最近のエッセイ

2015年3月30日            観桜ゴルフ

 小田急線の向ヶ丘遊園に、「川崎国際生田緑地ゴルフクラブ」があります。長ったらしい呼称ですが、川崎市が所有するパブリックゴルフ場です。3月30日前後、桜を観ながらゴルフをする4人の会がここ10年来続いています。このゴルフ場の特徴は、もともとが緑地公園であったためか、桜の樹が至る所に植えられています。それも、古木です。枝振りの良い桜が今日は7分咲きでした。桜だけではありません。梅、桃、こぶし、モクレンなども咲き乱れていました。圧巻はミモザです。マッ黄色の花が零れんばかりに咲き誇っています。プレイの手をしばしば休めて、咲き乱れる花の下に佇み、青空に映える花の姿を愛で、一年一回限りの出会いを感謝し、好きなゴルフが今年も出来た幸せを、心から噛みしめました。

 

2015年3月29日           ごみ屋敷

 清瀬の市営団地に1人で住んでいる64歳になる従妹から、テレビをデジタルに買い換えたけれど、写らないので困っている、と訴えがありました。この従妹は私の母親と常に一緒の生活をしていました。母親が都庁の退役役人と再婚し、目白の大きな家に住んでいるときも、一部屋もらっていました。母親は再婚相手の子どもの、当時早稲田の学生だった長男、高校生だった次男の面倒を見て、それぞれ就職させ、結婚させて6人の孫に囲まれるようになりましたが、私の従妹についてだけは家庭を持たせることが出来ませんでした。それを心残りにして93歳で没しました。

 でも、亡くなって見て分かったのは、従妹が、仮に何もしなくても、一人で80歳まで生きていけるような仕掛けが出来ていました。年金やら、保険やら、定額貯金やら、総額3000万を超えるものが残されていました。わが母ながら、立派なものだと褒めてやりたい思いです。

 15年ほど前に、目白の家を子供たちに明け渡し、自分は清瀬の団地に引っ込み、従妹と二人だけの生活を始めるのですが、8年前、私の連れ合いが亡くなった半年後に、他界しました。生前は月に一、二回、車椅子の亡妻を伴い、清瀬の母を病院の検査に連れ出し、その後、従妹を含めた四人で食事することを常として来ました。母はその日を楽しみにしていました。ところが、母が没して以来、約8年経過しましたが、一度も清瀬へ行っていません。従妹は月に一度は練馬の私の家に来て、軽く掃除をして帰っていきます。その度に、有りあわせのものを持たせてやっていました。「お前、自分の家もきちんと掃除しているだろうな」 と問うと「やってる、やってる」 と答えるので、安心していたのでしたが、今日、暫くぶりに行って見て仰天しました。全くのごみ屋敷になっていたのです。ごみの上にごみを重ねて、その上で生活していたのです。うすうすは感じていたので、ごみ袋10枚を用意して行ったのでしたが、私が整理を始めると、「大事なものだ、捨てられない」 と泣きながら止めるのです。怒り心頭を発し、血圧が上がりました。生まれた時から見守ってきた従妹が、こういう性癖の持ち主であったことを知り、私は愕然としてしまいました。仕方がないので「捨てないならいいだろう」 と10枚一杯になったごみ袋をベランダに置いて帰ってきました。ほとぼりが冷めたら処分に行く積りでいます。

 帰ってきて、仏壇に夕べの線香をともし「お袋さん、参ったよ、あいつは、ごみを処理できない人間だったんだね」 と報告しました。「そうなんだよ、私も苦労したんだ。でも、よろしくね」 と仏壇から声がしました。 

 

2015年3月27日          写真家栗原達男

 「お彼岸に来たかったのですが…」 と今日、次男の嫁の真弓さんと双子の男女の孫の匠君が、仏前に線香を上げに来てくれました。女の子の萌ちゃんは風邪で寝込んでいるとのことでした。「何が食べたい? 寿司か? 肉か?」 「お寿司がいい」というので案内して、萌ちゃんにもお土産を作ってもらいました。その席上でのことです。「お父さんはお母さんと、どういうきっかけで知り合ったのですか?」 と真弓さんから質問を受けました。昔の顛末を手短に話ました。話しながらアッと思いました。今日27日は、4月2日の朝日新聞入社を数日後にひかえながら、沖縄コザ市の料亭「浦島」で婚約披露宴が催された日だったからです。学生最後の年、数人いた女友達のうち、武蔵野音大ピアノ科の4年生のUさんは、私と結婚できるものと思っていました。沖縄へ行くに当たって、Uさんを呼び出し、「君とは結婚できない」とハッキリ言いました。彼女はコートの裾を翻し、雨の中を泣きながら走って去っていきました。その後、彼女は東芝の社員とお見合い結婚をし、幸せな家庭を持った、と人伝てに聞きました。

 3月24日、特急ハヤブサに乗り、鹿児島から那覇まで船で行きました。国際通りの宝石店でヒスイの指輪を35ドルで買いました。コザの料亭にはおよそ70人ほどの人が集まっていました。全員が食い入るように私の一挙手一投足を見つめるのです。エラいことになったと思いました。宴席には、沖縄タイムス新聞社の当時の社長上地一史さんの顔もありました。亡妻の母親同志が姉妹だったからです。宴の最後には三線や太鼓のお囃子につれて、70人全員が踊りだしました。カチャアシという沖縄独特の宴の時の定番ですが、度胆を抜かれました。

 上地さんが「寄りなさい」とおっしゃるので、沖縄タイムス社に伺うと、ハーバービユークラブへ昼食に連れて行ってくれました。そのあと、クラブにあったスロットマシンを興じました。自分の金でやりなさいと言うので、ナケナシのお金をはたきました。タイムス社の中に朝日新聞沖縄支局がありました。上地さんが「この学生はこれから私の親戚になる」 と言って、支局長の阪中知久さんに紹介してくれました。君は4月から朝日の社員になるのだね、と念をおされた上で本社編集局長宛ての信書を託されました。郵便は検閲されてダメダというのです。私はその信書を大事に抱え、那覇の泊港から大島海運の客船「沖縄丸」で帰国しました。当時の沖縄はパスポートが必要でした。ドルでも円でもないB円が通貨でした。

 その帰りの船客の中に早稲田の制服を着た学生がいました。政経学部卒業で、奇しくも4月から、私と同じに朝日の社員になる、と言うではありませんか! 写真家栗原達男君との出会いでした。三等客室の中で酒を酌み交わしながら、夜を徹して語り合いました。

 彼は出版写真部に入社します。そして、入社一年目で写真家新人賞を獲得し、一躍、有名になります。しかし、入社6年目に朝日を退社し、フリーカメラマンになりました。既に家族ぐるみの付き合いが始まっていました。女房同志も実に気があったようで、行き来するのを楽しみにしていました。子どももそれぞれ二人になっていました。彼の子どもの女の子の方は、名前を「夢」と言ったと記憶します。亡妻の母親が呉れた360万円で、私たちは22坪の建売住宅を練馬に買うことが出来ていました。家はその後、家の前の角地の空き地76坪を買い、居宅とアパート一棟を建て、360万円は返したのですが、亡妻の母親への恩義は、忘れることが出来ません。

 栗原達男君が最後に家に見えたのは、長い別れを言うためでした。家族を連れて車で生活しながら、ヨーロッパ3万キロを踏破するというのです。その大計画にはビックリ仰天してしまいました。無事を祈りました。それを境にして彼との音信は途絶えました。その後、彼の一家がアメリカに移住したという噂を耳にしました。調べてみると、ヨーロッパ3万キロの旅の写真展は言うに及ばす、アメリカを拠点にして数々の写真展を、世界各地で開催していたではありませんか。沖縄の今昔を比較する写真展もありました。戦争の爪痕を撮りまくるのが彼の仕事になっていた感がありました。ところが、いくら調べても、平成6年以降の彼の活動記録が見つかりません。栗原達男君は私と同じ1937年生まれです。生きていれば78歳の筈です。

 どなたか、彼の消息を知っている方はいらっしゃいませんでしょうか?

 

2015年3月27日          格安航空

 スペインのバルセロナを飛び立ったドイツの格安航空会社のA320が、フランスの山岳地帯で墜落し、150人が犠牲になりました。28歳の副操縦士が自分の自殺の道ずれに、150人の無垢な人々を伴った、というのが今のところの情報です。半年前にはマレーシア発北京行の格安航空機が、一切の情報を残さずインド洋で水没しました。捜索は続いていますが、いまだ特定出来ずにいます。

 飛行機、船、電車、車……全ての動くものは、一旦動き出してしまえば、運転者任せになります。その運転者の技術力だけが、乗客の安全に作用します。その運転者の人格が高潔であるか、卑しい人間であるか、それは問題にはなりません。技術力だけについて、厳しい試験にクリアーできれば、卑しい人間であっても、運転者になることが出来ます。

 実は、ここに落とし穴があるのではないでしょうか。自分の命はおろか、人の命まで何とも思わない精神の持ち主が仮にパイロットになったらどうなるか。技術力はあっても、適応障害や鬱病などを持っているパイロットだったらどうなるか。

 かつて、羽田空港の滑走路手前で逆噴射をかけ、大事故を起こした日航のパイロットがいました。精神的に不安定だった人間をそのまま仕事に就かせていた不備を、日航も全日空も認め、パイロットの相互監査制度などを採り入れ、少しでも異常が報告されれば地上勤務に切り替えています。だから、今までのところパイロットの人間性に由来する事故は起きていません。一方、格安航空会社ではどうでしょうか。雨後の竹の子のように出来た格安航空会社では、パイロットの囲い込みに火花を散らしています。精神に少々の異常があっても、技術力がありさえすれば、パイロットになれているのです。

 他人の命を巻き添えにしてまで、自分の目的を達成して恥じない、病んだ精神の持ち主は恐らく、他にもゴロゴロいる筈です。社会の歪が航空業界に及んでいると言っていいのではないでしょうか。身を守るには、せめて、格安航空を選択しないことです。

 

2015年3月23日          小金井ゴルフクラブ

 甲州街道を右折し小金井街道に入ると、小金井ゴルフ場があります。名門中の名門クラブで、ここの会員権はバブルのころ5億円にまで跳ね上がりました。政財界を問わず、ここでゴルフが出来ることを、男たちは名誉としてきました。それは、今も変らないようです。

 NHKの籾井会長が1月2日にここでゴルフをやり、その時のハイヤー代49000円をNHKに会計処理させたことが問題となり、国会喚問にまで発展しています。数々の不適切な発言で、その資質が問われている最中なのに、またまたスキを見せてしまいました。恐らく、このままでは、NHKの今年度の予算案は国会の承認が得られないでしょう。安倍総理のお友達人事の弊害、ここに極まれり、と言えます。

 ゴルフはプライベートな遊戯ですが、仕事の世界では、、供応の道具になることがしばしばあります。融和のために、受けていい供応か、それとも撥ね返すべきか、その都度、判断が必要となります。宣伝部長時代、仕事を下している凸版印刷のエライ人たちに誘われたことがありました。プレー後、強引に自分のプレー費を払い、お土産も貰わず帰って来てしまいました。「メンツを潰された」 と私の評判は悪くなったようでした。

 週刊朝日を始めとする、朝日出版物の車内吊り広告を一手に扱っていたKさんは、小金井ゴルフクラブの会員でした。用が有ろうが無かろうが、Kさんは毎日社内に現れます。失礼ながらお顔のアゴがしゃくれていたので、我々はポパイと呼んでいました。彼の仕事の手法は、関係者を小金井に連れて行くことでした。何度も連れて行ってもらいました。とうとう、18ホール全てのたたずまいを、頭の中で反芻できるまでになりました。相棒宮沢君もいつも一緒でした。私たちはその都度、プレー費相当額を予め商品券にして、Kさんにお渡しすることを常としていました。昼飯は一番安いクラブ名物のカレーライスにして、負担を掛けないようにしました。お土産だけは有難くいただきました。いつもラッキョウでした。

 「おい、また、ラッキョウから声がかかったぞ」 というのが合言葉でした。
 田中角栄が、悪名高かった小佐野某とその弟の三人でプレーするあとに付いたこともあります。スタートホールでチョロを打った角栄さんは、悲鳴を上げました。すると、お付の者がすかさず、次のボールをセットしました。明らかなマーナ違反です。
 名物ホールは3番のショートです。グリーン手前に深いバンカーがあります。僅かに足らず入れてしまいました。上がりません。7回打ちました。待っていてくれた前の組の御三方に帽子をとって深々と謝りました。「いい練習が出来ましたね」と声を掛けてくれました。三菱重工の社長さんでした。

 「ゴルフはスコアよりマナー」 という書かれた署名入りの本を、私はいまも大切にしています。ゴルフをこよなく愛し、数十冊のゴルフエッセイをものした〈夏坂健さん〉の本です。尾崎将司はコース内を、咥えタバコで歩きました。タイガーウッズはグリーン上で唾を吐きました。それよりも悪いマナー違反が、NHKの籾井会長の一件です。NHKは我々が収める受信料で成り立っているのです。「みなさまのNHK」であって、「おれさまのNHK]では決してないのです。 

 

2015年3月22日          書道の再開

 昨日は六本木の書道塾へ行ってきました。今月の三回目です。3月から1年2か月ぶりに再び筆をとり始めたのです。相棒の宮沢君と「どうしよう、止めようか、行こうか、行くとすれば何月からにしようか?」 と互いに逡巡していたのでしたが、再開に踏み切ったのでした。先生方や塾生たちは、暖かく迎え入れてくれました。一方、私が宮沢君に差し上げた「ショパンのマズルカ」、「ショパンのワルツ」が宮沢君の奥さんを介して書道塾の先生方にも回覧されていて、その中でふと書いてしまった「お婆さんの多い書道塾」という記述が問題になっいたらしく、「何よ、謝りに来なさい」 という状況でもありました。

 教材は、仮名、新書芸、楷書、行書四点の毎月の競書の他、新に教材を6800円で求め、古代中国の唐詩選を始めました。もう一点は、何でも自由奔放に書いてよろしい、というお墨付きを頂き、さて、何をどのように書こうか、と想像力を逞しくしているところです。

 そして、今回は次の歌を半切に新書芸の筆致で大胆に書きました。

 地獄絵の三月十日の大空襲 それでも「九条」改めんと云うか

 この歌は長野の中学時代からの旧友であるYさんが、ある時メールで送ってくれたものです。戦時中、東京下町に住んでいたYさんは、昭和20年の大空襲で父親と兄を失いました。その痛切な思いがこの歌に籠っています。長野に移り住んだYさん一家は、もう一人の兄さんの働きで無事学校を出て、今日に至っています。当時中学生だった私が、Yさんのお宅へ伺った時、お母さんが数点の自作の俳句を私に見せてくれました。その中の一点に、〈夫(つま)と子が連れ立ち戻る盆今宵〉 がありました。半世紀を過ぎた今でも覚えているのは、印象が余りにも強烈だったからでありましょう。

 昨日の書道は宮沢君と日程が合わず、一人で行ったのでしたが、宮沢君から電話があって「長野から長いもが送られてきた。分けてやるから渋谷で落ち合おう」となりました。指定された「駒形どぜう渋谷店」へ行って見ると、宮沢君と奥さんと、奥さんの書道の先生である北山久瞳先生がお出ででした。北山先生は六本木書道塾の副先生でもあります。どぜう鍋を囲んで、しかも、二人の美女を相手に飲む酒は美味くて、旨くて、時間は瞬く間に過ぎていきました。頂いた長いもは、教わったように、皮を剥き、輪切りにしてフライパンで焦げ目が付くほど焼き、鰹節と極上の醤油でいただきました。長くて太いのが二本もあるので、当分は長いもずくめになるでしょう。

 

2015年3月15日           老 化

 自分が日々老化していくなあ、と否応なく悟らされることがあります。それはピアノを弾く指の動きが、意識はしているのに、脳の命令に従って呉れなくなっていることです。20代の頃は、一つの曲を2,3回弾けば、4回目にはミスなく弾くことが出来ました。高校2年の時の文化祭では全校生徒の前で、モーツアルトのケッヘル303番「トルコ行進曲付き」の長い変奏曲を暗譜でやりました。最も、調子に乗り過ぎて、トルコ行進曲を通常速度の3割増しでやったため、一か所ミスってしまいましたが……中学生の時は、応募した信州大学主催の作曲コンクールのピアノ部門で一位となり、NHKの長野放送局から自作自演しました。8分かかる「ロンドFモール」という曲でした。一つのミスタッチもありませんでした。

 ところが今はどうでしょう。5月に小さなライブハウスで行う「販売OBバンド」のピアノ部分を受け持つたため、いまから練習に練習を重ねているのですが、情けないことに楽譜を見ているのにミスタッチをしてしまいます。脳は指令しているのに、それが指に届くまでには時間がかかってしまうのです。

 曲目は沢山あります。7人編成バンドで「第三の男」「マック・ザ・ナイフ」「テネシーワルツ」「想い出のサンフランシスコ」「センチメンタルジャーニー」「サントワ・マミー」、 ボーカルの伴奏で「ろくでなし」「オールザウエイ」、 チエロの伴奏で「白鳥」、 尺八とハーモニカの伴奏で「花は咲く」、 ピアノソロでクラシックの「スクリヤービンエチュード2番」、全員で歌う甲子園の「栄冠は君に輝く」 などなど。

 ピアノソロでは、本来はジャズ的なものをやるべきなのでしょうが、敢て、クラシックの荘重な曲であるスクリアービンを選びました。稀代のピアニスト・カチア・ブリアテッシュビルがユーチュブで見事な演奏を披露しています。どうしても、真似てみたくなったのです。この曲は1日10回はサラっているでしょうか。もう、100回は超えているのに、満足できる演奏は、まだ、一つもありません。つまり、指が動かないのです。脳が指令しても、指にとどくまでに時間がかかってしまうのでしょう。数十年前、83歳になるホロビッツがサントリーホールで、この曲をアンコールで弾きました。ミスの連続でした。今は亡き音楽評論家の吉田秀和が「壊れた骨董品」と揶揄しました。調子に乗って、私も「35000円に値しない。金返せ」と「音楽の友」という雑誌に投稿し、それが掲載されたのでしたが、悪いことしたな、と今になって反省しているところです。

 私のいまのピアノの技量は、最盛期の20分の1ぐらいになっている筈です。全く、全く情けない限りです。でも、毎日の練習を止めてしまったらどうなるか? ハイ、それまでよ、となるでしょう。それは断じてイヤです。だから、今日もこれからピアノに向かいます。

 

2015年3月12日           臨死体験

 月刊文芸春秋の今月号で、立花隆が、人間が死に臨む時の、人間の脳の意外な働きについて述べています。彼は以前、死に臨む人間のさまざまな体験について研究を重ねていた時期があります。ほとんど死んだのに、生き返った人たちの体験談を彼は数多く集め、一つの結論を得ています、病室の天井から自分の肢体を見ている魂のようなものの存在を、彼は否定していません。それを、脳の働きとする不可思議な事実があることを、今回の論文では肯定してるところに新しい発見があります。

 「死は、脳の意外な働きによって、恐怖ではなくなる」という彼の結論に、私も賛成です。何となれば、私自身が一度死にかけたことがあるからです。実に甘美な思いの内に私はいざなわれ、何の苦痛や恐れもなく、死の寸前まで行って引き返してきました。

 「死は怖くない」というのがその時からの、私の実感であります。「死は、むしろ甘美ないざないである」 とさえ私は断言して憚りません。

 数十年前の12月26日、衆議院選挙報道の別刷り号外を手配するため、その日、福島支局で徹夜しなければなりませんでした。力をつけておこう、と支局近くの「万世」という料理屋でフグの白子鍋を食べました。美味この上なかった白子に、僅かながら赤い血の線がありました。足腰が立たなくなりました。支局前の大原病院へ運ばれました。フグ毒に特効薬はありません。専ら、胃洗浄と強心剤の投与が行われたようです。集中治療室の隣のベットの男性は明け方、奇声を発しながら死んでいきました。血圧は上が60、下が40となりました。あと20ずつ下がればお陀仏です。その時です。お花畑が現れ、道ができました。本当に綺麗な花々が咲き乱れていました。清流もありました。森の中に続く一本の道が現れました。女性が後ろ姿で、付いてこいという仕草をします。顔は見せません。しかし、抜群のスタイルです。失礼ながら、古女房やガールフレンドではありませんでした。付いていきました。彼女が何者なのか顔を見たくて堪りませんでした。しばらくして、「もしかして、付いていってはいけないのでは」という疑念が浮かびました。木々がそよぎだしました。小川のせせらぎの音が聞こえ始めました。はっと我に返りました。いつの間にか、森の奥に続く道も消え、女性の姿も掻き消えていました。

 このフグ毒事件は地元の民友新聞に載りました。料理屋さんはしばらく営業停止となりました。あろうことか、その料理屋さんのフグ調理師は、しばらくして自分が捌いたフグに当たって死にました。当時、福島県と大分県だけ、県条例がなく、フグは素人でも調理できたのでした。

 この事件により、私は死が怖くなくなりました。その時、つまり、いまはの時になると、必ず私の脳が前面に出てきて、死の苦痛を和らげてくれる、と確信するようになりました。

 思えば、私は一度死んだ人間です。だから、今の人生はいわば余白のようなものです。何の故あってその時死なないで生きながらえたか。だとすれば、意義のある生き方をしなければ申し訳ないではないか、という意識が、いまの私の底流にあります。

 と同時に、「死は怖くはないよ、恐ろしくもないよ。実にいい気持ちになるものだよ」と声を大きくして言いたいです。だから、立花隆の文春の記事に共感を覚えてなりません。

 

2015年3月10日           ドイツのメルケル首相

 ドイツの女性首相メルケルさんは、実にいいタイミングで来日してくれた、と私は秘かに快哉を叫んでいます。

 しかも、朝日の浜離宮ホールで講演して、あらゆる質問に答えている。その内容は実に的確で、しかも、時宜を得たものです。見事としか言いようがありません。朝日の渡邉新社長がメルケルさんをお迎えしている映像も流れました。今日の朝日朝刊は4個面を使ってその詳細を報じています。なぜなら、朝日が主張してきたことを、メルケルさんが代弁してくれているからに等しいからです。物理学者でもあるこの女性に、何故、こんな優れた才能や、エネルギーを神は与えたのでしょうか。紙面を読めば読むほど、極く当たり前のこと、メルケルさんが言っていることに気づきます。それが新鮮に響きくのは、今の日本の状況が嘆かわしい限りだからです。

 「ナチスが侵した罪にドイツ人は真剣に取り組み、ヨーロッパの国々に謝罪しました。償いは現在も続いています。何よりもお隣のフランスが許してくれました。その寛容な心が無ければ現在のユーロはありませんでした」 「隣りの国に迷惑をかけた以上、歴史に対して真剣に向き合わねばなりません。その姿勢は迷惑をかけた国々が寛容の心を示すまで、続かなければなりません」 「小さな島の領有権を巡って、争いを続けるのは、木を見て森を見ないに等しい」「ドイツは、原発を2022年までに廃棄することを決めました。これは、国民的合意です。その発端は、福島原発の事故です。優れた技術立国である日本が、このような災難を回避できなかったことに、ドイツは改めて、原発事故の恐ろしさを感じました。この事故がなければ、ドイツは原発を一層推進させていたでしょう。何となれば、私自身が原子力の平和利用の推進者であったからです。ドイツはすでに、すべてを自然エネルギーでまかなう方向に舵を切っています。それは日本のお蔭でもあるのです」「出来得れば、日本も脱原発へ舵を切って欲しい、と私は願っています」

 ところが、日本の安倍政権は、いま、原発再稼働に動き出そうとしています。識者とは名ばかりのお友達を集めて、やがて発表する70年談話から、侵略の文字を消し去ろう、と躍起です。自衛官を文官と対等にして、シビリアンコントロールをなきものにするに閣議決定までしてしまいました。再び戦争の出来る国にするため、憲法を改正する動きが加速されつつあります。

 まるで、メルケルさんの言っていることと反対の政治の動きになっているではありませんか。私は、メルケルさんに、日本の総理大臣になってくれませんか、と頼みたいです。

 

 追記) メルケルさんについて書き忘れたことがあります。それは、彼女が東ドイツ出身の首相であることです。自身も述べていますが、34、5年間に亘って言論統制化にある環境の中に彼女はいました。東西冷戦構造が崩れ、ベルリンの壁が壊されるまで、彼女は東ドイツにいたのでした。

 もう、22年前になりますか、私はベルリン、ポツダム、マイセン、ドレスデン、フランクフルト、プラハ、ウイーン、ブタペストへの旅をしたことがあります。最も印象に残ったのは、東ドイツの至る所に放置されていた国営企業のなれの果てでした。工場の残骸でした。メルケルさんはその誤った社会主義の中から育ってきたことを思うと、感慨深いものがあります。

 

2015年3月8日               格差社会

 「働けど働けど楽にならざり、ジッと手を見る」という詩があります。啄木だったでしょうか。「ワーキングプアー」という言葉が生まれています。いくら働いても給料は上がらず、上がらないから結婚は出来ず、結婚できないから子供も作れず、家庭を持てず、従って、将来の夢も持てず、いたずらに歳だけはとってゆく…… 小泉内閣時代、財務大臣だった慶大教授竹中平蔵が認めた人材派遣制度が社会の禍を招いているのです。従来の企業が、社員の終身雇用から解き放たれ、労働者は使い捨てでいい、という企業倫理が大手を振って歩き始めたのです。従って、どの会社も派遣社員だらけです。終身雇用社員への道は、ほとんどの会社では閉ざされているか、狭き門になっているのが現状です。

 私たちが社員になったころ、派遣会社などありませんでした。すべての雇用は終身でした。アルバイトはいましたが、ほとんどが学生でした。物価の上昇につれ、給料も比例して上がりました。そのため、結婚もでき、子供を作り、曲がりなりにも家を作ることも出来ました。この当たり前のことが、今の時代は出来なくなっています。

 企業の論理や効率を優先する余り、労働者を取り換え可能なモノとして扱う社会にしてしまった、当時の政治の決断が、社会をして間違った方向に進めてしまったのではないでしょうか。小泉内閣の罪は大きい、と言えます。いわんや、竹中平蔵においておやです。

 派遣労働者の数は日を追って増えています。物価の上昇がそれに追い打ちをかけます。ワーキングプアーの階層は、ますますプアーになっていきます。派遣社員は労働運動など認められていません。低所得の上に、モノとしか扱われていない派遣労働者とて、歳を重ね、高齢化していくのは、目に見えています。政治はどうやって彼らを救うのでしょうか。救えるほど政治は寛容ではないでしょう。

 世界の労働力について見回すと、この傾向は日本だけの現象でないことに気づきます。資本主義社会では、何処の国でも、富める者と貧しい者との差が広がっています。最近もてはやされている「ピケッテイの資本論」に詳らかなように、格差はますます広がっています。20%の富める者が、世界の富の80%を手中にしています。だから、富める者に対して高額の税金を課して調整すべきだ、と彼は世界に対して警鐘を鳴らしています。

 格差が最も顕著なのは、アメリカです。ニューヨークには路上生活者が6万人もいるそうではありませんか。高い家賃が払えないどころか、仕事が一定しないから、自分の家が持てないでいるのです。

 ユーロ圏のスペインでは、昨年、ポデモスという急進左派連合の政党が誕生しました。スペインは二大政党で、中道右派の国民党、中道左派の社会労働党が政権をになってきています。そこへ、極左翼のポデモスが現れたのです。党首は36歳の青年。何と、支持率は現在トップになっています。この政党のマニフェストは格差是正です。資本家を排斥し、労働者を擁護する、いわば共産社会の実現を標榜しています。

 世界を相手に戦いを始めたかに見える「イスラム国」を、世界が無視できないのは、世界に広がるワーキングプアーがその戦いに共感し、進んで参加しようとする、新しい勢いがそこにあるからではないでしょうか。

 最近、かつて持てはやされたマルクス・エンゲルスを読み返そうをいう動きが活発です。資本主義、民主・自由主義の限界が、誰の目にも明らかになってきていることに、起因します。

 「資本主義が爛熟した末に、共産・社会主義がやってくる」 とは「資本論」をよく読めば書いてあります。爛熟以前に革命を興したソ連は、不幸にしてスターリンの専制・独裁政治になってしましました。日本でも学生による革命ごっこが起きましたが、当時、資本主義は始まったばかりでした。

 私の目の黒いうちはダメでしょうが、20年を経たずして社会は一大変遷を遂げる、と私は思っています。そうならなければ、ワーキングプアーが余りに気の毒です。

 

 

2015年3月6日             沈丁花

 今年も、確定申告の時期になりました。今日、江古田にある練馬東税務署へ行って申告を済ませてきました。面白くも何ともないのですが、楽しみが一つだけあります。税務署の近くに小さな公園があって、そこに、沈丁花の群生があり、帰り道にそこへ寄ることです。今年も満開になっていて、馥郁とした独特の香りを、辺り一面に漂わせていました。

 私は、沈丁花の香りが大好きです。犬を散歩に連れ出す時も、あちこちの庭先に咲いている沈丁花を訪ねながら歩きます。だからこの時期、散歩は毎日になります。

 公園の沈丁花は、この数日が満開なのでしょう、小さな花のすべてが全力を出し切って香りを放っていました。「見事だよ、香りも申し分ないよ、ご苦労さん」 と、今年も花たちに声を掛けてあげました。沈丁花の香りに包まれ、ベンチに座っていると、時の経つのを忘れます。

 春の訪れを最初に告げてくれるのは、蝋梅でしょうか。続いて梅です。我が家の猫額の庭でも八重梅の花が満開です。昨年は沢山の実をつけてくれました。一度、漬けてみたことがありましたが、手入れを怠ったせいか上手く仕上がりませんでした。今年も沢山の実をつけるのでしょうか。昨年のように沖縄へ送る積りです。このところ数年、3月中旬ごろ声がかかってきて、青梅の吉野の里へ高校の仲間三人で、一泊しながら梅見と洒落れ込んでいます。一山が紅梅、白梅で埋まっていて、実に見事な梅林です。ところが、そこの梅のほとんどが、実は病気に罹っているらしく、程なく、全部の梅の木が伐り倒される運命にあるらしいのです。残念でなりません。観梅といえば、熱海、湯河原、そして水戸の偕楽園がありますが、青梅の吉野の里が筆頭ではないでしょうか。

 梅に続くのが桜です。「願わくは花の元にて春死なむ…」の西行ではないけれど、桜が咲きだすと、私も心が騒ぎ始めます。昨年は京都の醍醐寺の桜と、高野山、吉野の桜を見に行きました。今年はどうしようか? いっそのこと、車を走らせて、桜前線に沿って北上する旅をしようか、などと考えています。

 

2015年3月2日             囲碁界の新星

 宮城県のブロック紙「河北新報」の創業は一力家に始まります。何代目かの当主一力次郎の長男一力一夫さんは、つい最近まで社長でした。次男の英夫さんは朝日新聞に入社します。販売局では三年上の先輩であり、英夫さんが部長の時、私は次長を務めました。彼は仙台一高から慶応経済を出て入社しています。仙台一高の時の仲良し四人組、井上ひさし、菅原文太、それに東大教授の樋口陽一さんらのことは、この欄で何度も書きました。

 英夫さんは、昨年の一月亡くなりました。挙動や言辞がおかしくなり、中江旧友会長に乞われて仕事としていた旧友会事務局長は勤まらなくなりました。恐らく、アルツハイマーのような症状が進行したものと思われます。更に、同じような症状で、英夫さんの兄の一夫さんも、いまは宮城県のどこかに、人知れず監禁状態になっているようです。仙台名誉市民であるため、尚更、人々の言の葉に上がるのをご家族は憚っているのでしょう。仄聞すれば二人の兄弟の父親である次郎氏も晩年は同じ病であったとか。名門一力家には不思議な血が流れているのかもしれません。

 それを証明するのが、今回の出来事です。事件と言ってもいいかもしれません。

 河北新報の現社長は一夫さんの長男である雅彦さんが継いでいますが、その息子に今年17歳になる遼君がいます。彼は囲碁が好きで三年ほど前東京麹町に部屋を借り、市ヶ谷の日本棋院に通っていました。囲碁棋士の登竜門である院生でした。二年前、15歳の時プロ試験に合格するや、若鯉戦、新人王戦、中野杯などで優勝します。そして、今年NHK杯囲碁トーナメントに出場しました。毎日曜日12時から2時間放映されるNHKのテレビ囲碁戦です。初出場なのに二人を負かしました。次の相手は河野臨流星杯です。昨年大活躍した打ち盛りの棋士です。負かしてしまいました。次の相手は高尾十段・天元です。これは先週行われ、高尾十段が頭を下げました。さて、昨日の準決勝戦です。相手は何と、いまをトキメク25歳の井山裕太5冠王です。名人、棋聖、本因坊、碁聖、阿含杯など総なめしています。いま、日本で一番強い囲碁棋士は誰か、と問えば10人が10人とも井山裕太、と答えるでしょう。

 負かしてしまいました。井山裕太5冠のミスを誘い、中押しで勝ってしまったのです。井山5冠は顔を赤らめ、実に悔しそうでした。一方、17歳の方はニコリともせず、淡々としていました。日本の囲碁フアン1000万人のほとんどは、このNHKの囲碁番組を楽しみに見ていますから、この日、17歳の快挙に唖然としたのではないでしょうか。

 私は、東北宮城の何も無かった地に、河北新報という新聞社を興した一力家の血を感じてなりません。一芸に秀でるには、血統という側面もあることは否めないところです。一力遼君の碁の魅力は、若いのに拘わらず見事なバランス感覚を備えたところにあります。しかし、一力家にはもう一方の血も流れています。そのバランス感覚が晩年には無くなるという悲劇です。

 日本中の囲碁フアンは、一力遼君から目が離せなくなりました。 

 

2015年2月25日            汚 染

 福島原発の汚染水が、また、海に流された、というので福島の漁協が、「またか!」と怒り狂っています。どんなに「呆れてモノも言えない」といってみても、汚染水の捨てどころがないのですから、やがては大ごとになり、日本は世界中から非難されるのは目に見えています。

 ところで、放射能汚染物質を垂れ流しているのは日本だけでしょうか? 調べてみると、驚くべきことが分かりました。海洋生物に蓄積されたセシウム137だけについていえば、世界で最も汚染されているのはイギリスの沿岸、それに、地中海です。次にロシアのバイカル湖。日本の太平洋沿岸の約15倍です。地中海の汚れの元凶はフランスとスペインです。ロシアの核物質に対する隔離は実に杜撰極まりないそうです。、スカンジナビア半島はスエーデンのオンカロの隔離に象徴されるように、安全のようです。そうなのです。放射能汚染は昨日より今日、今日より明日、と時々刻々進んでいるらしいのです。世界の民はそれを知らない、知らされないでいるだけなのです。

 更に、今後問題になるのは中国です。化石燃料から原子力発電にシフトすることを表明しました。この国が、放射能汚染に対して厳格に対応するとは、到底思えません。ということは、東シナ海が汚染されるのも、時間の問題でしょう。

 ところで、78年生きてきた私の身体も、様々な汚染を受けてきました。肝心要の私の脳はどうなっているだろうか? 23日に私の頭蓋内の脳みその写真を撮ってもらってきました。一年に一回、MRI検査を女子医大でやってもらうことを、約20年に亘って続けてきました。主治医の宇野先生と共に、頭蓋内の写真を見ながら 「今回も、問題はないわね」と言われ、汚染がないことを確認してほっとしているところです。脳が委縮し始めたり、血管にコブが出来たりしていたら、自分の歳を思って、行動に制限を加えねばならないところでした。

 しかし、汚染は妙なところにやってきました。大腸です。尾籠な話ですが、猛烈な下痢が一週間以上続いたのです。ノロウイルスにやられたか、と推量して、キッチンをアルコール消毒してみました。不思議なのはお腹は痛くもなく、熱もなく、吐き気もなく、食欲はあるのです。インターネットで調べてみて、今月初めに二週間処方された咳止めの抗生物質が犯人だ、と分かりました。腸内の善玉菌まで殺してしまったらしいのでした。近所のクリニックで診てもらうと、医者の見立てもそうでした。

 思ったことは、原発は抗生物質と同じだな、効果はあっても、有用なものを殺してしまう、ということです。

 

2015年2月19日           タイ国歌

 タイでは朝は8時、夕べは6時になると、公の場所では国歌が流れます。すると、座っている人は立ち上がり、歩いている人は歩みを止めて直立の姿勢をとります。毎日のことなので、人々はそれを極く当然のことのように、自然にやっています。こんな国ってタイ以外にあるでしょうか。

 しばしば聞くために、私も国歌のメロデイーを覚えてしまいました。楽譜は無いけれども、メロデイーに和音をつけてピアノでやって見ました。構成はAーA’ーB−A”で4分の4拍子であることが分かりました。ハ長調で始まり、イ短調の和音が入りト長調に転調し、ハ長調で終わります。途中いろいろな属和音の味付けをすると、実にいい伴奏に仕上がりました。

 日本の国歌「君が代」は短いけれども荘重で、聞いても歌ってもシミジミするのですが、何せ短調のみの構成ですから気が滅入ります。そこへゆくとタイ国歌は明るい。気宇壮大とまではいかなくても、「やるぞ!」という気持ちになってくる。

 イギリスの国歌は短いけれど、好きになれます。アメリカの国歌は長すぎです。セレモニーの度に、国歌が最初に流れますが、歌う人が勝手にアレンジして歌いますから、ナンダコリャ、と感じる時もあります。正直言って好きになれません。

 今回の旅でチェンマイに滞在中、タイの奥地に居住する少数民族「カレン族」の集落へ行きました。車で片道4時間はかかる二山も三山も超えた奥地です。Hさんの運転でSさんと私の3人で行きました。学校がありました。幼稚園から高校までおよそ100人が学んでいました。Hさんはその学校に校舎の一部を寄付した埼玉県の団体が贈呈式に来るため、関係者の一人として、その打ち合わせに来たのです。Hさんは日本人なのにチェンマイ滞在が長いので、見事なタイ語で話をします。Sさんはタイ語も少しは出来ますが流暢な英語です。私のみ拙い英語です。女性の校長先生や数人の男女の先生方は英語が出来ました。校内を見せてもらいました。音楽室はありますか、と問うとありません、という答えです。楽器はありますか、と問うとありません、という答えです。

 その時、ふと、ここにピアノがあって、私が伴奏して生徒たちに国歌を歌ってもらったどうなるか、また、ピアノ一台をこの学校へ寄贈し、それを全員に開放して、生徒1人ひとりが国歌を弾けるようになったらどうなるか、という、途轍もない考えが浮かびました。日本では中古ピアノは二束三文です。でも、ここではお宝です。ピアノなど見たことも、聞いたことも、弾いたこともない生徒が100人もいるのです。

 家の地下音楽室にはグランドピアノの他に、単身赴任中の小倉で120万円で買った、ローランド社製のグランド型ピアノもあります。または、中古のアプライトピアノを買ってももいいでしょう。10万もしない筈です。問題は送り方と関税です。準備だけで半年以上はかかるでしょう。

 「よーし、やってやろうじゃないか」、と秘かに心の中で決めました。

 タイの少数民族「カレン族」の子どもたちが奏でる「タイ国歌」を、私は天国で子守歌として聴く積りでいます。 

 

2015年2月18日            ラオス見聞録

 ラオスの首都はビエンチャンです。タイのチエンマイからそこへ行くにはバンコックまで下がって、そこで乗り換えて入るコースと、チェンマイからバスでチェンライを経由してメコン河を渡って入国し、船をチヤーターして、メコン河を下り、ルアンパバーンからプロペラ機でビエンチャンに入っていくコースの二通りあります。チェンマイのラオス航空へチケットを求めに行きました。何と、チェンマイ ー ルアンパバーン間の直行便があって、3月まで、チケットのプロモーション販売をしていたではありませんか。片道6500バーツ(約19000円)のところ往復でこの料金でいい、というのです。ビエンチャンは次の機会にしよう、と諦め、今回は、世界遺産の街ルアンパバーンのみ、となってしまいました。

 最後に残っていたラオスに足を踏み入れたことにより、インドシナ半島の全部の国へ行くことが出来ました。イヤというほど知らされたことは、日本が格の違う文化国家であることです。でも、日本には晴れ晴れとした笑顔がありません。最貧国はミヤンマーであり、次にラオスでしょうか。最も美しい笑顔は、そのミヤンマーやラオスにありました。次にベトナムやカンボジアです。そして、タイやマレーシアが続きます。シンガポールや中国や韓国は、昔は良かったが今はダメです。物質文明の進化は、人間から最も純真な笑顔を奪うものだ、という事実を実感しています。

 このラオス見聞録は紙面の都合で、お終いの部分から掲載し始め、遡って「動画5点」で締めくくりました。順序の乱れについては、どうか、お許し下さい。

 次回は5月ごろ、再びミヤンマーかな、と思っています。激戦の地マンダレーへはチェンマイから直行便が出ています。ブータンまでの直行便があれば、そこも候補です。最も行きたいのは中東のイスラム圏ですが、只今の情勢ではすこぶる危険です。夢は、まだまだ膨らみ続けます。 

                    動 画 5 点

  三時間余かかって着いた河沿いの洞窟です。数千体の小さな仏像が所狭しと並んでいました。東京目黒の五百羅漢を思わせました。

              山岳民族

メコン河沿い谷合に、この人たちは住んでいました。昔ながらの機織道具で複雑な文様の布を織りあげていました。いくらですか?と聞きたかったのですが、買う気もないのに、それは失礼かと、ただ、眺めるだけにしました。                        

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 コブラ酒、サソリ酒、ムカデ酒、ゲジゲジ酒、毒蛇酒… 米を原料にしたご当地ウイスキーです。何も入っていない一瓶を買いました。アルコール度数は50度でした。火を点ければ燃えるでしょう。船に戻って一口、二口、そして三口… 下船の時は、既に、出来上がっていました。

 

                                        世界遺産の街

 メコン河沿いの僅かな平地に、オンボロの空港を持つルアンパバーンは、世界遺産に登録されている街だそうで、これは驚きです。そのためか、どこへ行っても特に白人の老夫婦が目立ちます。短パンに半袖、素足にビーチサンダルの男性、タンクトップでホットパンツの年配女性、これが彼らのパターンです。プロペラ機の中でも同じ格好です。夏の背広を羽織っているのは、この街では私一人。日本人に逢うことはほとんどありませんでした。ツクツクに乗って見て回れば、30分足らずで一周してしまうこの街。でも、また来て、長期滞在してもいいかな、と思わせる優しい街です。

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 お寺はあちこちにありました。朝5時半に起きて、オレンジ色の僧服をまとい、街の人から朝食の喜捨を受ける行列を見にいきました。小父さんや小母さんが道路に敷物をひいて正座しています。暗がりの中をオレンジの列が通ります。その数15人あまり。ほとんどが少年です。人々は彼らが持つ鉢の中に、素早く一握りのご飯を入れます。僧たちは鉢に何が入ったか、一顧だにせず行列に続きます。全くの無言です。のべ4,5回。喜捨を終えた小父さんや小母さんは、晴れ晴れとした顔で、空になったザルを持って、バイクや自転車で帰っていきます。

 なるほど、これは世界遺産だと思いました。

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  ホテルの前が国立ラオス博物館でした。行って見ました。呆れました。見るべきものは何もないのです。大きな仏像はありません。美術的価値などほとんど考えられない30センチ足らずの、いわゆる持仏的なものばかりです。同じような仏像は、メコンを遡って行ってみた天然洞窟にもありました。かつて栄えたラオス王朝の王様の居室の模型、各国から受けた貢物などなど、麗々しく飾ってありました。日本からの貢物コーナーもあり、九谷焼き、有賀焼きなどの壺が並べられていました。ラオスは元々山岳地帯がほとんどで、首都ビエンチャン以外に平野がありません。文化が栄え、仏像、仏画があったとしても、周辺各国に略奪されてしまったのでしょう。 

 

                                    メコン河

 遠く中国の雲南省の奥から流れてきたメコン河は、タイと国境を接しながら、大陸を縦断しベトナムへ流れ込み、ホーチミン市の近くで雄大な三角州を造りながら、東シナ海に注ぎます。最初にメコン河を見たのは、2年前の6月、タイ、ミャンマー、ラオスの三国が国境を接する魔の三角地帯ででした。

 一般に大陸を流れるどの河川も、ご覧のような泥水です。チェンマイを貫流するピン川もそうです。それに反し、わが日本を流れる河川は清流です。美しい水です。日本は何と水に恵まれた国なんだろう、と改めて思います。

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 メコンの流れが速いため、舟は細長く、蛇行しながら遡上します。浸食されたせいか、河の流れの中に時には石の山が出現します。今は乾季ですから、水量は少ないものの、雨季になると、2メートルほど水面が上がり、水流は激しさを増すようです。

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 メコンを遡ること2時間、そこに山岳民族の集落があり、一旦、陸に上がりました。そこからまた遡ること1時間、目指す洞窟がありました。

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  ルアンパバーンに戻ったときは、すでに夕日も陰り始めていました。            

 

                 つつましやかな朝市

 ホテルの横の小さな通りが朝市でした。約250メートルに亘って露店が並びます。暗いうちから集まってきて、約2メートル四方足らずの店を開きます。僅かばかりの売り物を並べ、横座りになり、夜明けを待ちます。男性はほとんどいません。鶏肉、豚肉、メコン河から上がる川魚、あらゆる野菜、衣料日用品、調味料などなど。ここへ来れば何でも揃います。

 薬草売り場があったので、小母さんに向かって喉を指差し、ゴホン、ゴホンと咳をすると甘草片と中国語で書かれている小さな入れ物から、その一粒を呑めと仕草されました。いくら? ラオス語で聴くと答えが返ってきましたが分かりません。指5本が出されました。手を使ってダウン、ダウンとやりましたが、小母さんは首を振るばかり。ま、いいか、と50000キーツで買いました。約500円です。インターネットで調べてみると甘草は肺炎に効くようでした。別のところで、ヒゲずらのお爺さんにゴホンゴホンとやると、木片の入った小さな包みを勧められました。煎じて飲め、の仕草です。10000キーツ約100円だったので、2包み買いました。実はまだ、これらの薬を試してはいません。何だか怖いからです。

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 春菊のようなもの、香菜、フェンネル、エシャーレット、どれも20円から50円

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 メコン河から上がった鯉とナマズ

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  鶏の手羽先や足、どこから来たのかわからないタコ

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 マフラーを、一本250円に値切って10本買いました

 

2015年2月12日         福島県富岡の惨状

 昨年12月17日に、福島県の浜通り6号線が全線開通したので、それを見に行った話は、エッセイ(15) 「余りにも無残」 に書いた通りです。その時撮った写真を入れ忘れていたので、ここに改めて掲載させていただきます。常磐高速を広野インターで降り、人影が絶えた廃墟を見ながら富岡に着きました。この写真にある駅前旅館「大東館」が中野区上高田国民学校の集団疎開宿舎でした。私は国民学校一年生でした。毎朝6時に発車していた、富岡発上野行きの蒸気機関車に牽引された列車はもうありません。駅舎はご覧のとおりの荒れ放題です。津波と、放射能にやられてしまったこの地は、もはや、永久に廃墟のままになるのでしょうか。

 富岡の先は、夜ノ森、大野、双葉、そして浪江です。足を延ばしましたが、6号線から富岡のように脇道へ入ることは出来ませんでした。脇道にある検問所で粘ってみましたがダメでした。

 次は、許可を取って大野まで行って見る積りです。

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