文章

 

2013年10月18日                

 私の仕事場には、ただ、「味」とだけ墨書された色紙が壁にかかっています。テレビ朝日「おかずのクッキング」という番組で一世を風靡した土井勝さん直筆のものです。土井さんの料理の基本は〈旬のものを美味しくいただく〉というものでした。だから、余計な調味料など加えません。極めてシンプルでそれでいて美味しい、というのが土井さんの料理の基本でした。「おかずのクッキング」のサワリだけを32ページに圧縮したパンフレットは、35年経った今も、朝日販売店から読者に無料で届けられています。読者サービスの一環です。毎月20万部ほど配られているようですから、いまだ、年間一億円を超えるお金が朝日販売店からテレビ朝日出版部へ流れています。

 宣伝部長時代、土井さんとは講演会や翌日のゴルフやらで数回お伴をしたでしょうか、その時教えられたのが〈食材の持ち味を引き出してこその料理である〉というセオリーでした。浪人や留年を含めた6年間の学生時代の自炊生活、九州小倉での単身赴任2年、連れ合いが脳出血で倒れてからの6年、亡くなってからの6年、ずっとキッチンに立っていますが、この原則を忠実に実行しています。スーパーに出回っている即席もの、レトルトもの、出来合いのものなど、同居中の三男に食べさせることはあっても、自分は口にしません。

 そうはいかない場合も多々あります。外回りが仕事でしたから、駅前食堂など利用せざるを得ませんでした。中華そばなど、最初の口当たりは良くても、嫌な後味がいつまでも残ります。いまは昔よりもっと強烈な後味が尾を引きます。人口味が複雑怪奇に変化をとげているからでしょう。六本木にある中華の達人陳建忠の店で、人気のマーボ豆腐をいただきました。なるほど、旨いかなあ、と最初は思いましたが、強烈でいやらしい後味は1時間経っても消えませんでした。上海でも、横浜中華街でも、料理のほとんどは人口味〈何とかジャン〉にまぶされて出てきます。強烈なジャンは素材の持ち味にお構いなく、その個性を主張しますから、素材は隠し味程度になってしまっています。そして、いやらしく残る後味……中華店で自分の店独自のスープを時間をかけて作っている店など、すでにもう無くなっているのではないでしょうか?

 その点、日本のラーメン店は立派です。野菜くず、骨、香辛料、貝類などを煮込んで漉して、その店独自の味のスープを作っています。料理通に好まれる西洋料理店でも、基本となるブロス(肉汁)を手製します。人工味など使いません。

 私は年に2,3回、長野から出てくる友人を伴って帝国ホテルでコースをとります。流石に、いやらしい後味の料理はありません。17階にあるバイキングにするのも度々ですが、裏切られることはありません。玉に傷なのは飲み物の値段が高いことでしょうか。ワイン一杯が1500円。ヨーロッパの3倍です。

 食材店へ行って〈ダシ〉のコーナーをみると、夥しい人工ダシがあることに驚きます。でも、私のキッチンにそれらはありません。上質のカツオ削り節、羅臼昆布、煮干し、貝柱。それにタイ特産のナンプラー。かき油もありますが、最近のものは味がくどい。塩は岩塩にうま味があります。お粥を作る時は少量の岩塩とごま油。米にもうるさくて、最近は山形のツヤ姫いっぽんやりです。コシヒカリは特別栽培米を特注しています。

 たとえ一人きりの食事であろうとも、レトルトや出来合いもの、即席もので間に合わそうという考えは私にはありません。愛用の産地直送店マルシエで、出来るだけ新鮮は食材を仕入れ、後味がすっきりする料理に仕立て、食べることを愉しむことを心がけています。

 最後に私が得意とする料理をご紹介します。イワシを20匹ほど買ってきます。新鮮なイワシに限ります。頭と骨と内臓を除いて、まな板の上で叩きます。叩き過ぎないことが肝心です。卵白と味噌を加えます。味噌を使うのがミソです。あらかじめ煮ておいた大根、人参の大鍋にイワシを丸めて入れ、煮込みます。つみれ汁の出来上がりです。小分けにして冷凍保存しておきます。これに勝る美味はそうざらにありません。

 


2013年10月16日               小泉元首相

 小泉元首相が、最近、あちこちの講演会に引っ張りだされて、〈原発は日本には無理だ〉という持論を展開しています。その要旨は 〈フィンランドへ行って核汚染物質の永久貯蔵庫を見学した。頑丈な岩盤に地下400メートルの穴を掘って、汚染物質を埋めている。約10万年は大丈夫だという。翻って、わが日本にそんな場所ありますか? どこを掘っても直ぐ水が出てくる、温泉が湧き出す。汚染物質を永久貯蔵する場所が日本にはない以上、日本は原発を放棄して、自然力によって発電すべきなのです。これを国として推進すべきなのです。賛同する人は大勢いると思いますよ〉 というものです。

 日本が地震火山列島であること、ユーラシア大陸とは違う国土であること、私たちは教科書で習っています。言われてみれば、ナルホドではありませんか!

 日本の核廃棄物処理場は青森県の六ヶ所村です。放射能で汚れた衣服などは地下60メートルの穴の中へ、高濃度のものはガラスで固定して300メートルの穴の中へ収容しています。果たして10万年は大丈夫でしょうか?自然災害の多い日本列島であってみれば、もし、大規模な地殻変動が起きたら、どうなるのでしょう?

 私の長野高校同期生に、東北大学から東京電力に入った児島功君がいます。背が私より少し高いイイ男で、ゴリというあだ名で呼ばれていました。一度だけ同窓会に出てきて、六ヶ所村へ行くことになった、と知らされました。原発担当ではなかった副社長から汚染物質処理場の責任者に転出です。ところが、行ったきり消息不明になりました。噂では、脳梗塞か脳出血で倒れたそうです。激務が続いたからだろう、と思います。気の毒でなりません。国策の犠牲とも言えるからです。

 穴を掘れば、直ぐに水が吹き出し、温泉まで湧きだす日本列島には、10万年は大丈夫という穴が掘れる場所がない! だから、核汚染物質が永久隔離できない以上、日本は核に代わるエネルギーで行くべきだ!

 小泉元首相は誠に核心を突いてくれました。講演依頼が殺到しているそうですが、ぜひ、全国津々浦々を回ってもらいたいものだ、と私は心から願っています。

 


2013年10月14日              邦楽の衰退

 昔の宴会はというと、芸子さんや三味線が入って、小唄、端唄、民謡などが余興でした。それらの一つでも唄えないと爪はじきにされました。いまは全く様変わりしてしまって、カラオケが全盛です。カラオケで邦楽をやるのは、よほどの人か高齢者に限ります。若い人は聞いたことがありませんから、座は白けるばかりです。つまり、音楽といえば12音音階、それに演歌にみられるヨナヌキ調という5音階の全盛、となってしまいました。ヨナヌキというのは4度と7度、つまりファとシを抜く5音階をいいます。哀しげな調子になります。

 邦楽の音階は、演歌と同じ5音階ですが、ショー、ナン、カク、チュー、ウーという雅楽の音階を元にしたものです。世界の音楽のうち、民族音楽のほとんどは5音階が主流ですが、それぞれ音の幅が民族によって違います。インドネシアのガムラン音楽などは、1オクターブを正確に5等分した音階です。弦楽器などは調弦しないと、この音は出せません。沖縄民謡も5音階ですが、ヨナヌキではありませんので明るく響きます。

 日本の民俗音楽というべき邦楽が、なぜ、これほどまでに衰退しているのでしょうか?
 それは色町の衰退と重なっているように思えます。熱海や湯河原の温泉地もさることながら、お江戸東京でいえば、新橋、柳橋、向島など、昔の面影は全くありません。僅かに神楽坂にあるようですが、時間の問題でしょう。地方でも同じです。新潟の鍋茶屋や、水戸、盛岡、山形、博多などで、数々の邦楽付の宴会に出させてもらいましたが、いまはほとんどないようです。なぜなら、芸妓は僅かにいても、三味線を弾く人、唄える人がいないからです。邦楽は伝承芸能でありますから、教える者が高齢化し、習う者がいなくなれば、立ち消えになります。

 唯一、京都だけはその伝承組織が機能しているように思えます。それに、忘れてならないのは金沢です。二つの色町が互いに競争しながら伝統を受け継いでいます。日本列島の日本海側には、太平洋側とは一味違う文化があるのですが、その担い手は金沢に尽きる、と私は思います。

 30年ほど前になりますか、信越、富山、福井、石川に販路を持つ新聞社の販売責任者が一堂に会し、金沢の色町の料亭で宴会を催しました。10名ほどの芸妓の手踊りを鑑賞したあと、特別な出し物として、金沢の幹事社が用意していたものは「一菅、一鼓」でした。横笛一本、小鼓一丁だけの掛け合いです。 りゅうりゅうと鳴る笛に、こんなにも変化する音が出せるのか、という小鼓が絡む。邦楽の極致がそこにあったなあ、と今は懐かしく思い返します。
 ついでに思い返せば金沢の鮮烈でフルーテイな日本酒。そして広大な近江町市場。品数といい、鮮度といい、値段といい、東京の築地や京都の錦など、はるかに及びません。私にとって、日本で最も好きな市場は近江町市場であります。

 私の母親は6人姉妹で、一番上の伯母は 川崎で長唄を教えていました。杵屋弥七登という名取りでした。東京へ出てきた浪人のころ、通っては長唄を教わりました。文化譜というものから「岸の柳」の全曲が三味線で弾けるようになりました。「綱館」「土蜘蛛」「秋の色種」「松の緑」「勧進帳」など、サワリの部分が出来るようになりました。三味線にもうるさくなりました。竿はコウキか紫檀、胴は花梨、金細か銀細か、皮は四つに限る、ケンピはだめ、などなど。良い三味線なら、二、三百万は超えるはずです。
 会社に入って地方回りをするようになると、今度は民謡です。度々催される宴会で、その土地の民謡をご愛嬌で唄うことが課せられました。民謡の歌詞が書いてある豆本が必携品になりました。地方によってはその土地民謡の替え歌というのがありまして、これがまた飄逸で面白く、「秋田音頭」などがその代表です。

 12音音階によるポップスや、乞食節といわれる5音階演歌が、これからも主流であり続けることは明白です。となると、教える者、習う者が極端に減少している、日本古来の5音階音楽はこれからどうなってしまうのでしょうか? 邦楽の衰退を憂います。

 


2013年10月13日              Nコン

 毎年9月中旬になると、NHKテレビにかぶりつく番組があります。三日間に亘って行われる全国小学校、中学校、高校の合唱コンクールがそれです。俗にNコンと呼ばれています。全国11地区の予選を勝ち抜いた代表校が金賞1、銀賞1、銅賞2に向けて覇を競う壮烈な戦いです。それぞれが三時間番組です。

 今年は80回目だそうですが、私はそのうち30回は見ているでしょう。特に小学校の部が大好きで、今年の課題曲は「嵐」の〈ふるさと〉でしたが、その時々の作詞作曲にも気を配ります。アンジェラ・アキの〈手紙〉の時は泣けましたねえ。いつの時も、最後の全員合唱の時は、感極まって自然に涙を流しています。実に心地よい感動の時です。

 このNコンの一つの欠点は、常連校が出来てしまうことでしょうか。愛媛大学教育学部付属小学校、岩手大学付属小学校、などがそれです。昔は青森県の根城中学校がそうでした。近年は福島の麻積中学校、高校がそうなっています。横浜市立中沢小学校などは5年連続出場で一回は金賞を受賞しています。今年も三番目に出場しましたが、一番バッターの日野市立七生緑小学校が余りにも良く、銅賞にもなりませんでした。私は最後の札幌幌西が金賞間違いなしと決めたのでしたが、当たりませんでした。

 私には私なりの審査基準がありまして、まず、言葉が明瞭であること、音程が隅々まで狂いのないこと、弱音が綺麗に揃っていること、最後にピアノ伴奏が合唱の音量の60%ぐらいの控え目であること、などです。ところが、当たる確率は、まず、半分くらいでしょうか。審査結果に唖然としたこともシバシバでした。私に言わせれば、審査員にロクなものはいない、となります。

 私の出身高、長野市立柳町中学校が関東甲信越代表になったときは、興奮しましたね。しかも、指揮者が友人でありました。惜しくも入賞できませんでしたが、合唱の成果は指導者の力量によるとの思いを強くしました。問題は指導者の力量と学校の理解と、父兄の弛まない協力にあるのですね。一度、栄冠を手にしてしまうと、それでよしとして、緩みにゆるんでしまう。それが世の習いかもしれません。

 明日は待望の中学生の部です。手ぐすねをひいて時間の経過を待っています。 

 


2013年10月11日             そば屋

 来月の9日に開催される「朝日販売OB会」の余興として演奏するバンド練習のため、麻布十番のライブハウスへ行きました。昼食を済ませてなかったので、商店街の中で一際そびえるドでかいビルのそば屋〈永坂更科〉へ入りました。ここは名代の店で、一度は行って見ようと思っていたそば屋です。メニューを見ると、どれもこれもバカ高い。天ぷらそばが2500円です。890円のざるそばを注文しました。店内は広く、7,8人の女店員がキビキビと動いています。そこそこの人数のお客はいました。運ばれてきたざるそばには〈アマ汁〉、〈カラ汁〉二種類のつけ汁の入った小さなツボと、申し訳程度の薬味が付いていました。それはいいとしても、問題はそばです。味も香りも全くありません。コンニャクを噛んでいるのと同じでした。

 現役の時は、東北、信越、そして北関東のそば屋に大変お世話になりました。山形村山地方のそば街道の7,8店、新潟十日町のへぎそば、長岡の小島屋、長野の戸隠、大久保の茶屋、市内の元屋、山梨長坂の翁、藤屋、富士見の原村の村営そば屋、真次の十割そば、エトセトラ。

 そばのそばたる所以は、その香りと独特の滋味にあります。それを追及するあまり、自分でそばを栽培し、石臼で挽いて、湧水で食べさせるという哲学的色彩を持つまでになってしまいました。東京椎名町の〈翁〉はそば通には有名な店でしたが、そこの店主高橋某がそれです。小太りの彼がまだ椎名町にいたとき店へ行くと、温度計と、ストップポッチを常時手放さない彼がいました。

 そばが変質を始めたのは、東南アジアからのそば粉に日本のそば屋が依存し始めてからです。国内需要が追いつかなくなり、商社は現在も多量に輸入しています。全国のそば屋が使っているのはほとんどが海外ものです。しかも、薬品を混入してそばの香りや滋味を加工しています。その原価は驚くほど安いそうです。そのため、国内のそば栽培は年を追うごとに減っていきます。そば屋は高いそば粉を使いたがらないのは自明の理です。

 そば屋が倒産したという話を聞いたことがありますか? 全くないでしょう。それは原価率が安いからです。しかも名代と言われる店ほど盛られてくるそばの量は少ない。バーコード並みです。江戸時代、そばは庶民の間食や夜食でありました。少ない量ほど高級であるという認識がいまでは定着してしまっています。日本のそば通の罪は重いと言わざるを得ません。そばを哲学的食べ物にしてしまったそば通のお蔭で、そば屋は腰が曲がるほど儲けているのが現実です。

 どなたか、そば屋に入っている外国人を見たことがありますか?今のそば屋の経営感覚は、国際的には全く通用しないと言っていいでしょう。

 では、どうすればいいのでしょう? もっとも、私の知ったことではありません。この先、そば屋のお世話になることなどほとんどないでしょうから。

 


2013年10月9日               おショクカイ

 長野県の男女が、共に、長寿日本一になったという報道には驚き以外の何物もありません。お茶を毎日ガブガブ飲むからだろうか? 空気がいいせいだろうか? お葉漬けという塩辛い漬物が、三度三度の食事に欠かせない長野県民が、何で長寿日本一になったのだろう?

 7,8年前に、長野高校の同窓会が上山田温泉であった際、同室になった長野日赤の院長だった宮崎忠昭君に、しつこい様に聞いてみました。「医療制度によるんじゃないの」、と彼からは甚だ頼りない返事しか返ってきませんでした。96歳で亡くなった、長野佐久総合病院の若月俊一の地域医療への取り組みはどうなのだ? と水を向けても、「それもあるかなあ」、と曖昧でした。

 この話は、一年前のエッセイでも取り上げています。半ば断定的に、〈長野県の長寿日本一は若月俊一のお陰だ〉 と結論していますが、実は、確証があったわけではありません。仮に、地域医療のせいだとしても、何を、どうしたのか? それがどうして長寿日本一に結びつくのか? 皆目、分かっていないのに断定していたのでありました。

 ところが、嬉しいことに、最近のテレビ報道でその詳細が分かったのです。長野県の長寿日本一は、正しく若月俊一のお蔭でありました。それは、お節介ならぬ〈お食改ーおショックカイ〉という、他地域にはない長野県独特の地域に根付いた革新的な制度にあったのでした。

 食事改善委員会がそれです。市町村ごとの自治会に組織され、委員は一般家庭の中から選ばれた主婦です。全県で一万人規模だといいます。二人一組の主婦は揃いの赤いジャンパーを着て、各家庭を回って歩きます。ショクカイさんと親しみを込めて呼ばれています。二人は塩分濃度計を持っていて、各家庭の煮ものや味噌汁の塩分濃度を定期的に計って歩きます。味噌汁を持ってこさせ、濃度系の表示が〈濃い〉と出たら改善を指導します。体調不良を訴えると、そのデーターを持ち帰り、改めて指導員が訪問します。病院以前の予防に力を入れているのです。

 その結果、佐久市では医療費負担が全国一と言えるまで低下しました。県内の市町村は、佐久市に見習えとばかり、食事改善委員会を活発化させています。つまり、医者に罹るのを恥じとするまでの意識の改善が水面下でおこなわれていたのでありました。心から納得しました。

 来年一月、喜寿を迎える私が、どうやらここまで来れたのも、塩分摂取の少なさにあるような気がします。キッチンに塩壺はありますが、ほとんど使ったことはありません。塩辛いものが好きではないのです。時に温かいご飯に漬物、キムチ、明太子など、旨いなあと思いますが、日常、漬物は作らないし、買わないし、外でも食べません。味噌汁もほとんど作りません。何の料理でも薄味が良く、塩辛いものは苦手です。寿司を食べる時でも、醤油を使わずそのままいただきます。ネタそのものに薄い塩味があるではありませんか。しかも、シャリにも味が付いているのです。それで十分なのです。ラーメン、そば、うどんなど塩辛くて辟易します。埼玉県へ行ったときは、そば屋には絶対に入りません。何故ならだし汁が飛び上るほど塩辛い。名古屋の味噌煮込うどん、あれも塩辛いですなあ。その点、京都はいいですね、昆布だしの薄味。閑話休題。

 これから私の晩飯です。サンマを買ってきましたので、晩酌のお伴にします。焼くときに振り塩をしませんし焼きあがっても醤油を使いません。カボスをたっぷり絞って、サンマを浸していただきます。またまた閑話休題。

 


2013年10月8日              行動力

 今日の朝日新聞朝刊に、インドネシアで開かれているAPEC総会での記念撮影で、安陪首相夫妻の横に並んだ韓国の大統領が、首相夫人の明恵さんと笑顔で握手している写真が載りました。二人とも屈託のない実にいい笑顔で撮れています。安陪首相は夫人の隣でそれを見つめています。首脳同士は既に別の場所で握手は交わし終わっていると、キャプションにはありました。首相は中国の習金平さんとも笑顔の握手は交わしています。

 この一連の報道は、実にほのぼのとした気持ちにさせてくれます。明恵夫人は韓流ドラマのファンであるそうですが、過日、日本で行われた韓国主催の式典に、外相と共に主席しています。それによって、一部の嫌韓集団から叩かれているそうですが、逆に、お隣と仲良くして何が悪いの、と開き直っているそうです。その意気や良し、です。

 安陪政治の是非については、これからの動きによることは言うまでもないでしょうが、一つだけ良い点を挙げるとすれば、首相としての腰の軽さでしょう。行動半径の広さでしょうか。ブラジルへ行き、福島原発へ行き、インドネシアへ夫妻で飛んでいく。どこへでも出かけていっています。この行動力は、今までの鳩山、管、野田にはなかったものです。

 今朝は、久しぶりに気持ちの良い朝を迎えています。

 


2013年10月1日               不条理な死

 いたたまれない事故が、相次いで報道されました。一つは、踏切の中で、線路に蹲っている老人を助けようと、父親の制止を振り切って、車から飛び降り、老人を助けたものの、自分は轢かれて死んだ事件。40歳の娘の父親は、せめて、老人が助かって良かったと、と言いました。哭けてきました。もう一つは、ホームに佇んでいたいた老人が列車に巻き込まれて命を落とました。認知症の老人を「ちょっと、目と離した隙に」、という家族の言い分を却下し、700万円を鉄道側が遺族に請求し、それが、裁判で妥当判決を受けた事件です。

 思い起こすのは、私の大学時代の親友市川君の鉄道自殺です。彼は京都新聞社の広告局に入り、東京支社長まで勤めました。どれだけ、彼と時間を共有したことでしょう。ところが、定年間もなく、彼からもらう手紙や、やり取りする電話で、これはオカシイぞ、と思うことが多くなりました。金の取引で莫大な損失を蒙ったせいかなあ、と案じていたところ、自ら自転車で踏切内に入り、東北本線の電車に轢かれ亡くなりました。

 認知症が高じたのか、金の取引の追証に応じきれなくなったのか、尋常でない精神錯乱の中で命を自ら絶っていったのでありましょう。少なくとも、自分がこれ以上存在することが、家族や、その周辺に迷惑がかかる、だからこの際…… たとえ認知症であろうとも、自分の存在が家族や周りに迷惑をかける、という最後の認識は、上記の三人の高齢者に、共通してあったのではないでしょうか。死にたくて、ホームに佇んでいたのでありましょう。死にたくて、線路に蹲っっていたのでありましょう。自分の最後の意志を振り絞って、ことに及んだのでありましょう。

 私は、社会はこういう現象を、止む負えないものとして受け入れるべきだと思います。〈介護の目を離した家族が悪い〉として賠償を要求した鉄道側もさることながら、それを認めた裁判所の裁定にも承服しかねます。なぜなら、今もって社会は、弱者に対して応分の対策を講じているとは言えないからです。徘徊老人を危険から隔離する社会の仕組みは、いま、十分に整っているといえるでしょうか? 人格が損なわれ、人間そのものを喪失していく高齢者の存在を何とか擁護すべきは、家族と一緒に社会がすべきです。取りこぼしがあったとすれば、それは家族と共に、社会全体が責任を負うべきです。

 鉄道自殺者のお蔭で、迷惑を蒙るのは鉄道当局だけではありません。約束に遅れ仕事に支障をきたした人の数は、おそらく数えきれないでしょう。自殺する人も、そういう迷惑を考えて死に場所を選ぶべきでしょうが、自殺に追いやる動機は、恐らく、社会にもあったのでしょうから、迷惑は甘んじて受けるのが、社会の掟というものでしょう。

 線路に蹲っている74歳の老人を、父親の制止も聞かず飛び込んで行って助け、自らは命を落としてしまった40歳の女性。それを、淡々として受け止めている父親…… 涙が止まりませんでした。

 


2013年9月29日             投 句 (北7句会) 

             雲の峰 瓦礫の原を 渡りけり

           コスモスや 錆びたレールの 浪江町

           誰がために 咲くや小高の 彼岸花

           絶叫は いつのことかと 秋の海

           ススキ原 よく聞け 風は人の声            

 


2013年9月28日              存在の原点

 私が、自分の存在を確かにしたのは、三歳か四歳の時、母親に伴われて行った、東京目黒西小山の銭湯でした。湯船に首まで浸からされ、20まで勘定させられました。その苦しさの中で、何かが弾けたように思います。自分とは何者なのだ? 何で存在しているのだろう? 存在している以上、何をなすべきなのだろう?

 青春時代は特に苦しみました。夜通し歩き続けたこともありました。山歩きの恰好のまま、家出したこともあります。その時は、長野から神奈川久里浜まできて野宿しました。高校一年の時です。
 長野教会で小原福治、藤沢一二三先生の自宅まで押しかけ、疑問を投げかけたこともあります。〈自我の追及〉という論文を、長野高校の機関誌に掲載してもらったこともあります。夏目漱石の〈則天去私〉、仏教でいう無我、キリスト新教における〈アガペ〉の愛を比較して論じたものでした。キエルケゴール、フォロサイスなどにのめり込んでいきました。大学の卒論も、当時話題になった「死海の書」を、波多野誠一の宗教哲学と対比させるものでした。

 一陣の嵐の時が過ぎ去り、最晩年を迎えている今日この頃、〈自分の存在とは何だろう〉という、幼児の頃の、銭湯の湯船で芽生えた疑問が解けたわけではありません。しかし、自分の中で雪解けが始まっていることを今頃になって感じています。それは、自分の生が、〈偶然の結果ではない、そこに大きな意志が働いている〉という実感です。意志とは何か?大きな意味での愛だと思います。キリスト教でいう神の愛であっていいでしょう、仏教における仏の慈悲であるかもしれません。ムハンマドが唱える、大いなる意志であるかもしれません。少なくても確実に言えるのは、私の存在は、例え、不確実であろうとも、何らかの大いなる意志のしからしむる所以の結果である、という厳かな現実が存在するということです。

 大いなる意志とは、いい代えれば創造主であり、普遍的にいうなら神でありましょう。

 私は、ただ無意味に存在しているのではない、大いなる意志の具現者として存在を賜っているのだ、と思うことが出来るようになりました。生老病死、喜怒哀楽、そのすべては、喜びの内にあることが分かるようになりました。〈死ぬときは死ぬが宜しかろう〉、という気持ちも分かるようになりました。

 ただ、これから乗り越えて行かねばならない問題があります。神の存在を心から認めたとしても、預言者としての、イエスキリスト、お釈迦様、ムハンマドを、神として認識できるかどうか、であります。神の化身としてこの世に遣わされた愛そのものとしてのキリストイエスを、〈誠に、誠にその通りでございます〉と、どうやったら心の底から言えるようになるのか、その重大な決断が、果たして出来るのか、出来ないのか、もしかすると、出来ないままで、終わってしまうのか?

 やっぱり私には、何らかの啓示が必要なのでありましょう。崖を飛び越える何らかのきっかけが必要なのでありましょう。自分ながら、自分自身の猜疑心にイヤになります。

 私は、来年の春、イスラエルへ行こうと思っています。ゴルゴダの山頂に立ってみたい、、ナザレへ行って、2000年前にイエスが吸った空気をこの身に感じてみたい、出来れば、死海の書の発掘現場へも足を延ばしてみたい、そう思っています。

 それによって、自分自身がどう変化できるのか、全くの未知数でありますが、生来の願望を果たしたい思いで一杯です。〈大いなる愛のもとに、私は生かされている〉、という心からの実感を持って、行ってきたいと思っています。

 


2013年9月22日         STAND OUT (際立つ人)

     際立つ人とは 守りに生きる人ではなく 攻めに生きる人のことである
     自分の幸せ以上に 人の幸せのために生きる人をいう
     引き際 窓際 生え際  瀬戸際……キワとは 際だったところを指す
     真剣に生きようとするものは たえず 際に立たされる
     切羽詰まったとき 人は 自分でも気づいていなかった本領を発揮する
     際立つ人とは 毎日を人生の瀬戸際だと意識して 懸命に生きる人のことを言う
     マニュアルやカリキュラムに習熟できて たとえそれが完璧にできたとしても
     人に伝わらないのは なぜだろう? それは 瀬戸際から迸りでる情熱に欠けるからだ
     われわれは 自分を問いただそうではないか そこに喜びがあるか? と
     多くの人たちは 多分 自分のしたくないことを 自分の仕事としている

     もし、自分のやっていることが ほんとうにやりたいことであり 授かった仕事と思える人は幸せだ
     そしてその仕事が 人を豊かにすること、人を思いやること、人を幸せにすることで であってほしい
     際立つ人とは そういう人をいう 
     奢らず 高ぶらず 背伸びせず 無理だといわれても挑戦していく勇気を持つ そういう人をいう
     マンネリズムや日常の慣れに気を付け 没頭と葛藤の中に生活を置く そういう人をいう

     十字架の上に命を懸けたJESUSこそ われわれが学ぶべき 真の際立った人と言えまいか
     〈引き際〉とはそこから逃げることではない 人生の逃避では決してない
     いままでの人生のあり方を畳んで、新たな生き方への挑戦を 決断する時のことを言う 

        (林純子さんからいただいたアーサーホーランドさんの散文詩の意訳です)

 

 

2013年9月22日              笑える文章

 〈思わず笑ってしまう文章〉にお目にかかるなんてことは、滅多にありません。ところが、あったのです。三回読み返し、その度に笑ってしまいました。載録させていただきました。

 小学校三年生になる長男の夏休みの宿題に、読書感想文が出された。長男は国語が好きではない。そうでなくても、原稿用紙3枚もの文章を好んで書く男の子は、なかなかいないと思う。子供が一人で書けるわけはなく、親にとってもこれは難題なのだ。
 
図書館で本を選んで、用紙に名前を書くまでは勢いがある。「それで、何て書くの?」と始まる。仕方なく書き出しを言うと 「次は?」とくる。ここでカチンとなる。「自分で考えて」と返すと、とたんに泣き顔だ。こちらも怒りを抑えながら、あらすじを感想と8対2くらいの割合で何とか書き進んでいく。この夏の盛りに何とつらい修行だろうか。夫は時々、リビングに来てちらっとのぞくだけ。母としての、この苦しみは出産以来のような気もする。だが、今日一日で絶対に仕上げると決め、特別に昼間からクーラーもつけた。
 長男に「休憩してよし」と言って、夕食の買い物に出かける。帰宅して風呂に入らせ、あがったところに「さあ、続きやるよ」と言ったら声を上げて泣き出した。始まる前に、途中で泣かないことを約束していたのだが、読書感想文の力とは何と偉大なのか。
 続きを書かせながら、しょうもない文章だな、いや意外によく書けていると思っているうちに、9時になり涙の挑戦は終わった。次の日、清々しい朝が来た。しかし、まだ理科の自由研究が残っており、これは必ず夫に担当させよう、と私は決意している。

 声を上げて泣き出す息子と、怒り心頭の母親。どこの家庭にもありそうな夏休みの宿題をめぐる一コマ。
なぜ、ここに笑いがあるのだろう? と考えてしまいます。
 私には、これは上手いなあ、として記憶している文章が二つあります。主婦が生きているウナギをもらって、料理する顛末を書いたもの。沖縄の高校生が、ジョセフィーヌをいう名前を付けて大事に飼っていた山羊が、知らぬ間に料理されてしまい、ストライキを起こしてこもっていると、山羊汁がそっと差し入れされる。泣きながらも美味しいと思い、改めて食物連鎖の真実に目覚めるという文章です。
 いずれも、女性の文章であることが特徴です。しかも、共通しているのが笑いです。とってつけたような、お笑いではありません。大真面目の中に潜む、心からの共感の中での笑いなのです。

 私も、そういう文章を書こう! と、決意を新たにいたします。

 


2013年9月17日                 無料講座

 世界の名だたる大学が、インターネットで講座を発信しているそうです。しかも、全くの無料で。ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、オックスフォード大学、カルフォルニア大学…… 公開され誰でも見ることのできる講座は全部で約500ほどあって、講座が設けている試験に合格すると、認定書がもらえるそうです。良い成績をとりつづけると、、年齢にかかわらず、その大学への入学が認められるといいます。アラブのある国の16歳の女の子が、成績優秀につきオックスフォードへの入学が認められたそうで、これは、驚き以外の何物でもありません。

 この16歳の女の子は、分からない問題があると、〈誰か教えて!〉 とインターネットで発信するそうです。すると、世界のあらゆる場所から、分かりやすい解説がネットで送られてくる、といいます。

 物凄い現実が、いまや浸透し始めているのですね。驚きました。

 大学は、いわば象牙の塔であって、然るべき過程を踏まなければ、足を踏み入れることができない、しかも、それなりきにお金がかかる、というのが通り相場でした。

 インターネットは、それを見事に打ち砕いたのです。畏れ入谷の鬼子母神…です。

 いかに高度な学問といえども、それは情報であります。情報を囲い込むことが、しかも、それに世俗的な価値としての対価を要求することが、インターネット社会では不可能になってしまっている、という恐るべき事実を私たちは知らされたのです。それに気づいて、大学へ行かなければ接することのできない高度にして価値ある講義を、あえて、公開に踏み切る、世界中の誰もが無料で見られる、という世界の趨勢には拍手を送りたい、そう思います。

 東京大学、京都大学も、来春には講座の無料公開に踏み切るようです。世界順位27番目の東大もようやく仲間入りするようなのは嬉しい限りです。

 一つだけ懸念があります。それはすべての講座の言語が、英語であることです。世界の東の果てに位置する日本の最大の弱点は、英語にプアーです。聞くこと、話すこと、下手中の下手です。受験勉強のお蔭で、読むこと、書くこと、文法などは、東南アジアの人たちより優れているでしょう。でも、日常会話ですら、日本の学生は出来ません。なぜなら、英語など使わなくても事足りるからです。例え、アメリカに三年間語学留学しても、帰国してしまえば使うチャンスはないのですから、語学力は日々衰えます。とても、オックスフォードやマサチューセッツの高度な講義などにはついていけないでしょう。

 インターネットの普及は、凄いことをを可能にしたなあ、と感心しながらも、それについていけそうもない日本の現状を憂います。

 

 

2013年9月16日                良い本見つけた

 水道橋にある製本工房へ、仮製本した本を車に積んで出かけました。本を作り上げるには、一冊の本の前小口を僅かに断裁してもらう工程があります。これだけは自分ではできないので、プロに頼みます。仕上げてもらうまでに、二時間ほどありましたので、いつものように駿河台の三省堂書店へ行きました。岸恵子の体験的恋愛小説がありました。この大女優の筆力には、いつも驚かされます。〈ベラルーシの林檎〉など数冊は読了しましたか。さっそく、買い求めました。もう一冊、小沢征爾と村上春樹の対談集〈小沢征爾さんと音楽の話をする〉も買いました。この方から読み始めました。全く知らなかったのですが、ベストセラーを連発する村上春樹はプロ顔負けの音楽通でした。クラシックのみならず、ジャズにも精通しています。驚いたのは小沢征爾が指揮したすべてのレコード、CD、DVDを仕事場にしているリスニングルームに保管していることでした。これだけでも凄いことなのに、世界のオーケストラの音の違いを、小沢以上に指摘できるほどの卓越した技量を持っていました。つまり、普通の人の及ばない、優れた耳をもっているということです。

 小沢が作り上げたサイトウキネン・オーケストラは、初期のころは、ブラームスの一番から四番までをやったのですが、その理由というのが、小沢他を教えた斉藤秀雄がブラームスを教材にしたからだというのです。初めてこの本によって知りました。

 信濃毎日に勤めていた長野高校同級生の内山貢君が、松本文化ホールのチケットを毎年送ってくれたお蔭で、私たち夫婦はそのブラームスを全部聴くことができました。演奏は圧巻でした。強烈な音の渦はいまも鮮明に耳の底に残っています。サイトウキネン・オーケストラはこのブラームスを引っ提げて、世界各地で演奏しました。その音盤を村上春樹は全部持っていて、それを小沢と一緒に聴きながら〈音〉について語りあっているのです。村上の好リードにより、音職人・小沢のすべてが曝け出されてゆきます。

 小沢はいままでに一冊しか本を書いていません。ギター一丁もって船便でヨーロッパに渡り、ブザンソンの指揮者コンクールで優勝するまでの顛末を書いているのですが、この本にはオーケストラの音作りの苦労までは及んでいません。村上は演奏を二人で聴きながら、小沢の名人たる所以を見事に引出ました。音に対する深い洞察力が無ければできないことです。文章の達人が同時に、プロも顔負けするほどの音に対する深い思い入れを持っていたことを、この本は教えてくれます。素晴らしい本です。無限の価値を内蔵する本だと言えましょう。私は村上春樹を見直しました。

 彼はまた、文章も音楽と同じだ、と述べています。リズムとメロデイとハーモニーが必要だというのです。言われてみればその通りです。パソコンの解説書など、何度読んでも分からないのは、それがないからだ、と彼は言います。納得出来ます。私もこれからは、少なくともリズムだけはありそうな文章を書きたいと思います。

 小林秀雄賞を受賞したこの本は、恐らく、小沢征爾の遺言になるかもしれません。良い本に巡り合えたな、と、今後、熟読玩味する積りです。たまには、新刊書店を覗いて見るものですなあ。(注 最近出た本だとばかり思ってましたら、奥付によれば二年前の刊行で、第5刷でした)

 


2013年9月15日             文化交流を阻むもの

 飯田橋に日中友好協会があります。この団体は日中平和条約が締結されたあと、目覚ましい活躍をしてきました。團伊玖磨など、日本の音楽家は盛んに中国へ行って、洋楽については未熟だった北京、上海で若い音楽家を育てました。上海音楽院のレベルが上がったのも、日本の音楽家が大勢行って教えたからでありましょう。教え子たちは、みな、感謝している筈です。歌舞伎でも京劇との交流が始まりました。坂東玉三郎は、あの、脳天から絞り出すような発声をマスターして、中国各地で公演し、喝采を浴びました。囲碁においても、藤沢秀行らが、中国の若手の棋士を鍛えあげ、日本を打ち負かすまでに成長させました。ニューミュージックでも同じです。堀内孝雄や、高橋真理子を歌う世代の中国人はワンサといます。いわんや、アニメやプラモデルなどにおいておや。韓国スターが日本のおばちゃんたちの心を捉え、新大久保が韓流のメッカになったのは、そう遠い昔ではありません。

 いま、それらの文化活動を含む相互の交流は、低調の極みだ、といいます。私の友人である上海のグさんによれば、上海のカラオケで日本の歌を歌うと、周りから白い目で見られるそうです。そんなに日本が良いなら、中国から出ていけ、とさえ言われるそうです。新大久保でも同じような現象が起きています。プラカードと拡声器を持った団体が現れて、「そんなに韓国がいいなら日本から出ていけ、くそババア!」と怒鳴られるそうです。幸い、警察力によって、大久保通りには 入らせないようにしているようです。

 何で、こうまでなってしまったのか? 先人たちが長年に亘って積み重ねてきた友好の輪が このように無残な姿になってしまったのでしょうか? 私は、日中韓の政治家たちの、舵取りの悪さが原因のように思えてなりません。その底流にあるのは領土問題でありましょう。

 発端は、韓国の前大統領が、ジャンパー姿で竹島の岩山の突端に上り、韓国旗をはためかせたことに始まります。人気挽回策とはいえ、もし、思慮深い大統領なら、こんなことはやりません。影響の大きさへの洞察力に欠けていました。民主党の三人の首相も、器が大きいとは言えない凡庸な政治家たちでした。殊に、東アジア共栄圏なる独自思想を打ちだし、何も出来ずに、ただ存在しただけの、鳩山首相は一体何だったのでしょう。次の管首相の時、3.11が起きました。ヘリで現場を視察し、素人考えを押し付けるヘマをやらかしました。ただ、口先三寸の器しかない首相でした。野田首相の時、石原慎太郎に唆され尖閣列島を国有化しましたが、もっと、どっしりと構え、胡錦濤からの「ちょっと待ってくれ」をちょっとの間だけ待ってやれば、中国での愛国無罪デモは避けられたかもしれません。中国人はメンツを命より大切にします。だからと言って、「やっちまえ!」と自ら大規模デモを仕掛けたのは、彼の器の小ささを表わします。温家宝首相に至っては、韓国大統領にだけ打ち解けた振りをし、野田首相をシカトしました。

 ここ三年振り返って、日中韓の三国の政治家に、大物政治家がいなかったことが、現在の不幸のよって来る所以だ、といえるのですが、その底流にあるのは、三国それぞれが抱える権力闘争こそが、原因のすべてであったように、私には思えてなりません。権力闘争の渦中に在る者からすれば、文化交流などクソ喰らえなのでありましょう。

 社会主義国家の多すぎる弊害はさておき、民主政治の弊害、ここに極まれり、と思えてなりません。

 

 

2013年9月14日             島国差別

 生きとし生けるもの、お隣さん同志とは仲が良くないもの、としたものです。サバンナの動物にしても、自分の縄張りを主張し、激烈ないがみ合いをします。鶯が高らかに鳴くのも、美声を聞かせるためではなく、ここは自分の縄張りである、と宣言しているのです。

 〈差別〉という嫌な言葉があります。白人による黒人差別など、その最たるものですが、相手を見下して自分の優位を誇るというのは、人間をはじめとする生き物の 根源的な性質に起因するように思われます。イスラエルとパレスチナ、これほど互いにいがみ合っている例も あまりありませんが、これは土地がらみの民族紛争のようです。一方、地理的条件が差別を助長する例が多々あります。島国であり、紳士の国といわれるイギリスでさえ、イングランド、スコットランド、アイルランドが過去数百年にわたっていがみ合っています。単なる地理的条件の差でしかないのに、大きな島は小さな島を、軽い目で見ます。

 現役のときは、日本国中の半分ほどに足を踏み入れていましたから、大が小を差別する面白い実態があることを知りました。新潟担当の時は、佐渡が差別の対象であることを知りました。陰では、佐渡むじな、と呼ばわっているのです。九州小倉に赴任した時は、山口県の気位の高いことに驚きました。九州島のやつら、と見下すのです。島差別ではありませんが、熊本と鹿児島が仲が良くないことも知りました。沖縄はやっと復帰できて、芸能活動が盛んになるにつれ、主権が回復したように見えますが、ナイチャー、と大和ンチューの区別は健在です。面白いのは沖縄本島では宮古島出身者をミャーコと言って区別します。

 ヨーロッパのポルトガルから朝鮮半島まで、広大なユーラシア大陸には、中国も韓国も含まれます。つまり両国からすれば、日本は東の外れの小さな島国です。十分に差別の対象足りえます。最近の両国の一連の行動を、日本が小さな島国であることへの差別、と捉えることも出来そうです。

 韓国女性大統領が習近平に擦り寄って行ったのも、2020年のオリンピック開催地が決まる直前に、韓国が殊更に声高に「放射能汚染が著しい日本の東北関東の海産物、農産物の韓国への輸入を禁止する」という〈嫌がらせ的妨害行為〉を行ったのも、島国差別の最たるもの、と理解できそうです。

 私はこの韓国の発表を、実に、いやな気持で聞きました。新聞写真には、韓国の申し入れ書を受け取る両国高官の写真が掲載されていました。農水省も農水省です。なぜ、玄関払いを喰わせなかったのですか? なぜ、写真になどおさまって韓国の宣伝に使われたのですか? これほどまでに蔑視されて、日本国は黙っているのですか? 今日の産経新聞によると、政府は国際提訴に踏み切るようですが、遅すぎます。日本は鷹揚過ぎます。

 私が、もし、国家の責任者であったら、韓国とは、即、国交断絶です。

 


2013年9月13日               空 間

 天に向かって、指差します。青い空に千切れ雲が浮いています。もし、指差す方向へ、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも進んでいったら、そこには一体、何があるのでしょう?

 野原に寝転んで、青い空を見上げます。いつまでも見つづけていると、ふと、底なしの青い空間に落ちていくような、奇妙な錯覚に捕らわれます。その時、底なしの青い淵に落ち込んでいったら、何に突き当たるのか?

 無限といわれる空間は、私の頭上から始まっています。一本の紐の、片一方の終点が私の頭だとすると、もう一方の終点はどこにあるのだ? そこは、一体 何なのだ? どうなっているのだ? 私は不思議で不思議でならないのです。子どもの時からの疑問は、解決されるどころか、歳と共に深まり、今では抜き差しならなくなって、弱っています。

 今日の朝日新聞の第一面の報道は、私の疑問の一部を解いてくれました。実に、嬉しい知らせです。

 1977年に、NASAが打ち上げた宇宙探査機「ボイジャー1号」が、太陽系を脱出して、次の空間を飛行中である、というものです。かつて ボイジャーは1979年に 木星の表面の写真を送ってくれました。1980年には土星の環の写真を送ってくれました。そして、水、金、地、火、木、土、天、海、冥の、太陽系惑星の全部を通り抜け、太陽の影響を全く受けない、新たな空間を切り裂いて飛び続けている、という報道です。時速6万キロで飛行しているといいますから、一時間で地球を一回り半する、途轍もない速さで飛んでいるのに、太陽系を飛び出すまでに、約36年もかかったということ、つまり、そういう巨大空間が確実に存在していることを、ボイジャーは証明してくれました。理論では分かっていても、証明は別次元です。何とも喜ばしい証明ではありませんか!

 ところが、太陽系は、銀河系の中の極く一部でしかありません。銀河系といえども、宇宙空間の中の小さな塊でしかないようであります。従って、私を始点とする、長い、長い紐の終点がどこにあるのか、解決されたわけではありません。無限のエネルギーを搭載しているボイジャーは、時速6万キロで一直線に飛び続けています。しかし、太陽系から離れ得たとしても、次の惑星に到達するのは、4万年後だというではありませんか!4万年ですよ、4万年! 困ったものです。4万年は とても生きられない。

 


2013年9月9日              神の鉄槌

       ぼくは 何度も生まれ変わって この世に現れることができた 
       最初の時は この世に電気は無かった
       夜は暗闇が支配し 家族は焚火の明かりを囲んで 語りあった
       心と心が 溶けあった

       次に生まれ変わったら ランプの時代だった


       菜種油をギヤマンの器にいれ 火打石で点火すると 夜は本が読めた
       鴨長明の〈方丈記〉を 感動しながら読んだ

       明治維新となり 銀座通りに ガス灯が灯った
       文明開化を 人々は喜びあった
       西洋で発明された電灯が 日本にも輸入され 昼と夜の区別がなくなった

       第二次世界大戦の最中は 警戒警報が発令されるたびに
       明かりを黒い布で覆い 外に漏れないようにして 不安な夜を過ごした

       平和が訪れると 蛍光灯が各部屋に 三つも 四つも点いた
       テレビ スピーカー エレベーター 地下鉄 新幹線 アッという間だった

       すべて 電気がないと動かない 電気がないと生活できない 
       生活は電気となり 電気が生活となった

       電力の消費量は うなぎ上りに増え 水力発電では追いつかなくなった
       石炭を燃やして電気を作った 石油を燃やして 電気を作った
       それでも追いつかないから ついに 原子を燃やして 電気を作り始めた

       1945年 広島と長崎に 原子爆弾が落とされた
       凄まじい高温によって 約30万人の同胞が 殺された
       原子力発電所は その原理の使って 原子を燃やして熱を得る
       ウランや プルトニウムが 高温 高圧にさらされると
       与えられた熱量以上の高熱を発して 分解されるが
       生きとし生けるものには猛毒となる ストロンチウム90 セシウム137
       テクネチウム99 ジルコニウム93 などを放出する

       暴発したソ連のチエルノブイリ原発の 半径500キロ圏内で被爆した地域の住民には
       白血病や 奇形児の出産が多発し いま尚 不安な日々を送っている
       だから 高レベル放射能汚染廃棄物は 地下300メートルの穴の中に
       ガラスで固め 腐食しないドラム缶に入れ 封印する
       使った防護服や 什器備品など 低レベル放射能汚染廃棄物は
       地下60メートルの穴の中に 閉じ込める

       日本の 放射能汚染物質の廃棄貯蔵庫は
       いまのところ 青森県の六ヶ所村だけだが
       アメリカには ミシガン湖の周りに 300箇所もある
       ロシアのシベリアには 200箇所もある
       中国奥地の砂漠には 100箇所もある
       フランスにも ドイツにも あの狭い国土のイスラエルにもある
       イランにも 北朝鮮にも それが出来た 

       ぼくが 次に 生まれ変わったとき
       不幸なことに 日本を揺るがす大地震が起きた
       世界で二番目に大きかったM9.0の地震は 15メートルを超える大津波を誘発し
       岩手 宮城 福島 茨城の沿岸を襲った
       住宅を含む建造物は ほとんど破壊され 何で? どうして? と思う間もなく
       2万人を超える同胞が 命を落とした

       津波は 福島県双葉の 原子力発電所をも破壊した
       外部電源が遮断され 高温を余儀なくされた炉心がメ ルトダウンし
       四つあるうちの一つが 水素爆発を起こした 

       高濃度の放射能は 大気圏内に放出され
       栃木県那須 埼玉県松戸 群馬県尾瀬まで流れた
       放射能は 空気中のみならず 地下水と共に 海中にも流れ始めた
       30キロ圏に 人間は住めなくなった
       双葉町をはじめ 夜ノ森町 大熊町 富岡町 浪江町 小高町から人がいなくなった
       四季折々の花は咲くのに 穏やかな風が吹いているのは 日本各地と全く同じなのに
       そこに 人の気配がない 静寂だけが支配する 不思議な空間が広がる

       風評被害は甚大だ 福島産の果物や農産物を人は買わない 海産物も だ
       図に乗った韓国は 東北6県の農産物 海産物の輸入を禁止した

       津波による原発メルトダウンの事故を 東京電力は 想定外の事故だといい張った
       しかし、津波の高さを15メートと想定していた 東北電力の女川原発は無事だった
       想定の甘さを突き 被害に逢った住民の一部は
       時の総理大臣管直人を始め 電力会社幹部を告訴している
       いまのところの判決では 罪に問える法律はないとしているが 裁判は継続される

       風評被害は 今もって 大きくのしかかる
       日本にいた外国人は 潮が引くように 日本からいなくなった
       そして 海の向こうから固唾を呑んで 日本を見ている
       特に 絶え間なく流れ出る汚染水処理に 注目している
       なぜなら 原子力発電所はいまや全世界にあって 人ごとでないからだ
       フランスでは 電力の73%を原子力発電に負う
       ドイツとスイスは 原発の廃止を宣言した
       イタリアは 国民投票で原発の導入を 否決した 

       次に ぼくが生まれ変わったのは それから100年経った時だった
       地球に 大規模な地殻変動が起きていた

       宇宙の神が 刀を振るって 地球の表面を切りつけたような 四、五本の傷跡ができていた
       一億の人間と 数億の動物と 数十億の植物が犠牲になっていたが
       それ以上の 問題が起きていた
       青森県六ヶ所村 ミシガン湖周辺 タクラマカン砂漠 イランのエルプルス山麓など
       高レベル放射能廃棄物の永久貯蔵庫が 地殻変動により地表に露出した
       高熱を発して 液状化したガラス体は  高濃度の放射能をもったまま
       地下水に溶け込み 河川や湖沼と汚染し 海へ流れ出た
       そのころには もう 放射能はなくなっているだろう だって?
       冗談じゃない
       セレン79の半減期は 6万年 だ
       ストロンチウム90は これだけは 半減期は30年だ
       ジルコニウム93は 153万年だ
       テクネチウム99は 21万年だ
       パラジウム107は 650万年だ
       ヨウ素129にいたっては 1570万年だ

       水に溶け込んだ これらの放射能物質は 蒸発して放射能の雨となる
       世界中の樹木も 草花も 肉も 野菜も 魚も 果物も 汚染された
       その時 どうして人間だけが例外でおられようか!

       原子力発電を止めよう 核兵器に結びつく高速増殖炉はやめよう 
       核不拡散条約を守ろう という動きは 世界中で何度もあった
       放射能廃棄物の安全性を問う 質疑応答は 何度もあった
       どの国の どの政府も 10万年は大丈夫だ と胸を張って答えていた

       人間は
       神が創った元素を破壊して セシウム137や テクネチウム99などを 作ってきた
       核兵器を作り、電力を得てきた
       もし、神がいませば、人間のこの所作を どうしてお許しになるか
       人間よ
       神の怒りの凄まじさを みるがよい
       神の摂理に逆らって 欲望を遂げようとした 自らの傲慢さを 悟るがよい
       神の鉄槌に 懼れおののくがよい

       ぼくは もう 生まれ変わりを 止めようと思う
       約500年にわたって 生まれ変わりを続けてきたが
       どうやら 潮時が来たようだ 自らのイノチに終止符を打とう

       さようなら 地球
       さようなら ぼくのイノチ        

             


2013年9月4日           世界は固唾を呑んで見守っている

 私はテレビはほとんど見ませんが、NHKのデジタル1の世界のニュースだけは、欠かさず見るようにしています。そして、原発の汚染水問題が、世界各国の話題にのぼり、専門家同士の意見交換が頻繁に行われだしていることを知ります。世界の、特に原発を抱える国では、深刻極まりない問題として捉え、日本の対応にあらゆる批判を加えていることを知ります。〈対応が手ぬるい。そんなことでいいのか!〉 というのが集約された意見です。

 スタンフォード大学研究者たちは、日本が採ろうとしている、メルトダウンした原発周辺を凍土で囲むという案に疑問を投げかけます。再び地震が起きたらどうするのか? 電力供給が止まったときは、何を持って代わりとするのか? 未来永劫に汚染水が隔離できるのか? 日本以上に真剣に向き合っています。

 情けない現実が次第に露呈してきました。林立する汚染水タンクの耐用年数はわずか二年、というではありませんか!、鉄板接合部分は溶接ではない、というではありませんか! 汚染水を浴びると人間は二時間ほどで死ぬ、というではありませんか! 初期の段階で、汚染水処理予算278億円が計上されたのに、東電首脳部は決算数字を悪化させないため、却下したそうじゃありませんか!

 汚染水問題には、全く触れて来なかった民主党政権の二年間! 原発売り込みに業者帯同で世界各国に商売に出かけた安陪政権! 今頃になって大騒ぎを始めた原発関係の識者たち! 

 最近、福島漁民に対する説明会が東電首脳が出席して開かれました。漁民たちは、真っ赤になって東電と政府を詰りました。首脳たちは聞き流して、嵐が収まるのを待つばかり。

 汚染水に係る日本の報道のテレビ画面は、そのまま、世界各国に流れていきます。世界のテレビ画面に流された同一画面を、私たちはNHKのデジタル画面で、また、見ているのです。

 恥ずかしい、実に、恥ずかしい。世界各国は日本以上にこの問題を深刻に捉え、論議しているのですから。

 


2013年9月6日    (上の問題に関連して)世界中で起きている核事故

 この数日、世界の首脳がロシアのサンクトペテルブルグに集まっています。オバマさんとプーチンさんが、固い握手を交わし、同じ食卓につき、笑顔で話し合っています。安陪―オバマ、安陪ープーチンの会談も短時間ながら持たれました。冷戦時代には考えられなかった、ほっとする光景でありましょう。

 冷戦時代、アメリカは大型爆撃機に四発の核爆弾を積んで、ソ連国境近くを四十六時警戒飛行をしていました。クロムドーム作戦と言います。一機が事故を起こし、スペインのパロマレスに墜落しました。汚染は広範囲に及び、アメリカは汚染された地面を掘り起こし、1400のドラム缶に詰めて本国に回収しましたが、それは全体の70%程度であって、パロマレスの住民は今なお、苦しんでいるといいます。今から四五年前の事件です。また、一機はデンマーク領の北極海のチューレに墜落しました。核爆弾三個は回収できましたが、一個は未回収です。海底で放射能を出し続けているといいます。回収作業に当たったデンマーク人12人のうち8人がすでに死亡し、チューレの住民800人の内、すでに500人が死亡し、そのうち58人がガンだったといいます。

 一連の核事故は「ブロウクンアロウ事件」と呼ばれ、大きなものだけでも32件に上るそうです。アメリカは情報を開示する国ですが、そのアメリカでさえ、事件を隠ぺいしようと努めています。ロシアにも核事故はたくさんあっただろうに、世界が知れえているのはチエルノブイリ事故だけです。核を武器として保有する国は、中国、インド、パキスタン、イスラエル、そして、イランに北朝鮮。事故は当然起きている筈なのに、すべて、国家によって隠蔽され、世界は知ることが出来ずにいます。いわんや、いま、原発を所有する国は多数です。事故はこれまで無数にあった筈だし、これからも数えきれないくらい起きるでしょう。でも、国家が隠ぺいしてしまうのです。苦しむのは、福島と同様、住民です。

 福島の原発汚染水問題、つくづく、日本は世界に対して無防備だなあ、と思うのです。日本のマスコミ報道は世界の趨勢に対してあまりに幼稚すぎるなあ、と思えてならないのです。事故につきものの風評被害に対して、日本はもっと神経を使うべきだなあ、と思えてなりません。 

 


2013年9月3日              追悼 大屋雅之君

 大屋雅之君と私は、共に昭和12年生まれ、ただし、二年遅れて東京販売局で合いまみえた。同期は米山哲郎君と藤塚文顕君。当時の部数は全社で400万、それを800万部までに押し上げた販売の戦士の一人として、彼は現役を引退し、喜寿を迎えてこの世を去った。几帳面な性格の彼は、同時に寺社仏閣を好んだ。海外旅行の時も、行く先の予習をして出かけ、同行の奥さんに講釈した。夥しい記録が残っているという。大学に残っていれば、間違いなく慶大教授になっていただろう。ところが、上顎ガンという奇病が彼を襲う。この上ない苦痛を伴うこの病は、最後には脳組織まで犯すらしい。彼は夜中に飛び起き、販売部長になりきった演説を始めたそうだ。「販売店の皆さん、部数というものは……」 哭けてくる。

 5月24日、彼が最後の発熱で病院へ運ばれた時、彼の母親が102歳で亡くなった。当然、葬式には出られない。カミを伸ばすことに生涯を捧げた男が、どうして、カミからこのような仕打ちを受けねばならなかったのか。

 彼の振出しは千葉県に始まる。当時、部数の躍進著しかったのが千葉県。全県一区で親分が海野武さん、子分が私。そこへ大屋君が加わって子分が二人になった。販売所長への接し方を最初に彼に教えたのは兄弟子たる私である。爾来幾星霜、私には11人の子分が付いた。大屋君も、6人の優秀な販売人を育てた。私の最初の子分は福島県担当の時の植田義浩君である。販売担当を務めた後、熊本朝日放送で活躍している。大屋君の最初の子分は神奈川時代の飯田真也君である。同じく、販売担当を務めたあと、専務取締役東京代表の要職にある。共に、兄弟弟子が、名馬をして最初の飼葉を与えたのは単なる偶然か。大屋君、持って瞑すべしであろう。

 実は、この追悼文を書くに相応しいのは飯田真也君をおいてないだろう、と辞退申し上げた。ところが、飯田君は旧友会の来賓であっても会員でないからダメだという。彼に取材したままをここに記した。

 

 

2013年9月1日        箱根塔ノ沢福住楼、おかみさんからの手紙

 しばらく前になりますが、嵐山光三郎が週刊朝日の連載コラムで、箱根塔ノ沢福住楼のことを書いていました。懐かしかったので、この欄に、私なりのエッセイを書いてみました。、美人の上に、奥ゆかしい風情を漂わせていたおかみ、沢村緑子さんのことも書きました。

ところが、世の中、至って狭くできているのか、「エッセイを見た」、と緑子さんご本人から私宛に、手紙が届いたのです。いや、驚きました。御年90歳を超えていらっしゃるにもかかわらず、まるで少女のように瑞々しい筆致で書かれています。感激しました。余り嬉しいので、その手紙の二枚目の部分をスキャンし、ここに掲載させてもらいます。また、緑子さんに差し上げた手紙のコピーも付け加えさせてもらいました。

(手紙画面上にカーソルを合わせ、クリックしていただくと、鮮明に拡大されます) 

 IMG.jpgーーー 拝啓、連日の猛暑にもかかわらず、ご健勝の由、心からお喜び申し上げます。 この度は、思いがけず、みずくきの跡も麗しいお手紙をいただき、驚きと、嬉しさでいっぱいであります。 週刊朝日のコラムで、嵐山光三郎さんに福住楼の由来を書いてもらえたことが、嬉しくまた、懐かしく、私のホームページに懐旧談を載せたところ、図らずも緑子様のお目に止まったとは、何とも幸せなことでございました。 

 当時、朝日新聞社の、特に 販売局や販売店が、どれだけお世話になったことでしょう。片目に白いガーゼの永井大三さん、古屋さん、吉田さん、前沢さん、海野さん、小川さん、そして、ヤスさんがお気に入りだった大先輩の小田弘さん… 残念ながら皆さん、すでに鬼籍入りされています。 

 なら、若い人たちが、もっと福住楼のお世話になったらいいのに、と思うのですが、緑子さまご承知のように、世の中がすっかり変わりました。あの当時は隆盛を極めていた新聞業界全体が、今は退潮現象の渦中に放り込まれているからであります。 インターネットやスマートフォンなどという怪物が現れ、情報の伝播に、新聞や雑誌などの紙媒体は、必ずしも必要ではなくなってしまったのです。新聞は読まれない、雑誌も売れない、音楽のCDも、写真の印画紙も売れない。すさまじいばかりの変わり様です。 新聞関係者をはじめ、昔、隆盛を極めた産業に従事する人たちにとって、温泉地に出向いて英気を養うなどという余裕は、とっくに無くなっているのです。 

 熱海の衰退ぶりがそれを如実に表しています。熱海市前市長の川口市雄君は、私の同級生で、かつ親友ですが、それを苦にして鬱病になってしまいました。 ではどうすればよいのか? 

 新聞も旅館業も、大きな壁に突き当たっているやに見えます。特に、老舗中のシニセである福住楼も、緑子様ご心配のように、暗中模索の状態ではなかろうか、と拝察いたします。だからと言って、伊藤園のような薄利多売主義はシニセである以上、とるべき方法とは思いません。 

 一つ、ご提案させていただきたい方法があります。 それは、世の中の若い富裕層、図らずも儲かりっぱなしの新興企業に焦点を合わせた誘致活動を、インターネットなどを通じて、積極的に行う、というものです。そうして福住楼の良さを知ってもらう、絶対に他では味わうことのできない「古き良きもの」に接してもらうというものです。口コミが口コミを呼ぶ状態になればシメたものです。それを可能にする若いコンサルタントは必ずいるのですから、緑子様はコンサルタントを雇え、と指示するだけでいいのです。衰退する新聞業にも、そういうコンサルタントがいればいいのですが、残念ながらおりません。

 懐かしさに甘えて、つい、余計なことを口走ってしまいました。ご勘弁下さい。 福住楼を愛してやまない、大勢の方々の中の一人、と思し召し下さい。 食卓でお相手下さった時の、地味でいて奥ゆかしいお召し物、まるで透き通るような美しいお顔と、穏やかなお話ぶり、この先、決して忘れることはありません。 卒寿から白寿までが、人生の本当の輝きと申します。これからが人生の本番でありましょう。どうか、お健やかにお過ごしくださいますよう、福住楼生涯のフアンの一人がお祈り申し上げます。

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