最近のエッセイ(77)

 

 

 

2021年12月17日          幽霊屋敷

 いま、改築工事中の帝国ホテルの前が日比谷公園です。南側に古色蒼然たる日比谷公会堂があり、通りを挟んでプレスセンターです。その9階で何かの会合があり、時間を取り違えて約2時間の空白が出来ました。そうだ、この際永田町界隈を歩いてみよう、と議事堂に向ってだらだら坂を登り始めました。登り切った斜め前に首相官邸がありました。鉄格子の厳重な囲いのあちこちに守衛が立っていました。一回りしようと塀に沿って坂を下り始めました。水の流れと共につわぶきが見事な花をつけていました。下りきると大きなため池がありました。流れは循環していることが分かりました。

 この広大な敷地を占める首相官邸は、ここ9年間、誰も住んでいません。安倍総理は渋谷の富ヶ谷の実家から通っていましたし、次の一年間の菅総理は議員宿舎に居続けでした。今まで住んだ総理は民主党の野田総理、自民党の麻生、森、小泉総理ぐらいです。森総理から小泉総理の申し送り事項に、官邸には幽霊が出るから気を付けろ、と言うものでした。麻生は出てきた幽霊に、自分は麻生と申します。よろしくお願いします、と挨拶したそうです。

 どんな幽霊が出没するのか? 辿ってみると昭和初期の二・二・六事件でここで松尾傳蔵が殺されています。五・一・五事件では時の首相犬養毅が殺害されています。だから、夜中にドアノブがガチャガチャしたり、すすり泣き声が聞こえたりするのでしょう。そしてこの官邸に住む総理は短命だ、と実しやかに伝えられてもいます。

 さて、この幽霊屋敷の官邸に今の岸田文雄総理夫妻が住むことになりました。確かに短命内閣でありそうな気配もするのですが、まずはこの「早稲田精神」を讃えてあげましょう。 

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2021年12月16日      フォッサマグナ

 大規模な気候変動に伴い、地球上のあちこちで火山活動が活発に起きています。それに伴い地殻変動も見られるようになりました。地殻変動とは、大地が割れることを意味します。断層です。実は日本列島には列島を真っ二つに分断する断層が走っています。北アルプスの立山の山並みと、「後ろ立て」との俗称で呼ばれる唐松岳、五竜山、鹿島槍の連山の間を流れる黒部川がその亀裂です。この亀裂は太平洋側の駿河湾にまで及び、実際に断層が起きると日本列島はその線に沿って二分されます。この断層をフォッサマグナと呼びます。不思議なことに、この黒部川は大雨の度に土砂を日本海側に流します。海に流れた土砂は海岸に漂着します。土砂の中には翡翠の原石も含まれます。糸魚川の人たちは嵐が収まると海岸に出てその原石を拾い集めます。糸魚川のお婆ちゃんたちの楽しみになっているようです。翡翠の原石は緑色とは限りません。翡翠は空気に触れると表面が白濁します。

 数多くの原石を集めて研究している学術研究所が糸魚川市にあります。「フォッサマグナミュージアム」という国立の施設です。新潟県を担当した時、糸魚川の綱島さんという所長さんの案内でそこへ行ったことがあります。一緒に海岸へ出てそれらしい石を拾ったこともありました。学生時代、8日間の計画で大町から針ノ木の雪渓を登り、平の小屋で黒部の流れの轟音を子守歌にし、立山、剣に上り、欅平迄降りてきて、更に桟道を伝わって十字峡、白竜峡まで遡ったこともありました。当時、黒部川には翡翠の原石がゴロゴロ、などという話は全く知りませんでした。惜しいことをしました。

 朝日新聞社への4月入社を前にした3月、沖縄へ行きました。国際通りの宝石店で35ドルはたいて翡翠の指輪を買いました。その年の12月の今日、我々の結婚式となりました。  

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2021年12月15日        なんという矛盾

 堰を切ったように人が流れ出しました。行楽地も温泉も満員盛況。我も我もと、日本各地に人が溢れだしたのです。抑えられていた欲望が一気に破裂しているような勢いです。渋谷の駅前交差点の大混雑。神宮外苑や、丸の内のイルミネーション通り。歩道も車道もごった返しの有様です。考えてみればイジラシイものです。人間はそもそも動く動物です。行動を押さえつけられるのを良しとしません。

 毎日発表される感染者の数字は、驚くべき低さです。全国で100人にも満たない日もあります。東北6県など連日ゼロが続いています。我が出身の長野県もたまに一人が出るくらいで安定しています。その上、噂のオミクロン株は噂ほど強烈ではないことが次第に分かってきました。だが、だが、だがです。このまま終息を迎えていくのでしょうか? 識者や医療担当者の誰に聴いても、また、浮かれて出歩いている人々に聴いても、誰一人としてこのままで推移するとは思わない、必ず第六波が起きるはずだ、と予見しています。それなのに、それなのに、人々は第六波の原因を自ら作り出そうとしているのです。なんという矛盾でしょうか!

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 2021年12月14日         何故?

 コロナの感染数は、このところ日本では激減しています。反対に、韓国では激増しています。医療崩壊か、と思われた8月から、日本では感染者数が激減し始め、この12月、嬉しいことに全国で100人を下回りました。韓国では反対に一日の感染者は5000人を超え、悲鳴が聞こえてきます。この差は、一体、何なのでしょう?

 加えて、新しいオミクロン株という新種の出現です。日本はいち早く、空港での検疫を強化しました。それでも、それをかいくぐって新種のコロナは息を潜めています。一方、韓国は日本の激減状態について、数字のマヤカシダとわめいています。実際の数字をごまかしている、世界に向って喧伝までしています。一時期、韓国では、コロナの封じ込めに成功していました。「K防疫を見よ」と世界に対して大見えを切っていました。それなのに、今のザマです。あろうことか、日を追うごとに悪化する現状に対して、何ら手を出そうとしていません。人の動きに対する規制措置も発動していません。

 コロナと、コロナの新種に対する考え方の違いが、日本と韓国の間に、お互いに、予期しない方向に事態が進みつつあるのが現状だ、と言えるように思えます。

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2021年12月13日        モッテノホカ

 トルネードとは竜巻のことです。極く最近、アメリカ南部で強烈な竜巻が起き、街は破壊され、住居は飛ばされ、多くの死者まで出たそうです。

 アメリカのエイグルで開かれたICMAの総会に日本からの10人の参加者の代表で行った時、オクラホマの新聞社の社長から、トルネードの被害の凄さについて、いや、というほど聴かされました。その実写フィルムも見ました。ほとんどの家庭には地下室があり、そこに隠れて身を潜めているそうです。生き残ったとして、今まで住んでいた家が跡形もなく破壊されている、、、、、思っただけでも身がチジミます。トルネードを回避する方法は、いろいろ試みられたようですが、今もってどうにもならないようです。つまり、自然の脅威には人間は勝てないのです。

 中国も大洪水に見舞われ、街も田畑も水没し甚大な被害が出ています。今年初めから揚子江の上流に設置された三峡ダムの崩壊が話題に上っています。沢山の亀裂が見つかり全面崩壊は時間との闘いのようです。北京周辺でも地震、地滑りが頻繁に起き、人民の恨みは、天ではなく共産党に向っているというから、皮肉なものです。ヨーロッパでも河川の大反乱がおき、季節外れの大雪に見舞われています。日本も例外ではありません。日本領内の海底火山の噴火で流れ出た軽石が伊豆半島の漁港にまで押し寄せています。しかも、頻繁に地震が起きています。地震は昨日もありました。茨城の筑波山麓が震源です。関東直下型地震、南海トラフ地震が起きる確実性が迫ってきている、と思わざるを得ません。

 自然は、つまり地球全体が怒り出しているのです。地球上の人間がひりだす炭素化合物の増大に堪忍袋の緒を切らしたのです。いわば、天罰が下り始めたのです。「地球の怒り」を鎮める方策を、何とか早く見つけ出しこと。つまり、戦争などモッテノホカでありましょう。

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2021年12月12日      外交的ボイコット

 オリンピックは夏季であれ冬季であれ、裏に政治的色彩をもつ祭典です。選手と共にその国の権力の中枢に在る者が出席して、友好を演出するのが慣例になっています。二月に迫った中国・北京で行われる冬季オリンピックに、アメリカは選手は送るが外交官は派遣しない、と打ち出しました。理由は、香港・ウイグル自治区などの人権弾圧や、最近の台湾に対する共産党の圧力に抗議するためです。

 続いて、オーストラリア、カナダ、イギリス、フランスなどが同調し始めました。日を追うにつれ、外交ボイコットに加わる国は多くなることが予想されます。さて、日本はどうするか、です。岸田政権の鼎の軽重が問われます。というのは、日本にとって中国は身近な国、経済的にみても切っても切れないお隣同志だからです。

 7月の東京オリンピックの時の中国は、当初は副首相の派遣が予定されていましたが、格下の閣僚に変更されています。がしかし、外交ボイコットをしたわけではありません。アメリカはじめ自由主義諸国は、当然ながら日本にも強い態度に出て、ボイコットすることを望んでいるし、既にその働きかけは水面下で、熾烈に動いていると仄聞します。果たしてどうなるでしょうか?

 私は外交ボイコットには反対です。民主主義のアメリカに替わって専制主義の中国が世界制覇するなど、大反対もいいところですが、外交ボイコットなどという子供の遊び程度のことに目くじらを立てることはない、自由主義諸国に盾突くようであっても、外交ボイコットは避けるべきだ、思います。70年前の過去を振り返るまでもなく、日支事変、太平洋戦争で日本はどれだけ中国に迷惑をかけたか!それを忘れてはなりません。償いの意味も大いにあるのです。戦火を交えていない欧米諸国とは違うのです。例え欧米諸国からなじられても、日本は独自の立場をとり、冬季オリンピックに政府の高官を派遣すべきです。

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2021年12月11日       壊れた三味線

 今年も、あと二十日。地下のピアノ室を整理していましたら、古い三味線が出てきました。天神の部分が欠けているため、使用に耐えませんが、昔は大いに活躍したに違いない古物です。福島県は会津の奥の奥に桧枝岐という、平家の落人の住処だった集落があります。ほとんどの家が「星」さんという苗字ばかりで、この三味線の持ち主も星四郎平さんとおっしゃいます。何故か、この集落では、昔々から歌舞伎が盛んで、今でも村人総出で歌舞伎を演じ、楽しんでいるという風流なところです。新聞はこの山の中まで来ていて、四郎平さんののところで扱っているのですが、何故か福島県紙の民友、民報ではなく、東京紙、それも朝日新聞が一番読まれていました。この集落にただ一軒の旅籠に泊まって、年一回、星さんと一献傾むけるのを常としていました。福島担当は5年でしたから5回ほどそれが続きました。お酒が進み、興が乗ってくると星さんは歌舞伎の声色で唸り出し、時には舞まで披露してくれました。歌舞伎は今でも若手が引き継いでいて、今年の秋も予定されていたようですが、コロナを恐れて中止となったやに仄聞しています。

 5年間も担当した福島県ですが、桧枝岐詣でをするのは5月初旬に限られていました。なぜなら、その頃桧枝岐では桜が満開となるからです。桜と言っても吉野桜ではなく山桜です。桜は尾瀬へ通ずる山道に10本ほどありました。5月の青天の下で見る人なしに咲き誇る満開の桜を仰ぎ見る喜びは、何物にも代え難いものでした。

 星さんから譲ってもらった壊れた三味線を手にしながら、感慨に耽っているところです。

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2021年12月10日        駅ピアノ

 永年に亘って親しくさせてもらっている友人と、西武線所沢駅で待ち合わせる機会がありました。そして、所沢駅ロビーに駅ピアノが置かれているから、良かったら弾いてみないか、というお誘いもありました。ストリートピアノは今や世界的と言っていいほど流行を極めています。初めの頃は面白い傾向だと感じ入っていたのですが、ピアノ演奏は雑踏の中で聴くものではない、ピアノに対する冒涜だ、という思いになり始め、いい感じを持てなくなっていました。

 私が千葉・埼玉の二県を担当している頃の所沢駅は、かなり、見すぼらしいものでした。ところがどうでしょう、所沢、西所沢、小手指にかけて開発が急速に進み、大都会に変容しました。駅そのものも改築され、二階の改札口は立派なドームになっています。カワイの小型のアプライトピアノが、その中央に置かれていました。近寄ってみると、私と同年配くらいの老人がショパンのワルツの楽譜を前にして、覚束ないタッチでぼそぼそと弾いていました。ただ、音だけはドーム型空間に跳ね返って、それなりの響きで奏でられていることには感心しました。

 老人が脇に立っている私を察して、どうぞ、と言って空けてくれました。覚悟を決めてピアノに座りました。暗譜しているイブモンタンのシャンソン「兵士が戦場へ行くとき」、と映画「屋根の上のバイオリン弾き」の主題歌「サンライズ、サンセット」を矢継ぎ早に弾きました。終わった途端、数人から拍手が起きました。4,5人の女性からです。三曲目はシューマンの「詩人の恋」からの一曲をやろうと思ったのですが、何やら女性たちが弾きたそうだったので、席を立ちました。一人の女性が鮮やかなタッチで弾き始めました。何と、難曲中の難曲・ラベルの「水の戯れ」ではありませんか!交代したもう一人の女性もドヴィッシーを弾きました。「所沢周辺は民度が高い」と改めて思わされました。ただ、このピアノは所沢駅員事務所のすぐ前に置かれています。朝から晩までピアノの音を聴かされる駅員さんも大変だな、と思ったことです。

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2021年12月9日         才能は双葉より

 ピアニスト・角野隼人をユーチューヴで検索していると、しきりに「カテイン」という言葉が出てきます。何だろうと思っていたら、彼のユーチューヴでの「俗称」であることが分かりました。なお、分かったことは彼には80万人を超えるフォローワーがいて、大人気だということでした。ユーチューヴには彼の幼稚園時代の演奏もアップされていました。椅子を高くし、ペダルに下駄をはかせてもらって、ショパンの難曲をその小さな手で軽々と演奏していました。ジャズも、即興演奏も、ポピュラーも、アレンジも、作曲も、その上、ドラムも、サックスも自由自在にこなして来ていることも知れました。しかも、彼は開成中学から開成高校、そして東大理科三類に進み、東大総長賞まで受賞しています。恐れ入った人物です。しかも26歳。ミス東大の山崎某が現在の恋人であるとか。

 なぜ、こんな秀才が生まれてきたのか? 探ってみると、母親は桐朋音大でのピアニスト、千葉県八千代市で「角野音楽教室」を開いています。彼には妹がいて角野未来。芸大出のピアニスト。たいした家庭です。父親はどんな人かと探ってみたのですが、全く表には出てきていません。興味津々です。いずれ、判明するでしょう。なお、分かったことは、角野隼人はショパンコンクールで2位に入った反田恭平と同居していたこともある親友同士だったことです。ライバルと親友であり彼の入賞を心から祝福したそうですから、「人間としても出来ている」と言えるでしょう。

 全身が音楽で溢れている角野隼人から目を離せなくなりました。  

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2021年12月8日        日本人収容所

 今日の朝刊の第一面は、戦争勃発と同時に、アメリカ国内にいた日本人、日系人を強制的に集めて収容した施設についてでした。周囲とは隔絶されたところに作られ、アメリカ国内には何か所もあったようです。その収容所に送り込まれた一人に加川文一が居ました。山口県出身の詩人です。彼は収容所内で機関誌を発行し、無聊を託つ収容所内の日本人の慰めとしました。

 加川文一の存在と、その偉大さを教えてくれたのは、当時、交際のあった小倉西高の英語の先生・林信子さんでした。機関誌の現物が保存されていた港区の国立中央図書館へ行ったり、小倉の民間放送局に出演したり、地元の山口新聞に取り上げてもらったりしました。林先生の精力的な活躍が実を結び始め、加川文一に脚光が浴び始めた途端、文一の実弟とひょうする人から横やりが入りました。「兄についてはこれ以上公にしないでくれ」というのです。理由は何故だか分かりません。そのため、加川文一という優れた詩人の掘り起こし作業は頓挫してしまいました。私の仕事部屋には文一の詩の一片の色紙が掲げられています。それを見るたび、私は勇気を貰っています。林先生は小倉西高を定年退職されてからご主人の実家の佐賀の嬉野に移り、幸せにお暮しです。時々、メールをくださいます。 

 

       たれにゆだねん夢にしあらず

   ひと日 ひと日をおのれのものとはせよ

   道をあやまたざりし日の心を

   いま、再びあたためよ

   おのれの胸に入れよ

   空虚なる言葉を吐きて

   また おのれを

   吐きつることなかれ

            加 川 文 一 

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2021年12月7日           戦争体験

 昭和16年12月8日は、アメリカを相手とする太平洋戦争が始まった日です。私が5歳の時です。そして、それからの4年間、戦争に翻弄されました。敵B29爆撃機の大編隊の轟音、敵機に届かずに途中で息切れする高射砲の炸裂音、そして灯火管制、防空壕体験、、、、はたまた、鉄砲を担ぎ悲壮な面で、新井薬師前から中野駅方面に向かって行進する兵隊さんの軍靴の響き。道の両脇で日の丸の小旗を打ち振るモンペに割烹着姿のご婦人たちの群れ。その陰に隠れて軍歌を一緒に口ずさんだ少国民といわれていた私たち、、、、、、お米はすべて配給制で、甘いお菓子などすでになく、あったとしてもサッカリンの奇妙な甘み。いつも、お腹を空かしながら、それでも懸命に覚えた軍歌や国民歌謡の数々。当時、私は上高田国民学校の一年生。毎朝、全校生が直立不動する中、フロックコートに白手袋の校長先生が学校正面に建てられた奉安殿の扉を開け、恭しく教育勅語を取り出し、朗読する毎朝の行事、、、それでも太平洋戦争の緒戦は日本軍は東洋のあちこちで勝利を収めていました。戦争が長期化するに及んで日本軍の敗色は濃厚となり、東京が空襲されるようになりました。学童集団疎開が始まりました。昭和20年の1月、新井薬師の家に残る母親に見送られて福島県浜通りの富岡へ、上高田国民学校の最年少として集団疎開の一員になりました。東京の下町はその年の3月10日、山の手は5月25日に大空襲を受け壊滅しました。家に焼夷弾が落ち、焼け出された母は命からがら福島まで私を迎えに来て、母の郷里の長野へ辿り着きました。その母も15年前に亡くなり、戦争の無意味さを目の当たりにしてきたのは、私たちの年齢の者たちだけになりました。 

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2021年12月6日            変 異

 世界の人種は、およそ三つに大別されます。コーカロイド、モンゴロイド、ネグロイドです。平たく言えば白人、黄色人、黒人です。最初のコロナは中国の武漢、いわゆるモンゴロイドの中で発生しました。「一帯一路」の掛け声に乗ってコロナはヨーロッパに渡り爆発的な感染を繰り広げるうちに、変異しました。デルタ株です。そのデルタ株がアフリカに飛び火してまたまた変異しました。南アフリカで発見されたオミクロン株です。

 このオミクロン株は発見されたばかりで、どのくらいの脅威を内蔵しているのか、今のところ、まだ、詳しく分かっていません。既に日本にも入ってきています。チニジヤの外交官が持ち込んだものです。

 僅か数か月前の7,8月のオリンピックの頃、日本国内の感染者数は爆発的に増え、医療崩壊まで引き起こしました。それなのに、何故か、秋風が吹き始めると共に感染者数は劇的に減少し始め、感染者ゼロの都道府県も出始めました。何故か?専門家でさえ、首を傾げているのですから、素人に分かるはずもありません。お陰でマスクの習慣は抜けないものの、久しく待ち望んだ日常生活が戻りつつあります。日本のこの現象は、いま、世界の驚きになっているほどの驚異的現象と捉えられています。恐らく、大和魂の結束の賜物でありましょう。しかし、問題はこの先です。どのような防御態勢をとっても、新たに変異したオミクロン株は、やがて、日本中に蔓延するのではないでしょうか? かてて加えて、世界の人種は先に述べたように大まかには三種類ですが、細かく言えば、更にさらに分化されます。同じモンゴロイド系であっても、韓国人と日本人とは見かけは同じように見えても人間の中身は全く違います。恐らく、頭の中の構造も違っているでしょう。という事は、コロナ菌に対してスキを与えているわけで、オミクロン株が両国で変異し、ジャパン株とコリアン株に変異しないとは、何人も否定できないのではないでしょうか。

 以上、述べたことでも分かるように、コロナ菌はしたたかにして、厄介な代物です。これを生物兵器として生み出し,不注意の末、武漢の生物兵器研究所から漏洩を許した中国共産党の罪は万死に値します。それでもなお、国内の感染者数の隠ぺいを続けている共産党!既にこれによって「予期しない死」を死んでしまった世界の億を超える人たち!中国共産党の殲滅に、どうか、力をお貸しください。   

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2021年12月5日         中国での囲碁対局

 中国で打った囲碁で思い出すのは、中国少年報社の社長温維新さんとの対局です。当時は中国との交流が盛んで、両国の小学生を対象とする書道展が毎年開かれていました。両国の小学生の作品をそれぞれ審査し、賞品が贈られていました。中国は流石に漢字の国だけあって、作品の質はとびぬけて高く、毎年、築地の朝日新聞社の一階ロビーに飾られ、見る人々を驚かせていました。その年、私と編集長、編集次長の三人は北京へ行って表彰式に臨みました。400人ほどの小学生が集まっている会堂で、私は挨拶の一部を北京語でやりました。発音が悪かったのでしょう、会場の笑いを誘いました。その晩、少年報社側で宴を張ってくれました。和気藹々のうちにお開きとなり、誰云うともなく日本の社長は囲碁が強いという話になりました。碁盤が持ち込まれました。私が5段、温社長は3段という事で3石の置石での対戦が始まりました。10人余りの社員さんが対戦を見守ります。だんだん、社長さんの方の旗色が悪くなります。既に老酒をしこたま飲んで、赤い顔した周りの社員さんの舌打ちや、助言が始まります。ルール違反もいいところです。終いには一旦打ち下ろした石を剥がして別のところへ置く始末。これには呆れてしまいました。喧騒のうちに終局となり、作って温社長の3目勝ち。中国語の万歳、万歳の嵐となりました。

 囲碁は元々中国からの伝来ですが、中国より日本の方が盛んで日本の棋士が中国や韓国へ行って、手取り、足取り教えてきました。高川秀格、藤沢秀行など、中国・韓国での囲碁普及に心血を注いできました。現在どうなったかというと、中国が一番強くて韓国が二番。三国の中では日本が一番弱くて、ビリです。観戦マナーも改善され、横から口出しをする者もいなくなったそうです。いま、中国少年報社との日中書道展はなくなりました。私の次の社長の山本博さんが中国嫌いだったためのようです。   

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2021年12月4日           102歳の先輩

 朝日新聞の販売局・販売店で囲碁をする者で組織されている集まりは、コロナ禍のお陰で長らく中止されていました。20人を超える中での最長老は、当時99歳の竹市義弘さんとおっしゃる社員の大先輩でした。世間では99歳は100歳に一つ足りない白寿です。もう3年前になるでしょうか、コロナ禍が始まる前のこと、白寿の祝いを有楽町の「レバンテ」という社員には所縁のあるレストランを借り切って「祝いの会」を行いました。7,80人の集まりになり、遥か岩手県盛岡から川村さん、長野県の上田の鈴木さんなどもお集まりいただき、販売局幹部は勿論のこと、白寿の会は賑々しく行われました。その後、旬日ならずしてコロナ禍の勃発しました。そして今に至るまで囲碁の会は中止の憂き目をくらっています。その竹市さんから、昨日、電話をいただきました。久しくご無沙汰になっている4人の飲み会をやろう、というお誘いです。失礼ながらお年を伺うと102歳になったとおっしゃいます。あと、一年は大丈夫だろう、ともおっしゃいます。100歳を超えてなお、新聞の現状を憂い、 関係者と話をしたい、とは何という情熱をお持ちか、と驚いてしまいました。

 その竹市さんが88歳の時、朝日販売囲碁クラブに所属する8人で、上海へ出かけ、上海囲碁クラブの精鋭8人と国際試合をしたことがあります。私の従弟の桜井靖輝の上海での商売相手、虞さんとおっしゃる囲碁の打ち手が万事お膳立てをしてくれました。中国人選手8人の中に何と8歳の男の子がいました。上海中に知れ渡っている年少棋士だそうでした。対戦相手を決める抽選の結果、88歳の竹市さんと8歳の少年が対戦することになりました。8人の2回ずつの対局は進み、中国と日本はほぼ互角となり、最後の88歳対8歳の結果待ちとなりました。そして辛くも88歳の勝利となりました。負けとなった途端、何と、8歳の少年は泣き出してしまいました。全員で慰めに入り、その後大宴会となり、従弟の靖輝は気を利かして、8歳の少年の健闘を讃え、賞品授与に及びました。この経過は帰国後、私が文章を書いて日本棋院が発行する「週刊碁」に掲載してもらいました。その際、私のミスで竹市さんの年齢を78歳としてしまいました。竹市さんには今もって恨まれています。  

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2021年12月3日          木は会話している!

 つい最近「樹木たちの知られざる生活」という早川書房刊の本を手に入れました。ドイツのペーター・ヴオールレンという森林管理官が書いた本です。それによると「木は仲間と会話し、お互いに助け合っている!!」というのです。「植物は植物同志、人間には分からない方法で会話している!!」というのです。

 わが意を得た思いで読み始め、この本はここ数日間のベッドの友になっています。聖書の冒頭には「初めに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」とあります。言葉を話すのは人間だけではありません。動物だって鳥類だって言葉を発して意思の疎通を計っているではありませんか。魚類はいざ知らず、植物だって音という領域以外の何らかの方法で、植物同志が意思の疎通を計っているに違いない、と類推しても不思議ではありません。この本の著者は長年の経験からその存在が確かにあることを突き止めて、開陳しているのです。

 一方、人間の探究心は止まるところ知りません。原子、分子、中性子のみならず天文学では宇宙の果てまで観測が出来ていて、地球外生物の発見も間近に迫っています。しかし、何故か、身近な植物同志が会話しいるかもしれない領域に迫る、新たな発見は皆無です。次、生まれ変わってくる頃は植物同志の会話が手に取るように分かる時代になっているかもしれません。やがて「私」は死にますが、いく世代を経たのち「私」は必ず生まれ変わってこの世に再び存在します。その時が楽しみです。

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2021年12月2日        ユーチューブでの演奏

 十日ごとに通っているピアノ教室の先生から、クリスマスにかけてヴィデオによる発表会をするが、参加しますか、と問われました。「勿論!」と即答しましたが、今はその苦渋の真っただ中にいます。自分の演奏がユーチューヴに流れ、自分で自分の演奏が見ることができるなど、昔は考えられなかった夢みたいな話ではありますが、果たしてショパンのノクターンをミスなく演奏できるかどうか、これはまた別問題なのです。ノクターンをやるのは3曲目になるのですが、易しいと思えた6番が、意外と難しい。曲の構成は3部に分かれていて、初めは軽快なメロデーで始まり、そこは難なく通過できるのですが、中間部は♯と♭の連続です。しかも勢い込んで弾かねばなりません。この部分にこそショパンのショパンたる所以の華麗にして深遠な音の配列があるのです。その後は讃美歌調に変化します。ここも難なくクリアーできています。既に50回は弾きこんでいますが、中間部の難所をノーミスで弾きこなせないでいます。我ながらイヤになっています。先生は、何ならショパンの別の曲してもいい、とおっしゃるのですが、ここで止めてしまっては何よりショパン様に申し訳ない、あと、50回以上弾きこんで、ノーミスでビデオに収まるぞ、と決意しているところです。

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2021年12月1日         健太 頑張れ!

 立憲民主党の代表選挙が行われ、4人の候補者の中から泉健太が選ばれました。票は割れ、僅差の勝負となりましたが、最後は決戦投票で彼が残りました。

 泉健太は北海道出身。札幌開成高校から京都の立命館大学の法学部に進み、卒業後は長らく議員秘書を務めています。47歳。逢坂誠二は北大出ですが、色紙の字ズラが汚い、との予想通り決選投票で敗れました。意外なのは50歳の香川県出身小川淳也です。東大法学部から自治省の役人になり、選挙では奥さんと二人の娘さんともども勝ち抜いてきた微笑ましい部分もあるのに、パッとしませんでした。唯一の女性候補西村智美は、新潟大学からイギリス留学を果たした才媛です。健闘した、と言っていいでしょう。4人の候補者を推したそれぞれの議員名も公表されましたが、どうしたことか、私が投票し、当選した元朝日新聞記者山下一生の名前がありません。ぽっと出はまだ相手にしてもらえないのでしょう。

 いずれにしろ、アメリカが古くから二大政党であるように、日本も保守・革新の二大政党時代になってもらいたいのです。その皮切りが今度の代表戦です。泉健太の大健闘を祈りましょう。 

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2021年11月30日         紀子さまの娘

 昨日は秋篠宮さまの56歳の誕生日。記者会見に臨まれ娘を嫁に出した苦しい気持ちを、淡々と述べておりました。国民の誰からも祝福を受けるには程遠い今回の結婚であってみれば、その苦しい胸の内が察せられ、同情してしまいました。秋篠宮は学習院在学中に紀子さまを見初めています。同学の川島教授の娘で、同学内の集合住宅にお住まいでした。その狭い空間の中で紀子さまは育ち、何故か、天真爛漫にして笑顔の美しい魅力ある女性に育ったのです。

 その紀子さまが東京駅の大丸デパートで催された朝日新聞社主催の催事にお出でになったことがあります。生憎、社長が不在であったため、専務取締役で販売局出身の前沢健則さんがお迎えすることになりました。お供は宣伝部長の私でした。陸軍士官学校出身の前沢さんは、曲がりなりにも皇室の方々を直立不動でお出迎えし、10人余りの紀子さまご一行に付き添われ、ご案内し始めましたが、アガッテしまったのかしどろもどろの状態。そのたびに、後ろに控えている私に助け舟を要求しました。何が話題になって、どんな御下問があったのかは既に記憶にありませんが、覚えているのは、紀子さまの美しいとさえいえる笑顔、そしてその立ち居振る舞いが実に上品だったことです。秋篠宮は素晴らしい女性と巡り合えてよかったなあ、と心から祝福いたしました。その紀子さまの娘の一人は今や30歳。素性の良く分からない国際基督教大学の同級生との結婚して、皇室を出ました。男の責任は重大です。紀子さまの娘を粗略にしたら「承知センゾ!」と言っておきます。 

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2021年11月29日       イスラエルとタイ少数民族

 運の良さは、まだ、続きます。丁度、三年前の今頃、イスラエルへ行かないかという話が持ち上がりました。シンガポールの日本人教会の牧師である松本先生が主催するイスラエルの旅に参加しないか、というお誘いです。1月の30日から2月の10日まで、シンガポール発イスラエルのテレアビブ行の便はバンコックを経由するので、深夜ではあるがそこから参加してもいい、というお誘いでありました。タイ・チェンマイ日本語教会の鍋谷さん、梅本さん、そして林と私の四人が参加を申し出ました。出入国管理は厳重を極めましたが、キリスト者にとっての聖地であるイスラエルの各地を、十日間、みっちり、回ることが出来ました。大学の卒論で取り上げた「死海の書」の発掘現場へも訪れることが出来ました。実に、実に有意義な旅となりました。このツアーを最後に、コロナによる感染防止のため、イスラエルはあらゆる国の人々の入国を受け入れていません。

 二年前の一月、親友の山崎憲三君の訃報に接し、かろうじて24日のお通夜に参列できたものの、翌朝、タイチェンマイに出発しました。目的は借りていたドッケオという病院敷地内の一軒家を明け渡すためです。月額3万円強を払って借りていました。理由は、空き家にしておく期間が長くなり、ならば、一日700バーツで過ごせるホテルの方が経済的に思えるようになったからです。家財一式は畏友堀田さんにその処分をお願いしました。長らく愛用していたキーボードは堀田さんの指定する少数民族の学校と教会へ行って寄贈しました。堀田さんのお陰で、少数民族の小学校へキーボード、ピアニカ、シンバル、小太鼓など寄贈してきましたが、この件に関しては、まだまだ、道半ばです。コロナ禍が明け、再び、タイ国への入国がOKとなれば、堀田さんの指示に従いながら、命ある限り続ける積りです。チェンマイの奥地の山の中の小学校で、都会とも世界とも隔絶されたところで、日常を過ごしている子供たちにとって、音の出る楽器がどんなに不思議な物体であるか、その好奇なまなざしを見ることがどんなに私の喜びであったかことか、それを遮断しているのがコロナという怪物です。恨み骨髄に達しています。ちなみに、畏友堀田さんに家財一式を処分を頼み、チェンマイから東京に向けて発ったのは2月6日です。堀田さんも少し遅れて青森の大学へ留学する4人の学生を連れて日本へ来ました。しかし、時すでに遅く、その後、旬日ならずしてタイは国境閉鎖しました。そのあおりをまともに食らい、堀田さんはチェンマイの自宅へ戻ることが出来なくなりました。残念でなりません。つらつら思うに、タイ国の奥地の少数民族の学校でそういう経験が出来たことは、私が運がいいからでありましょう。この喜びを教えてくれたのが畏友堀田さんです。そして、巡り合ったチェンマイ日本語教会の多くの人々。私は、自分がこの上ない運に恵まれていることを衷心から感謝したいのです。  

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2021年11月28日                 運がエエか?

ナショナルを興した松下幸之助は入社試験の口頭試問に当って「君は運のエエ人か、どうだエー?」とだけ質問したそうです。そして「運はエエ」と答えた人だけを採用した結果、今日のナショナルがある、と言われています。

 今日は日曜日。一昨日の金曜日、勇を鼓して谷川岳の麓まで行きました。関東平野は快晴でしたが湯檜曽川の出会いは時雨れていて怪しい天気でした。何と、その晩から雪が降り始めたそうです。湯檜曽から藤原、水上にかけて10センチの積雪となったそうです。積雪の道路は不通のタイヤでは走れません。つまり、今年最後のぎりぎりの日に念願の「出会い」へ行けたことになります。何たる幸運だったことでしょう。私は運のエエ人間だなあ、と改めて、そしてシミジミと思いました。

 改めて思い返すまでもなく、私のこれまでの生涯は運に恵まれ続けています。高校生の時、長野教会へ行かなければ柏与印刷の清水さんとの出会いもなかったでしょう。清水さんが主宰する「「ドンドン講」という山登りグループとも無縁だったでしょう。清水さんの姉が永井大三さんの奥さんのいね子さんの兄の石塚俊三と結婚していて、学生時代から永井夫妻の一粒種の謙さんとのお付き合いのお陰で朝日新聞社に入れたことも、大きな運だったでありましょう。何しろ450人の中の8人に選ばれたのですから。大学時代は竹内二郎君という生涯の友にも恵まれました。朝日へ入ればそこに長野高校同学の宮沢恭人君がいました。そして、新聞が紙の媒体として全盛を極めているときに、そこに在籍し、繁栄の絶頂を経験し、現在は厚生年金、企業年金の満額を貰って生きながらえています。その上、良き伴侶を得て三人の男の子を育て、三男はともかく、長男、次男はそれぞれの会社の要職にあって社会のお役に立っています。つくずく、自分は運のよい男だと思わざるを得ません。その象徴が一昨日の谷川岳の天候です。普通のタイヤで入れる最後の日に憧れ場所へ行くことが出来たのですから。

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2021年11月27日        ♪遥かな尾瀬、、、

 昨日は水上の奥、土合の谷川連峰からの雪解け水を受け止める湯檜曽川べりを歩いたのでしたが、その帰り道、沼田で高速を降りました。まっすぐ行けば武尊山を左に見て右折すればキノコ街道から男体山・中禅寺湖へ、直進すれば尾瀬の入り口片品村へ行けるのですが、帰りの高速の渋滞を思うとそのどちらへも向かう元気もなく、沼田出口を左折して川場村の道の駅へ行ったのでした。勿論、キノコが目的でありました。しかし、案の定というか、当然というか、栽培物はあっても、天然物は全く出ていませんでした。

 若い時、尾瀬には2回足を踏み入れました。片品迄はバス。燧岳に登り、尾瀬の全貌を見渡しました。降りてきて桟道を渡り水芭蕉をめでながら、東電小屋で一泊しました。二度目の時は至仏山が目的でしたが天候が思わしくなく、尾瀬ヶ原を突っ切り、福島側の桧枝岐に降り、一泊しました。三度目は福島担当の時、桧枝岐の星さん宅に泊めてもらった翌日、尾瀬を見渡せるところまで登りました。5月の初めで山桜の大木が遅い満開の時を迎えていました。

 燧岳、至仏岳を両脇に控え、広大に広がる尾瀬ヶ原という湿原は、何度でも訪れたい神秘的なところです。もう一度行きたい、とハヤル気持ちはあっても片品村の駐車場までは車で行けても、そこから先、湿原までは2,3時間、山道を歩かなければなりません。わが老体がそれに耐えられるかどうか、今のままでは自信がありません。でも、行きたい!桟道を渡りながら水芭蕉に再会したい!

 そうだ、来年はそれを目標にしよう、身体を鍛えなおそう。夕闇迫る川場村の道の駅から尾瀬の方角に向って、心から呟いたのでありました。 

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2021年11月26日         大渋滞

 快晴の今日、念願の上越国境へ車を走らせてきました。夢にまで出てくる私のとっておきの場所は、土合駅の上の湯檜曾川の出会いです。そこに車を置き、川に遡ってしばし歩きます。今年の若葉の頃もそれをしました。今日は、関東平野は雲一つない快晴なのに、その川に遡る道は時雨れていました。これから半年以上、このあたり一帯は雪に埋もれ、マチが沢、ユウの沢、一の倉沢、芝倉沢を登るか降りてくる山男のみが通る湯檜曽川添いの道となるのです。できれば、ロープウエイで上まで上がりたかったのですが、既に運航停止となっていました。谷川全域が雪に埋もれ、スキー客で賑わうまでお預けなのでしょう。

 既に人が寄り付かなくなっている谷川岳周辺をよそに、驚いたのは関越高速を始め道路という道路が車で溢れかえっていることでした。至る所で渋滞が発生していて行きも帰りもかなりの時間を要しました。コロナが小康状態になり、経済活動が急激に回復基調になり、抑えられていた物流が、この時とばかり爆発している昨近の状態をイヤというほど感じました。鶴ヶ島の北関東自動車道への分岐では5キロは超える渋滞が起きていました。所沢の出口では10キロ近くの渋滞でした。今まで見たこともない景色でした。抑えられていた不満が大爆発を引き起こし、それが道路の大渋滞になっているのでしょう。 人間の「イジラシサ」をイヤというほど感じた一日でした。 

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2021年11月25日        鬼門の月

 もう間もなく、12月です。年の瀬です。どうしたことか年の瀬から年始にかけては私にとっては鬼門の時です。身体的不調に狙い撃ちされてきたのがこの時期なのです。今日は、先手をとって二年以上ご無沙汰していた新宿若松町の東京女子医大病院へ行ってきました。最近この病院は誤診があったりして評判を落としていますが、今日行ってみたところではソコソコの賑わいでした。コロナが収まってきたせいか、入り口での厳重な体温測定も、強制的な消毒もありませんでした。7月の清瀬の複十字病院の厳重さに比べて、その違いに、まず驚かされました。

 振り返ってみれば、不整脈のアブレーション手術を受けたのも12月です。胆嚢摘出手術も、最初は救急車でこの病院へ運ばれました。それも12月。名古屋で尿管結石を発症し、摘出手術を受けたのもこの病院。しかも、12月。だから、先手をとって、2年以上ご無沙汰していたこの病院を、今日は耳鼻咽喉科の初診で診察を受けたのでした。しつこい右耳の耳鳴りを「どうにかならないか?」と訴えたのです。聴力検査は私の年齢にしてはいい方だ、と結果が伝えられましたが、「耳鳴りは治らない、薬もない、耳鼻科学会としては耳鳴り不治の病であると患者に伝えてよろしい」とのご託宣。これにはガッカリしてしまいました。

 来週の月曜日は再び同病院の泌尿器科です。今日、予約を入れました。これといった症状はないものの、腎臓、尿管、膀胱、は私にとって鬼門の臓器です。なぜなら私の父も、腹違いの兄も腎臓疾患で亡くなっています。父の場合は東北出張の帰り、列車内で発症し、福島駅で救急車で大原病院に運ばれ命を取り留めています。それも12月。私も12月26日衆議院選挙報道の夜中、フグ毒に当って同じ大原病院へ担ぎ込まれました。金の入った命より大事なカバンは母親と義父が有楽町の朝日本社へ届けてくれていました。「中沢はフグで死んだらしい」との噂で持ちきりの販売局員全員による 30日の局内の打ち上げ宴のさなか、私がひょっこり現れたものだから、やんやの拍手と喝さいを浴びました。それも12月。

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2021年11月24日        大行列・大渋滞

 紅葉は今が盛りです。「そうだ。京都へ行こう」とホテルや新幹線時刻表など、ネットで調べ始めました。嵐山の大河内山荘へ行くのは何年ぶりかなあ、と期待を膨らませていたところ、今日のテレビ朝日のモーニングショウで昨日の京都が映し出されました。何と、嵐山も嵯峨野も、清水寺の二年坂、三年坂が人、人、人で溢れかえっているではありませんか。渡月橋は歩道も車道も大渋滞、嵯峨野駅のトロッコも大行列。「ウヘー!」となりました。堰を切ったような人の波、車の大渋滞、、、恐らく京都中が人人人、車車車で溢れかえっていることでしょう。人の想いはいずれも同じだ、と恐れ入ってしまいました。いくら京都に憧れるからといって、大渋滞や、大行列の中に身を置きたくはありません。潔く、京都は諦めることにしました。

 第二の候補は上越国境です。水上から谷川岳周辺は既に雪を被っているでしょうが、渋川で関越を降りて尾瀬へ向かう道なりの紅葉も見事です。中禅寺湖に向うダラダラ坂道の両脇にはキノコの即売所が並んでいます。「そうだ、キノコだ!」と思い立ちました。数年前、水上の道の駅にキノコが出ていないのを不思議に思い、尋ねてみたところ、福島県はもとより、栃木、群馬でも放射能汚染のため、キノコ類の一般販売は停止になっていました。ネットで調べたところ解除になったとの文言を見つけることが出来ません。

 京都の紅葉といい、上越のキノコといい、コロナと放射能は秋の楽しみを台無しにしてくれているなあ、と改めて思ったことです。

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