エッセイ集

2014年7月9日            戦争記念館

 ベトナムハノイの戦争博物館にも行きました。ホーチミン市のにも行って見ました。展示の仕方もまあまあであり、それぞれ感慨深く見ることがてきました。

 さて、戦争記念館はカンボジアにもあったので、興味津々で行って見ました。唖然としてしまいました。林の中に戦車、装甲車、迫撃砲、弾薬、航空機などが、ただ、並べられているだけだったのです。すべて雨ざらしで、錆びついています。並べられ方だけは、それでも整然としていました。入場料は5ドルでした。

 すべて見て回って、「ああ、これらは大人の戦争ごっこのなれの果てだ」「縄張り争いが殺し合いにまでいってしまった、人間の哀れさの象徴だ」 と感じました。人間の業の深さをイヤというほど感じてしまいました。

 縄張り争い、権力闘争は、すべての動物にみられます。植物だって例外ではないようです。鶯が樹のテッペンで鳴くのは、美声を聞かせるためではありません。「ここは俺の縄張りだ」と周囲に対して宣言しているに過ぎません。

 69年続いた戦争の放棄を謳った日本の平和憲法が、安陪政権によって、集団的自衛権を容認する閣議決定までいってしまいました。その底流には、中国と韓国の現政権の、日本敵視政策が日を追って拡大されている流れがあるのですが、もっと広い視野に立って歴史と未来を俯瞰すると、「世界史が戦争の歴史であった以上、これからも戦争が起きるのは必然」 という解釈ができるのです。そして日本は、世界の殺し合いに参加することを辞さない国になってしまったのです。

 カンボジアの、野ざらしにされている戦争ごっこの武器、弾薬が完全な鉄さびにならない前に、恐らく、世界的規模の戦争が、また起きてしまうでしょう。これからの戦争の武器は、相手国のコンピューターに侵入するサイバー攻撃であり、無人のステルス爆撃機であり、最終的には核弾頭搭載のミサイルになるでしょう。その頃私は「千の風」になって、地球上を彷徨っているでしょう。


2014年7月8日      カンボジア国立博物館での貴重な写真

 私のデジカメ「ソニーRX100…」は、7万円でしたが、一応、高級カメラだそうです。ところが、私はカメラの操作に、いまもって疎いのです。説明書きはあるのですが、小さな字で書いてあるし、読んでもチンプンカンプンだし、ようやく、スナップシャッターの在り処、動画を撮るためのボタンだけは覚えました。カメラのブレとかズームとか、何のことだかサッパリです。考えてみれば、昔からそうなのです。貧乏で、カメラなど高嶺の花だったせいもあるでしょう。でも、「今」を切り取って写真にして保存したからといって、それが何になるのだ? 思い出記録など人生にいらないのだ、という妙な偏見が私の中にあることが問題なのでしょう。

 旅に出ると、そうもいかなくなります。旅のエッセイをホームページに掲載するに及んで、「その時の感動を表現するのに、文章よりも、映像の方が優る場合もある」 ことを知りました。私としたことが、デジカメとIPAD写真と携帯写真が、必携品になってしまいました。習うより慣れろで、いまに、いっぱしのカメラワークが出来るようになると思います。

 シュム・リアップに滞在中のある夕方、思い立って、カンボジア国立博物館へ行きました。目を見張るような彫刻が並んでいました。どの展示室も、観客がいないし、係員の姿もありません。

 「これは写真だ」 と動画を撮り始めました。感動を誘う仏像は一枚撮りをしました。バチバチ撮りまくりました。全くの静寂の中、「美を写し取っている」、という感動が走りました。

 と、ある部屋に入ると、そこは薄暗く、壁一面に小さな仏像彫刻が飾られていました。後ろと斜めから僅かな光が当てられていました。正に幻想的な空間でした。われを忘れて、一枚取りを始めたその時です。隅っこにいた二人の女性係員の一人がツカツカとやってきて、「ノウ」と言いながら、私のカメラを取り上げたではありませんか。その時私は、博物館が撮影禁止であることを知りました。そういえば、全世界の博物館は撮影はノウです。すっかり失念していました。

 私は素直に謝りました。だが、その女性係員は私のカメラを素早く取り上げるや、慣れた手つきで撮影したものの消去にかかりました。そして、カメラを返してくれました。彼女が消したのはここの撮影写真だけで、よもや、他の写真は無事だろうな、と点検してみると、案の定、今日撮った一枚もの全てが失われていました。私は怒りました。「アイアムソーリー。私のミスです。だけど、何の権利があって他の写真まで消してしまったのか!」 彼女は言い訳らしきことを言いましたが、反論しようにも言葉が、英語が出てきません。焦れば焦るほど、言葉が遠のきました。

 その時の、興奮したやりとりが、ここに掲載する最後の動画に出てまいります。

 実は、彼女は一枚ものは消したものの、動画は消し忘れたのでした。従って、これは貴重な動画となりました。どうぞ、ご覧下さい。

 

 

2014年7月7日          大ブリアカーン

 シュム・リアップからカンボジアの首都プノンペン kopura.jpg
(距離270㌔)に向かう国道を、車はひた走ります。
左右は大原野で、ところどころで作物が栽培されて
います。国道は左右分離帯などありませんから、車
が来ないとみると、車は対向車線にはみ出してスピ
ードを上げます。万一のことを考えて、後部座席の
シートベルトを着用しようと思いましたが、壊れてい
ました。

 60キロ走って、あと20キロ、車が脇道へ入ると沿
道に商店や民家が立ち並び始めました。
高床式の
粗末な小屋がほとんどです。奇妙なことに、自転車
に乗った小学生から高校生と思しき集団を追い越し
て行きます。
平屋の学校が二つほど沿道にありまし
た。生徒たちは昼食を摂りに一旦、家に帰るのだそうです。昼食休憩は2時間あるとのこと。学校給食などないのでした。

 大ブリアカーンは、800年前頃、シャベルマン7世が建てた周囲4,8㌔に及ぶ大寺院跡です。盗掘や内戦による破壊が激 しく、それが実に惜しまれるのですが、使われた石の量はアン  コー ルトムを遥かに凌ぎます。恐らく、数十万人に及ぶ人がこの伽藍周辺に居住し、数十年に亘って労力を提供したものと思われます。

 カンボジアにあるワットは、王様の世代が代わるごとに建立されます。王様は寺院の最上階に住み、王家一族が伽藍内に居を構え、一般住民は、恐らく何十万単位で伽藍の外に街を作っていたようです。そして王様が亡くなると、王様はその伽藍内に葬られるため、住民はそこを離れ、次の王様にために新たな街を作り、その王様のために石組みの伽藍を作り上げたようであります。だから、カンボジアには王様ごとに伽藍があるのです。その数、200を超えるといわれます。住民が移ってしまうと、街の賑わいや、人の息吹は失われ、あとは雑木や雑草が生い茂ります。

 盗掘や武器による破壊が凄まじい大伽藍を、汗だくだくになって見て回ったあと、伽藍の外の雑木林を歩いてみました。「強者どもの夢の跡」 でした。
 

 

2014年7月5日               いい顔

 私は昔から、人の顔に興味を持っています。美醜は問題ではありません。自分の内面に何かを持ち、それに打ち込んでいる人の顔が好きです。政治家や企業家も、それなりに人生に打ち込んでいるのでしょうが、この人は、という顔の持ち主は皆無に近い、といっていいでしょう。何故なら、「欲」というものが、知らず知らずのうちに顔の一部になっているからです。作家や芸術家も、同列です。絶えず欲求不満を内部に持っているからでしょうか。

 いい顔の持ち主は、宗教者に多いことに最近気がついています。キリスト教の修道士、聖職者、あるいは、仏門をくぐり抜けた僧侶に、いい顔の持ち主が多いのです。自分というものを振り切り、何物かを突き抜けた顔は、始終輝いて見えます。自我というものを捨て去った人の顔は、あるときは美しくさえ見えます。私も、そうなれたらいいな、と始終思っています。

 タイ・チエンマイの教会でお知り合いになったTさんは、85歳のご高齢ですが、輝くようないい顔の持ち主です。破顔一笑されるときのお顔には、惚れ惚れとしてしまいます。

 樺太生まれで樺太育ちのTさんは、戦後の荒波の中、苦学の末、丸石自転車に入社し、社長にまで登りつめるのですが、職を離れた70歳のとき、樺太で同級生だったSさんと再婚します。新婚生活は、私の家の近くの光が丘に構えていたのでしたが、チェンマイに移り住みました。お墓もチェンマイに定めました。チェンマイでの聖書研究会のとき、たまたま、Tさんのお隣の席だったので、Tさんの聖書を見せてもらいました。おそろしいほどの書き込みがありました。つまり、日夜、聖書と共にある証拠がそこにありました。ああ、この方は既に何物かを突き抜けたのだ、だから、屈託のない、いい笑顔ができるのだ、と納得しました。

 たまたま、御夫妻が来日されていたので、30日、練馬駅の近くに席を設けさせてもらい、数時間をご一緒いたしました。私にとって貴重な時間となりました。

 その時、ふと、思い返されたのが、宮沢賢治の「雨にも負けず」 の詩です。有名な詩なので、若い時から、全文を諳んじることができるのですが、改めて文献を見て、あっと、驚きました。この詩には続きがあったのです。それは仏教のお題目でした。合点がゆきました。佛によって自分を去りたい、という願望がこの詩の底流にあることに気付かされたのです。

 恐らく、宮沢賢治もいい顔の持ち主だったに違いありません。ご参考までに、この詩の全文をここに再録いたします。

              雨ニモマケズ 風ニモマケズ
              雪ニモ 夏ノ暑サニモマケズ

              丈夫ナカラダヲモチ
              欲ナク 決シテ瞋ラズ
              イツモシズカニワラッテイル
              一日ニ玄米四合ト

              味噌ト少シノ野菜ヲタベ 
              アラユルコトヲ
              ジブンヲカンジョウニ入レズニ
              ヨクミキキシワカリ
              ソシテワスレズ
              野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
              小サナ茅ブキノ小屋ニイテ
              東ニ病気ノコドモアレバ
              行ツテ看病シテヤリ
              西ニツカレタ母アレバ
              行ツテソノ稲ノ束ヲ負イ
              南ニ死ニソウナ人アレバ

              行ツテ コワガラナクテモイヽトイイ
              北ニケンカヤソショウガアレバ
              ツマラナイカラヤメロトイイ
              ヒドリノトキハナミダヲナガシ
              サムサノナツハオロオロアルキ
              ミンナニデクノボートヨバレ
              ホメラレモセズ クニモサレズ
              ソウイウモノニ 
              ワタシハナリタイ

              南無無辺行菩薩
              南無上行菩薩
              南無多宝如来
              南無妙法蓮華経
              南無釈迦牟尼仏
              南無浄行菩薩
              南無安立行菩薩 

 

2014年7月4日              パンドラの函

 

 イラクの北部で、イスラームの過激集団が独立宣言をし、内戦になっています。アメリカが加担して樹立させたシーア派のマリキ大統領に、統治能力がないのが原因のようですが、元はといえば、アメリカの介入にその端を発します。9・11のテロ事件を機に、ブッシュ政権はカサにかかってイラクに介入しました。「フセイン政権はテロの元凶であり、悪の枢軸である」、「核を隠し持っている」というのが最大の理由でしたが、国際監視団が綿密に調べても、その形跡はありませんでした。ユダヤが支配するアメリカの軍需産業のロビー活動の餌食に、ブッシュ政権は貶められた、と言っていいでしょう。

 戦争をしないと、アメリカの軍需産業は行き詰まります。武器を果断なく使用することが当然であるかのような産業構造がアメリカにはあります。ベトナム然り、カンボジア然り。世界の警察官の振りをしていますが、その居丈高な行動の全てが、その国の、その地域の破壊に結びついたことが、今や、世界の常識になりつつあります。

 イスラームの社会構造は独特です。スンニ派、シーア派に大別されてはいるものの、極端に言えば部族国家です。族長の支配を絶対とする、民主主義や社会主義以前の前近代集団であると言っていいでしょう。その形態が一世紀以上に亘って継続されて来たのです。

 そのパンドラの函に、民主主義という刀で切り込んだのがアメリカです。パンドラの函を開けてしまえば、そこには混沌の坩堝しかなく、アメリカは案の定、ドツボにハマってしまいました。

 イスラームにおける、スンニ派とシーア派の対立抗争は一世紀も前から続いているのです。しかも、スンニ派を応援しているのがシリアです。今回の、武装集団は「ISIS」と名乗っています。「イラク・シリア・イスラム国」というものです。つまり、ロシアの影が見え隠れしています。

 アメリカはどう出るのでしょうか? 来年は、アフガニスタン駐在している5万を超えるアメリカ軍が撤退します。「もう、付き合っていられない、勝手にしろ」 というのが、アメリカの本音でしょう。とりあえず、300人の軍事顧問団をアメリカはイラクの送り込みました。

 この騒動がイラクの一地域の紛争に留まらないのは、石油価格が世界的に跳ね上がった、という点で、見過ごしできないのです。日本の石油価格はそうでなくても世界で一番高いのに、この一週間で一リットル10円上がりました。158円が168円になったのです。日本各地で悲鳴が上がっています。中東からの輸入に頼りっぱなしの日本経済にとって、大きな打撃となっています。

 恐らく、世界的な規模で石油を牛耳っているユダヤ系資本は、この現象にほくそ笑んでいることでしょう。「シテヤッタリ」 と手を叩いているに違いありません。日本が始めた太平洋戦争は、「石油が欲しかった」 という側面があったことも、歴史が証明しています。戦争というものには、資源の奪い合いという醜い面が必ず付き纏います。尖閣列島、正に然りでありましょう。

 ブッシュと違って、オバマ大統領は穏健派であります。でも、イラクに兵を送り込み、戦争を拡大させろ、というアメリカの軍需産業からの突き上げに、果たして、抗することができるかどうか?

 これは、見ものです。

 

2014年7月3日            162円の買い物

 カンボジア紀行はまだまだ続くのですが、その合間に紀行以外のものが入ってくるのをお許し下さい。

 Ⅰ日、2日は恒例の晴山会でした。長野高校卒業生6人が山梨の清里に一泊してダベリングをする集まりです。昨年は宮沢君の入院手術のため、夏の会は取りやめとなり、11月に新宿御苑に集まりました。二年ぶりの清里は好天に恵まれたのですが、甲斐駒も八ヶ岳も霞んでいました。Ⅰ日の12時に長坂にそれぞれが集結し、昼飯は恒例の「藤の家」という蕎麦屋。酒はその時から始まり、ホテルへ入ってからも夜更けまで続き、談論は風発し、途切れることがありませんでした。毎年、そのホテルの体育館に置いてあるグランドピアノを弾くのを、私は無上の楽しみにしています。数年前までは、仲間が聴いていてくれたり、歌ってくれたりもしたのですが、77歳ともなると、先ず、声が出なくなります。ピアノを聴くより、酒を飲む方がよくなるのでしょう、演奏会はいつの頃からか、たった一人でやるようになりました。

 自分ひとりの演奏会のために、私はいつもレパートリイを用意します。ドヴィッシーのアラベスクやパスピエは恒例の曲ですが、どうやってメロデイを際立たせるか、それを今回のテーマにして、細心の注意を払って弾きました。体育館ですから音は響きます。いい音が出ると自分の演奏に自分が酔っていきます。今回こそ、会心の出来栄えであったと、自分で納得するのです。1時間15分の演奏会は、翌朝も、7時に起きてやりました。友人らは「よくやるよ」 と呆れていたようでした。

 翌日、10時にチエックアウトすると、近くのサンメドウスキー場へ行きました。1000円払ってリフトに乗り、1900メートルの頂上へ行きました。高原の風は爽やかで、しかも、緑が豊か、ここが銀世界になることが奇異に思われました。思えば、この頂上から滑降を始めたとき、後ろからぶつけられ、首の怪我をしました。雪上救急車のご厄介になり、宮沢君の車で麓の甲南病院に運ばれ、首にコルセットを装置されました。コルセットを外すまで3ヶ月かかりました。宮沢君はリフトの年間パスポートを26000円で買い、連日滑っていたのでしたが、「今年は2,3回かなあ」と弱音を吐いていました。私も、スキーはもう無理かなあと弱気になっています。

 その後、私の希望を入れてもらって、野辺山のビックリ市へ行きました。野菜や果物が驚く程の廉価で売られているマーケットです。出回り始めた白桃は流石に高く、5個で3000円していました。しかし、メロンは3個で1000円です。送ってもらうようにすると、運賃がバカになりません。私は一個で充分です。2個は友人に押し付けました。野菜売り場に、この地方特産のサラダ菜が出ていました。10個入った箱が何と162円! 街では1個100円前後で売られてものが、たったの16円! どうして買わずにおられましょう! 新宿までは高速バスでしたが、混み合う都営地下鉄の中、162円を大事に抱えて帰宅しました。今朝はその一個を綺麗に洗い、ドレッシングで食べ始めました。でも、途中で飽きてきてイヤになりました。まだ、9個と二分の一が残っています。

 今晩はサラダ鍋にしよう、と思っているのですが、せいぜい消化できて一個半。まだ、8つ残ります。どうしよう……

 

2014年6月29日           カンボジアを壊したサル

 ポルポトが追い詰められ、タイ国境近くで毒殺されたか、自殺したのかはいまもって判然としていないが、遺体の爪の色が変わっていたというから、恐らく、毒殺されたのであろう。いまから16年前である。73歳。

 彼の幼名はサロット・サルという。自営農家の9人兄弟の8番目だ。パリへ国費で一年間留学している。留学継続試験を受けたが、三年連続で失敗し、国に戻って独立闘争に加わる。その組織では食事の配膳係りや、肥溜め担ぎなどをやらされたらしい。だが、幹部に登用してもらえないので、共産党のいろいろな組織を渡り歩く。そして、カンボジア共産党の中央常任委員になる。

 一方、国王を退任したシアヌークは政治への思い絶ち難く、「人民社会主義共同体」を組織し、ポルポトの共産党と真っ向から対立する。互いの権力闘争に血の雨を降らし合う。その最中、ポルポトは中国や北朝鮮に頻繁に行き、登小平や劉少奇らと会って、援助を取り付ける。そして、毛沢東思想の文化大革命の亜流版「原始共産主義」を標榜し始める。人民は都市を離れ、農村へ行って働け、という極端な思想だ。そのため、都市はゴーストタウンと化す。

 ベトナム戦争末期、北ベトナムがカンボジアに基地を築いていたことから、アメリカはカンボジア爆撃を大々的に行った時期がある。アメリカはベトナム人のみならず、カンボジア人まで無差別に殺しまくったのだ。多くの難民を虫けらのように殺したのだ。「恥を知れ、アメリカ!」 と言いたい。

 しかも、アメリカのベトナム撤退を機に、不倶戴天の敵シアヌークと手を結んだポルポト率いるクメールルージュ共産党がカンボジアの政権を握ってしまった。狂人ポルポトの恐怖独裁政治が始まった。私は文献でこの辺を読むと「反吐を吐く」思いになる。粛清された約100万人余の、医者、教育者、技術者らの心情に思いを馳せると、涙が止まらなくなる。彼らは集団で連行され再び戻ってくることがなかった。(虐殺された人の数は一説には200万人に近いという。230万、120万、150万など、いろいろある) 辺境地のいたるところにある遺体処理場は、いま、訪れる人もまばらであるという。人々は今もなお、ポルポトの亡霊に悩まされているのだ。その証拠に、8種類あるという新聞を読んでいる人に、街を歩いていて遭ったことがない。街には本屋を見かけないばかりか、雑誌を読んでいる人にもついぞ会わず了いであった。

 ポルポトは「原始共産主義に帰れ」 標榜したが、己の理論の弱点を識者によって反論されることを恐れた。余りにも身勝手な、荒唐無稽な理屈であることは誰にでも分かった。だから、少しでも学識のある者が邪魔になり大量虐殺に及んだのである。合言葉は「腐ったリンゴは箱ごと捨てねばならない」というものだった。ポルポトによれば、新聞を読む者も腐ったリンゴなのであった。メガネとかけているだけで虐殺の対象になったという。

 ポルポトは仏教も弾圧した。アンコールは、ヒンズーの神を祀つているので大切にされたが、隣のアンコールトムは仏教的色彩が強いので、破壊を余儀なくされたらしい。内戦が始まれば石の寺院は格好の要塞となり、爆撃の標的となる。遺跡の破壊のほとんどは、年月経過もさることながら、ほとんどは人為的なものであるらしい。すべて、ポルポト、シアヌーク、ヘン・サムリン、ロンノルらの醜い権力闘争の結果である。ああ、やんぬるかな。

 


2014年6月28日     石の重さ(写真は、クリックしていただくと、大きく、鮮明になります)

 周囲を掘割に囲まれたアンコールワットは、高さ65メートルの石組みの塔が五つ聳え、威容を放っています。見る位置によっては塔が4っになったり、3っになったり、その変化は様々です。中央にだけ、掘割を渡る石組みの橋があり、観光客はこの橋を渡って往来します。入場料は20ドルですが、払うと同時に写真を撮られ、即座に顔写真入りのパスポートが渡されました。
                               アンコールワット3.jpg
 世界遺産の中でも、特に名高いアンコールワットについての解
説書は沢山あるのですが、実地に即した解説がどうしても必要で
す。そこで、最初の一日だけは日本語のできるガイドをホテルを
通じて頼みました。4時間40ドルです。お陰で、様々なことが分
かりました。

 アンコールワットの遺跡群は石組み建築です。安山岩、砂岩が
巧妙に組み合わされて、先ず土台ができ、塔が出来上がってい
ます。膨大な量の石をどこから、どうやって運んできたか? ガイ
ドが言いました。「よく見てください。一つ一つの石のどれもに二
つの穴が開いているでしょう。この穴に縄を通し、水路に浮かべ
た筏に石を繋いで、水中を運んだのです。石は浮力が付いた分
軽くなる原理を応用したのです」 1000年前には、石採掘現場
からここまで、大きな水路があったとのこと。
直線で約400メート
ル、幅約10メートルの石畳は、なるほど、全ての石に二つの穴
が開いていました。一部、補修された石畳もありました。「これ
は、日本人の石工が来て、現地の石工に技術指導しながら作ら
せたものです」 こんなこと、ガイドブックには載っていません。

アンコールワット2.jpg     第一回廊、第二、第三と続く中で、猿の軍団と人間軍団が戦う
膨大な壁面彫刻がありました。武装した一匹一匹が人間と闘っ
ています。どれ一つとして同じ形態のものはありません。猿軍団
の方が明らかに優勢に見えました。これは、一匹の猿を助けて
やったその時の王様への猿の恩返しだそうでありました。  

 65メートルの頂上近くに、4つの人工池跡がありました。雨水
を貯めて用水にしたそうであります。また、翌日行ったアンコール
トムの一角に広大な「王の池」がありました。乾季になると雨が
降らないため、農業用水をどう確保するか、歴代の王の治世の
    悩みだったそうです。                  

 ガイドから、様々なことを聞き出しました。シュムリアップで発行
されている新聞は、8種類あること。でも、人々は余り新聞を読ま
ないこと。なぜなら、つい30年前にはカンボジアでは「知識を持
っている」という理由だけで、たったそれだけの理由でポルポトに
よって虐殺されたこと。その余韻がいまも残っていること。虐殺されたのは恐らく200万人を超えるだろうこと。ポルポトがカンボジアを破壊してしまったこと。内戦の連続によって、隠れ家として利用された遺跡が攻撃され、貴重な文化遺産が失われたこと、などなど。      
アンコールワット4.jpg

 帰りの車の中で「あなたはポルポトについて、どう思っているの」 とガイドに尋ねました。「当時、私は子どもだったのですが、私の叔父がポルポトに殺されました。度重なる内戦によって国土や遺跡が破壊されました。ポルポトの罪は大きいです。はっきり言って嫌いです」

 ガイドに付いてもらって、本当に良かった、と思いました。

2014年6月24日            日本人がいない!

 アンコールワットとアンコール・トム、ブリア・カーンとニック・ポアン、タ・ブロムとスラ・スラン、などなど、シュム・リアップは古代遺跡を尋ねるための基地のような街です。4時間20ドルで契約した車を待たせて、広大な遺跡群の中へ入ってしまうと、面白くて時間の経過を忘れます。しかし、朝晩の空気は乾燥していて過ごしやすくても、気温は容赦なく上がってゆきます。しかも、多湿ですから、シャツもズボンも、パンツまでも汗ビッショリになります。短パンで素足にサンダル、麦わら帽を被っているのですが、万歩計で測って一万歩ぐらいが限度です。冷房の効いた待たせている車にたどり着くとヤレヤレです。

 シュム・リアップから80キロ離れた大ブリア・カーンという遺跡にも行きました。最も壮大にして、最も盗掘が激しかったヒンズー教の寺院跡です。距離があるので65ドルの契約です。首都プノンペンに通じる国道を60キロ南下し、左折して20キロ、そこには実に広大な廃墟がありました。

 都合7日間、遺跡と共にあったのですが、不思議だったのは、どこへ行っても日本人の観光団に遭わなかったことです。団体といえば中国人。あとはアングロサクソン系です。黒人を見かけなかったことも、奇異に感じました。

 そういえば、この二年間、タイ、ベトナム、ミャンマーで見かけた日本人団体はほんの2,3回あったでしょうか。昔は日本人がウヨウヨいたらしいチェンマイでも、日本人がいなくなった、と現地に住んでいる人が言います。

 今回のバンコックから羽田までのジャンボ747便も、乗客は100名足らず。お陰で寝転んで来られました。

 何故か? と考えてしまうのです。日本人の年配者のほとんどが、既に東南アジアの旅をしてしまっていて、二度行こうとはしない、のかもしれません。もう一つの理由は、いまの若い人たちの収入を考えると、生活だけで手一杯になっていて、海外旅行のできる余裕が家計にない、のかもしれません。経済の落ち込みはそのまま国力に反映します。日本の国力は世界的に見て、明らかに衰退期に入っている、と思えてなりません。

 いま、日本で余裕のあるのは高齢者集団でしょう。将来は破綻するかもしれない厚生年金から満額の年金をもらい、その上、企業年金まで上積みされている高齢者集団は、何と幸せにして、能天気な、穀潰し集団でしょうか。おまけに手厚い医療保護まで受けている……
 そして私も、確実に日本の穀潰しの一人であります。なんら、国を富ませる生産性のある仕事に従事していないのですから。若者らの汗水を当然のように享受していて恥じないのですから。

 4人に一人が65歳以上になってしまっている日本という国。日本の国から穀潰しを一人減らすために、私という人間は早晩、カンボジアの遺跡の中で、野垂れ死にするがよろしかろう、と思うのです。 

 

2014年6月20日            水の問題

 5月24日に出発して6月16日に帰ってきました。24日間異郷にあって、最も気を使ったことは「水」でした。その甲斐あって、今回は一度も下痢、発熱がありませんでした。レストランでは、出される水には手をつけません。専ら紅茶にしました。氷の入った清涼飲料は飲みません。缶入り、ビン入りは許容範囲としました。買ってきた果物や野菜類はミネラル水で洗いました。アイスクリームなどは、全く敬遠しました。

 世界遺産アンコールワットやアンコール・トムのあるカンボジアのシュム・リアップという街は、バンコックからプロペラ機で1時間の距離です。予約していた「グランドアンコール・リゾート・スパ」に着きました。テニスコート2面はありそうなフロント空間は天井が高く、吹き抜けです。数機の扇風機が天井で気だるく回っていました。広大な庭の中央には大きなプールがあり、プールサイドでは水着姿の外国人が思い思いの格好で時の経過を楽しんでいます。両側に白い花が咲き乱れる花道を通って、プールを囲む三階建ての一階の部屋に通されます。広々とした部屋には安楽椅子があり、ベッドには天蓋があり、バスルームにはバスタブの他にシャワー室もありました。床はコウキと思われる硬い材質の木材が使われていて、豪華この上もありません。世界各地のホテルに泊まり歩ききましたが、〈ここが最高〉と思えたことでした。しかも、朝食付きで一泊7000円ちょっと! 一日2本のミネラル水が無料!

 シュムリアップの街を、ツクツクといわれるオートバイ付きのカゴに乗って回ってみると、至るところにホテルがありました。それも、恐ろしく豪華なホテルばかりです。ところが、庶民の生活は至って貧しい。その乖離の甚だしさには呆れてしまいました。貧しさの極めつけはトンレサップ湖の水上生活者の群れでしょうか。

 4時間20ドルで契約した車は、シュムリアップ川に沿って下って行きます。舗装はされていても、穴ボコだらけの道と、川とは約8メートルの高低差です。雨季の真っ只中になると、川は濁流となり、道路と同じ高さになってトンレサップ湖に注ぐそうです。日本の琵琶湖の三倍の大きさのこの湖水は、その為、9倍の大きさに膨れ上がります。こんな湖って、世界にまたとあるでしょうか?              

道路沿いには商店や民家が立ち並びます。すべてが高床式です。今にも折れそうな数十本の柱の上に粗末な小屋があります。6畳一間ほどが一軒です。生活用水はどうしているのか? と運転手君に聞いたら、シュムリアップ川の泥水が全てだと言うではありませんか。

 1時間余りで船着場へ着きました。やや大型の観光船から、アベック用の小型船まで、その数30隻余り。ガイドの運転手君を含めて私たちの乗った小型船は、喫水の浅い泥川を蛇行しながら、けたたましいエンジン音を立て、更に下って行きます。周囲は、やがては湖底となるに違いない大原野です。鳥も飛んでいません。虫もいません。40分ほどして、荒涼とした景色の前方に湖水の広がりが見えて来ました。

 何と、湖面に数百の民家が立ち並んでいるではありませんか。その全てが高床式です。湖面が増水して喫水が上がると、浮きの筏を床下に入れて対処するとのこと。一軒の民家に船が横付けされました。家具などありません。布団もありません。トイレらしき空間は、僅かに囲いがありました。排泄物はそのまま水中に垂れ流しだそうです。トイレの横が炊事場ででした。折りからその家の主婦が、湖水から泥水を汲み上げて炊事していました。貯めた雨水は貴重なので滅多に使わないそうです。

学校がありました。船が横付けされ、上がってみると、十数人の小学生が勉強していました。全員が起立して私たちを迎えてくれました。予め案内された商店で買った飲料水2ダースを置きました。ここへ来る観光客は乗船料20ドルの他に、学校への寄付のため、同じく湖上の商店に立ち寄って、お菓子類、コメ(50キロ50ドル)、飲料水(10ドル)など買わされる仕組みになっていました。仕方のないことです。

 小さなカトリック教会もありました。20人ほどで一杯になりそうな粗末は会堂でしたが、屋根に十字架が輝いていました。小舟に乗り換えてそこへ行かせてもらったのですが、神父さんと思しき方へ献金をさせてもらいました。

湖水の中程に、鉄骨作りの2階建てのテラスがありました。観光客はそこへ行って夕日、もしくは朝日を眺めます。周囲360度、空と雲と湖水と、僅かばかりの陸地のほか何もありません。折りから、巨大な積乱雲が太陽を遮り、シュムリアップの街あたりに雨を降らせていました。

 

 小一時間あまり、雄大な景色に見とれていると、夕日が雲間から顔を覗かせました。こういう景色と日夜共にある湖上生活も、きっといいものに違いない、と羨ましくなりました。水の問題はさて置くとして、です。 

湖上生活はカンボジアのトンレサップ湖だけのようですが、水上生活はインドのガンジス河、インダス河流域、メコン河流域に数多く見られます。ガンジス河では汚物はおろか、屍体すら流れてきます。多くの人類がその水を生活水にしているという凄まじい現実があります。動物とて同じです。水がありさえすれば、清流であろうと、泥水であろうと、動物は争って飲みます。

 浄化された水でなければ飲まない、という動物が地球上にいるでしょうか?

 人間も動物である以上、水に優劣をつけて選択する、というのは、もしかすると、日本人の奢りなのではないでしょうか? つくずく、考えさせられてしまいます。

 下痢や腹痛を厭うばっかりに、現地の水を飲まず、ミネラルだけを飲んでいる私という日本人は一体、何なのだ? 何とまあ、高ぶった人間であることよ、と自虐の念にとらわれてしまいました。

 現地の水を飲み、腹痛や下痢を繰り返しながら、自分の身体の中に耐性を育て上げてこそ、東南アジアの旅人足りうるのではなかろうか、と自問自答しているところです。

 


2014年5月17日        ヤクザから親分と呼ばれている男の説教

 このURLをクリックすると、何とも説得力のある話が、画面から流れます。ユーチューブの画像を拡大してご覧ください。アーサーホーランドという、この混血の60歳はなんと魅力のある男でしょうか!

 縦に長い日本列島を30キロの十字架を担いで踏破しました。同じことを、今度はアメリカでやるそうです。彼を通して輝いているものの心を心としなければ…… と思わさせられます。なお、この画像はHさんから送って頂きました。ありがとう。                    

          http://www.youtube.com/watch?v=sq3uvrZry1w
 


2014年5月16日             ベトナム暴動

 南沙諸島はベトナムのフエの沖合にあります。そこへ中国の国営企業である石油会社が、ある日突然やってきて海底油田の掘削を始めました。驚いたのはベトナムです。大量の船を動員して抗議活動を開始しました。中国側もそれに勝る船を動員して、ベトナムの船に体当たりしてまで、寄せ付けまいとしています。ベトナム各地で暴動が起きました。各地に展開する中国企業が焼き討ち、破壊に遭っています。誤って、台湾企業、日本企業も被害を受けました。日本と台湾は国旗を掲げて防戦につとめているそうです。

 抗議するASEAN諸国やアメリカに対して、中国は、「南沙諸島は中国領であって、いらぬ口出しをするな」 と公式発表を繰り返しています。

 ベトナムは中国と同じ社会主義国家であり、土地所有は国家が認めておらず、まして、集会やデモなど固く禁じられています。しかし、今回のデモ、焼き討ち、打ち壊しについてはお咎めがないようです。2年前に起きた尖閣国有化問題で、中国は日本企業に対して同じことをしました。「愛国無罪」が叫ばれました。それと同じことが、いま、ベトナムで起こっています。

 歴史的に見ると、日本がようやく国家としての体を成したのは1500年ほど前であります。ベトナムも中国の支配下にありました。中国4000年の歴史からみれば、両国とも新興国に過ぎません。だからと言って、この横車に甘んじていていいのか? 今後の推移を固唾を呑んで見守りましょう。

 思えば、ベトナムへ行ったのは、僅か5ヶ月前です。私は欧米人ではなく、どちらかといえば中国人的風貌の持ち主ですから、ベトナムの街を歩けば白い目で見られること必定です。小柄で、穏やかで、笑顔が無邪気なベトナム人が中国への怒りに震え出したのです。

 竹島然り、尖閣然り、南沙諸島然り、フィリッピンとの海域も然り、領土とは何と、人心を一変させるものでしょうか。

 隣の家の竹やぶかのせいで、私の家の庭に竹の子が生えました。さて、この竹の子の所有権はどちらに属するか? 領土問題はこれと同じことでしょう。隣同士が互いに友好的であれば、笑い事で済まされるでしょうが、啀み合い同士であれば紛争になるでしょう。互いが互いの面子を立てるために、殺し合いにすら発展しかねません。領土問題とはそういったものです。

 私は、幸運なことに、暴動以前のベトナムへ行くことができました。感謝しています。 

 

2014年5月15日              美味しんぼ礼賛 

 雁屋哲作、花咲アキラ画の漫画「美味しんぼ」120巻の内105巻まで、私は持っています。食べ物の世界のことですが、実に面白く、しかも、有益です。私が持っている漫画は、他には長谷川町子の「サザエサン」、と手塚治虫の「ブラックジャック」だけです。

 「美味しんぼ」の最近の特徴は、食にまつわる環境問題を取り上げ始めたことです。食品添加物の現状など実に細かな取材をして、警鐘を鳴らしています。実在の人物が、実名で登場してくるのも最近の傾向でしょうか。彼らはいま、福島問題に全力で取り組んでいるようです。放射能汚染について真っ向から切り込んでいます。

 双葉町の町長が 「なぜか、鼻血を出す人が多くなっているんですよ」、という言葉を実名で紹介しています。「除染には限度があり、福島は、結局、人の住めないところになる」 と言った福島大学助教授の発言も、実名入りで取り上げています。

 いま、それを問題として 「あんまりだ」という抗議が発売元の小学館に殺到している、といいます。

 確かに、被爆線量の少なかった福島市、郡山市、会津若松市などの住民からすれば、風評被害を助長するものであるかもしれません。自分たちの居住地が日本国から白眼視されるのは、いたたまれないでしょう。でも、私は思うのです。これは事実だと。事実は事実として直視しなければならない、と。

 2年前に、私はレンタカーを駆って、福島から原ノ町、小高まで行きました。浪江町には入れなかったのですが、常磐線の赤錆たレールと、そこに咲いているコスモスを見ました。家はあるのに、木々や草花はほかと変わらないのに、人影が全くない、ゴーストタウンを見てきました。活気のない、若松、郡山へも行きました。私が5年間、仕事で通い続けたあの福島は、そこにはありませんでした。

 放射能被害はこれからです。徐々に、徐々に、そこに住む人々を蝕んでいきます。それも、半永久的にです。雁屋哲と花咲アキラは、いかなる抗議にもめげづ、福島の汚染問題に取り組んでいくようです。

 「負けるな、頑張れ」 とエールを送ります。 

 

2014年5月14日                ネトウヨ

 政治家というのは、その役目の重大さと、影響力の大きさに反して、さして頭の良くない、権力志向の強い人間がその任にあると思うのは、私だけでしょうか。これは日本だけに留まらず、隣の韓国、中国にも見られる傾向です。

 有力大学出の優秀な学生は、国家試験を受けて官僚になりました。その次が商社や銀行へ行きました。その次が重電や家電、そして、テレビやマスコミ、更にITなどなど。不幸なことに、政治家を志しても世間にはその受け皿がありません。そのため、政治家には二世が多く、親の地盤を引き継ぐことによって政治家を継ぎます。安倍晋三然り、麻生太郎然り、渡辺喜美然り。早稲田大学の例では雄弁会、鵬飛会が彼らのたまり場でした。竹下登、藤波恒生、森喜朗、青木幹雄、小渕恵三……

 この傾向を危惧して、松下幸之助は松下政経塾を立ち上げました。優秀な人材をピックアップして政治をするのに相応しい人間教育に手を染めたのです。確かに、この塾で育った政治家は優秀であり、嘱望されているのですが、頭の悪い連中が作り上げた、と言うより、頭の良い連中までもが丸め込まれてしまっている「土建国家日本」を改革できるほどの勢力も、技量も、今のところ持ち合わせていません。

 この傾向はお隣の韓国でも同じです。現在の女性大統領は元大統領の娘です。能力如何に拘らず党派の権力争いによって担ぎ出された一人の不幸な女性とみるべきでしょう。権力維持のためには嫌日を旗印にします。前大統領も竹島へ上陸を果たすことで、人気を取り戻しました。70年前の慰安婦問題を挙げ連ね、「正しい歴史認識を」 と鸚鵡のように繰り返していれば、政権は安定しているのですから、ロボットのように、その風潮に乗っているだけです。

 中国でも傾向は同じです。共産党政治局員の子弟でなければ、権力者になれません。子弟だけで作る組織が太子党です。習近平はその党の出身です。仮想敵国を作り国民の目をそちらに向けなければ、権力を維持できない、という図式は韓国と同じです。尖閣列島然り、南沙諸島でのベトナムとの衝突然りです。

 いま、3国の関係は、この3人の決して頭がいいとは言えないトップのせいで、極端に冷え込んでしまいました。「冬のソナタ」に始まった韓流ドラマ、明洞の日本のオバチャンの賑わい、誠に結構だな、と思われていた交流が一気に萎んでしまいました。世論調査によると、日本人の中国に好感を持てないという数字が、かつての21%から59%に跳ね上がっています。

田中角榮と登小平が「尖閣は棚上げ」という約束が反古にされたのです。その結果、中国にも激しい嫌日ムードが高まりました。石原慎太郎の罪は、余りにも大きすぎます。

 3国の報道については、3国とも一応は冷静さを保って終始しています。ところが一歩インターネットの世界に入ると凄まじい現実にぶつかります。

 「ネトウヨ」がそれです。ネット右翼のことで、新語です。2チャンネルの書き込みから始まったらしいのですが、連日連夜、凄まじい嫌韓、嫌中の文字が飛び交っています。

 覗いてみました。呆れました。寒くなりました。書き込みのほとんどは若者です。10代の青少年たちです。新大久保のヘイトスピーチどころではありません。あらん限りの韓国、中国に対する罵詈雑言が飛び交っています。

 上海の「グ」さんに、中国のネット上の嫌日書き込みはどうか、とメールで尋ねてみました。中国にも、恐るべき現実がありました。中国の新聞は共産党の御用新聞ですから、嫌日記事は日常茶飯ではあるのですが、若者は新聞をとりません。読みません。専らネットが情報源です。そのネットが嫌日一辺倒なのです。韓国のネットはどうでしょう? 韓国語が読めないのでネットの文言を理解するまでには至っていませんが、その量が膨大であることは、誰でも検索すれば確認できます。

 3国の若者たちが、互いに「ネトウヨ」(ネット右翼)になっている現実を、しかも、その現実が日々拡大していっていることを、いまの権力者は知っているのでしょうか。よくよく、3人のトップ政治家は、自分のミスリードが3国の若者たちの互いの嫌悪感を増幅させているという、現実に早く気づかねばなりません。表面は平穏にみえても、互いの嫌悪感を若いうちに刷り込まれた人間が大人になったとき、3国は互いに安泰でいられるでしょうか? 隣国にたいする友愛と親しみの感情は、これらの刷り込みによって、嫌悪と排除の感情に替わりつつあるのです。それは2000年に亘る世界史を紐どけば、つぶさに理解させられます。ネットに飛び交う右翼的志向、偏狭なナショナリズム。為政者はよくよくこの現実を直視し、舵を切らねばならないのです。

 「ネトウヨ」、嫌な、嫌な、嫌な言葉です。           

 

2014年5月13日              再び靖国問題

 今日、アマゾンに注文していた丸山真男の「現代政治の思想と行動」が届きました。古本ではありますが、1960年代の学生に争って読まれた名著です。地下室の書棚に、かつてのものがあるはずなのですが、探すのが面倒で取り寄せました。この本の読みどころは、太平洋戦争がどのような仕組みで起こったか、を克明に描いている点です。東京裁判の議事録がその中心をなします。A級戦犯として死刑にされた33名の中将、大将、元帥や参謀が、「私は、上官の命令に従ったまでです」 と異口同音に陳述しているところに、この本の焦点が充てられます。東大教授丸山真男が、そのよって来たる所以を解明していきます。

 文芸春秋の今月号は、超大型企画「安倍総理の保守を問う」として、著名人100人の意見、考え方を特集しています。回答者はピンからキリまでいるので、この人がこんな回答をするのか、と笑っちゃうのもあるのですが、面白いこと、この上なしです。総じて言えることは、安倍総理への危うさをみんなが抱いている、ということにつきました。一方、アメリカの指導力の低下と、中国の台頭には明らかな危惧を抱いている人も少なからずいて、日本は今後、どう進むべきかについて、ほとんどの識者が断定的な答えができずにいる、という現実も浮き彫りになっていました。

 回答者の多くが問題としていたのが、やはり、安倍総理の靖国参拝でありました。為政者は宗教的活動から距離をおくべきだ、という点で、ほとんどの回答者は一致しているものの、保守という観点から見ると、あながち非難には当たらない、という意見もありました。

 そこで、靖国神社とは一体、どういうものなのか、「なぜ、上官の命令に従ったまでです」と終始言い続けて死刑になった33名のA級戦犯が祀られたのか、調べてみたい衝動を感じ、「現代政治の思想と行動」を今一度読み直してみよう、という気になっているのです。

 調べてみると、明治維新ではある時点から官軍になった、薩長土肥の志士は祀られているのに、政府軍ともいうべき幕府方は一人も祀られていません。勝海舟も、西郷隆盛もうやむやにされています。二人共明らかに国のために殉じた人なのにです。二・二六事件の北一輝なども国のために殉じた一人だと、私は思うのですが、太平洋戦争で散ったすべての兵士は祀られているのに、彼らは除外されています。 いわば、東京にある政権の維持に関わりのあった者のみを祀っているのが靖国神社なのであります。それ以外の霊に対して靖国は、年に一度、御霊祭りを行います。東京大空襲で死んだ40万の一般庶民、原爆で一瞬の内に命を絶たれた30万の庶民を対象にする行事です。「恨まないでくれよ」「祟らないでくれよ」 という願いが暗に込められている祭事です。

 時の政権維持に関与した人間のみをお祀りする、それが、靖国神社の本質なのであります。A級戦犯も、その理屈から極秘裡に祀られ、国民が気がついたときは、すでに遅かった、ということになりました。太平洋戦争は、いかなる理屈をつけようとも、結果は侵略戦争そのものでした。今生きている若い人たちの預かり知らないことではあろうとも、侵略され、命を失った多数の人々が存在した韓国や中国に対して、少なくともその理解をもって接することは人間としての義務の範疇だ、と私は思います。

 その意味で、長州人安倍晋三の靖国参拝は、仮にも首相である人間の取るべき行為ではありません。

私は断じてそう思います。 

 

2014年5月12日              情報の伝播

 毎朝、目が覚めるとIPADの操作を始めます。「ホーリーバイブル」をクリックすると、昨日読んだ続きが表れます。全部で52章ある旧約聖書のエレミア記です。紀元前に栄えたイスラエル、バビロンがその舞台で預言者、呪術師が祈祷師が活躍しています。イエスキリストが現れる以前で、エレミアもその預言者の一人なのですが、その土地を支配する王族と、成金階級の不正を詰り、その栄華の衰退を「万軍の主」の勅によって滅びが訪れることを説き歩きます。イエスキリストも実はその預言者の一人でありました。

 預言者である以上、何らかの奇跡を民衆に示さねば、その言辞をして民衆の信頼を得ることはできません。新約聖書には、不本意ながらイエスキリストが、盲を治したり、天から食料を降らせたり、死人を蘇らせたりする記述が沢山出てきます。科学的には全く不可能なことができてしまう奇跡をどう解釈するか、これがキリスト者として洗礼を受けるに当たっての、一つの関門なのですが、それはさておき、私がいま、想像逞しく思いを馳せているのは、2000年以上昔の情報の伝達手段についてです。

 パピルスや羊皮紙以外にどんなものがあったのでしょうか? 本はあったのでしょうか、預言者は何を使って自分の信ずるところを、述べ伝えたのでしょうか? マイクなどなかったでしょう。地声による群衆を前にしての語り以上に何かあったでしょうか? 

 自分の肉声以外に、自分の所信表明ができる手段を持たなかったのですから、預言者の努力は並大抵ではなかった、と察しられます。音声マイクが発明される以前は、全て地声であったでしょう。ですから、今に残る教会堂は音声が隅々まで行き渡るよう、設計されています。

 翻って、いまは何でもアリです。音声は映像と共に、世界の隅々まで瞬時に伝播されます。テレビ、電話、インターネット、スカイプ…… 正に、情報の洪水の中で我々は生かされています。

 そのためでしょうか、多くの人間が、情報操作の只中にいて、すべてを理解しているような気にさせられて、自分の本来を見失っているように思えてならないのです、

 2000年前、真の預言者と言われるイエスキリストが現れるまで、多くの預言者と多くの神がこの世に存在していました。「預言者同士の激しい喧嘩、そして主導権争い」、それが旧約聖書の世界です。実に、劇的な世界が描かれています。壮大な哲学と思想が、旧約のヨブ記にもありましたし、いま、読んでいるエレミア記にも克明に描かれています。

2014年5月8日            先輩の励ましに感謝

 毎年の年賀状に、「ホームページを見てください」と書き添えてきたお陰で、「見ているよ」 と言ってくださる方が数十人いらっしゃるのですが、毎回、感想を書いて送ってくださる方は、大島吉美さんをおいて他にはいらっしゃいません。長野高校の先輩で、しかも、朝日新聞社でも先輩にあたる方です。今回いただいたメールを、ここに掲載させていただきます。この嬉しさを例えるならば「五月晴れ」です。

 

中澤 信男様                           大島吉美 

 連日のエッセー健筆を拝読、、硬直しつつある思考の活性化に感謝しております。 

〇司馬遼太郎の短編小説全集、未読ですので、読む所存です。紹介謝々。

〇長州人 小倉に赴任2年、周辺を隈なく行脚しての地域探査、明治維新から若き志士らの名を挙げて靖国神社にたどり着く話し。よく分析されたエッセー感服いたしました。憲法の政教分離を忘れた安倍普三首相の直近の挙動を何とかしなくてはと切に思う。

〇東南アジア歴坊の締めくくりとしてカンボジアを5月下旬と決めて準備されているとのこと。羨ましい限りです。当方はDVDやTVの映像を見ておりますが、実地で見るとはおお違い、迫力満点、喜寿過ぎて世界を股に駆けての旅行。大いに堪能してください。映像を楽しみにして待っています。 

カンボジアといえば、独裁、内戦、貧困、地雷など、戦火は20数年前にやっと収まったかに記憶、ジャングルに埋められた地雷が人々の手足をもぎ取っている状況はよく耳にしてきました。「クメールの栄光」の象徴・アンコール。バイヨンのクメールの微笑みが訪れる旅行者を優しく迎えてくれ、アンコール・ワットの尖塔の美しさに圧倒され、壁面で踊る天女の妖艶に思わず、息をむことでしょう。
 映像より実像の差を実感されるのが羨ましい限りです。 
 ポル・ポトの死去によって、反政府ゲリラ、クメール・ルージュは解体した歴史がありました。カンボジアの現況を自分の目で確かめる旅になるといいですね。ルポを待っています。   カンボジアはモンスーン気候と高温多湿と聞き、街頭での治安状況が良くないとのことですので、ご用心されて楽しんでください。 

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