最近のエッセイ(17)

2015年5月6日        禁止令

 一昨日、久方ぶりに小岩の街を歩いてみました。総武線小岩駅の南側は、一大歓楽街でした。江戸川を渡ると千葉県の市川です。川に沿って柴又街道が葛飾の奥まで通じています。柴又は映画「寅さん」で一躍有名になりました。川甚、川千家といううなぎ専門の料理屋さんがあって、現役の頃、どれだけお世話になったことか。新聞の購読では、江東6区は読売新聞が強く、朝日は苦戦を強いられていました。でも、60人ほどいた所長さんたちは、みな若くて、元気そのもの、初めて正担当員になった私を盛り立ててくれました。自転車に乗って小岩の全区域を見て回った記憶が鮮明です。恐ろしいほど活気のある街でした。

 その街がどうでしょう、連休中とはいえ、シャッター街になっているのです。その変貌ぶりには目を瞠ってしまいました。街の郊外に林立する大型店舗のお蔭で、小売業が成り立たなくなり、廃業に追い込まれていく傾向は、全国、至る所の町で見られる現象ですが、「小岩よ、お前もか」と思わず唸ってしまいました。

 一昨日小岩に呼ばれたのは、次男の嫁の真弓さんの実家が60年続いた小岩の生鮮食料品店でしたが、3月一杯で店を閉じたこと、真弓さんのお父さんが今年喜寿を迎えたこと、そのお祝いも兼ねて中華料理屋さんで宴をはることになったためです。孫たちからお祝いの言葉をもらって、お父さんは嬉しそうでしたが、一抹の寂しさも伺えました。「もう少しやりたかった、せめてあと2年、80歳まではやりたかった」と挨拶しました。それを聞いていた中華料理屋さんの女将さんが「ウチも今月一杯で店を閉じるのです」と言いました。こんな美味しい料理を出す店も、時代の波には勝てないのかとシミジミ思ってしまいました。

 さて、これからが本論です。小岩の駅前周辺を歩いていて最も感じたのは、お城のような壮大にして豪華な建物が目立って建っていることです。入り口はホテルまがいに瀟洒です。中を覗くと、どこも同じように数百台のパチンコの機械が並んでいました。北口だけで3軒ありました。小岩の商店街はシャッター街になっているのに、パチンコ店だけが栄えているのです。庶民の富は商店街には落ちず、パチンコ店に流れている流通の実態がそこにありました。

 この傾向は、全国、何処の町へ行っても見られます。私の町、練馬の中村橋にも、3軒のパチンコ店があります。新宿、池袋などの繁華街のパチンコ店は言うに及ばず、どこの街のパチンコ屋も豪華絢爛です。沖縄の高速道路に乗って石川インターで降りたら、宮殿のような建物がありました。500台は超える駐車スペースがありました。パチンコ屋でした。コンビニの一軒すらない伊豆大島にもパチンコ屋がありました。どのパチンコ屋も盛況です。ということは、一般庶民がそこで金を落としているからでありましよう。

 パチンコに嵌ると、ナケナシの生活費さえ使ってしまう、と良く言われます。業者が巧妙に仕掛ける罠に嵌ってしまうからです。

 調べてみると、ギャンブル依存症になっている日本国民の数は、500万人を超えるそうです。生活保護費すら使ってしまう強度の依存症患者もいるとか。

 ギャンブル依存症は、これは、明らかな病気です。全治することの稀な、極めて性悪な病気です。よしんば、立ち直ることができても、それは一時だけでしかないようです。しかも、特筆すべきは、パチンコ屋が弱者から搾り取った莫大な金が、日本社会に還元されている、とは言えないことです。何故なら、パチンコ店の経営者のほとんどが、韓国系、北朝鮮系の人たちばかりだからです。ならば、韓国や北朝鮮はパチンコ産業は隆盛でしょうか? とんでもない、完全な禁止です。彼らの祖国はパチンコを罪悪としています。それは中国も同じです。ラオスも、ベトナムも、タイも、ミャンマーも、カンボジアも、インドネシアも、マレーシアも、シンガポールもパチンコ屋など一軒たりともありません。アジアのみならず全世界はパチンコを「悪」とみなし、国家が禁止しているのです。

 日本社会はこの現実を知りながら放置しています。国家は全くのわれ関せずの態度をとり続けています。その背景にあるのは警察とパチンコ業界の癒着の構図です。警察官の天下り先が、パチンコ業界であるのは戦後からの既成事実になっているからです。パチンコ依存症を重症の病気と知りながら、放置し続けている日本の警察は、何たる怠慢を重ねているのでしょうか。15,6年前、長野警察署長だった高校の同窓生から「今度、こうなった」と渡された名刺は「長野県パチンコ遊戯組合相談役」とありました。こういう構図が出来上がってしまっている以上、パチンコ業者は更に付け上がり、あの手、この手を使って善良にしてか弱い日本国民の一部を食い物にしているのです。

 調べてみると、現在分かっている500万人のパチンコ依存症患者は、更に増え続けるようです。殊に、一般家庭の主婦が多くなっていること、20歳以下の若者や一般学生が多くなったことが特長のようです。なぜ、若者が多くなったか? それは、パチンコ店の従業員を、いわゆる美人のオネエサンや美少女にしていることにも原因がある、といわれています。

 日本は、韓国や北朝鮮の巧妙極まる仕掛けによって、戦わずして既に敗北を喫していると言っていいのではないでしょうか。二年間の兵役を義務としている韓国や、国民皆兵の北朝鮮に、パチンコでフヤケタ日本の若者が立ち向かったところで、敵う訳がないではありませんか。政治はそれに早く気付いて「アジアの他の国と同様、日本もパチンコは禁止」にすべきです。 

 

2015年5月2日         お米

 私は、お米に関しては煩い方だと思います。いつも、美味しいお米を食べていたい、そう思っている一人です。仕事柄、私の半生は出張の連続でした。出張先で数々のお米に出会いました。後年、東南アジアのほとんどの地域を旅するに及んで、各地のお米のお世話になりましたが、その土地の評価は、お米が旨いか不味いかも関係しました。日本人は自分たちが生産するインデイカ米こそがお米だと自負していますが、どうして、どうして、東南アジアには、日本より旨いお米が沢山あります。しかも、廉価です。TPP交渉で、日本が米の関税撤廃に慎重であるのも、その辺に理由があります。しかし、我々消費者にとってみれば、世界の安くて旨い米が入ってくるのは歓迎ものです。日本の米作農家は、農業従事者の高齢化を理由に、国家保護に甘えている、と言っていいでしょう。

 現役の時、新潟県を二年ほど担当しましたので、コシヒカリとはうんざりするほどお付き合いしました。魚沼郡産のものなどは確かに粒は立って、一瞬、高雅な味がします。でも、それだけです。東南アジアのお米のような、噛みしめていて7色に変化する趣はありません。その魚沼産コヒヒカリが、今や、日本一の銘柄米だというのですから、これは全く、畏れ入谷の鬼子母神です。

 秋田の大潟村が力を入れたのはアキタコマチでした。山形と宮城が力を入れたのはササニシキでした。負けじと長野県が開発したのがミルキークインです。北海道もユメピリカ、ナナツボシで対抗します。いま、一番の人気は山形の〈つや姫〉でしょうか。この一年余り、私もこのお姫様の御厄介になっています。

 私が心底「旨いお米だなあ」と体感した最初は沖縄です。今帰仁の「大家」という料理屋さんで出されたお米でした。次に、ミヤンマーのヤンゴンのホテルでインドカレーと共に出された、所謂、外米でした。次に、タイで食べたもち米とインデイカ米をミックスして炊いたご飯です。すべて南国のお米です。太陽の光を十分に浴びたお米です。香りが違うのです。味に変化があるのです。少量の塩だけで十分に美味しいのです。

 そのお米が本当に美味しいかどうか、鑑定する方法をお教えいたしましょう。先ず小さな湯呑一杯のお米を洗い、湯呑15杯分の水を加えてとろ火で煮ます。数時間後、お粥の出来上がりです。少量の岩塩、一滴のごま油を加えます。お米の旨さの神髄が現れます。千葉のお米、茨城のお米でこれをやると、落第になります。

 極く最近、魚沼産コヒヒカリ5キロ入りのものが4袋、つまり20キロがデパートの三越から我が家に送られてきました。盆暮れになると、その方はチョイス式のカタログを送って下さるのです。大したお世話をしたわけでもないのに、私を恩人と思ってずっと好意を寄せて下さるのです。もう、30年も続いています。有難いことです。

 今回チョイスしたのが魚沼産コシヒカリでした。三越から送られてきたコシヒカリは立派な袋に入っていました。だが、粒は小粒です。普通の水加減で炊いたらベチャベチャになりました。味がありません、香りもありません。新潟県を担当した私にとって、この米がコシヒカリならクズ米に等しいという鑑定です。古古米の再生品か、魚沼郡のどこか陽の当たらない路地裏で出来たものに違いありません。試しに、タイから大事に持ち帰ったインデイカ米ともち米をミックスした一件を炊いてみました。その香りは、キッチンはおろか家中に立ち込めました。そして、その味わいの深いことといったら……

 さて、20キロのお米をどうしたものか、魚沼産といえども、不味いお米は食べる気になれないのです。我ながら、自分のお米フェチに呆れています。

 

2015年5月1日       麗しき5月

 シューマンの歌曲集「女の愛と生涯」の中に〈麗しき5月〉という短い曲があります。たった4フレーズの繰り返しですが、これが誠に心に沁みます。毎日ピアノに向かうと、先ず、この曲を最初に弾きます。5月の美しさと喜びが身体中に溢れます。

 4月末から5月上旬にかけてのいまが、季節が最も輝く時ではないでしょうか。梅は小さな実を付け、桜は葉桜になったけれど、新緑が目に眩しすぎます。裏の垣根ではジャスミンが満開です。隣りとの境が駐車場のため、陽がよく当たるせいか、ジャスミンはここぞとばかり咲き誇り、芳香を放っています。紫つゆ草もそれに負けじ、と可憐な花を咲かせています。この花は夕方になるとつぼむから面白い。目白通りの両脇は躑躅で一杯。光が丘へ買い物に出かけると、はなみずきのトンネルです。

 昨日の安倍総理の演説に対する賛否両論が、朝刊を賑わしていました。アメリカの大学教授の両論も掲載されています。中国や韓国に対する配慮にかけていたのでは、という見方が両論の中の共通の指摘でありました。私としては我が意を得た思いでした。

 5月だからよかったのです。雪と寒波に閉ざされた中での演説でなかったから良かったのです。「希望」というフレーズで締めくくった演説が生きたのです。日本人もアメリカ人も、この季節に暗い思いをしたくありませんもの。

 

2015年4月30日      ケシカラン

 アメリカの上院下院合同議会で、安倍総理が演説しました。しかも、英語でやりました。その全文が朝刊に載っています。なかなかのものです。議会での演説は、彼の祖父であった岸信介以来だそうで、こういう厚遇を見せる背景に、アメリカの焦りが見え隠れします。何故なら、中国が提起したAIIBに、アメリカが自分の子分だとしていた自由主義諸国の、日本を除いたほとんどの主要国が行ってしまったからです。

 岸信介もいわば「向米一辺倒」でした。その結果、安保闘争が起きました。「安全保障条約」の締結に反対するデモは、燎原之火のごとく日本国中に広がりました。当時、早稲田の学生だった私もデモに参加しました。樺美智子さんが犠牲になりました。デモは更に激化しました。

 いま、歴史は繰り返されつつあります。安倍晋三以下自民党は、国民の理解はおろか、国会での議論や承認を得ないまま、日本が、アメリカがこれからするであろう戦争に加担出来る国になることを表明してしまいました。向米一辺倒の繰り返しです。完全な安倍晋三の恣意行為であります。

 国民はどうしたのですか? 学生たちは何故反応しないのですか? 世間は、これを大人しく見守るだけなのですか? デモは、何故、起きないのですか?

 私は、つくづく日本人の腰抜けぶりがイヤになりました。戦好きの長州人の越権行為を阻止できない国会の無機能ぶりがイヤになりました。

 歴史的に見れば、安保条約は締結されたものの、向米一辺倒ではいけない、という姿勢に舵が切られ、韓国、中国との交流が深まり、経済も文化も社会制度も飛躍的発展を遂げることが出来たのです。ところが、今はどうですか。韓国と中国とは互いに敵視する政策に終始しているではありませんか。

 日本が、真に、向き合わねばねばならないのは、アメリカではなく、中国や韓国なのです。両国が、かつてのように日本に親しみを感じ、互いに協力する体制をとってこそ、日本の将来があるのです。30万人の南京虐殺や、20万人の慰安婦問題は、数字に大きな誇張があるにしても、実際にあったことは事実なのですから、相手がそれを持ち出さなくなるまで、謝り続けていいのです。

 曽野綾子は「謝るのは当事者同士に限られ、遠い過去のことを現在の人間が謝り続ける必要はない」と言っています。一方、村上春樹は「相手がそれを言わなくなるまで、謝り続けて当然じゃないの」 と言っています。

 今回の安倍演説に欠けていたのは、侵略と慰安婦の文字です。メンツなどはかなぐり捨て「侵略を認めて謝り」「慰安婦でご迷惑をかけた」とやったら、ケシカラン演説であっても厚みを増したのではないでしょうか。

 

2015年4月29日      愛の具現者佐藤彰夫妻

 福島県浜通り大熊町は、4基の原発のある双葉町の隣町です。6年ほで前に、その町に瀟洒で小奇麗な教会が建ちました。同じ浜通りの小高にお住まいの、半谷さんと仰る熱心なクリスチャンのお蔭もありました。大野町の教会に、まだ若かった佐藤牧師を選び、赴任させたのも半谷さんでした。半谷さんは小さな町である小高にも教会を建て、佐藤牧師はその教会の牧師も兼ねていました。

 佐藤彰牧師の生まれは山形です。日本福祉大学を卒業しています。でも、母親が浜通りの夜ノ森町の出であったことから、その後入った神学校で、半谷さんから選ばれ、浜通りの小さな町の牧師になることに、さして、抵抗を感じなかったようです。

 もし、4年前の双葉原発のメルトダウンが無かったら、佐藤牧師夫妻は、小さな町の小奇麗で瀟洒な教会の、平穏な牧師夫妻であったでしょう。

 3月11日、事情は一変します。即刻、60人の教会員を連れて先ず、山形へ逃げます。食べるものも、着るものも、寝るところもない、悲惨な生活が始まります。一行はその後、奥多摩にあるキャンプ場に移動します。ようやく寝る場所の確保だけは出来たのですが、60人にもなった団体生活は、筆舌に尽くしがたい苦労の連続だったようです。しかし、奥多摩の人たちは彼らを援けます。7人の転校生を受け入れた奥多摩の学校の校長先生は「彼らの応援団長は私であります。仲良くしなかったら、私が承知しませんよ」と全校生徒に告げたそうです。2年後、別れの時がやってきました。その模様はテレビでも放映され、感動を呼びました。

 佐藤牧師夫妻の凄いところは、2年の間に、福島いわき市泉駅そばに新しい教会を設立し、しかも、60人の住処まで確保してしまったところにあります。流浪の教会に対する同情は世界中に及び、多大の寄付があったようです、旧大野教会の補償金もあったでしょう。夫妻はそれらすべてを注ぎ込み、30台以上の駐車スペースを持つ堂々たる教会を建ててしまいました。教会の全容は翼の両翼を広げ、大野町に向かって今にも飛び立ちそうな鳥の恰好をしています。礼拝堂は200人は収容できるでしょう。寄付されたヤマハC7のグランドピアノ、奏楽用のオルガンも置かれています。中央は十字架とバプテスマ用の白い水槽がガラス越しに見えます。なぜなら、福島第一バプテスト教会だからです。礼拝室の隣は食堂です。その隣はキッチンです。200円払って全員でお昼ごはんをいただきます。裏には納骨室もありました。3〜4人は泊まれる個室もありました。

 100人ほどの礼拝は、先ず、笑顔で隣りの人と挨拶することから始まります。聖書は全員で音読します。日本基督教団所属教会などではやらないことです。讃美歌や聖歌はピアノの他に管楽器や小型の打楽器が入ります。でも、アメリカの教会のように、踊ったり、手を振ったり、奇声を張り上げたり、トランス状態に巻き込んだりすることはありません。佐藤牧師の説教は、それは、それは見事でした。笑いを随所に入れます。しかも、心の琴線に触れる1か所を必ず入れます。人を逸らさない話術です。特筆すべきは、自分達の境遇に対する愚痴を一切言わないことです。都合二回に亘って比較的長い時間、ご夫妻と話が出来ましたが、東電や政府や自治体に対する恨みがましい言辞は、それこそ一言半句もありませんでした。すべてをあるがままに受け入れ、それを努力して乗り越えようとする姿勢には、正直、神々しささえ感じました。

 佐藤夫妻が著している本は数十冊に及びます。ビデオや映像にも、その来し方が写し撮られています。それらの詳細は「佐藤彰」のウイキペデアから窺い知ることが出来ます。私が佐藤牧師にお目にかかれるようになったのは、Hさんのお蔭です。チェンマイの日本語教会牧師、野尻先生ご夫妻にお会いできるようになったのもそうです。Hさんは一時大熊町にお住まいになり、佐藤牧師によって受洗されています。羨ましい限りです。

 

2015年4月28日      老舗の変容

 日比谷線人形町駅の階段を上りきった数軒先に、軍鶏料理屋「玉ひで」があります。数十年前のある日、その料理屋の7代目に当たる山田さんご夫妻が、朝日新聞社に怒鳴り込んで来ました。

 当時、都内版に「東京美味いもの店」の連載記事がありました。Yという記者ほか一名が評判の店を尋ね、実際に食べた感想を記事にするのです。あろうことか、玉ひで名物の親子丼を「この店の親子丼には玉ねぎが入っていないからダメ、正式の親子丼ではない」ときめつけてしまいました。

 当時、読者の苦情を専門に扱う広報室など社内になく、編集庶務部と、販売宣伝部の苦情処理係が僅かに対応するだけでした。編集庶務は逃げてしまいました。記者がそう感じたのだから仕方が無い、というのです。矢面に立たされたのが宣伝部の責任者であった私です。何度も謝りに伺いましたが、山田さん夫妻の怒りは凄まじく、7代続いたのれんに傷がついたと、なかなか許してくれません。

 一計を案じた私は、当時昵懇にしていたテレビ朝日の宣伝部長に話を持ち込んで、「玉ひで」の厨房をテレビで扱ってもらいました。この店は長野の湯田中に独自の軍鶏の飼育場を持っている、卵も軍鶏のものを使っている、7代続いた秘伝のタレを使っている、玉ねぎを使っては、軍鶏の味と卵の味が損なわれることなどなど、解説付きで放映されました。ユキヒラ鍋に軍鶏肉が入り、溶き卵が三回に分けて注ぎ込まれ、その熱々の親子丼を、この店特製の木製のスプーンで掻き込む人々の幸せそうな映像が流されるに及んで、私は「してやったり」とほくそ笑みました。

 案の定、昼飯時になると、「玉ひで」は行列の絶えない名物店になりました。ようやくご夫妻の怒りも溶け、特に女将さんとは同じ長野県の北信出身でもあって、昵懇の間柄となりました。それからというもの、新年会、忘年会、歓送迎会など、どれだけお世話になったことでしょう。

 昨日、約15年振りに、昼席の予約をとって、相棒宮沢君をいれて4人で「玉ひで」へ行ってまいりました。夜のコースは昔は6500円だったのに今は1万円以上だそうで、昼のコースは5500円とのこと。宮沢君はカロリー制限中なので、特に3300円のコースにしてもらいました。先ず、宮沢君のお盆が置かれました。軍鶏のスープの入ったそばつゆで使う小鉢と、鳥そぼろの小さな小鉢と、漬物の小皿と、オレンジ二切れ、そして蓋つきの木鉢に入った親子丼、それに、スプーン。

 仲居さんに、「これで3300円か」と問うと「そうです」と言うではありませんか。「カチーン」ときました。しかも、親子丼は階下の食堂で行列の人が食べているものと同じです。昔は680円でしたが、今は1000円は超えるにしても、これだけで3300円はいただけません。「なぜ、こんなに高いの」と聞くと、「座敷の部屋代が入っています」という返事に、更に呆れました。軍鶏のスープには、昔そうであった旨味などありません。親子丼に侘しげに入っていた軍鶏肉に味がありません。何より、卵にテカリも、濃厚な旨味も、秘伝だったタレの香りもありませんでした。

 女将さんと話したくなり、電話番号を聞こうとしました。「お教えすることは出来ません」というので更に「カチーン」ときました。更に、2時間ほどたったとき、「時間になりました、お帰り下さい」と言われる始末。

 場所を替えて、皆でお茶を飲んでいる間に、私だけ女将さんの実の娘がやっている近く店へ行きました。両親が朝日新聞に怒鳴り込んだ時、私はまだ小さかったけれど、良く覚えています。母はいま認知症が進んで電話口にも出られない状況です。湯田中の軍鶏飼育場は兄の一存でとっくに閉鎖しました。昔の味は、今のひとには合わないと、兄が勝手に代えてしまいました。夜のお客さまも少なくなり私は心配でたまりません、とのことでありました。そうだろうと思いました。

〈老舗が老舗であるためには、変容してはならない〉と私は思います。何となれば、人間の味覚に変容はないからです。 

 

2015年4月23日      光太郎、智恵子

 福島県二本松の造り酒屋「花霞」の8人姉妹の長女に生まれた長沼智恵子は、地元の女学校卒業後、日本女子大に合格し、入学を果たします。才媛でありました。洋画を志し、画学生仲間であった高村光太郎と恋におち、激しい恋愛期間を経て結婚します。光太郎の父は彫刻家高村光雲です。光太郎も彫刻家であると同時に詩人でした。

 戦後間もなく出版された詩集「智恵子抄」は、爆発的人気を得て、当時のベストセラーになります。

 〈あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川……〉
 〈 智恵子は、東京には空がないという……〉

 争って、それらの詩を諳んじた記憶が鮮明です。確か、智恵子抄の初版本が私の書架に在る筈です。

 二本松の霞が城の桜を見た後、智恵子の生家を訪れました。小さな記念館も出来ていました。生前の写真と彼女が創った数々の切り絵が展示されていました。彼女は結婚してしばらくの後、精神病を発症し、病院を転々とするのですが、1938年62歳で粟粒性結核によって亡くなります。驚いたことに、その間に、千数百枚の切り絵を製作しています。よく、「天才と狂人、紙一重」などと言われますが、俗人の感覚では遠く及ばない色の配列、そして造形が見え隠れしていました。画学生の頃のデッサンも展示されていました。失礼ながら、そこに描かれている線は凡庸でした。ところが、同時に展示されていた彼女の筆墨で書かれた巻紙の手紙には、踊るような美しい線が羅列されていました。美さえ宿っているといえる仮名文字なのです。安田某に宛てた、「ちえ」と署名された手紙なのですが、その見事さには、痺れてしまいました。統合失調症の痕跡など、微塵も感じさせない美しい筆の捌きです。

 一方、高村光太郎が智恵子に宛てた手紙もありました。なんと、その字が稚拙であったことか! 仮名釘流の手本を髣髴とさせる、いわば、汚い線の羅列でした。ところが、光太郎が描いた智恵子の裸婦像のデッサンを視て、あっと驚きました。実に美しい線なのです。智恵子の背中にあるホクロを中心に描いたデッサンでは、艶めかしささえ漂い、美しさが匂ってくるようなデッサンの極致がありました。

 私は納得しました。表現における「線」に於いて、全く違った線質を持つ同志であったからこそ、光太郎と智恵子は、互いに溶け合うことができたのだ、と納得したのです。自分にないものを相手に見つけ、互いに補い合うところに「愛」が結実するのではないでしょうか。

 

2015年4月21日       三春の桜

 福島県郡山から20キロほど入った山間の里が三春です。ここの枝垂桜が余りにも有名です。樹齢1000年を超えるとかで、天然記念物にもなっています。福島県を5年間も担当したのですから、その気になれば行って観れたのでしょうが、当時は「部数、部数」で桜など眼中にありませんでした。人生も終着駅が近くなり、改めて福島県に行って見て、この県には至る所に桜の名所があることに気付きました。

 今回、見て回ったところは、先ず、白河の妙関寺の乙女桜です。伊達正宗の頃から咲いています。古寺と見事に調和していました。郡山開成山のソメイヨシノです。平中央公園の桜です。両方とも市民に親しまれています。二本松の霞が城公園の桜です。円東寺の枝垂桜です。本宮蛇の鼻公園の桜です……

 会津若松城の桜は少し遅れます。奥会津では5月5日頃満開となります。学生の頃、群馬県側から尾瀬に入って、至仏山、燧ケ岳に登り、福島県側の桧枝岐へ降りてきたことがあります。桧枝岐の入り口付近で数本の山桜の巨木と出会いました。満開でした。その日が50年前の5月5日でした。はっきり覚えています。

 天然記念物三春の滝桜は、見物人でごった返していました。数十軒の屋台には人が溢れています。こうなると観る気がしなくなります。しかも、山の斜面に根を張っているこの大木には、添え木が当てられていました。添え木の数は10本にもなっていました。ご苦労なことです。

 観光案内所に示唆されて、水芭蕉の咲いている寺にも行きました。尾瀬の水芭蕉を髣髴とさせていました。カタクリの花の群生地へも行ってみました。数年前、秋田へ行って角館の桜を見たとき、ついでに、カタクリの群生地にも寄りましたが、それ以来です。

 滝桜ほどの大きさでなくても、枝垂桜は三春の町の至る所に咲いています。お寺の数も多く、そこも、桜、桜、桜でした。恐らく、桜の数では三春町が福島県一ではないでしょうか。圧巻は芥川受賞作家、玄侑宗久さんが住職の福衆寺でした。それは見事な枝垂桜がありました。見とれていると、たまたま、郵便配達の人が来て住居のベルを押しました。「もしかして」と思っていると、扉が開いて、僧服姿の玄侑宗久さん本人が現れ、郵便物を受け取りながら私に気づき、極く自然に「今日は」と挨拶するではありませんか。慌てて「桜が見事ですね」と言いました。ニッコリしながら宗久さんは家の中へ入って行きました。たったそれだけですが、玄侑さんの本や対談集に目を通している私にとっては、嬉しい時となりました。以下の写真は玄侑さんのお寺の枝垂桜です。

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2015年4月20日      宮城県石巻

 常磐道は最近開通したせいか、車は疎らでした。原ノ町、鹿島、相馬、新地と100キロを超えるスピードで飛ばします。仙台平野に入り、亘理、名取、仙台空港入り口を通過します。低地であるため、津波による被害が大きかったところです。仙台空港では駐機していた航空機が流されました。空港ビルの二階以上に避難した人だけが助かりました。車が流され、人が流され、あらゆるものが津波で流される場面をテレビで見ました。石巻も、気仙沼もそうでした。今日はその現場へ行くのです。

 車を仙台のホテルに置いて、仙石線に乗って、途中の惨状を見ながら石巻へ行く積りでいました。ところが、仙石線は松島までは通じたものの、その先は未だ不通だというのです。小牛田で乗り換えれば石巻へ行けるのでしたが、それは余りの迂回です。再び車で走りだしました。石巻まで約50キロです。石巻手前の石巻港インターで降り、海岸線を走ります。春の海は穏やかでした。四年前の惨状を示すものは、海の上にはありませんでした。でも、この海の底には沢山の人が、いま尚、眠っているのです。瓦礫が堆積しているのです。車から降りて祈りを捧げました。石巻駅へ続く通りの両側は半分以上が空き地になっていました。通行人の小母さんに、「水は何処まできたのですか?」 と聞くと、「あそこまで来ました」と建物の一階と二階の分かれ目の辺を指差しました。有に2メートルは超えていました。「駅前通りにあった高砂新聞店はどうなっていますか?」 と問うと、「高台に移ったようです」という答えが返ってきました。東北信越担当の部長だった頃、石巻を訪店しました。面白いオジサンでしたが、10年ほど前、訃報に接しています。息子さんはしっかり者でしたから、きっと、お店は上手くいっているでしょう。

 石巻駅は建て替えられ、洒落た作りになっていました。駅の近くにドでかいオレンジ色のビルがあるので、良く見ると、何と、石巻市役所でした。有り余る復興資金のお蔭があるとしても、大いなる違和感を覚えました。

 再び、高速道に乗るため走っていると、沿道が賑やかになってきました。大型店舗が林立し、人の動きも活発です。つまり、町全体が海から離れよう、離れようとしていることが分かりました。

 大変な災害ではありましたが、石巻が蒙ったのは、いわば、自然災害です。津波は古来から何度もこの地を襲った筈です。それに反して、福島の浜通りに起こったのは明らかな人災です。石巻は自然災害を乗り越えて復活することができても、福島は半永久的に復活を果たすことが出来ません。恐ろしいほどの差がそこに在ります。同じ災害でも、質が全く違います。私たちは、そして地方自治体や国家は、そこの違いをはっきり認識して、対処しなければならないのです。

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2015年4月18日      夜ノ森町の桜

 国道6号線は福島県浜通りを貫通し、仙台に至り20号線となります。久ノ浜、竜田、広野辺りまでは人影をちらほら見かけましたが、その先に連なる富岡、夜ノ森、大野、双葉、浪江、桃内、小高は、高濃度の放射線量が残留しているため、立ち入り禁止区域です。原ノ町は、人影こそありはしましたが、昔の賑わいは全くありません。距離にして約50キロ間、人家や商店、小規模工場、スーパーなどが点在していても、ゴーストタウンになっています。

 6号線から脇道へ入ることは全く出来ませんでした。厳重に遮断されていて、防護服に身を固めた監視員がいます。沿道の人家の入り口ですら、鉄格子が張られていました。「線量0、2 〜 5、0」と表示された放射能線量表示盤は、湯本辺りの常磐道まではあったのですが、6号線では全く見かけませんでした。それなのに、何故か、夜ノ森町へ至る脇道へは入れたのです。この街の桜を見に訪れる人のための、イキな計らいとでも言うのでしょうが、国道を行きつ戻りつしながらも、ようやく、たった一つの道を探り当て、折から満開の桜並木のもとへ辿り着きました。

 約500メートルはある町の中心地の道路は、桜で覆われています。僅かに除染車が作業する音が聞こえるだけ、他には物音一つありません。街並みは全くの無人です。車を降りて歩き始めました。閉鎖された幼稚園がありました。教室の中を覗くと、子供たちが描いた絵が見えました。それを見た途端、心の底からの怒りと悲しみが襲ってきました。大声を上げて泣きました。咆哮しました。涙がとめどなく溢れて止まりません。その涙目で桜のひと房、ひと房を見上げました。こんなにも美しいものと、放射能汚染という人間が作り出した醜さの果てにあるものとが、これからも半永久的に混在しなければならない現実を思いました。涙は、更に溢れ出ました。

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2015年4月17日      不世出の朝日販売人

 販売店経営は決して大企業ではありませんが、大勢の従業員を扱うという意味では、卓越した人事管理を必要とします。福島県のいわき市平全域、郡山市の半分近くを経営していた西山昭平さんは、正に、不世出の経営者でした。部数を増やすこと、人材を育成することに情熱を燃やし続け、多いときには二十数人の経営者を県内、県外に排出しました。福島県が東京紙第一位であり続けているのも、この人の薫陶を受けた後輩たちが部数を守り続けているからでありましよう。

 私が販売局に入社し、担当助手社員としてカバンをもったのは千葉県が最初です。正担当は海野武さんでした。親分から命令が下りました。西山昭平さんのところへ行って5日間、研修してこいというのです。カリキュラムは海野さんと西山さんが作ってくれました。新聞は朝が勝負です。午前3時起きして仕事に加わることもありました。従業員たちと集団拡張にも出ました。新聞ではなく「人間を売ってこい」 というのです。 西山さんの奥さんの芳子さんが、親身になって面倒を見てくれました。

 千葉県助手を一年半務めたあと、私は都内東部で正担当になります。荒川区、江戸川区、墨田区、葛飾区、足立区、江東区を担当します。続いて都内中部へ移り、千代田区、中央区、港区、新宿区を担当したあと、福島県へ移ります。5年間、西山昭平さんと共にありました。東北6県の部長の時は、西山さんが連合会長でしたから、人生のほとんどを、共に、過ごさせていただいたことになります。

 西山さんの葬儀は、実に異様でした。一般市民が続々と葬儀の列に加わるのです。千人を超える人々が名残を惜しんだのではないでしょうか。「新聞屋は新聞を売るのではない。人柄を売ってこその新聞店だ」と西山さんが常々言っていたことの証でした。

 4月10日から15日まで、桜前線を追って東北行脚をしてきましたが、目的は四つありました。いわき市泉に設立されて間もない福島第一バプテスト教会佐藤彰牧師の礼拝に出ること、双葉原発の直ぐ脇を通る、3月から貫通した常磐自動車道、並びに6号線を走ること、双葉原発の隣町に位置する夜ノ森町の桜並木を見ること、仙台まで足を延ばし、石巻まで行って津波の惨状と復興の状態を目の当たりにすること、そして、西山昭平さんの墓参です。西山さんが没して、そろそろ十三回忌を迎えます。

 訪ねあてた西山さんのお墓は、いわき市小川郷の長福寺という由緒あるお寺にありました。雨模様の日が多かったのですが、この日は快晴で、お寺の桜は、正に、満開でした。黒御影石の立派なお墓がありました。西向きの墓の前は、菜の花畑が広がっていました。咲き乱れる菜の花を10本ほど失敬して、墓前に手向けました。

 「俺たちが一生懸命やってきた福島県がこうなっちゃって、弱ったもんだね、全く
という西山さんの声を聞きました。相変わらずの朗らかな声でした。

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2015年4月9日       パ ラ オ

 天皇皇后両陛下は、昨日、ペリュリュー島の激戦で亡くなった約10000人の日本兵と1700人余りのアメリカ兵を鎮魂するために、パラオにお出かけになりました。出発に際して、また、現地で催された歓迎晩餐会でのお言葉が、朝日新聞の朝刊に載りました。その全文を読みながら、胸が熱くなりました。ご高齢で体調が優れないにも拘わらず、よくやって下さった、と心からの感謝と労いの気持ちを両陛下に捧げたいと思います。

 パラオは人口約30000人の独立国です。戦前は日本の統治下にありましたから、高齢者のほとんどは日本語を話します。日本の戦前流行った歌を唄えます。日本に対する強い憧れを持っています。国会に当たる議事堂もあります。民家に毛の生えたような建物でした。刑務所もありました。アパートのようなところで、窓には鉄格子が申訳のように付いていました。本島であるコロール島には中央に簡易舗装の道路が一本だけ貫通しています。信号はありません。車は30キロが制限速度でした。タクシーをチャーターして全島観光をしましたが、3時間で元の場所に戻ってきました。一か所、異様な臭いのする一郭がありました。膨大な量のゴミが燻っていました。このゴミをどうするか、パラオ政府の最大の懸案事項だそうでしたが、恐らく、まだそのままではないでしょうか。日本軍が使った兵器が山と積まれ、赤さびだらけになっているのを見たときは、涙が溢れて仕方がありませんでした。洒落込んだつもりで船上デイナークルーズに行きました。何のことはない、漁船に積み込んであった箱弁当を食べるだけでした。漁船の電気が消され、満天の星空の元、ギターを持った男性歌手が歌い出しました。パラオの民謡の数々です。何と、車椅子に乗っていた私の連れ合いが一緒に歌い出したではありませんか。驚いた歌手は、車椅子の彼女を抱きしめます。二重唱が始まりました。あんなに嬉しそうな連れ合いの笑顔を、私は見たことがありませんでした。

 連れ合いの一家は、戦時中、沖縄からパラオに移住します。パラオ諸島が激戦に巻き込まれるに及んで、住民だけがパラオ諸島の小さな島に移って戦火を避けました。そして敗戦後、アメリカの軍艦に乗って沖縄に戻ります。赤茶けた沖縄コザでの生活は凄惨を極めたそうです。

 パラオへ行くことは、連れ合いの長年の念願でした。車椅子になって六年目、亡くなる一年前のことでした。

 

2015年4月8日   北七卒業60周年記念誌原稿(800字)

 「よくもまあ、ここまで来れたものだ」というのが、正直な感想です。佐久総合病院の若月俊一さんのお蔭もあって、長野県の男女は長寿日本一になっていますが、やがてわれわれ全員、この世から居なくなります。例外はありません。否応なく「死の苦痛」「死の恐怖」と向き合うのです。しかし、死は本当に苦しみであり、怖れでしょうか?そうではない、死は、むしろ甘美な世界へのいざないであると私は断言して憚りません。「死の体験者」が言うのです。

 現役の頃、福島県でフグ毒にあたって病院へ担ぎ込まれました。この事件は地元新聞にも載り、料理店は営業停止になりました。フグ毒に特効薬はありません。血圧が上は60、下が40になりました。あと20ずつ下がればお陀仏です。その時です。お花畑や小川が現れました。森へ続く小道に女性の後ろ姿があり、付いてこいという仕草をします。この上ないスタイルの女性でした。失礼ながら女友達や、まして古女房ではありません。静かで、平安で、幸福に充ちていて、いい気持ちでした。しかし、その女性になかなか追いつくことが出来ません。焦り出したその時、お花畑や、森の木々がそよぎ出し、女性の姿も小道も消えました。蘇生したのです。

 「死は怖くないよ、苦しくないよ、甘美な未知へのいざないだよ」と皆さんに申し上げたいのです。尚、関心を持っていただく方にお勧めしたいのは立花隆の「臨死体験」に関する一連の著作です。特に最近のものには〈死に臨む脳〉の働きについて新しい発見があります。

 今日は、図らずも、善光寺大僧正若麻績侑孝君のは計らいにより、物故者追悼会を大勧進で行うことが出来ました。泉下の友人達の喜びはいかばかりでありましょう。乞い願わくは、これから矢継早に起こるに違いない北七全員の供養を、若麻績会長直々に行っていただきたい、ということです。会長さん、頼みますぞ。

 

2015年4月6日         バ ブ ル

 国家が成熟していく過程を歴史的に見ると、バブルの時期が必ずあったことに気づきます。18世紀のヨーロッパの国々がそうでした。19世紀にはアメリカとオーストラリアにそれが見られました。バブルとは、土地および不動産の価格が異常に上昇し、それを買い求めるために市場が熱狂する状態を言います。

 かつて、日本にもありました。争って土地を買い求めました。マンションが飛ぶように売れました。リゾート地の開発が進み、それを買い求め、セカンドライフをエンジョイするのがステイタスになりました。銀行は言うに及ばず、雨後の竹の子のように出来た怪しげな金融機関が、高金利で庶民の金を集め、投資を繰り返しました。10%以上の金利が普通になりました。

 その異常な状態にストップがかかったのは、橋本竜太郎政権の時です。着工され、別荘が出来たのはいいけれど、買う人が途絶え、放置され、荒れ放題になったリゾート地が全国にみられるようになりました。テナントが入らない空きビルが林立する騒ぎとなりました。人々は、改めて浮かれていた自分に気づき愕然とします。どれだけの人がバブル景気に踊らされて損をしたでしょうか。勿論、得をした人も多数いるはずです。それは否定できません。でも、リゾート開発と称して数多作られた海や山の別荘に、いま、住む人は稀です。売りに出しても買い手がつかず、時価は当時の三分の一以下になっています。ところがいま、バブルは韓国を経由し、香港や中国本土で起きています。

 テレビを見ていましたら、中国長沙市での悲惨な現況が報道されていました。中国当局のお墨付きの認定書を額に掲げた金融業者が、一般庶民から15%−20%の高金利で金を集め、投資に失敗するか、あるいは、計画的にか、雲隠れしてしまうのです。闇金融の破たんは日本にも数多くありました。それがいま、中国では日常茶飯に起きているとテレビは報じます。虎の子の金をはたいた庶民は国家機関に押し寄せます。ところが事業主が国家の役人であり、しかも、共産党の幹部であってみれば、苦情の持って行きようがありません。。映し出された映像は、工事中止に追い込まれ、放置されている膨大な数の高層建築のアパート群です。一般庶民を高層アパートに住まわせるという理想を掲げたものの、資金に往き逗まり、しかも出来上がったアパートの家賃が高額のため、借り手がつかず、立ち往生しているさまを映し出しました。とどのつまり、被害者は国家の理想と現実の狭間で、ナケナシの金をむしり取られた一般庶民になっているのです。

 こういう陰の金融機関が長沙市で100社ほど、中国全土で10000社を超える、とテレビは伝えていました。つまり、中国でもバブルは崩壊する運命にあり、その兆しが、もう、現れていると言っていいのでしょう。世界中の観光地へ団体で押し寄せ、その不作法な振舞いに顰蹙を買っている中国人は、一握りのバブル勝ち組であり、大多数の庶民は、国家機構によって更に貧しくされている現況がよく分かりました。

 マルクスレーニン主義とは、貧しい者、搾取される者をなくしていくための政治形態をいいます。毛沢東の理想もそこに在った筈です。ところが、今の中国は共産党員が率先して、貧しき者が更に貧しくなるよう、追いやっています。早晩崩壊するのは目に見えています。

 

2015年4月5日           理屈ではダメ

 新聞社と販売店との間には取引契約書が介在します。販売店が新聞原価の納入を怠ったり、不都合なことを起したりすると、取引を解除することが出来ます。相手にも言い分があって、取引解除がすんなり行かない場合が、しばしばあります。契約書を盾にして迫っても相手はそれを無視します。勘定より感情が表にでてしまい、取引解除は難航を極めます。感情が極まると相手は理屈を無視して蛮行に走ります。2000部の配達を放り投げ、読者の苦情が本社に殺到します。本社の担当員が稚拙だと、こういう事態がしばしば惹起されます。こうなると、本社側の負けです。

 ベテランの担当員にかかるとこういう事態は起こりません。先ず。何度も 何度も訪問します。相手の言うことを聞いて、聞いて、聞きまくります。改善のための時間を与え、時には補助金を出し、全て相手の身になって考えます。契約書など微塵も持ち出しません。すると、どうでしょう、相手は「あんたには負けた」と言って笑顔で去っていきます。

 沖縄の辺野古移転に関して時の政権がやっていることは、正に、稚拙な担当員と同じだ、と私は思います。この問題で安倍総理は沖縄に理解を求めに行きましたか? 何度も、何度も訪問しましたか? 聞いて、聞いて、聞きまくりましたか? 一度もこの問題で沖縄へ行っていないじゃないですか! 

 今日、菅官房長官が翁長知事と会ってはいます。ダメなのです、助手では。親分でなければダメなのです。

 こじれにこじれた原因は、全て、政権側にあります。鳩山総理は「せめて県外」と公約しました。出来ずに謝りに行きました。防衛次長が辺野古へ着手するに及んで「強姦しようとする相手に、今から強姦すると言えますか」、というとんでもない発言を琉球新報にすっぱ抜かれて、防衛大臣が謝りに行きました。政権側が沖縄へ行くのは謝る時だけじゃないですか!

 札束を積み上げて籠絡した前沖縄知事が、辺野古への着手を容認しました。その知事が再び立候補したのに、自民党はどうして全力を挙げて再選させなかったのですか。 剣ヶ峰の戦いに、何故、安陪総理は身体を張らなかったのですか。

 沖縄県人は至って穏やかな性格の人たちばかりです。悪くいえば南の島の人たちにありがちな「あばら骨一本欠けて」います。江戸時代に薩摩藩の圧政に苦しんだことがありましたが、昔のことを知る人々は沖縄玉砕で絶えました。観光県として人口も増えました。私が最初に沖縄入りした当時の人口は60万でした。今は三倍の180万です。みんな日本人であることを誇りにしています。差別意識もほとんどなくなったと言っていいでしょう。そして、基地はあっても、アメリカ人は彼らだけの居住区から出てきませんから、普天間も辺野古も、どっちだっていいのです。そういう人たちが全体の半分以上を占めると、私は思います。

 問題は、契約書を盾に理屈だけで推し進めようとする政権側にあります。

 

2015年4月4日           通信句会

 今回の北七俳句会は通信句会となり、今日が投句の締切日です。5句の内3句は「囀り」または「朧ろ」を読み込むのが今回の規定です。次の句を内田主宰にメールで送りました。

 3月16日から19日までの4日間、伊豆大島へ行ってました。句は全部その時のものです。

       椿山 落花をぬって 徘徊す

       囀りが 合図か椿  一つ落ち

       三原山 噴煙照らす 朧月

       朧月 波浮の港の 名残宿

       一条の 噴煙朧ろ 三原山

       富士山が 燻らすパイプか 三原山

 竹芝桟橋からジエット船に乗って僅か二時間、大島はこれが東京の一部か、と思われるような別天地でした。人通りもありません。コンビニは一軒もありません。魚市場へ行ってもも、魚が上がっていません。スーパーらしきものは元町港に一軒だけ。目立ったのは交番と郵便局。人影もまばらです。しかし、椿公園も隣接する動物園も無料でした。レンタカーで島を二周しました。大島桜の白い花が満開でした。昔は、大賑わいで、白粉の匂いが紛々としたという波浮の港は、昔の宿が崩れかけていました。名物のクサヤの干物をしこたま買い込み、帰ってきて冷凍庫へ入れ、折に触れ取り出しては楽しんでいます。大島は東京の穴場です。     

 

2015年4月1日               桜散る

 たった今、桜吹雪の中を歩いて来ました。車の車検はいつも千川通りに店を構えているホンダ店でやってもらっているので、いつものように車を持って行きました。帰りは当然歩きです。練馬の千川通りは桜の名所です。100本近くの桜を見ることが出来ます。端から端まで歩きました。桜吹雪の中をです。

 30日、つまり、一昨日は向ヶ丘遊園のゴルフ場の桜は7分咲きでした。東京の桜は昨日満開を迎え、今日から散り始めたのでしょうか。それにしても、早い展開です。短い命過ぎます。今日は花曇りの上に小雨がぱらつき、おまけに北風が吹き荒れました。花吹雪の中を歩くのは、それはそれで風情がありますが、やっぱり青空をバックにして凛然と咲いて欲しい、少なくと、2,3日はそのままであって欲しいと願うのは私だけではない筈です。

 明日は月並みながら、はとバスに乗って都内の桜の名所を観て歩きます。昨年は京都の醍醐寺の桜と、吉野の桜でした。今年は桜前線を追いかけて、東北の旅に出る積りです。

 何故、そんなにも桜、さくら、サクラなのか? それは、あと10年は見られるよ、という保証がないからです。ことによったら、今年か、来年か、再来年の桜が最後になるかもしれない、と思うからです。幸いにして体調にこれといった異常はないものの、「はい、それまでよ」という時は確実にやってくるのです。でありますからして、今年の恵みに感謝しながらも、貪欲にならざるを得ないではありませんか。

 私が二冊の本を作って差し上げた、日本詩人の会の会長さんであった筧慎二さんのことが思い出されます。桜木町の弁慶橋の欄干にもたれながら、堤に咲く桜を、長い時間凝視していました。その4日後、お亡くなりになりました。「願わくは、花の元にて春死なん…」と謳った西行も、望月の頃、花の元で死にました。願わくは、私もそれに肖らせてもらいたいものです。

 追記 2日は快晴でした。新宿から乗ったはとバスは、靖国神社と千鳥ヶ淵へ行きました。ひと、ひと、ひとでごった返していましたが、青空をバックに咲く桜は、それはそれは見事でした。ボートに乗って桜を見上げたかったのですが、行列する人の数は半端ではなく、諦めました。目黒の雅叙園では、活花の展示会が100段階段の各部屋でおこなわれていました。目黒川の桜並木も昔の儘でした。続いて日の出桟橋から吾妻橋まで墨田川を遊覧船で遡ります。「春のうらら」そのままでした。浅草は外人客で溢れかえっています。中国人のアベックが紋付羽織、振袖姿で歩いています。貸衣裳屋さんは大繁盛のようでした。人力車も碧い目のお客さんで賑わっています。きっと彼らは日本を好きになってくれるでしょう。神谷バーに入って電気ブランを呑みました。

 昨日3日は大荒れのお天気でした。車検の車を受け取りに千川通りを歩いて行きました。花はほとんど散っていました。道路際のあちこちに、花びらの吹き溜まりが出来ていました。そして今日4日は氷雨模様です。散った花びらは冷たい雨に流されているでしょう。

 

2015年3月31日        消息が分かりました

 前々項で「写真家栗原達男さんの消息を御存じの方はいらっしゃいませんでしょうか」と書きました。早速、教えて下さる方がありました。大島吉美さんです。長野高校、朝日新聞でも先輩の方です。大島さんはいつも私のエッセイをお読みくださっていて、その都度、感想をメールで送って下さいます。

 栗原達男氏の消息を知りたいとのことでした。世界各国を歩いて旅の中でで出逢った人々や風景を撮るカメラマンというので、自宅から徒歩10分ほどにある日本カメラ博物館を訪ね、同じビルに併設されているJCIIフォトサロンの責任者に会いました。事情を話し、栗原達男さんというカメラマンをご存じかと問うと、3月17日(日曜日)にひょっこり立ち寄ったということでした。何の変りもなく、元気でした。個人情報の守秘義務から躊躇されましたが、そこを何とかお願いして電話番号を有難く頂戴しました。0985‐××―××××です。住所は不特定のようで、現在は宮崎におられるようです。   大島吉美

 わッー、栗原君は生きていた! 電話をかければ声を聞くことが出来る! 嬉しいーッ! 直ぐにでも電話したい衝動に駆られるのですが、そこはそれ、相手もビックリするでしょう。もう少し彼のことを調べ、タイミングを計って再び彼との友好関係の復活をはかる積りです。

 大島さん、誠に、誠にありがとうございました。

 

2015年3月31日      この指止まれ

 数十年前、ガキ大将は二人いました。喧嘩の道具に核兵器まで用意しました。互いの疑心暗鬼が募る余り、核兵器の数は鰻登りに増え、世界の人間を七度殺せるまでになりました。ところが、一方のガキ大将は、自らの地位を放棄せざるを得なくなりました。家庭内がうまくいかなくなったからです。守っていた家訓は共産主義、社会主義というもので、その考え方はマルクス・レーニンさんが考え出したものです。その亜流の考え方を家訓にした新たなガキ大将が現れます。発案者は毛沢東さんでしたが、登小平さんが修正します。「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕る猫がいい猫だ」という理屈を加え、商業主義を家訓に加えます。貧困に喘いでいた13億4500万人が、目の色を変えてカネの亡者になったのですから、世界の富が集中し始めます。周りも悪いのです。労働力が安いため、世界の各国は、我も我もと中国各地に工場を建て、その利益を享受してきました。日本などは、その最たる国でした。現在に至った責任の一端は日本にもあるのです。労働賃金は何時までも安く抑えておくことは出来ません。平均月収が5000円ほどだったのに、今や、20万を超えるほどになりました。金が入れば使いたがります。世界の観光地は、日本人に替わって、中国人で溢れかえるようになりました。

 新たなガキ大将は、集まった富を元に、「この指とまれ、止まった者にはお金を安く貸してやるよ」 と大見得を切り始めました。古くからのガキ大将は、それを苦々しく見つめます。そうでなくとも、この旧いガキ大将のやることなすこと、禍根を残すばかりで、評判が悪くなっています。だから、この流れを止めることはできません。まさか、と思っていた子分どもが、新ガキ大将の指に止まり始めました。ついに、「この指止まれ」に群がって行った者は44人になりました。

 これが「AIIA]です。アジアインフラ投資銀行です。申込みは今日で締め切られました。

 世界一のガキ大将であったアメリカはいま、苦り切っています。子分だと思っていた者たちが雪崩をうったように新ガキ大将の指に止まりに行ったからです。オーストラリア、イギリス、などの第一の子分は申すに及ばず、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、ブラジル、オランダ、までもが行ってしまいました。まさか行くまいと思っていた軍事演習を共同でしている韓国までもが、同盟国であるにも拘らず、親分を無視して行ってしまいました。アメリカが自分の女だと思っていたのに、この女は新ガキ大将にかねてから擦り寄っていました。

 世界の主要国で残ったのはどこか? 日本です。そしてアメリカです。まさか、アメリカが参加するわけにはいかないでしょう。それは、ガキ大将であることを放棄するに等しいからです。

 なぜ、こうなってしまうのか? それは、アメリカが牛耳っている世界銀行が金を貸さなくなったからです。どこの国も、金に困っています。または、自国の金を後進国に貸し付け、新たな投資にして自国を潤したいのです。世界各国は、それをしたいのに、アメリカが絶えずいちゃもんをつけ、貸し渋るのです。最後には伝家の宝刀である拒否権をアメリカは行使してきたのです。

 私は今回の「AIIA」問題を重大に捉えています。アメリカがガキ大将であることの終焉の合図ではないか、とさえ思っています。新たな世界秩序の構築が始まったのではないか、とさえ感じています。

 本来、日本も「AIIA]には参加すべきなのです。それが歴史の流れというものでしよう。ところがどうですか、日本の政治の流れは中国と敵対ばかりしています。石原慎太郎から始まった尖閣問題も、田中角栄時代に「棚上げとする」という大人の対応のままにしておけば、日中の友好は維持されていたのでした。鳩山首相の宇宙人的存在はともかく、無為無策の管、そして不器用で不用意なあまり中国のメンツを損ない、大規模な「愛国無罪デモ」を国家的規模にまでさせてしまった民主党の政治。かてて加えて、落ち目の三度笠のアメリカに傾斜し、「わが軍」を本物の戦争までできる国にしようと、躍起になっている安倍政治……

 国家の存亡は意外に早いのです。そのいい例がロシアでしよう。世界のガキ大将は歴史的に見て長続きした試しはないのです。モンゴルのフビライ然り、ローマ帝国のネロ然り、ナポレオン然り、ヒットラー然り…… われわれは世界史を何のために学んだのですか。世界の秩序は「AIIA]にみられるように、凄まじい変化に巻き込まれよう、としています。

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