最近のエッセイ

2015年7月6日         ショパン国際ピアノコンクール

 5年に一度、ポーランドのワルシャワで行われる「ショパン国際ピアノコンクール」は、今年が開催年となります。ショパンが亡くなった10月18日を中心に、10月2日〜10月23日まで第一次予選から5次目に当たるファイナルまで、熱演が観られます。毎回、1000人近くの応募者があるようですが、ビデオ審査でふるい落とされ、会場で演奏できるのは100人前後です。

 航空チケットを検索したら 10月2日からワルシャワ滞在1週間で11万円とありました。しかも日航です。行きはヘルシンキ、帰りはパリ経由です。例によってアゴダでワルシャワのホテルを検索したら、7〜8000円で泊まれることが分かりました。問題は演奏会チケットの入手です。チケットは1年前から売り出されていて、旅行会社に買い占められています。遅ればせながら、インターネットで申し込みをしましたが、どうなりますことやら。

 20年ほど前、オーストリア、ザルツブルグ、などへ旅した時、ウイーンの72番の電車に乗って市民墓地へ行きました。お墓掃除に来ていた親切な小母さんの案内で、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルトのお墓を訪ねあて、お参りすることが出来ました。3つのお墓は隣り合っていました。5メートルほど離れたところに、ブラームスのお墓がありました。椅子に座り、脚を組み、皮肉な笑みを浮かべて、羨ましそうに3つのお墓をながめています。それを見たとき涙が溢れだしました。大泣きに泣いてしまいました。ザルツブルグではモーツアルトの生家に寄りました。ウイーンではブルックナーやベートウヴェンのゆかりの家も見ました。長年に亘ってお世話になったこれらの大作曲家には、ご挨拶出来ていますが、ただ、抜けているのがショパンさんです。「ありがとうございました」と、墓所なり、生家へ行ってご挨拶してから、あの世へ逝きたいと、長年に亘って思って来ました。今年が、その最後になるかもしれないチャンスだ、と決めたのです。

 戦後のショパンコンクールで入賞した最初の日本人は原智恵子でした。15位です。
 1955年 、ハラシェヴィチが第1位の時、田中希代子が10位入賞でした。1960年の第1位はポリーニです。1965年、アルゲリッチが優勝したとき、第4位に中村紘子が入りました。1970年、オールソン優勝の時、2位は内田光子でした。過去、現在を含めて彼女が日本人の最高位者です。1975年ツィメルマン。 1980年ダン・タイソン、ベトナム人初優勝、5位に海老彰子。私は彼女の演奏が大好きです。1985年がブーニン、4位が小山実稚恵。ブーニンはいま日本の洗足学園で教鞭をとっていますが、演奏は丸っきりダメです。1990年、1位なしの3位に横山幸雄。彼の功績は、盲人ピアニスト辻井伸行を育て上げたことです。尚、5位に高橋多佳子が入っています。2000年は中国のユンデイ・りー、6位に佐藤美香。このころから中国人の参加が目立ち始めます。聴衆も黄色人種で一杯になります。一般に中国・韓国系ピアニストの特徴は、軽業師のようなオーバーなパフォーマンスです。実に見苦しい。格好なんてどうだっていいのです、音さえ美しければ。ランランやカンカン、大嫌いです。2005年はブレハッチ、4位に山本貴志、関本昌平。2010年1位なし、3、4位に韓国人。昨年のライブを聴いていると聴衆は自国の演奏家だけに熱狂的な拍手を送っています。音楽なんてどうだっていいのです。国威を発揚してくれればそれでいいのでしょう。嫌な感じです。

 ショパンコンクールのチケット買占めは、韓国中国の旅行社だそうです。日本の旅行社もファイナルチケット付豪華ホテル滞在ツアーを70万で売り出しています。

 だから、私のワルシャワ行はコンクール期間を避け、10月25日以降、お祭りが終わった余韻の中で、ショパンさんにご挨拶してくる手もあるかな、と迷っているところです。

 

2015年7月5日           ギリシアのデフォルト

 ギリシャは6月30日期限の返済金2000億円を返せませんでした。ギリシャがEUやIMFなどの国際機関から借りている金額の合計は40兆円を超えます。1100万人の人口でしかないギリシャはこの借金を返せるでしょうか?

 借金が少ないうちは、貸している方が大威張りですが、返せないくらいに借金が増えてしまうと、今度は借金している方が大威張りです。これは東西古今の習いです。ギリシアの現状は後者に匹敵するといっていいでしょう。

 世界四大文明の発祥地の一つがギリシアです。プラトン、アリストテレス、ソクラテスなどの哲人が出現した国です。しかし、アクロポリスの神殿など大昔の文化遺跡を売り物にするだけの、つまり観光資源以外、これといった産業を持たない、いわば、古代人の遺跡のお蔭で食いつないできただけの国になってしまっていたのです。

 国民の5人に一人が公務員です。しかも、給料は一般企業の1.5倍から3倍だといいます。年金も高い。日本の年金より遥かに高い。日本人を蟻に例えれば、ギリシャ人はさしずめキリギリスです。優雅な暮らしをし続けてきたのです。自分たちは何一つ生産せず、足りなくなると借金する、そういう生活の最終的ツケが、いま、回ってきたと言えるのではないでしょうか。

 今日5日はギリシャの国民投票の日です。ユーロ圏に留まる場合は、経済再生のためのユーロからの厳しい勧告案を受け入れねばなりません。公務員の数を減らし、給与を下げ、年金を減額し、消費税を上げろ、というものです。それがイヤでユーロ圏から離脱すれば、即、昔のドラクマを復活せねばなりません。ドラクマは直ぐに値下がりするでしょう。三分の一以下になるかもしれません。すると、土地建物、預金などが三分の一の評価に下落します。

 さて、国民投票の結果はどうなるでしょうか?予測では賛成、反対が全く均衡しているそうです。私の予測は「ユーロ圏からの勧告拒否」です。ドラクマを選び孤高独善のまま、国としての死を迎えていくでしょう。

 

2015年7月4日           砂川判決

 いま、階下のテレビでは各党の代表者によるテレビ討論が行われています。NHKです。最大の論点は「砂川判決」の解釈の違いであることが、いよいよハッキリしてきました。高村副総裁を始めとする自民党の解釈は、砂川判決によって、集団的自衛権の行使は許されているいる、というもので、野党側は「それは判決の拡大解釈であり、判決の主旨ではない」とするものです。

 砂川判決はこうです。「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは、日本国が指揮管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力に当たらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない」(1934年12月16日)

 一方ではこういう逃げも打っています。「日米安全保障条約のように、高度な政治性を持つ条約については、一見して、極めて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について、違憲かどうかの判断を下すことは出来ない」

 砂川事件とは、アメリカ軍の日本駐留を憲法違反であり、日米安保条約は締結させないという闘争でした。大規模な反対デモが、学生たちによって連日行われました。国会議事堂を取り囲んで気勢を上げました。スクラムを組んで、銀座を練り歩きました。勿論、交通は遮断されました。私も、そのデモの一員でした。

 判決には納得出来ませんでしたが、判決は判決です。しかし、この判決はアメリカ軍の駐留が憲法違反かどうかであって、この判決によって、「集団的自衛権の行使が可能になっている」と言えるのかどうなのか? 「自衛隊はアメリカ軍と共に戦うことができる」という内容を包含していると言えるのかどうなのか? これこそが、論点なのであります。「出来る」と解釈しているのが時の政権であり、「出来ない」とするのが野党の主張です。

 国会に呼ばれた参考人三人、二人の早大教授と慶大教授は、「集団的自衛権の行使は憲法上認められない」と言いました。200人を超える日本の憲法学者が、名前を連ねて反対上申書をあげました。歴代の内閣法制局長官も、当時の最高裁判事も、反対の立場です。賛成は駒沢大教授と、日大教授です。安倍総理に近い国粋主義者たちです。百田尚樹です。そして、その後ろにいるのが、読売新聞のナベツネです。

 中国、韓国、北朝鮮の軍備増強の現実を思う時、防御としての自衛隊の増強は止むを得ないところだと、私も思います。その意味での憲法改正は手続きを踏んで、堂々とやるべきだと、私は思います。砂川判決を利用して拡大解釈することにより、憲法改正の外堀を埋めようとするのは、何たる姑息な手段でしょうか。でも、自民党は絶対多数を握っています。国会の会期も延長されました。ナベツネの高笑いが聞こえてくる日も間近でしょう。

 

2015年6月27日           こうも違う報道の差

 今朝、朝刊5紙をコンビニで買ってきて、新聞6紙のこの件に関する報道を比較検討してみました。先ず、記事量の多さの順番です。サンケイ、日経、読売、東京、朝日、毎日の順番になりました。

 最も少ないのがサンケイです。一面から三面まで全く触れていません。四面の上段四分の一に「安倍総理が困惑している」と人ごとのように書いてあるだけでした。日経です。これも一面から三面まで全く触れていません。四面の記事量はサンケイとほとんど同じ。続いて読売です。これも一面から三面まで全く触れていません。四面の量はサンケイ日経とほぼ同じです。ただ、社説では二番目扱いで当たり前のことを書いていました。この三紙が期せずして四面扱いにしたのは、単なる偶然でしょうか。

 東京は一面のほとんどを使っています。二面の全部、三面の半分を使っています。社説でもトップに扱っています。東京と名古屋の中日新聞は同じ会社ですから、中日も同じ紙面でありましょう。朝日は一面の半分、二面の全部、社説でもトップで扱っています。最後に毎日ですが、一面の半分以上、三面の全部、五面のほとんど、社説もトップ扱いでした。

 何で、こうも差があるのでしょう。

 百田尚樹の沖縄蔑視の発言に激昂した沖縄タイムスと琉球新報が、編集局長名で抗議文を出したことは、三紙が報道しているのに、三紙は全く触れていません。日経は兎も角、サンケイと読売の報道姿勢には納得できません。安倍政権の黒幕的存在である、読売のナベツネの弊害、ここに極まれり、と言っていいでしょう。読売にも心ある記者は大勢いる筈です。彼らの歯噛みが聞こえるようです。ナベツネよ、早く、くたばれ!

 一方、ネット報道を見ると、そこには驚くべき事実があります。正確な報道はなされていて、それに対する実に明け透けな意見が飛び交っています。若者のほとんどは新聞を読みませんから、社論や社説はには縁遠いでしょうが、事実関係は把握することが出来ています。

 それが、せめてもの救いです。          

 

2015年6月26日           百田尚樹を潰せ

 昨日、自民党若手の勉強会の講師に招聘された百田尚樹が、こともあろうに許されざる暴言を吐きました。安倍晋三による一連の集団的自衛権の行使の考え方が、明らかな憲法違反であると、憲法学者200余人の意見陳述以来、安倍政権の潮目が変わったのは、誰の目にも明らかなのですが、それを受けて自民党の若手どもが浮き足だち、「マスコミがいけない。反対論調を張る新聞、テレビを、企業による広告出稿拒否によって締め上げろ」と極論する状況になりました。安倍政権の黒幕である渡辺恒雄が、ヨイヨイになりながらも、人事権を握っている読売新聞と読売テレビ系列、落ち目の三度笠のフジテレビとサンケイ新聞、株価が上がるからイイヤとヒヨッている日経、この三系列以外は自民党にとって目の上のタンコブなのでしょう。

 一体、新聞やテレビを広告出稿面で締め上げろ、とは何事ですか! いくら国民から選ばれた選良とはいえ、言っていいことと悪いことがあります。腸が煮えくりかえります。もっと腹立たしいのは昨日の百田尚樹の発言です。「沖縄の新聞、沖縄タイムスと琉球新報はの二紙は潰さなああかん!」というものです。百田を勉強会の講師に選んだ自民党の若手議員は恥を知りなさい。 この発言は、今日、夜の7時のNHK二ユースでもとりあげられました。NHKはつい最近までNHKの経営委員であった百田の発言です。明日の全国の新聞の朝刊は恐らく大々的に取り上げるでしょう。中でも、読売、サンケイの出方が見ものです。

 沖縄もビックリしているでしょう。そして、一層、硬化するでしょう。

 小選挙区制は民主党の不手際により、議員たる見識を持ちえないウゾウムゾウまで国会議員にしてしまいました。正に、やんぬるかな、であります。

 

2015年6月26日             極上寿司

 昔、名古屋の従弟と銀座の「源寿し」のカウンターで、5,6個の握りを食べただけで34000円とられた苦い経験があります。いまは、専ら、回転寿しを愛用しています。「銚子丸」というチエーン店が近所にあって、無料の「アラ汁」を有難くいただきながら、旬のネタを握ってもらいます。寿しは、すっかり、庶民の食べ物になりました。

 三日間の仙台滞在なか日の22日、昼食は塩釜の名だたるお寿司やさんでした。付出しは殻つきのウニと赤貝です。生きているウニは口の中でトロケました。赤貝はこれからの季節が本番でしょう。続いて、皿盛りの極上寿しです。何から食べようか、目移りします。しかし、先ず旬のカツオです。ウマい! 鰹はどれもこれもカツオですが、美味い鰹の選別は寿司屋さんのような「目利き」に限ります。スーパーに出回るのはソーダ鰹まがいの二流品です。しかも、鰹は足が早いから、食べ時を逃すと、いやな臭いが出てしまいます。

 続いて、本マグロの中トロです。口の中で7色に変化しました。マグロは何といっても本マグロに止め刺します。インドマグロ、地中海マグロ、果ては養殖の近大マグロまでいろいろですが、世界中の人がマグロに目覚めてしまい、品薄で高価な食べ物になってしまいました。実に迷惑な話です。下北半島の大間へ行ったとき、恐山から降りてきて、大間の本マグロ寿しを堪能したことがあります。時代は替わりました。もう、そんな贅沢は出来ないでしょう。 

 どこのお寿し屋さんでも、ボタン海老などを飾りに使いますが、酢      うに
飯と海老の相性は余りないのではないでしょうか。海老のほとんど
が、インドネシア辺りのドロ水養殖であってみれば、イメージが悪
い。 しかし、シャコは違います。実に酢飯ぴったりです。瀬戸内海
のシャコがざる一杯になっていて「それ食べろ 」と言われて貪りい
ただいた時は幸福でした。 大ぶりのアジは身が締まってコリコリ
していました。出来るなら金華山沖のサバ寿しが食べたかったなあ。
唯一、いま一だったのがアナゴです。旬が過ぎたせいもあるのかも
しれませんが、ツメが大味過ぎた気がしました。贅沢な時間は瞬く間に過ぎました。 お勘定は酒代と森田さんの差し入れを除いて3000円ちょっと。銀座の源寿しの十分の一の値段です。久しぶりに寿しの醍醐味を味わいました。塩釜のこのお寿し屋さんは「亀喜寿司」といいます。仙台出身の野球の佐々木大魔神や、今を時めくゴルフの松山君が通うお店だそうでした。

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 続いて寄った塩釜卸売市場には、本マグロが溢れていました。何でも、大量の水揚げがあったとかで、超安値でした。持って帰りたかったのですが、翌日がゴルフですからままなりません。止む無く、真空パック入りの金華山沖のサバの開きと水煮の大型缶詰を買いました。帰京したその日、サバを焼いて食べました。その旨いこと、旨いこと。塩釜の極上寿しに、少しも引けをとりませんでした。

 

2015年6月25日            晴れ男 伊達男

 16日、帰って来た東京は、正に梅雨寒で、17、18日と恒例の囲碁会で熱海へ出かけましたが、矢張り、天気はぐずついていました。半袖では寒く、バンコックとのあまりの気温差に戸惑いました。21日から23日までは仙台でした。東北新幹線「はやぶさ」に乗ったら1時間半で仙台に着いてしまいましたが、福島までは雨模様でした。

 恒例のICMAの同窓会が、河北新報の森田さんを幹事として、仙台松島「壮観ホテル」で開かれました。23年前に新聞協会が派遣した「アメリカ新聞事情視察団」13人による、所謂、反省会は23年後の今年まで続いているのです。10年間ほど続いた新聞協会による視察団で、今も同窓会を続けているのは、われわれの「ビギニング」だけとなりました。

 サンケイの幡さん、日経の斉藤さん、西日本の永利さん、朝日の金子さん、それに、ワシントン駐在で、われわれの面倒を見てくれた新聞協会の佐藤さんの5人は物故しました。山陽の田中さん、毎日の平野さん、信濃毎日の宮沢さんの三人は、現在、体調を崩していて今回は欠席です。結局、協会の勝又さん、読売の三角さん、京都新聞の太田さん、河北新報の森田さん、それに朝日の私の5人だけが、松島に集まりました。

 森田さんの設営は実に行き届いていて、元河北新報の販売社員で、現在は松島で外国人のガイドをしている針生さんを同行させてくれました。お蔭で、大改修中でありましたが、庫裡が国宝になっている瑞巌寺、京都の苔寺に勝るとも劣らない円通院などなど、解説付きで堪能させてもらいました。1646年まで生きた仙台藩主伊達正宗が、独眼竜であることは知っていましたが、155センチの小兵であったことを改めて知りました。しかし、彼の目は遠くヨーロッパまで見据えていて、伊達家の遺品には、西洋キリスト教の影響が残っていました。彼は、実は、並々ならぬ伊達男であったのです。仙台の発展の礎が、遠く伊達家に遡ることを知りました。

 福島まで梅雨空だったのに、どうしたわけか、21,22日の両日、仙台は五月晴れともいうべき快晴でした。天気予報は曇りのち雨を予測していたにもかかわらずです。

 さて、翌日の23日は、森田さんのホームコース富谷CCでのゴルフです。京都新聞の太田さんを入れての三人に、河北新報の元取締役販売局長の小泉恵一さんがご一緒してくれました。仙台一高で井上ひさし、菅原文太、樋口陽一、一力英夫さんらと合いまみえた方です。「一力さんには東京でよく御馳走になりました」「その伝票は私が処理したのですよ」 大笑いになりました。

 スタートが朝一番であったので、前にも後ろにも人影がありません。緑、みどり、ミドリの中、スコア以外は実に楽しいゴルフをさせてもらいました。

 朝方、車の中で「森田さん、今日こそ雨ですよ」 言うと 「いや、そんなことありません。私がいる限り雨は降りません。私はこのクラブでも有名な晴れ男なんですよ」

 驚いたのはその後です。雨雲が漂ったのは朝方だけで、昨日以上に快晴になったではありませんか! そして、ゴルフが終わり、仙台駅まで送って貰う頃になって、雨がフロントガラスを打ち始めたではありませんか。

 もう一つ驚いたのは森田さんのゴルフスコアです。オントシ80歳なのに、40、42で上がったのです。つまり、二つだけ良ければエイジシュートを達成したのです。

 伊達男ここにあり、だったのです。

 

2015年6月19日          バンコック市内を歩く

 バンコック市内のホテルは、いつものように、アゴダという斡旋会社をインターネット検索してとりました。金曜日の特別割引を利用し、22000円のコラムホテルが9000円 で三泊の予約ができていました。山手線のような円形の高架鉄道がバンコックにもあります。ホテルはその高架電車のアソーという駅の近くでした。早速、フロントで日本語を話せるガイドのいる旅行社を紹介してもらいました。そこも駅の近くでしたが生憎不在でした。携帯電話を使ってその人と話をします。すると、近くに日本人会があるから、そういう件についてはそこへ行ったらどうか、と示唆してくれました。住所を聞き出します。アソーの次の駅プランポンのソイ39に日本人会があることまで分かりました。一駅といっても2キロはあったでしょうか。ソイ39番地を探します。訊く人ごとに、この道を行け、までは教えてくれるのですが、どのくらい行ったものか見当がつきません。「うなぎ」と書かれた日本料理屋でも分かりませんでした。途方に暮れていると、金沢インドカレー店がありました。そこの若い主人が日本人会の会員だそうで、丁寧に教えてくれました。嬉しくなって明日カレーを食べに来るから、と約束しました。日本の食料品ばかりを扱っているスーパーの裏手に目指す日本人会の事務所がありました。ご親切にも、バンコックにある輸出入代行業者一覧表をコピーしてくれました。多くの広告が載っている日本語新聞も無料でくれました。有難かったですねえ。歩き疲れてクタクタになっていました。そのため、帰りはバイクタクシーを使いました。チェンマイには数多くあるツクツクやソンテウはバンコックではあまりみかけないのです。その代り、バイクタクシーがほとんど四つ角ごとに屯しています。オレンジ色のジャケットを着て、胸に番号をつけているので、直ぐ、分かります。

 ホテルの名前を言い、後ろにまたがるや、バイクは走り出します。すぐ後悔しました。まるで軽業運転なのです。渋滞中の車の脇を潜り抜け、先頭に出ます。チョットでもバランスを崩せば車との接触は避けられません。「ウヘー」と思いました。恐怖を味わいました。もう、二度と乗りたいとは思いません。ホテルへ戻り、あちこちに電話をしましたが、車付き通訳を雇うと半日で2000バーツすることが分かりました。幸い、税関の所在地は教えてもらっているので、明日タクシーで行ってみることにしました。何事も当たって砕けろです。

 ところで、タクシー料金が世界で一番安いのがバンコックです。初乗りは35バーツ(約100円)から始まります。1000円でどの位走るかというと、約30キロです。続いて安いのが上海で17キロ、ソウルが16キロ、台湾が15キロ。それでは質問です。タクシー料金が世界で一番高い都市はどこでしょう?それは、言わずと知れた東京です。1000円で2.9キロしか走ってくれません。

 

2015年6月19日          タイ国有鉄道特急寝台車

 バンコックの税関へ行って、ピアノをタイの少数民族の学校へ寄付する場合の関税について確認をしたいと思っていました。飛行機なら1時間ですが、それでは余りに味気がありません。行きは汽車、帰りはバスにしようと決めました。列車は14時間、高速バスは9時間かかるのですが、なに、急ぐ理由は全くありません。初の経験ですが、面白そうです。

 チェンマイ駅には一度来ています。列車や、時刻表示盤の写真などは、既に、この欄に掲載していますので、省略です。

 17時、大型のジーゼル機関車は地鳴りのようなエンジン音を響かせ、12両の客車を牽引してチェンマイ駅を発車しました。一号車が貨物車。冷房は全くなく、窓は開け放なされたままです。2号車は10室ほどのコンパートメントの寝台車。アングロサクソン系の年配夫婦で満室でした。3号車から8号車までが一等寝台車、9号車が食堂車、10号車以降が2等寝台車でした。トイレは男女共有、洗面も2等車は共有でしたが、コンパートメントでは小さなものが付いていました。料金はコンパートメントの下段が1460バーツ(約5300円)、一等寝台は920バーツでした。一般客室は450バーツですから、約三倍の料金です。これが高速35人乗りデラックスバスに乗ると680バーツ(約2500円)と実に割安になります。ちなみに、飛行機だと2200バーツ(約8300円)です。そのため、チェンマイからバンコックへ行く人は、バスを利用しています。ただ、格安航空も賑わいを見せていて1300バーツ(約4900円)で行けるとか。

 一号車の窓が開いていたため、夕暮れ時のほとんどをそこにいました。時々、機関車から恐らく発せられるらしい火の粉が顔を直撃するので、なるべく顔を出さないようにして、景色に見とれていました。チェンマイは盆地に位置するため、列車は山道を登り始めます。左右は密林でありとあらゆる熱帯植物が繁茂しています。たまに見かける人家はバナナの木に覆われ、沢山の実を付けた椰子が人家を見下ろしています。火炎樹やライラックの花が咲き乱れています。少しばかりの人家が密集しているところで停車しました。単線運転のため、下り列車と交換するのです。ホームはありません。地面に降り立ってみました。ジーゼルエンジンの音以外、静寂そのものです。こういうところに住んだらどうなるか?人間そのものの根源に迫れるのではないだろうか? 今という時間がなんと得難く、尊いものなのかをシミジミ感じました。

 ところがです。列車が下り勾配にさしかかるや、事態は一変しました。列車は100キロを超えるスピードで走りはじめました。揺れるのです。思い切り揺れるのです。上下左右、20センチか30センチの落差で揺れるのです。しかも、台車が発する金属音が凄まじい。作ってもらったベッドに横になっていても、ずり落ちそうになります。とてもじゃないが、寝られるわけもありません。それより、いつ脱線するのか、気が気でありません。お酒でもあれば辛抱できたのでしょうが、ビールを含むアルコール類は駅の売店にも、食堂車にもありませんでした。そならそうとウイスキーなどあらかじめ荷物に忍ばせてくるのでしたが、タイの国鉄はアルコールの持ち込みも禁止されているのです。発覚すると、罰金ものだそうでした。

 その上、コンパートメント内は冷房が効き過ぎています。ギンギンに冷えるのです。車掌に冷房を止めてくれと言ったら、自分でやれ、というのです。天井に吹き出し口が6ケありました。どう、操作しても吹き出しは止まらないのです。仕方がないので、ありったけの下着を着こみ背広とズボンを付け、タオルケットを一枚余分にもらって辛抱しました。午前1時ごろ、長い停車がありホットしたものの、バンコック到着の朝6時50分までは、あと、7時間もあります。

 もう、イヤだ、タイの国鉄には金輪際乗りたくない、そう思いました。     

 

2015年6月16日           人生初の海外運転

 今朝再び、東京へ舞い戻って来ました。香港午前1時発、キャセイ航空の夜行便でしたので、満員の機内ではロクに寝られるわけもなく、寝不足の状態ながら「人生初」の海外運転の結果報告をさせてもらっています。

 初の運転の教官は、チェンマイの大学や高校で日本語を教えている Hさんです。奥さんや子供さんを埼玉に残し、単身赴任のまま、日本を海外に知らしめようとしている貴重な存在の方です。ご自身では車を持たないので、レンタカーを持って来てくれました。チェンマイの道路地図も合わせて持参してくれました。運転上、注意すべき個所が地図上では赤印になっていました。

 まず、今回の滞在で居候させてもらったSさんの家のある、ドッケオという敷地内を走りました。もと、ライ病患者の隔離病院であったドッケオは、鬱蒼とした木々に包まれた、広大な別世界のようなところです。続いて、いよいよ公道に出ました。右ハンドル、左側通行は日本と同じなので、さしたる違和感はありません。問題は右折、左折、ユータウンでした。それに加えてバイクの数の多さです。隙を見せると、すかさず、割り込んで来ます。ツクツクという人を乗せる三輪車、ソンテウという乗合バスのようなものが、我が物顔で、一寸でも隙を見せると割り込んで来ます。前3、後ろ3、左右4の割合で絶えず視線を走らせていなければなりませんでした。チェンマイは城郭都市でありましたから、旧市内は掘割に囲まれています。一方通行が至る所にあります。ウインカーを点滅させながら、強引に割り込んでいかなければ、取り返しが簡単でないところが多々ありました。

 どうにかこうにか、市内一のラム病院にたどりつきました。一週間前、Sさんが腰と膝のMRI写真を撮ったので、その結果を聴くためでした。幸い、悪いところはなく、リハビリやるだけでよいとの診断だったので、次は昼食を摂るため「まつや」という海鮮専門店へ行きました。その後私の希望を入れてもらって、文具店を三店回りました。その全部が私の運転です。大混雑を回避する方法も、Hさんが隣りから教えてくれました。4時ごろドッケオへ戻ると教会友のM君ら二人が、日本のテレビが一時間遅れで、すべて、見られる器具を取り付けに来てくれていました。
ところが、10メートルのUSBケーブルがないと ダメだというのです。再び、車を駈して往復30分はかかる「ビックシー」という大型店へ買いに行きました。そしてまた、Hさんを労う夕食のため運転しました。

 自信が付きました。自分はタイ国で運転が出来る、とハッキリ分かりました。案ずるより産むが安しだったのです。今度の旅ではチェンマイからバンコックまで汽車で12時間、帰りは高速、高級バスで9時間の旅もしたのですが、バンコックーチェンマイ間を車で走破したくなりました。

 夢は膨らみ続けます。

 

2015年6月3日             爆買い

 成田のキャセイ航空のチエックインは、凄まじい混雑振りでした。100人ほどの団体の後ろに並んだのですが、100人が100人とも、自分のカートに山のような荷物を積み上げている始末。23キロ以上の荷物は、1キロ当たり20ドルの超過料金がかかるはずですから、恐らく、数万円は払わねばならないでしょう。飛行機が無事に離陸できるのかどうか、心配になりました。そんな訳で、チエックインは、2時間かかってしまいました。

 香港で思い出すのは、茨城県を担当している時、販売店ご夫妻十数組を引率して、いわゆる、ご褒美旅行でここへ来た時のことです。数人の奥さん方が免税店の貴金属売り場で逡巡しています。新聞の拡張資金に使わなければならないお金で、使っていいものかどうか迷っているのでした。まして、本社の担当員に覗きこまれては、萎縮してしまって、固まっていたのでした。

 私は奥さん方に、即座に言いました。「思い切ってお買いなさいな。何のために、毎日、旦那さんと一緒に働いているのですか。明日から、もっともっと働けば、このお金以上のものが入ってきますよ。そうしたら、それを拡張資金にいたしましょう」

 奥さん方は、晴れ晴れとした顔つきで、免税品の貴金属を買いました。帰国してから、奥さん方の間で、私の評判が高くなりました。旦那方には恨まれましたが、満更でもない顔をしていました。つまり、奥さま方が、以前にもましてよく働くようになったからです。日本人が海外で爆買いを始めたころのことでした。

 香港の新空港は、バンコックの空港並みの賑わいでしたが、トランスファーで待たされました。案内板にゲート表示が出たのがフライト30分前でした。おまけに、チエンマイ空港では着陸の際、逆方向から進入し、あわや、惨事になるところでした。機長から「アイアムソーリー」とアナウンスがありました。次回はやっぱりタイ国際航空にしよう、と思いました。

 

 2015年6月1日            お犬様

 愛犬チュラの体調が2,3週間前から狂い始めていて、もし、「海外旅行中に何かあったらどうしよう」 と気になっていました。28日の出発を前に、25,26日は清里の北の杜カントリーへ行ったので、空いている日は27日しかなく、その日に病院へ連れて行くとしても、28日の出発は無理に思え、買ってあった航空券のキャンセルをしました。航空チケットはいくらでもあるだろう、とタカを括ったせいもありました。27日、愛犬が生まれた川口のペットショップでトリミングをしてもらい、一年前にお世話になった蕨の青戸病院へ連れていきました。検査結果を聞きに夕方6時にも行きました。愛犬がそのまま病院へ留まるようなら海外は延期しよう、もし、一緒に家に帰れるようなら、出発を30日にしよう、と決めていました。

 幸いなことに、一緒に帰ってくることができました。帰ってくるや、ネットでチケットを捜しました。意外なことに、全日空や日航以外のチケットは売り切れています。両社のチケットは22万もします。キャンセルしたタイ航空便は5万円台でした。とてもじゃないが、日本の飛行機には乗れません。だって、所要時間はほぼ、同じなのですから。ようやく、HISで6万円台のキャセイ航空便を見つけました。成田ー香港ーチェンマイ便です。15日の帰国は夜行便です。でも、これしか無かったのですから仕方ありません。

 お犬様のお陰で、高額の診察代、チケットキャンセル料を払させられ、その上、夜行便を強いられ散々であります。でも、少しも惜しい気持ちにならないから不思議です。


2015年5月29日           再び海外

 明日から来月半ばまで、今回で4回目となるタイ・チェンマイを中心に回ってきます。海外の自動車免許を取得しましたので、無謀ながら、レンタカー運転をする積りです。タイは日本と同じ右ハンドル左側通行なので「やれば出来るだろう」と思っています。人生初の挑戦です。ノートパソコンも仕入れましたので、その模様をお知らせする積りです。

 

2015年5月29日            練習と本番

 23日は販売OBバンドのライブでした。麻布十番の会場は狭かったのですが、それでも30人ほどの仲間たちが、会費3000円を払って聴きに来てくれました。

 スタートが私のピアノソロです。スクリアービンのエチュードです。100回近く反復練習をし、前日になってようやくミス一つなく弾けたのにもかかわらず、本番では、肝心なところでミスってしまいました。甚だしい自己嫌悪に陥ってしまいました。ところが、練習では上手くいったのに、仲間たちも次々にミスを侵します。第二部の冒頭でやったサンサーンスの白鳥ではチエロの鈴木君が、出どころを間違えました。しかも、ミスは続きます。修正しながら伴奏をやり終えました。ボーカルの高比良さんまで、ジャズのオールザウエイで大久保バンマスのベースソロ部分を吹っ飛ばしてしまいました。

 何で、本番になると、揃ってミスを連発してしまうのか、演奏心理の深淵を覗いた気がしました。それでも、仲間たちは絶大な拍手を送ってくれました。お酒が入ったので、きっと、大目にみてくれたのでしょう。最後は全員で甲子園でお馴染みの「栄冠は君に輝く」を大合唱してお開きとなりました。

 ピアノを弾く場合、私はお酒を一滴たりとも飲みません。「飲んだら弾くな、弾くなら飲むな」 をモットーにしています。飲んで弾くと自分では良くできた積りになっても、それは酔っ払いの音楽になります。だからこそ、打ち上げの席で飲んだ一杯のビールが旨かったこと!

 だれ言うとなく、二回目の演奏会を来年の二月二十日にやろう、十月一日に、各自が自分がやりたい曲目を持ち寄ろう、ということに決まりました。今度こそ、名誉を挽回する積りです。

 数日後、リーダーの大久保君から、当日の録音CDが送られてきました。不思議なもので、その録音を聞いてみようという気にならないのです。これは書道の時と同じ気持ちです。会場へ行って自分の作品を見る気にならないのと同じです。

 苦労して創り上げていく、その過程がいいのであって、創り上げてしまえば、ハイそれまでよ、なのでありましよう。変なものです。

 

2015年5月28日           ドラえもん

 テレビ朝日の人気アニメ「ドラえもん」の声優だった大山のぶ代さんが重度の認知症であることが分かり、話題を集めています。彼女は1979年から2006年までの27年間、ドラえもんの声を演じ切った陰の名優です。あの独特の声は、正に、天真爛漫、誰にでも真似できるものではありませんでした。その彼女がいま、不幸のどん底にいるのです。

 僅か2分前のことが記憶から抜けるようで、ご主人とマネージャーさんとお手伝いさん三人のご苦労が忍ばれます。最初のお子さんは死産、続いて生まれた子も三か月だったとのこと。あの明るい風貌と独特の声の裏には深い悲しみがあったのです。同情を禁じえません。

 私は朝日学生新聞社の社長だったころ、TBSラジオの人気番組「コドモ電話相談室」の回答者をしたことがあります。僅か一か月間、四回の放送だけでしたが、その一回目の時、大山のぶ代さんとご一緒になりました。二回目の時は森久美子さん、三回目は元オリンピック体操選手の某氏(名前が出てきません)、四回目がやくみつるさんでした。

 大山さんも大柄でしたが、森さんはそれ以上でした。朝8時に赤坂のTBSの控室に集まり、司会者の女性アナウンサーを中心に打ち合わせです。コドモからの質問もランダムで、回答も即興でやらねばなりません。終わって反省会があり、四方山話が飛び交って面白かった記憶があります。社長が回答者になるという噂は社内に広がっていて、新聞に関する質問が乱れ飛びました。社員が気をきかせてくれているのだなあ、と感謝しました。「新聞はなぜ、朝刊と夕刊があるのですか?」「輪転機ってなんですか?」「大人は何で新聞を読むのですか?」などなど……

 「水道の蛇口の向こうには何があるのですか?」という回答を司会者が私に振りました。

 「細くて長い鉄の管が家の前の道路まで続いているのですよ。水が詰まった真っ暗なところです。その管はだんだん太くなり、行き着く先は浄水場という川の水を綺麗にするところです。川の水はそのままでは飲めませんよねえ。だから、複雑な作業をして、飲めるようにします。川の水はどこからくるのでしょうか? 山から流れてきますねえ。山の水はどこからくるのでしょうか? 雨が降るからですね。雨はどこからくるのでしょうか? お陽様が照らすお蔭で、海から水蒸気が上がり、それが雲になって雨を降らせるのです。あなたのお家で使った水は海は流れ込みます。つまり、水はぐるぐる回っているのですよ。それを難しい言葉を使えば〈水の循環〉と言います。水道の蛇口は水の旅の一つの駅と言えるでしょう」

 チョット難しかったかもしれませんが、私にとっては忘れられない回答の一つでした。と同時に、大山のぶ代さんの回答ぶりは、それはそれは見事でした。ドラえもんの口調でやるのですが、回答者三人が期せずして笑い出してしまうほどの当意即妙ぶりでした。

 アルツハイマー型認知症は、あのサッチャー首相やレーガン大統領も侵しました。ノーベル賞の山中教授によるIPS細胞が早く実用化され、大山さんを救ってくれたらいいのになあ、と心から願うばかりです。

 

2015年5月18日            懐旧の旅

 販売担当社員として、福島県を5年間担当した後、今度は新潟を担当します。当時は東北信越管内で二地区を担当するのが不文律になっていました。相棒宮沢君も、宮城県、長野県を担当しています。普通、二、三年で担当地区は替わるのですが、私は福島で二地区分の期間を過ごしています。異動で新潟が決まったとき、首都圏に移りたかった私はガッカリしました。二年の新潟の後は茨城県、続いて千葉県になります。次長になって北関東三県、部長になって東北信越全県、続いて千葉県、埼玉県を担当します。外勤局次長になると東京管内全域となりましたが、その後は西部本社営業局長として、小倉へ単身赴任し、山口県、九州全県、沖縄県までの販売部数の責任者となりました。しかし、担当員とし仕事が出来なかったのが神奈川県と、多摩です。これは今でも残念に思っています。

 当時、新潟は9万部に近い部数を持つ大県でした。面積も広大で、海岸線は市振から親不知まで400キロもありました。東京ー新潟は320キロですから、移動は実に大変でした。販売店の数も200を超えていました。

 今回、新潟へ行ったのは、人生も終わり近くになったいま、懐旧の旅をしたかったからです。車を走らせながら、その地区の販売店主の名前と顔を思い浮かべました。殆どの販売店は代替わりをしている筈ですから、訪ねていくことは憚られました。長岡では名物会長であった八百板さんの速報社の前で車を止めました。佐渡の川口新聞店も昔の儘でした。息子の孝さんも若くして亡くなり、未亡人の節子さんがあとを継いでいます。お二人の結婚式に招かれ、祝辞と共に余興を披露した想い出が鮮明です。沢田の店も健在のようでした。当時、2300部が佐渡全島の朝日新聞部数でした。今はどうなっているのでしょう。

 新潟での定宿は古町のシテイホテルでした。角を曲がって数軒先が新潟一の料亭「鍋茶屋」です。二回ほどここで宴を張ったことがあります。新潟美人の芸妓さんたちは、揃って真っ赤なけだしと墨染の衣でした。何とも粋でした。今回行って見ると、建物は同じでしたがうらぶれていました。宴会はほとんどなくなり、たまに、結婚式に使われるくらいだとか。そういえば、古町に昔の賑わいはありませんでした。ご多分に漏れず人がいないのです。

 異様だったのは、萬代橋のほとりに100階建てほどの高層ビルがあったことです。昨年出来上がったという新潟日報社のビルです。新聞は斜陽産業であり、衰退の一途をたどるというのに、どうして、こんな巨大ビルを造ったのか。理解に苦しみながら、ホテルオークラの窓から2日間、日報ビルを見続けました。

 いま、朝日新聞は新潟県の部数を、新潟日報社に印刷委託しています。昔、我々は日報と読売を相手に戦ったのです。その相手に印刷を依頼しているのです。合理化と言えば聞こえはいいが、明らかに軍門に下ったのです。競争を諦めたのです。何とも情けなくて、涙も出ません。一体、40年前の我々の奮闘努力は何だったのでしょう!

 福島も壊滅しました。新潟も同じです。福島に続く、新潟懐旧の旅は、苦いものになりました。

 

2015年5月17日            春の珍味

 7日の六本木書道の際、相棒宮沢君から八ヶ岳山麓清里からの土産として、山菜「たらの芽」と「こしあぶら」を貰いました。早速、たらの芽は湯がいて千切りにし、温かいご飯と共に掻き込みました。こしあぶらは、翌朝、お粥に加えていただきました。この上ない春の珍味でした。

 連休中、清里の宮沢山荘には、孫達を入れて10人が集まったそうです。誠に羨ましい限りであります。

 13日から新潟、佐渡へ行ってきました。関越道路を100キロで飛ばし、新潟萬代橋のほとりホテルオークラに宿をとりました。翌日、佐渡へ渡り、レンタカーで島内を回り、夕方の船で新潟へ戻りました。15日は、長岡駅前の「小島屋」で名代のへぎ蕎麦を堪能したあと、水上インターで降り、湯檜曽川沿いに泊まりました。土合駅周辺の茂みの中に、かつてこの時期になると日帰りでやってきて、しこたま、たらの芽を採ったところへ行ったのでしたが、残念ながら、時期が遅いためか、たらの木は、一本しか見つけることが出来ませんでした。

 昨日は朝から雨だったのですが、水上の上空は昼から晴れるという予報を当てにして、谷川岳に会うために、ロープウエイとリフトで天神平まで上がりました。標高1500メートルです。谷川の頂上〈トマノミミ〉〈カタノミミ〉は雲に隠れていましたが、隣りの万太郎岳、仙の倉岳、平漂岳、茂倉岳は見ることが出来ました。

、高校生の時、私はこの谷川連峰を縦走しています。四万温泉に一泊し、平漂に登り、仙の倉、万太郎を経て、谷川小屋に一泊しました。翌日、茂倉を経て、芝倉沢の雪渓をグリー制動で降りてきました。下り切ったところが湯檜曽川との出会いです。幽の沢、マチガ沢、一の倉沢を右に見ながら川沿いの道を下り、土合駅に着きます。その時の湯檜曽川の新緑がどんなに目に沁みたか、言葉では言い尽くせません。

 土合の駅で、長野へ帰るため下りの汽車を待っていると、清水トンネルを潜り抜けてきた上りの電気機関車の車両がやってきました。これに乗れば東京へ行けるのです。その時、「ああ、東京へ行きたい、東京の大学へ行きたい」 と心の底から思いました。だから、谷川の土合周辺は、私の心の故郷でもあるのです。

 ロープウエイを降りたところに山菜売り場がありました。こしあぶらがありました。この山菜は1200メートル以上の高地でなければ採れません。仙人の食べ物と言われています。たらの芽は? と問うと、奥から大事そうに出してきました。今はもう、かなりの高地へ行かなければ採れないとのこと。

 自宅へ戻って、早速、たらの芽と熱々の御飯です。そして今日は、思い立って、残ったたらの芽とこしあぶらを天ぷらにしました。天ぷらなどここ7,8年やったことがありません。油の温度を165度に保ち慎重に作りました。揚げたてを食べると、その旨いこと……

 吃驚したのは、愛犬のシーズーがキッチンへやってきて「ワン」といって催促したことです。ドックフードと、たまの茹でた豚肉以外口にしたことのない犬が、こしあぶらとたらの芽の天ぷらを食べたのです。しかも、御代わりを催促するではありませんか。

 かくして、盛りだくさんの天ぷらは、人間と犬の胃袋へ収まりました。春は終りました。

 

2015年5月9日              一党独裁    

 このところ食料品が高くなったのを、身に沁みて感じています。一年前より二割は確実に高くなっているでしょう。その上、8%の消費税が上乗せされます。従来は税込価格であったのが、今は外税方式ですから、買い物の合計金額に8%が加算されます。レシートを見て「アジャー」となります。  一方、年金は毎年減り続けます。介護保険料は上がりこそすれ、下がった試しはありません。    消費税を上げる時、政府は何と言いましたか?  国の借金は膨らみ続けている、これ以上膨らましてはいけない、曰く、値上げ分の半分近くは、社会福祉に回す等々。   国の借金は減りましたか? 減るどころか増えたではありませんか!   

 とうとう、1053兆円になりました。かつて国の借金は国民一人当たり700万円だったのに、いまや830万円にまで膨らんだではありませんか! 

 おまけに、今年度国家予算に内に占める国債発行高は前年より多くなりました。 今年度から国会議員の報酬が、一人当たり月額26万円増額されました。東日本大震災により下げたものを元に戻しただけだ、という言い分はあるでしょうが、災害の実態は、益々深刻の度を加えています。それなのに、こんなに早く戻すとは、何たることですか!     せめて、半額か、三分の一に止め置くというのがあるべき姿ではないでしょうか!     安倍首相がイスラエルへ行った際、イスラム国に対抗する支援金200億を関係国に差し上げる、とノタマイました。その結果二人の日本人が惨殺されました。  

 アメリカで議会演説をさせてもらったお礼の積りなのでしょう、オスプレイ17機を買う約束をさせられてきてしまいました。総額3600億円。

 消費税の値上げ分のお金がこれに回されます。  実は、オスプレイはアメリカでは持て余されている代物なのです。その証拠に世界のどの国も買いません。イスラエルが7機買う約束をしましたが、キャンセルしました。アメリカ陸軍は身内なのにオスプレイから手を引きました。オスプレイ一機の値段は、何と、211億円!  日本製の高性能のヘリコプターは約20億円で買えます。オスプレイは何とその10倍の値段なのです。足元を見られて吹っかけられたのです。演説の対価としては、余りの高額ではありませんか!  オスプレイは万能新鋭機だと言っても、たかがヘリコプターです。これから、もし、戦争があるとすれば、垂直離着陸ができるだけの竹トンボでしかないでしょう。    正に、やりたい放題ではありませんか! 一党独裁の弊害ここに極まった、と私は断言します。    先週号の週刊現代に「日本をダメにした10人」という特集がありました。  

 第一位は言わずと知れた宇宙人「鳩山由紀夫」 最低でも県外と言っておきながら沖縄に謝りに行きました。母親から一日1000万円の献金を受けたお坊ちゃまです。 

 第二位は「菅直人」 原発事故対応がまずかった。ヘリコプターなどに乗って現場へ行ってはいけません。最高位者は官邸でドッシリ構えているものなのです。    第三位が「小沢一郎」 政党を壊しては作り、作っては壊し…     第四位に「安倍晋三」が入っています。特定秘密保護法案、集団的自衛権行使容認、消費 税、原発再稼働など、国民に十分な理解を得ないまま独裁的に推進……     第五位「小泉純一郎」   

 第六位「野田佳彦」 胡錦濤があれほどの「愛国無罪デモ」をやらかしたのも、この人が彼のメンツを潰したからです。対中関係悪化を招いた張本人です。 

 第七位「渡辺恒雄」 メディアの私物化、権力との癒着、現政権の黒幕…… 読売新聞はナベツネのお蔭で、権力の御用新聞に成り下がっています。    第八位「森喜朗」     第九位「竹中平蔵」 偏向した構造改革、格差拡大政策…… 貧者をますます貧者化させる派遣制度の生みの親です。    第十位「福島瑞穂」 批判ばかりで社民党を失墜させ、国民の野党への信頼を損なった……
 「日本をダメにした十人」の内、堂々、第四位に入っている安倍晋三が、何故、長期間にわたって居座り続け、これからもやりたい放題出来るのか?     それは、日本が一党独裁に陥ってしまったからです。対抗勢力で在る筈の民主党の三年間が無残な結果だったからです。  「二大政党」を日本の憧れました。イギリスやアメリカの二大政党を日本はお手本にしたがりました。特にイギリスの労働党、保守党の在り方を日本は真似します。ところが、最近の報道によると、イギリスの二大政党が危うくなってきたそうではありませんか。第三党が台頭してきているのです。     私はつくづく思います。現在日本が採用している「小選挙区制」はダメだと。  選挙制度にメスを入れない限り、一党独裁によって、あれよあれよという間に、日本は変質してしまうと。    再び、軍国主義国家になってしまうのではないかと。

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