最近のエッセイ

2015年11月26日         殺し合い

 NHKBS放送は、今日、1940年代の世界大戦の記録を放映しました。音声は全て抜いてありましたが、よくもまあ、こんな実録が残っていたものです。ヒットラーによるナチスが台頭し、ヨーロッパ各地に侵攻します。フランスはゲリラ活動しかできなくなり、ヨーロッパでドイツとの戦いを宣言した唯一の国はイギリスでした。ドイツはイギリスを空爆します。地下鉄構内に逃げ惑うロンドン市民。ようやく迎撃態勢をとったイギリス空軍とドイツのメッサシューミット戦闘機との戦いは壮烈でした。ポーランドを手中にしたドイツ軍はロシアに侵攻します。一度は寒波に見舞われ敗走し、二度目は成功しますが、三度目に再び寒波で10万人がロシアの捕虜になり、6000人を残して殺されます。 一方、日本によるハワイ真珠湾の奇襲攻撃に対し、怒り心頭を発したアメリカはガタルカナルの壮絶な戦いを制し、沖縄で23万人を殺し、日本本土空爆で50万人葬り、挙句の果て、広島、長崎に原爆を落とし、無垢な人々20万人を殺しました。アメリカ本土では12万人の日系アメリカ人が収容所生活を余儀なくされ、フィリピンでは10万人のアメリカ人捕虜が「死のバターン行進」をさせられました。

 アウシュヴィッツの実録もありました。女も子供も容赦なく、家畜のように扱われ殺されてゆく映像は凄まじいものです。今回、私が見てきたアウシュヴィッツは、ほんの一部であって、実際の広さは、その5倍以上であったことを知りました。しかも、人間堵殺場はポーランドに5カ所もあったとのこと、殺された人間の数は1200万人を超えた、と実録映像はアナウンスしました。

 総て、1940年代の出来事です。僅か70年前の実写映像です。束の間の平和な時を私達は生かしてもらっているのだなあ、と改めて感じました。しかし、人間は愚かです。再び、キナ臭い状況になってきました。

 トルコがロシアの戦闘機2機を撃墜しました。戦火は拡大しそうです。   

 

2015年11月24日        イスラム国を壊滅できるか

 昔、ロシアにラス・プーチンという怪僧がいて、宮廷にくい込み、時の政治を思うままに操りました。悪の権化といわれました。歴史的にみて、ロシアほど自分勝手な国はありません。第二次大戦の末期、スターリンはドイツのポツダムでアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、中国の周恩来と密談し、日ソ不可侵条約を一方的に破り、参戦しました。満州国から攻め入り、略奪の限りを尽くし、60万の日本人を捕虜にしてシベリアに抑留しました。戦争は終わったのに極寒の地で強制労働させました。6万人が犠牲になったといわれます。挙句の果てに、千島列島の国後、択捉など日本領土だった北方4島を日本から奪いました。返還に応ずるとしながらも、戦後70年が経過しました。従って、両国の間の平和条約は、まだ、締結されていません。返還どころか、ロシアのメドベージェフ首相が4島に乗込み、「これは日露戦争の敵討ちである」と言う始末。

 一方、オリンピックを始めとする国際競技で、ロシアの薬物使用が明るみにでました。組織ぐるみの犯罪行為で秘密裡に行われていたのです。改めなければ来年のオリンピックを含むあらゆる国際競技からロシアを締め出す、とまで警告されています。つまり、ロシアほど得手勝手な国はないのです。

 ヨーロッパへ行くとき、飛行機はロシアの上空を通ります。凍結しているツンドラ地帯に僅かに道らしきものがあり、人家が寄り添っています。どんな生活があるんだろう、と見ていて飽きません。世界一広大な土地をロシアは所有しています。でも、ほとんどは凍土で使い物になりません。ロシア人は寒さを逃れ、光に会うため、エジプトのシナイ半島の先まで飛行機を飛ばします。いつも満員だそうです。

 その乗客224人がテロの犠牲になり、砂漠に墜落しました。始め、慎重だったプーチンでしたが、事故でなくテロだったと断定されるや、プーチンは態度を替えます。首謀者が地球のどこにいようと、必ず探し出して処罰すると世界に宣言したのです。そして、イスラム国に対して、ミサイルの新兵器を使い猛爆撃を開始し始めました。

 折からフランスのテロです。オランド大統領は「これは戦争だ」と叫び、29機の爆撃機を搭載する空母「シャルル・ドゴール」を発進させます。オランドはアメリカ、ロシア、イギリスに飛び、共同作戦の打ち合わせに大童です。

 超大国を敵に回してしまったイスラム国は、果たしてどうなるでしょうか? 一時的には壊滅の様相を見せるかもしれません。立ち上がれないほどの打撃を受けるはずです。でも、歴史はこれからも続くのです。10年後、20年後、あるいは100年後、第二第三のイスラム国が出来ない保証は全くありません。西側諸国がテロに遇わないで済む訳はないのです。

 総ての原因はアメリカにあります。9・11でヒステリックになったあまり「これは戦争だ」と叫び、アフガンに民主主義を持ち込もうとした大統領ブッシュにあります。フセインを殺すことは出来ましたが、フセインを支えた組織に従事する官僚まで抹殺できませんでした。イスラム国は彼らが組織しているのです。西側諸国に対する恨み骨髄に達し、報復しているのです。

 武力はダメなのです。武力はパワーバランスとして置いておけばいいのです。世界史はある意味では戦争の歴史ですが、キリストも、仏陀も、ムハンマドも戦争を望んでいないのです。宗教が戦争を起こした例は、枚挙にいとまがありませんが、それは、人間が浅はかであった結果に他なりません。

 テロも悪いが、それをカサに着て猛爆を開始する、プーチン、オランド、そして過去のブッシュらを私はポピュリストと断じて憚りません。猛爆撃によって「おれは関係していないのに」と叫びながら、どれだけの人が死んでいくのか、分かっているのですか?

 

2015年11月23日         真向法

 検査によって、前立腺にガンはなかったものの、身体のどこかの部位に、いつガンが現れるか、それを否定できないのが人体の悩みです。何となれば、ガン細胞は誰の身体の中に存在しているからです。発見が早ければ早いほど、手術や放射線治療をして、長生きしている例は沢山あります。囲碁仲間の先輩の竹市義弘さんは前立腺ガンを克服して、いま、96歳で矍鑠としています。日刊スポーツの役員だった前島さんは胃ガンに勝って80歳の坂を上り切りました。大阪本社同期入社の山崎君は、食道から胃、声帯まで取ってしまったのに、元気です。食事の時は、全ての食べ物を一緒くたにして、撹拌して、流し込みます。しかも、声が出ないから筆談です。小さな黒板を持ち歩いています。水海道の砂長治さんも食道、声帯全部を取ったのに、最近は腹声を出して復活しています。担当員仲間の田島徳久君は、前立腺ガンを稲毛病院の量子線治療を受けて、この前会ったら、顔色もよく、元気そのものでした。彼は私のホームページを毎回読んでくれていて「中沢さん、速足で歩くくらいじゃだめだよ、毎日、真向法をしなさい」とお説教しました。つまり、ガンから生還した人たちは、それぞれ健康法を持っていて日々、努力しているのです。

 最近、海外ニュースを見ていたら、ドイツではソーセージやハムなどの加工肉食品に発ガン性あり、と発表され、大騒ぎになっています。ドイツでは〈どいつもこいつも〉ソーセージです。さぞ、困惑しているだろうな、と同情しました。

 私は、いつのころからか、加工肉食品は買わないし、外でも食べません。レトルトもの、即席ものも遠ざけています。調味料もナンプラーとオリーブ油と上等な醤油だけです。塩も砂糖も味の素も使いません。だしは博多の「やまや」から取り寄せる「あごだし」です。味噌も特注しています。学生時代は自炊でしたし、小倉の単身赴任中も自炊でした。そして、妻が倒れて7年、その後の9年、新鮮な食材を、余り加工せずに食べてきました。平ったく言えば、面倒くさいからです。

 今回、ガンはないと診断されたのも、粗末な食事のせいであるかもしれません。ただ、田島君から説教されたように、運動が不足しているのは明らかです。彼がやっている「真向法」とやらを始めよう、と思っています。

 

2015年11月22日      ヘンな関係(旧友会報依頼原稿1000字)

 世の中広し、と言えども、宮沢恭人さんと私の関係ほど「ちょっとヘン」なものは、そうないでしょう。入社できて販売局に配属されたら、長野高校同期生の宮さんが、東大を卒業し、一年先輩としてそこにいました。朝日新聞400万部達成の頃です。爾来、半世紀に亘って二人は部数、部数に明け暮れます。私が福島担当の時、彼は宮城県でした。東京紙第一位の福島に続き、彼は宮城県を第一位にします。飯坂で二人だけの宴を張りました。千葉埼玉を所管する第四部長は彼から引き継ぎました。販売局次長は二人でやりました。局長は大阪から赴任した黒田さんでした。西部本社営業局長に転出した彼は、やがて東京の販売局長、名古屋代表になりますが、西部本社の後ガマが私でした。つまり私は、彼の尻拭いを…いや、楽をさせてもらいました。西部本社では、彼が入っていた「書道会」まで引き継ぎました。書道は極く最近まで続き、二人して六本木の太久磨書芸社に月三回通いました。二人の作品は、この9月、上野の都美術館に展示されました。書道が終わると、決まってダべリングです。紙の文化の退潮を憂い、販売店のご苦労に思いを馳せました。喧嘩したり、嫌な思いをしたことはこの50余年間、一度としてありません。ヘンな関係はまだ続きます。病院へ見舞に行き、その後、私は東欧のポーランドへ出かけました。何かあったら直ぐ帰朝しようと思いながら29日の朝、成田へ着きました。彼が息をひきとったのは翌朝です。私を待っていてくれたのです。号泣しました。彼がリーダーの「八重洲会」は朝日人の囲碁会です。私が初段の時彼は2段でした。2段になったら彼は3段です。ナニクソと3段になったら4段です。4段になったら、5段になっていました。5段になったら、6段です。6段になったら…これもヘンです。

 ゴルフはこの50年間に、彼とは数百回相まみえているでしょう。恥ずかしながら、私は一度として彼に勝ったことがありません。膀胱を切除し、体力が衰えた彼は、時に、ミスショットを連発します。「しめた、チャンス」と思っても、私の体力も衰えていて、いつもと同じになるのです。一度だけでいい、勝たせてもらいたかったなあ。 

 尚、彼の葬儀・告別式はご家族のたってのご希望により、家族葬で行われました。改めて「お別れの会」を2月に開きます。また、内輪の「追悼集」も計画されます。よろしくお願いいたします。

 

2015年11月21日         ワルシャワの不思議

 ポーランドのワルシャワは落ち着いた街です。木立が多く、景観を妨げる高層建築も限られたエリアにしかなく、どこか、パリに似ています。ワルシャワから飛行機で1時間のクラクフはもっといい街でした。人家は殆ど木立に囲まれていて、どの家も大きく、日本の三世帯分くらいありました。ガイドブックによれば、ワルシャワを東京に例えると、クラクフは京都だそうです。昔のポーランドの首都だったからです。

 しかし、ポーランドは、歴史的にみて不幸が連続した国です。古くは蒙古のジンギスカンによって征服されました。続いて、ロシアの支配下になり、社会主義国になります。やがて、ナチスの攻撃を受け、ポーランドという国そのものが地図上から消えます。ゲットーに立てこもって、ナチスに抵抗したユダヤ人は40万にも及んだそうですが、全員がアウシュビッツに送られました。ゲットー跡にも、激戦が行われた跡にも記念碑があり、花が手向けられていました。

 クラクフに向かう機上からワルシャワ、クラクフを、目を皿のようにして観察しましたが、煙の出ている工業地帯を見つけることが出来ませんでした。つまり、ポーランドは生産都市ではなく、消費都市なのだ、ショパンとアウシュヴィッツに頼る観光都市なのだ、と思いました。

 そのせいか、物価が安いのも特徴の一つです。スーパーマーケットでイワシのケッチャップ煮の缶詰が2ズローチ(60円)で買えました。チーズも豊富で200円から300円です。生のピザも4〜8ズローチでした。スーツケース一杯に買い込んだのですが、〈これは旨い〉、というもの無く、ガッカリでした。インナーシャツも三枚買ったのですが、Sサイズにしてもらったのに、袖丈が長すぎるので、折り曲げていま、着ています。

 バス料金がベラボウに安いのも驚きでした。アウシュヴィッツへ行くには、クラクフ空港から市内のバスターミナルまで、7ズローチ払い、そこから17ズローチ払って約1時間半乗ります。2時間余りのバス料金が700円足らずでした。ビックリでした。

 更に不思議だったのは、人々が何ら切符らしきものを持たずに、乗ったり降りたりしていることです。乗り場には券売機があり、車内には切符を使用済みに印字する器械が設置されているのに、誰も、一人としてそこに切符を入れません。

 訊いてみました。定期券を持っているか、検札が乗り込んで来たら罰金を払う覚悟で乗っているのでしょう、とのことでした。

 しかし私は、この無賃乗車はポーランドの社会主義体制の名残ではないか、と勘繰りました。有名なワレサ議長の政策に、交通機関の無料化があったことを思い出しました。資本主義体制になっても、人民に有利なことは続いているのでしょう。

 寒いのを除けば、ポーランドは長期間住んでみたい国です。ただ、ワインやウイスキーが異常に高く、ロシアが近いせいか、酒はウオッカばっかりなのが欠点です。直ぐ、アル中になってしまうでしょう。

 

2015年11月20日           無罪放免

 今月17日は私にとって、一つの山場の日でした。前月21日に撮った前立腺のMRI写真にガンの兆候があるのか、ないのか、その判定の日だったのです。7月末から8月にかけての入院騒ぎ、その後の下腹部の不快感、それとなく触るとシコリさえ感じられたではありませんか。「とうとう、俺もガンだ」「でも、何もせずにガンと暮らそう」「場合によっては放射線治療ぐらいは受けようか」「いやいや、治療が奏功する年代は過ぎた。このままで、潔く死地に赴こう」、心は千路に乱れていました。

 結果は白でした。〈ガンを疑う所見は検出されませんでした。ただ、尿管結石の疑いがあります〉 という書付とMRIの写真を貰いました。

 天にも昇る心地がしました。安堵の溜息が出ました。嬉しかったですねえ。自然に感謝の祈りがでました。「もう少し生きていてよろしい」「その時間を大切にしなさい」と私を造ってくれた方が仰るのです。

 その日、囲碁の仲間の会がありました。連戦連勝でした。宮沢君を偲びながら、仲間たちと小宴を張りました。料金の安いトラフグのコースでしたが、美味にさえ感じられました。

 さて、私は生き方を変えねばなりません。怠惰な日々を送っては申し訳が立たないでしょう。まず、生きていることを感謝する日々にいたします。それは、私より先に逝ってしまった、最も親しく、心を許しあった人たちの分をも生きることです。

 先ず、学習研究社の竹内二郎君です。大学時代から3年前まで親しくさせてもらいました。佐々木潤君です。彼はNHK労組の万年副委員長でした。逝って10年になるでしょうか。それに一つ年下の従弟桜井靖輝です。生まれた時から弟分でした。台湾、上海など、海外への目は彼が開いてくれました。2年前に逝きました。そして、今回の宮沢君です。

 私は彼らの魂と共に生きようと思います。 

 

2015年11月15日           経 典

 

 イスラム教の経典はコラーンです。日本人は「コーラン」と発音しますがイスラムでは「コラーン」です。「マホメッド」ではなく「ムハンマド」です。それほどイスラム教は日本人には馴染みの薄い宗教でした。それは、「コラーン」は原文を読むべきであり、翻訳はタブーであったことに起因します。戦前に岩波書店から出された三巻の解説書にお目にかかれても、原典の日本語訳はありませんでした。でも、ごく最近、ネットで日本語訳を発見しました。勿論、全文ではありませんでしたが、IPADに保存しました。

 「コラーン」は膨大な文字数の経典です。イスラム教徒は、文字が読めるようになるとこの経典を暗誦させられます。スンニ派、シーア派を問わず、イスラムの聖職者は、コラーンのすべてを暗記しなければなりません。ただ、文字の解釈は派によって微妙に異なります。解釈をめぐる、これもまた膨大な解説書が存在します。そのすべてを解析できる聖職者が存在する、という誠に複雑な組織構造がイスラム世界にはあります。

 イスラム教は偶像崇拝をいたしません。ムハンマドの肖像画も、立像もありません。サウジアラビアのメッカに100万人が一堂に会する礼拝堂があって、その中心に「カヴァア」と称する真っ黒い函が置かれています。中身は何か、というと、全くのカラッポです。このカラッポの函に会うために、毎年300万人を超える巡礼者がメッカを訪れます。すべての衣服を脱ぎ、二枚の白いタオルだけで身体をおおい、ゴムぞうりを履いて神殿に向かい、立ったり座ったりするだけの行為に無上の喜びを感じています。

 世界人口65億のうち、イスラム教人口は約15億です。信者は一日当たり2万人ずつ増えています。

 聖書は旧約と新約に分かれていますが、これは世界のあらゆる言語に翻訳されています。気の利いたホテルでは聖書が備品として置かれています。旧約聖書はイエスがキリストとして顕在化するまでの預言書であり、新約聖書はイエスのこの世における行状の記録報告であります。キリスト教の聖職者のほとんどは、新約・旧約のすべてを暗記しています。膨大な聖書の一切を諳んじることが課せられているのは、コラーンのすべてを暗記しなければならないイスラム聖職者と同じです。世界人口65億のうち20億人がキリスト教徒と言われていますが、毎日2万人ずつ減っているようです。 

 仏教徒はどうでしょう。大乗仏教、小乗仏教など経典の存在は膨大です。聖書を超える文字数の経典が存在しています。聖職者になるにはは原則として、般若心経の100倍のお経が暗誦できなければなりません。チベット仏教などは、子供の頃から経典を諳んじる習慣ができています。ミャンマーの子どもたちもそうです。二年間の出家が義務ずけられ、経典の暗誦は必須です。日本はどうでしょう。お寺のほとんどは観光スポットとなり、法外な拝観料をとり、京都の坊さんは祇園に入り浸りです。

 私はこの数年の間の東南アジアの旅で、いかに、仏教が民衆の中に溶け込んでいるかの実態を見てきました。タイも、カンボジアも、ベトナムも、ラオスも、ミャンマーも仏教寺院は民衆と共にありました。日本だけです、民衆と共にない仏教寺院は!

 さて、ここで問題にしたいのは、ユダヤ人の経典「タルムード」です。イスラエルがキリスト教の聖地であり、ユダヤ人のすべてがキリスト教徒であるに違いない、と世界のほとんどの人々は思っていますが、それは見せかけであり、実態は全く違うことを知りました。旧約も新約も、ユダヤ人に対する預言書であるのは、解るのですが、もっと、ユダヤ人の未来について予測しているのが「タルムード」でした。ユダヤ人は表面上はキリスト教徒やイスラム教徒のふりをしていますが、実は「タルムード」を経典とするユダヤ教であることを知りました。「タルムード」は16巻にわたる膨大な預言書です。キリスト没後300年に亘って、タルムードに語られる教義は全盛を極めました。ところが、ローマ帝国がキリスト教を国教と認めるに及んで、タルムードは衰退しました。何故か? 余りにユダヤ人に加担する教義だからです。

 いま、タルムードはベールに包まれています。原典も、解説書も世界に出回っていません。でも、ユダヤ人同志が集まると、タルムードが語られます。何故なら、「ユダヤ人こそが世界で選ばれた民である」「ユダヤ人以外の人間は動物に等しい」「動物であるからして何をしてもよろしい」と書いてあるからです。世界の人々は「タルムード」に予言されているユダヤ人の実態をよく知るべきです。そして、預言されている事象が、次々に現実のものとなっていることに気が付くべきです。

 アメリカの人口の中で、ユダヤ人の比率は、僅か2.5%でしかありません。でも、政治も行政も、経済までもがユダヤ人に握られているのは周知の事実です。世界の金融もユダヤ系に握られているのです。

 

2015年11月14日           テ ロ

 今日は、販売局に所属したOBと現役幹部が一堂に会して、「やあやあ」とやる日でした。出がけにテレビが、パリの六か所で起きた無差別殺人事件を報じています。帰りの電車の中で、夕刊各紙の報道を見ながら、オゾマシイ事件の全貌を知りました。

 1500人収容の音楽ホールなどで無差別殺戮が行われ、129人余が殺され、90人余が重軽傷を負いました。オランド大統領が観戦していたサッカー場でも、自爆テロがありました。大統領は「これは、〈イスラム国の犯行〉であり、フランスは断固として戦う」を宣言し、戒厳令を引き、国境を閉鎖しました。パリへ向かう飛行機はキャンセルが続出しているようです。

 テロを警戒するあまり、空港の手荷物検査、身体検査は、このところとみに厳しくなっています。今度のポーランド行きもそうでした。日本を出国する場合は上着を脱がされるくらいですが、ウイーンに着いたら徹底的にやられました。ベルトを外し、靴も脱がされます。IPADも外に出し、バッグの中身も覗かれます。引っかかって再検査となりました。何と、長さ5センチほどの鉄製のヒゲソリが問題でした。ワルシャワからクラクフまでの、たった一時間の国内線でも、検査は厳重でした。バンコックのスワンナブーム空港も厳しくて、いつも、イヤな思いをするのですが、ヨーロッパはそれ以上でした。すべて、テロのおかげです。

 ロシアのぺテルブルグと、エジプトのシナイ半島の保養地を結ぶ224人乗りの便が、一か月前、空中爆発を起こし全員の死亡しました。ロシアのプーチンがシリアのサダトと会い、支援を約束し、イスラム国皆殺し作戦を始めた報復だ、とイスラム国、つまりISが発表しました。

 問題の発端は10年以上前に起きた、9・11事件です。「これは戦争だ」と叫び、イラク戦争を開始した、時の大統領ブッシュの短慮から始まります。フセインを追い詰め、抹殺することに成功はしましたが、フセイン政権を支えてきた官僚たちが新たな「イスラム国」を名乗り、アメリカを始めとする西欧諸国連合に刃向い始めました。ブッシュはそこまで読めなかったのです。イスラム教の部族国家に、キリスト教と民主主義を持ち込もうとしたアメリカは、その失敗を悟り、今更ながら手を引こうとしますが、今度はアメリカに加担して空爆を始めたイギリス、フランス、ロシアにその矛先が向けられます。加えて、中東イスラム系の組織も、9・11を起こしたアルカイダと、旧フセイン系のISに分かれ、覇権争いが激化し始めます。アメリカが開けたパンドラの函は、一度、開けてしまった以上、蓋をすることは出来ないのです。中東が混乱の坩堝と化した責任はすべてアメリカにあるのです。ノーベル平和賞を早々と貰ってしまったオバマ大統領は、「アメリカは世界の警察の役目を降りる」と宣言しましたが、今度はアメリカに同調して空爆に加担した西欧諸国に、IS,アルカイダの目が向きます。それが今回のフランスでのテロです。

 自爆テロを含むいわゆるテロ行為は、ある意味では「貧者の一灯」的行為であり、弱者の止むに止まれぬ仕儀であるかもしれません。しかし、アルカイダ、ISを含めてイスラム過激派指導者の目的は、壮大なイスラム帝国の樹立にあるようです。イスラム内部では、スンニ派、シーア派のみならず、その中間派を巻き込んでの内部抗争が激化していますが、武闘を辞さない姿勢は、イスラム教の開祖ムハンマドの姿勢と同じです。西暦700年頃、ムハンマドは「右手に剣、左手にコラーン」でイスラム世界を樹立してきました。コラーンに反対する者には剣を使いました。一方、イエス・キリストは自ら十字架にかかることによってキリスト教を広めました。

 テロの底流は、世界史の中での宗教戦争であることを、忘れてはなりません。宗教戦争の底流は民族対立です。人種差別も存在します。フランスには約600万人のイスラム教信者がいます。ヨーロッパに住む中東出身者は、決して自分のせいではないのに、これからは肩身の狭い思いをして生きていかねばならないでしょう。

 テロは私めにも影響します。空港での検査は我慢するとしても、自分が乗った飛行機が、いつ爆発しないとも限らない確率が高くなりました。どうしても中東へ行ってイスラムの現実に接したい、と思っている私は、次の計画として、アラブ首長国連邦のドバイを予定しています。イスラエルのエルサレムも予定に入れてあります。

 弱ったものです。  

 

2015年11月12日         アウシュヴィッツ

 ナチスが、大量のユダヤ人、ロマ、ソ連軍捕虜、ポーランド人の政治犯を殺害した「殺人工場アウシュヴィッツ」は、ワルシャワから飛行機で1時間のクラクフ、そこからバスで2時間余りのところにあります。ホテルのコンシエルジュで、ワルシャワークラクフ 7:30分の始発と、帰りの最終便をとってもらいました。

 第二次大戦後まもなく刊行されたフランクフル著の「夜と霧」は、アウシュヴィッツで行われた残虐行為を、余すところなく伝える類まれな本です。夢中になって読みました。常時28000人が収容され、毎日340人が銃殺あるいは毒殺され、焼却炉に投げ込まれていた現実がそこにありました。残された衣服、メガネ、毛髪、義手義足の山……

 夜と霧に掲載されていたこれらの写真の数々は、この50年近くに亘って、折に触れ私の脳裏を掠め、私を苦しめてきました。人間のオゾマシサの極限を、この目で視ずにおくべきか、という願いと闘ってきました。そして、やっと今回、 涙にくれながら、深い祈りを死者に捧げることが出来ました。

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 無蓋車に押し込められ、動物のように運ばれてきた人間が、収容所までの2キロの道を歩かされてアウシュビッツの門(一番上の写真)をくぐります。そこには「ARBETT MACHT FREI」(働け、そうすれば自由になれる)という看板が掲げられています。真っ赤なウソです。コンクリートの床に敷きわらだけの部屋に押し込められます。毎日、約340人が裸にされガス室に向かい、天井からチクロンガスが投げ入れられ、何の罪もない人たちが、単にユダヤ人、ロマ、政治犯であったがために、床や壁を掻き毟り死んでゆきました。ガス室の隣が人間焼却炉です。3台ありました。ドイツから運ばれたチクロンガスは25トンです。殺人工場はホーランド国内に数カ所あり、死者の総数は400万人を超えた、といわれます。

 収容所は折から紅葉真っ盛りの木立に囲まれていました。大木もありました。(2番目の写真)これらの木々は人間の断末魔の叫びを聞いたに違いありません。いったい、どんな思いで聞いたのでしょうか。木立ちといえども辛かったのではないでしょうか。

 

2015年11月10日        プレイエルのピアノ

 ワルシャワのホテルは目貫通りの30階建てでした。16階の部屋から中央駅、巨大なロータリーが真下に見えます。二両連結のバス、路面電車、夥しい数の車列は見ていて飽きることがありません。ロータリーの地下が歩道になっていました。颯爽と歩いている男も女も、大柄で色白です。なぜか、グループでしゃべりながら歩いている人を見かけません。黒人や東南アジア系を見かけないのも不思議でした。

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 3時間の市内観光に出ました。英語のガイドでしたが、仕方ありません。ショパンの像がある広大なワジェンキ公園を歩きました。折から紅葉が始まっていて落ち葉を踏みしめ、遊びまわっているリスを見ながら、ショパンを偲びました。

 中世の面影が残っている旧市街の広場で、寒さに震えながらガイドの長たらしい説明を聴きました。キューリー夫人の屋敷跡での説明も、早く終わってくれと思うほどでした。

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翌日、タクシーをチャーターして、5階建てのショパン博物館、ショパンの心臓が祭られている聖十字架教会へ行きました。ショパンが使っていたプレイエルのピアノを目の当たりにした時は、涙が溢れてきましたが、江戸時代のピアノの保存状態がこんなにイイ訳はない、と一人でつぶやきました。勿論コピーですが、ショパンの自筆の楽譜をアナの空くほど凝視し、記憶してきました。几帳面な性格であったことが頷けました。

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2015年11月5日           我が友、逝く

 29日、ワルシャワから帰ってきて直ぐ、宮沢君の携帯にメールを入れました。応答がありません。30日、自宅へ電話を入れましたが留守電のアナウンスがあるばかり。奥さま宛てにメールしましたが、これにも応答なし。31日朝、ようやく奥さまに電話が通じました。彼は30日の朝8時半に息を引き取ったとのこと。思わず、電話口で哭いてしまいました。彼は私が帰るのを待っていてくれたのです。ご自宅に伺いました。安らかな寝顔です。すべてをやりつくし、天に身をゆだねたようないい顔で、横たわっています。全く、苦しまずに逝ったそうで、それが何よりの救いです。

 取締役名古屋代表まで勤めた彼の訃報は、当然、朝日新聞の紙面に載らねばなりません。販売管理部からの訃報通知も、東京、名古屋、九州で行われます。葬儀、告別式は恐らく500人規模を超えるでしょう。斎場は築地の第二伝道所か、青山葬儀場にするしかない、中江元社長に弔辞を頼まなくては、と私は秘かに思っていました。ところが、奥さま始めご家族は家族葬でやりたい、と仰るのです。頑として譲らないのです。しかも、祭壇は花一色にして、名札なし、朝日新聞社の生花もいらないと仰るのです。確かに、最近の葬儀はどんな有名人でも、近親者による家族葬を行ったあと、どこぞのホテルで「お別れの会」を開くのが主流になってはいます。しかし、実はそのあとが大変だ、とはよく聞く話です。宮沢君自身も、その傾向には異を唱えていました。でも、ご家族の意向は尊重しなければなりません。

 「新聞発表は2日の葬儀が終わった3日にする」、「ほぼ全国の販売店に流す訃報も3日にする」「朝日新聞社の生花のみ祭壇に置いてもらう」「式場となるお寺は最大で80人しか入れないが、30人だけ朝日関係者や故人の友人にわけていただく」、と纏まりました。

 偶然にも、その夜、両角竜彦さん(26人の所長を育て上げた朝日新聞所長)の御通夜が青山葬儀場であったので、集まった本社幹部、販売店幹部と相談ができ、30人を選び出し、個別通知することができました。

 これも偶然ながら、葬祭場に向かうバスに5つの空席があったので、長野高校同期生、宮沢君を頭とする仲良し6人組の5人が、ご家族に同行することができました。骨壺の一番上に置かれた彼の喉仏は、吏員が感心するほどの立派さでした。

 彼は、長野高校へ2年の時、屋代高校から難関の編入試験を経て転校してきました。最初に会った時は長野高校の正門近くでした。よろしくと挨拶されました。いやに喉仏が目立つなあ、というのが第一印象でした。爾来、60余年の彼との類まれなお付き合いが始まったのです。

 

2015年11月5日         在りし日の宮沢君

 彼は一年浪人して東大へ入ります。駒場寮で暮らします。駒場寮は汚れていることで有名でした。しかし、地元の販売店によれば朝日新聞は220部ほど入っていました。10年前には減りに減って41部になったそうです。現在は、新聞を取っている寮生はほとんどいないようです。その代り、漫画の本が至る所読み散らかされているらしいです。これは販売店から直接聞いた話です。

 彼は、よほど駒場に愛着があったのでしょう、近くの池尻に家を建てます。子供が成長するに及んで、二世帯住宅に買い替えました。そして、井の頭線駒場東大前の小さな浄土真宗のお寺に墓地を買い求めます。 極く、最近のことです。今回の葬儀はその小さなお寺で行われました。彼は、これから、駒場東大の屋根を仰ぎ、東大生の足音を聴きながら暮らすことになります。家からもそんなに遠くないので、線香の煙や花の絶えることはないでしょう。 羨ましい限りです。

 朝日新聞を編集でなく業務で合格すると、発送部で新聞梱包の実習をやらされてから、販売、広告、総務、出版、出版広告、会計に配属されます。どんなに受験生が多くても合格者は毎年10人前後です。宮沢君に一年遅れて入ったときは、450人のうち合格者は8人でした。奇しくも、宮沢君が配属されていた販売局に私も配属されました。宮沢君の先輩で、既に、広告局で仕事をしていた村山さんから引っ張られ、彼も広告局を志望していたのでしたが、そして、私も広告志望だったのですが、期せずして二人とも販売局で邂逅しました。偶然とは恐ろしいものです。

 販売の仕事とは外交です。一つの県、一つの地区で売られている朝日新聞の部数について全責任を持ちます。新聞原価の回収、部数の伸長、販売所長の人事などなど、コンサルタントとしての仕事が全てです。そのため、月の内半分近くは出張です。彼も私も、全力でそれをやってきました。

 入社当時の朝日新聞の総部数は350万部でした。直ぐに400万部になり、お祝いの会を名古屋でやりました。そして、ついに800万部を突破しました。しかし、10年ほど前から、新聞発行部数は退潮し始めます。インターネットが普及するに及んで、紙による情報伝達は時代遅れとなったのです。読売も朝日も地方紙も、部数を減らし続けている、というのが悲しい現実です。何せ、新聞は汚れるからタダでもいらないという若者が多くなったのですから。

 宮沢君が、初めて販売担当員として外交に出たのは、千葉県です。後に朝日新聞専務取締役になった前沢さんの助手です。一日の店回りが終わるとその日の報告書を書くのが担当社員の仕事です。膨大な報告書が残っている筈です。一年が経過し、親分が前沢さんから海野さんに替わり、更に、半年して、彼は一本担当として京浜に転出します。彼の後釜の海野さんの助手が私でした。海野さんにはシゴきにシゴかれました。結婚したばかりの私は、一か月のうち15日も家を空けるのは苦痛でした。彼も同じだったと思います。

 私は都内東部で一本担当になり、都内中部を経て福島県担当になります。隣りの宮城県が宮沢担当でした。部数は面白い様に伸びました。宮城県の黄金時代は宮沢君が作り上げたと言えるでしょう。

 やがて、二人は首都圏に移ります。彼が埼玉西部の時、私は千葉中部で張り合いました。そして、次長、部長になっていきます。千葉埼玉を所管する第四部長は、彼から引き継ぎました。局次長は一緒にやりました。大阪から赴任してきた黒田局長を、二人で助けました。

 次は局長です。彼は西部本社の営業局長として小倉に赴任します。長野高校の仲間5人で押しかけ、フグを鱈腹御馳走になり、翌日はゴルフに興じました。掛け金は彼が独り占めし、彼は北九州空港まで見送りかたがた、回収に来ました。

 そして、ついに彼は東京本社の販売局長です。何と、私が彼の後釜の西部本社の営業局長です。小倉と博多駅前の朝日ビルの両方に席があり、広告、総務など、編集以外の総責任者として仕事をしました。ゴルフ場まで付きました。門司ゴルフ場の会員権を彼から引き継ぎました。年末年始はフグの宴会でした。厚生部傘下の「冨野クラブ」というものがあって、宴会のほとんどはここでした。全く、良き時代でした。

 ここまでは、二人は同じ道を歩んできたのでしたが、ここから先は違いました。彼は販売局長から名古屋本社代表になり監査役になりますが、私はというと、東京本社に戻れませんでした。朝日学生新聞社社長の海野さんが小倉にやって来て、私のあとをやってくれぬか、と貰いがかかったのです。助手として仕えた親分に逆らう訳には参りません。58歳にして出向休職となり、同社の専務を経て社長となり6年を過ごしました。これは有難いことでもありました。11年生まれの宮沢君の後釜に12年生まれがなったのでは組織が変調します。16年生まれの岩田君が局長になりましたが、これは当然のことです。不幸にして岩田君は早世しました。

 朝日新聞名古屋代表ともなれば、これはもう名士です。ともすれば閉鎖的な名古屋の政・官・財のお歴々とのお付き合いが始まります。俗に名古屋大学、松坂屋、トヨタ、中部電力、中日新聞でなければ「人」にあらず、という土地柄です。挨拶に行っても、取りつくヒマがない、と彼は零していました。そこで、二人で一計を案じます。

 ところで、出世した人に、お祝いと称してタカリに行くのは世の常です。長野高校から教育大、日本経済新聞の販売局総務の山崎夫妻、同じく長野高校から中央大学、信濃毎日新聞販売局次長の内山夫妻、それに私どもを入れて6人が名古屋の宮沢夫妻を囲みに行きます。「大名古屋食堂」という妙な名前の所へ、案内してくれました。どうしてどうして、超一流の料理が供されました。その後はピアノのあるクラブです。楽しく、またとない一夜となりました。

 名古屋の政・官・財の人達の間でも囲碁は盛んです。当然、会員制の囲碁クラブがあって一般の人は入れません。日本棋院名古屋の羽根泰正、直樹親子の指導を受けるようになった彼は、そのクラブで「今度来た朝日の代表は強いぞ」と評判をとるようになりました。二人で編み出した一計とは囲碁作戦でした。芸が身を助けたようでありました。

 私が初段の時、彼は2段でした。2段になったら彼は3段でした。ナニクソと3段になったら、4段になっていました。4段になったら彼は5段です。しかし、日本棋院の正式免状は二人とも4段です。毎月行われる朝日仲間の囲碁会に彼は毎回出席していました。終わると飯店の丸テーブルを囲みます。膀胱切除以来、アルコールは控えめでしたが、この「八重洲会」を彼は楽しみにしていました。 この囲碁会を含めて、囲碁を打つ機会はしばしばあるのですが、彼は私と打つのを避けます。「ナカちゃんとはやらない」というのです。それは、彼の清里の山荘で、二人きりで夜通し打ちまくり、先で私が連戦連勝したことによるようでした。もう一つ、彼自身の体調が棋力に微妙に影響しているのを、彼が一番分かっていたからに相違ありません。

 ゴルフは入社以来、彼とは恐らく、数百回、合いまみえました。彼のメンバーコース「桜ヶ丘」「北の杜カントリー」を含めてです。私にとっては誠に恥ずかしい仕儀ですが、ここに告白させてもらいます。彼は〈一度として私に勝ちを譲ったこと〉はありませんでした。つまり、私は一回も彼に勝てませんでした。 体調を崩してからの彼のショットは時として乱れます。「シメタ、チャンス」と捉えても、私の体力も衰えていて、いつもと同じになるのです。

 一度だけでいい、勝たせてもらいたかったなあ。 

 

2015年10月29日          気に入らない優勝者

 ポーランドのワルシャワ、そして、アイシュヴィッツのあるクラクフの街を歩く人々は、完全に冬支度でした。気温差で10度はあったでしょう。耐熱下着とダウンジャケットを持って行ったのは、正解でした。22日に出国して約1週間滞在し、28日9時20分にワルシャワを出て、チューリッヒからは満員のスイス航空に11時間40分乗って帰国しました。日本は春のような暖かさです。帰宅して、真っ先にやったのは、愛犬チュラのケージの清掃です。買い置きしてあった好物のササミも与えました。認知症ではあっても私を認めてくれて、盛んに尻尾を振ってくれました。

 ところで、無事に還って来れた感謝の気持を仏壇に報告はしたものの、これから年末までの、ともすれば惰性になりがちの日常を思うと、無性に、再び旅に出たくなりました。張り詰めた日常を強いられる海外での毎日が恋しくなりました。「ワルシャワへ帰っていきたい」とさえ思えるのです。不思議なものです。

 さて、第17回国際ショパンコンクールの優勝者は韓国人のチョ・ソンジンに決まりました。切れ長の、一重目の、いかにも韓国人という風貌の若者です。今までに数々の国際コンクールに出ていて、下馬評は高かったのですが、私は、彼の優勝が気に入りません。改めて第一次予選からの彼の演奏を聴き直してみたのですが、嫌なところが目立ちました。その第一はノクターン35番です。

 荘重なレントで始まるこの曲は、途中から主題が華麗に変化して、一つの物語を作り上げるのですが、多くのピアニストはその多彩さに圧倒されてテンポを崩して演奏してしまいます。ショパンが楽譜で指示しているメトロノーム65のテンポが守り抜けないのです。今ではこの曲はテンポ通りに弾かないこと、自分流を押し通して構わないとでもいうような演奏スタイルになってしまっている曲です。この優勝者も通俗的に弾きました。しかも、テンポを思い切り崩して、思い入れタップリに。

 ショパンの最高傑作である24曲の練習曲を、メトロノーム片手に、ショパンの指示通りのテンポで弾いているか、どうか、をレポートにして「ショパンの練習曲」というエッセイ集を刊行している私にとって、例え、自由発想がある程度許されるノクターンであっても、テンポ崩しの演奏は、全く気にいらないのです。

 チョー・ソンジンのノクターン35は、華麗さばかりを強調した「テンポ崩しの、正に典型」とまで言えるものでした。ショパンに対する冒涜だ、とさえ思いました。それに、彼の鍵盤上の手の動きがイヤでした。全体として、力を抜いたいい動きをするのですが、思い入れが過ぎる時、右手小指が跳ね上がったり、丸まったりするのです。古来の名ピアニストにはこんな動きはありません。稀代の女流ピアニスト、カチア・ヴニアステビリにそんなことは、全く、ありません。

 23日、ワルシャワ名物フィル・ハーモニーホールで、大統領が出席しての入選した6人のピアニストによる凱旋演奏がありました。落ちこぼれ券を期待したのですが、ありつけませんでした。しかし、4時間に及ぶその模様はユーチューブで見ることができました。会場の隅々まで、着飾った人々の表情まで、ユーチューブは映し出してくれました。二位のリチャード・ハメリン(カナダ)、三位のケイト・ルイ(アメリカ)、 四位のエリック・リュー(アメリカ)、五位のトニー・ヤン(カナダ)、六位のドミトリー・シスキン(ロシア) まで、使用したピアノはヤマハでした。ところがコンチエルト二番をワルシャワ交響楽団と協演した第一位のチョー・ソンジンは、わざわざピアノをスタンウエイに替えさせました。日本のピアノはイヤだというのでしょう。

 イヤなことはまだあります。18人の審査員の一人中国のユンデイ・リーが三日間に亘って審査員を放棄しました。審査員のほとんどはこのコンクールの過去の優勝者たちによって占められていて、ユンデイ・リーもその一人です。病気ならまだしも、香港の俳優の結婚式出席のため、審査を放棄したのです。ユンデイ・リーはピアノを軽業のように扱う一種の天才ピアニストです。大仰なパフォーマンスで「我こそピアニスト」という演奏をします。中国ピアニストは、こぞって、彼の演奏スタイルを真似します。審査を放棄した言いぐさが振るっています。「審査員は18人もいるんだ。俺一人抜けてもどうっていうことないだろう」

 地元関係者の中国への怒りは、凄まじいものがあったようです。今回、中国人ピアニストの応募が一番多かったのですが、一人としてファイナリストになれませんでした。ユンデイ・リーの振舞いが影響しているのかもしれません。

 「影響したに違いない」嫌なことはまだあります。第三次審査の会場に日本の高円宮妃が現れました。審査を通過した数人を集め、こともあろうに激励会を開いたのです。当日の会場で「日本の皇室の高円宮妃です」とわざわざ紹介も受けています。何で、関係者でもない皇室がまかり出たのでしょうか。何で、出演者の心を乱したのでしょうか。そのお蔭もあってか12人の日本人は全滅しました。小林愛美は辛うじて10人のファイナリスト入りをしましたが、入賞出来ませんでした。それに、ユーチューブで見る限り20歳の彼女の演奏は散々でした。特にバラード1番では痛恨のミスを犯しました。

 日本全滅の罪は高円宮妃にあり、と私は断言して憚りません。

 ネットによれば、いろいろな日本人がわざわざ大金を払ってこのコンクールに来ています。ノーベル賞の大村、梶田のお二人はまだしも、爆笑問題の田中新夫婦、アンガールズ山根、花沢香菜、滝川クリステル、桂歌丸、大山のぶ代… そして変な日本人の一人は私です。

 

2015年10月21日       セミ・ファイナル

 ネットの普及には驚くべきものがあります。昨日行われたショパンコンクールのセミ・ファイナルを闘った20人の演奏の全部を、居ながらにして聴くことが出来たのです。254人の演奏者は、昨日やっと10人に絞られました。中国人の参加者の数が群を抜いていたのですが、結果は一人も入っていません。「我こそは名人なり」と言わんばかりのオーバーなパフォーマンスは、中国人ピアニストの常態なのですが、流石に審査員の顰蹙を買ったのでしょうか。しかし、アメリカ国籍の中国系が二人、カナダ国籍の中国系が一人入りました。それに韓国人が一人、そして日本人ではただ一人小林愛美が、10人の内に入りました。日本人9名、一人を除いて姿を消しました。その他のファイナリストは地元のポーランド1名、カナダ1名、ロシア1名。クロアチア1名、グルジア1名でした。私はドイツのピアニストに焦点を当てていたのですが、落ちました。純然たるヨーロッパ系が一人もいなくなってしまいました。

 10人のファイナリストは明日と明後日、全員がショパンのピアノ協奏曲の1番か2番を選んで弾きます。ワルシャワ交響楽団との協演です。150年以上に亘って演奏してきたこのオーケストラとの勝負です。少しのミスも許されないでしょう。

 私はつくづく思うのですが、このコンクールへの出場者は、ショパンのピアノ曲の全曲を暗譜で弾ける力量がなければならない、と。その上に、ショパンが意図した情感以上のものを表現できるかどうか、が試される、と。

 日本代表の小林愛美は小学生の時から、難曲の練習曲を弾きこなしていました。でも、彼女の鍵盤上での動きはムダが多すぎます。稀代の女流ピアニストカチア・ブニアテシビリに遠く及びません。でも、健闘を祈りたいですね。

 ついでながら、使われるピアノのことです。スタンウエイとヤマハが公式に使われています。以前はスタンウエイが圧倒的でしたが、ファイナリスト10人が選んで使用するピアノはスタンウエイが3台、ヤマハが7台です。これは嬉しいですね。

 

2015年10月18日       フレデリック・ショパン

 1810年に生まれ、1849年に39歳で没したショパンは、ほとんどピアノ曲ばかり作曲しています。ピアノの詩人と呼ばれていますが、その音の構成は独特で、聞いた途端に「これはショパンだ」と分かります。ポーランド・ワルシャワを出てからパリで活躍するのですが、再び故郷へ帰ることはありませんでした。女流作家ジョルジュ・サンドに見初められ、彼女の二人の子供と共にマジョルカ島で生活し、数々の名曲を残すのですが、肺病を患っていたため長くは続かず、サンド一家と別れ、パリで孤独な死を遂げます。ワルシャワから実の姉が来て、ショパンを看取りました。それがせめてもの救いでしょうか。「土の中に葬られるのはイヤだ。心臓だけでも故郷に持ち帰ってくれ」という遺言に従って、アルコール漬けされたショパンの心臓は、ワルシャワの記念館の柱に埋め込まれているようです。一説には、3000人が別れを惜しんだという葬儀の席で流れた惜別の曲は、アンプロンプチュの4番と5番でした。私の十八番です。

 自分で弾けるのは僅か数曲ですが、最も好きなのは練習曲集です。10番と25番の24曲です。数あるショパンの名曲の中で、最高位に位置する難曲中の難曲です。彼はこれを20歳で作曲しています。5年毎に開かれる国際ショパンコンクールでは5曲の演奏の内、3曲は練習曲集の中から選ばねばなりません。

 私は学生の時からこの練習曲にのめり込み、これを弾く世界中のピアニストのLPレコード、CD、DVDを収集してきました。スットッポッチを片手に、その速さを記録し、自分なりに、そのピアニストに優劣をつけて、悦に入っていました。収集した音盤は恐らく60人を超えているでしょう。

 5冊目となる私のエッセイ集の一番最初は「ショパンの練習曲」と命名してあります。ストッポッチ片手に記録した顛末をメインに置いたからです。エッセイ集は、図らずも続き、第二集を「ショパンのバラード」、第三集を「ショパンのノクターン」、第4集を「ショパンのマズルカ」、第5集は「ショパンのワルツ」としました。

 恐らく、第6集は「ショパンの葬送行進曲」となるでしょうが、ここまで、ショパンさんに肖らせてもらった以上、何らかのご挨拶に参上しなければ、という想いが、日増しに強くなってきました。今生のお別れにショパンのお墓に詣でなければ、という想いが強くなったのです。

 今年は5年目ごとに開かれる「国際ショパンピアノコンクール」の開催年です。次の5年後には、私はこの世にいないでしょうから、そこで、思い切ってポーランド・ワルシャワまで出かけることにしました。いろいろ手を尽くしましたが、決勝大会のチケットは入手できませんでした。その代り、予選に出場したほとんどのピアニストの演奏は「ユーチューブ」で聴きました。私なりに、上位入賞者の予想はついています。

 今回のワルシャワへの旅は、コンクールもさることながら、長年お世話になったショパンさんに、今生のお別れを言うためです。生家を訪ね、20歳にして練習曲集を作曲したその痕跡に触れるためです。

 私がピアノを習いだしたのは小学5年生の時です。ベートーベンのソナタを弾くようなったときは嬉しかったですね。高校の文化祭でモーツアルトの「トルコ行進曲付ソナタ」をやりました。シューベルトの「即興曲集全曲」、シューマンの「パピヨン」「ダビット同盟」、チャイコフスキーの「四季」、ドヴィッシーの「アラベスク」「月の光」などヤマハ音楽教室に通って仕上げてきましたが、何と言っても、一番多くやったのはショパンのものです。それだけに愛着が一入なのです。

 出発は22日の成田11時のオーストリア航空です。ウイーン経由でワルシャワ・ショパン空港へ入ります。29日、スイス航空のチューリッヒ経由で帰国します。 

 

2015年10月15日        愛犬その後

 認知症になった愛犬チュラに、「どこで、おもらししてもいいよ」と言いきかせたものの、その現実は、堪ったものではありません。川口市の日の出屋さんへシャンプーとトリミングに行った際、現状を訴えました。「おむつがあるよ」、「ケージに入れるのもあるよ」とアドヴァイスされました。犬も人間も、全く同じだよというのです。10枚のおむつを買い、そのうちの一枚を装填してもらい、これで一件落着、と胸を撫で下ろしていました。ところがです。タイミングを失すると、汚物がおむつから漏れ出します。本人もイヤがっておむつを外そうとします。葛藤が繰り広げられます。嫌がる犬におむつを装填するのは並大抵ではありません。

 今日、ホームセンターへ行って、第二のアドヴァイスであるケージを求めてきました。ついでに、温かそうな「カマクラ」」的ねぐらと、トイレも購入しました。ケージは最大の広さのものを選びました。締めて19000円。

 いま、チュラ婆さんは、思っても見なかった環境の変化に戸惑いながら、既に、吼えることは止めて、ケージの中で蹲っています。一日に一回はおむつを装填して、家中を闊歩させるつもりではいますが、はて、どうなりますことやら。ホームセンターには、ペットへのあらゆる快適器具が揃っていました。新しい発見でした。明日の一日は大掃除です。畳ゴザをはづし、床の雑巾がけです。

 

2015年10月13日        Nコンと日野原重明さん

 指折り数えて待っていた全国合唱コンクール(Nコン)小学生の部、中学生の部が、11日と12日、それぞれ3時間の生放送がNHKホールでありました。高校生の部も10日の土曜日にあったのですが、長年の習慣で、いつもオミットします。大人の仲間入りした声は既に純粋さが失われているようで、興味の対象にならないのです。

 小学生の部の課題曲は、何とオントシ104歳の日野原重明さんが作詞しました。ブロック予選を勝ち抜いた12校が、課題曲と自由曲を演奏するのですが、どの歌声も見事というほかなく、甲乙つけがたく思われました。金賞は日野市立七生緑小、銀賞は町田市立鶴川小、銅賞は二校で船橋市立薬園台小、と岩手大学付属小でした。七生緑小は二年連続の受賞です。私も採点していたのですが、全く、当たりませんでした。

 日野原さんの作詞は、平易ではありますが、残念ながら感動が伴いません。情感がありません。でも、フィナーレに車椅子で出席し、指揮をとった104歳に敬意を表し、詞を載録させていただきましょう。

  みんなが集まって生きるところには

  かならず歌が生まれ 歌は人とともに育ちました

  二人集まればデュエット 三人集まればトリオ 四人集まればカルテット

  地球をつつむ歌声は なんと力強いものでしょう

  みんなが集まって、生きるところには かならず歌が生まれ

  歌は人と共に育ちました

  こどもたちと家族がいっしょに

  両手をふって 平和の歌を歌いましょう

 中学校の部は「SEKAI NO OWARI」という妙なグループの作詞、作曲でした。金賞は町田市立鶴川中、銀賞は郡山市立第五中、銅賞は同じく郡山の第二中と熊本市立第三中でした。この採点はほとんど当たりました。鶴川中は飛びぬけていました。郡山が安積高校を含めて合唱王国になっているのが驚きです。昔の常連だった、青森の根城中はどうなっているのでしょうか。

 課題曲「プレゼント」の作詞は、グループの中の「SAORI]という女性によるものでしたが、実に長たらしい。でも、一か所だけ光っているところがありました。

  いま、君のいる世界が、辛くて泣きそうでも

  それさえも「プレゼント」だったと笑える日が、必ず来る

 この考え方はキリスト者の日常と同じです。そうなのです。すべては、上からのプレゼントなのです。素晴らしいフレーズを作詞者は中学生に与えました。

 三時間の生放送の最後は、小学生の部も、中学生の部も全員が起立し、課題曲を歌いあげます。その歌声は感動以外の何物でもありません。

 七八歳の半ボケの老人は、二日両日に亘って、幸せの涙を流したのでした。

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