマー、右手がラオスになりました。奇妙なことに、ミヤンマーの岸辺に壮大な建物が二棟建っています。場違いも甚だしい派手な建物です。カジノとそれに付随するホテルとのことでした。可笑しかったのは、ラオス側にも金色に輝く壮大なドームを中心とするカジノとホテルの建物があったことです。ガイドの説明では、このメコンの流れをはるか上流まで遡っていったところで、焼畑農法によるケシの栽培が行われているとのことでした。一人30バーツ払って、パスポートなしでラオスに上陸しました。直ぐに、「お恵みを」という小さな子供たちに纏わりつかれました。生まれてきた悲しみをその黒目に湛えた小さな女の子に、他の子には分からないようにお金を握らせました。エルメス、グッチなどの偽ブランドのバッグが驚くべき安さで売られていました。時間が来て再び船に乗るとき、お金を握らせた小さな女の子は船着き場まで来て、私を見続けてくれました。

 続いてミヤンマーへ抜ける唯一の国境の街へ行きました。タイ側にはありとあらゆる商品が売られています。しかし、どれも安物です。おびただしい宝石類や貴金属が激安で売られていましたので、ミャンマーが産地のはずのルビーやヒスイに手を伸ばしかけましたが、よくよく聞いてみると、すべて中国産であるとのこと。つまり、疑似ものの公算大だったのでありました。

 ツアーの最後は少数民族の集落地の訪問でした。頑なに自分たちだけで生活している貧しさの極致にいる人々を見世物にするのは、日本のアイヌ部落と同じ発想です。でも、子供たちだけは敷地の中で天真爛漫に遊んでいました。

 戦争中、ビルマでのインパール作戦に敗れた日本兵たちは、国境を越えてこの地で手厚い看護を受けたといいます。でも、数多くの将兵がこの地で亡くなったそうです。竹山道雄の名作「ビルマの竪琴」ではありませんが、亡くなった将兵を悼む碑を、私財を投じて建立した日本人がいます。チエンマイに住み着いて10年になる、Tさんとおっしゃる元M自転車株式会社の社長さんです。今回、ひょんなことでTさんのお宅に伺わせていただき、お会いすることができましたが、84歳の温厚なお顔の内に、生粋の大和魂を宿した方とお見受けしました。小学校時代の同級生だった奥様と二人だけのお暮しが微笑ましく、しかも、お二人とも熱烈なクリスチャン。羨ましい限りでした。

 夜8時、車はチエンマイに到着してツアーは終わりました。バイキング昼食付のこのツアーの料金は1050バーツ、約3000円。タイという国は今はまだ未分化ながら、内に莫大なエネルギーを秘めた国であることを教えられた1日でした。

 


2012年7月7日              さらば、小沢一郎

 6月26日は消費税法案の衆議院採決の日でした。6,70人の造反者を出しはしましたが、自公のお蔭で通過した、とはタイの空港のテレビを見て知りました。またしても、小沢一郎の造反です。7月11日には小沢一派が新党を結成するとか。作っては壊し、作っては壊し、また作っては壊し…、彼の政治屋としての軌跡はこれの連続でした。確か、今回は五回目になるはずです。でも六回目は恐らくないでしょう。次回選挙では必ず落選し、彼は消えるからです。彼の選挙地盤である岩手水沢市周辺の選挙民もバカではありません。災害後10か月あまり一度として岩手県に見舞いに訪れなかった彼を、岩手県民は許すはずがありません。彼の奥さんが彼に離縁状をたたきつけた顛末が、週刊文春に掲載されました。何故、離縁を申し出ることになったのか、その経緯を地元の支援者に送った私信の一通が公開されたのです。隠し子があり、別の女がその子を育て、その子はすでに二十歳であることなど、まあその辺はどの男にもありそうなことですから、差し引くとしても、問題は、「この男の存在は日本のためにも、岩手のためにも害であります」、とその私信に書かれたことです。「この男は放射能が怖くて、秘書と共に逃げ出しました」とも書かれています。「お前は権力が欲しかったから、俺といたのだろう。あの女とは別れられないが、お前とはいつでも別れてやる」とまでなじられた、と赤裸々に書かれています。三人の男の子までもうけた奥さんから、〈この男の存在は日本の害〉とまで言われる小沢一郎という男の実像。家庭や女房すら処せない男に、何で日本の政治が処せるでしょうか?

 次の週の週刊文春では、この私信公開の反響が載っています。立花隆が「これで分かった小沢一郎」と一刀両断で切り捨てています。小池百合子も袂を分かった経緯を語っています。良識ある政治家たちが「彼は終わった」と感想を述べています。

 それなのに、昨日今日のマスコミ報道は、小沢新党が動きを加速させているのを伝えています。ただ、小沢についていこうというという面々は、いわゆる「小沢チルドレン」と呼ばれる小沢によって当選させてもらった者ばかり、それもほとんどが女性であることにその異色性があります。きっと、百選練磨の小沢の呪術から逃れられないのでしょう。

 残念ながら、この国の政治は劣化の一途をたどっています。ここ数年で首相が9人も替り、それにつれて外務大臣も名前を憶えないうちに替り、防衛大臣など月ごとに替り、法案も採決されないまま廃案になっていっています。領土問題など韓国、ロシア、中国はおろか台湾にまで見透かされて、脅しを受けています。ゆゆしい事態です。その元凶は小沢の存在にあるといっても過言ではないでしょう。女房にまで〈小沢の存在は日本の害です〉とまでいわれているのに、それを恥じとしない小沢の存在は日本の不幸です。

 


2012年7月6日              ハブ空港

 6月26日から7月4日までの8日間、タイのチエンマイに滞在しました。直行便はなく、バンコックの新しいスワンナ・ブーム空港を経由しました。この一年半余りの間に、ソウルの、これも新しくできた仁川国際空港、台湾のこれも新しい桃園国際空港、上海の虹橋空港、そして、新しい浦東国際空港を利用しましたが、バンコックのこの国際空港には、正直、魂消てしまいました。それは、その規模と賑わいに格段の差があったからです。

 プミポン国王の即位60周年を記念して造られたこのスワンナ・ブーム国際空港は、従来のドンムアン空港の5倍の広さがあるそうです。成田空港の3倍です。チエックインカウンターは360もあり、世界一とのこと。お蔭で私は空港内で迷子になってしまいました。日本からの往復便はタイ国際航空(62,200円)を使ったのですが、国内便への乗り換えに手間取ってしまいました。トランスファーの標識を頼りに歩いているうちに、自分がどこにいるか解らなくなってしまいました。広大な通路は世界各国からのおびただしい人たちがそれぞれの目的に向かって歩いています。掲示版を探し、ゲイトを確認し、インフォーメーションで片言の英語を使って教えてもらうこと2,3度、ようやくたどり着いたカウンターには、何と、人がいませんでした。雨のため変更になっていたのです。慌てましたね。

 帰りの便は夜行便です。23時50分発です。チケットにはゲイトナンバーが書いてありません。探しましたねえ。C1Aというナンバーをどうにか探り出し歩き始めました。厳重な手荷物検査を受けました。ハダシになれというのです。ベルトを外せというのです。チエンマイ空港の免税店で買ったウイスキーは没収されました。待合室で免税袋を開けてほんの二口、三口飲んでしまったからです。ふとした勘違いは重大な結果を招来することもあるのでした。

 何でこんなに人がいるの、それも外国人ばかり…と呆れました。家族づれが多く、短パンにシャツ、そしてサンダル履きがほとんどです。土産売り場は軒並みにあり、レストランやブッフェも満杯です。ランの花に囲まれた一隅があり、日本の空港には絶対にない寝椅子が並び、大勢が仮眠をとっていました。掲示版を見ると午前0時サンフランシスコ、午前1時シドニー、午前2時ドバイなどなど、夜中なのに、寝静まるべき時なのに、この空港には世界各国への出発便があるのです。

 ああ、ハブ空港とはこういう空港のことを言うんだ、と思いました。それに比べてわが成田空港は…空港からのアクセスは最終電車が10時半です。夜半空港内にいることはできません。何よりも人の賑わいがありません。外国人がいません。せいぜい中国や韓国からの団体観光客ぐらいです。あとは日本人ばかり…

 成田へ向かうタイ航空のC1Aというゲイトは、広大な空港の一番隅にありました。人に聞くこと4,5回余り。およそ2キロ程は歩き回ったでしょうか。わが同胞の一団を見つけた時にはやれやれと思いました。欧米人らしき人は僅かに3、4人。この空港に、これだけ外国人がいながら日本に向かう人はたった3,4人。やんぬるかなでありました。

 


2012年6月6日                 老人国家

 その世界地図では、日本だけが赤い色で塗られています。世界の中で、唯一、日本だけが赤いのです。それはその国の人口構成で、65歳以上の人が占める割合が、20%を超えた場合にのみ赤く塗られる国連発表の世界地図です。国連の予測では、30年後には世界の三分の一の国々が赤くなるようですが、今のところは世界で日本が最初です。つまり、5人の人と行き交えば、日本では、その内の一人は確実に65歳以上なのです。

 病院は、どこの病院でも前期高齢者、後期高齢者でごった返しています。いずれの観光地も、元気のよいジイサン、バアサンで溢れています。山歩きをしているのも、高齢者がほとんどです。どういうわけか若者は今、登山をしなくなりました。大学山岳部でさえその活動は低調です。遭難救助を要請するのは、ほとんどが高齢者です。つい最近、天候が激変して、白馬山系で7人が遭難しましたが、大半が70歳前後の方々でした。田舎道を歩いてもお年寄りばかりで、町や村に昔のような活力がみられません。

 なぜこうなってしまったのでしょうか?それは、日本では人を中々死なせてくれなくなったからです。優れた医療制度、医療機関のお蔭で、人は体中がチューブだらけなっても、生かされてしまうのです。

 男性の長生き日本一は長野県です。お茶をよく飲むからでしょうか? 空気や水が綺麗だからでしょうか? 長野日赤の院長だった宮崎忠昭君に「何故、長野県なんだ?」と質問したことがあります。「私も解らない。ただ、県内の医療機関が他県に比べて充実しているのは理由の一つになるかもね」といっていました。今は昔、佐久総合病院に〈若月俊一〉が就任し、積極的な地域医療を始めました。医者と看護婦は地域に出かけて行って、住民を集め、病気にならないための方策を説いて歩きました。全国からインターン生がこの病院に殺到しました。偉大な〈若月俊一〉亡きあと、彼の娘さんを筆頭に、この病院は権力闘争の最中にあるようですが、佐久、岩村田は全国で最もガン、脳卒中、糖尿病の少ない長寿の市町村になっています。篠ノ井の小林総合病院、松本の相沢病院、諏訪総合病院、そして、信州大学医学部などなど、長野県はこれらの優れた医療機関のお蔭で、統計数字が最上位にあるのでしょう。

 150年前、〈人生は50年〉としたものでした。西郷隆盛も大久保利光も50歳手前で亡くなっています。明治維新は30代の若者によって成し遂げられました。政治に若さがありました。活力が漲っていました。ところが今はどうでしょう。今の政治家は、ほとんどが年寄ばかり…理屈やメンツが先行する限り物事が決まるわけもありません。政治や経済の低調ぶりも高齢者がリーダーだからそうなっているのです。

 そうなのです。日本は世界のどの国にも先駆けて、老人国家になってしまったのです。昔の日本には共同体の生存のための厳しい掟がありました。ある一定の年齢になると親は子に背負われて山に捨てられました。〈姥捨て山〉制度です。楢山節考です。共同体はそうしなければ生き残れなかったのです。〈穀つぶし〉は淘汰されて当然だったのです。それが今はどうでしょう。5人に一人が〈穀つぶし〉なのに、大きな顔をしてふんぞり返っている。若者におんぶに抱っこしてもらっている。

 〈国家の存亡は意外に早い〉のです。本当に日本の国のことを思うなら、少なくても後期高齢者は国外に移住するか、進んで黄泉の国へ行くべきです。それが嫌だったら、年齢を省みず、何らかの生産性のある仕事に就くべきです。私たちは、私たちが育ててきた若者に甘えたくないではありませんか!

 国連発表の世界地図の中で、唯一、日本だけが赤く塗られているのを「恥じ」としなければなりません。 

 


2012年5月22日              巨大金融資本

 ギリシャがユーロ圏から脱退するのではないか?いや、脱退せざるを得なくなるのではないか? いま、世界が注目しています。国民の4割近くが公務員に連なる身分にあやかり、6割が生活にゆとりが持てず、しかも、これといった産業基盤が見当たらず、乱立している政党が権力闘争にあけくれている国、それがギリシャの現状です。国家として末期症状を呈しているといっていいでしょう。〈国家の存亡は以外に早い〉という定説があります。もっとも、日本だってうかうかしておれません。〈ジャパンアズナンバーワン〉とまで囃されたのに、いま、坂道を転がる勢いで下落しています。今日の報道によると、日本国債の格付けがまた一ランク下がりました。中国や韓国国債より格下になりました。理由は財政赤字に対する対応が遅すぎる、というものです。政治家はこれを厳粛に受け止めねばなりません。権力闘争に明け暮れ、何も進めることが出来ないでいる民主党、自民党は恥を知りなさい。

 ギリシャが友好国からの〈緊縮財政に舵を切れ〉との助言を受け入れ、ユーロ圏に留まるかどうかは、この半月が山場です。もし、脱退となると事態は急激に悪化し、ユーロは更に下落するでしょう。ギリシャに莫大な金を融資している、ドイツ、フランスなどの銀行がデフォルト騒ぎになりかねないからです。実は、それをネタにして暗躍している巨大金融資本の存在についてご存じでしょうか?ロスチャイルドに代表されるユダヤ系の金融組織のことです。彼らは決して表には出てきません。いわば闇の社会にいて、兆の上の京という単位の金を操って世界経済を思うままに操っています。若干オーバー気味ですが広瀬隆の「赤い楯(上)(下)」などを読むとその恐ろしさに慄然とさせられます。そのよい例が、アメリカが仕掛けたイラク戦争でしょう。テロとの戦いという大義名分を掲げ、ブッシュというお気楽な大統領は、網の目のように張り巡らされたアメリカ政界の隠れたユダヤ系組織の言うがままに、〈イラクには大量破壊兵器あり〉という先入主を叩きこまれ、戦争を始めてしまいました。ユダヤ系大量資本の目的は原油の価格にありました。結果はどうでしょう。イスラム系の反撥を更に助長しただけで終わりました。それにより、巨利を貪ったのは、言うまでもなくユダヤ系資本であったのです。

 小麦やトウモロコシなど世界の穀物も、その相場は「カーギル」「ブレイン」「ブンゲ」などに代表されるユダヤ系資本が握っています。それに対抗すべく、日本のキリン、サントリーが海外取引を意識して合併を試みましたが、敢え無く失敗に終わったのは記憶に新しい出来事です。

 世界の富の八割は世界の二割の人間が握り、世界の八割の人間は世界の富の二割を争っている、とはよく言われることです。アメリカが、なぜ、イスラエルのやること、なすことに寛大なのか? それはアメリカの政界の要所要所がユダヤ系の人間に占拠されているからにほかなりません。

 巨大資本の暗躍の影響は私めにも及んでいます。京の単位の金融資本を使って、ユーロ売りに転じている彼らのお陰で、160円を超えていたユーロが130円台になりました。さらに下がって119円になった時、止せばいいのに、ここがユーロの底値に違いないと確信し、800万円をユーロにしました。30年ぐらい前から、私は株式、外貨の売買を始め、PCが登場するやデイトレーダーまがいのことをやりました。それなりに利益を上げたこともあります。差益のお陰でヨーロッパ旅行もできました。ところが、ご承知のように、地合いが下げに転じ、損切りの勇気もなく、大半が塩漬け株になってしまいました。それにも懲りず、また手を出してしまったのです。800万の半分は損切りせずに済みましたが、あとの400万はユーロが119円を回復しない限り損失計上です。ギリシャを始め、次に予想されるスペインの財政悪化は、私にとって頭痛の種であります。

 株式を始め、通貨の下落による損失に悲鳴を上げている高齢者は、日本国中に大勢いるのではないでしょうか。円高はとりもなおさず日本の価値が世界的に上がって喜ばしいことだ、と理屈では納得していても、実態は巨大資本による見せかけの蜃気楼のようなものなのですから、それを見抜けなかったわが身のお粗末さを嘆く以外にありません。 



2012年5月15日             きょうだい

 私の次男は名古屋に単身赴任しています。愛知用水を作ったコンサルタント会社の技師として、農林水産省、県庁などからの依頼を受けて全国を飛び回っています。難関といわれる国家試験の「技術士」試験にもパスし、もともと東京支社にいたのでしたが、重宝がられているらしく、名古屋本社に転勤になりました。家族ともども三年間名古屋に住み、子供たちの中学入学を機に自宅のある大宮に家族を帰し、一年が経過しました。

 五月は男女の双子の孫の誕生日です。私からのプレゼントとして、名古屋一泊、翌日京都という旅を企画しました。新幹線の車中では中間試験の勉強を手伝いながら、名古屋で父親の出迎えを受けると、母親はママ友らの歓迎会へ、子供たちは一年二カ月ぶりに逢う友達らのところへ行ってしまい、男二人が取り残されました。幸い、名古屋の従弟がつきあってくれ、6時からは従弟夫妻とともに、名物のシツマムシ付き懐石をいただきました。ホテルのシングルには中学生二人と私が泊まりました。始めての経験だったようですが、翌朝、二人は元気に朝食バイキングレストランに現れました。

 次男が運転する車は快晴の京都の街並みをひた走り、大原に向かいます。新緑がこの上なく美しい。三千院では庭を見ながら抹茶をいただき、続いて寂光院です。老舗の土井漬物店で、柴漬け、すぐき漬け、千枚漬けなどを買い、次は京都大学へ行きました。そして最後は男の孫の大好きな、今回で三回目になる三十三間堂で締めくくったのですが、さて、ここからが本日のテーマです。それは、京都大学を含む国立大学の立地条件の良さについてです。

 今まで何度も京都へ行きながら、京都大学の敷地中へは一歩も入ったことがありませんでした。今回は百万遍口から入り、工学部、本部を抜け、正門から吉田神社を見て、人文学部までしか見られませんでしたが、広大な敷地に樹齢を経た大木や松が生い茂り、落ち着いた校舎が立ち並び、なるほど、学問とはこういう場所でするものなのか、と痛く感じ入りました。福井謙一さんのノーベル賞記念碑もありましたが、京大はノーベル賞受賞者の数でも群を抜いています。さもありなん、と思いました。一般に国立大学の敷地の広さ、立地条件の良さは、私立大学と比べ物になりません。本郷の東大の敷地も大きいが、京大の大きさは農学部、医学部、附属病院などを合わせたら、あの広大な京都御所を凌駕するのではないでしょうか。北大、東北大、九州大へも行ったことがありますが、国立大学の良さは学生一人当たりの人口密度の低さにあり、といってよさそうです。

 私の長男は、デズニーランドを運営するオリエンタルランド社の運営部長をしていますが、国立千葉大卒業です。あそこの敷地も並みではありません。次男は国立農工大です。ここも広大な敷地に恵まれています。それに反して、私の出身の早稲田大学はなんと人口密度が高く、立地条件に恵まれていないことか!あの狭い敷地の中で、いつも三万人ほどが押し合いへし合いしているのですから…。もっとも私は苦学生で、年中アルバイトに明け暮れていましたので関係なかったかもしれませんが…。慶応、明治、立教、法政など、いづれも五十歩百歩の立地条件、人口密度といえるでしょう。人いきれの中での学問では、碌なものは生まれてこない、としたものです。国立大学と私立大学、その余りにも違う敷地その他の立地条件。その佇まいから両者の違いの大きさに、改めて思いをいたしました。

 さて、双子の男女の中学二年生は、京都大学に痛く心を動かされたようでした。車の中で、京都に住みたいとしきりに言っていましたが、次のようなメールをもらいました。

 〈昨日、今日とありがとうございました。今回の旅行の京都は今までで一番楽しかったです。京都大学へ行けて,とても嬉しかったです。僕は京都大学へ行きたいという気持ちが一層強くなりました。なので、勉強をもっと頑張ります。(略)〉

 双子の「きょうだい」が二人そろって「きょうだい」に入ってくれたら…これに勝る喜びはないでしょう。

 


 2012年5月7日                ドリアン

 台湾でドリアンを食べたことがあります。その時の味が忘れられず、折りがあったらまた食べたいものだ、と密かな願いを持っていました。そのドリアンがホテル近くの上海市場にあったのです。きっと、高いだろうな、と予想したのに、一斤13元でした。サッカーボールの大きさのドリアンを無我夢中で43元(約600円)で買いました。ビニールで幾重にも包んでもらってホテルへ持ち帰りました。果物の王様といわれるドリアンには独特の強烈な匂いがあって、ホテルで食べるのは禁止されています。当然、機内持ち込みもダメです。それを破ると罰金が科せられると脅かされていました。「日本へ持って帰る!」と従弟に言うと、呆れていましたが、親切にも空気を通さないビニール袋を持ってきて再包装してくれました。大事にトランクに入れました。でも、臭うのです。部屋に入ると、芳香とも異臭ともいえないドリアンの独特の匂いがするのです。厳重に空気を遮断したのに,なぜ、こんなにも臭うのか?ドリアンそのものの塊のようになったスーツケースは、とにかく、両国の税関を潜り抜け、無事に成田に到着しました。電車で帰るとすると周りの迷惑になりかねないので、リムジンバスを使うことにし、その荷物倉庫に入れて、池袋のメトロポリタンホテルに到着、今度はタクシーのトランクに入れてもらって、やっと、ドリアンは我が家へ到着しました。ケースを開けると衣服はじめすべてのものが、ドリアンの匂いに染まっていました。数えて見るとドリアンは五重に密閉されています。それでも臭うのはどうしてなのか?不思議で不思議でたまりませんでした。

 さて、苦労して持ってきたドリアンを、どこで、誰と食べようか?同居している三男と二人だけで食べるのでは味気ありません。予定では帰国の翌日、新橋の小料理屋へ作家の丸山さんと行くことになっているので、女将の愛さんやひろみさんへの土産にしよう、と目論んでいたのでしたか、都営地下鉄線車内に持ち込んだらどうなるか、それを考えると躊躇されました。ドリアンを話題にすると、案の定、女将はドリアンの臭いに嫌悪感をもっていました。実行しなくてよかった、と思いました。

 4日、別用もあって、大宮の次男の家に行くことになりました。そうだ、孫どもにこのドリアンを経験させよう、と〈臭い一件〉を車に積み込みました。庭に出て、中学二年の男女の双子の孫と嫁さんが見守る中、次男が包丁を入れました。強烈な匂いが立ちこめました。嫁さんと男の孫は「ウヘー」といって奥へ引っ込んでしまいました。ところが女の子の方は「私、この匂い好き」と言いました。めいめいスプーンを持って果肉を食べました。ところが、あんまり甘くもなく、美味しくもないのです。次男は「これ、おかしいね。食べるのが遅かったのか、あるいは早かったのか」と訝りました。

 インターネットで調べてみると、ドリアンには食べ時がありました。しかも、食べ過ぎて、その上お酒を飲むと死ぬことがある、と書いてありました。余ったドリアンはいま家の冷凍庫で眠っています。 

 


2012年5月1日               食は日本にあり

 上海最後の日、夕食のため〈五郭場〉という日本の原宿のようなところへ行きました。若い人たちがほとんどで、どのレストランも人が溢れています。テーブルには沢山の料理が並べられています。豊かになっているのだなあ、と思いました。ショッピングモールの一郭に人影のまばらなところがありました。毛虫のようなものがウインドに入って売られています。5,6センチになった干しナマコでした。それも一斤3,000元とか5、000元とかの高値が付いています。中には13、000元というのもありました。フカヒレもありました。干しアワビもありました。姫貝、桜貝、白エビなどなど、日本であまり見かけない海産物が超高値で売られていました。

 江戸時代、干しナマコ、干しアワビ、フカヒレは〈俵物3品(ひょうもつさんぴん)〉と呼ばれ、中国(清)への重要な輸出品でした。外貨を稼ぐために国内での販売を禁止し、養殖を奨励し、専ら中国へのみ売りました。その伝統が残っていて、いまも年間130億ぐらいの取引があるようです。

 このこと、私は寡聞にして知りませんでした。ほとんどの日本人も知らないのではないでしょうか。

 17,8年前、中国少年報社の招待で北京その他を公式訪問したとき、ナマコ料理が出てきました。私たちは「なんだ、ナマコか」と思いましたが、中国側の人たちが有難そうに食べるのを見て、奇異に感じたことがあります。日本の海にころがっている海産物が、中国では宝石のように取り扱われていることを知って、改めて驚いた次第です。

 何回かの中国訪問で、いろいろな料理を食べましたが、これは美味しいと思ったものは残念ながら一つもありません。上海ガニも、昔は有難がって食べた記憶がありますが、いまはすべてが養殖です。無錫湖の水底で自力で餌を漁っていたカニが、居ながらにして上から餌が降って来るようになっては、旨かろうはずがありません。大量生産のため、農薬まみれになった野菜を、いかに調味料で誤魔化しても味は知れています。

 同じ中国料理でも台湾は違います。何を食べても美味しい。特に野菜がいい。台北の市場へ行って驚きました。陽光を目一杯浴びた野菜や果物が超安値で売られていました。干からびた果物しか売っていない上海の市場とは大違いでした。台湾は周りを海に囲まれているため海産物も豊富です。暑い国であるため、昼間はひっそりとしていますが、夜、涼しくなるとそれが弾けます。10時頃から、深夜、明け方にかけて屋外の屋台がその真価を発揮します。ただ、ヘビ料理を、それもを若い女性が美味しそうに食べているのには閉口しました。〈食の穴場は台湾にあり!〉と断言して私ははばかりません。

 帰国した翌日、作家の丸山さんと新橋の馴染みの小料理屋へ行きました。女将の愛さんと、その姉さんのひろみさんが家庭料理を売り物にして、テレビにも登場したお店です。ひろみさんが作ってくれる〈きんぴら〉〈茗荷の梅合え〉〈若竹煮〉〈カツオの刺身〉〈しじみの味噌汁〉などを日本酒の〈司牡丹〉でいただきました。しみじみ〈美味い〉と思いました。干しアワビも、フカヒレも、干しナマコもなかったけれど、〈食は日本にこそある!〉と心の底から思いました。

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