最近のエッセイ(69)

2021年7月25日        車の渋滞

 家の近くを走る目白通りは、今日は関越高速から降りてくる車で大渋滞です。ということは、関越高速も花園から東松山にかけて2,30キロの区間がのろのろ運転でありましょう。渋滞が起きる場所は不思議なことにいつも決まっています。中央高速では小仏トンネルの入り口付近。ほかの高速道路でもダラダラの上り坂付近がそうです。そういう場所には決まって標識が出ています。「速度注意」。

 渋滞に巻き込まれ、脂汗を流したことがあります。会津若松から、磐越高速、東北自動車道、外環道路を使って練馬まで帰宅する時です。やっとの思いで浦和から外環に入ったのはいいけれど、そこも大渋滞でした。その上、数時間我慢していたトイレが我慢の極限に達しています。客人を後ろに乗せているため、無作法なことはできません。脂汗を流しながら、すきを見て外環道路から一般道路に降り、スタンドを見つけて駆け込みました。天にも昇る心地がしました。爾来、簡易トイレをダッシュボードに入れていますが、いまだ、未使用のままです。

 つまらないことを書きましたが、この「最近のエッセイ69」も許容量が一杯となり、渋滞が発生中です。「最近のエッセイ70」を新設するのですが、いつもお願いしている担当の松坂さんは今日までお休みです。自分でやってできない訳ではないのですが約30分以上かかります。所々で渋滞するからです。さて、どうなるか?
 

2021年7月24日        開会式

 夜、8時から始まったオリンピック開会式は、4時間後の12時を回ってから聖火台が輝きました。巧みな映像処理によってか、無観客を感じさせない演出でしたが、しかし、4時間は余りにも長すぎでした。原因は選手たちの勝手気ままな入場行進でありました。行進というよりダラダラ入場でありました。約200カ国の選手たちの衣装はそれぞれ民族的、かつ、独創的であったので、それだけは見飽きることは無かったものの、4時間もの間立ち続けるのは「酷」そのものであったでしょう。その上、バッハ会長の演説は長く、これといった眼をそばだたせる演出もなく、テレビ向けの映像処理に終始しました。ハイライトの聖火台点火では、最終走者がハイチ人との混血の大阪なおみであったのはまあまあでしたが、途中走者に歩行もままならぬ長嶋が王選手と松井選手に労わられながら出てきたのは、興ざめでした。

 なぜか、づっと画面を見ていたのに、中国、ロシア、韓国、北朝鮮の選手入場を見落としました。それとも何かあったのでしょうか? ともあれ、世界約200カ国の選手がそれぞれ工夫を凝らした色鮮やかな衣装をを纏い、全員に装着が義務つけられているマスクにも工夫を凝らし、マスク越しながら、喜びに溢れた笑顔で入場してくる選手たちの姿は、圧巻そのもでした。関係者の皆様のご苦労は如何ばかりでありましたでしょう。心から感謝申し上げます。

 *最近のエッセイ69は、スペース的に満杯になり、次の項目を設定したいのですが

 生憎連休中のため、担当者がお休みです。しばらくご容赦下さい

2021年7月23日         ノクターン

 ピアノの詩人ショパンの作品の中で、最も技巧的に難しい曲集の筆頭は作品10と作品25の練習曲集でありましょう。難曲中の難曲であるにも関わらず、詩情に溢れていて、繰り返し聴いても飽きることがありません。若い時に私も挑戦しましたが、有名な「別れの曲」他一曲だけしか弾くことが叶いませんでした。その代わり、古今東西のピアニストが弾いたこの曲集を集め、その速さをストッポッチで一曲ずつ測り、その芸術性を云々しながら、一人悦に入っていました。集めたCDは約40枚。つまり40人のピアニストの優劣をこの練習曲集によって、自分なりに決めさせてもらっていたのでした。残念だったのは世界の40人の優れたピアニストの中に入る奏者は一人もいなかったことです。どうして、日本人の演奏は、例えば仲道育代や小林愛実のような甘ったるい演奏をするのでしょうか?

 2月ごろから、中学生時代から親しくさせてもらっている友人の感化で、この5か月余り、10日ごとにレッスンに通い、毎日一時間はピアノに向っています。今月の11日には練馬文化会館で行われたピアノ教室の連合発表会に出て、先生が高音部私が低音部で「スラブ舞曲72−2」を演奏しました。今日も3時からレッスンがあり、持っていくのはシューベルトの前奏曲集1番とシューマンの「子供の情景」です。昔はスラスラだったのに、今はゴツゴツなので我ながらイヤになっているのですが、やがては友人との共演が待っているので疎かにはできません。加えて今度はショパンのノクターンをやろう、という気持ちが出てきました。寝ながらノクターンの曲集を聴いていると、今更ながらショパンの豊かな詩情性に新たな思いをしてしまいました。と同時に、ショパンの最高傑作は練習曲集(10・25)の25曲だとしても、ワルツや、マズルカ、前奏曲集よりもノクターンの方が芸術性に溢れている、と思うようになりました。しかし、どれもこれも難曲です。でも、挑戦していきます。
 

2021年7月22日         墓 参 

 関越高速道入り口に続く、目白通りは、いま、大渋滞です。故郷の仏さんたちは首を長くして待ち焦がれていることでしょう。長野市の長野高校下の康楽寺の中沢家と出水家の墓には、毎年の7月の第二土曜日、時期は早いけど「北七会」の開催に合わせて墓参し、墓を洗い花を手向けてきました。去年と今年、コロナのため「北七会」は中止となったお陰で、大事な墓参も出来ず仕舞いになっています。

 墓参といえば、死ぬ前にどうしても行きたい、行かねばなるまいお墓があります。広島県三原から瀬戸内海連絡船にのり、最初に寄港する生口島、瀬戸田の広徳寺にある、元朝日新聞社常務取締役業務局長「永井大三」さんのお墓です。小倉の西部本社に赴任していた時に訪れたのが最初。朝日旅行会の30人の団体で訪れたのが二度目。今度が三度目です。永井さんの奥様のいね子さんの兄の俊三さんは信越化学の重役さんでしたが、その奥様が長野の清水さんの姉であるキヨさんであったため学生時代から都立大学の永井家、学芸大学の石塚家へ出入りさせてもらっていました。永井さんの一粒種慶応ボーイだった謙さんとは度々山行も一緒だったし、石塚家ではピアノを弾かせてもらっていました。このご縁がなかったら私ごときが朝日へ入れていたかどうかは疑問です。450人の入社試験が早稲田の校舎で行われ、早朝、永井宅に呼ばれて「お前の試験結果は32番、まあまあだが、面接試験の時、俺がこういう質問をするからこう答えろ、と教えられ、迎えの社旗を翻した車で日比谷まで乗せてもらいました。礼儀を弁えなかった私が車に乗る際、永井さんの横の後部座席に座ろうとすると、いね子奥様が小声で「前に乗りなさい」とたしなめてくださいました。生口島の永井家のお墓には、恐らくガンを患っていた息子の謙さんも入っているはずです。思えば謙さんには随分お金をお渡ししてきました。いね子奥様の宝石類が四谷の質屋に入っていて、「流れそうだから、ナカザワ、何とかしてくれ」と呼び出されたこともありました。

 ついでのことながら、永井大三さんに「氏」を付けて発音すると「ナガイダイゾウシ・長い大増紙」、となります。入社時の朝日の部数は350万でしたが永井さんのおかげもあって、830万部まで躍進しました。紙媒体の凋落ぶりは目に余るものがありますが、永井さんの御墓に詣で、一緒に嘆き、再び新聞が勢いを取り戻す日を、共に祈り、願って来たい思いでいます。
 

2021年7月21日      大雨の不連続線

 ようやく、梅雨空が晴れたと思ったら、今度は酷暑のご入来です。この暑さは、世界各地から、はるばる日本にやって来た各国の選手にとって、予想外であったでしょう。天に向かって一言云ってやりたい気持ちです。

 天気図で見る限り、大雨と災害をもたらした低気圧の不連続線は、この一か月余り、中国大陸に発し、沖縄列島を通り、日本列島を縦断していました。従って中国各地での大雨の被害も想像以上でした。ユーチューブにはその被害の模様が連日掲載され、同じ人間として、中国の人々も大変だなあ、と同情を禁じえませんでした。揚子江、黄河の流域の重慶、武漢は言うに及ばず、北京までもが被害に晒されている写真が載りましたが、その規模は想像を絶しました。北京市内の地下鉄が冠水したその上に、一般道路の乗用車も濁流にのまれ、市内いたるところで立ち往生していました。中国全土のほとんどが冠水しましたから、農産物への被害は想像を絶するはずです。中国共産党は自国が不利になるすべての情報を隠蔽していますが、やがては、その悲惨さが表立ってくるでしょう。

 唯一、不思議なのは、崩壊寸前と日夜云われ続けた三峡ダムが、いまだ持ちこたえていることです。これだけは中国の唯一の救いであったでしょう。

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           北京市に降り続いた雨は、市内の道路から

      地下に流れこみ 市内すべての地下鉄が

      使い物ならなくなった 道路の冠水は高層

      マンションの電気系統を麻痺させたので

      そこの住民は エレベータが使えず 飲み水も

      ままならず地獄の生活を余儀なくされている

2021年7月20日         失礼千万 

 選手村には世界各国の選手団及び関係者が、続々と入村していますが、中でも異常なのは韓国選手団です。自国の食材を持参し、自国の調理人に調理させ選手に供するというのです。その費用約1億円。理由は日本の食材には福島産も含まれていて汚染されているから食べない、というのです。「人の家に招かれたのに、その家の食べ物は汚いから食べない、持参したものを食べる」 とは何とも失礼な話ではありませんか!どうして、韓国という国は、朝鮮民族は、日本を見下す態度をとり続けるのでしょうか。このニュースは、まだ、関係者だけの間にしか広まっていませんが、拡散するにつれ、日本国民は怒りに震え、「帰れ、帰れ」コールが巻き起こること必定でしょう。

 なぜ、こういう外交的に失礼な振る舞いを韓国政府が公然と認めて恥じないのか? それは文在寅総理の執拗なまでの反日運動、日本製品不買運動の延長として日本開催オリンピックを捉えているからでありましょう。北朝鮮の地が故郷である彼は北との統一を夢見て、あらゆる手を打ってきましたが、国内では経済が停滞し、失業者は溢れ、手持ちのドルは枯渇し、その上、土地開発での汚職まで発覚しました。慰安婦問題では勝手に財団を解散させ、徴用工問題では相反する判決がでてしまい、右往左往していまだ結論が出せない始末。おまけに、当てにしていた北朝鮮からも、ソッポを向かれたままです。しかも任期はあと半年と少し。再選はありません。あまつさえ日本国内には嫌韓ムードが異常に高まっています。一昔前、日本の女性たちは韓国のドラマやポップスに熱狂しました。すっかり冷えてしまった現況を作り出したのは文在寅の政治姿勢にありました。

 永遠のお隣同士、韓国とは仲良くありたいものです。その手始めは、選手村持ち込んでいる自国の食材や調理人を撤収させ、世界の国々の選手がそうしているように、吟味された日本の料理を食べることです。噂によれば、選手村には特上の日本らしい食材が、最高の調理人たちによって選手に供されているそうです。日本の日本らしい「おもてなし」を、敢えて無視する韓国の皆さん。それがどんなに失礼なことなのか、早く分かって下さい。

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                   豊洲のオリンピック村

 

2021年7月19日        西表(いりおもて)

 

 日曜日のテレビで西表島の特異な生物の生態について、新たに知ることが出来ました。沖縄本島のいわゆる「やんばる」にも珍しい動植物が見られますが、戦火を免れた西表島はその宝庫でありましょう。その時は石垣島まで小型機で、石垣港からは連絡船で小浜島に渡り、ヤマハのリゾートに逗留しました。そして、上陸用舟艇で西表島へ渡り、そこでも一泊しました。海の色、あくまでも青く、蒼く、海底のサンゴが透けて見え、魚を手掴みできそうでした。着いた日は波照間の森を見に、チャーター船でかなりの水量のある川を遡りました。行く手には三つの山が連なっています。古見岳などいずれも400メートル級の高さしかありませんが、河口から見ると高山に見えるから不思議です。休憩したマンぐロープの林の中でヤシガニを見つけました。全身が薄紫色のかなり大きなカニでした。捉えて宿へ持って帰りましたが、寄生虫が怖いので差し上げました。

 翌日はタクシーをお願いして、島の裏側の白浜へ行きました。海岸線をかなり走ったところに遠浅の白砂と蒼い海が広がる、人一人いない、人工物が何もない、まるで天国はこのようなところかも、と思わせる空間に着きました。亡妻と二人、ただただ息をのんで座り続けていました。この旅でも、やんばるクイナや西表ヤマネコを見ることが叶いませんでしたが、その代わり、小浜島の入江の一角で物凄いものを見ました。およそ、数千羽はいるだろうという蝶の乱舞です。きっと交尾期だったのでしょう。日本の最南端、西表島は琉球列島の自然が手つかずに残っている珠玉のような島です。もう一度訪れたい、第一位のところです。

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                   イリオモテヤマネコ

 

2021年7月18日         半 目

 

 今年24歳になった囲碁棋士一力遼君は、宮城県のブロック紙河北新報の社長の息子です。私より2年早く朝日新聞社販売局に入っていた一力英夫さんの甥っ子でもあります。早くから囲碁の才能に目覚め、麹町のマンションに母親と共に住み、院生として市ヶ谷の日本棋院に通っていました。一方、早稲田の社会学部にも在籍し、卒業後は河北新報社の記者ともなりました。

 同僚でもあり、先輩でもあった一力さんにもその片鱗が伺えましたが、一力家の血筋には何か得体のしれないものがあるようです。一力遼君は入段を果たすや、めきめきと頭角を表し、今まで数々のタイトルを独占していた井山裕太とタイトルを争うまでになりました。NHK杯でも優勝しました。竜聖位にもなりました。勢いに乗って碁聖戦でも優勝しました。碁聖戦の棋譜は地方紙・ブロック紙(河北新報を含む)の囲碁欄を飾る棋戦です。ちなみに、読売は棋聖戦(優勝賞金4500万円)、朝日は名人戦(3500万円)、毎日が本因坊戦(2500万円)です。 毎日曜日に昼に対戦画面が出るNHK杯は、昨年一力君が選手権者になりましたが賞金額は500万円。名古屋の中日新聞も独自の棋戦を新聞掲載していますが、優勝賞金は、なんと、たったの170万円。

 さて、一昨年、碁聖位を七冠王の井山裕太からもぎ取った一力遼君は今度は挑戦受ける立場となりました。五番勝負の一回戦は井山の勝。二回戦は、何と仙台で行われました。ところは仙台市郊外の秋保温泉。そして最高の旅館「佐勘」がその対局場。宮城県の囲碁ファンの熱狂すさまじく、この両者の熱戦を固唾をのんで見守りました。結果は何と、遼君の半目勝ち。喜んだのは一力家と河北新報、そして宮城県の人々、、、、次なる戦いは読売の棋聖戦です。棋聖位は井山です。いまのところ、挑戦者決定リーグ戦では遼君が7戦全勝でトップを走っています。

 囲碁に限らずゲームの世界において、最高に能力を発揮するのは若いうちに限る、それも、10代後半から20前半ぐらいまで、のようです。厳しいものです。

 

    ぼくはヒーローになれなかった

    大きなため息が 拍手に変わる

    鳴りわたるサイレンに ふと気が付いて

    悔し涙が 頬にこぼれた

    あいつは 大きく見えていた

    強い心を持っていた

    夢のかけらの砂を集めて

    ぼくらの夏は 去っていった

    ああ、甲子園 さらば甲子園

              ー阿久悠ー

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2021年7月17日     ジャパン・アズ・ナンバーワン

 早々と来日していたアフリカ・ルワンダのオリンピック選手の一人が、コロナ感染を理由に、付き人と共にルワンダへ帰されることになりました。ところが、本人は「ルワンダへは帰りたくない、日本に住みたい」と、与えられていた宿舎を出て、いま、行方不明のようです。アフリカ・ビクトリア湖の上側に位置するルワンダは戦乱に次ぐ戦乱で、荒れに荒れています。彼にとっては日本は天国同然でありましょう。

 22日のオリンピック開幕を五日後に控え、空の入り口は世界各国からの選手や関係者の入国で、ごった返しています。関係者のご苦労は如何ばかりでありましょうか。肌の色が極端に違う、逃亡したルワンダの不心得者はいずれ捉えられ強制送還されるでしょうが、こういう事例が再び起きない保証は全くありません。加えて、インド株より更に強烈な感染力を持つ「デルタ株」が新たな脅威となっています。首都圏はじめ関西圏でも緊急事態宣言が発令されました。しかし、その効果は見られず、感染者は増大の一途をたどっています。オリンピック開催のため、人の往来が激しくなっている以上、これは仕方がありません。開催の準備のために汗水たらしている関係者の皆様には、全く頭が下がる思いです。

 いま、世論調査をしても7割の国民がオリンピック開催に反対でしょう。でも、私は早くから、どんな無理をしてでも、観客は無くてもいいから開催すべし、とこのブログでも述べてきました。理由は、「わが日本国にはその底力はある」との思いからです。「犠牲は払っても、世界との約束事は守らねばなるまい」と思うからです。

 私たちの年代は戦時中、アメリカによる東京大空襲や、広島、長崎での原爆投下によって完膚なきまでに、打ちのめされたその目撃者であり、被害者そのものでありました。にもかかわらず短期間のうちに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるまでにのし上がって、世界から驚嘆されたではありませんか!

 言うだけ云って、何もしないで、オリンピックを高見の見物しているのも何ですから、ボランティアを申し出て、少しでも協力しよう、と思っています。

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    ―カーン  と高い打球音がして そのたびに

    僕たちは顔を上げる

    ー惜しかったね   ーうん

    ー今のはレフトのファインプレイーだ

    高校野球の夏の大会 地方予選の2回戦

    見る人は少なく ここは外野席の芝生の上

    空は眩しいくらいの 梅雨上がりの青さ

2021年7月16日       渋谷の変貌

 昨年の10月、宮沢恭人君の墓参り以来、渋谷には足を踏み入れていませんが、昨日、渋谷駅周辺の航空写真を雑誌で見て仰天しました。何と高層ビルが乱立しているのです。そうでなくても、湾岸線と東急電鉄が相互乗り入れを始めて以来、渋谷駅周辺の地下は迷路のように変貌し、昔のハチ公広場など影が薄くなっていました。一昔前、新宿西口の淀橋浄水場あとに高層ビルが林立しました。池袋にも巨大なサンシャインビルが出現しました。何もなかった大崎にも、京王線沿線の調布から先の多摩プラーザ周辺も、更に隅田川河口付近の湾岸も、東急電鉄武蔵小杉駅周辺もタワーマンションが林立しています。何故、人々は高層ビルを建て、いわゆるタワーマンションに住みたがるのでしょうか?高所恐怖症になってしまっている私にとって、全く理解不能です。九州小倉へ単身赴任した時、会社に近いという理由で7階のマンションに住んだことがありました。ベットは部屋の真ん中に置き、なるべく外を見ないようにしました。高校生の時、清水さんのお供で長野県の山のほとんどに登りましたが、3000メートルを超える剣山の頂上でも、戸隠連山の「蟻の戸渡り」と言われる難所でも「怖い」と思ったことは一切ありませんでした。

 顧みて、私の高所恐怖症は、アメリカのセントルイス市のシンボル、巨大アーチに登らされた時に始まったようです。トロッコで頂上近くまで登ると、下りのトロッコまで歩かされます。その間50メートルほど。下が透けて見えるガラスの歩道を歩くのですが、さながら空中散歩です。足がすくんで前へ出ません。既に股間はちじみ上がっています。怖かったの何の。これに懲りず、5年前にスイスへ行ったとき、シャモニーで頂上展望台へ行くロープウエイに乗りました。この世のものと思われない景観を前にしながら、足がすくんで歩けなくなりました。爾来、ドバイの世界第二の塔も今は世界一の台湾の101タワーも敬遠してきました。不思議なのは、タワーマンションに住む友人を訪ねても恐怖に駆られることです。高所恐怖症は老化現象の一種なのでしょう。この分ではいずれ、自宅二階へ上るにも怖くなるかもしれません。

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  セントルイスの恐怖のアーチ
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2021年7月15日       会報が届いた

 毎年7月の第二土曜日に、長野市犀北館で開かれていた「北七会」は今年も中止となり、恒例の会報だけは発行され、三日前に届きました。ほとんどの会員が近況を述べつつ「北七会」の終焉を惜しみながらも、納得し、関係者に対する感謝の念を述べていました。どうしたことか、私が若麻績会長に宛てた私信まで掲載されていました。趣旨は、煩瑣な事務処理、会報の発行などはなくしても、毎年、7月の第二土曜日に長野市犀北館に集まり「ダベリング」する会、仮称「北七長寿会」にアウフヘーベンしてほしい、というものです。しかし、それに対する幹事会の答えは少なくとも会報には掲載されていませんでした。

 思えば、会長の若麻績侑孝君とは柳町中学時代、三年間机を並べた仲です。彼の父君「善光寺淵の坊」の住職さんは、PTAの会長でした。幸いなことに在籍した三年間、クラス替えもなく、熱血漢そのものの白鳥英人先生に受け持っていただきました。若麻績君も私同背が高く、いつも教室の後ろの席でした。昼時になると弁当を開きます。私のは麦飯の上に茹でイカと野菜の天ぷらが押し込まれているだけの粗末な弁当。彼の弁当は白米の上に卵焼きや、とんかつがのっている豪華弁当。

 当時、校内ではバレーボールが盛んで白鳥先生が顧問。長野市内中学バレーボール大会に出場が決まりました。私が前衛センター、若麻績君がレフト、大塚君が中衛センター、池田勗君がレフト。堂々と優勝を果たしたのは言うまでもありません。三年間、共に過ごしたお陰で中学の同級会は今でも秋に開かれています。会長は言うまでもなく若麻績君。同級生には染色作家で、日展の審査員を務めた千葉紘子さんがいます。彼女の後援会長は元長野市長。作品は今でも引っ張りだこのようです。惜しくも昨年他界しました。

 二年ほど前、善光寺平の千曲川が氾濫し、新幹線基地が水浸しになる災害がありました。その三日ほど前、小布施の温泉で開かれた中学同級会「若草会」で若麻績君に逢った時は、若干、足を引きずり気味で、その上、奥様をパーキンソンで亡くされた後でした。ただ、彼の孫娘さんが宝塚でズカガールとして活躍中とのこと。

 今にして思うと、高校時代の「北七会」も中学時代の「若草会」も、もし、若麻績君がいなかったら、ここまで存続しえたかどうか。誰に対しても分け隔てなく、温厚にして笑顔で接してきている若麻績侑孝君。私はやっと気が付きました。彼こそ善光寺の仏の化身そのものであることを。

 

       女の先生「牛には四つあって 先生には

          二つしかないものはなんでしょう」

   幼稚園児 「オッパイ!」

   女の先生 「残念でした 足でした」

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2021年7月14日        パリ祭

 今日は、昔でいう「パリ祭」です。シャンソンが流行っていた頃、銀座は「パリ祭」一色に染まっていました。シャンソン酒場があちこちにあり、イブ・モンタンやコラボケールの歌声が流れていました。私も、つられて「桜の実の熟する頃」、「初めての日のように」、イブモンタン「兵士が戦場へ行くとき」などを拙いフランス語で歌っていました。それが、どうでしょう、テレビでもラジオでも、全くと言っていいほど聴かなくなりました。

 銀座で唯一残っているシャンソンバーは今もあるはずです。コリドー街の二階の「蛙たち」です。当初は泰明小学校近くの地下にありました。土岐雄一郎というピアノの名手がいてシャンソン志望の若い女性の伴奏を務めていました。カウンターがあって、俳優の森雅之が一人静かにグラスを傾けていました。一時期、仕事が終わると、私もその地下室へ足繁く通いました。伴奏技術を習うためでした。イブ・モンタンが歌う「兵士が戦場へ行くとき」の伴奏は、私が暗譜で弾けるレパートリーの一つですが、土岐さんに習った通りの弾き方を踏襲しています。もう一曲は、「屋根の上のバイオリン弾き」で森繁が歌った「サンライズ・サンセット」です。一方、予備校生の時、自殺を考えながら、ふと入った銀座の映画館で勇気をもらったシャンソンがあります。コラボケールが歌う「モンマルトルの丘」でした。この曲の伴奏のピアノ部分の音の配列が良くて良くて、今でもこの曲を聴くと身震いしてしまいます。

 数日後、早稲田大学の合格通知が舞い込み人生が一変しました。私をして「何をやっても生きていけるのだ」と勇気を与えてくれたのはシャンソンだったのです。今日はそのパリ祭。ワインを開け、チーズを齧りながら来し方に思いを馳せ、パリ祭にあやかります。

       Quand un soldat

     (兵士が戦場へ行くとき)           
  Fleur au fusil tambour battant il va 
  Il a vingt ans un cœur d'amant qui bat
  Un adjudant pour surveiller ses pas
  Et son barda contre ses flancs qui bat
  Quand un soldat s'en va-t-en guerre il a
   Dans sa musette son bâton d'maréchal 
  Quand un soldat revient de guerre il a
  Dans sa musette un peu de linge sale
         

      ーこれはイブモンタンが歌った反戦歌ですー  

 

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2021年7月13日        大谷翔平クン

 いま、アメリカで絶大な人気を誇る大谷翔平は、何ともさわやかな野球選手です。生まれは岩手県水沢。父親は黒沢尻工業から三菱重工横浜でプレーした社会人野球選手。現在は監督をしています。母親は元バトミントン選手でインターハイで活躍しました。7歳上の兄龍太も社会人野球のトヨタに所属しています。すなわち、大谷翔平はスポーツ一家が生み育てた奇跡なのでありましょう。水沢はいま奥州市となっていますが近くには平泉金色堂があります。翔平の翔は飛ばすを意味し、平は平泉からとったといわれています。

 岩手県は一関から始まり平泉、水沢、前沢、花巻、盛岡と続きます。一方、リアス式海岸沿いに陸前高田、大船度、釜石、宮古と続きますが、10年前の地震・津波で大被害を受けました。被害を受けた大勢の岩手の人々は、アメリカでの大谷翔平君の活躍をわがことのように思い、喜んでいるのではないでしょうか。

 思えば、岩手県というのは東北6県の中では、とびぬけて面白い県です。多くの偉人を排出しています。武士道の新渡戸稲造、金田一京助、政治家の米内光政、原敬、鈴木善幸、(小沢一郎も水沢の出身です)、石川啄木、宮沢賢治、、、、、、岩手県が産んだ偉人たちを知るには、盛岡市にある「先人記念館」行けば詳らかです。何と130人余の業績が語られています。恐らく、将来、大谷翔平君もスポーツの偉人として、先人記念館いりをして、末代まで語り伝えられるでしょう。今日は大リーグでのホームラン競争。果たしてどんな結果が飛び出すか? 岩手県人である以上、どデカイことをしてくれるでしよう。                  

 

       生産工場内に 紙が張りだされた

      「オレがやらなきゃ 誰がやる!」

       翌日 誰がのがの濁点が削りとられていた

      「オレがやらなきゃ 誰かやる!」

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2021年7月12日        タリホー

 宮尾明君は長野高校二年から三年までの同級生でした。水泳部に所属していましたが卒業後、自衛隊の航空部に入ります。 戦闘機乘りになったのです。退役後全日空に入り、旅客機727の機長になります。パイロット組合の組合長まで努めています。機長にも定期的に試験があります。全日空ビルの一室に模擬操縦席があり、定期的にそれを受けるのが義務になっているようでした。私の三男が小学生だったころ宮尾君に無理を言って、その試験の模様を見学させてもらったことがあります。残念ながら三男にはその力がありませんでしたが、彼は宮尾君を神様のように思ったようです。

 その後、彼は六本木の「竹原はん」さんの瀟洒なご自宅「ハン居」の隣のビル4階にサロンを開きます。自衛官やパイロットや関係者で大賑わいの憩いの場になりました。長野高校同窓生も、何かというとそこを格好の「たまり場」にさせて貰ってきました。そのサロンの名前は「タリホー」。戦闘機乘り同士がお互いの無事を確認する挨拶は親指を挙げて相互に見せ合う、その動作を「タリホー」というのだそうです。

 宮尾君はゴルフも飛びぬけて上手く、飛距離も300ヤード近くの飛ばし屋でした。運動神経が抜群だったのでしょう。ところが、ある時から彼はゴルフはおろか、人前にその姿を現さなくなります。われわれ仲間は心配に心配を重ねましたが、やがてその原因が明らかになりました。普通、我々は一日に一、二回トイレへ行ってウンチを排出します。肛門筋の活躍によってそれが可能なのです。その肛門筋が作用しなくなるとどうなるか? いつも臭い人間になります。彼はそれになってしまったのです。航空自衛隊のF35の戦闘機乘りとして、全日空の機長として操縦席で踏ん張って来た職業のお陰でありましょう。いつの間にか六本木の「タリホー」は無くなり、と同時にゴルフ会も消滅し、彼の消息も不明となりました。

          慈善団体から寄付金があると

     教会のその牧師は 次の祈りを捧げる

     「神さま お金をいただきました いつものよう   

      神さまに向ってお金を投げますので

      どうか 必要な分だけ存分にお取りください

      落ちてきたお金は 私への恵みとして

      生活のため使わせていただきます」

      牧師は 空に向ってお金を投げた

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2021年7月11日        飛行機(2)

 当時、東南アジアの各都市へ行くのは、ジエットでなくプロペラ機がほとんどでした。タイの第二のチェンマイ空港からミャンマーのヤンゴン、ラオス、へは航路がありましたが、カンボジアのアンコールワット、ベトナムのホーチミンへ行くには、一旦、バンコックまで行って乗り換えました。ジエット機ではなく120人、80人乗りのプロペラ機でした。巷間、プロペラ機の方が安全だという説がありますが、確かに、事故に遭うこともなかったのは幸いでした。

 プロペラ機に乗っていて、「もう、ダメか」という経験したのは、海外ではなく日本に於いてでした。新潟を担当していた時です。佐渡の両津で弔事があり、下越の朝日会会長の碇和真さんと、その日の最終便である8人乗りのセスナ乘って新潟空港から佐渡空港へ向かいました。乗客は私たち二人だけです。予報では台風が迫っていました。果たして海上は大荒れに荒れていて、セスナ機は木の葉のように揺れました。年配の操縦士は、必死の形相で操縦かんにしがみ付いています。風に煽られて大波の近くまで煽られた時は、もうダメか、と思いました。やっとのことで佐渡空港の上空までたどり着きましたが、今度は着陸が大変です。速力が落ちると横風をくらって機が横転するからです。やり直しの何度目かでやっと成功に漕ぎつけました。その時の年配の操縦士さんの笑顔が素敵だったこと。ガッチリ手を握り合いました。同行の碇さんはというと、すでに失神していました。

 その時以来、プロペラ機には絶対乗るまい、と誓っていたのでしたが、東南アジアではプロペラ機だらけです。飛行機に乗れるなら何でもいい、紙飛行機でもいいから乗りたいという思いです。

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2021年7月10日          飛行機

 毎日、3時半になると私の家の真上を超低空で 羽田空港へ向かう飛行機の爆音が、このところ聞こえなくなりました。恐らく、オリンピック開催と関係しているのでしょうが、少々、寂しくもあります。そういえば、飛行機に乗らなくなってどの位経つでしょうか。借りていたタイ・チェンマイの一軒家を引き払い、車だけは畏友堀田さんに預けて、タイ国際航空で帰朝したのが一年半前の2月6日。以来、飛行機はおろか、新幹線にも乗っていません。飛行機に乗って異国の地を歩くのが大好き人間の私にとって耐えがたい日々であります。

 バンコックに向う時は、右側の窓際の席をとって、ひたすら雲と海を眺めます。四国の海岸線を離れるとやがて、徳之島、奄美大島、沖縄本島が現われます。西表島を過ぎると台湾です。飛行機は高雄の上空から南シナ海へ入ります。真っ青な海には 時折、大型コンテナ船が行き交います。やがて陸地が見えてくると、そこは既にベトナムです。何故か航路は行きも帰りも決まって、ベトナム戦争で激戦のあったフエの上空を通過します。ここのホテルのバイキングは最高でした。バンコックが近づくにつれ雲の形が大きく変わります。積乱雲の林の中を突き進んでいくのです。やがてタイのスワンナブーム空港です。なぜか、下界は池や沼、掘割ばかりに変化します。チェンマイ行きの国内線に乗り換えると、今度は左側の窓際に陣取ります。夕陽が沈むのを見るためです。西の空に太陽が隠れた瞬間、空一面が真っ赤に染まります。8000メートルの上空でしか見られない現象です。一時間後、町あかりはチラチラしていても、まだ明るい、時差2時間のチェンマイに到着です。そこには美味しい果物が待っています。果物の王様マンゴスチン、そして、臭いは凄まじいが極限の美味しさといえるドリアン。

 

   雨の中 傘をささずに踊る人間がいてもいい

   それが自由というものだ   ーゲーテー

   雨を感じられる人間もいるし

   ただ 濡れるだけの奴らもいる  ーボブ・マリー

   人生とは嵐が過ぎ去るのを待つことではない

   雨の中で どんな風にダンスをするかを

   学ぶことだ        ーヴィヴィアン・グリーンー

   天に向かって ブツブツ言うな

   雨の日には雨の日の 生き方がある ー東井義雄ー

   雨が降れば傘をさそう 傘がなければ

   一度は濡れるのも 仕方がない

   ただ 雨が上がるのを待って 二度と再び

   濡れない用意だけは 心掛けたい ー松下幸之助ー

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2021年7月9日                暗譜する力

 古今東西、ピアニストが演奏会で楽譜を見ながら弾く場面は、ほとんど見たことがありません。カチア・ブニアステビリは言うに及ばず、ピアニストはチャイコフスキー、ショパン、ベートーベン、ラフマニノフなどの、難曲中の難曲であるピアノ協奏曲をすべて暗譜で弾きます。私も高校2年の時、モーツアルトのピアノソナタ(トルコ行進曲付き)全曲を、学校の文化祭で暗譜で弾きました。

 今はどうでしょう? 暗譜どころか楽譜を見ながらでもトチリの連続です。毎日一時間、ピアノに向っていても進歩のあとが見られないのです。でも、振り返ってみると暗譜する力は50歳代の中ごろまでは残っていました。

 朝日新聞の社屋が築地に移り、本館の横に新館が建ち、一階と二階が500人収容の「浜離宮朝日ホール」となった頃です。販売店を呼ぶ会合をそこで開くことが決まり、われわれ販売局次長三人が下見に行きました。会場のすべてのドアがあけ放たれ、壇上にはスタインウエイのピアノが置かれていました。古いピアノながらこのピアノは旧館ホールの片隅に置かれていて、暇ができると、私が秘かに使わせて貰っていたピアノです。「久しぶりだね」とピアノに言われたようにも思い、誰もいないのを幸いに、壇上に上がって弾き始めました。ショパンのスケルツオ2番です。劇的な和音で始まるあの曲です。同僚二人はあっけにとられています。曲も半ばに差し掛かった頃、会場の上段から10人余りの人が入って来る気配を感じました。「えーい、ままよ、ここが一番いいところだ」と、演奏を続けてしまいました。実際、そこはこのスケルツオのサワリのところでした。10人余りの人が壇下に来たので、ふと見ると、ピアニストの安川加寿子さんや社長の中江さんまでお出でになるではありませんか。慌てて壇から降りたのは言うまでもありません。幸い、お咎めはありませんでした。今、思うと夢のような話です。

 

      75歳になってパソコンを始めたA氏

   どうにも、分からなくなって

   パソコン教室に 応援を求めた

   「立ち上がっていますか?」

   「いいえ 座ってやっています」

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2021年7月8日          人 災

 熱海市伊豆山の土石流の被害は、かなり大きく未だに143名の安否が気遣われているようです。泥だらけになりながら懸命に救出作業をしている方々には、本当に頭が下がります。山頂から海岸線まで凄まじい勢いで落下してきた土砂は、産業廃棄物を含む盛り土であることが、次第に分かってきました。自然に出来ていた山から海に流れる沢を人工的に埋め立て、宅地にして売り出す、そこが今回の被害の現場になったようなのです。つまり、自然災害ではなく人為災害であったのです。
 熱海市は行政の盲点を突かれました。早大時代の友人前市長の川口市雄君は、今、どんな思いでいるでしょうか? 彼の父親も三期務めた市長でした。ご承知のように熱海は山坂ばかりで平地がありません。温泉ホテルや保養施設の建て替えをするにも廃棄物となる旧資材の捨て場がありません。伊豆山の奥の沢がその捨て場になったのでしょう。そこに目を付けた業者が盛り土をして宅地造成し、売り出した、危険極まりない土地であっても、そこは熱海の一部です。争って買われたに違いありません。そして今回の被害に遭われた、、、、 これは熱海市の責任でしょうか? それとも不可抗力の事故なのでしょうか?現市長の斎藤栄さんは、市の課長を退社して立候補し、川口君の後の市長になりましたが、彼の専門は土木工学です。造成地の危険性については十分承知していたはずです。でも、どうしようもできなかった。友人の川口市長、あるいは三期務めたからの父親の時に、この問題が表にでてなかったのでしょうか?いずれにしても熱海市政は盲点を突かれました。川口市雄君の嘆きは如何ばかりでしょう。

    都に雨の降るごとく わが心にも涙ふる

  心の底ににじみいる この侘しさは何なるむ

  大地に屋根に降りしきる 雨の響きのしめやかさ

  うらさびわたる心には おお 雨の音 雨の歌

  悲しみ憂うるこの心 いはれもなくて涙ふる

  恨みの想いあらばこそ ゆえだももあらぬこの嘆き

  恋も憎みもあらずして いかなる故にわが心

  かくも悩むか知らぬこそ 悩みのうちの悩みなれ

                ーヴェルレーヌー  

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