最近のエッセイ

 2019年2月28日      帰国しました

 1月31日夜、チェンマイからバンコックへ出て0時30分発のイスラエル国営航空に乗り、テレアビブのベングリオン空港に着き、10日間のイスラエルめぐりをしたあと、再び同空港からバンコック空港を経由してチェンマイに戻り10日ほど過ごし帰国しました。持参したノートパソコンが不調であったため、ホームページの更新が出来ずじまいでしたが、今日から再開させていただきます。

 私たちチェンマイ4人組が参加したイスラエル旅行団はシンガポール日本人教会の松本牧師が主催した32名のグループです。旅が終わってから先生は参加者全員に感想文を求めました。私は以下のものを提出しました。

                所 感

 イスラエルへ入って3日目、死海の畔エリコに宿泊した時です。岩塩で固まった湖畔に出てその水を口に含みました。「ギャー」となりました。塩辛さや苦みを通り越した何とも強烈な味がしました。出口のない湖の、これが1億年の味か、としみじみとした想いで呑みこみました。私はその水を小瓶にとって東京へ持ち帰りました。怠け心が起きた時、再び舐めて自分を叱咤するためです。でも、既に数人の仲間に「これこそ、命の水だよ」と勿体ぶって味あわせてやりました。

 私にとって「ユダヤ人」とは予てから謎に充ちた存在でした。世界の民族の中で最も高い知能指数を持ち、科学、文学、音楽などあらゆる分野で優れた業績を上げながら、紀元後300年頃に出来たタルムードという19巻もある経典を金科玉条とし、あろうことか新約聖書を認めず、イエス・キリストをメシアではないとして今日に至っている事実。しかも、キリスト者にとってはイエスが30年余を過ごした聖地そのものに同居していながら、敢て、目を背けているらしい頑な姿勢。

今回、図らずも嘆きの壁に密集して真剣な祈りを捧げる山高帽に黒マントで正装したユダヤ人の大群衆を見たり、ガリラヤ湖畔のホテルロビーで、これまた正装して祈りを捧げるユダヤ教徒の家族集団に遭遇したりといろいろでしたが、改めてユダヤ教徒とは何者なのか、との思いを強くしました。

一方、3年前の10月、ポーランドのワルシャワに滞在し、アウシュビッツへも行きました。「働け、されば自由を得ん」という例のアーチをくぐり、大量ガス殺人の現場をつぶさに見て歩きました。「夜と霧」という本と写真集で予備知識を持って出かけたものの、涙が止めどなく流れました。70年前の当時から茂っていたに違いない収容所の周りの木立に向かって「お前たちも辛かっただろうなぁ」と語りかけました。旅の8日目、ホロコースト記念館を訪れた際、毒殺された600万人に及ぶユダヤ人の氏名が顕彰されているのを目の当たりにして、再び涙が止めどなく溢れてきました。

 所感の最後に私自身について述べさせていただきます。

 教会の門を叩いたのは松本先生と同じ高校一年の時です。〈自我〉が問題となり、パウロの「われ、もはや生きるに非ず、キリスト我が内にありて生きるなり」が私の中での行動指針となりました。バルト、ブルンナー、フォロサイス、内村鑑三、波多野精一など読み漁りました。大学の卒論は死海の書でした。当時、この書の真贋を巡ってかしましい論議がありました。それだけに、今回、死海の書の発掘現場のクムランを訪れることができて感無量でした。エッセネ派も確かにあったでしょうが、もう一つの共同体の大きな力があったという考え方が有力です。それにしても、どうやって羊皮紙に活字のように狂いのない字ずらを並べることができたのか、ユダヤ人の不思議さに改めて思いをいたしました。不思議の国イスラエルの不思議なユダヤ人の存在。改めて勉強のし直しです。松本先生ご夫妻、グループの皆さまに感謝いたします。

 

2019年1月21日      政治が無責任なのはなぜか

 霞が関の厚労省が、とんでもないミスをやらかしています。統計の採りかたが数十年前から誤っていたのに、それに気付いていながら修整せず、指摘されて初めて知ったふりをしたのです。それによると約2000万人の国民が失業保険やその他で正当な支給額を貰っていないことが判明しました。その額数百億円。「国家が誤った集計に基づいて、国民に正当なお金を渡さなかった」のです。こんなこと、有っていいものでしょうか?

 

 

2019年1月20日     原子力産業から人がいなくなる

 今の経団連の会長は日立の中西宏明です。この会長が最近の会見で「原発再稼働はどんどん進めるべきだ」と述べ、物議をかもしています。一方、日立が進めていたイギリスへの原発輸出は暗礁に乗り上げました。イギリスの民意が凍結を望んだからです。3000億の損失がもろに日立にのしかかりました。日立は今後、原子力産業から撤退することを決めました。

 東芝とて同じこと。アメリカのウエスチングハウスを買収しましたが、アメリカでの原発は進展していません。スリーマイルスの原発事故以来、民意が原発に拒否反応を示しているからです。更に、アメリカの若者は原発会社に就職しなくなりました。原子力産業はアメリカでは衰退の一途をたどっているのです。それを知ってか知らずか、東芝はウエスチング社を法外な値段で抱え込み、自身も倒産寸前になっています。

 それなのになぜか、日本は官民一体で世界に原発を売りつけようと躍起になっています。世界の潮流が読めていない安倍政府は重大な罪を犯していることになります。

 福島双葉原発はアメリカからの輸入です。アメリカには地震も津波もその心配は殆どありません。ですから、輸入された原発には地震対策や津波対策が施されていませんでした。原子力委員会や東京電力はそれに気が付いて、輸入された原発に対し、災害を予想したフェイルセイフを施すべきでありました。アメリカ仕様をそのまま使ったところに日本の不幸がありました。

 早稲田の先輩・大前研一は理工学部から東京工大大学院、そしてマサチューセッツ工科大学大学院の原子力科を出ています。原子力の専門家でもあります。

 あの日、管直人首相はヘリで現場を視察し、「電源車を呼べ」と怒鳴りました。津波により原発のすべての電源が停止したからです。電気がなければ原発炉心の制御が出来ません。炉心溶融(メルトダウン)が始まる寸前になりました。電源車は45台集まりました。しかし、どれも役に立ちません。何となればアメリカ仕様の原発は600ボルトであるのに、集まった電源車は220ボルトばかりだったのです。もし、そこに600ボルトの電源車が予め用意されていたら、、、、メルトダウンだけは避けられたに違いありません!

 菅直人は東工大の出身で大前研一の後輩に当たります。いち早く官邸に呼ばれた大前は「何故、アメリカ仕様のままにしておいたのか!」と地団駄踏んだそうであります。つまり、大前はこの惨事は東電の人為的ミスだと言っているのです。私もそう思います。わが愛する福島の不幸は、600ボルトの電源車一台あれば防げたのでした。

 思えば50年前、福島県は双葉原発の導入の是非を巡って大揺れに揺れていました。私が30歳で福島を担当していた頃です。読売と地元紙で読売系の民友新聞が推進派でした。朝日と毎日と毎日系の福島民報が反対派でした。ところがある時から民報が賛成派に廻りました。原発は安全という広告が民報に載るようになってからです。読売新聞社主正力松太郎が電源開発総裁を兼務していた頃、政府に特別予算を計上させ、全国の新聞、テレビに「原発の明るい未来」を説く広告をばら撒き始めました。電通がその仕切り役で流されたその広告費の総計は、何と一兆三千八〇〇億円!

 その意思はその後ナベツネに引き継がれ、ナベツネは安倍に会うたびに正力の意志を伝えているとか。いま、アメリカがそうであるように日本の大企業が原発事業から撤収し始めましたが、これはとりもなおさず原子力産業から人が居なくなるのを意味します。ということは優れた技術者がこの産業に近寄らなくなるのです。技術者が居なくなる原子力産業! 日本は増々危険な立場に置かれるのではないでしょうか。

 余談ですが、十年前の早稲田祭で大前研一の記念講演を大ホールで聴いたことがあります。以前から彼の本はそのすべてを買って読んでいたので、親近感がありました。彼は「よく遊べ」と説きます。早稲田オーケストラに所属していましたが、マサチューセッツでも同学のオーケストラに入部します。そして前の席でクラリネットを吹いていた女子学生と懇ろになり結婚します。子供が生まれ一家五人となりました。五人は揃って遊び友達だそうです。

 

2019年1月19日        壁と自爆テロ

 イスラエルを問わず、中東の国々、そしてヨーロッパでも自爆テロがしばしば起きています。イスラム過激派によるものが大半ですが、イスラエルのヨルダン川西岸を中心とする自爆テロも悲惨です。パレスチナ人の土地が次々にイスラエル人の手に渡り、華麗な団地群に変身したその場所で、自爆テロはある日突然に起きます。一見平和そうな団地の住民であっても、絶えず自爆テロに怯えながら、毎日を不安の中で暮らしているとのこと。それを防衛するためガザ地区にも西海岸にも、周囲を隔絶する壁がめぐらされているようですが、自爆テロを防ぐことは出来ない、といいます。

 今回のイスラエル行きでは、その壁をしっかり見て、つまり、壁の中のイスラエル人と壁の外に疎外されているパレスチナ人との諍いの原点を探って来たいと思っています。

 壁といえば、古代中国の万里の長城も、漢民族を異テキから守るための壁でした。ベルリンを二分していた東西の壁はある日崩されました。同時にソ連邦を形成していた社会主義・共産主義は民主主義・資本主義に破れました。壁はなくなったのです。

 いま、壁造りに躍起となっているのはアメリカのトランプです。壮大な壁を作ってメキシコからの難民流入を防ごう、というのです。アメリカが衰退し始めている一番の証拠でありましょう。何よりも気になるのはイスラエルのあちこちで見られるであろう壁の存在です。考える材料がまた一つ増えました。

 

2019年1月18日        この勉強に終りはない

 25日に羽田を出発、バンコック経由でチェンマイに入り、31日夜チェンマイからバンコックへ飛んで、深夜便でテレアビブへ向います。10日間イスラエルに滞在し、2月10日にバンコック経由でチェンマイに戻り、チェンマイからの帰国は21日です。

 イスラエルの勉強は1月1日から始めました。NHK取材班の平山健太郎が書いた「聖地イスラエル」と「地球の歩き方イスラエル(2019年版)」、それに聖書が教材です。読めば読むほどその複雑性に度胆をぬかれます。2000年以上続いているキリスト教とユダヤ教の戦い、7世紀からそれに加わったイスラム教。それはとりもなおさずアラブ人とユダヤ人とアルメニア人との血塗られた土地収奪争いでもありました。ローマ帝国によるユダヤ人虐殺、近年のナチスによるアウシュビッツの毒殺、その数、何と600万。3年前、ショパンコンクールを兼ねてポーランドへ行った際、アウシュヴィッツへも足をのばしました。多くのユダヤ人が貨物車にすしずめにされて運ばれ、ガス室へ消えてゆきました。それらの跡をつぶさに見ながら私は天を仰いで涙しました。何で、ユダヤ人に限ってこのような仕打ちを受けなければならなかったのか、と!

 月日は下って、1948年5月14日、国連によってイスラエルの建国が認められました。同時にパレスチナ人にも建国が承認されました。それなのにパレスチナ国家は未だ形成されていません。それどころか、パレスチナ人の土地は、いかなる方法によるのか、どんどんユダヤ人のものになっていっています。アラファトが活躍したオスロ合意など、今は紙くず同然に扱われているようです。一方、イスラエル国籍を持つユダヤ人の中にもパレスチナ人に同情を寄せ、同じ国籍を持って仲良くやっていこう、とする流れもあります。それがまた事態をより複雑にしているようなのです。

 ユーチューブに毎週登場する大阪天満橋の牧師・高原剛一郎によれば、旧約聖書はある意味で予言の書であり、ユダヤ人こそが選ばれた民であり、これに刃向う者は滅び、これに益するものは栄えてきた、というのが歴史的事実であると断じています。彼のイスラエル訪問は19回に及びその説教には説得力があります。

 そのイスラエルの地を、この足で踏めることの意義、あるいは喜び、そしてガリラヤ湖を目の当たりにして私はどうするか? 未知への期待が高まります。さあ、勉強、勉強です。

 

2019年1月16日        もう一つの回想

 ヒョンなことから永井大三さんを回想することになってしまったついでに、もう一つだけ書かせてもらいます。

 昭和36年(1961年)業務局入社の8人は、先ず発送部へ配属され、青い上下の作業衣を着せられます。新聞の梱包、積み出し、トラックの上乗りなどの末端の仕事をコナシテから広告、出版広告、出版業務、総務、会計、販売へと散っていきます。その期間、約4カ月。仲間がそれぞれ配属先へ散っていくのに、どうしたことか私だけ発送部庶務課に据え置かれました。

「よーし、そうなった以上徹底的にやってやろうじゃないか」と色々なことをやり始めました。先ず、発送部の器械化です。卒業まじかまでアルバイトしていた日本経済新聞社の発送部は器械化されていました。三種類の結束機があって、刷り上がってコンベアーで運ばれて来る新聞を手早く梱包しトラックに積み込んでいました。朝日は? というと驚くなかれ、明治の頃から続いてきたに違いない荒縄とそれを切る鎌に頼っていました。縄埃りの中でマスクを付けて作業していました。毎日も読売も朝日と同じような状態でした。日経発送部の状況を写真に撮り、いかに朝日が遅れているか克明にレポートし、それを永井さんのところへ持って行ったのです。

 当時、朝日の社屋は有楽町日劇横、毎日は有楽町駅反対側、読売は今の東映映画館からプランタン銀座の辺りにありました。青い菜っ葉服は三社共通であり、社章を取ってしまえば他社の社屋に進入しても怪しまれることはありません。どの新聞社の発送口にも、トラックのコースごとの表が張り出されています。「何時何分発どの方面」と大書されています。

 最終トラックが出てしまうとどの社の発送口も無人となり、閑散となります。菜っ葉服の他社人間が潜入しても怪しむ者はおりません。私は堂々と潜入し、大書されているコース表を書き取ります。そして、朝日のそれとを比較します。何と、何と朝日が遅いことか、販売店から苦情が来るわけだ、と改善策にまで言及するレポートにして、永井さんに提出しました。

 驚くまいことに、三か月後、有楽町社屋二階の発送部に最新式梱包結束機が入り始めました。荒縄の代わりはビニールの色つきテープがとって替わりました。発送部員がどんなに喜んだことか! 朝日新聞はその後有楽町から筑地へ移転します。新社屋一階の発送現場は、何と、無人となりました。コンピュータが行く先を読み取って仕分けしてくれるのです。何から何までコンピュータが処理してくれるのです。驚くべき様変わりが現実となっています。一方、新聞の店着については一筋縄では行きませんでした。新聞の店着のために降版時間を速めることは編集局・印刷局はなかなかOKしません。すったもんだの挙句、10分ほど降版は早まり、コースの本数をかなり増やして店着改善をしたと記憶しています。

 発送部には「発送会」という親睦組織がありました。年一回、社員のエッセイ、写真、和歌、俳句などを纏めて小冊子を作っていました。庶務課員としてその担当を申し渡されました。「よーし、やってやろうじゃないか」、その年は記念会報でもあったので、先ず広告を集めました。従来の五倍の広告料が集まりました。付録として局長の永井大三さんと、局次長の安井圭三郎さんの色紙を付けることを思い付きました。永井さんの色紙は『飛角千里』、安井さんのは俳句で『水仙の一輪をして日を充たす』でした。労使の関係が、まだ深刻になっていない頃でしたから、こんなことができたのでしょう。永井さんの色紙は、ご自分でも気に入られたようで、ご自宅の上がり框に額入れになっていました。

2019年1月15日        永井事件のこと

 朝日新聞が村山龍平、上野理一によって大阪で創刊されたのは明治12年(1879年)です。今からおよそ140年前です。昭和38年(1963年)永井事件が勃発します。村山家の婿養子・恭平が朝日新聞によるホスピタル(病院)経営を申し出て、創業家がそれをOKしたことに端を発します。それを断固として反対したのが常務取締役営業局長の永井大三でした。新聞社は新聞以外の経営をするべきではない、というのがその理由でした。

 株主総会で永井大三は罷免されます。これに怒りを現したのが永井大三に絶大の信を置く全国の販売店です。納金拒否が始まりました。毎月本社に払う新聞原価を銀行に供託し始めたのです。新聞原価が入らなくなった本社側は大慌てです。いろいろ妥協案が飛び交いました。結局村山龍平は社長を下り、編集出の広岡知男が社長になり事件は3か月ほどで治まりました。しかし、永井大三の復帰はありませんでした。株主総会の議事録が修整された例がないからでしょう。

 当時の朝日新聞の全国部数は350万部ほど、所帯が増えるに比例して部数も増えました。新聞をとらないのはご近所の手前恥ずかしい、という時代でした。

 入社3年目の私は発送部での研修を終え、販売局の内勤業務をこなし、担当員助手として千葉県へ出た頃でした。永井さんのお蔭で入社させてもらったに等しい私は、いつの間にか永井宅への使い走り役になっていました。秘密文書を持って何度か往来しました。販売局や販売店の願いは永井さんの現役復帰でしたが、それが不可能なことはご本人が一番良く知っていました。

 何度目かに伺ったとき、永井さんから巻紙の手紙を見せられました。それは財界の重鎮からの内々の手紙で「道路公団総裁」を要請するものでした。永井さんは故郷広島生口島にご健在の父上に相談したそうです。その返事は「大三よ、男は二度出るものではない!」であったそうです。

 この時を境に朝日新聞の株式を巡って「社員持ち株会社」が生まれ最大の株数を持つこととなりました。私も1000株の株主になりました。つまり、上野家も村山家も社員の同意なくして何もできなくなったのです。永井事件のお蔭、というほかありません。

 永井さんは、当時、毎日の梅島、読売の務台と並んで新聞界の三巨頭と云われていました。身体も大きく180センチ、100キロのガタイであったでしょう。柿の木坂のご自宅で夕飯を御馳走になったことがありましたが、永井さんの召し上がり方の早いこと、早いこと。それに大きな特徴はへき眼つまり片目であったことです。いつも右メガネの奥に白いガーゼを入れていました。生口島の子供の時、喧嘩で目をやられたとか。その片目で販売店を愛し、朝日新聞が増えることに無上の喜びを持つ方でした。

 私の入社が決まり販売局に配属になった時、永井さんは一冊の本を取り出し熟読玩味するように、と云われました。それは東京都内一円の販売網を一手に引き受けていた元締め「岩月宗一郎」の伝記でした。永井さんは滝山町(いまの銀座並木通り)にあった岩月会の支配人に出向していた時期があったのでした。また、永井さんは将棋も強く5段を張っていました。将棋の名人戦は永井さんのおかげで朝日主催になったようでした。升田幸三を囲む会が箱根塔ノ沢「福住楼」で開催されました。岩月会を中心に50人余り、宴会となりました。歌の順番が永井さんに廻りました。本人は堅く拒否していましたが、全員がかけ声合わせて即したのでとうとう永井さんは歌いだしました。「愛染かつら」でした。「花も嵐も」のアレです。みんな呆気にとられました。笑いたくても笑えません。ジッと耐えることがどんに辛かったことか。永井さんが物凄い音痴だったからです。

 

2019年1月10日          オカシナ韓国 

 昨日、韓国の文在寅大統領が新年の記者会見をしました。肝心の司法が賠償を命じた徴用工問題には一切触れず、僅かに、NHK記者の質問に答える形で「日本はこの件を他の案件と一緒にしない方が賢明である」とお説教しました。「司法の決断は立法府としても尊重しなければならない」と付け加えました。拍子抜けした日本の行政府の怒りはいかばかりでしょうか。一方韓国で稼働中の新日本住友金属への差し押さえ進行中のようです。

 慰安婦問題では両国の外相同士が会い、10億円を渡し、「以後異議を申し立てない、慰安婦像は撤去する」と固い握手を交わしたにも拘わらず、大使館前の像はいまだに撤去されません。10億円の内4億円余り慰安婦に渡されたようですが残金の使途は不明のままです。それどころか設立された財団は解散となりました。日本の哨戒機が韓国の駆逐艦からレーダーを浴びせられた事件もうやむやのままです。

 こう立て続けに日本を愚弄する外交上の無礼な振舞いが起こっては、韓国に好意を持っている日本人も(私もその一人ですが)「おい、おい、おい」と言いたくなるのではありますまいか。

 昔から隣人同士は仲良くなれない、と相場が決まっていますが、それにしても最近の韓国は日本に対してムキになり過ぎです。隣人を見下す悪い風習は島国日本の特徴ですが、日本は韓国への賠償金として当時の政府へ国家予算の二年分の金を渡しています。これで、国も個人も賠償問題はなし、だと両国は調印しているのです。加えていえば韓国のインフラ整備に日本はどれだけ力を入れたか、資本を入れてどれだけ韓国の産業を支えて来てあげたか。それなのに韓国はお家芸の「怨」で報いようとしているのです。これまでに私は韓国ソウルへ2度行きましたが、こうなってしまうと3度目は無くなってしまいました。     

 

2019年1月7日      「縁」とは異なもの不思議なもの

 仕事で福島県を5年間も担当したので、浜通りの浪江と原ノ町の間に位置する小高には何度も訪れました。半谷(はんがい)さんという方が小高で手広く商売をしながら新聞の販売取次をやっていました。小さな町ですから全銘柄の新聞です。

 一方、長野高校を卒業し東京へ出た私は、高校一年の時から世話になっていたカシヨ印刷を経営する清水栄一さんの従弟で成蹊大一年の清水聡さんとの共同生活が始まります。二人はカシヨ印刷の東京出張所員という名目で、始めは西武線中井の新教出版社長の秋山さん宅の一室を根城としていました。続いて経堂の高田邸の二階二間、中野駅近くの秋田という居酒屋の二階が事務所になりました。居酒屋の店主がカシヨから独立し、出張所長となったのです。聡さんと私はこれを機に放免されました。カシヨ印刷東京出張所はその後高田馬場のビル内に移り5人体制になります。長野の本社も大門町から郊外に移って大きなビルになりました。

 そして、聡さんは成蹊大卒業後、ある商社に入いっていましたが乞われてカシヨ印刷の社長になります。時を経て、清水さんがご自分の長男の光郎君を社長にしたいと申し出ました。しかし、聡さんはそれをOKしません。当時、私は朝日新聞西部本社の営業局長になっていました。複雑な文書が何度も二人から送られてきました。骨肉の争いはしばらく続きました。カシヨ印刷創立70周年の式典が長野市の犀北館で盛大に行われました。清水さんの隣に座らされ、挨拶させられたのを昨日のように覚えています。

 実は聡さんの直ぐ上の姉さんが、小高の半谷さんの息子さんと結婚しているのです。息子さんは当時、伊勢丹デパート立川店の副店長で巣鴨に住んでいました。そのお世話で私は大学一年の夏、伊勢丹デパートの一階のハンカチ売り場でアルバイトさせてもらいました。学生服でいいというので助かりました。しかも、聡さんと一緒に巣鴨のお宅に遊びに行かせてもらったおり、私の母方で「出水」姓の親戚が清水さんと縁続きであることが分かりました。東後町の国安といいました。

 縁は更に続きます。カシヨ印刷清水さんの実の姉キヨさんは石塚俊三さんという信越化学の取締役と結婚していました。そして俊三さんの妹の稲子さんのご主人が朝日新聞社常務取締役営業局長の永井大三さんでした。一人息子の謙さんは慶応大の学生で、清水さんとの山行きでしばしば一緒になり、それが縁で度々柿の木坂の永井さん宅へ伺って謙さんと将棋や碁を打っていました。時には学芸大学にお住まいの石塚さん宅でピアノを弾かせてもらっていました。

 就職に当たって、当時アルバイトしていた茅場町の日経新聞社の社員が中心となって設立した、新聞を海外に送る「海外新聞普及会社」と長野の「信濃毎日新聞社」を受けることにして永井さんに頼みに行きました。そうしたら朝日新聞も受けて見ろ、と仰るのです。聴きつけた長野の清水さんがわざわざ永井さん宅に来て口添えしてくれました。

 早稲田大学で行われた朝日新聞社業務部門の試験は450人が受験しました。永井さんから呼び出しがかかりました。私の筆記試験の成績順は32番でまあまあだから、面接試験では「わしがこう聞くから、こう答えろ」とい仰るのです。お前の特技は何かと言うのでピアノだ、というと「音楽では紙は増えんのお、それを言うな」かくして入社8人の中に入れてもらい、販売に配属されました。

 永井さんも奥さんの稲子さんもお亡くなりになり、三井物産に勤めていた謙さんはガンに侵され、会社を辞め、永井さんが集めた骨董品を総て手放し始めましたが、仕舞には家屋敷も売り払いました。金に困ると謙さんから電話がかかってきます。年の暮れ10万円渡したこともあります。四谷荒木町の質屋へ出向いて質草になっていた母親の稲子さんの宝石類の一年分の金利を払って質流れを防いだこともあります。永井さんの出身地広島の生口島への墓参団を朝日旅行に組織してもらい香典30万円を謙さんにお渡したこともあります。しかし、貸したお金が戻ってきたことは一度もありませんでした。

 今年の一月一日の午後、思い立って柿の木坂八雲の永井さん宅の跡地を見に行きました。昔の都立大前を曲がって直ぐの角地の平屋が永井さん宅です。中庭があって素敵なお宅でした。二階建ての家が二軒建っていました。その内の一軒の表札を見ると「秋山金蔵」とありました。そうか、西武線中井にお住まいだった新教出版の秋山さんのお身内が買われたのだ、そうにちがいない、と思うことにしました。

 いわき市泉に佐藤彰牧師によって建てられた「翼の教会」は、小高の半谷さんによって見いだされた佐藤さんが、大野に建てた瀟洒な教会が前身です。原発の被害に遇い、信徒40人を連れて佐藤牧師は山形へ逃げます。食うや食わずで再び奥多摩へ避難します。全国、いや全世界から注目され義捐金も集まります。佐藤牧師は「私はこのために生まれてきた」という強い信念のもと、泉にこれ以上ない教会を打ち建て、今は小高にも教会を建立しました。縁あった半谷さんの土地にです。小高駅にほど近いその教会は夜になると十字架が光り輝きます。今は亡き半谷さんの喜びはいかばかりか、と拝察されます。半谷さんと佐藤彰牧師とのご縁を含めて、縁とは異なもの、不思議なもの、との感を強くしています。

 

2019年1月6日    富岡まで電車が通っていた!

 メルトダウンした福島原発の最寄の駅は双葉です。その手前が大野、夜ノ森、富岡、広野と続きます。広野までは放射能が除染され、4年ほど前から入域可能地域になっていました。二年前に夜ノ森の桜を見に行った時、禁を侵して富岡の駅へ回り込みました。何と驚いたことに、駅舎は既になく、私が集団疎開で寝泊まりしていた駅前旅館「大東館」も跡形もなくなり、国道から浜辺までの見渡す限りの空間が大きな黒い袋で埋まっていました。汚染物質が入っているに違いない袋の数、数万個! 「ウヘー」となりました。

 一年前の時は、泉の「翼の教会」佐藤彰牧師夫妻と佐藤牧師の車で、新しくできた小高の教会へ行ったので富岡は素通りしてしまいました。うず高く積まれた汚染物質の入った黒い袋は、しばしば私の脳裏に去来します。気になって、気になって仕方がありません。夢にまで現れました。思い余って旧ろう24日から25日にかけて車で出かけました。佐藤牧師のセンス溢れるイブ礼拝は素晴らしいものでした。そして翌日。

 国道6号線を右折して駅に向かうカーブに差し掛かった途端、目を瞠りました。無いのです、黒い袋の山が無いのです。一個もないのです。松並木越しに海が見えるのです。そればかりではありません。瀟洒な駅があるではありませんか。立派な上り下りのホームに跨線橋と駅舎と洒落た売店まで或るのです。おまけに、広い駐車場と駅前にはタクシー乗り場があり、一台が人待ち顔で停車しています。駅員はいませんでしたが、売店の小父さんによれば、今年の6月から一日6往復電車が平ー富岡を走り出したとのこと。常磐線の仙台寄りの新地ー小高間も開通しているが、中間の夜ノ森ー大野ー双葉ー浪江ー請戸間はどうなるかは分からないとのこと。

 そういえば、人っ子一人居なかった富岡のあちこちに人影がチラついているではありませんか。人が住むためにはインフラ整備が先ず必要です。電気、ガス、水道、交通機関、商店などなど。その一つが完成したかつての廃墟富岡の街に果たして人が住むのかどうなのか?

 甚だ疑問ですが、少なくとも黒い袋は無い方がいい。目を凝らして遠方を見ると駅舎の遥か向こうに、それはそれは巨大な白い建物が見えました。そうか、あれが黒い袋を解体した処理施設だな、そうに違いない、と思いました。そして、その建物の異様さと瀟洒な駅舎周辺とのミスマッチに新たな恐怖を覚えました。

 

2019年1月5日          句 作   

 木曜日の夜7時からのテレビ「プレバト」は面白い上に成程!と唸らされる番組です。芸能人が作る俳句を〈夏木いっき〉というオバサンが添削して優劣を競うのですが、このオバサンが実に秀逸で面白いのです。芸能人が無名であれ、有名であれ、バッサバッサと作品を切り刻んでしまいます。それがまた小気味よく、穿っているので、成程、成程と唸ってしまうのです。

 女形で鳴らした梅沢富美男と、宮崎県知事を務めた東国原英夫が俳句名人位を争っていますが、梅沢とイッキ先生との喧嘩まがいの言葉のやりとりも、この番組を面白くしています。

 俳句は、私も北七俳句会の一員になっていて、折に触れ作っていますが、創れども創れども、いい句ができないのが悩みです。これこそ、というのが未だないのです。私の仕事場には書道家飯島春敬が書いた蕪村の色紙がはってあります。「五月雨を集めて早し最上川」これです。たったこれだけの字ずらで岸辺の新緑が浮かんでくるではありませんか。木々のそよぎが感じ取るではありませんか。清々しい気持ちにさせられるではありませんか。「荒海や佐渡に横たう天の河」芭蕉ですが実に雄大な句です。実際に佐渡汽船に乗っていて体感しました。

 自分には句創りの才能は全くないけれど、今年は少し、頑張って見ようか、と気持ちを新たにしています。

 

2019年1月4日          不公平

 「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった。夜の底が、、、」川端康成の「雪国」の書き出しです。越後湯沢温泉の芸者駒子と小説家島村の物語です。映画にもなりました。岸恵子が駒子役をやりました。映画の中で駒子は島村のために、あの長唄三味線勧進帳を弾きました。実際に全曲を演じたのです。聴きほれました。

 上越線の水上から湯沢まで、今は新幹線でアッという間に着いてしまいますが、昔は大変でした。蒸気機関車は喘ぎながらループ式線路をある高さまで登りつめます。ループ式とは螺旋を描いて登ることをいいます。車窓から登ってきた線路を遥か下に見ることができました。谷川岳の真下の駅「土合」に一時停車するといよいよ三国山脈のどてっぱらに開けられた清水トンネルに入ります。車内に煙が充満して息苦しくなったのを昨日のように覚えています。トンネルの出口の駅が土樽です。土樽山の家には高波五作さんという髭の山案内人がいました。高校生の時、長野の清水さんの山行きグループに入れて貰っていた私は、この五作さんの案内で何度も上越の山々を歩く幸運に恵まれました。三国山脈の平標、仙の倉、谷川トマの耳、芝倉までの縦走。越後駒、八海山、仲の岳、兎岳、、、

 私が新潟県全県を仕事で担当したころは、上越線は電化されていました。上野発の「特急Ⅰトキ」が7時「2トキ」が8時でした。積雪期に新潟入りをするのは気が重かったのを昨日のように覚えています。雪の中、毎朝新聞を配達する並大抵ではない販売店のご苦労が、自分のことのように思えていたからです。そして、一仕事終えて再び「トキ」に乗って帰ってくるときは、清水トンネルを抜けると関東平野は連日上天気です。「何て不公平なんだ!」といつも思いました。

 新潟県は横に広く、市振から親不知まで400キロはあります。新潟市や柏崎市など日本海側に近い都市では余り積雪はありません。しかし、山に近くなりにつれ、積雪量は倍増します。最も多いのは越後川口から十日町までの間でしょうか。いつも話題になるのはその中間に位置する津南です。高田も新井も積雪では有名です。「雁木に映える町並み明かり、、、」という「高田の四季」という有名な歌がありますが、実際に高田に泊まって雁木の中で酒を飲んでいても明日のことが思いやられて気もそぞろでした。

 今日は1月の4日です。元日からの4日間、東京は何という暖かな快晴に恵まれていることでしょう! 天気予報によれば新潟県は言うに及ばず、青森から金沢まで豪雪に見舞われているらしいこと。

 何んて不公平なんだ! と改めて言いたいです。 

 

2019年1月2日          ウイーンフィル

 昨晩はNHK第二放送でウインフィルによる「ニューイヤーコンサート」を聴きました。これは毎年の楽しみで、何時かはウイーンへ行って生で聴きたいと思っています。ティーレマンという今年の指揮者は評判通り絶妙な指揮振りを披露しました。大袈裟に腕を振ることなく、敢て言えば指先だけでカソケキ絶妙な音を引き出していました。

 指揮者といえば、病状が危ぶまれていた小沢征爾が奇跡的に回復し、元日の読売新聞で薀蓄を披露していました。小沢もかつてこのコンサートを指揮しましたが、その時は全て暗譜でした。何よりも驚いたのは10年以上前の松本サイトウキネンの時です。「マタイ受難曲全曲」を小沢は暗譜で指揮しました。スコアは彼の前にあることはありました。しかし、一度もめくられませんでした。その時のテナーはウイーンから来た背の小さい障害者でした。美声の持ち主でした。翌年、たまたま行ったウイーンの街角でそのテナー歌手に会いました。英語で話しかけると、彼も喜んで近くのカフェに寄ってしばし松本サイトウキネンの話が出来ました。ウイーンへは二度行きましたがその度に空っぽの楽友協会ホールを覗いています。今年も超満員でしたが、いつもはかなりの人数の日本人の顔があるのに、今年は余り見かけませんでした。替わりに韓国の元国連事務総長パンギブンの顔がありました。

 恒例になっている締めくくりの「ラデツキー行進曲」、一緒になって手拍子を打ったのは言うまでもありません。

 

2019年1月1日        新聞販売網崩壊が始まっている

 新しい年となりました。さしたる感慨を持って迎えたわけではありませんが、初日の出を見ると、だらけている気持ちがシャンとなります。思い立って、近所の新聞販売店を覗いて各紙の朝刊を求めに行きました。この習慣は30年も50年も続いていたのですが、5年ほど前から止めていました。

 毎日新聞、東京新聞の複合店は荒れ放題で販売店のテイをなしていませんでした。サンケイ新聞店はクローズになっていました。読売新聞店もひっそりしていました。僅かに、日経専売店だけに活気がありました。共通して気になったのは各紙とも別刷りが僅かになり、折込も激減していたことです。

 紙による情報伝達は15年ほど前から退潮しはじめ、いまは留まるところを知りません。5年ほど前までは電車の一車両に新聞を手にする者が二、三人は居たのに、今は「一編成車両に私一人だけが新聞を手にしている」、そして10人が10人とも「スマホ、スマホ、スマホ、、、」です。

 加えて、好転する兆しが一向に見えないため、新聞の屋台骨を支えている販売所長たちが、次々に廃業する噂が耳に届き始めました。主として朝日新聞の販売網の強化に、半ば半生を費やしてきた私にとってこれ以上辛いことはありません。15年ほど前「販売網を崩壊させるな」という大論文を自費出版しました。といってもインターネットによるオンデマンド出版で、アクセスして貰えばダウンロードして読める、という形式をとりました。100部程は製本して、中江社長を始め関係者に送付させてもらいました。いち早く、新潮社から引き合いがしつこく入りましたが、丁寧にお断りしました。 何故なら、新聞関係者だけに知って貰えればいいことだったからです。どこから聞いたか読売新聞の社長室、読売西部本社などからも注文がありました。しかし、時の流れは如何ともしがたく、予想以上の速さで新聞販売網は瓦解し始めました。サンケイ、毎日には販売網と言える組織は既に無くなっています。ブロック紙、地方紙とて同じです。アメリカに始まった新聞の崩壊は、日本の全国紙も地方紙にも及んでしまいました。

「たかが新聞配達網ではないか」と言うなかれ。新聞販売網というのは、私に言わせれば社会的文化遺産に等しい貴重なものなのです。日本国のこれまでの発展、繁栄は、新聞の宅配網のお蔭で齎されたものでなくて何でしう。スマホやパソコンの小さな液晶画面は、成程、速報性には優れているかもしれません。しかし、人間をして思考し、選択し、ことの重要性に思いを致すことに寄与しているでしょうか? 新聞の紙面や雑誌を大きく広げてこそ、ニュースの大きさが分かり、識者の論評があってこそ、事件の大小や重大性が分るのではないでしょうか。紙の文化があったればこそ、日本はここまでの発展してこれたのではないでしょうか?

 新年早々、怒りと愚痴をぶちまけるブログになってしまったことをお許し下さい。

 

2018年12月27日      イスラエルへ行きます

 イスラエルの首都イエルサレムの旧市街の一郭に「嘆きの壁」があります。約1キロ四方の市街はイスラム地区、ユダヤ地区、キリスト地区にサイゼンと別れているそうです。金曜日は朝から大音響でクラーンを朗読するアザーンが鳴り響き、イスラム教徒が犇めきあいます。土曜日は山高帽に独特の黒装束のユダヤ教徒で広場は埋め尽くされます。そして、日曜日はキリスト教徒の大集合です。嘆きの壁の隙間には夥しい祈りの文句が記された紙の切れ端で埋まります。お金を取って壁の高い位置の隙間に祈りの紙を差し汲む商売も繁盛しているとか。

 ガリラ湖では世界各地から押し寄せたキリスト教信者で埋まり、白装束に着替えて、それ相当のお金を払って水に浸かる人々が引きも切らないとか。中には、感動の余り奇声を発したり、泣き出したり、半狂乱になったりする者が後を絶たないとか。

 テレアビブの空港は検査が厳しく、独り15分は覚悟しなければならないと云われています。世界の殆どの空港は出発3時間前であれば十分すぎるのに、イスラエルでは4時間が普通だそうです。

 そのイスラエルへ来年1月31日から2月10日まで、「私が」行けることになりました。北海道の出身で現在はシンガポールの日本人教会の牧師を務める松本先生が主催するイスラエル訪問団一行にチェンマイ組四人が参加を許されたのです。四人は31日夜8時チェンマイ発でバンコックに向かい、0時30分到着のシンガポール発テレアビブ行きに乗せてもらいます。テレアビブ着は午前6時ごろ。

 長い間、待ち望んでいたイスラエル行きが旬日ならずして現実のものとなる! 果たしてどんな旅が待っているのか? 期待で胸が膨らみます。        

 

2018年12月22日          年賀状

 「年賀状は22日までに投函しないと元日に着かない」らしいので大童で年賀状と取り組んでいます。背景の写真をどうするか、が毎年の悩みの種です。考えた末に、来年の1月31日から2月10日まで予定されているイスラエル行きがあるので、イスラエルの街を選びました。印刷の添え書きもそれらしくしました。

 大昔は大変でしたが、今は「筆グルメ」という便利なソフトがあります。バージョンアップしましたら、すこぶるいいものが出現しました。絞りに絞って約300枚、明後日までにはすべて投函出来そうです。年賀状というのは妙なもので、ひと言の添え書きがないと見る気が失せます。印刷だけのものは実に味気がない。だから、決まり文句ではあっても必ず添え書きをしています。それがまた楽しい作業となります。有りし日の、その方との交流を思い浮かべながら一言書き添える、面倒な作業ではあっても得難い時間です。学生新聞社の社長だったころ、年賀状は2600枚を超えました。取引販売店が全国に及んでいたからです。大変だったけれど、そのすべてに添え書きをしたことが懐かしく思い出されます。これからは減りこそすれ増えることはないでしょう。

 年賀状は年一回の儀礼的な慣習です。でも、そこに人と人との交流を一期一会に終わらせない人生の妙が潜んでいるように思えてなりません。再び会いまみえることはおそらくない、と分かっていても、お互いが共有した時間を懐かしむ、お互いが共有した時間があってこその現在という存在、一枚のハガキにそれが託される、だから、年賀状は有難い存在と思えるのです。

 

2018年12月14日                 泉岳寺

 十二月の囲碁の会は、たまたま14日でした。会場の川崎駅前へ行くには、大江戸線で大門浜松町、そこから京浜急行に乗り換えます。江戸時代、吉良邸討ち入りを果たした赤穂四十七士のお墓のある泉岳寺駅は品川の一つ手前です。

 いままで幾度か泉岳寺参りをしてきましたが、討ち入りのあった十二月十四日は初めてです。囲碁会がはねてからの六時頃でしたが、泉岳寺に詣でました。予想以上に境内は賑わっていました。討ち入りから切腹以後、百年以上経っているにも拘わらず、線香の煙が立っていない日はない、と云われていますが、境内の一郭を占めているお墓には行列が出来ていました。

 大石内蔵助(享年45歳)、彼の長男大石主税(16歳)、片岡源五(37歳)、纏め役だった原惣右衛門(56歳)、77歳の義理の親父堀部弥兵衛を助けながらの堀部安兵衛(34歳)、最も活躍したと云われている不破数右衛門(34歳)、吉良邸の絵図面を手に入れた岡野金右衛門(24歳)、大高源吾(32歳)、神崎与五郎(38歳)、、、、、

 どのお墓にも線香が溢れていました。私も好きですが、日本人はこの事件が、心底、好きなのだ、という思いを新たにしました。寒い夜でしたから一杯の甘酒を買って境内で休みました。見上げると月が煌々と照っていました。内蔵助の辞世の歌が思い出されました、

 あら楽や思いは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし

お気軽に
お問合せください

お電話でのお問合せ・相談予約

03-3998-4086