最近のエッセイ(36)

2019年4月10日        未曽有の不況

 かつてリーマンショックという世界的不況がありました。アメリカの住宅建設会社の架空の経理が引き金でした。遥か昔、1929年にも大きな不況が全世界を襲いました。暗黒が覆いました。

 歴史はある一定の期間を於いて繰り返すのが常です。つまり、リーマンショック以上のショックに世界は必ず見舞われるはずなのです。私は、今後三年以内にそれは起きるだろう、と予測します。その原因は各国が無尽蔵に印刷し流布させているお金です。

 国家の経理は国民の治める税金で成り立っています。税金収入の範囲内で国家が運営されていれば、それは健全財政であって、不況は起こりえないでしょう。しかし、世界のどこの国も高齢化が進み、年金や保険などの支出が年を追うごとに増大します。歳出は歳入を極端にオーバーしていきます。足りない分をどうするか? 国家は、仕方がないので紙の紙幣をどんどん印刷して辻褄を合わせます。金本位制の昔は、刷った紙の紙幣の価値に見合うだけの「金」を準備していましたが、いまはどうでしょう、「国家が保証します」という約束だけで国債を無尽蔵に発行しているのです。日本国の場合、それの総額が1000兆円!

 この傾向は日本だけか、と思いきや、世界の殆ど国がそうなのであります。実体のない貨幣のダブつきが世界の現状なのです。知っていながら知らぬ素振りを演技しようとしている世界が、もしも、一か国でも「オカシイではないか」と言い出した時に、つまり一か国でも真実に目覚めたときに、不況はドミノ倒しのように起きるでしょう。その結果、1929年の歴史に残る大不況を上回る規模の不況が全世界を覆うのです。

 その日はいつか? 私は来年のような気がします。

 

2019年4月8日          ピアノ調律(2)

 ピアノの調律は中音のAの音を音叉をはじいて、それと全く同じデシベルの音を探し出すことから始めます。420ヘルツで調整するのが理想とされています。ピアノ線は一音につき三本の鋼鉄線がありますから、先ず、両側の線を鳴らないようにして一本だけに神経を集中します。両側の線にゴムのクサビを打ち込んで共鳴を避けます。だからクサビは常に二本必要になります。基音が定まったら、一オクターブ上のA、そして一オクターブ下のAの音を探り出します。更にその上のオクターブA、オクターブ下のA、、、を先ず決めます。二つの音を同時に鳴らすと音は共鳴し収斂していきます。鍵盤上の全部のAの単線の音が決まると、細長いフエルトの紐でオクターブ間のすべての音が一本の線で鳴るようにしてそれぞれの音を決めてゆきます。例え一オクターブ間の単音同士といえども周波数は同じではありません。耳が良くなければ聞き分けることができません。そこが調律の厄介なところです。

 不幸にして私は、右耳の聴こえ方が充分ではありません。長野市柳町中学の生徒だった頃、隣りの席の辻君という発達障害のある同級生に殴られて、鼓膜裂傷を起こし、その後遺症のため、今もってに聞こえが充分ではないのです。辻君は昼の弁当の時間になると、何故か、席を外して居なくなります。家が長野市の花街でしたから、家人が早く起きて弁当を作ってやれなかったのでしょう。ある時、ふと「おらの弁当半分食べないか?」と彼に呼びかけたのです。その途端、彼の中で悲しみが爆発したのでしょう、大きな体から繰り出す鉄拳が飛んできて右顔面に炸裂しました。学校の事件となりました。彼のお母さんが私の家に謝りに来ました。その後、彼は養護学校へ移って行きましたが、残念ながら早死にしたようでした。

 破れた右耳の鼓膜は、半年ほどして回復しましたが今もって十分ではありません。当時私は、学校のピアノを使って作曲までしていました。「ロンドヘ短調」という7分もかかるピアノ曲を作って、信州大学が主催する音楽コンクールに応募したら一等になり、NHK長野放送局に呼ばれて自演しました。無音室の中のアプライトピアノの異質音に戸惑いながらも、ミス一つなく弾き終え、放送局からペン皿のお土産を貰いました。鼓膜裂傷は「よし、僕は将来音楽家になろう」と決めていた矢先の事件でした。

 遠い越し方を振り返った時、この事件がなければ私は音楽を生業にする職業についていたかもしれません。しがない作詞・作曲家になっていたでしょう、きっと。極く普通の道を歩んで来れたのは、この事件のお蔭だったかも知れません。人生の終盤に至り、改めて辻君に感謝したい気持ちです。

 

2019年4月7日          ピアノ調律(1)

 

 私は、自分のピアノは自分で調律しています。調律用の7つ道具を持参してタイ・チェンマイの日本語キリスト教会のピアノや、頼まれたタイの学生の家のアプライトピアノを調律しているうちに、肝心の道具の一つであるゴム製のクサビの一本を無くしてしまいました。代用品ではダメなのです。たまたま、アマゾンで検索したところ、それと同じものが見つかりました。一週間経ってそれが届いたので、数日前から地下音楽室に篭もり、調律を始めました。我がヤマハグランドC3は既に50年は経っている代物です。整音が必要なほど狂いにくるっています。でも、愛器ですから丁寧に調律します。神経を使うので一日約一時間が限度です。今日で三日続けていますが、まだまだ出来あがっていません。

 いま、アメリカで大活躍中の日本のジャズピアニスト「上原ひろみ」は、自分専用の調律師を携えています。彼女はヤマハのお膝元・浜松の出身で、ヤマハ音楽教室で育ったせいか、何処へ行ってもヤマハの「フルコン」で弾いています。最近のヤマハは恐らくドイツのスタインウエイを抜いたのではないでしょうか、実に、実にいい音がします。輝かしい、眩いばかりの音が鳴ります。しかも、演奏会ごとに整音、調律をさせているのですから嬉しくなります。

 クラシック界にもいました。アルツール・ミケランジエリというイタリアのピアニストです。彼は世界中どこの演奏会場へでも自分のピアノを持ち込みました。彼には村上さんという専属の調律師がいつも一緒でした。村上さんほどの技術者は世界に二人として居なかったのではないでしょうか。既にお二人ともこの世にいませんが、、、、

 それにしても、上原ひろみの演奏は実に素晴らしい。ヤマハ音楽教室が育て上げた天才中の天才といっていいでしょう。私は、暇さえあれば、ユーチューブで彼女の演奏を聴いています。その度に舌を巻きます。彼女が天才である所以はどの演奏をとっても、リズムの乱れや音のカスリがないこと、殆どの音が即興であること、そこに優れた詩情が迸ることです。小柄で、小太りで、愛嬌のある丸顔で、どこにその才能が隠れているか、と思われるのに名人チックコリア顔負けの音を紡ぎ出します。彼女の演奏会は、全米のどこへ行っても押すな押すなでそうです。

 私が脱帽してやまないピアニストは、クラシックではカチア・ヴニアステヴィリと、ジャズでの上原ひろみです。 

 

2019年3月30日         筑地界隈

 昨日は久しぶりに筑地の朝日本社での会合があって出かけました。東京本社のOB社員の集まりである「朝日旧友会」の次期役員の選考会があったのです。この会合は三年毎に開かれていて、社内の各部局の代表者が日比谷公園内の松本楼に集まって、フルコースを頂きながら、既に内定している役員人事を拍手をもって承認する、いわば、形式的な会合なのでした。前回からは会計不如意のため社内のレセプションルームになり、しかも、持ち込み弁当を頂く、という余り役得が感じられない仕儀になっているのですが、兎に角、出席しました。

 20年近く会長であった中江元社長も90歳、しかも、昨年末愛妻の洋子さんに先立たれ、何か一回り小さくなったようにも感じられ、今回での退任は頷けるものがありました。私は販売局代表で出席しているのですが、編集、総務、広告、工務、出版、経理などの代表者も年を重ねて昔の面影がなくなり、誠に元気のない会合でした。

 席上、読売新聞の購読料単独値上げが話題になりました。半年前から400円上がったのです。毎日新聞と産経新聞の販売網が既に自力では維持できず、主として朝日系が引き取って辛うじて発行ができている現状も話題になりました。すかさず、私は、これが公での今生の最後の発言になるかもしれないと意識しながら、朝日の販売網の現状について発言しました。

 「残念ながら我々の販売網も既に崩壊を始めています。なぜなら、新聞はとらない、読まない、触らない家庭が増えているからです。若い世代は新聞があると部屋が汚れるからタダでもいらないという始末。昔、世間の顰蹙をかった新聞拡張員は居なくなりました。販売網を支えてきた優秀な販売店所長も歯が欠けるように去り始めています。なぜなら、この仕事が割にあわなくなったからです。販売店の貴重な財源であった折込広告も、かつての半分以下になりました。そのほとんどはネット広告に移りました。実に深刻な状況になっています」

 場内はシンとなってしまいました。ああ、言わなきゃよかったと思ったほどです。終わってから、同じ建物の12階の朝日学生新聞社へぶらっと寄りました。専務・社長として6年間余り過ごした古巣です。懐かしい顔ぶれが迎えてくれました。編集から来ている新社長も、この仕事に没頭して業績を伸ばしていました。何より、社員が増えていました。社内留保も私が残した25億が50億近くまで膨らんでいました。近く天皇の后に上りつめる雅子さまが小和田家の小学生だった頃、朝日小学生新聞の愛読者で、懸賞に応募して自転車が当たって、それを乗り回し、娘の愛子さまも小学生新聞、中学生ウイークリーの読者であったことなど、話題になりました。

 せめて明るい気持ちを取り戻したので、目と鼻の先の築地の場外市場を足に任せて歩いてみました。驚くなかれ、外国人でごった返していました。しかも、海産物の値段が高めにつけられていてボッタクリ商売をしているらしいのを改めて知りました。

 「時の移ろい」は意外に早いものだなあ、私は長く生き過ぎた、と思ったことです。

 

2019年3月27日         グーグルの翻訳サイト 

 いま、ほとんどの人はパソコンとスマホを持っています。グーグルというサイトは誰もがその恩恵を受けているでしょう。驚くべきはグーグルが持っている言語の翻訳機能です。原語以外では読むことができなかったイスラム教の経典コーランも、その解説書とも言うべきハディースも読むことが可能になったのです。人伝てでなく、直接、原典に接することができるようになったのです。そこで、何が起きたか? イスラム教が民主主義も社会主義もグローバリズムも否定し、唯一の神の奴隷としての人間であるためには、他の宗教との妥協は出来ないのだからテロリズムを肯定する、いわば、イスラム過激派こそが、真のイスラム教徒であるという考え方が世界中に蔓延し出したことです。その根底にはキリスト教徒、ユダヤ教徒をこの世から抹殺することこそ、イスラム教徒のあるべき姿である、という考え方がついに明るみに出てきたのでありました。ニューヨークとワシントンを襲ったオサマ・ビン・ラーデンを首謀とする世紀のテロも、そして今なおシリアに陣取り最後の抵抗をしているバグダデイ指揮いる「イスラム国」も、これはコーランに則った正しい行いであることを世界の人々は知るようになりました。なぜなら、どの国の誰であろうとグーグルの翻訳サイトによって原典を当たればそのように書いてあるからです。過激行為やテロによって異教徒を殺してはならぬ、とどこにも書いてないからです。反ってジハードこそが天国へ通じる近道だ、その際、お前の近親者70人を一緒に天国へ連れて行ける、と書いてあるからです。

 「穏健派に見えるイスラム教徒は真の教徒にあらず、過激派こそが真のイスラム教徒なり」というのがコーランやハデイーズの正しい読み方であるとすると、これから先、世界はどうなっていくのでしょうか?

 ごく最近、つまり先月の21日、新潮社から「イスラム教の論理」という本が出ました。著者は飯山陽(あかり)さんという上智大史学科を出た女性。アマゾンで取り寄せ、いま、読み始めたところです。

 

2019年3月25日        桜とたらの芽

 またまた桜の季節になりました。一昨日は千川通り、昨日は光が丘公園、今日は近くの公園へ観に行きました。二分咲き、三分咲き、そして今日は五分咲き位でしょうか。青空をバックに見上げていると時の経つのを忘れます。双葉原発の隣「夜ノ森の桜」は今年も見る人なしで咲き始めているのでしょうか。数年前に福島の中通から入って、白河の枝垂桜、郡山開成山、福島の桜の山公園、二本松霞が城、本宮の蛇の鼻公園、三春の天然記念物の枝垂桜、そして浜通りに出て夜ノ森の桜、、、桜三昧の懐旧の旅をしました。

 30代の前半福島県を5年も担当したのに、桜を観たという記憶が余りありません。「紙、紙、紙、、、」に明け暮れていたせいでしょう。今になって初めて「福島は桜の県」だったのを知りました。

 東北6県・信越・富山を所管する部長だったころ、青森の陸奥新報社の招きで、弘前城の桜祭りに呼ばれたことがあります。青森、秋田の朝日新聞、日刊スポーツの印刷を同社に依頼していることから招待を受けたのでしょう。4月26、27、28日の三日間でした。長い過酷な冬が明けて、桜の下で踊り狂う津軽の人たちと喜びを分かち合ったのは楽しい思い出です。ついでに翌日、青森担当の舟越君の運転で日刊スポーツの久保田販売部長と三人で、津軽半島の突端まで遊びに行きました。イワキ山を左手に仰ぎ、吉幾三の出身地金木村を抜け、日本で初めて稲作を行ったという跡地を見学し、十三湖でシジミ汁を何杯もお代わりし、津軽半島の突端「竜飛岬」に立ちました。途中の林の中に入ると、「たらの芽」がワンサとありました。普通、たらの芽は桜が散ってしばらくしてからなのですが、青森では時期が同じなのでした。三人で夢中になって採ったので車のトランクが一杯になりました。弘前に戻って馴染みの店に行き、山のように採れたたらの芽を四等分し、店にも差し上げました。たらの芽の美味しい食べ方は「ちょっと湯がいてみじん切りにし、熱いご飯にかけていただく」これに限るようです。

 それにしても、同僚の殆どはあちらの世界へ旅立っているというのに、私だけはこうやって桜をまた見ることができているのです。何という幸せでしょうか。明日もまた観に行きます。

           芽吹く枝なかは大忙しだろう

           エルサレム桜一本あらまほし

2019年3月23日          死海の水

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 秘かに小瓶に入れて持ち帰った死海の水を、今日、改めて口にしました。塩辛いの、苦いのを通り越した強烈な味が口の中に広がりました。イスラエルの思い出が改めて蘇りました。この死海にそそがれる流れは、ガリラヤ湖から流れるヨルダン川です。既に川幅は4、5メートル、しかも濁りに濁っています。この川の西側はヨルダン川西岸として紛争が今も続いています。

 このヨルダン川の東側、つまり、ゴラン高原と呼ばれる荒れ地を、今日トランプ大統領が「イスラエル側として認める」という発言をしました。アラブ系、つまりパレスチナ人の領地を侵食するユダヤ人の肩を持ったのです。

 アメリカの大統領がなぜそこまでするか? イスラエルの選挙をまじかに控え、ネタニヤフ首相の旗色が悪いのを察して、アメリカが先手を打った、というのが穿った見方になっています。「弾圧されたユダヤ人が、パレスチナ人を弾圧しまくっている」この図式の存在は至る所で見られました。死海の畔のエリコはパレスチナ人の居住地ですが、商店街は空きやが多く、落書きがノサバッテいました。エルサレムの新市街とは比べ物にならない、貧しさがそこにありました。

 死海の畔のホテルは立派でしたが周りは閑散としていました。ホテルの前に寂れた円形のボーリング場があり、その周辺がマーケットになっていました。商品は品数が少なく、生鮮品は僅かでな上に、余り人がいませんでした。つまり、寂れに寂れているのでした。パレスチナ人の野菜類は恐らくゴラン高原で作られている筈です。そこを「ぶんどられる」とは!

 恐らく、アラブ系の住民の必死の抵抗が始まるのではないでしょうか。


2019年3月21日         奇妙な植物

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 (写真の上にカーソルを置きタップすると写真は拡大され、鮮明になります)

 イスラエルの旅の四日目、死海の畔のエリコからエルサレムに向かって北上する途中、小高い丘の昼食のレストランの前で、ギョッとなりました。

 一瞬、「ヘビが木に絡みついている!」ように見えました。私はヘビが大嫌いです。一種の寄生植物なのでしょうが初めての遭遇です。恐る恐る写真にしました。

 

2019年3月20日         日本の技術力

 こと、走る技術に関する日本の力は、実に鮮やかなものがあります。カンボジア、ベトナム、ラオス、タイ、ミャンマー、マーレーシアなどなどでは8割方は日本製の車が走っています。殊にミャンマーの首都ヤンゴンでは50年以上前の日本車がまだ現役で走っていました。バスもそうでした。行く先表示など日本語のままでした。ヤンゴンには日本の山手線のような環状線があります。線路の補修などやったことがなく、しかも、線路敷地内はゴミ捨て場になっていて、50年前のガラクタが野積みになっているせいもあって、窓や扉の無い古物客車がジーゼルに牽引され、20キロの速度で走っていました。それ以上の速度を出すと転覆を免れないからです。このヤンゴン山手線にいま日本の鉄道技術が入っています。線路の補修を終え日本の車両が入って見違えるように変身している、と聞き及びます。

 バンコックの高架鉄道も日本が作りました。チェンマイからバンコックまでのオンボロ鉄道を新幹線級の鉄道にしたいという計画はあるものの、実現は遠いようです。空路なら50分で着いてしまう両都市間ですが、列車では7時間かかります。夜行列車の個室を取って一度チェンマイから乗ったはいいけれど、列車は揺れに揺れて、とても寝られたものではありません。いつ脱線するか、気が気ではありませんでした。

 東南アジアの各国は押しなべてインフラ整備が遅れています。一方、これはという資源もないから産業も育たず、人口だけは増えているから、自給自足の生活を強いられるばかりという側面があります。高度な鉄道が入っても果たしてペイできるかどうか、それが問題になるのです。

 中国は国家事業として国中に鉄道網を張り巡らせました。日本から盗み取った技術を存分に使ったのはいいけれど、殆どの路線は赤字経営になっています。なぜならどの車両もガラガラだからです。つまり、沿線の住民は列車は割高だから乗れないのです。鉄道沿線には高層ビルが林立しています。高層マンション群です。ところがこれもガラガラでゴーストタウン化しています。住むところと、移動手段があったからといって、金を稼ぐところがなければ人は集まりません。経済成長率に拘った挙句の失敗を中国共産党はどうする積りなのでしょうか。

 これは数年前の話ですが、フランスとイギリスを結ぶドーバー海峡トンネルでの出来事。ある厳冬期、そのトンネル内で列車が立ち往生しました。温度差のために電気系統に支障が出たのです。列車内は停電、乗客はパニック状態になりました。フランス製の新幹線TJVが救援に向かいました。同じように故障しました。日本の日立製の新幹線が向かいました。全く故障しませんでした。そして全車両、全乗客の救援に成功したのです。イギリス国民の喜ぶまいことか。国中を上げて日本の技術力を賞賛しました。日本国民として誇らしいことです。

 

2019年3月19日          ジャカルタの地下鉄

 インドネシアの人口は2億6000万人、日本のほぼ二倍です。首都ジャカルタは世界でも指折りの交通渋滞都市です。ここに日本からの2500億の円借款と技術により、地下鉄が開通します。その試運転の模様がテレビで見れました。運転手は女性です。イスラームの女性はクラーンの教えにより自分の髪の毛を人に見せません。だから、運転手の女性はネッカチーフで髪を隠し、正帽を被り、アゴ紐を結び、制服を着て運転台に鎮座していました。ベトナムでも、マレーシアでも、カンボジアでも、髪を包んだ女性を数多く見かけました。これがアラブ首長国連邦になると更に強烈です。全身黒ずくめ、顔にも黒いベールです。目だけが光っています。レストランではどうするのか? 恋人同士らしい男女をそれとなく観察しました。左手のフォークに肉の切れ端を刺し、右手で黒いベールを上品にそっと持ち上げ、素早く肉を口中に入れて再びベール。なんともはや、でした。

 一方、ドバイの巨大モールの婦人服売り場。黒服のご婦人たちが争って買いものをしています。正に戦場のような騒ぎ。何と、赤や、青や、黄色などなど、色鮮やかな部屋着のような下着類を漁っていました。クラーンによって4人まで妻帯が許されているお国柄。せめて家の中だけは、着たいものを身に着けていたい、といういじましい表れだったのでしょうか。それにしても、4人の妻に囲まれて、色鮮やかな部屋着の攻勢を受ける男性はさぞかし大変だろうなあ、と要らぬ同情を感じた次第。

 ところで、ジャカルタの地下鉄は日本が施行しましたが、ジャカルターバンドン間の350キロの高速鉄道は、土壇場で中国にとられてしまいました。卑劣な中国は日本の計画書を盗み、臆面もなくそれを提出しました。しかも、政府保証はいらないという破格の条件を付けて。習金平は客家の出です。インドネシアのジョコ大統領も客家です。客家同士の絆は犯しようがないと言われます。しかし、現地の報道によれば、土地の買収すらまだ8割を満たしていないとか。地下鉄が正式運転を始めて、ジャカルタの人々が日本の鉄道技術の素晴らしさを知るに及んで、何故、ほぼ日本に決まっていたのに、何故ひっくり返したんだ、という非難がジョコ大統領に向けられるのは必定でしょう。

 余談ですが、ドバイの中央を貫通する高架鉄道も日立製です。東洋人向けの仕様のせいか、いささか車内の高さが足らない、とは感じたものの乗り心地は至って快適でした。しかも、無人運転なのだから畏れ入谷の鬼子母神でした。

 

2019年3月18日         イスラーム

 旧市街の神殿の丘に、一際目立つ巨大な円形物があります。おまけに屋根全体が純金で張り巡らされているので、イヤでも目に付きます。その上、一定の時間になると拡声器でクラーンが大音響で流されます。キリスト教徒、ユダヤ教徒にとっては目障り、耳障りでありましょうが、如何とも仕様がありません。何故なら、7世紀、このドームからムハンマドが昇天したと伝えられイスラム教徒にとっても聖地になっているからです。

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イスラームにとって、最大の聖地はサウジ・アラビアのメッカ、メジナであり、メッカには一度に200万人を超える教徒が礼拝できる、それはそれは巨大なドームがあります。そのドームの中心にはカヴァア神殿と称する大きな黒い函が置かれています。中には何が入っているか?全くのカラッポなのです。偶像崇拝を禁ずるのがイスラム教の特長の一つだからです。経典はクラーンという膨大なものです。右から左に向かって読むのですが、すべてアラビア語です。しかも、このクラーンは英語など他のすべての言語に翻訳されるのを禁じています。この点はユダヤ教のタルムードと同じです。3年前、アラブ首長国連邦のドバイへ行きました。博物館でクラーンの現物を手に取りましたが、勿論、チンプン・カンプンです。問題は、いま、イスラム教徒が一日に2万人ずつ増えているという現実です。キリスト教徒が24万人、イスラム教徒が18万人というのが世界の潮流ですが、キリスト教徒がほとんど増えていないようなのですから、やがては、イスラームに追い越されるのではないでしょうか。

 一昨日、ニュージーランドで礼拝中のイスラームに向かって、白人のオーストラリア人ほか2名の三人組が銃を乱射し、49人が殺害されるという事件がありました。一方、イスラム過激派はニュ―ヨークの貿易センタービルに乗っ取った航空機ごと突っ込み、罪もない多くの人間を殺傷しました。過激派によるテロは、いまは世界のあちこちで起きているのが現実です。

 このところ、イスラエルには血なまぐさい事件が起きていません。今回の訪問で見る限り、三者は器用に棲み分け一見平和でした。しかし、世界は弾圧され、排斥されたユダヤ人が建国を許されて以来、アラブ系パレスチナ人を弾圧しているではないか、という穿った見方も存在します。旧約聖書の予言のように、イスラエルの存在を脅かす脅威が中東に発生する確率は高いのではないでしょうか。 

2019年3月16日     ヴィア・ドロローサ

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          (写真はタップすると鮮明になります)

キリスト・イエスは、その人気の余りの高さ故にローマ軍の司令官ポンテオ・ピラトによって捉えられ、裁判にかけられ死刑の宣告を受けます。穴倉で鞭打ちの刑を受け、十字架を背負わされ、刑場であるゴルゴダ山頂に向かって歩かされます。2000年前の当時は山道だったのでしょうが、今は石畳になっていて、その細い道の両側には所狭しと商店が店を張っています。イエスが背負った十字架の余りの重さに耐えかねてよろけたところに、碑が建てられていました。母マリアが彼を見つめたところにはマリア教会がありました。弟子のシモンが代わりに十字架を担いだところにも碑がありました。ベロニカという女性が飛び出してイエスの汗を拭ったところには、ベロニカ教会がありました。重さに耐えかねたイエスは再び倒れます。そこにも彼の罪状書が掲げられていました。大勢のイスラエルの婦人たちが彼を悲しげに見つめます。イエスは彼女らに向かって「私のために泣くな、自分たちとあなた方の子どものためになくが良い」と言葉を発します。そこにも教会がありました。そして彼は三度目に倒れます。大きな石の円柱にそれが記されていました。最後に彼が背負ってきた十字架はゴルゴダの丘に立てられ、彼の身体はその十字架に釘付けとなります。二人の罪人も彼の両脇で釘付けとなりました。彼が息を引き取る時「エリ、エリ、エマ・サパクタニ」と叫んだと云われています。その場所はいま大きな天蓋に覆われ、その中に聖墳墓教会が建立されていました。しかし、世界各国からの人、人、人で溢れ、中へ入ることなど全く出来ませんでした。

 

2019年3月15日       ホロコースト記念館

 およそ600万人のユダヤ人が、ポーランドのアウシュビッツその他のガス室で殺された、いわゆるホロコーストをユダヤ人はヘブライ語でヤド・ヴァシェムと呼んでいます。丘の上の小さな建物だなあ、という印象だったのですが、どうしてどうして、地下深くまで続いた巨大な記念館がそこにありました。殺された600万人の名前が壁に刻まれたドームも地下に聳えていました。当時のあらゆる史料が展示されていました。懐かしいと言ってはなんですが、ユダヤ人が身動きすら出来ないスシ詰めの状態で運ばれた貨物車両と、その車両が到着したアウシュヴィッツの線路も展示されていました。

 三年前の10月、ポーランドのワルシャワに滞在した折り、思い切ってアウシュヴィッツへ行きました。プロペラ機で1時間余り、クラクフからバスで約2時間、アウシュヴィッツは世界中から来た人々で溢れていました。涙ながらに撮ったその時の写真を掲載します。入り口には鉄格子のアーチがあって「アルバイテン ビイ フリー」とありました。よく見るとBの字が逆さまです。切なすぎるユーモアです。ガス室の入口と、ガス室と、そして人間の阿鼻叫喚を噴出した煙突を掲載します。

 ホロコースト記念館では写真は一枚も撮りませんでした。そんな気になれなかったからです。ただ、記念館の一隅に日本人外交官杉原千畝が植えた木が育っていました。彼は戦争末期、6000人余のユダヤ人に自分の独断でビザを切って与えた歴史上の人物です。一つの救いがそこにありました。

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2019年3月13日        テレアビブ・カイザリア

 イスラエル第二の都市テレアビブのベングリオン空港に明け方到着して最初に訪れたのは地中海に面したカイザリアです。この地においてローマ軍が拠点とした港町です。巨大な円形劇場跡もありました。ここから、パウロは布教のためローマに向けて出港していきました。彼はどんな思いで旅立っていったのでしょうか。

 一般に「イエスは救世主なり」と言われても俄かに信じることは出来ません。でも、イエスと行動を共にし、復活を目の当たりにしたルカ、マタイ、マルコ、ヨハネ、パウロなどの弟子たちのその後の彼らの行動の軌跡をたどる時、彼らが本気になってイエスをメシアとして崇め、命がけで布教に務めた事実に接すると、それが証として迫ってくるのを否定することができません。私の信仰の原点もそこに由来します。

 これから空港に向かう最後の食事は港に接したレストランでした。行列が出来ている店でした。各テーブルには20皿を超える小皿が運ばれ、続いてナンに似たパン、飲み放題の果汁、続いて揚げた魚料理の大皿が処せましと並べられました。大混雑している店内のどのテーブルも料理の山です。圧倒されました。10日余りのイスラエルの食事で感じたことは、豚肉がないこと、牛肉も鶏肉も少ないこと、野菜や木の実、果物などが中心であったことです。こういう食事がユダヤ人の頭の良さに結びつくのかなあ、と思ったことです。

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2019年3月8日       石の国

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 イスラエルの北の外れガリラヤ湖から南の死海の畔エリコまで、バスでほぼ縦断しましたが、樹木が自然に生い茂っているところを見つけることはできませんでした。樹木が育たなければ材木がない。木材がなければ家は石やコンクリートで作る他はない。だから、石を積み上げ、漆喰で固めた家や、コンクリート造り家が処狭し、と並んでいるのがイスラエルでした。年輪を経た檜や、松、竹、杉材などを豊富に使い、趣のある居住空間を作り上げている日本と何たる違いがあることか、とつくづく思い知らされました。殊に、南下するにつれヨルダン川の流れは、僅かに生い茂っている樹木の谷を淀みながら流れるだけになり、しかも細くなり、やがて死海に呑みこまれ、どんな生物も生きることができない地獄の世界だというのに、何でユダヤ人は執着するのだろうと思いました。それは標高約1000メートルの禿山に壮大な砦を作ってローマ人と戦ったマサダの砦に登った時極限に達しました。頂上から見渡す限り樹木が見当たりません。起伏の多い山々は全て禿山でありました。ことによると1500年前には緑豊かだったのでしょうか。よくもまあ、こんなところで960人あまりのユダヤ人がローマの攻撃をかわし、三年間も抵抗することができたものだ、と感無量でした。結局は、最後に残った10人がクジを引き、引き当てた者が全員の首を切り、自分も自害し、全滅した伝えられています。山頂の砦で水や食料はどうしたのだろう、どうやって3年も持ちこたえられたのだろう、眼下に死海を眺めながら、2000年前のユダヤ人のしぶとさに想いを馳せました。

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                                    2019年3月6日
嘆きの壁

イスラエルの首都エルサレムは、新市街と旧市街に分かれています。狭い旧市街は、イスラム地区、ユダヤ地区、キリスト地区そして三者に共通する西壁広場に分かれてそれぞれの教徒が住み分けて居住していました。金曜日は山高帽、黒マント、黒ブーツの正装のユダヤ教徒が西壁広場に密集します。土曜日はイスラム教徒が、そして日曜日はキリスト教徒で埋め尽くされます。たまたま金曜日にそこへ行きました。ユダヤ人の群れが西壁に向かってユダヤ流の祈りを捧げていました。翌日、神殿の丘をバスで通りかかりました。激しい交通渋滞に遇いました。女性という女性は髪を包み、イスラム式のマントを着込んだ群衆のためでした。生憎、日曜日は他のところだったので見ることが叶いませんでした。

 金曜から土曜にかけては安息日です。労働をしてはいけないとのこと。驚いたのはホテルのエレベーターです。普段はボタンを押せば行きたい階へ途中を素通りして行けるのに、この日は違っていました。全エレベータが各階止まりに調整されていました。つまり、エレベーターのボタンを押すことも労働とみなされるからだ、というのです。いやはやと思いました。

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2019年3月5日         青空市場

 私が興味を持つのは、どこの国へ行ってもそこの市場です。人々の日常生活を垣間見ることができるからです。東南アジアでは青空市場がふんだんにあって面白いことこの上ないのですが、最近の4,5年間に行ったポーランドワルシャワ、スイスの各都市、アラブ首長国連邦のドバイなどでは青空市場らしきものは、全て巨大なモールに吸収されていて面白みも半減でした。 エルサレム滞在の四日目、幸いなことに、青空市場での買い物の時間が組み込まれていました。マハネ・イエフタという市場でした。許された時間は僅か40分。バスの駐車場からかなり歩きましたから、買い物の時間は僅か30分足らず。天蓋に囲まれた通路の両側には商店がびっしり並んでいます。一店舗ごとかなりのスペースがあり、商品が天井まで届くほど積まれています。大急ぎで15分歩き15分で戻ってきました。世界のあらゆる商品が並んでいました。特に酒類とナッツ類などが豊富でした。ナツメッグがバカ安でした。イスラエルの通貨シュケルは1シュケルが日本の30円相当でしたが、ドルでの買い物の方が歓迎されるようでした。残念ながら生鮮食料品売り場には到達することなく、30分後には集合場所に戻りました。団体行動は、一面、不便なものです。かといってホテルからタクシーに乗って市場へ往復する勇気はありませんでした。買い込んだ新酒のスカッチをカシューナッツ類をつまみにしてエルサレムの夜を謳歌したのはいいけれど、腹の調子に異常を来したのには拍子抜けしました。

 

2019年3月4日         パレスチナ問題

 数十年前、日本の赤軍派とおぼしき一団が、テレアビブ空港で銃を乱射するという事件がありました。元々、イスラエルに住んでいたユダヤ人が迫害されて地球上の各地に散って生きながらえ、1900年目にして、国連で建国が認められ、続々と故郷に舞い戻り国造りに励んだのに対し、同時に建国を認められたにもかかわらず、いまだに国ができないでいるアラブ人であるパレスチナ人との抗争は、イスラエルにおいて止まるところを知りません。赤軍派のテロはその同情の結果でもあったようです。

 このところ、両者による血なまぐさい事件は起こっていないので、私たちも含めて入国できたのですが、テロや紛争がいつ起こってもおかしくない危険を孕んでいるのがイスラエルの現状です。

 入国審査は厳重を極めました。3時間は覚悟せよ、と云われていました。鋭い目をした係官に胡散臭い目で点検されました。スーツケースはどうせ開けられるに違いないから、施錠しませんでした。何故か、パスポートに判を押しません。小さな紙切れを貰いそれを出国時に渡してそれまでです。つまり、イスラエルへ入った、という痕跡がパスポートにありません。

 アラブ人であるパレスチナ人とユダヤ人の紛争は、いま、ヨルダン川西岸と、ガザ地区に集約されています。是非行ってみたかったのですが、団体行動ですからままなりません。仮にタクシーで行こうとしても、運転手は嫌がって行ってはくれないとのことでした。

 入国に当たって、予め3冊の本に目を通しておきました。

   ・アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図  高橋和夫

   ・パレスチナ 笹川正弘 ・聖地エルサレム  平山健太郎

 読めば読むほど解らなくなるのがイスラエルとアラブの問題です。いい加減イヤになりました。救いは、民族が違ってもイスラエル国民、エルサレム市民足り得るという条例ですが、それをヨシとせずあくまでパレスチナ国家の建設を目指す勢力とのせめぎ合いが、今後、更に激化する恐れがあることです。現在はたまたま、その小康状態であるに過ぎないのをつぶさに感じました。 

 

2019年3月3日        メシアニック・ジュー

 約70億人が住むこの地球にはいろいろな宗教がありますが、主なものとその人口は次のようです。キリスト教ー24億、イスラム教ー18億、ヒンドウー教ー18億、仏教ー5億、道教ー1億、そしてユダヤ教ー1500万。キリスト教の人口にはいわゆる旧教(カソリック)、そして新教(プロテスタント)が含まれますが、両者は旧約聖書・新約聖書を経典とし、その解釈には異なる部分があるものの、イエス・キリストを救世主(メシア)と認める点では一致しています。また、両者に共通するのはイエス・キリスト再臨説です。旧約聖書の中のエゼキエル書によれば、イスラエルの真北に位置する国が、地球が艱難時代を迎えたある日、周辺の国を従えてイスラエルを襲う。同時にイスラエルに地殻変動と光の雨(核戦争)が降って、襲った国は全滅し、人類は半分になってしまう。その時、イエスキリストの再臨があってキリスト教徒は救われる。再臨したイエスをみて、ユダヤ教徒はイエスを初めて救世主として認める、とあります。エゼキエル書によればイスラエルを襲う国はイスラエルの真北に位置する国とあります。エルサレムと北極点を直線で結ぶとモスクワの上空を通ります。だから、それはロシアです。ロシアがペルシャ(今のイラン)、イスマール(今のトルコ)を従え、イスラエルに侵攻し、そこでイスラエルでの地殻変動に遇い全滅します。(確かにイスラエルという国は地球の巨大な断層の上に位置しています)イスラエルを中心として地球上に光の環が飛び交い、統一されていた世界が一気に混乱の坩堝と化し、人類は半減するとエゼキエル書は予言しているから驚きです。今から2500年ほど前に書かれた旧約聖書は、ある意味で予言の書でもあります。

 メシアニック・ジュウとはユダヤ教徒でありながら、イエスを救世主(メシア)として認める人々のことを言います。その数、イスラエルのユダヤ教徒の中で約3万人。まだまだ増えつつあるとのことです。

 今回の旅の中での二日間は、このメシアニック・ジュウについて考えるコングレスでもありました。エルサレムのダン・ホテルに四泊したのですが、二日間はこの問題について考える学術的な会議でした。東京恵比寿教会の中川牧師率いる一行、北海道の永山牧師の一行、そして、シンガポール教会の松本牧師率いる私たちの32人、総勢100余名が、現地のメシアニック・ジュウその人であるエルサレム聖書学校校長先生の講話など、中川先生の通訳に聴きほれました。充実した二日間でした。

2019年3月2日       イスラエルの食事

 到着したベングリオン空港のあるテレアビブからイスラエルの最大都市エルサレムまでは、車で約1時間です。そこは標高800メートルの高地で、旧市街、新市街と2つの区画が出来ていてそれぞれが特色を放っています。しかし、私たちの一行はエルサレムを通り越してガリラヤ湖畔に向かいました。途中、ローマ時代に建造されたカイザリヤの円形劇場跡を訪れ、イエスが幼少時代を過ごしたナザレの新市街、旧市街を経てガリラヤ湖畔の宿で最初の夜を迎えました。このところ水位が極端に下がっているとはいえ、満々と水を湛えた湖の夕暮れの景色は圧巻でした。

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 食事はバイキング形式です。野菜や雑穀や果物がほとんど原型のまま選りどりみどりになっていました。肉類は僅かで、もとより豚肉はありません。果物も豊富でオレンジやイチゴが秀逸でした。

 一般にイスラエルには農業や牧畜が営める土地がほとんどありません。国土のほとんどが岩だらけだからです。おまけに雨量が少ないから植物が繁茂しません。国境を接しているレバノン、シリア近くに至れば植物の繁茂がみられるものの、ガリラヤ湖を起点とするヨルダン川を下るにつれ、周囲はエジプト寄りになるせいか、砂漠同然となります。だから、水は貴重です。おまけに年間雨量が極端に少ないときています。

 幸い、テレアビブは地中海に面しています。水はゴマンとあります。だから彼らは海水を淡水化し、膨大な長さのパイプと通して給水し、野菜や果物を食卓に上げているのです。水資源の豊富な日本では考えられない苦労がイスラエルの人々にはあることを知りました。

 

2019年3月1日       タルムード

 1945年にナチスのヒットラーが自殺し、第二次世界大戦が終結しましたが、その間、約600万人のユダヤ人がアウシュビッツなどのガス室で殺されました。その後、1948年5月14日の国連決議でイスラエルの建国が認められましたが、当時、イスラエルにいたユダヤ人は数十万人といわれます。そして2019年の現在、人口は鰻登りに増えていて、イスラエルに居住するユダヤ人の数は600万人を超えています。一方、アメリカに住むユダヤ人は500万人程。そして世界各地に約400万人。締めて約1500万人がユダヤ人の総人口です。この人たちの殆どがユダヤ教徒と云われています。そして、このユダヤ教徒の信仰の元になっている経典が旧約聖書とタルムードです。世界のキリスト教徒の経典である新約聖書を除外しているところに大きな特色があります。

 新約聖書が2000年前に30年余年間ナザレに生まれ、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたイエスと日常を共にしたマルコ、マタイ、ヨハネ、ルカそしてパウロなどの行状記であるのに対し、タルムードはユダヤ教徒として生きる上の行動規範が詳しく記されているようです。本来は口伝であったものが、それでは変質が免れないとして、紀元250年頃に文字化されたようです。膨大な量で19巻あるそうです。そのすべてがヘブライ語で書かれています。ただ残念なことは、このタルムードは他の言語に翻訳することを禁じています。英語訳も、まして日本語訳などもありません。かつて、日本の貴金属商のサンキが邦訳を試みましたが、いつの間にか絶版になり回収された、という例があります。

 ウイキペディアにタルムードの項目だけ載っていました。それを見ると生まれてから死ぬまでのユダヤ人としての行動規範がこと細かに記されているようです。その根本は「勉強しろ」「優れた人間になれ」なぜなら「ユダヤ人こそが神に選ばれた民である」からだ、に集約されます。

 実際のところ、歴史に名を連ねた優れた人物にユダヤ人が多いのもまぎれもない事実です。特にクラシック音楽家ではアシュケナージ、インパル、クレンペラー、バーンスタイン、メニューイン、ブルノーワルター、ルービンシュタイン、バレンボイム、ショルテイ、アンドレ・プレビン、アイザック・スターンなど、大衆音楽ではガーシュイン、ベニーグットマン、スタン・ゲッツ、ボブ・デラン、ポール・サイモン、ビリージョエル、ガーファンクル、科学者や思想家ではアインシュタインを始めとし、スピノザ、フロイト、ハイネ、オッペンハイマー、ノイマンなどなど枚挙にいとまがありません。

 1月31日の深夜に乗込んだエル・アル・イスラエル国営航空はユダヤ人とおぼしき大柄な人々で満席でした。朝7時、飛行機がイスラエルのベングリオン空港に着地した瞬間、機内は盛大な拍手に包まれました。なるほど、これがユダヤ人だ、と思いました。

 

2019年2月28日            帰国しました

 1月31日夜、チェンマイからバンコックへ出て0時30分発のイスラエル国営航空に乗り、テレアビブのベングリオン空港に着き、10日間のイスラエルめぐりをしたあと、再び同空港からバンコック空港を経由してチェンマイに戻り10日ほど過ごし帰国しました。持参したノートパソコンが不調であったため、ホームページの更新が出来ずじまいでしたが、今日から再開させていただきます。

 私たちチェンマイ4人組が参加したイスラエル旅行団はシンガポール日本人教会の松本牧師が主催した32名のグループです。旅が終わってから先生は参加者全員に感想文を求めました。私は以下のものを提出しました。

                所 感

 イスラエルへ入って3日目、死海の畔エリコに宿泊した時です。岩塩で固まった湖畔に出てその水を口に含みました。「ギャー」となりました。塩辛さや苦みを通り越した何とも強烈な味がしました。出口のない湖の、これが1億年の味か、としみじみとした想いで呑みこみました。私はその水を小瓶にとって東京へ持ち帰りました。怠け心が起きた時、再び舐めて自分を叱咤するためです。でも、既に数人の仲間に「これこそ、命の水だよ」と勿体ぶって味あわせてやりました。

 私にとって「ユダヤ人」とは予てから謎に充ちた存在でした。世界の民族の中で最も高い知能指数を持ち、科学、文学、音楽などあらゆる分野で優れた業績を上げながら、紀元後300年頃に出来たタルムードという19巻もある経典を金科玉条とし、あろうことか新約聖書を認めず、イエス・キリストをメシアではないとして今日に至っている事実。しかも、キリスト者にとってはイエスが30年余を過ごした聖地そのものに同居していながら、敢て、目を背けているらしい頑な姿勢。

今回、図らずも嘆きの壁に密集して真剣な祈りを捧げる山高帽に黒マントで正装したユダヤ人の大群衆を見たり、ガリラヤ湖畔のホテルロビーで、これまた正装して祈りを捧げるユダヤ教徒の家族集団に遭遇したりといろいろでしたが、改めてユダヤ教徒とは何者なのか、との思いを強くしました。

一方、3年前の10月、ポーランドのワルシャワに滞在し、アウシュビッツへも行きました。「働け、されば自由を得ん」という例のアーチをくぐり、大量ガス殺人の現場をつぶさに見て歩きました。「夜と霧」という本と写真集で予備知識を持って出かけたものの、涙が止めどなく流れました。70年前の当時から茂っていたに違いない収容所の周りの木立に向かって「お前たちも辛かっただろうなぁ」と語りかけました。旅の8日目、ホロコースト記念館を訪れた際、毒殺された600万人に及ぶユダヤ人の氏名が顕彰されているのを目の当たりにして、再び涙が止めどなく溢れてきました。

 所感の最後に私自身について述べさせていただきます。

 教会の門を叩いたのは松本先生と同じ高校一年の時です。〈自我〉が問題となり、パウロの「われ、もはや生きるに非ず、キリスト我が内にありて生きるなり」が私の中での行動指針となりました。バルト、ブルンナー、フォロサイス、内村鑑三、波多野精一など読み漁りました。大学の卒論は死海の書でした。当時、この書の真贋を巡ってかしましい論議がありました。それだけに、今回、死海の書の発掘現場のクムランを訪れることができて感無量でした。エッセネ派も確かにあったでしょうが、もう一つの共同体の大きな力があったという考え方が有力です。それにしても、どうやって羊皮紙に活字のように狂いのない字ずらを並べることができたのか、ユダヤ人の不思議さに改めて思いをいたしました。不思議の国イスラエルの不思議なユダヤ人の存在。改めて勉強のし直しです。松本先生ご夫妻、グループの皆さまに感謝いたします。

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