世界

 

2014年5月8日                 麗しの5月

 いま、私の家の垣根のジャスミンが真っ盛りです。80坪弱の土地に母屋とアパートが建っているのですが、北側と東側のフェンスにびっしりと咲いて、馥郁たる匂いを放っています。両面とも駐車場に接しているのに、日当たりや風通しが良いせいか、ジャスミンには快適な環境のようです。2階のアパートの空調機の配管にまで取り付いて咲いている始末です。毎日、ジャスミンの房を、「ごめんね」と言いながら毟ってきてワイングラスに入れ、亡き人たちの写真の前におきます。写真の中には先代のシーズー犬〈テツ〉もいます。名古屋の従弟も新たに加わりました。家の中にジャスミンの香りが立ち込めます。ジャスミンには悪いけれど、毎日新しい房と取り替えます。役目を終えたジャスミンは、仲間たちのところへ戻してあげます。今日で三回目です。一週間は続くでしょう。どうしたことか、ジャスミンを毟る習慣は、ずっと続いています。

 デパートの食品売り場をうろつき回るのが、私は大好きです。昨日、製本の材料を仕入れに行った帰りも、うろつきました。カツオの背の部分のひと棹、時鮭のアラ、黒毛和牛の切り落とし、山菜のコシアブラを仕入れて来ました。締て2000円ちょっと。カツオの半分を大ぶりに切り、半分はラッピングして冷蔵庫に入れました。ラッピングすれば翌日まで持ちます。沖縄から届いた若いニンニクを磨りおろし、コシアブラと分葱を散らし、これも頂きものの「美味しい酢」でいただきました。勿論、一日の製本ノルマをこなしたので、一杯の芋焼酎と共にです。カツオは、実は、当たり外れがあります。外れると食べるのがイヤになるほどです。それほど、鮮度と種類が問題となる魚です。でも、カツオは大好きな魚なので、無理をしても食べてしまいます。今日の昼は黒毛和牛でした。コメは、これも頂き物の魚沼産特別栽培のコヒヒカリ。付け合せはほうれん草のお浸し。カボス醤油でいただきました。食後は夏みかん一個。この時期、特別酸っぱいのを選んで買ってきて、毎日一個食べています。

 夕食は、北海道産のカマンベールチーズと、ひとかけのスイス産グルミオーの晩酌をやったあと、豆苗の炒めものと、時鮭のアラのお茶漬けでした。甘塩のアラ400グラムが350円で買えたのも驚きでしたが、その美味なことといったら…… 鮭は時鮭に止めを刺す、と私は思います。

 5月が待ち遠しかったのは、こういう贅沢が、それもささやかなものですが、出来るからでしょうか。次は北海道のアスパラガスと、山形のさくらんぼです。心待ちにしています。「麗しの5月」です。

 


2014年5月7日               狂気と侠気

 今から約4000年前、中国に大規模な戦乱がありました。楚の国に発した項羽と劉邦の覇権争いです。狂気と狂気のぶつかり合いです。その結果、広大な中国を収める秦の始皇帝が誕生します。日本でも源平の戦いから頼朝の鎌倉幕府、それに続く戦国時代は戦いの連続でした。武士と称する武闘集団が誕生し、刀を差して歩いていたのですから、時として侠気が狂気に代わってしまいます。信長による延暦寺焼き討ち事件など、狂気が成せるわざでありましょう。275年余り続いた江戸幕府が、薩長土肥によって倒される明治維新は、これは狂気というより侠気のなせる結果でありましょう。ところが軍国主義が台頭し始めます。1936年の日支事変を機に、折りから、ロシアに起こったマルキシズムを信奉する共産主義者、社会主義者への弾圧が強まり、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の旗印のもと、侵略戦争が始まります。

 これこそ、狂気以外の何ものでもありません。同じ頃、ロシアに発したマルキシズムは燎原の火の如く、世界中に浸透してゆきます。共産主義ー社会主義 対 資本主義ー民主主義の対立の激化です。中国は毛沢東により、共産主義、一党独裁政治となりました。それにかぶれたのが国境を接するベトナムのホーチミンでありカンボジアのポルポトです。民主主義国アメリアにもかぶれた勢力が台頭し始めました。アメリカ社会全体に猛烈な赤狩り旋風が吹き荒れました。アメリカは恐怖の余り東南アジアの戦争に加担し始めます。朝鮮戦争然り、ベトナム戦争然り、カンボジア内紛然り。それはある意味でアメリカの侠気でありましょうが、実体はどうかというと、各国の狂気に巻き込まれてしまいました。アメリカはベトナムで350万人のベトナム人を殺しました。カンボジアのポルポトに対抗して、ロンノル政権に肩入れしたため、国内に疑心暗鬼が生じ、大混乱となり、大量虐殺が始まったのです。成人男性のほとんどが殺されました。200万以上であることは間違いありません。

 ヨーロッパにも狂気はありました。ドイツのナチスがそれでしょう。650万人のユダヤ系住民がアイシュビッツやクラクフで毒殺されました。当のソ連にもありました。独裁者スターリンによって粛清されシベリアで殺された者は、一説には5000万人ともいわれます。これは狂気です。中国にも紅衛兵事件による知識人殺戮が毛沢東の指揮により行われ、実体は隠蔽されたままですが、1000万人以上といわれます。これなども狂気と言わずに何でしょう。

 日本もアメリカの狂気の犠牲になりました。長崎、広島の原爆投下です。ポツダム宣言の回答が遅れたからといって、数十万の無垢な民間人を大量殺戮していいものでしょうか?

 いま、ソ連邦は崩壊し、ロシアは自由主義経済になりました。中国も共産党一党独裁のまま、自由主義経済を採り入れ、いまや、アメリカ以上の繁栄を謳歌しているやに見えます。実際、世界中の書店からマルキシズムや社会主義の本が消えてしまいました。資本論や共産党宣言など、古本屋の片隅でホコリを被っています。。大声て吠えていたマルキストたちはどこへ行ってしまったのでしょうか。中国でさえ、〈毛沢東語録〉は古典扱いされ、普通に読まれていないというではありませんか。世の中、変われば変わるものです。世界各地の狂気を誘発した責任をどうとってくれるのでしょうか。

 歴史的経緯をたどると、これは、一見、民主主義ー資本主義の勝利のように見えます。果たしてそうでしょうか?
 私にはそうは思えません。世界史の中での単なる過度的現象に過ぎない、と理解しています。私は資本主義の結果により、世界の富を、極く少数の人間のみが支配している現状を、貧民層が、暴動によって打破するような、いわば、過去の日本にあった、百姓一揆や、秩父困民党のような狂気の炸裂がまずアメリカに起こり、世界中に蔓延していく事件が必ず起きる、と確信しています。そう考える根拠はマルクス・エンゲルス全集や、資本論にあります。

 「共産主義革命は、資本主義が爛熟した末に起きるもの」と書かれているからです。ロシア革命のとき、あの国で資本主義が爛熟していたでしょうか? 中国や、ベトナム、カンボジアに資本主義があったでしょうか? 理想主義に走った毛沢東、ホーチミン、ポル・ポトらは、単なるお先走りであったのではないでしょうか?

 あと30年を待たずに「それは起きる」と私は思うのです。それを見届けてからあの世へ行きたいです。

 


2014年5月6日                  旅 心

 今日は連休最後の日、明日からは高速道路など、ガラガラになるでしょうから、毎日が日曜日同然のわれわれの出番です。関越道路を利用し、水上インターで降り、谷川岳の麓まで行って、マチが沢、幽の沢の急峻を左に見ながら、湯檜曽川に沿って芝倉沢まで歩いてみる積りです。その途中にタラの芽が群生しているところがあります。それも目当てです。

 朝日新聞の販売担当員、北関東担当次長、東北信越担当部長、千葉埼玉担当部長、外勤担当局次長、西部本社営業局長などをさせてもらったお陰で、全国津々浦々に足を踏み入れさせてもらえた、という役得が私にはありました。しかも、出張旅費付きで。だから、全国の県庁所在地、主要な都市で行っていないところはほとんどありません。有難いことでした。

 しかも、ほどほどの給与がいただけたことから、世界の数々の国や都市へも行くことができました。自慢するのではなく、自分自身の整理のため、チョット書かせてもらいます。

 アメリカはニューヨーク、ワシントン、ルイビル、セントルイス、マイアミ、ロスアンゼルス、ラスベガス、サンフランシスコ、ハワイのホノルル。オーストラリアはメルボルン、シドニー、ブリスベーン。インドネシアはジャカルタ、バリ。中国は北京、上海、西安、香港、マカオ。台湾は台北、高尾。韓国はソウル、板門店。タイはバンコック、チェンマイ、プーケット。ベトナムはホーチミン、フエ、ハノイ。ミャンマーはヤンゴン。シンガポール。マレーシアはクアラルンプール。フランスはパリ。ドイツはベルリン、ドレスデン、ケルン、ハンブルグ、フランクフルト、ミュンヘン。デンマークはコペンハーゲン。チェコはプラハ。ハンガリーはブタペスト。イタリアはローマ、フィレンツエ、ベニス、ミラノ、アオスタ。スイスはジュネーブ、チューリッヒ、ツエルマット、ベルン。オーストリアはウイーン、ザルツブルグ……そうそう南西諸島のパラオもありましたっけ。空港だけというのもあります。ロシアのモスクワ、フィリピンのマニラ、イギリスのヒースロー、オランダのスキポール。

 こうしてみると、まだまだ行ってないところだらけです。南米大陸、アフリカ大陸、中近東は一つもありません。最も興味をそそられているのは、イスラーム圏諸国ですが、今年から来年の冬の期間に行くつもりでいます。その代わり、今回は、東南アジアでまだ足を踏み入れていないカンボジアへ行ってきます。アンコールワットのあるシエムリアップ、とプノンペンです。ラオスはタイの北部に位置する魔の三角地帯へ行ったとき、30バーツ払って一時間余り足を踏み入れたことがあります。今回、カンボジアへ行くことによって、東南アジアについては、全域について足を踏み入れることになります。

 カンボジアは20数年前まで内戦が続いていました。ポル・ポト政権、つまり、クメール・ルージュ時代は、虐殺が頻繁に行われていました。その数、200万人、300万人ともいわれます。知識階級は、「知識を持っているだけで死に値する」、という無茶苦茶な理由で、そのほとんどが殺されたらしいのです。当然、アメリカ、中国、ソ連、そしてベトナムの介入がありました。ポル・ポトという奇っ怪な人物が標榜した原始共産主義という思想の行使のお陰で、カンボジアは狂気が支配する国になったのです。その国がいま、どうなっているのか? 興味津々です。

 5月24日出発して、チェンマイ、バンコック経由で入ります。帰国は6月16日です。

 


2014年5月5日                長州人 (2)

 下関から僅か行ったところに、長州藩の古都「長府」があります。そこの名代の料理処「小串屋」に上がって、西部本社全体を率いる朝日会連合会長の安藤さんと二人だけで、一夕を共にしたことがあります。蒔絵の大皿に盛られた白のトラフグに舌鼓をうちました。興に乗った安藤さんが、三味線の爪弾きに合わせて高杉晋作の都々逸を唄いだしました。

 〈三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい〉

 中国道から少しそれたところに、東行庵という寺があって、そこが高杉晋作の墓所でした。彼が組織した武闘集団「奇兵隊」の墓も一緒でした。苗字帯刀を許されなかった〈捨松〉、〈作助〉などの墓石も片隅にありました。一段下がったところに、彼の二号さんの墓もありました。

 高杉晋作は幼い頃、疱瘡を患い、痘痕顔だったといいます。しかも、小柄でした。吉田松陰の松下村塾で免許皆伝の使い手になり、久坂玄端などとともに、四天王の一人として活躍するのですが、大刀を好み、引きずるようにしていた、といいます。

 晋作は船で江戸へ出て、幕府使節団随行員として中国へ行きます。そこで世界を見ます。帰国すると、過激なまでの行動に出ます。長州藩主からのお咎めもありました。蟄居を命ぜられたこともありました。そして27歳で死にます。27歳ですぞ。

 私が、高杉晋作に限りない愛着を覚えるのは、彼もまた、天才にありがちな若死にをしたからです。そして、辞世の句も奮っています。東行庵で実際に目にしました。

  「おもしろきこともなき世におもしろく」

 なお、坂本龍馬も33歳で死にました。いずれも若死にです。彼らは日本国の行く末を思い、全力で駆け抜けて行ったのです。明治維新は20代、30代の若者たちによって成された、と言って過言ではありません。

 高杉晋作は海外でレボルバーを仕入れ、龍馬に贈ったといいます。

 いま、吉田松陰、久坂玄端、坂本龍馬、中岡晋太郎、高杉晋作……全員が靖国神社に祀られています。長州人の末裔である安倍晋三が、靖国神社にお参りすることは、先祖に対する儀礼であって、あながち、攻めるのは理に叶っていないでしょう。しかし、靖国にはいつの頃からか、33人のA級戦犯も祀られています。天皇陛下ですら、その時からお参りに行かなくなりました。憲法には政教分離が謳われています。政治家である以上、どの宗教からも距離を置かねばなりません。

 安倍晋三には、高杉晋作同様、やりすぎのため、蟄居を申し付けねばなりません。誰がやるか?

 日本国民がです。

 

2014年5月4日                長州人

 長州とは、本州の九州寄りの山口県をいいます。江戸幕府から外様扱いにされた、毛利一族が支配していました。下関近くの長府へ行くと、城跡や武家屋敷跡が見られました。昔はともかく、決して豊かな県とはいえません。瀬戸内海寄りに栄えた徳山、宇部、防府、下関はまだしも、中心に位置する山口市は、これが県庁所在地かと思わせるほど、寂れた何もない街です。吉田松陰を輩出した萩や、その近くの津和野も有名な割には活気のないところです。

 朝日新聞西部本社のある小倉に単身赴任し、営業局長として2年弱、販売、広告、総務を担当しましたが、その際、山口県を隈無く見て歩きました。これといった産業はないのに、何故か、道路だけは県内縦横に張り巡らされていたのが印象的でした。猿しかいないだろう山の中に、四車線道路があったりしたのです。岸信介、安倍晋太郎など政治家のお陰といっていいでしょう。余談ながら、新潟県も道路が立派です。田中角榮のせいでしょう。

 山口県に足を踏み入れて、先ず驚いたのは、その気位の高さです。福岡、大分、熊本を始め、九州の人たちを「九州島の奴ら」 と呼ばわって平然としているのです。明治維新では薩長土肥の外様勢が活躍し、江戸幕府を終焉に導くのですが、中でも、長州の活躍は目覚しく、明治維新の基礎は長州人が築いた、と言っても過言ではないでしょう。その自負心が今に続いているようです。だからと言って、九州の人々を密かに軽蔑する長州人とは、一体、何様なのか? 理解に苦しみました。種田山頭火や、中原中也とは別次元の人間が長州には他県にもまして存在しているのでしょうか。

 つまり、「俺たちが日本を作りあげたのだ」、「日本は俺たちの先祖が心血を注いで作り上げたのだ」、「我が長州こそが日本の行く末を決めていくのだ」、という気概が、今の長州人の末裔にも、脈々として受け継がれているようなのでありました。

 時の首相安倍晋三を、その延長線上で捉えると、彼の政治的発言のヒストリーに納得がいきます。つまり、長州人は本質的には戦いたいのであります。戦さこそが、つまり、戦力の誇示こそが国家間のパワーバランスなる、と信じて疑っていないのです。憲法が謳う「戦争の永久放棄」など長州人には有り得ないことなのです。生粋の長州人である安倍晋三は、集団的自衛権などは閣議決定してうやむやにしながら、憲法9条そのものの改正に向かって突進したいのです。戦争ができる日本国にしたいのです。それが日本国のためだ、と固く信じて疑わないのです。

 幕末のころ、京都守護職にあって、新選組などを組織させた松平容保は、故郷の会津では名君でありました。会津出身の政治家渡部恒三は、その名君の誉を継ぐ硬派の政治家です。長州の勢いに「待った」をかけるのは、この政治家をおいてないのですが、如何せん、歳を取りすぎました。しかし、白虎隊の仇を討つののは今なのです。

 小倉に赴任中、山口県の朝日会の皆さんを連れて、福島入りをしたことがありました。折りから、福島空港が完成し、局長の私が福島を5年担当したことを聞き及び、60人余の団体で会津東山温泉ほかに行きました。宴会の際、芸者さんが聞きました。

      「おめさん方、どこからおいでやんした、えー」
      「山口県だ」
      「山口言うたら、長州かえ?」
      「そうだ」         

      「おい、みんな、この人らは長州だど」  
       芸者全員
 「ええーっ」
      「仇を討つのは今だど、煮え湯をお酌してやらっしゃい!」 

 これは本当にあった話です。

 

2014年5月3日                読書週間

 世の中は連休の真っ只中です。海外を含め、行楽地の賑わいは凄まじいでしょう。三人の男の子が小さかった頃は、せがまれて、こどもの日を中心によく旅に出ました。しかし今は、引きこもり症候群をきめこんでいます。努めて読書に没頭しています。それに、ピアノ練習です。寒い時は暖房のない地下音楽室に入るのがいやで、等閑にしていました。音楽室に暖房を入れないのはピアノが狂うからです。温度、湿度を一定にしておくことはピアノ維持の条件です。7月の初旬、清里の小さなホールで自分のためだけの演奏会をやるので、新しいレパートリーの練習も始めています。一緒に行く仲間たちが聴いてくれる時もあります。音響の極めて良いホールで弾くのは無上の楽しみです。

 司馬遼太郎の短編小説全集は、読み始めて6巻目となりました。1〜2巻目の頃は、「何だ?これ」というものばかりでしたが、次第に変わってきました。読み応えのあるものばかり、となってきました。作者は幕末の新選組が活躍する、京を舞台にしてものを得意としているのですが、時代考証や人物往来など精緻を極め始めました。しかも、面白いのです。昨晩などは10時から読み始め、気が付いたら夜中の2時を回っていました。一人の人物に光を当て、時代という波の中で生きていくその有様を、高みから俯瞰し、その人生の面白さを描き出す手法は、短編小説であろうとも、「菜の花の沖」、「坂の上の雲」、「龍馬がいく」 などに引けをとりません。偉大な文豪なのだなあ、と改めて思っています。

 


2014年4月30日            痛ましきは若い命

 韓国の海難事故は痛ましさを通り越して、怒りに替わりつつあります。昨日、凄まじい映像が流されました。半ば傾いた客船に救助艇が到着しました。本来なら、「総員退船」の命令が出て、救命胴衣をつけた乗客が、海に飛び込んでいてもおかしくない状態なのに、傾いて、沈みかけている船の中では 「静かにしてください。動かないでください」 というアナウンスが流れていたといいます。だから、傾いた船は不気味に静まりかえっています。

 そして、救助艇に乗り込んだのは、パンツ一枚の船長ほか乗組員たちでした。船長が、船の最高指揮官であるべき船長が、大勢の修学旅行生を放ったらかしにして、われ先に、と逃げたのですぞ!

 非常事態になった場合、船長は乗客の安全をまず第一にします。乗組員を総動員して、救命ボートの手配をします。乗客に救命胴衣をつけさせ乗り組む指示を出します。最後の一人が退船したことを確認してから、自分の身を処するのが、船長としてのあるべき姿でありましょう。あぁ、それなのに、この船長は乗客を放ったらかしにして、パンツ一枚の姿で、救助艇に乗り込んだのです。

 船会社にも問題があります。船のバランスを考えるより、積荷を優先しました。この大型客船は積載量をオーバーして車輌を乗せていました。効率を優先していたのです。そして、責任感が欠如している人間を船長にしました。未熟な女性三等航海士を雇いました。三重の罪が問われています。

 たまらないのは、若き命を失った家族たちでありましょう。そして何よりも、「動かないで」という指示に従って、むざむざ海底に消えていった300人余りの高校生たちでありましょう。

 この事件は海難事故ではありません。おぞましい人為的殺人事件です。船長ほか組員は極刑に値します。

 〈追記〉 更に驚くべき事実が分かってきました。25歳の女性三等航海士は、この航海が始めてであったこと、無責任船長は一年間の契約船長で、月給が27万円であったこと、積荷は積載量オーバーの上に固定装置が作動していなかったこと、つまり、船会社そのものの経営が杜撰で、この船に乗船するのは玄人の船乗り達は、皆、敬遠していたことなどです。

 

2014年4月27日             書籍が捨てられない (2)

 私の少年時代、本は高額で、貴重品扱いでした。中勘助〈銀の匙〉、ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」、小林多喜二「蟹工船」、倉田百三「出家とその弟子」、竹山道雄「ビルマの竪琴」、亀井勝一郎「古都巡礼」、三木清「哲学ノート」、小林秀雄「モーツアルト」……

 苦労して購入し、貪り読みました。ロマンロランの「ジャン・クリストフ」は、その 数巻を買うことができず、長野高校の図書室で読みました。その後、ロマンロラン全集を片山敏彦訳で揃えました。この全集の最初の訳者は豊嶋与志雄ですが、片山さんの訳の方が、断然、光っています。それに、片山さんは上野先生と親交があり、お亡くなりになる前に一度、先生に伴われて、片山さんにお会いしたことがありました。

 浪人から学生時代にかけて、私は4度も転居を重ねるのですが、これらの本はその度に私に付いてきました。一切の学費、生活費は自分で賄わねばならず、連日のアルバイトで身を磨り減らしているのに、本は増えていきました。埴谷雄高全集が加わりました。三島由紀夫もその全部を手にしました。そのうち、マルクスエンゲルス全集、資本論、反デユーリング論も加わってきました。

 これらの本は、いま、地下音楽室の書棚で眠っています。そのうち読み返そう、と思うものの、ほとんどその機会はやってきません。つまり、死蔵されているだけです。だったら、処分してしまえばいいではないか、と皆さん仰るでしょうが、そう簡単ではないのです。一冊、一冊に私の青春が詰まっているのです。私の過去そのものが、これらの本の中にあるのです。それは不思議な感覚です。電気製品、OA機器、衣類、食器の類は、喜び勇んで処分できても、本となると、そうはいきません。

 私は、今は紙くず扱いになってしまっている書物の山に、埋もれて死ぬ以外にないのでしょうか。

 


2014年4月26日             書籍が捨てられない

 断捨離にとりかかって、数日経ちます。学んだことは、捨てるにも金が掛かることです。今日はテレビ2台と、単身赴任時代に使った冷蔵庫の処分をしました。19850円かかりました。3台あるデスクトップパソコンのうち最初のものを処分するのですが、メーカーに引き取らせなければならないとのこと。面倒な手続きをして、しかも二週間待って8560円とられるとのこと。アンプやスピーカー、ビデオデッキなど30センチを超えるものは、コンビニで300円のシールを購入して、現物に貼り付けねばならないこと、4台のスキー、ストックも同じです。イヤハヤであります。

 まとめて、車に積んで、どこぞの山間に捨てたらどんなに楽か、と一瞬、頭を掠めるのですが、曲がりなりにも良識のある私に、実行できる訳もありません。

 夥しい数の靴の類は、燃えるゴミ扱いできることを知りました。木工製品は解体して30センチ以下にすれば捨てられることも知りました。プラスチックスも解体すれば捨てられるようです。衣類は、殊に数十着ある背広類はどうするか。「古着をお持ちください」というリサイクルショップを見つけましたので、持ち込んでみようと思います。

 困ったのは本の山です。どの本にもそれぞれ愛着があって、十把ひとからげにして、ブックオフに持ち込むことなど、何と言われようと出来そうにありません。持ち込んだとしても、恐らく一冊10円で引き取られるのがオチでしょう。私という人間の糧となってくれた数々の書籍には、それぞれの思い入れがあって、その末路を10円なんぞにしたくはありません。

 私の小学生時代、4年から6年まで担任したくださった上野先生は、思想家であり、哲学者であり、画家でもありました。しばしば、お宅に伺って、課外授業を受けましたが、その蔵書は並ならぬものでした。人間教育こそが教育の正しいあり方だ、として身体でぶつかって来た先生によって、今日の私があるのですが、先生がお亡くなりになって困ったのは、その膨大な蔵書です。地方自治体に寄付を申し出ましたが、取り合ってくれませんでした。図書室の一隅に「上野文庫」を作るべく、奔走しましたが、失敗しました。

 時代は、本をただの紙くずにしていたのです。そうなのです。貴重この上もなかった書籍が、今は、ただの紙くず扱いなのです。

 断捨離を始めた私は、いま、最初の関門に突き当たり、たじろいでいます。どなたか、いいお知恵をお貸し願えませんか?

 


2014年4月25日                近隣外交

 お隣の韓国で、修学旅行の生徒大勢を乗せた旅客船が沈没し、300人余りの若い命が海底に消える、という痛ましい事故が起きました。25歳の女性3等航海士に、操舵を任せた船長も責任もさることながら、急を聞いて駆けつけた家族たちの狂乱ぶりには、目を見張るものがありました。女性が救難当事者に殴りかかっていきます。凄まじい罵倒を浴びせます。大統領にさえ失礼と思われる仕草をしていました。

 我が子を無くすその悲しみは、想像を絶するものがあるでしょう。半狂乱になって当たり前かと思います。しかし、同じことが日本で起こったら、日本人の家族はどういう振る舞いをするでしょうか。どんなに辛く、悲しくとも、女性が半狂乱になって、男性に殴りかかるようなことはないでしょう。

 韓国人の気性の激しさは、つとに知られているところでありますが、それは韓国民族の精神的支柱であった儒教の衰退に関係する、と私は思います。一方、大和民族には神道を元とする武士道がいまも生きています。耐えること、慎み深くあることが精神の底流にあると思われます。日本人にとって忌まわしい軍国主義の時代にも、武士道はあったと思います。

 新渡戸稲造の「武士道」は優れた英訳もあります。戦前のアメリカでベストセラーになりました。名著であります。今の若い人たちに読ませたいこと第一番の書物でありましょう。

 韓国では、相変わらずの慰安婦問題を、日本へ国賓で来て韓国へ渡ったオバマ大統領の口から言わせました。中国では今から78年前に起きた船舶の賃貸料を巡って、三井商船の鉱石運搬船が差し押さえられました。近隣諸国と事を構えるなというアメリカの示唆があっても、相手がかさにかかって行動してくるのでは、やがては、堪忍袋の緒が切れようとしたものです。

 いま、東京都の舛添知事が北京市長の招待を受けて、歓迎を受けています。石原知事ではこうはいかなかったでしょう。尖閣問題の発端は石原にありでありました。ただ、排気ガス公害に大鉈を振るったのは石原知事の功績でありました。東京都の排気ガス規制についてのノウハウを、北京に教えてやる筋道を作ってきてもらいたいものです。「舛添くん、頑張ってこい」と言ってあげましょう。

 


2014年4月23日            断末魔の資本主義

 ロスアンゼルスの街を歩いていて、「ここから先へ行ってはならぬ」 と申し渡された経験があります。確かに、そこから先は黒人たちが道路に寝転んでいました。進入禁止区域は、ロスの街に数箇所ありました。ニューヨークにも、それはありました。好奇心に駆られて、友人三人で踏み込んだことがありましたが、黒人の集団にジロリと見られ、その不気味さにたじろぎ、早々に退散したことを、昨日のように思い出します。

 税金はアメリカにおいても、収入の高によって決まります。富裕層の収める税金が高いのも、いわば当然であって、自治体はそれによって運営されていきます。収入がない貧困層でも、公共の施設が利用でき、医療費免除などの恩恵に預かることができていました。図書館などが良い例で、誰でも利用できました。

 ところが、最近、アメリカの富裕層の中で反乱がおきています。なんで、我々は高い税金を収めなければならないのか、収める税金に見合う恩恵を受けているだろうか、何で、遊び暮らしている低収入の輩に我々の税金が使われねばならないのか、不公平ではないか、我々は見返りののない税金は払いたくない、地方市町村から離脱し、我々だけのコロニーを作ろうではないか、という動きであります。

 驚いたことに、その運動は実際に実行に移され、富裕層だけの自治体が組織され、税収入の減った市町村が公共サービスの質を低下させる事態になっている例が、あちこちに起こり始めたのです。その傾向は、燎原の火のごとく、全米各地に広がっているといいます。

 アメリカの富の偏重は、このところ極端に進んでいるようです。アメリカの富の四分の三は、僅か全人口の1%の人間が握っている、とはよく言われます。約3億人の1%といえば300万人です。

 貧困層のほとんどは黒人や、ヒスパニック系です。富裕層はユダヤ系、アングロサクソン系、中国系などの白色、黄色人種です。

 民主主義は人種的差別を否定しています。でも、資本主義は結果として人種差別そのものを惹起してしまっています。

 税収が減って公共サービスの質が極端に減った市や町にも教会はあります。黒人やヒスパニック系が敬虔な祈りを捧げています。一方、旧共同体を離脱して、新たなコロニーを作った富裕層だけの自治体にも教会はあります。人々は、同じく、敬虔な祈りを捧げています。

 一体、何を祈っているのでしょうか? キリスト教、仏教、イスラム教を問わず、宗教は人間の平等の精神をその教義で貫いています。たまたま富裕層の仲間入りしたからといって、その財を全体のために奉仕するのを回避し、富裕層だけの囲い込みを始めるとは、言語道断でありましょう。人倫にもとります。どんな立派な教会を建てようが、いかに真剣に祈ろうが、それはバベルの塔以外の何物でもありません。

 一方、黒人やヒスパニックで構成されている教会では、ジャズが演奏され、踊り狂いながら祈りと称するものを捧げています。退嬰的でさえあります。どんなに一生懸命に働こうにも閉ざされた社会には出口はなく、かつてのアメリカンドリームが否定されて久しくなっていても、古い言葉で言えば「仁義礼智」を失ったままでいていいものでしょうか? 暴力と麻薬に支配されていて、一体、何を祈っているのでしょうか?

 双方に問題あり、としても、こういう現象を黙認しはじめているアメリカ社会は、許される存在でしょうか?   爛熟した資本主義の、断末魔を垣間見る思いがしてなりません。

 


2014年4月22日                断捨離

 沖縄にある昔ながらの墓のほとんどは、山の斜面に掘られた洞窟で、墓の前は親族が集まって酒盛りができるほど広くとられています。先祖を大切にする慣習は、今に続いています。この世とあの世は繋がっているという古来からの認識が、死ぬことを恐れない習慣を醸し出しているように思えます。

 そのせいか、沖縄の人はある一定の年齢に達すると、自分の死への準備を始めます。所有しているものを、親戚縁者に上げ始めます。貴重品、衣類、身の回りの品々、全てを処分していきます。物に執着していた自分との戦いを始めるのです。

 私が知っている85歳のあるオバアは、すべてを処分し、数枚の下着だけを枕元に置いて旅立っていきました。いまはの際に、苦しそうだったので、家人が「オバア、水飲むかい?」 と聞いたら、オバアは首を横に振ったそうです。「何で飲まんの?」 と聞いたら、オバアは苦しそうに 「途中で粗相するから…」と答えたそうです。

 いい話です。人生の幕を閉じるときは、是非、こうありたいものです。沖縄では、こういう話は美談でも何でもなく、極く普通の話だ、というから畏れ入ってしまいます。

 物への執着を断ち切り、自分が一生かかって集めたものを処分していくことを、断捨離といいます。

 既に、私も実行しています。先ず、モノを買って自分の所有物にすることを、意識的にやめました。洋服など、どんなにいいなあ、と思っても買いません。今までに買って着古したものだけで充分です。ただ、クロゼットに入っている夥しい古着の捨離が、まだ、出来ていません。書画骨董など、所有欲が出ても抑えます。ただ、所有しているものを、人にあげたり、壊したりすることがまだ出来ていません。中途半端であるのは否めないのです。一番の問題は、所狭しに置かれている本です。数百枚あるCDです。グランドピアノとローランドのグランド型キーボードです。地下室と仕事場にある音響機器です。

 しかし、やらなくてはなりません。時間は限られているのです。

 名古屋の八事の火葬場で、従弟の残骨と共にあって激しく慟哭した理由の一つは、この姿こそが明日のわが身であって、その時は、迫っているのだ、と心から納得したことによります。

 今日からの一週間、予定は何もありませんので、先ず衣料、使わなくなった背広類、ただ存在しているだけの食器類の処分から始めます。

 


2014年4月21日              高野山

 弘法大師こと空海には「風心帖」という優れた墨跡があります。一昨年、国立博物館で開かれた「高野山と天台仏教美術展」で一般公開され、私も、その国宝を観に行きました。折りから書道塾でやっていたのが、その「風心帖」の模写でありました。一般の古筆と違って、空海の書は筆使いが違います。俯仰法という、独特の書き方をしないと表現できません。筆を斜めにしたり、俯かせたり、紙と並行にしたり、兎に角、自由奔放なのが空海の書の特徴でした。長恨歌のような長いものではありませんでしたが、一年ほど空海を勉強しました。

 畝傍、耳成、香久山の藤原京は桜が満開でしたが、奈良から和歌山に入り、標高800メートルの高野山に入ると雪が舞っていました。廷々とした樹齢千年は超える杉木立の山間に、無数の墓が林立し、不気味といえるほどの静寂がそこを支配していました。信長、秀吉、家康の墳墓もありました。トヨタ、日産を含む現代企業の立派すぎる墓もありました。案内人の説明によると、明治以後のあらゆる企業の永代供養塚があるとのこと。加えて、約1300年余に亘って日本を支配した恐ろしい数の先人の墳墓があるとのこと。

 なる程、ここは日本人の魂の霊場だと思わされました。1キロほど左右の墳墓に挟まれた道の果てに、奥の院がありました。そこは、空海の奥津城でした。四国88箇所の霊場巡りをしたあと、お遍路さんが最後に訪れる弘法大師のお寺でした。京都や奈良の観光寺と違って、仏教が現代に息づいている雰囲気が漂っていました。地下室に案内されました。無明の灯火を眺めていると、弘法大師の胎内に入っているような錯覚を覚えました。空海は63歳の時、3メートルの穴を掘らせ、自らその穴へ入り入定したそうであります。

 熊谷寺という宿坊に泊まりました。高野豆腐、卯の花、がんもどきの煮浸し、昆布の佃煮、味噌汁の夕食がご馳走に思えました。6畳の粗末な個室に石油ストーブが焚かれ、薄暗い灯火の元、自分で布団をしいて休みました。翌朝、3センチほどの雪が高野山を包んでいました。

 「また、来よう、来ないでおくべきか」 と思ったことです。

 


2014年4月19日                慟 哭

 名古屋の平安会館という斎場へ、通夜開始2時間前に到着した私は、物言わぬ従弟と対面しました。決して安らかな寝顔ではなく、病魔との戦いの苦しみがそのまま表れていました。先月28日、見舞いに訪れた時から20日余り、本人は生きることに望みを繋いできたのでしょうが、延命治療は本人にとって幸せなことだったのかどうか、考えさせられました。現代医学は命を繋ぎ留めるために、あらゆる手を尽くします。病人の苦しさにお構いなく、治療が施されます。少なくとも私の時は、そうあっては欲しくない、と周囲に申し伝えるつもりです。

 翌日の葬儀の時、故人について語ってくれ、とご指名があったので、つれずれなるままに語りました。山形の名門山形東高校時代は水泳選手として国体に出場したこと、明治大学時代の同級生だった彼女が今の奥さんであること、韓国、台湾、中国との貿易を通じて国際交流に貢献したこと、関係のあった各国の友人たちが、彼の死を悼んでいること、葬儀には間に合わないが上海の「グ」さんが20日に弔問に来日すること……

 火葬は八事葬祭場で行われました。大都市である名古屋には、不思議なことに火葬場は八事以外にないことを知りました。昨日が友引であったせいか18日一日で84件の荼毘があったそうです。何もかもが流れるように行われていました。骨壷も今は小さくなり、頭蓋と顔だけが取り分けられ、骨移しも二人ひと組10人に制限されていました。骨あげも終わり、私は、彼の変わり果てて横たわる残骨の横に佇みました。余熱が私を包ました。その時です。激しい慟哭が心の底から持ち上がりました。呻き声を上げながら、彼を焼き尽くした穴ぐらを睨み、泣き続けました。

 


2014年4月14日           小保方さん どうなる?

 理化学研究所というのは、全く オカシな組織です。自分のところの研究員の論文発表に難癖をつけ、ノーベル賞受賞者で理事長の野依さんまでが「論文は極めて杜撰であり、捏造に等しい」とまで記者会見で言っているのですから。一方、割烹着の研究者に協力した内部、外部を問わず、数人の協力者までもが、及び腰になり、実体を泥沼化させています。彼女を指導したのは、理化学研究所の副理事長であったのではありませんか。科学者の群れの、権力闘争と言われても仕方のない様相になってしまいました。

 彼女の出身校で、我が母校の早稲田大学までおかしくなっています。博士論文の全てを精査し、疑わしき論文提出者は学位を剥奪するというのです。全く独創的な学位論文などあるわけないのに、であります。

 私の卒論は枕にできるほど厚かったのですが、先人たちの文章の引用が大部分でありました。出典を明らかにしさえしておけば、それは許される、と私は思っています。ドクターコースでの学位論文で、先人たちの業績の引用がダメだというなら、ナニオカイワンヤでありましょう。

 訳知り科学者は、スッタップ細胞の存在の過程が詳らかにされない以上、悪意はなくても捏造に等しい、と言っています。実験ノートが提出されない限り、そしてその発見過程への入念な事実が公表されない限り、疑念を持たざるを得ない、と言っています。本人が、いくら、スタップ細胞の存在は真実だ、私は200回も成功した、といっても自己満足は通用しない、と言うのです。

 それはそうでしょう。しかし、全ての新しい発見には利権が伴います。特許の申請が不可欠になります。外国の研究機関も、鵜の目、鷹の目で狙っています。おいそれとはその全貌を発表できないのは、自明の理です。彼女には有能な弁護団が付きましたから、尚更、軽薄なことはできないでしょう。

 9日の1時から行われた彼女の記者会見は、2時間半にも及びました。丁度、その時間、プレスセンターの記者クラブにいたのですが、テレビの前は黒山でした。彼女は健気でした。一生懸命でした。男どもが寄ってたかって虐める図式に、彼女を贔屓にしている私は嫌になりました。

 そうなのです。私は彼女を信じているのです。彼女が早稲田の後輩である以上に、リケジョとして賞賛したい思いでいるのです。彼女は、日本のベートーベンを気取ったあの忌まわしい佐村河内 守とは違う筈です。

 


2014年4月10日           サクラ、さくら、桜

 古の人は、この時期になると、心穏やかではいいられなくなる、と書き残しています。現代人とて同じではないでしょうか。この10日間、あちこちの桜を見て歩きました。下手な句を並べます。

         醍醐寺の桜 涙腺失禁症

         露天風呂 覗いて咲きし 桜かな

         ひと枝が 紺碧の空 かき回す

         鹿威し 鳴るな 桜の花が散る

         奥の院 仏の慈悲の 桜かな

         秀吉がそこに 醍醐の桜かな

         豪勢な 花見は今年で400年

         桜散る 盲導犬の 足元に

         散る桜 ああ散る桜 散る桜

         高野山 蕾の桜に 雪淡し

         おお桜 寒かろ今朝は 雪化粧

         吉野山 さくらさくらの しとねかな

         天と地の 時を刻んで 桜散る

 


2014年4月4日                 白いブランコ

 テレビを点けたら、年老いたビリーバンバンの二人が「白いブランコ」をやっていました。三度の和音でハモるところが良くて、この曲は、私と、一つ年下の名古屋の従弟の持ち歌でもありました。銀座で、名古屋で、台湾で、上海で、どれだけ歌ってきたことでしょう。

 6年前に胃の全摘手術を受けた従弟が、危篤だという知らせを受けたのは先月の27日のことです。翌朝、一番の「のぞみ」で名古屋へ行きました。2月19日に名古屋日赤に入院し、放射線治療を受けたものの、思わしくなく、三の丸病院というがん末期病棟に移されていました。なぜ、もっと早く知らせてくれなかったのか、従兄弟の嫁さんに言いたかったのですが、それも、詮無いことでありました。

 放射線のおかげで丸坊主で、モルヒネで朦朧となっている彼が、個室のベッドに横たわっていました。「信男さんだよ」と嫁さんが揺り動かしても、薄目を開けはしたものの、認識できないようです。

 手を握り、頭や身体を摩り、一時間ほどしたあと、突然、嫁さんと私の会話の中に割り込んできました。瞬間的に意識が回復したのです。山形弁で彼に語りかけました。彼は高校まで、父親の郷里である山形にいたから、二人で会うときは時として山形方言になることがあったからです。幼い頃を思い起こさせようとして、「山形では、トンボはアッケ、蛙はビッキだったなあ」 というと、彼はか細い声で「ハツオンガ、ダメダア…」と言いました。驚きでした。よし、これは分かっているなあ、と私は嫁さんと、私の臨死体験の話をしました。昔、フグにあたって死にかけたときの話です。いよいよ死ぬときは、苦しみはなく、美しい世界が迎えてくれること、人は必ず生き返ること、あちらの世界にもゴルフ場があるから、予約をとって待っていて欲しいこと、などなど。

 そして、最後に、「どうだい、生まれ変わったら、また正子さん(嫁さんの名)と結婚するかい?」 と言ったら、彼は深く頷きました。ずっと聞いていてくれたのです。「白いブランコ」を歌いたかったのですが、さすがにそれは止めました。お茶を吸呑で飲ませてやりました。何か食べるか、というと頷くので、ゼリーがいい、と嫁さんというので、向かいの市役所の地下にあるコンビニへ買いに行きました。プリンやゼリーやヨーグルトを買って戻ってくると、留守中に看護婦さんが来て、下を取り替え、新たなモルヒネを身体に貼ったようでした。再び昏睡状態になっていました。

 「本人は疲れているのでお帰りになってください」 と看護婦さんが言うので、今日は家へ帰って寝ます、と言う嫁さんと外へ出ました。道路際の桜が折りから満開でした。二人で足を止め、しばし、桜を見続けました。

 あれから、今日で一週間が経ちました。知らせは、まだ、ありません。奇跡的に回復するのを心から念じています。そして、二人でまた、「白いブランコ」をハモりたい。

 

2014年4月3日                 道の駅

 ドライブしていて楽しいのは、道の駅に時たま遭遇することです。好奇心が旺盛な上に、人間が浅ましく出来ているためか、道路標識に道の駅があると、ほとんど寄ってしまいます。一昨日は山梨の清里で、チェンマイの教会の会友の方々と、楽しい語らいをしたあと石和に泊まり、翌日は富士山を眺めながら、湖畔の富士屋ホテルの厄介になり、西湖、精進湖、本栖湖巡りをしました。そこにも、道の駅があったのです。

 関東平野は桜が満開でも、富士山麓は至るところに残雪だらけです。だから、道の駅の野菜売り場に地元産のものはほとんどありません。九州産の果物、四国産の野菜のほか、幅をきかせていたのは中国産の野菜や加工品でした。

 日本で売られている野菜の半分近くは、中国産であるといいます。そのことに、私たちはもっと、もっと関心を持つべきではないでしょうか。農薬漬けで生育され、保存料が必要以上に使われているものを、私たちは、単に、安いからという理由で安易に買い求めてしまってはいないでしょうか。

 中国産の野菜を、ある試薬と一緒に水に漬けておくと、驚くべき変化が訪れます。水が白濁してくるのです。つまり、瑞々しさを保つために使われている保存料が、溶け出すのです。薄々、中国産は危ないという認識はあっても、私たちは価格が安い故に買い求めていますが、この恐るべき現実には目をつむっています。

 考えて見るまでもなく、富士山麓は、まだ冬です。どこにも野菜は生育していません。それは山梨の清里で同じです。そこには、地元産の新鮮な野菜や果物はありません。雪に埋もれた期間、私たちは危険を知りながら、農薬まみれの中国産の野菜を、約半年近く、買わざるを得ないのです。

 つくづく、考えさせられてしまいます。スーパーや道の駅で売っている緑色野菜や、大根、人参、ジャガイモなど、どれもこれもが輸入品であることにです。

 日本人の食生活は、海外産の農薬や保存料まみれの野菜、果物に依存しすぎている、ということにです。もっと、もっと、日本人は食の自給に気を配るべきではないか、ということにです。

 今年の冬は長かったですね。約半年、雪国を含めて野菜の栽培は不可能でした。だからと言って、農薬まみれの海外野菜に頼っていていいものでしょうか?

 


2014年3月26日                歯 痛

 愛犬のシーズー、名前はちゅら、退院してから6日目に経過診断で病院へ連れていったところ、経過は良好で、異常だった数値も極端に下がり、体重も増えていました。病院を紹介してもらった川口のペットショップで、お礼方々シャンプー、トリミングをしてもらってから行ったので、病院の看護婦さんや先生からも、「この仔は大人しくて可愛いね」と言ってもらいました。またまた、検査料など1万円取られましたが、25万余円支払った甲斐はあった、というものです。

 一方、奥歯の痛みは、一日おきに近所の掛かり付けの古田医院に通って、その都度、膿を出してもらってはいるものの、一向に良くなりません。痛みは極限に達し、その上、顔の右半分が腫れてきたではありませんか。 「これは、イカン」 と水道橋にある東京歯科大学水道橋病院へ駆け込みました。若い学生の医者や指導教官ら、4,5人が代わる代わる診察したり、写真を撮ったり、削ったり、穴を広げたり、寄ってたかって治療してくれました。お陰で最も痛かった患部の痛みは取れたものの、今度はその隣が痛み出し、今日は近所の医者による、その周辺治療が始まりました。ほっぺたの腫れは、まだ、収まってはいません。

 昔から、歯だけは丈夫で、小さい時からカルシウムの摂れる食事に気を使ってくれた母親に感謝、だったのですが、なぜ、こうも急激に歯の損傷が始まったのか、ガテンがいきません。四月下旬から四週間余りの外国旅行を念頭においているのですが、もし、旅行中に痛み出したらどうしたらよいのか? それを考えると引っ込み思案になってしまいます。

 夜中に痛み出し、痛み止めの薬も効かなくなり、当然、寝ることもできず、ひたすら、朝9時の診察までの時間を悶々としながら時を数える、という、かつてない経験をしました。

 痛みは、人間をただの動物にします。考える力を奪い、本を読もうにも身が入らず、元より、パソコンに向かう気力など、とうになくなり、テレビのニュースも絵空事となってしまいました。

 兎に角、この2,3日が山です。29日から来月6日まで、予定行事が詰まっていますので、気が気ではありません。ただ、こうやって、一週間ぶりにパソコンに向かうことができるようになったのも、痛みが少しだけ和らいできてくれたお陰です。どうか、早く治まってくれ、と祈るような気持ちです。

 

2014年3月21日             春、遠からじ

 今日はお彼岸だというのに、氷雨が降り続いています。山沿いは恐らく雪でしょう。家の猫額の庭に咲く八重の白梅は散り始めているのに、公園の桜は、まだ、硬い蕾のままです。きっと、一挙に咲いて、一斉に散るのでしょうか。今年ほど、冬の寒さを感じたことはありません。東北や日本海沿岸の人たちも同じ思いでしょう。何しろ11月初旬から4月初めまで、雪と共にあるのですから。太陽の黒点のせいにしても、異常気象であるのは間違いありません。

 それでも昨日は、春一番が吹き荒れました。産地直送店には、蕗のとう、タラの芽、せり、ノビルなどが店頭に並んでいました。

 買ってきた蕗のとうを軽く茹で、みじん切りにして、酢味噌を加え、そこへ鰹節粉を適量入れてアツアツのご飯でいただきました。春を感じました。タラの芽はほとんどが栽培ものなので、買いません。自生のものとは味が極端に違います。今年こそ、都機川渓谷の、自分だけの秘密の場所へ行って、タラの芽を採ってこようと思います。世間ではタラの芽は天ぷらにしますが、油を潜らせると極端に味が落ち、別の食べ物になります。

 沸騰した鍋に10秒間入れ、水で冷やし、みじん切りにして、上等の醤油を垂らして、アツアツご飯でかき込む。これに勝る春の美味は、そうありません。

 アイコ、コシアブラ、行者ニンニク…… いづれも春の山菜で、旨さこの上ないのですが、栄養学的に言うと、カリウムの含有量が極端に多いらしく、多量に食べると尿酸値が跳ね上がるから要注意です。

 数年前、佐々木愛さんの文化座公演のお供で秋田へ行った際、帰りに市場で山菜をヤマと仕入れ、一週間それらばかり食べていたら、痛風の発作が起きました。尿酸値が異常に跳ね上がった結果でした。

 でも、行者ニンニク入りのオムレツは旨い。ごま油でサッと揚げたコシアブラは美味の極致。アイコのおひたしは山菜の女王。弱ったものです。

 野菜工場で、人工光を浴びて育てられた野菜とは、似てもにつかない自然そのものの食材。

 もう直ぐです、彼らに会えるのは。

 

 
2014年3月19日              ヨブ記

 昨年12月、タイ・チェンマイの野尻牧師から「中沢さん、まず、聖書です。聖書を読むことです」と仰って頂いてから、毎日聖書を読んでいます。朝夕、寝床でIPADを弄っていますので、その次いでと言っては何ですが、読んでいます。ルカ、ヨハネ、マルコ、マタイの4福音書から始めて、ロマ書、コリント前後書、ピリピ書…

 ようやく、新訳聖書を読み終わり、旧約聖書に入りました。約3ヶ月かかりました。文語体の聖書に慣れ親しんだ者としては、口語訳は何か物足りないのですが、仕方ありません。

 旧約は創世記から始まっていますが、それは飛ばして、先ず、ヨブ記から読み始めました。神を信じ、正しい行いをしながら財をなし、大家族を作り上げたのに、何故か、次々に財を失い、家族を失い、自身も回復困難な病の床に伏し、それでも神を信ずるヨブという哀れな男の一代記、という先入観を持って読み始めたのですが、読み進むにつれ、その難解さにたじろいでいるところです。ヨブという男を通じて述べられているのは、壮大な哲学でありました。一字一句ゆるがせに出来ない宇宙観がヨブ記には秘められているのでした。

 実に、骨っぽい。述べられている言葉が意味する深淵にたどり着くのには、何度も、何度も、読み返せずには理解できない。理解し得た、と思っても、それは皮相的な見方でしかないかもしれない。そう思わせるほど、ヨブ記は奥が深い。

 私としたことが、今までに新訳聖書には慣れ親しんだものの、旧約聖書は、そのうちに読もう、と等閑にしてきました。「だから、だめだった」のかもしれません。「読むことです」と示唆してくださった野尻先生に感謝しながら、今日もこれから難解なヨブ記にとりかかります。

 

 2014年3月17日             愛犬の退院

 愛犬のシーズー、名前はちゅら、今日、退院しました。家に着き、仏壇に感謝の報告をさせたあと、愛犬はいつもの餌をモリモリ食べ、水を飲み、家の中を一通り歩き回り、安心しきった顔で私を見上げています。

 実に、幸せな気持ちであります。10日間で都合5回、車で片道約40分の病院まで往復しました。

 X線写真5回、血液検査5回 、肝臓細胞の生検1回、そして卵巣摘出手術。5日後にまた連れて行って抜糸となります。加えて、薬代、餌代、10日間の入院費用。支払い合計254、500円也。

 金額を聞いたときは「ギャっ」となりました。シーズーの子犬2匹分の値段であります。人間なら健康保険で3割負担で済むでしょうが、犬ではそうはいきません。今後のこともあるでしょうから、犬の保険をネットで調べてみました。10歳犬ではどこの保険もオフリミットなのが分かりました。

 そこで、決心しました。愛犬の次の入院のために、節約を重ね30万円を別枠で預金しておこう、というものです。生き物を飼う以上、それをして当たり前、と思うことにしました。いやはや、であります。

 この10日間、いろいろなことがありました。高校の友人5人と奥多摩で一泊し、翌日、青梅の吉野梅里を観に行きました。かなりの残雪の中で蝋梅、紅梅が咲き始めていました。4年間続いている行事です。同じ仲間でも、大学となるとそうはいきません。高校時代を共有した仲間こそが、生涯を通じての友人となるように思えてなりません。これは不思議です。

 6日間は、かつてない歯痛に苦しみました。入れ歯など全くないのが自慢なのですが、今日、奥歯の底に潜んでいた膿を出してもらいました。嘘のように痛みが去って行きました。

 愛犬がいないという心の空虚さと、歯の執拗な痛みという肉体的苦痛が重なると、エッセイを書こうという気持ちがどこかへ飛んでいってしまったことに、改めて気付きました。書きたいことは山ほどあったのに、です。

 マレーシア航空のこと、クリミアのこと、スタップ細胞のこと……

 人間とは弱いものだなあ、と、つくづく、思い知らされているところです。
 

 

2014年3月7日              愛犬の入院

 愛犬のシーズー、名前はちゅら、今日、入院となりました。三週間ほど前から体調に変化を来たし、とうとう、餌も食べず、糞もままならず、ただ、寝込んでいるだけとなりました。掛かり付けの近所の小さな病院では、肛門から触診などしてくれましたが、特段の異常はなく、薬と特製の餌を処方してくれました。ところが、餌は食べず、薬も吐き出します。設備の優れた光が丘動物病院へ連れて行きたかったのですが、そこは、先代の同じくシーズー犬のテツが心臓病のため、安楽死を余儀なくされました。余韻はまだ残っていて、そこへ連れて行く気になれません。思い余って、二匹のシーズーを売ってもらった、川口駅前のシーズー犬専門のペットショップへ、相談を持ちかけました。紹介してもらった蕨市の青戸動物病院は大きな構えの、「ここなら」と思われる病院でした。

 朝、預けて、精密検査をしてもらった結果を、夕方聴きに行きました。血液検査、レントゲン、触診、エコー検査など、正に人間並みの検査をしてもらっていました。

 状態は芳しくない、抗生物質を含む点滴実施中である、二、三日入院治療して、少しだけ状態がよくなったところで、X線に見られる疑わしいところを切除する手術をするかどうか、決めたい、と言われました。

 犬というのは、実に、我慢強い生き物だ、と思っています。先代のシーズーもそうでしたが、ただ、ただ、耐えているのです。いじらしい程、耐えるのです。今頃は病院のカゴの中でも、点滴に耐えているでしょう。

 思えば、いまの犬は6代目になります。すべて、シーズです。三人の息子たちは犬たちのお陰で情緒不安定にもならず、大きくなりました。一匹の犬が醸し出す家族間の潤滑油のようなものには、今、振り返ると、感謝しきれないものがあります。

 今日と明日は、我が家に犬の影がありません。居なくなってみると、その存在の大きさが身に滲みます。

 「頑張ってくれよー、どんなにお金がかかっても、 きっと、治して貰うからなあ」 と、今、病院にいる愛犬に、心の中で呼びかけているところです。

 

 2014年3月5日              理財商品

 中国の全国人民代表者会議が開かれました。「7.5%の成長率を維持する」という国家戦略が承認されました。しかし、そう上手くゆくでしょうか? ゆくか、ゆかぬか、私は後者を選びます。

 アメリカのリーマンショック、日本のバブル崩壊を見るまでもなく、金融商品は必ず破綻します。経済の掟をあなどってはなりません。リーマンショックは数学的、理論的に絶対安全とされた金融商品の破綻でした。日本の場合はそれに土地が絡みました。

 共産主義国では土地は国有化されていますが、借地権は野放しです。今、中国ではそ借地権が高騰に高騰を重ねています。加えて理財商品です。中国では金融商品を理財商品と呼びます。金融会社は5万元(85万円)を最低取引額として、様々な商品を売り出しています。日本の投資信託と同じです。5年、或いは、10年据え置き年利10~15%、なんていうのが一般的です。勿論、3ヶ月、半年などという短期決済のものもあります。信託会社や銀行は、集まったお金を成長産業に投資します。または、さらなる金融派生商品を購入します。アメリカ国債を買うなどということはありません。中国はアメリカ国債を130兆ドル保有していますが、利回りが5%を超えるこがないからです。だから、高利回りを保証するために、リスクの大きい投資や派生商品の購入に走ることになります。石炭産業に投資した信託会社が、環境問題のため、その会社が潰れ、資金回収が出来なくなりました。金利どころか、元本返済も不能となりました。取り付け騒ぎになれば、暴動にまで発展するでしょう。アメリカの場合も、日本の場合も国家が乗り出しました。税金を投入したのです。中国の場合も匿名の投資家が現れ、暴動を抑えました。隠れた国家です。その信託会社に投入されたのは、陰のマネーと呼ばれるものでありました。

 こういう現象が、やがては、公に、詳らかになろうとしているのが中国の金融情勢だと、仄聞します。共産党系が支配する、陰のマネーが底をついたとき、中国はどうするでしょうか。アメリカ国債の売りです。大量の売りです。それをされたら困るのがアメリカの筈です。中国はしたたかにも、アメリカ経済の首根っこを抑えていると言っていいでしょう。

 だから、アメリカは中国に対して強く出られません。「日本よ、中国とうまくやれ」というだけです。日本も、アメリカ国債を大量に持っていますが、アメリカは、日本が売りに走ることはない、と、タカを括っています。

 

2014年3月4日               イスラーム

 タイ・チェンマイのインペリアル・メイピンホテルに滞在中、朝食バイキングで、決まって二、三組の中東からの家族に合いました。愛くるしい子供達を連れています。奥さんは真っ黒いチャドル姿で、ベールを付けています。つまり、目だけしか出していません。男性はというと、身体が大きく、顎鬚を生やし、良く手入れされた口髭を蓄え、精悍そのものです。それとなく観察していると、豚肉及び、豚肉から加工されるゼラチン質のものを全く避けて、食事を摂っています。目が大きく、鼻筋の通った子供たちは実に可愛い。謙虚に、慎ましく、しかも、幸せそうに朝の食卓を囲んでいました。

 マレーシアからの人たちも、ベトナムで数多く見かけました。マレーシアもイスラームがほとんどです。女性は一様に色とりどりの花模様の入ったスカーフを頭に巻いて、髪を隠そうとしています。女性のイスラーム教徒は、人前で肌や髪を見せてはいけないのだそうです。豚肉や、その脂を恐れ、グループ観光の中食のとき、席を外してしまいました。

 江戸時代末期から、日本では「イスラム教」、その教典を「コーラン」、開祖を「マホメッド」、としていますが、この発音は日本だけのもので、世界には通用しません。通用するのは「イスラーム」、「クリアーン」、「ムハンマド」です。日本も現地の発音に習うべきだと、私は思います。

 最も 「ラマダーン」だけは共通に使われています。旧暦による6月ごろ、一ヶ月間、日の出から日の入りまで断食します。水も御法度だそうです。太陽が出なくとも、薄明るくなったらラマダーンになるようで、人々は目覚ましをかけ、午前3時半頃に起きて、日没までの食事を詰め込むそうです。それから、また寝て、通常より遅い時間に出勤したり、登校したりするそうです。

 アラブ首長国連邦、サウジアラビア、カタール、オマーンなど、ほぼ100%がイスラームですから国を挙げてのラマダーンになります。ラマダーン明けの日は、それこそお祭り騒ぎになるらしく、断食は苦しいからこそ、国民のすべてが楽しみにしているそうです。

 イスラームの大きな特徴は、一日5回の祈りです。祈りの場所は男女別々に分かれていて、同席はありません。部屋には何もなく、丁度、日本の茶室に入るように「手水鉢」で身を清め、メッカの方角を向いて、クリアーンを誦しながら、立ったり座ったりを繰り返すそうです。祈りの部屋に入ってしまうと、そこでは身分の貴賎はありません。全くの平等だそうです。古来から日本の茶室もそうです。武士は刀を預けて入らねばなりません。身分による差別は茶室に入ってしまうとありません。イスラームの祈りの部屋と、日本古来の茶道の茶室とは、互いの発祥はどうあれ、似ているように思えます。

 ただ、日本人は一日5回も茶室に入りません。イスラームは一日5回祈りの部屋には入るのです。仏教の僧侶が仏の前で祈るのは、せいぜい朝と夕。いくらなんでも5回はやらないでしょう。キリスト教でも日曜礼拝と寝る前の祈りぐらい。食事時の祈りをする人もいますが、極く簡単なものです。

 つまり、イスラームは世界に類をみない祈りをしているのです。私は信仰の基本は祈りにあると思っている一人です。だから、全国民が仕事そっちのけで、一日5回の祈りを厳格に実行しているイスラームに、驚異を覚えているのです。その実際をこの眼で見たくて、見たくて堪りません。

 私は、30年も前から、「中東へ行かでおくべきか」、といつも心に思っています。イスラームの只中に自分を置いてみたくて堪らないのです。寿命も迫ってきています。今年こそ、中東行きを実現します。

 

2014年3月3日              デ モ

 デモや紛争が面白い、などと言っては顰蹙を買うかもしれません。しかし、他人事として、世界中のデモや紛争の生々しい映像を見る限りにおいて、これほど魅力のあるものもありません。

 BS1では、今、起きている生々しい映像を伝えて限りがありません。

 ウクライナのロシア寄りの勢力と、ユーロ側に付きたい勢力のせめぎ合い。ロシアのプーチンさんが軍隊を派遣しました。それに抗議するG7が、会議のボイコットで対抗しています。

 中国雲南省の昆明駅で起きた29名の無差別殺害に象徴される、中国全人代への抗議。これは天安門広場の焼き討ちに続く、少数民族の叫びです。漢民族支配に対する抵抗です。

代表的なのはシリアの紛争でしょうか。もはや、泥沼化しているのに、国が荒廃して、もはや、国としての呈をなしていないのに、権力の正当性を主張して、しがみついているおボッチャマ。

 エジプトも連日のデモで揺れています。ガダフィ 大佐亡きあとのリビアも連日のデモの繰り返しです。

 タイのバンコックも赤い旗が揺れています。兄の権力を踏襲した妹首相に対する抗議です。暑い国が、尚更熱くなっています。

 面白い、と言っては語弊があるでしょうが、イスラエルのテレアビブでも政府の政策に抗議するデモが起きています。参加者は全員黒いユダヤ帽子を被っています。 民族性がそのままデモに現れているのです。

 紛争やデモの映像は、その民族のアカラサマな日常を詳らかに映し出します。その底流にはイスラームの勢力拡大、イスラーム内部での権力闘争があることは中東紛争の常識です。もう一つは少数民族問題です。そして、領土問題です。人類は数千年前からの歴史の軛を今も負っているのです。人類が存続する限り、この紛争に終止符はありません。

 失礼ながら、私にとっては、デモや紛争の理由はともかく、「その民族の日常」が面白くてならないのです。当事者たちの真剣な様子を眺めながら、「人間とは愚かな者よのう」 と高みの見物を決め込んでいる私という存在が許されているのも、そろそろ、寿命だからでしょうか。

 

2014年3月2日            世界で通用するもの

 Jーポップという音楽のジャンルがあります。演歌とクラシックの中間に位置する音楽で、例えば、ミスターチルドレン、Xジャパン、アルフィー、スマップ、サザンオールスターズ、嵐、そして最近のAKB48などが歌っている音楽です。その特徴は、音の使い方にあります。演歌のようなヨナヌキ(4度と7度の音を使わない5音階)と違って、あらゆる音、コードを駆使します。一曲の中に30以上のコードが使われる例も多々あります。転調も数多くあります。楽器の編成も多岐にわたります。複雑であるが故に、聴くものをして多様な情感を紡ぎ出します。

 こういう音の配列をする音楽は、50年前の日本にはなかったものです。 ジャズが全盛の時代がありました。カントリー、ボサノバ、シャンソン、カンッオーネに日本中が狂っていた時代がありました。しかし、いま、それらは過去物語になりました。年配者御用達の音楽になってしまいました。 

 Jーポップはいま、主として東南アジアを中心に、世界中で聴かれ、歌われ、演奏されています。なかでも凄いのはアメソンと言われる、アニメに付随している音楽です。日本のアニメーションが世界を席巻しているのはご承知でしょうが、世界の子供たちが歌う唄は、アニメと一緒に流れる音楽です。あの、キンキン、カンカンした我々の世代からすれば 「メチャクチャ音楽」 が世界中の子供たちに受けているのです。

 ドラえもんや、ガンダムや、スーパーマンの音楽は、世界の子供達の揺り篭の音楽であり、いまは古典音楽になっているそうです。「恐るべし」は日本の音楽産業であります。 

 翻って、中国にもCーポップ、韓国にもKーポップがあります。タイにもTーポップがあります。しかし、それらが世界に浸透していると言えるでしょうか? 全く、言えません。何故か? それは音楽的にプアーだからです。コード進行、その多様性、巧みな転調、そしてリズム、こころの琴線に届くメロデイー。どれをとっても日本製には、敵わないのです。 韓国や中国に対する日本の優位性は、意外なところにもある、という事実を知っておきましょう。 

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