最近のエッセイ(37)

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2019年6月24日         沖縄玉砕

 昨日の23日は沖縄が玉砕した日です。昭和20年、戦況は著しく悪くなり日本列島の各地はアメリカ軍のB29による爆撃を受けました。東京も3月10日、5月25日に壊滅的被害を受け、20万人を超える人々が亡くなりました。沖縄も艦砲射撃を受け、上陸されます。そして沖縄の各地にあるガマと云われる洞窟に隠れている非戦闘員、いわば民間人が、米軍の火炎放射器によって次々に焼き殺されていきます。それに耐えられず、万座毛という崖から自ずから海に身を投げ込んで自害して逝く人々もありました。海の靑が朱に染まったそうです。

 この激しい戦いでイノチを落とした者は24万人を超えます。日本人は軍人と民間人を合わせて約22万人、アメリカ軍人が約1万5000人、日本人以外の民間人が約8000人。

 この戦いで命を落とされたすべての方のお名前が刻まれた石碑が林立しているところが沖縄にあります。平和記念公園です。断崖の上に立つこの丘の海側には永遠に点されるに違いない火が燃えています。それを囲むように大きな御影石が整然と並んでいます。お亡くなりになったすべての方のお名前がその御影石に刻まれています。23日が近づくと身内の方々が三々五々やって来てお名前の前に供物を供え、石碑のお名前に手を置いて優しく撫でます。初めてそれを見た時、不意に涙が溢れて来て止まらなくなりました。慌てて断崖の側まで行って海に向かって思い切り泣きました。どれだけ泣いていたでしょう。その23日が昨日でした。

 

2019年6月21日         落ち目の三度傘

 

 大雨が降ったり、日照りが続いたりで、自宅の上がりかまちに植わっている洋梨の枝振りの成長が著しい。電話線はおろか、高圧電線にまで届こうとしているのです。今まで、枝振りが目に余るようになるとNTTや東京電力に連絡し、はしご車に来て貰って処理していました。

 今年もお願いしよう、とNTTに電話を入れました。ところが中々電話に出てくれません。「混みあっています、、、そのままお待ちください」こちらも意地になって待ち続けました。20分は続いたでしょうか。やっと通じて事情を話したら「枝葉の伐採は今は有料になっています」「いくらかかるのですか?」「見積もりに伺います。伐採するためのはしご車を使いますので人件費と合わせて1万円は超えると思います」「へえー!」一時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったNTTがここまで堕ちたか、と哀れになってしまいました。

 朝日学生新聞に在籍していた頃、本社の関連企業室が主催する関連会社役員研修会が三浦岬の「NTT研究所」でおこなわれたことがあります。テレホンカード全盛の頃で、目に付くところ、公衆電話が林立していました。しかし、この研究所では将来はテレホンカードも電話機も無くなり、個人個人が腕時計のように携帯できる個人電話に取って代わる、と予見していました。その時NTTの存在はどうなるのですか? と聞きましたら「電話線を貸すだけの会社になります」という淋しい答えが返ってきました。

 電話線に接触する立木の枝などを除去するのは、これは消費者の責任においてやるべきなのでしょうか? それとも保線作業としてのNTT側がやるべきものなのでしょうか? 一つだけ言えることは、あの巨大産業であったNTTも零落れたものだなあ、と思ったことです。

 

2019年6月19日         早稲田界隈

 

 本の印刷のことで依頼人の羽鳥君と10時に待ち合わせて、九段下のウイル・ダイレクトという会社へ行きました。その帰り道、東西線を早稲田で降り、大学へ向かって歩き出しました。古巣を訪ね、昔、歩いた高田馬場までの通りを辿ってみたくなったのです。50円の定食屋さん「おふくろ」は無くなっていました。高嶺の花だった高田牧舎は更に立派になっていました。株式投資に凝っていた頃、特別夏季講習を受講しましたが、その時の昼飯はここでした。受講生の中に妙齢の婦人がいて席が偶然隣り合わせになり、昼飯を度々ご一緒しました。当然、その時だけのお付合いでしたが。

 我々の校舎だった図書館の隣の8号館は商学部校舎になっていました。我々のころは地下に生協がありましたが、どこへ行ったか、探してみると昔の理工学部裏の相撲道場後に移っていました。そこには体育会事務所と柔道部はありましたが土俵はありませんでした。そういえば理工学部も明治通り沿いに移っているのでした。本校舎も所沢や本庄に分散されているようです。道理で構内は閑散としていて落ち着いた佇まいになっていました。我々のころは構内至る所、学生、学生で埋まっていたことを思うと格段の差です。

 押し合いへし合いする8号館の同学部同学年の隣の教室に、小柄で風采の上がらない、どこにでもいる学生がいました。後に首相になった小渕恵三です。群馬県の豪農の倅でしたから何不自由なく甘泉園の畔に屯する弁論部「雄飛会」などに所属し基礎を築くことができたのでしょう。私は、というと学費から生活費まで自分でやり繰りです。アルバイトに明け暮れ学業どころではありませんでした。とうとう、単位が不足し留年を余儀なくされました。ただ、山男だった吉沢君も留年でした。友達は皆、社会へ飛び立って行きました。NHKへ行った渋谷、柿崎、テレビへ行った中市、山田は共同通信、親友だった竹内と市川はそれぞれ学研と京都新聞、ボス的存在だった君島は全日空、山本は都庁、三村は雪が谷高校の英語の先生、、、、

 しかし、ここで挫けなかったのが私の取柄だったかも知れません。一層アルバイトに精をだす一方、本を買い、時事問題に精通するなど猛勉強を開始しました、、、、

 高田馬場駅から大学までの往復の道は、私にとっては青春そのものでありました。お昼時でしたので、どこかで食事しようかと思ったのですが、いつの間にか駅に着いてしまいました。そういえば、学生の時もこの往復の道で外食したことがなかったのを思い出しました。立ち寄っていたのは古本屋だけでした。その古本屋も寂れてほんの7,8軒余り。一冊50円の文庫本が店頭に並んでいました。

 

2019年6月15日        熱海と老人

 泊りがけで囲碁を打つ会があって、熱海のニューフジ屋ホテルへ出かけました。囲碁仲間の「土曜会」「八重洲会」のメンバー15,6人が一堂に集まる年一回の行事で、かれこれ15年以上続いているでしょうか。

 今は亡き宮沢君が九州の局長時代、そしてその後を継いだ私がヒマをつくっては烏鷺を戦わせて貰った竹内俊次さんも毎回小倉から来て参加しています。竹内さんは朝日新聞創刊以来100年以上続いている販売店の跡取りで、西部本社の社員であった時期もありました。彼は9段、私は7段での出場です。

 午後一時、ホテルの11階の囲碁の会場へ着いてビックリしました。100人からの人ですべての碁盤が埋まっていたのです。中には女性もいましたが、白髪と禿げ頭がぎっしり。夜の宴会場は言うに及ばず、朝食バイキング場は300人ほどの席がすべて埋まり、そのほとんどがご老体ばかり。料理とは名ばかりのさして旨くも何ともない朝食に群がっていました。

 伊藤園というお茶屋さんが熱海のホテルを次々に手に入れ、人手を使わず合理的な経営をしている、そのお蔭があってか、火が消えかかっていた熱海が復活を遂げている、とは聞き及んでいます。でも、近くのスーパーまで「伊豆の夏みかん」の買い出しにでたついでに繁華街を歩いてみましたが、商店の賑わいは戻っていません。しかも、若い人を見かけなくなっているのです。市の第二庁舎近くのスーパーも店内を歩いているのもご老体ばかり。

 早稲田時代の同級生に熱海市長の息子の川口達雄君がいました。彼は親父の跡を継ぎ20年ほど市長をやりましたが、衰退する熱海をどうしたものか、愚痴やら相談やらを何度も受けたことがあります。経営難に陥った名園「起雲閣」を市営にしたこと「虹色の海岸」をつくったこと、その苦労話を聴かされました。熱海にも稲門会があって「赤尾ホテル」が会長を務めていたこと、池田満寿夫の葬儀委員長をやったこと、など囲碁を打ちながら縷々聴かされました。彼も囲碁は6段の腕前でした。

 ホテルの11階の露天風呂に浸かり、熱海を一望に収めながら、つらつら思いました。立ち並ぶ高層建築の部屋ごとにそれぞれの一生を過ごした老人がいて、何をするでもなくその日を待っている、それが熱海では、と。

 

2019年6月12日       衰退する日本音楽

 今、テレビやラジオで日本古来の音楽、筝曲、長唄、浪曲、民謡、小唄、端唄、都都逸、など聴いたことありますか? お能や狂言の露出は時々あっても全く聴かなくなりました。何故でしょう?

 思うに、これらは伝承音楽であるために、お師匠さんに付いて習う若年層がいなくなっているからだ、と思うのです。早い話、伊豆や熱海にかつては芸者衆が大勢いたのに今は数えるほどになっています。つまり、日本の古来の音楽を伝承するわけにはいかなくなってしまっているのです。芸事をこなし、伝統を守って行こうという若い女性は京都の祇園あたりに僅かに存在するだけで、ほとんどの観光地では見かけなくなっているのです。日本音楽の担い手が皆無近くになっているのです。

 それではならじと僅かに上野の芸大には日本音楽部がありますが、在学しているのは日本音楽各流派の子弟だけのようで、全くの隔離された世界になっているやに聞き及びます。つまり、150年前に巷では盛んに謳われていた、端唄、小唄、長唄、都都逸、常磐津、新内、一中節、浪曲、民謡など、今やそれらを伝承する人間が全くと言っていいほど居なくなっているのです。

 時代は替わるもの、と言ってしまえばそれまでですが、その昔、全盛だった伝承音楽を捨ててしまっていいものでしょうか。とはいっても、誰もやらなくなっているのですから、廃れに廃れて消えていくのはやむを得ないでしょう。少なくとも私は、私だけはこの傾向に竿を指したい思いでいます。三味線音楽に堪らない愛着を覚えているのです。それもこれも年寄になった証でしょうか。今は6月、長唄でいえば「岸の柳」です。「♪つくーばぁねぇーの、すぅがたーぁー、すずぅしーくぅー、夏衣もーー」浪人学生だった頃、川崎の大島町に30人ほどの弟子を持って長唄道場を構える伯母(芸名杵屋弥直登)のところへ通って、この一曲を三味線で弾き、唄えるまでに仕込まれたことを懐かしく思い返します。

 そのお蔭かどうか、朝日新聞に入社させてもらって販売担当員、次長、部長、局次長、局長として東北6県、信越、富山、北関東三県、西部本社では九州全県と山口県、と担当させてもらいましたが、どこへ行っても宴会では困ることがありませんでした。福島では「新相馬」、新潟では「岩室甚句」、秋田では「秋田音頭」、九州宮崎では「刈干切唄」、、、山口県では長府の「古串屋」という名だたるお店で、当地の会長でいらした安藤さんという方とフグの大皿を前にして高杉晋作の都都逸「三千世界のカラスを、、、」と唸ったのも懐かしい思い出です。

 いま、巷ではグループサウンズが全盛です。同じ弦楽器でも電気を使って増幅し、ばかでかい音にしてガ鳴り立てます。聴衆はライトを振り振り陶酔することを持って音楽としています。音そのものの持つ味わいなど皆無と言っていいでしょう。今は全盛でも、今から100年後これらの音楽はどうなるのでしょう。人工知能に取って代わられるような気がしてなりません。その音を、墓場から蘇って聴く積りでいます。

 

2019年6月10日           皇 室

 昨9日は令和天皇と雅子さまの結婚記念日でした。赤坂御所には上皇ご夫妻を始めお身内の方々がお集まりになり、和やかな祝宴が催されたようです。雅子さまの一連の「お持てなし」ぶりが世間の、いや、世界の耳目を集めましたから、お二人に対する賞賛が、集まった方々の心を捉え、殊の外和やかな祝宴になったことでしょう。こちらまで嬉しくなります。

 唯一、皇室問題での懸念は、将来、天皇陛下の叔父になろうかという「小室圭」という男の存在です。拍手を持って祝福したいという国民がほとんどいないという現状を洞察出来ず、乙女心を逆手にとって将来の皇室入りを当然のように前提にしているこの男、和やかな皇室に刺さる「とげ」のような存在、と思われてなりません。母一人子一人で、母親が借金まみれの上に、そのお金を、返す、返さないですったもんだしている、それなのに本人はアメリカのロースクールへ金もないのに留学している、日本の司法試験に合格しているならまだしも、ニューヨーク州の資格を取ったからといってアメリカでの生活が保障されるのか、将来が全く分からないこの男に将来の天皇の叔父になる資格だけは与えられている、果たしてこれで国民は喜んで納得するでしょうか。

 私自身の80年の生涯で、皇室の方とお話しする機会は2回だけありました。日本社交ダンス競技会決勝大会が後楽園で行われた時です。主催が朝日新聞社でしたので、主催者は夫妻での出席が求められました。役員席の中央に座らされましたが、家内の隣りの席が空席になっています。なんと、そこへ高松の宮様が現れてスクッとお座りになりました。宮様はこの競技団体の総裁でいらしたのです。私はそのことを知っていましたが、まさか、お隣へいらっしゃるなどとは露知らず、まして家内に耳打ちするわけにもいかず、ハラハラしながら成り行きに任せました。畏れ多くも、家内は気さくなオジサンと思ったようで盛んにおしゃべりしたり笑い合っていました。優勝者が決まって宮様は席を立たれましたが、宮様と知った家内は「失礼なこと申し上げなかったかしら」と青くなっていました。

 二度目は、高円の宮様ご一家が、朝日メイトが主催する昭和女子大講堂で催された音楽会にお出でになった時です。宮様は不幸にしてスカッシュの練習中にお亡くなりになりましたが、その時は、まだ小さい女のお子さん三人を連れておいでになりました。宮様のお隣に座ってご下問にお答えさせてもらいました。休憩時間には5人の方を控室にご案内し、用意しておいた紅茶とアマンド特製のショートケーキをお出ししました。三人のお嬢さん方は父上様の分まで横取りして食べてしまいました。何故か、備わった気品というものは宮様ご本人以外からは感ぜられず、正に庶民的な感じを受けたのは妃殿下が宮様の秘書をなさっていた一般庶民だったせいかもしれません。その、三人のお嬢さんの内のお一人が、出雲大社の宮司の奥方になっておいでになるとは、、、、

 

2019年6月6日          天安門事件

 丁度、30年前の6月4日、天安門広場のデモ隊に向かって軍隊が火器を発射して大勢の市民を虐殺する、という事件が起きました。この事件を歴史的に無かったことにしよう、というオゾマシイ動きは、いま中国では活発です。

 今からほぼ半世紀前の正月休み、小学校5年、6年生の長男、次男を連れて四人で北京へ西武旅行社に手配してもらって行きました。一人14万円払込ました。現地で流通している人民元は使えず、外国人専用の兌換券に両替しました。北京は猛烈な寒さだったので免税店で中国人の殆どが着ている綿入れの青いガウンを買い込み、夜の天安門広場にまかり出ました。薄暗くて広大な広場は何故か、人、人、人で溢れ返っていました。恐らく二万人はいたのではないでしょうか。その群衆は何をするでもなく、ただ、ただ突っ立っているだけでした。膨大なエネルギーをそこに感じました。建面飯店というホテルは建てつけが悪く、隙間風に悩まされました。売店には何もなく、しなびたリンゴしか売っていませんでした。夜通し表を通る大型トラックの空車の音に悩みました。うとうとした途端、「シャーッ」という戸外からの連続音で完全に起こされました。ホテルの直ぐ脇が広大な交差点になっていて、自転車の大洪水になっていたのです。車は、というと自家用らしき車など走っていませんでした。

 それがどうでしょう。二回目はおよそ20年前、中国少年報社との相互交流で同社からの招待で北京へ行きました。同社と朝日学生新聞社との日中友好書道展は10年目を迎えていました。毎年、中国での応募約2万点の中から上位を選び、中国から送られたものから更に選び抜き順位を付けて筑地の朝日新聞本社のロビーに飾ります。私の次の社長の時代に日中関係に齟齬が生まれ、一時中止となり現在に至っていますが、、、、

 その時の北京訪問では200人ほどの小中学生を集めた表彰式に出席しました。片言の中国語を交えて社長式辞をしました。子供たちが盛大に笑ってくれました。翌日は北京の小学校への公式訪問です。学校は私たち三人をブラスバンドで迎えてくれました。高学年の生徒が一人一台のパソコンを使っているのを観て驚嘆しました。その翌日からは観光です。編集長の王儀生さん、女性編集者の馬衛東さんの案内で西安、上海へ行きました。

 当時、中国には地方新聞社が1350社、子供相手の新聞社が350社あるのを知りました。上海の新聞社を訪ねると、子供だけで編集しているページを持っていました。今に、中国はオソロシイ国になるぞ、と予感したのを今更のように覚えています。

 その後、上海へは7,8回ほど行きましたが、北京へは2回だけに止まっています。今の北京がどうなっているか? このところ、もう一度北京をこの目で視たい、という欲望が腹の底から湧いてきています。恐らく、中国での紙の媒体も日本と同じように衰退しているでしょうが、その実態につぶさに接して来たいではありませんか。国営企業の人民日報、中国青年報、中国少年報、部数はどこまで落ち込んでいるのでしょうか?

 今年の秋ごろには行きたいではありませんか! スモッグの中の北京秋天そして、三大珍味の北京ダック、、、、

 

2019年6月3日                         インクの値段

 ここ20年来、キャノンのプリンターのお世話になっています。機能的には全く申し分ないのですが、唯一の欠点はインクの値段が高いことです。当初はかなり使っても大丈夫だったのに、今は同じ値段のインクも容量が少なくなっていて、直ぐ、補充に追い込まれます。そのくせ、プリンター本体は頗る廉価です。キャノンはインクという消耗品で儲けているのでしょう。

 依頼されていた「山と短歌」は漸く編集、校正が完了して、印刷製本の段階までこぎつけました。184ページをタコ糸で綴じ、ボンドで背を固定し、乾いたところを木槌で叩いて丸背にし、寒冷紗を貼り付け、表紙にする加賀黄ボールをクロスで蔽い、多色刷りのカヴァーを掛け、帯びで包んで、一丁上がり、といういつもの工程を、この梅雨から真夏にかけて、工房に篭もってやるつもりでいました。

 ところがです。冊子印刷を専門にするオートメ工場が石川県金沢に存在するという話を5月27日のある会合で訊きました。早速、昨日、神田神保町にある「冊子印刷専門ウイルダイレクト東京出張所」へ依頼主の羽鳥君と待ち合わせて出かけました。驚きました。110キロのマットコートという写真の上がりが良い紙を使い、184ページをフルカラー印刷し、しかも、表紙に厚紙を付けて冊子にした場合、100部で何と12万円、200部で13万円、300部で14万円とはじき出されました。つまり100部だと一冊1200円、200部だと650円、300部だと440円ほどの単価で出来上がるという見積もりになったのです。

 これと同じことをキャノンのプリンターでやったらどうなるか? 恐らくインク代だけで200部で20万円を超えるのではないでしょうか。しかも、何とかケチってキャノンの純正でないインクを使おうものなら、プリンターは直ぐそれを見ぬいて異議を唱えます。

 ではどうやって中身の印刷を外注しながら、ハードカバーを美的に取り付けていくか、あるいは、厚紙だけの表紙で完成させるか? それが課題です。今度の打ち合わせは6月11日です。

 

2019年5月30日         国 賓 

 報道で見る限り、令和初の国賓接待は何事も恙がなく落着したようでご同慶でありました。殊に、雅子さまは水を得た魚のように大役を果たされました。目出度し、メデタシでありました。

 宮中晩餐会の模様はユーチューブにアップされていましたので、始めから終わりまでその様子を見ることができました。大柄なトランプ夫妻から見ると両陛下はまるで子供の様でした。

 一方、韓国の議員団も日本を訪問しています。こちらの方に対する扱いは実の冷ややかなものがあります。「一体、何しに来たの」と云わんばかりのおもてなし振りです。慰安婦、徴用工、レーザー照射問題など確かに韓国政府は何一つ解決しようとしていません。ユーチューブには「韓国とは国交断絶も止む無し」との極端な意見が充ちています。

 それなのに、文大統領は日本との問題に一切触れることなく今日明日にもスカンジナビア半島へ出向きます。フィンランドとスエーデンで国賓として迎えられるからです。韓国に対する日本世論がこれほどまでに悪化しようとしている最中にです。ちょっと違うのではないか? と私でさえ言いたくなるほどの日韓関係はどうなるのでしょう。

 

2019年5月24日         トランプにも功績が

 トランプ大統領が日本へやってきます。千葉の茂原のゴルフ場へ、ヘリコプターで行って16ホールプレーし、その晩は宿舎近くの六本木の焼き鳥屋で会食だそうです。恐らく、狭い階段を上がり、囲炉裏を囲んだ焼き鳥屋でしょう。かつてカーター大統領がえらく気に入った小さな店です。いまでも、その席には小さな銀のプレートが貼ってあって、トランプさんもそこに座るのでしょう。翌日は国技館の砂被りで相撲観戦です。そして優勝力士に対して「ヒョウショウジョウー」を渡す段取りだと云われています。

 月曜日は令和初の国賓として皇居訪問です。そしてその夜は宮中晩餐会と続くようです。雅子さまが大統領夫人にどんな「おもてなし」を用意されているか、上手くやってくれればいいなあ、という思いです。何しろ私は雅子さまフアンなのですから。ついでながら、雅子さまのお妃決定の特ダネはやはり朝日新聞でした。新聞記者松山幸雄さんがその人でした。彼は論説主幹を辞めた後、桜ヶ丘ゴルフクラブの会員となり、同じ会員だった宮内繁、宮沢恭人と月一でプレーを楽しんでいました。時々、私も呼ばれていました。閑話休題。

 時に、米中の経済摩擦は想像を超えた段階に突入しつつあります。25パーセントの関税、ファーウエイを含む中国製品の国外排除、中国留学生の国内受け入れ拒否などなど、、、その原因はアメリカの衰退と中国の台頭です。当初、アメリカは中国が共産党一党支配でも、民主主義国になると踏んでいました。あにはからんや、中国は「一帯一路」を掲げアメリカに替わって世界の覇権を握ろうとする動きを顕在化させています。しかも、これから本格的に始まるに違いないAI−5Gという途方もない情報社会でアメリカを追い越す勢いを見せています。相手国の重要機関のPCに進入し、情報を不当に盗み出すことに従事する人間の数、いわゆるハッカーの数は中国がと飛び抜けていて約15万人。アメリカが約3万、日本はというとおよそ3000人、、、、北朝鮮にも1万人はいるそうです。中国製スマートフォン・ファーウエイの一台、一台には秘密のチップが搭載されていて、中国の15万人にあらゆる情報が筒抜けだそうです。「タダで盗むことを基本にして国を大きくしてきた中国」世界はやっとそれに気が付いたのです。

 トランプ大統領の恐らく唯一の功績は、中国の横暴に目を剥いた、ということでしょうか。

 

2019年5月21日            傲岸不遜

 厚顔無恥ならまだ可愛げもありますが、傲岸不遜となるとこれはもう救いようがありません。その典型が、今回、アクセルとブレーキの操作を取り違えて重大事故を起こした東大卒通産官僚の飯塚幸三という87歳の輩です。何の罪もない母娘を殺し、大勢の人や車を巻き添えにしながら、自分も怪我をしたからと云って入院してしまいました。本来、自分の身体がどうなろうと、這ってでも被害者のところへ行って謝るべきなのに、それをしていません。昨日、奴は退院して来ましたが、大きなマスクに色眼鏡、深々と帽子を被り素顔を見せません。そして、事故の原因はブレーキの故障とあくまでも車のせいにしています。テレビ画面で見る限り彼は両手に杖を持ち足の運びはよぼよぼです。自己過信による典型的な交通事故でありましょう。

 こんな男の車によって殺された三歳のお嬢さんとその母親が哀れでなりません。更に許せないのは警察の態度です。一般人なら即逮捕されるべき重大事故なのに、証拠隠滅の恐れがないためという理由で放免されています。そこに、官僚同士の忖度があったと言わざるを得ないでしょう。いやな、イヤーな事件です。

 この事故のせいもあってか、高齢者の免許取得について世間はいま、喧しくなりました。免許返納者がにわかに多くなった、と報道されています。

 私自身も80歳を過ぎた高齢者であるため、これは人ごとではありません。50年余の運転歴の中で、駐車違反以外の罰金刑を受けたことはありません。2年前の高齢者運転試験では、学科、実技とも及第点を貰っています。目も、耳も、運動能力も以前のままです。でも、こういう認識が危ないのかもしれません。「自己過信」という化け物です。早晩、自転車に切り替える必要があるかも知れません。しかし、タイ・チェンマイではどうするか? 練馬とは違い、あそこでは車がないと生活できません。でも、でも、遅かれ早かれ決断の時は迫っているのです。飯塚野郎の二の舞だけはしたくありません。

 

2019年5月16日        もしかすると     

 昨日は有楽町マリオンの朝日ホールで行われた「朝日旧友会定時総会」へ出席しました。18年間会長であった中江さんが秋山元社長にバトンをタッチする節目の会でもあったので、久しぶりにネクタイ姿で出かけました。

 白髪と禿げ頭が300人ほど会場を埋めました。90歳になった中江さんは、昨年末奥さまを亡くされたせいもあって、寂しそうでした。歌が大好きで、当時、専務取締役だった中江さんに「販売店の新年合同総会で、早稲田のグリークラブの合唱をバックに、ご自慢の喉をご披露下さいませんか」と持ちかけたら、一も二もなく賛成され、ホテルニューオータニで大演奏会となりました。当時、宣伝部長だった私は早稲田に在学中、例え3か月であったにせよグリークラブ員でした。従って先輩でありました。何度か、社旗を翻した車で中江さんと早稲田へ行ってリハーサルしました。

 当日、バック演奏に参加した30人余りの早稲田の後輩たちに、出演料とは別に控えの間と特別弁当を用意し、その上ビール券300枚をお土産にあげました。喜ばれたの何の、、、ビール券は当時販売局にダブついていました。新聞拡張の必携品だったのです。

 その中江さんが一回り小さくなってひな壇にいました。新聞の良き時代は中江さんと共に去っていくのでしょう。

「後輩たちは、いま、新聞にとって未曽有の未知の領域に足を踏み入れている。その心を心として行きたい」とは新会長となった秋山前社長のご挨拶でした。渡辺現社長は一年間に朝日新聞が受賞した数々の栄光を披露したものの、恒例になっていた新聞社としての一年間の財務諸表については全く触れませんでした。

 気になったのは、元販売局だった定年者の出席が、殆ど見られなかったことです。配転で販売に来た仲間は見られましたが、いわゆる練習生として入った仲間の顔が数名しか見られませんでした。仲間であったかつての広告局員もほんの数名でした。朝日新聞の屋台骨を支えてきた販売局、広告局の仲間の参加がほとんどなく、編集局のロートルどもが大きな顔して酔いしれているのを見ながら、朝日新聞といえども、もしかすると、もしかするなあ、と思ったことです。 

 

2019年5月15日           異様な光景

 台湾桃園空港から成田まで、乗り込んだ飛行機はシンガポールのスクート航空でした。満席の乗客は殆どが若い人でしたが、全員が目を瞑っています。6時40分の離陸でしたから、眠り足りないムキもあるでしょう。それにしても異様な光景です。何故なら、機内での電子機器の使用は禁止です。普通のフライトなら座席の前にデスプレイやイヤーホーンがあって、画像や音楽を楽しむことができます。この機内にはその両方がありません。その上機内食のサービスはありません。飲み物すら、コップ一杯の水のサービスもありません。しかも、飲み物・食べ物の機内持ち込みは禁止です。それでは、目を瞑って時間の経過に耐えるより仕方が無いではありませんか。

そうとは知らず、行きの機内で、そういうこともあろうかと成田のコンビニで買った缶ビールとサンドイッチを食べ始めました。アテンダントが慌ててやって来て「持ち込み禁止です。おしまい下さい」と冷たく言われました。

 されば、と座席に置いてあるメニューからハイネッケンとラザニアを頼みました。シンガポールドルで支払えというのですが当方持ち合わせがありません。たまたま財布に20ドルあったので渡すと、シンガポールドルの僅かなコインのお釣りがありました。不味い箱入りラザニアが1100円、ハイネッケンのカンビールが900円とのこと。いやはや値段の高いことといったら、、、

 一昔前のシンガポール航空には、民族衣装の美人のスチュワーデスが大勢いて笑顔で迎えてくれました。美味しい機内食と共にアルコールは呑み放題でした。空の旅が楽しみでした。それがどうでしょう、目を瞑る以外何もできない空の旅になっているとは! 航空券がいくら格安であろうとも、空の旅を楽しみたい年配者もいるのです。 

 

2019年5月13日         台湾は寒かった

 台湾へ行って来ました。僅か4日間でしたが、JTBの30名の団体にまぎれ込んでの旅でした。上空から奄美、沖縄本島、宮古、石垣、西表などを見るのを楽しみにしていたのですが、厚い雲に蔽われ島影すら確認できません。台北上空も同じでした。何と台湾は梅雨に入っていたのでした。そのため、気温は低く4日間とも雨具が離せませんでした。

 従弟の靖輝君が台湾の製作会社と組んで、日本文化センターの仕事をしていた関係で、かつて何度も台湾入りをしました。最初は千葉県の販売店の引率でした。高雄まで足を延しました。義弟に当たる沖縄無形文化財保持者夫妻と来ました。従弟が同道していないにも拘わらず台湾の工さんという社長が、10人余りの宴を披いてくれました。翌日はお返しの宴です。台湾ドルが足りなくなって、社長に両替してもらいました。その時、たっての希望でドリアンを一個彼の事務所で御馳走になりました。

 最大だったのは私の母親の傘寿の祝いで叔母一家と共に、10人が羽田からビジネスクラスで台北入りしたことでしょうか。丸山大飯店に泊まり、盛大な宴を披きました。嬉しそうな母親と叔母の笑顔、今でも脳裡に焼き付いています。靖輝君と二人だけで来たのは彼が胃ガンの手術をした後でした。北投温泉で、彼の後ろ姿を見るともなしに見てしまうと、尻の肉がありません。秘かに涙しました。

 楽しかったのは、中学生になった双子の男女の孫一家と来た時です。二人にとって初めての外国旅行でした。12月末でしたから台北は寒く、免税店でダウンのジャケットを二着買いました。

 台北の魅力は何と言っても故宮博物館と「からすみ」です。故宮に一日中へばりついていたことがありました。定窯、釣窯、汝窯などなど、旧ければ古いものほど、趣のあるものが多くなります。一枚の緑色がかった小皿から目を離すことができなくなりました。昼近くになりました。館内には食事をとるところがありません。手にスタンプを押してもらい、一旦館外へ出ましたが、これという店もありませんでした。

 からすみは、昔は路上で売っていました。大きくて形の良いものが無造作に並んでいました。一個2500円ほど。1800円にまけさせて10個買いました。帰国して皆さんに配ったら自分のものは一個しか残りませんでした。今は何と一個一万円はします。安いもので5000円です。とても口に出来ません。エイヤー、と気合を入れて一番安いものを一個だけ買いました。

 

2019年5月6日      会津の奥「桧枝岐の山桜」

 3月下旬から咲き始めた桜はすでに散り、葉桜になっています。しかし、津軽の桜は4月26、27,28日頃が見ごろだったでしょう。それより遅れて見ごろになる桜は? それが会津の山奥の平家の落人部落と云われる桧枝岐の桜です。

 現役で福島県を担当しているころ、その桧枝岐へ毎年決まって5月5日に訪れていました。会津には33店の取引店がありました。平素は担当助手の君や、現地整理員の佐藤雄次さんが訪れているのですが、一年に一回ぐらいは親分がご挨拶に伺うのが習わしになっていました。柳津から昭和村、そして只見、横田など、二日がかりで廻ります。桧枝岐の星四郎兵衛さんに宿を手配してもらい二人で酒盛りをするのが5年間の常でした。どうした名残りか、桧枝岐の部落では歌舞伎が盛んでした。平家の落人の隠れ家だったからでしょうか。旧い三味線を見せてもらいました。花梨胴、紅木の優れものでした。その三味線は今でも私の家の音楽室に鎮座しています。

 翌朝、星さんに教えて貰ったように、尾瀬へ向かう山道の両脇にある5本の山桜を観に行きました。大木の山桜は満開の時を迎えていました。晴れ渡った青空のもと、見る人とてないのに咲き誇っている桜は神々しくさえありました。

 それから数十年後、単独で尾瀬へ入りました。燧岳、至仏岳はすでに登っていたので、桟道を水芭蕉を見ながら通り抜け山小屋で一泊。そして5本の山桜に会いに桧枝岐へ抜けました。その日が5月5日だったことは今でもハッキリ覚えています。桜、さくら、サクラ、何で私は桜が好きなのでしょう。 

 

2019年5月3日         書籍の衰退

 久しぶりにブックオフを覗いてみました。スタジオジブリの「となりのトトロ」を見つけに行ったのです。宮崎駿作品の殆どはチェンマイの梶原兄を煩わせてUSBから我がパソコンに入っているのですが、このトトロだけが抜けてます。しかも、一連の傑作アニメの中で、私はこのトトロが一番好きなのです。しかし、残念ながら、見つけられませんでした。驚いたのは店から溢れるほどの人の行列が出来たいたことです。その人々は一様に持てるだけの本を持っていました。古本を売りに来ているのでした。しかも、殆どが漫画の本ばかり。店の一郭には買い取った本がうず高く積まれていました。

 これは、と思って歩いてみると店の棚の半分以上が漫画本で占められています。残りの半分がCDやDVD、そして文庫本。いわゆるお堅い単行本は申し訳程度のスペースしか与えられていません。

 はるか昔、早稲田の学生だったころ、高田馬場駅から歩いて大学まで通いました。道の両側には古本屋が軒を連ねていました。50軒ほどもあったでしょうか。アルバイトで得たナケナシの金でマルクス・エンゲルスの本を買いました。決して遠い昔ではないのに、いま、ブックオフにそれらしい本は只の一冊も置かれていませんでした。時の移ろいには恐れを感じます。

 

2019年4月30日      フレー、フレー雅子さま

 今、午後7時。あと5時間で平成が令和になります。両陛下には「誠に、誠にお疲れさまでした。ありがとう」と申し上げたい。思えば栃木県黒磯の駅頭で那須の御用邸に向われる両陛下と二人のお子さんを、偶然にもお出迎えしたことがありました。お幸せそうなご家族を目の当たりにして、心が和みました。ご成婚のパレードは桜田門付近でお祝いしました。團伊玖磨が作曲・指揮した祝典序曲が演奏されている傍らでした。お子さんが三人、私も頑張って三人、お孫さんが三人、私も何とか三人の孫に恵まれました。ただ、陛下の方は目出度くも男の子が生まれてお孫さんは4人になりました。

 私の場合、陛下のご家族の有りようが、問わず語りの目標であったように思います。

 明日からは雅子さまが皇后にお成りになります。過換気障害の持病をお持ちですが、聡明は方ゆえ、死んだ気になって美智子さまに劣らないお妃様に成られるに違いありません。何せ、雅子さまは小和田家の小学生の時、我が「朝日小学生新聞」の愛読者であられたのですから。懸賞に当選されて、わが社が贈った自転車を乗り回しておいでになったのですから。中学生になっても、中学生ウイークリーをご愛読くださっていらしたのですから。

 

2019年4月30日       怖るべきイスラム教の論理    

 風光明媚で観光客に人気のスリランカで、イスラム過激派による自爆テロが起き、350人余りが死亡しました。一人の日本人女性も含まれていました。狙われたのはキリスト教会や外国人が出入りするホテルや公共施設などです。何の悪いこともしていないのに、突然、爆発が起き、痛い思いをしながら死んでゆく、、、、殺される側は、全く、堪ったものではありません。犯行はイスラム国のカリフを名乗っっているバグダデイに忠誠を誓うイスラム教徒グループだと云われます。

 昨日、電車の中で読み続けた飯山陽(あかり)さんの最近の著書「イスラム教の論理」を読み終えました。そして今更ながら慄然としてしまいました。それは、イスラム教徒がジハードという名目で異教徒を殺すことを彼らの経典コーランは否定しないばかりか、むしろ積極的に奨励していることを知ったからです。アラビア語で書かれたコーランは以前は当事者以外は読めませんでした。ところが、インターネットグーグルの翻訳サイトの普及により、誰でも原典を読めるようになりました。そして、自分の身を擲って異教徒を抹殺する行為こそが天国への道であり、イスラムの神がお喜びになるのを知ったのです。イスラム教開祖のムハンマドも「右手に剣、左手にコーラン」を掲げ、従わないものを切り捨てて行ったのでした。穏健派を装ってきたイスラム教の法学者どもはコーランの真実を教えていなかったのではないでしょうか?

 従って、「イスラム国は正しい。但し、コーランの教えによれば」となるのです。飯山陽さんはここのところを論理的に解明しました。それが「イスラム教の論理」です。いま、世界の宗教人口分布はキリスト教24億、イスラム教18億、ヒンズー教18億、仏教5億、儒教1億、ユダヤ教3000万です。キリスト教は今減りつつあります。逆にイスラム教は一日に二万人ずつ増えています。やがて、イスラム教徒が24億人を超えるのは確実、と云われています。

 日本人はイスラム教徒の自爆テロを、対岸の火事のように眺めていますが、いつ、身近に起こらないとも限らないのです。自爆テロがイスラム教徒としての最高の在り方だ、と推奨している彼らの経典「コーラン」について私たちは、その真実に無知であってはなりません。

 

2019年4月23日         興味の移ろい

 朝に夕に二階の仏間を明るくして灯明と線香を点すのは、ここ10年来の私の日課です。朝には、お世話になった四人の女性の方々に、お茶も差し上げます。花が切れたので猫額の庭の片隅に咲いていた「紫つゆ草」を切って来て「そら、家の庭のだよ」と呼びかけました。夕方になってビックリしました。綺麗に咲いていた紫の花が無くなっているのです。よく見ると、可憐な花は蕾の中に引っ込んでいるのでした。そうか、紫つゆ草は日の出と共に顔を出し、夕闇が迫るとお隠れになる習性をもっていたのだ、と知りました。しかし、不思議でした。暗い仏間の中で、どうして朝と夜の区別がつくのだろうと。

 二階の仕事場の小さなベランダの前では、既に大木になった洋梨が真っ白な花を咲かせました。何千、何万もの小さな純白の花です。秋には沢山の実を点けるのですが、どうしたことか、その実は堅くて食べられません。全くの「用なし」なのです。この洋梨の木が、昨年は葉っぱに虫がついて無残な姿になりました。タイ・チェンマイへ行って留守がちにしていた報いでしょう。今年、水中メガネ、手袋、帽子、マスクと共に噴霧型の殺虫剤を買ってきました。恐る恐る屋根に上って、既に何らかの虫の仕業で丸まり始めた洋梨の葉っぱ目がけてい殺虫剤の一斉射撃をしました。一週間経ちました。猫額のベランダに出ると、勢い付いた洋梨の葉っぱたちの感謝の声が聞こえました。

 人間、歳をとるにしたがって、「その興味の対象は移ろいゆく」と云われます。動物から植物、そして最後は鉱物だそうです。今の私は専ら植物です。「水仙の一輪をして日を充たす」こともしばしばです。やがては鉱物になっていくのでしょうか。

 

2019年4月22日          本の製作

 長らく開店休業中だった我が「N・N工房」に仕事が舞い込みました。朝日新聞時代の後輩・羽鳥健一郎君から短歌集「山と短歌」を創ってくれないか、という依頼があったのです。彼は深田久弥の「日本百名山」はおろか世界の山々を踏破し、その折々の心的状況を約1000首に纏めたものを本にして欲しいというのです。山の写真も約100枚、百名山を踏破したエクセルの図表もあります。市販を勧めましたが、個人的色彩の強い歌集はそんなに売れるものではありません。また、彼は3年前に前立腺癌を摘出しています。いい本を作ってやろう、と思いました。早速、作業に取り掛かったのはいいけれど、ワードによるパソコン操作を既に忘れてしまっています。送られてきたワードやJPGの写真を編集しても、校正するためにはPGFに変換しなければ送れません。変換ソフトを購入し、インストールしましたが、その操作は実に面倒です。パソコンを前にしての苦しみの時間が始まりました。しかし、技術を習得してしまうと、以前とは比べ物にならないほどの編集機能が備わっていることが分かりました。

 振り返ってみれば、本作りは三年前の「追想 宮沢恭人」君以来です。自分のブログの製本化「ショパンシリーズ」は5巻目で止まっています。文化座座長の佐々木愛さんの「舞台生活50年を祝して」、日本詩人の会会長であった筧慎二さんの「真昼の夕焼け」「詩集一字の夏」をそれぞれ300、400部と作っていた頃が「N・N工房」の華の時代でした。

 それもこれも、「ものを創っているのが楽しい」からなのです。今度舞い込んできた仕事も、私にとっては楽しい時間になるでしょう。久しくご無沙汰していた水道橋の「製本工房リーブル」へ行って製本材料の調達を始めねばなりません。神田の紙問屋「竹尾」へ行って写真写りの良い図書用紙や、表紙にする「黄ボール」の調達です。表紙クロスを求めに王子まで車を飛ばさねばなりません。一回50円の前小口の断裁に製本工房へ何度通うことになるでしょうか。時を忘れてなにものかを創り出すことに没頭する、これこそ神さまの恵みでなくてなんでしょう。依頼主の羽鳥君が驚くような出来栄えの本を創って差し上げようと思っています。 

 

2019年4月16日       国家の興亡

 世界史を紐どくまでもなく、民族およびその民族が形成する国家が半永久的に栄えるという例は皆無に近いものがあります。中国と、ロシアのシベリアに挟まれた小国「モンゴル」が異常に栄えた時期がありました。ジンギス・カン、ジンギス・ハンの時代です。騎馬民族として中国大陸はおろか、ロシア領のシベリアを征服し、ロシア本体をも手中にしていた時期がありました。お蔭で約100年に亘ってロシアという国はなくなったのです。モンゴルは日本をも征服しようと大船団を組んで九州北部に上陸しました。でも折からの台風で自滅しましたが、もし、神風とと言える台風が無かったら日本国は果たしてどうなっていたでしょうか。次に日本に来たのはポルトガルです。種子島に漂着して火縄銃を時の島津藩に齎しました。鉄砲一丁を今の価値にして一億円で買い取りました。味を占めたポルトガルは再び日本に鉄砲を持ってきましたが、模倣に長けた日本には既に鉄砲が出来ていたそうです。火薬は買い取らざるを得なかったらしいですが。ポルトガルは直ぐ滅亡します。次に世界的に栄えた国はオランダです。日本に頻繁にやってきました。長崎の出島が解放され貿易が盛んに行われました。西洋医学が日本に伝わり、同時にオランダ語が日本語の仲間入りをします。次に栄えたのはスペインです。アメリカ大陸が発見されました。南米大陸でスペイン語やポルトガル語が使われているのがその証左です。続いて産業革命を成し遂げたイギリスの出番です。オーストラリア大陸はイギリスの犯罪者の流刑地でした。インドも、香港も、タイも、ミャンマーもイギリスの植民地でした。その名残は交通ルールからも知ることができます。右ハンドル、左側通行がイギリス、左ハンドル、右側通行がフランスの植民地であった名残です。私はタイ・チェンマイへ行くと車を運転しているのですが、タイのルールがほぼ日本と同じなので助かっています。

 続いてアメリカです。黒船4艙が浦賀沖にやって開国を迫りました。「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯(四船)で夜も眠れず」時は1853年(イヤデゴザンス、ペーリーさん、と受験生の時覚えました)。

 第二次世界大戦でドイツと日本が滅び、アメリカが強大な力を持ち、世界の警察の役目を任じていましたが、前オバマ大統領の時「それを下りる」と宣言し、以後トランプにより「アメリカファースト」となりました。そして、中国の台頭です。共産党一党独裁の中国が「一帯一路」を掲げて破竹の勢いです。片や、中国を支配していたイギリスはいまや落ち目の三度傘です。「国家の興亡は存外早い」と言えるのです。

 

2019年4月15日        大英帝国の衰退

 イギリスがEUを離脱する期限を延長するか、どうかを巡って、ヨーロッパの各国の首相が結論を出しました。「合意なき離脱」を避けるために半年間の猶予を与えたのです。10月31日まで「じっくり考えて」と好意を示したのです。イギリスはスカンジナビア半島のノルウエー・フィンランド、スエーデンと同じく、医療、その他の社会保障が行き届いています。そのため、シリアを主とするアラブの難民は、「どうせ行くならイギリスに限る」と大挙してイギリスを目指しました。イギリスにすればたまったものではありません。それはそうでしょう、自分たちが収めた税金が難民のために使われるのですから。時のイギリスの首相マクロンは「EU離脱」の是非をかけて3年前に国民投票にかけました。結果的にはこれが災いでした。EUの一員であることのプラスの面を置き去りにしたからです。関税をかけずに輸出入ができ、パスポートなしでヨーロッパ中を行き来できたりするのがその恩恵でありました。そうでなくてもイギリスはアイルランド問題、北アイルランド問題という難題を抱えています。にも拘らず、目先の利害だけに捕らわれて国民投票を実行したのは、イギリスがかつての大帝国であって世界はどうにでもなるという奢りであったかもしれません。

 

 それにしても、シリアのアサドという息子は「嫌なヤローです」自国民に毒ガスを使い、国民の半分の1000万人近くが難民になって国土を出ていっているのに、一切の責任をとらず、今なお、政権にしがみついているのですから。アサドのノッペリしたバカ面を見るとヘドがこみ上げてくるのは私だけではないでしょう。それなのに、壊寸前まで追い詰められながら、アメリカ大統領がトランプに替わってから「アメリカは世界の警察から降りる」ということで手を引いた結果、トルコとロシアが公然とアサド支持に回り、息を回復してしまいました。地中海に面した軍港のないロシアはシリアに巨大な海軍基地を永久租借しています。トルコもそうです。シリアがなくなるとそこに今もって国の無いクルド人が国家を作るかもしれません。クルド人はトルコ領内に約3000万人が住んでいます。実はイスラム国を駆逐するため、陸上部隊として勇敢に戦ったのはクルド人でありました。そこにはアメリカとの密約がありました。シリアの半分をクルド国に認める、と。弱小国が独立するためには、その時の大国の承認がいつの時代にも必要です。従って、ロシアとトルコにとってアサド政権が倒れるのは両国の国益に反するのです。

 事情が変わった以上、シリアはロシアとトルコの援助を得ながら国の回復に勤め出すのではないでしょうか。すると、ヨーロッパに散っていたそれも主としてイギリスに偏っていた難民たちは、シリアに呼び戻されるのではないでしょうか。もし、シリアの難民たちが故郷に戻ればイギリスは何のためにEUから離脱したのでしょうか。

 複雑に絡み合った国際情勢の中で、難民の受け入れをしたくないばかりに、国民投票を仕掛けたマクロン、そして決まったからには離脱を頑なに推し進めようとする現メイ首相。大英帝国の断末魔を私たちは見ているのです。

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