2013年6月3日             マッターホルン

 ツエルマットは谷合の小さな街です。街のどこからでもマッターホルンが望めます。ところが、ここはケッタイなところで自動車の乗り入れ禁止です。ここへ入る場合は隣町で車を降り、電車で入らねばなりません。駅前には小型で真四角の電気自動車のタクシーが2,3台並んでいて、ホテルの送り迎えも電気自動車です。なるほどと思いました。ところが、街のあちこちに工事用のクレーンが林立し、ダンプカーや工事用車両が我が物顔で行き来しています。なんと、そのすべてがガソリン車で、黒煙をまき散らしているではありませんか。大いなる矛盾を見てしまいました。

 翌朝、8時24分発の登山電車で、マッターホルン(4478メートル)を正面から見ることのできるゴロナグラートへ向います。アブト式6両連結の電車は、かなりの急勾配をユックリ、ユックリ登って行きます。窓一杯に覆いかぶさってくるマッターホルンの雄姿が、電車の向きにより肢体を変えて迫ってきます。我を忘れる瞬間が続きました。

 ゴロナグラート(3089メートル)の展望台は雪に覆われていました。新雪を踏みしめて更に上へと登ります。4634メートルのモンテローザ!、4228メートルのカストール!、4164メートルのブライトホルン!そのすべてが指呼の間です。電車を降りてから展望デッキまではかなりの距離です。新雪を踏みしめ、滑らないように気を付けながら一歩、一歩登ります。空気が薄いせいか息が荒くなってくるのが分かりました。「何と情けないザマだ」と昔の山男は自嘲しながら耐えたのでありました。

 山を下りて昼食です。ツエルマットにただ一軒ある中華料理屋へ行きました。久しく食べていない米の飯にあり付きたかったからです。8フランの焼きそばと6フランのチャーハンを注文しました。すると、店員が何やらドイツ語で喚きだしました。皆目、分かりません。彼は何やら日本語で書かれた紙を持ってきました。「当店での注文は25フラン以上となっております」と書かれていました。腹立たしくなりましたが、ま、いいか、と気持ちを静め、餃子やスープを追加しました。約40フラン4500円相当です。時間をかけて出て来たものは、ただ、炒めただけの米のメシ、アブラだらけのヌードル、味もそっけもない小どんぶりに入ったスープ、それでもセイロに入った6個のこの上なく不味い蒸し餃子。

 一般に、スイスの料理は高くて不味い、と言われていますが、中華料理がこれほどヒドイとは……観光地でありますからして、強気の商売をしても成り立つのでしょうが、実にもって許しがたい。日本料理店もありましたが、生憎今日はお休み。日本人ならこういう商売はして欲しくない、と心から願いました。駅前のコープへ行きました。イチゴのパック(3.5フラン)、生野菜の大きなパック(4フラン)、地元産の白ワイン一ビン(11フラン)、ブリーのチーズ(5フラン)、手巻き寿司(5フラン)があったのでそれも買いました。夕食は自炊であります。

 夕方、ガイドさんに予約してもらっていた、ホテル近くのクリニックへ行きました。3842メートルの展望台から降りてきて以来、喉が痛くて、痛くて、食べ物を嚥下するのが苦痛になっていたのです。幸い、海外用の疾病保険には入っています。何せ海外旅行中に医者に罹るのは、チェンマイのラジャベイ病院が最初で、今回が二回目です。美人の看護婦がまず血液検査をします、と言って指先をチクリと刺し数滴の血を採取しました。感染症は無事にクリヤーしました。同じく指先にはめた血中酸素濃度を測る器械の数値が普通は98ぐらいであるところが93と低く、喉も炎症を起こしていて、軽い高山病であり、2700メートル以上の高地へ行ってはダメ、と診断されました。抗生物質、喉のトローチ、喉への霧吹き薬、痛み止めを処方されました。やれやれであります。400フラン(45000円)の支払いでありました。保険会社には誠に相すまぬことであります。

 ツエルマットは夕方から雪に変わりました。緑の牧草や新芽をふいている樹木が見る間に雪化粧していきます。あれほど輝かしかったマッターホルンは、もう見えません。

 


2013年6月2日             天国を垣間見た!

 ジュネーブからフランス領シャモニーに着くや、いきなりロープウエーに乗りました。どんよりとした曇り空で粉雪が舞っています。おまけに寒い。こんなことも有ろうかと、厚手のウールの靴下、登山靴、冬山登山用の分厚いズボン、そしてダウンジャケット。手袋を忘れたので売店で8ユーロで買いました。

 5,60人の世界各国の人で埋まったロープウエイは雲の中に突入して行きます。カラマツの緑が雪を積もらせて気の毒です。8分で着いた乗り換え所でも視界は雲のみです。それでも、谷底が見えます。「うへー!」となります。なるべく見ないようにします。次の8分、ロープウエーは音もなく高度を上げていきます。5、6分経過したころ、突然ロープウエイは歓声に包まれました。雲の上に出たのです。見渡す限りの雲海、その上にそそり立つ無数の雪の頂が、キラキラと輝いています。

 そこは、エイギュ・ド・ミデイの山頂展望台でした。標高は何と3842メートル。富士山より高い! 目の前に4810メートルのモンブラン! その隣に4310メートルのドーム! 左手には4208メートルのグランドジョラス! そして反対側は今日この後行くことになるマッターホルンの雄姿。三日後に行くアイガー、ユングフラウ。空は真っ青、太陽は燃え滾っています。

 ああ、ここは神の国だ、天国だと思いました。来たるべき死を迎えるときは、この光景を脳裏に蘇らせながら逝くことにしよう、と思いました。

 しかし、しかしです。頭と心は幸福感に充たされているのに、脚はガクガクです。怖くて怖くてとても下を見下ろす柵際まで行けません。平気な顔をして柵際まで行って身体を乗り出している人が大勢います。とてもそんな真似はできません。その恐怖は狭いエレベータに乗って、もう一つ上の展望台最上階まで行ったとき極限に達しました。そぞろ歩きしかできなくなりました。

 私は学生の時から山に登っています。谷川岳縦走もしました。剣岳、立山にも登りました。冬の北アルプスの唐松岳もやりました。少しも怖くありませんでした。靴が地面に密着している場合は全く大丈夫なのです。だが、ひとたび足の下が人工物になると、途端にダメになるのです。

 アメリカのセント・ルイスに巨大なアーチがあります。約300メートルの高さで聳えている名物です。地下にトロッコの発着場があり、右側からごゴトゴトと登って行って、中央は歩いて、今度は左側から再びトロッコで降りてきます。ここで、恐怖の極限を味わいました。中央部分の約30メートルは強化ガラスになっていて、何と下が丸見えなのです。空中散歩に出るようなものです。股間は元より縮みあがり、不名誉なことに、オシッコをちびらせてしまいました。いま、思い出してもゾッとします。

 3842メートルにある展望台は、すべてが人工物なのであります。どうして、柵から乗り出してまで谷底を見ることができましょう!

 標高1035メートルのシャモニーの街に戻れた時は、実に、実にホッとしました。5月の下旬とはいえ、この洒落た街での人通りは少なく、中心街も閑散としていました。街中を流れる川も乳白色で、恐らく凍るような冷たさでしょう。昼食後、車は二つの峠を越えて、マッターホルンの街ツエルマットに向かいます。

 


2013年6月1日              飛行機というもの

 成田からスイスのジュネーブまでは、オランダ航空のジャンボジエットで、オランダのスキポール空港で乗り換えです。午前10時35分に飛び立った飛行機は諏訪湖の上空から日本海沿岸に沿って北上します。冠雪が著しい北アルプスから谷川岳、月山、鳥海山を経て北海道の利尻島をかすめ、宗谷岬から日本海を突き抜け、ロシアのイルクーツクを経て、シベリアのツンドラ地帯を高度11000メートル、時速900キロで飛び続けます。外気温度はマイナス50度から60度。平均して54度です。帰りの航路は中国、北朝鮮の国境近くから佐渡島を抜け、谷川岳の上空をかすめ、前橋から着陸態勢に入りました。

 残念ながら、窓際の座席でなかったため、一時間置き位に飛行機の最後部の僅かな空間へ行って、軽い運動をし、窓に張り付き下界を眺めます。私は幾分高所恐怖症なのですが、このくらいの高度になると「矢でも鉄砲でも持ってこい」です。

 雪原と蛇行した河が、幾何学模様を描いています。集落はありません。道もありません。そうこうするうちに、突然小さな集落が現れます。どこから続くのかその集落への道が現れます。100戸に満たない集落には明らかに人が住んでいるのでしょう。どんな日常を送っているのでしょうか?

 シベリアの大地が終わると北極に近づいたのでしょう、氷と青い海です。ステンドグラス細工のように細かな氷の切片が、世にも不思議な紋様を形成しています。眺めていて飽きることがありません。

 約10時間が経過しスカンジナビア半島の雪山群が見え、オランダらしき海面すれすれの陸地が見えてきます。10時間50分後スキポール空港へ到着しました。ところがです。この飛行機は二時間足らずの間に給油や食料の積み下ろしをやった後、再び成田に向かって飛び立つことが分かりました。成田には午前8時5分に着きます。そして10時35分に成田を飛び立ってスキポールへ向かいます。

 同じ飛行機であることは、最後部の窓に持たれ過ぎてカヴァーを湾曲させてしまったことからも分かりました。つまり、付けてしまった僅かな傷が同じところにあったのです。

 そこで類推しました。この飛行機は一日24時間の内、20時間以上大気圏の中にいるということです。いかに飛ぶための道具とはいえ、一日の大半をマイナス54度の寒気の中にいる、という過酷な運命の渦中にあることを知りました。飛行機というものはエライものだと改めて思いました。でも、時としてその過酷さに堪えかねて、叛乱を起こすことも有りうるなあ、と思ったりするのでした。

 


2013年5月31日             チーズ三昧

 帰国前日の夕方、チューリッヒのデパ地下のチーズ売り場へ行きました。ありとあらゆるチーズが冷温のショウケースに陳列されています。まず、山羊のチーズを選びました。次に硬いものから順に味見をさせてもらいました。スイス産のものだけを指名します。売り場の小母さんが指を差したチーズを開けて、大きな包丁で少量を三つにスライスし、包丁に載せてカウンターの上に置きます。私たち三人がそれを試食し、意見を言い合います。気に入ったものだけを、200〜300グラム切り分けてもらい、真空包装をし、値段が書かれたラベルが貼りつけられます。両腕に抱えても重たいぐらいの量になりました。200ユーロ(約26000円)でした。バターも別の売り場で買いました。パンに付けると日本のバターとは比較にならない風味になるバターのカプセル22個。それにケース入りのもの、などなど。

 帰国の日、チューリッヒからオランダのスキポール空港で乗り継ぎです。そこにオランダチーズの巨大な売り場があったのです。何で買わずおられましょうか! 長男家、次男家へのお土産用を兼ねて、またまた、買い込みました。100ユーロきっちり。感激だったのは、日本の市場から姿を消してしまったプルサンのガーリック・クリームチーズがあったことです。これこそ小生が愛してやまない絶品のチーズであります。    高いときは1200円しました。安くても800円。それが5ユーロで買えたのです。機内食が始まる前にその一個を開け、包装のボール紙でスプーンを作り、慈しみながら味わいました。

 チーズには驚くほど種類があります。パルメザン、ゴーダ、エメンタール、エダム、ブリー、カマンベール、カッテージ、モッツアレラ、そして、青かびのロックフォール、ゴルゴンゾーラ……

 今回は買いませんでしたが、カマンベールチーズは自分で作ったことがあります。教則本を買い、二つの小型の保温庫を買い、レンネンという酵素を北海道から取り寄せ、生乳を風呂場で32度に温め、こまごました道具も教則本通りにし、数日間ねかせました。できるには出来ましたが、周りの白い壁部分だけが大威張りするクリーム部分が少ないカマンベールが出来上がりました。失敗ではなかったものの、直ぐ、アンモニア臭が出てしまいました。発酵が過度になるとアンモニアが幅をきかせるようになります。だから、カマンベールはあまり好きになれません。日が経つと、どんなチーズでも変化するのは他の発酵食品と一緒です。硬いチーズの場合はその変化が遅いので、今回はそれに絞った次第。

 29日の午後、家に帰って来て、まず最初にやったことは、冷蔵庫の冷温室へのチーズの格納でした。

 翌日、チーズをみじん切りにして溶き卵に混ぜ、そこへシャンツアイを刻んで入れてチーズオムレツを作りました。いや、その旨いこと、旨いこと……

 


2013年5月20日             パンとバターとチーズ

 明日から、成田での前泊を入れて9日間、スイスへ行って参ります。ヨーロッパへ行くとしたらどこにしようか、しばらく迷った末に、自分はやっぱりスイスが一番だ、という結論に達したのです。

 若かった現役担当社員だったころ、朝日洋上大学の学生70人を引率して15日間スイスのチューリッヒを皮切りに、エイグルからレザンに入り、そこのアメリカンスクール5日間、滞在しました。ベルン、ジュネーブ、ドイツのケルン、ハンブルグを回って、デンマークのコペンハーゲンの民宿に3日間滞在。最後はパリで、大した事故もなく無事戻ってきました。大旅行でした。四年間、朝日新聞販売店に住み込んで、アルバイトした学生たちへのご褒美としての記念旅行だったのです。この催しは約10年間続き、約2000人の学生の同窓会は今も続いています。

 レザン滞在中、自由行動の日が一日ありました。一人で山を下り、ジュネーブへ出てインターラーケンを目指しました。そして登山電車に乗ってグリンデルワルト、クライネシャイデック。その日は絶好のお天気で、アイガーの北壁を登るクライマーの姿が見えました。

 遅くなってレザンのアメリカンスクールへ戻ると、日本人の学生と同じく逗留していたオランダの学生たちとの国際親善パーテイが、まさに、佳境を迎えていました。ホールにはアプライトのピアノがあってオランダの学生が弾きまくっています。日本の方には弾く者がいないため、旗色が悪くなっていました。

 促されて、私が弾き始めました。東京音頭です。数十人の学生が狂ったように歌い、踊りだしました。

      「踊り踊るなーら、ちょいと、東京音頭、ヨイヨイ」

のあれです。盆踊りさながら、身振り手振りはリーダーの真似です。何回リフレインがあったでしょう。そのうち、オランダの学生も踊りに加わってきました。大合唱、大狂乱となりました。

 その時ほど、ピアノが弾けてよかったなあ、と思ったことはありません。できれば、もっとレパートリーを持っていて、それを暗譜で弾きたかったなあ、と思います。それに懲りて、今はシャンソンやジャズなど暗譜で弾けるものを4,5曲、いつも用意しています。ピアノがあるとそれらを弾きます。

 二回目のスイスは亡妻との銀婚旅行でした。ウイーンから入り、ザルツブルグ、ロマンチック街道、そしてインターラーケン。その時はユンブフラウ・ヨッホの氷河のトンネルにも入りました。

 二回のスイスの旅で最も印象が深かったのは、パンとバターとチーズの旨さです。レザンのアメリカンスクールには専属の料理人がいて、料理が出来ると、トレイに入れて各テーブルに配って歩きます。それよりも何よりもパンの旨さでした。周りは香ばしく中はフワフワ。そして、何種類ものチーズ。

 今回のスイス行きの目的は、崇高な山々や、氷河や、高山植物や、ヨーデルではありません。スイスのパンとバターチーズなのです。欲を言えばそれに加えて美味しいワイン。

 大き目のスーツケースを用意しました。持参する荷物は最低限の防寒具だけにしぼり、一年分のバターとチーズでスーツケースを満杯にしてこよう、と思っています。

 


2013年5月7日               憲法(その1)

 5月3日は憲法記念日。この欄に憲法のことを書こうと思って、ずっと考えていました。話題になり始めた自民党の改正憲法の草案、サンケイ新聞が発表した憲法私案、朝日新聞の憲法への考え方、などなど、少しずつ齧ってみました。勉強してみて、アレっと思ったのは、憲法改正を50年以上も行っていない国は《世界中で日本だけだ》 ということでした。世界の国々は50回も60回も憲法を改正しています。中には100回以上改正している国もありました。

 新聞、テレビなどが行う憲法に対する世論調査の数字が、「憲法改正をした方が良い」に大きく傾いてきたのも、もう一つの大きな特徴です。竹島、尖閣、北朝鮮。このどれもが日本人をして日本人足らしめる存在の基盤を揺るがすものとの捉え方が、大きく全面に踊り出しました。

 もし、竹島に李明博大統領が上陸せず、尖閣国有化について胡錦濤国家主席から「ちょっと待ってくれ」と野田首相が耳打ちされたのを全く無視することなく、主席のメンツというものを潰さずにいたら、憲法改正への機運に大きく振れだすことなく、例年通りであったでしょう。

 野田首相の外交の下手さ加減が、あれだけ大規模な日本排斥暴動へと、繋がったのです。

 石原都知事に乗せられ、尖閣列島を国有化をするにしても、隣国から「ちょっと待ってくれ」と言われたら、儀礼的に「ちょっとだけ待つ」のが相手のメンツを潰さない巧妙なやり方です。しばらく待ってから「やっぱり、国有化します」と言ってやればいいのです。

 野田首相は、一国を代表する人の懇願を聞かないふりをし、無視しました。中国人ほど、メンツに拘る民族はありません。メンツを保つために生きているようなところがあります。野田首相の中国国民性への無知と、教養のなさ、思慮の浅さがあれだけの暴動を引き起こしてしまった、と言っていいでしょう。国家としてのメンツを潰された以上、「ヤッチマエ!」、と上からの号令がかかったのも当然です。「愛国無罪のやり放題」は、あながち、日本の無礼な態度に起因なしとはしないでしょう。

 考えてみれば、民主党の三年間は一体何だったのでしょう?

 普天間問題で大きなことを言いいながら、それが出来なくて謝ってばかり。自己撞着が洋服を着て歩いていたに過ぎなかった鳩山首相。                    

 福島原発事故という国の一大事のとき、官邸に昼夜構えて総指揮をとるべきなのに、ヘリコプターで現場へ飛んで行って、上から目線で東電社員を怒鳴り上げ、却って、反発を招いた菅首相。

 13億人の代表者のメンツを保つような政治的手管が使えなかった真面目さだけが取り柄の野田首相。

 この三人を指導者と仰いだがために、憲法改正への機運が次第に高まってしまったのではないでしょうか? 言ってみれば、民主党の外交的政治力の稚拙さが、勇み肌お坊ちゃんで国粋主義者の再登板を許してしまったのではないでしょうか? もし、仮に、憲法改正が、一般世論を超えて国粋論者が捉える目線まで改正の度合いが進んだとすれば、その責任は民主党政治の三年間にあったと、私は言いたいのです。

 


 2013年5月9日            憲法(その2)

 私は現憲法の盲目的信者でも、改正反対論者でもありません。 世界に例を見ない、類まれで崇高な日本国憲法を心から愛する者であります。この憲法を掲げながら、今まで改正することなく持ちこたえて来られたことを誇りにさえ思います。《戦争というものを永久に放棄する》という崇高な理念を持つ憲法は、日本以外の世界のどの国が持っているでしょう? 英語直訳の日本語であろうとも、憲法に盛られた精神は崇高であります。人類全体の理想であり、主権在民、自由平等が盛り込まれた条文は、美しく輝いています。実に、実にいい憲法であり、これ以上の憲法を所持する国は世界のどこにもありません。

 それを半世紀以上にもわたって、変えることなく、その精神を貫き通してきた日本!

 あまつさえ、 憲法の条文を拡大解釈して、自衛隊を組織してしまい、他国の軍隊と変わらないどころか、最新鋭に近い武力まで持たせてしまっている日本の現実主義! 

 これについては随分疑義が出ましたね。でも、時の政治は押し切ってしまいました。ただ、この軍事力の唯一の特長は、相手が撃って来るまでは自分から手が出せないところにありました。国連軍の一員として派遣されても、日本自衛隊はそこの警察によって守られる、という喜劇のようなできごとがあったのは記憶に新しいですね。

 戦争を永久に放棄した以上、やられるまではやり返さない、のは当然です。

 一方、これから俎上に上がるだろう、すべての憲法改正案は、武力衝突の際、こちらからも発砲できるようにせよ、という文言に作り直せ、というものです。各国並みの普通の軍隊にせよ、というものです。

 そうしたら《戦争を永久に放棄する》という文言どうなるのでしょう?

 自民党の改正案では、こちらからの発砲を認めつつ、《戦争は永久にこれを放棄する》としています。とすれば、自民党案の中で《戦争は永久にこれを放棄する》という精神は崇高足りうるでしょうか?

 断じて否です。自衛隊組織があることさえ、憲法の拡大解釈なのに、こちらから発砲を認めながら自衛隊を国防軍と改称する。こちらからも交戦できる諸国並みの軍隊にする。そうした上に戦争を放棄するなどというのは自己撞着も甚だしい。自民党改正案は矛盾に満ちているようであります。

 更に自民党は96条の改定から入る、としています。改定に必要な発議の《三分の二の賛成》を過半数にしようというのです。維新の会も現実路線として三分の二は不可能であり、過半数で良しとしなければ、何ごとも進まないとしています。確かにそういう一面はあるでしょう。

 だからと言って憲法改正をその入り口からまず決めなければならないのか? 賛成は産経新聞、読売新聞、反対は朝日新聞、毎日新聞であります。世界の憲法改正の発議への数字は、断然、三分の二であって、過半数でいいとする国は極めて少数です。時の権力者の思うようにさせてはいけない、という不文律が底流にあるからです。

 あと50年間は現行憲法の《戦争はこれを永久に放棄する》の範囲内での改定に留め、50年経ったら、この憲法そのものを放棄し、国民皆兵、核武装、何でもアリの憲法にしたらいいと思うのです。もしも、50年経って幸いにもこの崇高な憲法のままで行けそうだったら、現行憲法を存続させればいいのです。

 世界史はこれまでも戦争の歴史であったし、これからも戦争の歴史であり続けるでしょう。戦争が加熱してしまえば核の雨が降ります。世界ののあちこちに広島、長崎、福島ができるでしょう。目に見えるような気がします。

 美しくて、崇高で、類まれな日本国の現行憲法、この際、もう一度読み直そうではありませんか!

 


2013年4月28日               化けの皮  

 何で、尖閣列島沖に中国の巡視艇が8隻も来て、領海侵犯をするのでしょう? 何で、韓国の新任外務大臣の来日が中止になったのでしょう?

 靖国神社の春の例大祭に、麻生副総理外二名の閣僚と、168人の主として自民党系の議員が大挙して参拝する、という、またぞろ靖国問題に対する抗議であることが分かりました。

 その上、事態をことのほか深刻化させた原因の一つが、安倍総理の国会での発言であります。靖国参拝は当然のこととし、参拝した閣僚を擁護し、各国からの抗議は断固撥ねつける、と強い姿勢を示したのであります。

 何と、思慮に欠ける首相の発言でありましょうか! 早くも、化けの皮が破れた!、といっていいのではないでしょうか?

 靖国参拝問題は自分個人の問題とすべきであって、少なくとも公職に就いている日本人は、周りとの兼ね合いの中で慎重に対処すべきであるのは、自明の理であります。歴代の公職にある者はそれなりに神経を使い、相手を慮りながら《感情》より《勘定》を優先して事に当たってきたのではなかったでしょうか。

 日本の狂ったような軍国主義が、どれほど、近隣諸国を苦しめたか! 威張り腐った軍人が、どれほど朝鮮人や当時の支那人を残虐に扱い、苦しめたか! 人間を人間とも思わない見下した態度で、近隣諸国の人たちを不幸に陥れたか! 少なくとも、その厳然たる事実があったことは、私が知っています。今でもよーく覚えています。脳裏に鮮やかに残っています。終戦の時は国民学校の一年生でしたが、幼児の記憶は鮮明であります。4年間の戦争の渦中にあった苦しみと、自国民を含めて、人間の尊厳を取り払ってしまった八紘一宇、皇国思想、そして、狂気そのものの軍国主義。それが紛れもない日本の過去の姿でありました。

 今は一介の老人になった私でさえ、近隣諸国に対して申し訳ない気持ちを持ち続けています。いわんや、国家間においては、その恩讐たるや、たとえ千年経とうとも、韓国や中国が日本の当時の仕打ちを忘れることはないでしょう。

 だからこそ、歴代の為政者は神経を使った外交をやってきました。相手の感情を思い、殊更に刺激することは極力避け、相互の発展に寄与するため、最大限の努力をして来たのです。

 それをなんですか。安部総理は経済政策がうまく回りだしているや、に見えることに有頂天になり、無神経な発言を国会の場で言ってしまいました。浅はかです。思慮のなさすぎです。

 靖国問題への発言はタブーなのです。国内においてさえいろいろなのですから。戦犯との合祀が問題にされて以来、天皇さえ、参拝を謹んでいます。日本国民の誰もが、外国からの来訪者が、進んで参拝できるような慰霊碑の早期建立が叫ばれていたのもつい最近でした。今は立ち消えの感がありますが…

 安倍総理が、もし、思慮の深い人間だったら、閣僚や議員が参拝に行こうとも、どんな質問されても、決して踏み込んだ発言はしなかったでしょう。まして、国会で発言することなどにはいたらなかったでしょう。真に、残念に思います。

 この問題は、アメリカの新聞がいち早く取り上げました。オバマ大統領が談話形式ながら、安倍総理への苦言を呈しました。ニューヨークタイムズも、ストリートジャーナルも社説で取り上げています。要は、徒に相手を刺激するな、発言は慎重にやれ、というものです。「面倒見切れないよ」という言辞がその奥に垣間見えます。

 私たちは、就任半年足らずで、近隣諸国に対する不用意な発言をして何とも思わない、三代目のお坊ちゃんを総理に選んでしまっているのです。化けの皮は、これからも次々と剥がれていくのではないでしょうか。

 


2013年4月23日       手根管症候群(しゅこんかんしょうこうぐん)

 今年の始め頃から始まったように思うのですが、パソコンに向かい、右手をパソコンマウスの上に置いて仕事を始めると、置いている手全体に、痺れるような、痛痒いような、妙な違和感を覚えるようにりました。 時には、右手全体が自分のものでないような感覚が走ります。私には、神経の通り道の、第三、第四頸椎関節の間が潰れている、という持病があります。現役時代に右顧左眄し過ぎた結果でしょう、きっと。そのため、医者から、余り首を動かすな、と言われてきました。もしも、手の違和感がそれからくるものなら仕方がないかと思ったのですが、何とか治療法を見つけねば仕事に障ります。

 女子医大の神経内科で、罹りつけの宇野先生に手の違和感を訴えると、少なくとも、脳から来るものではない、整形外科で診てもらいなさい、首の神経からかもしれませんということでした。

 神経内科では、脳のMRIを一年に一度撮ってもらっています。20年以上継続していますが、その度に「前年と同じである。歳の割にはイキイキしている。及第!」と言われて悦に入っていました。人間が生きていく上で一番大事な器官は頭蓋骨の中の脳でありましょう。このノウが、ノーになったら、それこそ、「オーノー」であります。

 昨日、先生から紹介されて、同医大整形外科で診てもらいました。 

 何と、診断は頸椎とは関係ない《手根管症候群》の疑い、とのご託宣でありました。インターネットで調べると、この症状はアメリカでも大発生し、大きな問題になった時期がありました。パソコンを過度に扱う者特有の症状だったのです。一日中パソコンと睨めっこし、マウスを握り、キーボードを叩くという毎日は、私も同じであります。であってみれば、アメリカ人と同じ症状や故障も出ようというものです。

 手、指を使って、同じ動作の繰り返しをする仕事は昔もありましたが、きょうびの複雑かつ激しいパソコンとの出会いは有史以来であり、日本でもこの病気の患者が続出ていると医師は言いました。

 「治療法は?」と聞くと、「ありません。なるべく手を使わないことです、ピアノを弾くことも、キーボードと同じですからよくありません。痛いときには、手首を固定するギブスがあります。3000円です。お求めになりますか?」

 いま、そのギブスを手に装着して、これを書いています。気持ち、痺れは和らいでいるようです。

 ああ、これは金属疲労だ、わが肉体の悲鳴だ、と痛切に思いました。自分ではやり足りない思いでいるのに、意志と肉体の乖離は深まっているのかもしれません。かくなる上は、肉体の定年の時まで、だましだまし使っていく他はないのでしょう。エライことになってしまった、と事の重大さに、いま、たじろいでいるところです。

 


2013年4月20日            強烈な葉っぱ

 チャンツアイ、シャンツアイ、または、パクチョイ、香菜などの呼び名のある、あの強烈な臭いを発するセリ、あるいは三つ葉もどきの葉野菜のことです。大昔、この葉っぱの香りに接したときは「ウヘー」となりました。よくこんなものが食べられるなあ、と思ったほどです。

 腐敗臭を連想させるものですから、この香が嫌だ、私は受け付けない、という人たちが何と多いことでしょう。  「この葉っぱが好き」という人には滅多にお目にかかったことがありません。したがって、日本の懐石料理や伝統料理に使われていた、という例を知りません。強烈な匂いは、日本の食文化が拒否反応を示すのでしょう。

 ヤンゴンのクローバーホテルで、小腹が空いたのでカレーライスを頼みました。出てきたカレーは日本のものとはまるっきり違っていました。ターメリック、クミン、マサラットぐらいは分かりましたが、何でカレーがこんな味になるの? と思わせる複雑にして怪奇な、それでいて恐ろしく美味なカレーが出されました。お米はもちろんインディカ米です。驚いたことに、カレーの上にチャンツアイが山盛りにのっていたのです。それが実にカレーと調和しました。

 ベトナムのフォオーを思わせる麺料理がヤンゴンにもありました。ハムや鴨肉の燻製からスープを摂るらしいのですが、あくまでも澄んだ肉汁の中で、小さな肉団子と上質のビーフンが輝いています。数種類の薬草が傍らに置かれていて好みの量を入れて食べます。シャンツアイがふんだんにあったことは言うまでもありません。この上ない美味でした。

 小田急線の経堂にシャンツアイレストランがあります。お店独自のメニューを含めて全てシャンツアイがらみです。シャンツアイの魔力に捕り付かれたご主人と意気投合してしまいました。月に一度は行ってみたいお店です。

 シャンツアイはデパートでも売っていないところがあります。あっても、小さな束が300円以上するところが殆どです。ところが、幸運なことに、家の近くの産地直送店マルシエでは大きな一束が98円で買えるのです。何でこんなに安いの、と感謝しながら今日も三束買ってきて冷蔵庫の野菜室に入れました。一日三食、シャンツアイがらみの食事です。三日にあげずこの店へ行って仕入れて来たものは、タラの芽、ふきのとう、行者にんにく、コシアブラなどです。タラの芽は栽培ものと自然なものとの見分けは直ぐつきます。つくずく春はいいなあと思います。

今日は葉大根を買ってきて、ごま油と唐辛子で炒めました。アツアツのごはんとこれがあれば他に何も要りません。

 


2013年4月17日                予感の的中

 東京ディズニ−ランドが開園30周年を迎え、賑わっています。他の遊園地は低調なのに、何故か、ここだけは絶好調です。

 30数年前、朝日新聞東京本社は二人のアメリカ人の訪問を受けました。ディズニーランドの日本総支配人ボブ・クンツさんとジョンソンさんです。「ディズニーランドにパビリオンを出さないか?一業種一社で、出資金は44億円」という、新聞業界では朝日新聞を選んでの申し入れでした。すでに、出版では講談社、食品ではハウス食品などが決まっていました。朝日新聞の専務取締役だった販売出身の古屋さんから「宣伝部で検討せよ」というご下問がありました。当時、私が宣伝部長でした。

 何度も、建設中のディズニーランドへ足を運びました。総責任者で、身を粉にして浦安の住民や漁民の説得に歩いていた初代社長の高橋さんにもお会いしました。宣伝部の結論は「この遊園地は途轍もない可能性を秘めている。エンターテイメントはこれからの日本にとって、いや、日本周辺諸国にとって重要なものとなるだろう。読売新聞に声がかかる前に、朝日新聞社は44億の出資にOKを出したい」という報告書兼要望書でした。折から、浦安、行徳沖が、千葉県による大規模な埋め立ての真っ最中でした。実際にその工事状況を見て回りながら、この巨大空間に人工都市とマンモス遊園地が不思議にミックスするに違いない、とその時予感したのでした。

 ところが、折悪しくも、新聞購読料値上げの時期と重なりました。大勢の読者の中には、値上げした金をパビリオン出資に回すなどけしからん、という人も出てくるかもしれません。常務会案件とはなりましたが残念ながら、今回は見送りという結果になってしまいました。30年経って、ハウス食品、講談社、日本石油などが出資したパビリオンは今も健在です。ただ、細かな規定があって、宣伝活動は極く限られたものしか実施できません。出資をした企業がこの30年間で、充分なる出資効果を得ることができたかどうか、聞いてみたい気がしてなりません。

 丁度、そのころ、千葉大教育学部の長男から就職相談を受けました。躊躇することなく、ディズニーランドを経営するオリエンタル社を受験させました。幸いにも、14人の幹部候補生の内の一人に選ばれました。カストーデアル(園内で塵取りと箒をもって演技するように動く掃除人)から始まって、ボート漕ぎ、皿洗いなどを経験し、12000人のアルバイトを束ねる人事部長になりました。企画室長の時は本場のアメリカへ行って、新しいパビリオンの出し物を決めてきました。そして今は、ディズニーランド、ディズニーシーの両方にあるパビリオンの、すべての運行の総責任者としての運営部長をやらせてもらっています。大震災で浦安市に液状化現象が起こりましたが、ディズニーランドも駐車場その他で甚大な被害を受けました。長男は会社に泊まり込んで指揮したようでした。事故が発生したら、責任者は大変です。大事には至りませんでしたが、乗り物のセイフテーバーが下りず、ゲストが飛び降りる、という事故がありました。その時は北海道帯広から来たその夫婦の前に直立不動で5時間、謝り続けたそうです。

 一昨日、ディズニーランドは創立30周年を迎えました。長男はその式典の渦中にあったでしょう。創立当初35%のロイヤリテイを親会社に摂られ、1600億の負債を抱えながら、いまはそのすべてを返し、ロイヤリテイも減額され、年間2700万人、30年間で5億8000万人を動員するマンモス遊園地になり、盛大な式典を行えるまでになったのです。

 私の予感は確かに当たりました。

 が、これほどまでの成功は想像できませんでした。まるで別世界のような雰囲気の中で、長男が重要な仕事を任され、働かせてもらっていることは、感謝以外の何物でもありません。有り難いことです。ディズニーランドに一生を投じようとしている長男もさることながら、長男の嫁さんも、いわばディズニーと共にあります。古典を語らせたら日本中で5本の指に入る落語家の春風亭華柳さんの一人娘なのですが、すでに250回以上ディズニーランドに通っています。孫娘の果南は松戸中学のブラスバンド部で、パ-カッショニストとしてバリバリ活躍していますが、将来はディズニーの楽団に入るかもしれません。

 毎週土曜日になると、その長男か嫁さんのどちらかが、「明日伺いましょうか?」と電話してきてくれます。「何とかやっているから、自分の身体を労われ」と最近は辞退するのをむねとしていますが、実は内心嬉しくて、電話を心待ちしています。 

 つい、内輪の話をしてしまいました。申し訳ありません。

 


2013年4月10日              治 水

 水を処することを治水と言いますが、古来から人類は水の恩恵に与りながらも、時には猛威をふるって暴れ狂う水に翻弄され続けてきました。ナイル河の氾濫にみられた洪水、、タイ国を水浸しにした大雨。アメリカ・ニューオーリンズに大被害を与えたハリケーン。そして二年前の東北大震災による大津波。生き物にとって無くてはならない水が、場合によっては生き物を死に追いやる。何とも因果な関係です。

 いま、福島原発では、その水が、大問題になり始めています。

 メルトダウンした原子炉を冷やすために、炉心に冷却水を注入循環させ、炉内の温度を一定に保っています。そうしないと炉内では温度が高まり、大爆発を起こします。冷却の役目を終えて炉内を循環して排出される水は、もはや前の水ではありません。セシウム137など数十種類の放射能を帯びた水になっています。この水を海に流したら大問題になるでしょう。海産物が放射能汚染され、世界中から日本は詰られるでしょう。だから、東京電力では敷地内地下にプールを作ったり、石油備蓄基地にあるようなドームを作って汚染された水を一時格納しています。毎日増え続ける放射能に汚染された水は一日400トンだというから物凄い量です。計画では、汚染された水の放射能を濾過し、循環させて再利用するらしいのですが、問題はその濾過装置がいまだ出来上がらず、そのシステムの稼働が未知数であることです。

 つまり、福島原発では治水が出来ていない、ということが出来ます。

 加えて、汚染水プールからの水漏れが発覚しました。東京電力では、その漏れた水は海には流れ出ていないと強調していますが、ある学者が論文で発表したところによると、原発が稼働して冷却水が流れ出ていた海岸の放射能濃度が、異常に高いことを突き止めました。汚染水の一部は確実に海に流れ出ているのです。

 メルトダウンした原子炉を廃炉に持っていくための、決して建設的とは言えない危険にして空しい努力。そのために欠かせない治水。その治水がままならないでいる昨近の現地。

 原発再稼働容認に傾きつつある世相を憂います。 

 


2013年4月7日             お習字

 書道界では一応権威のある「毎日書道展」へ出品してはどうか?ただし、落選もありますよ、と先生に仰っていただきました。六本木の新国立美術館、上野の新装なった東京都美術館などへの出品はすでに果たしておりますが、競争倍率のある書道展へは、まだ、出品出来ておりません。まして、日展においておや。折角のお勧めなので、落選覚悟で書き始めました。書道塾の錬成会へも参加しました。出品する者が一堂に会し、互いに鍛錬し合うのです。その席上、師範格の小母さんから、手厳しいことを言われました。

    「あなたのは、ただ書いているだけで、お習字と一緒だ」

 コタエました。グサっと来ました。

 そうなのです。ただ、書いているだけでは、それは模写と同じなのです。何らかの工夫と自分なりきの主張がなければ、出品に値しないのです。

 あくまでも白い空間を、黒い墨で切っていく小気味よい造形。それが書道なのだ、と頭では分かっているのですが、いざ、何もない白い紙面に立ち向かうと、少しの飛躍も出来ずに、凡庸な線しか書けない自分の稚拙さ、能力の無さ。

 それでも、畳大の全紙に30枚は書きましたでしょうか。今日も3枚書きました。

 《さくら 桜 五秒の舞に 天地あり》      《桜散る 五秒の舞の 天地かな》

 この俳句は、昨年の北七俳句会で、最高点をとらせていただいた自作のものなので、誰に気兼ねすることなく大っぴらに書くことが出来ます。甚だ観念的な俳句ですが、作品に、誰それのものと但し書きしないで済む点、著作権関係なしを良しとしました。

 何ごとも訓練あるのみ、という思いを強くしたのは、30何枚目かを無心で書いていると、《おや?》と思うような線が、突如として表れて来たことです。それは、ホッとする瞬間です。「うむ」と一人悦に入る瞬間です。これに逢いたくて苦労しているように思えます。

 


2013年4月5日             雲行きが怪しい

 北朝鮮情勢の雲行きがオカシイようです。矢継ぎ早に臨戦態勢を整えています。ものの喩に「吠える犬は噛みつかない」とありますが、指導者の金正雲が百戦錬磨の手練れ者でないだけに、若気の至りが気遣われます。血気盛んな若者は恐れを知りません。今回の動きの危うさのすべてはそこにあります。

 若者の欠点は駆け引きを知らないことです。押したり、引いたりの阿吽の呼吸は、若者の場合は邪道と捉えます。国の消滅をかけて世界を相手に戦いを挑むことは、悲壮感こそを生き甲斐とする純情な若者にとって望むところの筈です。

 私は、残念ながら、北朝鮮は戦争への道に舵を切る、と睨んでいます。今年中かもしれません。ことによると、この4月中かもしれません。言えることは、60余年続いた平和とはこれでオサラバだ、ということす。

 北朝鮮にとっての敵国は、韓国でありアメリカでありますが、アメリカの基地のある日本も被害を蒙ることは必須です。アメリカ軍の基地は沖縄、三沢、岩国、横田、横須賀にあります。北朝鮮のミサイルの射程圏内に入っているのは確実です。横田の上空で核弾頭付きのミサイルが爆発したら、首都圏は猛火に包まれるでしょう。我が家のある練馬も無事でいられる訳はありません。

 懸念されるのは韓国の各都市、中でもソウルです。二年前に長男の家族とソウルへ行き、板門店を見てきましたが、ソウル市内から2時間余り、開戦となれば火の海になること必須です。

 ただ、仮に北朝鮮が開戦へのボタンを押した途端、報復攻撃が北朝鮮の10倍の大きさの規模で行われることも確実でしょう。アメリカの軍事力はそれほど強大です。世界の警察を務めているのも伊達ではありません。したがって、戦争は早ければ1週間で終わってしまうのではないでしょうか。飢えと独裁政治の二重苦に喘ぐ北の市民たちに解放が訪れます。それは、とりもなおさず、日本の戦後です。軍国主義、帝国主義という軍部独裁の国家がいかに人民に苦難を与えるものだったか、日本人が一番良く知るところです。国の指導者が誤った舵を取ると、国は一体どうなるのか?日本人こそがそれをつぶさに知っています。だからと言って北朝鮮に助言するわけにもいきませんが、能天気な若者が右往左往しているわが日本は、少なくとも、この厳しい国際情勢に思いを致し、防御態勢をとることに真剣でありたいものです。

 


2013年4月4日             医療のサイバー攻撃

 サイバー攻撃は、軍事利用だけでなく、医学でも大いに活躍しています。驚くべき映像を今日見てしまいました。ガンが脳に転移し、三か所の治療を必要とする女性が、ある病院を訪れます。普段着のまま治療台に横たわります。頭部、顔全体に網がかけられます。動くのを防ぐためです。と同時に、仮に患者が動いても、その動きがメッシュに伝わり、放射線照射の位置の修正が行われるのです。脳の内部が画面に写し出されます。患部に照準が当てられます。

 イスラエルが戦争のとき、ピンポイント爆撃を行いました。そのピンポイント攻撃のノウハウが放射線照射にも応用されているのです。患部の全体を立体として捉え、縦横高さが正確に測定されます。表面からの距離も、ミリ単位で測定されます。ガン細胞だけを狙った放射線照射が数秒間行われます。映し出されているモニター画像の中で、患部が見る間に消滅していきます。

 一時間後、患者は支払いを済ませて帰途につきます。入院なんかしません。日帰りです。僅か一時間足らずで脳腫瘍手術が終わりなのです。

 現在、殆どの病院では、脳腫瘍手術は一か月近くの入院です。頭髪を剃り、人工心肺を取り付け、全身麻酔し、頭骨をこじ開け、メスを使って患部を切り取り、再び頭骨を被せ、感染症対策を施し、傷口が回復するのを待って退院です。

 サイバー攻撃の技術を使って、ガン細胞を外から狙い撃ちして消滅させる! しかも、日帰りで!

 この技術は何もガン治療だけに限りません。脊柱に軟骨が飛び出し、神経を犯す腰痛などにも応用されます。モニター画面を見ながら、飛び出している軟骨にサイバー攻撃を加えれば、軟骨は消滅し、痛みはたちどころに消え去ります。車椅子で来た患者が歩いて帰っていきました。たった、一時間病院に居ただけで。

 医学は驚くべき進化を遂げているようなのであります。

 私も近々、このサイバー攻撃治療を受けようと思っています。脳の中で近頃大増殖している、「怠け細胞」「今日やらなくても明日やればいいや細胞」を消滅させてもらいにです。 

 


2013年3月31日             サイバー攻撃

 戦争のかたちが、大きく変わってきていることを書きました。アメリカの2000人に対して中国がどのくらいの従事者がいるか、全くの未知数だ、と書きました。ところが、分かってきました。何と13万人だそうです。もっとも、これはあらゆるスパイ活動に従事している総数です。上海の中国人民軍傘下の61398部隊ががそれです。13万人は12の組織に分かれシギントと呼ばれています。この部隊は12局の中の第2局だそうです。主としてハッカー攻撃を仕掛けます。温家宝前首相とその親族による、2000億近いアメリカの蓄財を暴いたニュヨークタイムズが、この第2局からハッカー攻撃を受けました。青島にある第4局は61419部隊と呼ばれ、日本が標的だそうです。機密情報を盗むだけでなく、電気、水道、交通、放送などが攻撃の対象になっています。自衛隊も標的です。日本の全自衛官は恐らく30万人を超えるでしょうが、その内800人は中国系女性と結婚しています。なぜなら、それも彼らの作戦の一つだからです。

 日本でも一時もてはやされた「孫子の兵法」は、今から2000年以上も前のものですが、それは現代にも通じる作戦要務令です。中国の13万人はこの「孫子の兵法」を金科玉条として日夜、動いています。

 日本でも隠密や陰間が暗躍した時代がありましたが、中国ではスパイのことを「内間」と呼びます。誤った情報を故意に流すのを「死間」、二重スパイは「反間」です。12局に分かれた13万人が、それぞれの活動をしている、中国というのはそういう国になっているのです。(参考、産経新聞社説)

 


2013年3月26日              老醜

 桜が満開の日比谷公園内にある、松本楼での午餐会で、丸テーブルを囲み、8人の老人が会食しています。喜寿を迎えた者が二人、傘寿を過ぎた人が五人、卒寿が一人。アルコールがまわるにつれ、談笑が始まります。昔の話ばっかりです。太平洋戦争の東京空襲のとき、自分はどこにいて、何をしたか、微に入り細に入り話始めます。人が話してるときは流石に黙っていますが、聞いてなどいません。自分のことだけを勢い込んでしゃべります。相槌を打ったり、質問したりなどしません。

 八人の中で最も歳の若い私は、聞き役、質問役に回ります。約一時間半、東京大空襲のとき、自分はどこにいて何をしたか、だけで、食事会は終わりました。

 耳が半ば聞こえず、頓珍漢な受け答えになってしまった九一歳の元敏腕記者は、静岡テレビの役員でした。過去、何回も来ている松本楼を、今回は探しあぐねて遅刻した責任は、つとに案内板を出していない松本楼側にある、と支配人を呼びつけ文句を言う始末。

 その時、私は思いました。人間、いつまでも生きてはいけない、死に時を逸しては無残な老醜が待っているだけだ、と。

 早稲田大学時代のクラス会に出たときです。14、5人の会合での話の中身は、自分の病気の話とクスリの話だけ。若いときのクラス会では自分はこれから何をやるか、いまの世相はどうか、日本の未来は?など、談論風発したのものでしたが、全くありませんでした。大学のクラス会はもう止めた方がいいし、私自身出席したいという思いもなくなりました。

 その現象は、あれほど活気に満ちた高校の同窓会でも見られます。350人ほどの同窓生のうち100人近くが出席し、喧々諤々、二次会、三次会、そして、翌日は10組ほどのゴルフ。それがいまは、ゴルフは1,2組がやっと、二次会なし、自分の病気とクスリの話……おまけに、幹事さんからアンケートがまわってきて、同窓会は夜はシンドイから、昼間やれ、という意見があります、あなたは?……

 ああ、人はいつまでも生きてはいけない。単なる穀潰しになる前に、自分の身を処さなければいけない、まして、人格が壊れていくアルツハイマーなどになる前に、自分で自分を何とかしなければならない、と思うのです。

 


 2013年3月23日             戦争のかたち

 いま、私の生活でコンピューターは絶対の必需品です。毎日その前に座って、本を作ったり、情報を入手したり、メールを読んだり、文章を打ち込んだり、時にはゲームをしたり……

 数年前、このパソコンがウイルスに感染しました。何の気なしに差出人不明のメールを開けたら、途端に画面に意味不明の文字羅列が出始めました。主として中国語でした。誰からも、何の恨みも買った覚えはないのに、何で、私が狙われるのだろう? 善良な一市民のパソコンに攻撃を加えて、何の意味があるのだろう、不特定多数に、こういうサイバー攻撃を行うことに喜びを感じている組織は、一体、どこのどいつだ! しばらく、怒りは収まりませんでした。実に不愉快でした。

 一昨日、韓国のテレビ局、銀行などが、何者かによるサイバー攻撃を受けて3200台のコンピューターが停止しました。銀行は業務が出来なくなり、テレビ局は放送不能に陥りました。北朝鮮による妨害行為に違いない、とされましたが、発信源は定かではありません。

 もし、航空管制がサイバー攻撃を受けたらどうなるでしょう。航空機の離発着は、当然、出来ません。もし、軍事施設が狙い撃ちされたらどうでしょう。核ミサイルの誤動作さえあり得るでしょう。

つまり、戦争のかたちというものが、いま、大きく変わってしまっているのです。驚くべき変化を遂げているのです。大昔、戦いの主役はマッスル(筋肉)でした。腕力のある者が勝ちました。石器、銅器、鉄器が登場します。刃物の時代になりました。続いて火器の登場です。鉄砲、大砲、が戦いの主力になりました。そして海軍力です。海を制するものが勝利者になりました。次は空軍力です。マッハで飛ぶステルス戦闘機が主役となったのは極く最近です。いまは核です。それを搭載するミサイルです。どんなに国連での制裁を受けても、イランと北朝鮮は核を持ってしまうでしょう。

 ところが、核の上を行く兵器が現れてきました。サイバー攻撃です。それはゼロとイチに代表されます。コンピューターの基本が0と1だからです。もし、この0と1で相手に勝つことが出来れば、外部からコンピューターに侵入し、思いのままに情報を混乱させることができます。核兵器その他を誤動作させることだって可能です。いかにして相手のコンピューターに深く入り込み、いざ、という時に、その機能をマヒさせられるか、各国はしのぎを削っているのです。サイバー攻撃で、どうやって、確実に、相手より上を行くか、それが戦争の決め手になるからです。

 いま、世界各地で起きているサイバー攻撃の発信源は、主として中国だと言われています。13億4500万人の中には頭の良いヤツがゴロゴロいます。アメリカに留学している中国人は約8万人ですが(韓国は3万8000人、日本は1万5000人)彼らは小学一年生のときからパソコンを一人一台宛がわれて戯れています。日本の比ではありません。

 13年ほど前になりますが、朝日学生新聞社と中国少年報社の毎年行われている社員交流のとき、私と編集長と副編集長の三人は、少年報社の編集長に伴われて、北京の小学校を見学しました。そこで、中国の小学生のコンピューター教育の実際を目の当たりにしたのでした。

 つまり、もし、第三次世界大戦が起きるとすれば、サイバー攻撃では西側自由諸国より中国に軍配が上がる、と私は独断と偏見を持って言いたいと思います。一党独裁の社会主義が、民主主義に勝ってしまうのです。こんな理不尽なことが起きるなどとは、想像だにしたくありませんが、サイバー攻撃こそがこれからの戦争の主役なのですから、あり得ることなのです。

 世界の頭の良い連中のお蔭で、コンピューターウイルスやそのワクチンは驚くべき速度で高度化、複雑化しています。当然、軍事目的の分野では秘密裡に行われているようです。調べてみたところ、表だってその目的のために日夜働いている技術者はアメリカで2000人、韓国で500人、日本ではなんと50人足らずであることが分かりました。中国の数字はどんな資料をもってしても分かりません。恐らく数万人が専従者として作業しているのではないでしょうか?

 私は老い先が短いから見据えることはできないでしょうが、近い将来、戦争は必ず起きます。人類の歴史が戦争の歴史であった以上、これからも戦争の歴史であり続けるでしょう。

 日本の能天気ブリは、ただただ、お寒い限りです。 

 



2013年3月19日              異常気象の原因は?

 この二、三年、誰も感じているのが、気候の変調です。観測史上初めての6メートル近い積雪が記録されたかと思えば、昨日までは寒かったのに3月15日、16日と25度を超える夏日の気温になり、17日には東京で桜の開花宣言がありました。全く異常です。

 

 昨年の夏は暑かったですね。それが10月の始めまで続いたと思うと、11月には雪が降り出しました。寒い冬が四か月続きました。つまり、酷暑と厳寒の期間が長くなり、春と秋が押しやられてしまったのです。しかも、この現象は世界的規模です。私はテレビのBS1で世界の都市の気候、温度を見るのが好きで、それによる各地の状況を想像逞しくしているのですが、ヨーロッパも、ロシアも、中国も、カナダも、アメリカも、今年は氷点下以下の日々が極端に多かったのです。日本の新潟、秋田、山形、青森、北海道も積雪と猛吹雪と低温に悩まされました。

 地球は温暖化している、というのが定説なのに、一体、この現象は何なのでしょうか?

 原因は太陽です。太陽の黒点が異常に減少しているからです。黒点数は周期的な増減を繰り返しているそうですが、ニ、三年前から、減少期に入ったようなのです。黒点が減少するということは、すなわち、太陽の活動が弱まるのを意味します。この周期は11年ごとに繰替えされる、というのが定説ですが、この度の黒点の減少はこの周期律を超えていると観測されています。太陽にもある磁場、つまり、S極とN極に、もう一つのS極とN極が加わり、都合4つの極ができ、複雑に絡み合っているようなのです。これは新たな観測結果であり、科学者たちの議論を賑わせているようです。

 黒点の周期の乱れは、江戸時代初期に70年間、江戸末期に30年間ありました。世界的な寒冷化で、テムス河や墨田川が凍った、と言われています。

 ここ数年の異常気象が、太陽の黒点の減少に起因するとなると、これはもう、どうしようもないではありませんか。お日様に向かって文句を言ってみても始まらないのです。自己防衛以外に道はないのです。

 私自身、加齢とともに、自分の身体が温度変化についていけないのを、知り始めています。極端な寒さ、暑さから、どうしても身を守らねばなりません。一体どうしたらいいのでしょう?

 


2013年3月18日               箱根塔ノ沢福住楼

 有楽町の朝日新聞社販売局で仕事をするようになって間もなく、先輩たちが「昨日はトウフクだった」、「やっぱり、トウフクに限る」というのを小耳に挟むことが多くなりました。「トウフクって何だ?」、それは、箱根塔ノ沢にある、福住楼という木造建築三階建ての老舗旅館のことでありました。塔ノ沢の福住楼だから、略してトウフクと呼ばれていたのです。半期ごとの決算が終わると、慰労会は決まってトウフクでした。《制度会議》と称する販売店ごとの取引制度改定作業もトウフクで行なわれました。ねじり鉢巻きで仕事をし、風呂に心行くまで浸かり、酒を飲み、麻雀などで英気を培いました。トウフクへ行くのが実に楽しみでした。トウフクには安さんという気風のよい仲居さんがいました。我々の先輩O氏と昵懇の仲だと、もっぱら噂されていました。安さんは朝日の新米社員でも名前を憶えていて、何くれとなく世話を焼いてくれました。その上 福住楼には飛び切り美人の三代目のおかみさんがいました。沢村緑子さんといって、夕食膳のときは決まって現れて、お相手してくれました。小柄で色白の輝くような女性で、しかも、何ごとにも精通する深い教養がありました。 おかみさんから名前で呼ばれるようになったときは、嬉しかったですねえ。

 福住楼は塔ノ沢のトンネルを抜け、早川の橋を渡ると、直ぐ左側にあります。古風な玄関を上がると真っ直ぐな廊下が続き、右側には池があって鯉が跳ねています。左側を降りると、大きな岩風呂と檜づくりの風呂がありました。赤銅が鈍い光を放っている大きな丸い風呂でした。廊下の奥は広間で、食事や宴会は主としてこの広間が使われました。鯉が泳ぐ池の向かいは、古風なバー兼サロンがあって、芸者さんとダンスもできました。二階、三階が客室で、約20ほどある部屋は どれも次の間、寝室付きです。早川のせせらぎの音が気になる場合は、奥の部屋を使わせてもらいました。

 何と、これらの部屋は、川端康成、里見弴、吉川英治、大仏次郎などの文人が好んで泊まったのです。加えて、明治23年(1890)に建築されたこの木造数寄屋造りは、平成14年に国の有形文化財に指定されたのであります。

 57歳のときに販売局を離れて以来、約20年近く私はトウフクへ行っていません。気風のいい仲居の安さんが亡くなったという消息はききましたが、女将の沢村緑子さんがどうしているのか?

 今週の週刊朝日で嵐山光三郎が、自身のコラム「コンセント抜いたか?」の全部を使って箱根塔ノ沢福住楼のことを書いています。それによると、91歳になっても、矍鑠としている緑子さんが、東海道沿線で楽隠居していて、その日、光三郎氏に会いに来たそうであります。確か、光三郎氏の父君は朝日新聞の記者であったと記憶しますが、トウフクについてコラムでとりあげてもらえたことが嬉しく、つい、思い出話をしてしまいました。

 


2013年3月11日              復興が遅れている?

 二年前の今日、東北大震災と津波、そしてあの忌まわしい福島原発のメルトダウンが起きました。約2万人の方々の冥福を心から祈りたいと思います。テレビは一様に罹災地の画面を流し、「二年前と殆ど変っていません。復興は何故遅れているのでしょうか?!」とレポーターが憤慨に堪えない口調でガナリ立てています。30万以上の仮設住宅暮らしの人々は、遅すぎる行政に苛立ち、世間の目がだんだん冷たくなっていると感じ始めているようでした。

 確かに、陸前高田、山田町、女川、石巻、名取などの津波被災地では、瓦礫の撤去こそ終わってはいますが、殺風景のままです。家も建たなければ、商店街などとんでもない話です。これは、行政の怠慢でしょうか?いいえ、私はそうは思いません。人間の感情の深いところから発している、二度目の災難には遭いたくない、という心にその原因があると思います。

 古人の言い伝えに「川の傍には家を建てるな。一生の内一度は被害に遭う」とあります。あの恐ろしい津波が来て、地獄の苦しみをしたその同じ土地へ、人はまた家を建てたいと思うでしょうか? 江戸時代に三陸沖は大津波にやられ被害を出しました。しかし、次第に忘れられて、集落が出現し、町の賑わいになりました。私は現役時代、高田、石巻、名取などへ行きました。朝日新聞も結構売れているいい街並みがありました。100年後、災害は忘れたころにやってきました。未曽有の災害ではなかったのです。人々は忘れていたのです。一度あったことは二度あることを。

 二度あったことは、三度目もあるということです。そうでなくても近々、南海トラフ地震が発生して、黒潮町では34,4メートルの津波が襲、うと警告が発せられているではありませんか!

 復興が遅い?! そうあって当然です。行政は100年先を見据えた町作りをすべきです。遅くていいから、ジックリと腰を据えてかかるべきです。少なくとも、津波被害の遭った海抜10メートル地帯に人間の居住区域を作るべきではありません。人々は怖くて、住みたくないのですからその気持ちを大事にして、新たな街づくりを山間部に意識的に持っていって欲しいものです。

 テレビのレポーターさん、「復興が遅い!行政はどうなっているんだ!」と怒鳴らないでください。一度怖い思いをした同じところに、誰がまた住みたいと思うでしょうか?

 被災地では海岸地域を広大な公園にしたい、と申し立てているそうです。ところが、国は「あまりに公園が広すぎる」と認可しないようです。これこそ噴飯ものです。恐怖の土地は公園こそが適切ではありますまいか。そして、50年、100年の後記憶が薄れたころ、公園は何らかの建造物で埋まっていくでしょう。

 ところが、福島は復興が遅いどころの話ではありません。放射能の除染作業が進まないため、家があるのに人々は帰れないでいます。大熊町、双葉町、浪江町、夜の森町、富岡町、小高町の皆さんです。メルトダウンして、一度大気中に放出された放射能を再び封じ込めることは、実は不可能です。つまり、これらの町の人々は永久に我が家へ帰れない、帰ることが出来ない、と悟るべきです。福島に復興などあり得ないのです。日本の国土としての福島県の約半分が、永久に廃墟となることを、我々は自覚すべきです。津波は100年に一度かもしれないが、その国土は廃墟にはなりません。しかし、人間が神の領域にまで踏み込んで作った人為元素による災害は地球が消滅するまで続きます。

 津波被害の100倍の大きさで、テレビのレポーターは画面でがガナリ立ててしかるべきです。しかし、画像は何時も同じです。人影のない街並みを映すだけです。

 やがて忘れられていくに違いない自然災害と、年月と共に更に拡大し、しかも、地球消滅まで続く人的災害と、同じ災害でも全く異質な二つの事件に、私たちは、いま、直面しているのです。

 

 

2013年3月4日              超高齢化社会

 エジプトのルクソールで気球が爆発して、四人の方が亡くなりました。全員高齢者でした。海外で事故に遭われた方の殆どは高齢者です。最近、豊島園の「庭の湯」というデラックス銭湯へ行きました。高齢者で溢れかえっていました。何せ日本は、65歳以上の人口割合が、20%を超えた世界最初の国です。全ての面において活力が無くなっている現実は、列車に乗って旅をしてみると如実に分かります。先日、北陸線に乗って、富山県の氷見まで行ったことを書きました。物見高い私は、往きも帰りも列車の窓から外を眺めているのですが、直江津から糸魚川を通って魚津まで、この淋しげな漁村が連続する景色の中で、何人の人間を見つけることが出来るか?実祭に数えだしました。車は時たま通ります。中に人影はあります。それは除くことにしました。7月17日午後2時からの30分間、人影を見たのは、何と、たった三人でした。沢山の家があり、恐らく、そこには人がいて、生活があるだろうに、人の息吹がない。社会そのものも高齢化しているのでしょう。

 日本で平均寿命が一番高い県は長野県の男性で、女性は沖縄県、と相場が決まっておりました。ところが昨近は、長野県の女性が躍進してきて、全国で長野県の男女が一位となりました。沖縄県の女性に異変が起きたのでしょうか? いいえ、数字はそのままで、長野県の女性が伸びたのです。では、何で長野県が長寿県なのか? お茶をガブガブ飲むからでしょうか?お葉漬けを好んで食べるからでしょうか?山に囲まれていて空気がいいからでしょうか?それも、あるでしょうが、一番の原因は佐久総合病院に代表される医療制度にあるようです。「医者は病院で患者を迎えるなどとんでもない。地域に出て行って医者自ら患者に接しなさい」という、今は亡き佐久病院の創始者若月俊一の教えが、長野県医療の質を変えたことにあるようです。そのお蔭もあってか、佐久市、岩村田市は一人当たりの年間医療費の出費が極端に少ない。全国最低に近いのではないでしょうか。

 翻って考えると、当節、昔のように人間は、直ぐには死ねなくなりました。充実してきている医療機関のせいで、そろそろいいのではないか?と思っても、そうはいかない、生かされてしまうのです。認知症になって、自己が破壊されても、寝たきりのチューブ漬けになったとしても、本人の意思にお構いなく、進歩した医療機関は重病人を何年も、何年も生かしてしまっています。一か月100万円の医療費がかかっても、保険のお蔭で8万円ほどの負担で済んでしまいます。最低医療費保障制度があるからです。そのせいで日本中、至る所高齢者ばかりになるのです。5人に一人は65歳以上という世界最初の有り難くない冠を被せられてしまったのです。

 これは、良いことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか?長生きは人生の目的でもあり、歓迎すべきものでありましょうが、国の活力を著しく阻害していることも明白です。若い者にオンブにダッコにオシッコをしてもらっていては、早晩、国は亡びるとしたものです。

 では、どうすればいいか?

 


2013年3月1日                            続「公徳心の欠如」

 このホームページにエッセイを掲載すると、それに対する感想文をメールで送って下さる方がいます。長野高校の先輩で、奇しくも同じ朝日新聞社に勤め、いまは悠々自適で、高級住宅地の麹町にお住まいの大島吉美さんです。最近の中国の公害問題を扱った「公徳心の欠如」のエッセイに次ぎのような感想を送って下さいました。

 

 大島吉美です

 大気汚染のエッセーを拝読、有難うございました。中国大陸の大気汚染が深刻な状況にありながら、また周辺国への越境汚染への配慮もなく、野放し状況にある中国政府の公害問題に対して、周辺国が連絡を密にして、対応策を協議し、無法状態の解消に向けて行動を起こさなければならないギリギリの時期が来ていると考えられます。

 このような過酷な環境の中で、生活している中国の人たちは、自分たちの健康に関して疑問を感じないのか、訴える手段を知らずか、我慢しているのか、政府当局に声を大にして、改善を要求しているのか、伝わってこない。不思議でならない。共産主義社会の一方的な教育からきているのか、理解に苦しむ中国人としか言いようがない。

 そこにいくと、ミャンマーの住民は、ラパタウンにある中国企業から吐き出される黄色い粉塵で健康被害が出て、危険性を訴え、住民の抗議と、座り込みをおこなっており、対象的です。スーチーさんが出てきて、解決を宣言したという、結果が待ち遠しいです。

 大気汚染の主因とされるのは、車の排ガスや工場の煤煙、暖房用に燃やす石炭などとともに、車が1億台を突破しているのが現実、排ガスや煤煙規制も進んでおらず、急速な経済発展のため、エネルギー源の過使用からきているのが明らかだ。中国政府などは緊迫した環境をどう見ているのか、健康への配慮の皆無に呆れてしまう。公徳心の欠如から、そうさせるのかもしれません。日、中、韓の間では環境相会議を開いて、酸性雨対策などの話し合いがあったと聴いてはいますが、PM2.5や汚染越境など真剣に対応策に取り組んでほしいものです。

 日本にとっては、越境汚染が心配で、来月は黄砂の季節がやってきます。日本の汚染対策が急務になってきている。環境省は、数値70を超えたら外出を控えるようとの指針を出している。(2月28日)

 大島さんありがとうございました。海を越えて飛来する粉塵公害に犯され、湖沼に魚が住めず、水も飲めなくなった国の例があります。スカンジナビア半島に位置するノルウエーです。元凶はイギリスでした。産業革命以後、石炭による粉塵でテムス河は死の川となり、海峡を越えてスカンジナビア半島を犯したのです。ノルウエーの住民は沢山のビラを作ってイギリスへ送りました。《あなた方は好きだが、あなた方が出す粉塵は大嫌いだ》 紳士の国イギリスでは、粉塵公害の除去に全力をあげた、と伝えられています。  翻って、中国はどうでしょう。イギリスのような紳士の国ではありません。大島さんご指摘のように、人民の声が一党独裁政治を動かすとも思えません。しかし、日本の山林は中国が発する粉塵により、いたるところで立ち枯れ現象が起きているのです。中国山脈は元より、近くは群馬県赤城山でもそれが大規模に起きています。悪性のPM2.5という微粒子は、日本国民の毎日の健康にも悪影響を及ぼしているのです。一日として猶予はないのです。

 効果は期待できなくても、私たちはノルウエーがやったように、13億4500万人の中国人一人一人に、ビラを手渡そうではありませんか! 《昔の中国は大好きだが、いまの中国は嫌いだ。あなた方が出す石炭、石油など、黄砂に乗ってやってくる粉塵はもっと嫌いだ》

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