最近のエッセイ

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年1月15日         一帯一路

 昨年、中国共産党の5年に一度開かれる大会で習金平は3時間半に及ぶ演説をしました。その演説の目玉が「一帯一路」でした。アジアとヨーロッパを結ぶシルクロードを、ラクダの隊商ではなく鉄道によって結ぼうという壮大なプロジェクトです。

 実はこの鉄道は既に出来上がっていて、目を瞠るようなアジアとヨーロッパの物流が行なわれています。この鉄道の中間地点に位置するカザフスタンは小麦の産地です。この小麦を中国が買占めました。これにより、カザフスタンがどんなに潤うことか。中国から連日連夜鉄道輸送されるコンテナの第一次終着点はポーランドのワルシャワです。巨大なモールが出来ていてヨーロッパ中のバイヤーがそこへ買付にきます。

 2年前の10月、ショパンコンクールでワルシャワへ行ったとき市内観光にも行きました。その時、中国モールの脇を通り、ガイドの説明を受けましたが「デカい」という印象だけでこれが世界の物流を揺るがしていることなぞ、全く洞察出来ませんでした。中国発のコンテナの一部は、更にドイツ、フランスなどへ向かいます。そして、空になったコンテナにはヨーロッパの乳製品が山と積まれます。ドイツで作られる乳児用粉ミルクは世界的に有名です。粗悪品しか出回っていない中国では引っ張りだこです。スイスの高級チーズが上海でこの上なく安く食べられるようになりました。何故なら一帯一路の鉄道運賃は船便の三分の一、航空便の五分の一だからです。

 一方、連日山のように運ばれてくる中国製品の評判は、昔の日本でそうであったように今一のようです。安かろう、悪かろう、でも、価格の廉さは何物にも替えがたいようです。かくして、中国製品見本市の巨大モールは、ワルシャワを拠点としてヨーロッパ各国に建設されつつあるようです。

 この現実があるからこそ、習金平の演説は一帯一路について長い時間を費やしたのでしょう。

 一方、アメリカはどうでしょう。この国はもはやモノを生産する術を失っています。自動車で栄えたデトロイトは既に廃墟になっています。物流は中国からの輸入が鰻登りに増え、貿易不均衡を中国側のせいにして詰っています。かてて加えてトランプという大統領の資質を持たない下品な人間に権力が集中し、いま、アメリカはとんでもない国になり下がっています。

 国家の興亡は存外早い。日本が仲良くすべきはもはやアメリカではなく、中国だと云わねばなりません。

 

2018年1月13日          抜けない

 離婚訴訟ですったもんだの夫婦とかけて、何と解く? 悪性の風邪と解く。その心は「籍(咳)がなかなか抜けない」

 新らしい年を迎えたのに、相変わらずの咳で苦しんでいます。出来るだけ安静にし、しかも暖かくしているのですが回復しません。弱ったものです。

 年末から年始にかけて韓国の文政権は、二年前の12月28日に両国の外相同士が握手して結んだ「慰安婦問題の不可逆的解決」について再び蒸し返し、日本の更なる「心からの謝罪」を要求してきました。

 ポピュリズムもここまで行ってしまうと噴飯ものです。12日、日本政府は声明を出しました。「国と国との約束は例え政権が替わろうとも遵守されるべきであり、それが出来ないとなれば、あらゆることが不能になるであろう」と正論を持って答えました。

 慰安婦問題の張本人「松井やより」故朝日記者は泉下で「ここまで大騒ぎになるとは!」と気を揉んでいるでしょう。

 戦時下の軍隊には、その末端に慰安所組織がありました。当時兵隊の給与は月24円。慰安所は一回5円、将校は7円。休日には行列が出来て、「おい、早くしろ」と尻をど突かれたようです。慰安婦は儲かりました。3万円ほど儲けたご婦人もいたそうです。当時、家一軒の値段が千円ほどでした。「儲かるから自主的にやった」という点を見逃してはなりません。確かに強制的部分もあったでしょう。でも、過分な対価は払われていたのです。決して「性奴隷」ではなかったのです。

 世界史を見るまでもなく、軍隊の発生に伴って性の処理施設が自然発生します。ベトナム戦争で韓国軍が駐留した時、ベトナム孤児が大量に生まれました。韓国にはその反省が全くありません。アメリカ軍が沖縄に駐留するや、コザや普天間に紅い灯が灯り、夥しい混血児が生まれました。

 慰安婦は聖書にも登場します。一人の慰安婦がイエスの元に身を投げ出し、足を香油で洗い始めます。群衆がそれを咎めます。汚らわしいというのです。イエスはなすがままにさせ、誰か子の者に石を投げる者はおるか、と質問を投げかけます。誰もおりません。群衆は静まり返ります。慰安婦であろうと対等な人間であることをイエスは群衆に示したのです。2000年前の話です。

 恐らく韓国から慰安婦像が撤去されるようになるには、あと2000年かかるようです。

 

2018年1月4日       年寄の街、若い街

 このところ多摩の南大沢の教会へ行っています。クリスマスイブも昨年は24日の日曜日でしたし、31日もそうでした。練馬までバスで出て大江戸線で新宿へ。京王新線の特急に乗れば、調布、永山、多摩センターの次が南大沢です。調布からは高台を走るので秩父の山脈から富士山までが見え隠れします。驚くべきは沿線の両側が大小のマンションで埋まっていることです。多摩丘陵地帯の殆どがマンション化しているのです。周りの景色の変化に伴い、電車の乗客も変化します。若夫婦や子供連れが多くなり、ベビーカーが見えない景色がなくなります。当然ながら年寄の姿は稀です。練馬に戻ってくるとどうでしょう。歩いているのは年寄ばかり。杖をつき、ヨタヨタしながら歩いている人の割合が極端に多くなります。〈街にも盛衰があるんだ〉という当たり前のことを南大沢へ通うようになって知りました。

 私が会社務めを始めたころ、先輩たちは阿佐ヶ谷、荻窪、野方などに一軒を構えておりました。でも、山手線の内側に居を持っている先輩はいませんでした。我々の代で阿佐ヶ谷より内側に居を構えることのできた者はおりません。練馬や小平や川口や東林間辺りへ流れました。

 それにしても京王線の車窓から見る景色は極端です。調布までは一戸建て住宅に交じってマンションがちらほらであったのに、調布を過ぎ、稲田堤辺りから見渡す限り高層マンションばかりになるのですから。そして、年寄を見かけなくなるのですから。

 クリスマスイブの午後、南大沢に出来ている巨大なアウトレットのモールを覗いて見ました。何でこんな洒落た店がここに、と思われる空間が人、人、人で溢れかえっていました。当然ながら年寄は殆ど見かけません。〈昔の銀座がここに移った〉とつくづく思わされました。余生を送るなら練馬よりこちらの方がいいかな、と思えたことです。

 

2018年1月3日  朝日新聞販売の屋台骨であった岩城武さん

 千葉県房総半島の安房高校から早稲田の第二文学部に入った岩城さんは、江東区太平町の松本豊樹さんの販売店に入り学業と仕事に打ち込み始めます。千住の旭町で独立します。足立区、葛飾区は朝日新聞が最も劣勢な地域です。岩城さんがとった作戦は町内会との絆を深めることでした。一軒の読者を獲得するために、その読者の元へ25回も通った、という逸話が残されています。〈販売の要諦はその銘柄でなく売り方の熱意による〉という原理を実践し、その結果として大きな業績を残した販売人、それが岩城さんでした。

 大勢の販売人が岩城さんを慕ってその傘下に入りました。与えられた自分のテリトリーの中で地域の人間関係を良くすることにより、販路を拡大するするという何でもないセオリーは、言葉で言えてもなかなか実行できるものではありません。岩城さんに連なる販売人は、岩城さんのその姿勢を見習い、なるほど、販売とはこういうものか、と悟って行ったのでありました。その勢力は拡大し岩城さんは築地会会長、連合朝日会会長に上り詰めます。けれども、彼は全ての地位に奢ることなくひたすら基本に忠実な態度をとり続けます。温厚で、絶えず微笑を絶やさず、人の話に耳を傾け、一緒に問題を解決する姿勢を貫きます。そして85年の生涯を完結しました。

 私が最初に一本担当になったのは、都内東部です。江東6区つまり、墨田、江東荒川、葛飾、江戸川、足立が私のテリトリーになりました。同じ早稲田出でも岩城さんは第二、私は第一文学部です。最初は気まずい空気がありました。大学の話は勉めて避けた記憶があります。〈新聞をとらないのは恥〉とする風潮のある頃で、読売の牙城である下町6区を朝日化することはそんなに難しいことではありませんでした。前任の原さんの不慮の死によって急きょ担当に抜擢された若輩の私を、下町の荒くれ所長どもは親分ならぬ「オヤビン」と言って奉ってくれました。岩城さんもその一人でした。

 殆ど毎晩といっていいほど、浅草や錦糸町、向島、新小岩などで酒席がありました。その全部につきあって来れたのは、私がいくら飲んでも酔わないこと、酔っても言辞を与えないことを先輩から教えられていたからでしょうか。それに、岩城さんが傍にいて何くれとなく若き担当社員を庇ってくれたことも大きいでしょう。それほど岩城さんは私にとって大恩のある方です。

 その大恩のある方の葬儀を欠礼してしまうとは、、、、返す返すも残念でなりません。

 

2018年1月2日       ファックスと訃報  

 明けましておめでとうございます。元日、二日と日本の南側は好天に恵まれ日本海側の方々には、全く、申し訳ない次第です。とはいっても、私の体調は相変わらずで、処方されている薬を使っても好転しません。熱がないのがせめてもの救いです。一月中旬からタイ・チェンマイを予定していますが、温かい光の中に身を置けば恐らく治るでしょう。昨年もそうでした。

 私の年齢になって気を付けねばならないのは間質性肺炎です。暮れの28日に清瀬の複十字病院で撮ってもらったMRIでもその指摘を受けました。治療の必要は今のところないが、警戒水域にあると云われました。主治医の吉山医師が四年間の私のNRIの写真を比較検討して、症状に変化はないが、急変する恐れは十分にある、とノタマイました。私には悪い癖が一つあります。喫煙の習慣は30台で終わりにしたのですが、ここ5〜6年余り自分の仕事場にいる時だけ、パイプタバコに火を点けるのです。團伊玖磨の「パイプのけむり」を気取ってその香りを楽しむのです。81歳まで生きて来れたのだから、よしんばパイプで命が縮まってもそれはそれでいいや、と達観してはいるものの、矢張りよくない行為であるのは間違いないのだから、ここは素直にならねば、と自分に言い聞かせています。

 ところで暮れの29日、岩城武さんの奥さんからの訃報ハガキが舞い込みました。何と、岩城武さんは19日に85歳でお亡くなりになり、22日に葬儀が築地本願寺第二伝道所で行なわれたとあるではありませんか。慌てて、溜まっていたファックスを見ました。何と福島小名浜の矢羽菊造さんまでお亡くなりになっていたではありませんか。迂闊でした。訃報連絡は販売管理部から常にファックスで貰っているのですが、いつの間にか〈溜まってから見る〉ようになっていたのが災いしたのでした。思えば、越し方を共にした重要人物の訃報などには連絡を取り合った仲間が次々の鬼籍に入り、気がつい見ると私は販売局の最古参5人の中に入っています。ファックスに気が付かなかった私が悪いのは当然としても、連絡し合う販売局の同僚がいなくなっているこの事実を私は直視しなければなりません。

 

2017年12月26日          金沢と能登半島       

 金沢は美的センスの溢れた街です。ちょっとした「設え」があちこちに見られました。ホテルは近江町市場の真向かいの、こじんまりしたホテルでしたが部屋の調度にもそれがありました。それに朝飯の旨かったこと。総てが薄味で私の好みにぴったりでした。

 本当は、北陸新幹線で行く積りでしたが、名鉄観光の〈日航利用、二泊三日23000円〉という広告につられました。羽田から小松へ飛ぶ場合、富士山の上空を通過します。「富士山の俯瞰写真を年賀状に使いたい」という思いもあって羽田7時40分発に乗り、窓際にへばりつきました。15分後には富士山の上空です。ほとんど冠雪して光輝いている八ヶ岳、南アルプス、北アルプス、乗鞍、、、かつて登った峰々を懐かしみ、時の経つのを忘れました。(いい写真が撮れました)

 帰りの飛行機からの景観も圧巻でした。小松空港を舞いあがるや、飛騨の上空から一気に太平洋に出ます。左手にアルプスの峰々に続いて富士山が輝いています。特に南アルプスが良く見えました。大天井、北岳、塩見岳が識別できました。飛行機は豊橋の上空辺りで左旋回します。何と、駿河湾から伊豆半島、三浦半島、東京湾、房総半島まで見えたではありませんか。雲一つない上天気、、、至福の時でした。

 「近江町市場」ー めったやたらにズワイガニが並んでいました。大きくて、黒いぼつぼつのあるものの方が値段が高いことを知りました。2万〜3万円。手頃だと思われるものでも3千円から5千円。昼食は市場の中の食堂で2500円の蟹どんぶりです。夕食は手頃な一件を買ってきてホテルの自室で加賀の日本酒と共にいただきました。その後、近くの居酒屋へ行ってノドグロの刺身と治部煮、香箱ガニでまたまた一杯。翌日、足に任せて近江町市場内を歩き廻りましたが、生鮮食料品のすべてが〈そんなにも廉くない〉のを知りました。歩き疲れて市場の一郭の屋台で名物の金沢おでんでコップ酒をやっていると、金沢に住むのもいいかな、と思えてきました。

 「輪島の朝市」ー かなり幅広の道路を挟んで、造りのどっしりとした商店があり、屋台はその前に立ち並んでいましたが、氷雨降る悪天候のためか、その数は疎らでした。かえって観光客の方が多いくらいです。目ぼしい海産物もなく、カニを見かけても、近江町市場より値段が高く、結局、何も買わずでした。

 「白米(しろよね)の千枚田」ー 海へと続く高低差300メートル近い崖を棚田にした風景です。1600年頃から始まったといいます。小泉首相が「これは絶景だ」と言い、息子の進次郎も来て「ほんとにこれは絶景だ」と言ったとか。なるほど、確かに見ごたえがありました。

 「輪島キリコ」ーご当地のキリコはガラスにあらず、大きな山車を言います

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 津軽のネブタ、秋田の竿灯とも違い、ただの長方形の大きな箱を担ぎ上げて練り歩き、海の中にも入るようです。

能登半島各地で使われるキリコの全部が格納されているところに案内されました。三階近くまで吹き抜けの建物の中に、大小様々なキリコが展示されていました。どのキリコにも共通していたのは、墨色淋漓の筆字です。しかも、なかなかの達筆です。ただ、惜しむらくはバランスが今一つでしょうか。それに署名の位置ももう少し下だったらいいのになあ、と思います。

 実は当日、キリコ展示場で撮った写真が操作の段階で消えてしまい、どうしても、キリコの何たるかを知ってもらうため、フォトライブラリーから引用させてもらったものです。悪しからず。

 

2017年12月25日      12月はやはり鬼門

 20日間余りご無沙汰です。悪性の風邪らしきものがその原因です。7日から3日間、金沢へ行きました。近江町市場でズワイガニにあり付けたのは幸いでしたが、一日、能登半島の七尾、輪島までの観光バスに乗りました。生憎のお天気でした。日本海は大荒れ、雨風が容赦なく吹き付けます。そこはそれ観光バスですから何回となく乗ったり降りたりします。車内で温まった身体が、寒風と氷雨に晒されます。それが何回となく、、、咳と痰と微熱と体のだるさで、気力までも失せてしまっています。掛かりつけの医者の薬も効きません。こうなると気管支炎か肺炎一歩手前になるのがいつもの習いです。清瀬の複十字病院へ予約を入れました。28日の10時です。この病院はかつて結核治療で有名でした。その名残で呼吸器科は繁盛しています。例年は3月頃行くのですが、今年は早まりました。やっぱり、歳のせいでしょうか。 

 

2017年12月5日           年賀状

 年賀状の時期となりました。11月から訃報のハガキが十数枚舞い込んで来ています。パソコンの無い時代は全て手書きでしたから、一週間ほどの日時が必要でした。「筆グルメ」というソフトのお蔭で、今は、2〜3日あれば出来てしまいます。ただ、一枚一枚添え書きをしているので、その分の時間は掛かります。一番多い時は2600枚程でした。学生新聞の社長の時で東京本社管内のすべての販売店宛てに書きました。例え社用であっても添え書きは忘れませんでした。何となれば、ただの印刷物ほど味気ないものはないからです。今は、しぼりにしぼって350枚ほどです。日本経済新聞で共にアルバイトをしていた同じ早稲田の細谷修身君とは卒業以来一度も会っていませんが、年賀状だけは続いています。お互いの添え書きは、毎年きまって「生きてるかい?」「生きてるよ」です。55年間続いています。これでいいのだ、と思っています。

 時に、「今後年賀状は失礼する」というハガキが舞い込みます。今年も二枚ほどありました。お互い、寄る年波であればこれも仕方ないでしょう。私自身も、そろそろ年賀状の負担から逃れたいと思う時もあります。

 でも、私は止めないでしょう。死亡通知に接する度に、そのお相手を住所録から消しながら、私の死亡通知が発送されるまで続けていたい、と思うのです。なぜだか分かりません。きっと、年賀状に添え書きしながら、その方との遠い昔にあった二人の交流の時を思い浮かべて懐かしむ時間が好きなのかも知れません。      

 

2017年12月4日           團伊玖磨

 そうそう、大事な人を忘れていました。團伊玖磨です。この人の全著作も書架に在ります。合唱曲集や歌曲の楽譜も揃っています。76歳の奥さまを看取り、その二年後、同じく76歳のとき北京で客死なさいました。ホテルのベッドでお孫さんの飛鳥ちゃんに「お土産は何がいい?」と電話した直後に帰らぬ人となりました。葬儀はご護国寺でおこなわれ、私も弔意を表しに行きました。香典返しが、アサヒグラフ連載中の「パイプのけむり」の第26巻でした。私はこの連載が大好きで社内の配本で貰うと、真っ先に巻末の「パイプ、、」から目を通しました。

 私が「自分でもエッセイが書けるのでは」と始めたのは、一にも二にも「パイプ、、」のお蔭です。現職で販売局次長のとき、出版局次長も兼務させられ、10万部を超えていたグラフの部数が37000まで激減したため、「何とかせい」と厳命が下ったのでしたが、時代の趨勢には勝てず、團伊玖磨の逝去と時を同じくして廃刊となりました。残念でなりません。

 團伊玖磨を慕う余り、主亡きご自宅を見に、逗子まで行きました。「子産み石」というバス停で降り、だらだら坂を登り、更に200段を越える石段を登り切ったところに円形のご自宅がありました。「猫額いの庭」と團さんが呼んでいた斜面には処狭しと珍しい植物が植わっていました。それも、主がいなくなり、手入れが行き届かなくなったせいか、荒れ放題になっていました。呼び鈴を押しましたが、応答はありませんでした。僅かに、大きなカジキマグロの剥製が円形の窓から覗いていました。

 團さんを最初にお見かけしたのは、朝日新聞社屋が有楽町日劇の隣にあった頃です。流行のアタッシュケースを持ち、颯爽とエレベーターに乗り込んで5階の出版局に向かう團さんと同じエレベーターに乗り合わせました。私は入社二年目、発送部での研修中で、菜っ葉服を着ていました。十数年が経過し、サントリーホールで行われた朝日100年の式典で團さん指揮するオーケストラ演奏の時、控室で團さんのお世話をしました。色白のお顔で、かなり無愛想だったなあーという記憶があります。彼の作曲で彼自身の指揮で演奏された「祝典行進曲」は皇太子と美智子さまのご成婚の時も、吹奏楽編成で街頭で演奏されました。主題のメロデイが爽やかな印象を与える名曲です。

 思えば「パイプのけむり全27巻」は私の半生と共にありました。改めて読み返そう、と思っています。

 

2017年12月3日         祈るや切

 天皇陛下の退位の日が決まりました。ご苦労さまでした、と申し上げたい気持ちで一杯です。過ぎ去った日、美智子さまとのご結婚のパレードを、私は青山まで出かけて大群衆の一人として拍手を送りました。その時、「よーし、皇室に負けてなるものか」と心に誓ったものの、私の日常はアルバイトに明け暮れる貧乏苦学生そのものでした。

 何とか結婚できて皇室と同じ三人の子どもに恵まれました。三人が三人とも皇室と同じ頃に生まれたのは、これは何かの偶然であったでしょう。三人目は清の宮様にあやかっ女の子であって欲しかったのですが、そうはなりませんでした。

 美智子さまは群馬県館林の製粉会社正田家の娘です。民間の出ではありますが実に、実に、見事なお方です。これほどの女性は類稀れでありましたでしょう。皇室の現在の繁栄は美智子さまのお蔭と言っていいのではないでしょうか。

 皇太子の奥方の雅子さまも民間の方です。才媛でありますが、入籍以来、過換気障害を患っておいでです。彼女が小学生の頃、私が責任者を務めた朝日学生新聞社が発行する「朝日小学生新聞」の愛読者でした。何かの企画で彼女が当選し、ご褒美の自転車が当たり、彼女は乗り回していたそうです。また、彼女が「いやいやながらも皇室の嫁ぐことをOKした」特ダネは朝日の松山編集主幹がものしたのでした。

 天皇陛下の退位の日取りが決まりました。日本女性の鑑であられた美智子さまも退位なさいます。そして、雅子さまが皇后にお成りになります。雅子さまは果たしてそのお役目に耐えうるでしょうか。過換気障害は実に厄介な病気です。何となれば、私のところの三男も同じ病で苦しんでいるからです。苦しむ三男に向かって私が発しているのは「死んでもいいと思って前へ進め」という言葉です。

 朝日小学生新聞をご愛読いただいた雅子さま、どうか、どうか、美智子さまに劣らない「皇室の要」になって下さい。身を捨ててください。自分を脱して下さい。それを祈るや切です。聡明極まりない雅子さまのことです。美智子さまに優るとも劣らない皇后になられる、と私は信じて疑いません。

 

2017年12月2日         鬼門の12月

 12月になりました。月日の経つのは速く、光陰矢の如しとはよく言ったものです。どういう訳か、私にとっての12月という月は「問題あり」で経過してきました。現役で福島県を担当中、福島市の「万世」という料理屋で食べたフグに当たって死にそうになりました。世に言う「お花畑」を彷徨いながらも奇跡的に生還しました。大掃除の最中、家の石段を踏みはづし、腰を強打し、そのまま起き上がるのはおろか動くことも出来ず、10日間余り唸っていました。また、突如として下血があり、近くの豊島園大腸肛門科へ入院を余儀なくされました。大腸憩室症という診断で5日間絶食を強いられました。これも暮れから正月にかけてでした。また、咳が止まらず、肺炎一歩手前までいったのも12月でした。

 なぜ、12月に集中したのか? 思うに、自分の身体が寒さに向かう季節に順応しきれないからでありましょう。今年も12月に入りました。私にとって鬼門の月です。心して毎日を過ごす積りです。

 

2017年12月1日         椎名 誠

 IPADを愛用して随分長くなりますが、このタブレットのお蔭で殆どの週刊誌に目を通すことが出来てます。支払は僅か月額450円。週刊朝日、サンデー毎日、週刊現代、ニューズウイーク、サピオ、アエラ、それに女性誌の数々、、、実に重宝です。毎週楽しみにしているのは、サンデー毎日連載の椎名誠、週刊朝日の嵐山幸三郎のエッセイ、週刊現代の佐藤優の「世界の名著」などです。

 椎名誠は何しろ多作家です。これという取柄も何もない駄文の羅列ですが、妙に私は惹きつけられています。ですから、この作家の殆どは私の蔵書になっています。彼は元々業界紙の記者でした。放浪癖があって、世界のあちこちに出かけ、何ということもない行動の記録を淡々と書きまくり本にするのですが、それがまた臨場感に溢れていて妙にな魅力があるのです。

 千葉の幕張で生まれ、苦学しながら写真大学へ通います。小岩の安アパートに住み、毎日玉ねぎばかり食べていました。土方のアルバイトをしている最中に去る会社の事務員と知り合います。一枝さんです。結婚しますが、彼の放浪癖は止まず、妻は何時も置き去りにされます。奥さんも彼に見習ってか、チベットへ入り浸りになります。彼女もエッセイをものし「チベット人々の敬虔さと優しさ」などを出版しています。男女の子供の名前は「岳」と「葉」。この男の子の成長を記録した「岳物語」は椎名の代表作になっています。二人の子供は早くからアメリカへ留学します。「葉」さんはアメリカの司法試験に合格し弁護士となりながらエッセイにも才能を発揮しています。「学」はいま、優秀なカメラマンとして活躍しています。二人とも今は日本に戻って来ていて、新宿の彼の新居近くにいるようです。ご多分に漏れず、彼の最近のエッセイには孫との戯れ話がしきりに出てくるようになりました。

 ところが、この一か月近く、彼のエッセイがサンデー毎日から消えています。交通事故を起こしたとも、持病の不眠症が悪化しているらしいとも憶測されるのですが、心配でなりません。彼の不眠症はかなり深刻の様で、そういえば「35年間の不眠症」という本が最近出版されています。彼がよく眠れるのは野外で焚火を囲みながら酒盛りををし、テントに潜り込んだ時です。「どんどこ隊」とか「雑魚釣り隊」とか彼を中心とする半ば不良人種の会が出来ていて、その顛末が彼の本の主役を務めています。でも、その仲間には野田秀樹や、精神科医の中沢医師などもいるから面白い。思えば、私の書架にその人の全著作があるのは三島由紀夫と椎名誠の二人だけです。全く性質が違う二人の物書きが好きなのは私の中にも二面性があるからでしょうか。三島は既に亡くなりましたが、椎名誠はいま73歳。既に老境に達しています。彼の日常のたわいない記述には変な魅力があって私を捉えています。何卒、どうかどうか、今の苦境を乗り越えて、エッセイを続けて欲しいと願っています。 

 

2017年11月29日        てめえはイヤな野郎だぜ

 日馬富士が今日引退声明を福岡で出しました。昨日は横綱審議会がありました。どんな会合も結論を出しえません。何故なら、真相を解明したくても被害者の貴ノ岩が親方に匿われていて出てこないからです。親方は、変人、貴乃花です。

 モンゴル人力士同志の酒の上の喧嘩、それも、貴ノ岩が、日馬富士に突っかかっていったやり取りの喧嘩です。先輩が後輩のお説教の最中に、スマホに電話がかかり、「誰からだ?」「彼女です」となれば誰だって「この野郎!」となるでしょう。カラオケのタブレットで頭を殴ったのは、これは行き過ぎですが、モンゴル人同士だからしての気安さもあったでしょう。その後当人同士は和解し、一件落着と思われたのに、貴ノ岩の親方が警察に被害届を出しました。民事で治まるところを刑事事件にしたのです。その親方とは貴乃花です。

 貴ノ岩の頭の傷は、10針のホチキス止めがあったものの、軽症だとの診断です。でも、親方がダンマリを決め込んだために、事件は針小棒大に捉えられ、連日のテレビはこの件で持ちきりになりました。実に喧しい。日本中が大騒ぎとなりました。同席していた白鵬も黙ってはいられません。千秋楽優勝の席で万歳三唱の音頭をとったり、二人の復帰についての懇願もしました。これは、越権行為でありました。でも、モンゴル人同士であれば当然の所作でありましたでしょう。

 もっと早くに、貴乃花が自分の考えを話し、貴ノ岩へのインターヴュウを許可していれば日馬富士は「出場停止一場所」ぐらいの譴責処分で済んだかも知れません。「ダンマリを貫けば貫くほど、事態は自分に有利になる」という厭らしい手法を、貴乃花は宮沢りえとの婚約破棄の時にも使いました。

 世間の同情は日馬富士に集まるでしょう。貴ノ岩も、大した傷でもないのに、それに、自分だって落ち度があるのだから、この先、土俵に上がれるでしょうか?

 貴乃花が協会の巡業部長であるなら、オレは巡業に参加しない、という力士が現れ始めています。貴乃花よ、てめえはイヤな野郎だぜ、全く。

 

2017年11月27日               蟹、蟹、蟹

 サンフランシスコの海岸で、アメリカザリガニの食い放題に遭遇したことがあります。周りは美味しそうに、むさぼり喰らいついているけれど、蟹にうま味はなく、すぐ飽きてしまいました。沖縄の西表島でマングロープの泥の中を這いずりまわっていた、甲羅が青みがかったヤシガニを食べた時も、そんなに旨さを感じませんでした。札幌の名代の店で大きなタラバ蟹が出てきた時も、途中で飽きてしまって投げ出しました。11月からは上海蟹の季節ですが10年ほど前から絶対に食べません。無錫湖で人工餌に馴らされた蟹に昔の旨さを求めても、それは無理というものです。

 蟹の旨さは、結局、毛蟹とズワイガニに止めを刺すのではないでしょうか。ズワイは山陰地方では松葉カニ、北陸では越前ガニと呼ばれて、これからが旬です。山陰の城崎へ行ったときです。揚がったばかりの一件が一人一匹、食膳に上りました。例の用具を使って爪の先の先までいただいてしまいました。その後のカニスキ鍋、絶品でした。新潟を担当している時です。糸魚川〜直江津間の筒石の海岸で漁船から今揚がったばかりの、まだ、動いている蟹を食べました。申し訳ないと謝りながら食べました。これも最高でした。

 今年の蟹は値が張るそうです。大型で良質のものは一匹1万5000千円以上するそうです。でも、何とか「これぞ!」という蟹サマにお会いしたいではありませんか。幸い、金沢へ約2時間で行ってしまう北陸新幹線ができました。停車駅は大宮、長野、富山、そして金沢です。私が日本一と讃えて止まない金沢の「近江町市場」は指呼の間となっています。でも、蟹を食べに金沢へ行くなんて、どう考えても贅沢過ぎます。でも、冷凍物でない、揚がったばかりの蟹にむしゃ振りつく喜びは口福そのものです。行こうか行くまいか、ハムレットの心境です。

 

2017年11月25日      多摩丘陵の大パノラマ

 中央線立川からモノレールがあります。京王線の多摩センターが終点です。そのモノレールに乗りました。ビルの5階建てほどの高さを時速10キロほどのノロノロ運転をするので、窓の外には雄大な景色が展開します。早速、電車の最後尾に陣取って右を見たり、左を見たり、恐る恐る下を見たり、キヨロキョロします。いやー何とも壮観でした。見渡す限りの多摩丘陵地帯がマンションと戸建て住宅に埋まっています。大学のビルも林立しています。中央大学、明星大学、国士舘大学、、、

 乗客の殆どが若者です。子供も多い。気が付けば車内はベビーカーが充満しています。つまり、街全体が若いのでしょう。そういえば、練馬や杉並、中野の通りを歩いているのは年寄ばかりです。

 多摩センターは一大都市になっていました。巨大なマンションやモールに囲まれて駅がありました。駅前通りは二層になっていて、下が車道、上が歩道です。歩道の奥の奥までクリスマスのイルミネーションが輝いています。まるでおとぎの国に迷い込んだみたいです。一番奥のサンリオの大ホールでは国士舘大学の学生による大学祭が行なわれていました。無料だったので入らせてもらい、多摩市長や大学総長の話を聞かせてもらいました。本命は、その建物の小ホールで7時から始まった2つの教会に所属する女性コーラスでした。昔のオネーサン達が懸命にゴスペルを歌いました。

 第二部はピアノ、チエロ、アコーデオン、ソプラノなど、セミプロたちの演奏会でした。何とも音楽の質が高く、都心のホールで行われるコンサート優るとも劣らない演奏会でした。そこで、ハタ、と思い至りました。文化の中心は既に都心にはなく、地方に移っているのだ、と。

 現役時代の仕事柄、私は東日本の殆どの土地を隈なく歩き回っています。都内から始まって千葉埼玉、北関東三県、東北六県、信越、富山、、、、だが、神奈川県と多摩だけは担当したことがありませんでした。

 それだけに、今回のモノレールの初乗りで、多摩の核心を俯瞰し今更のようにビックリ仰天したのでした。 

 

2017年11月21日        野尻牧師を讃える

 タイ・チェンマイにいる時は、毎日曜日「チェンマイ日本語キリスト教会」の礼拝に集うのが決まりになっています。中国系キリスト教会のビルの三階が会堂です。講壇の十字架の横には「神は愛なり」の墨書が掲げられています。100人は入れる広さですが、このところ人数が減って、集まるのは多くて30人ほどになりました。一時、チェンマイの日本人は3000人を超えていましたが、今は減りに減って1000人を割っているとか。代わりに欧米人や中国人が多くなりました。

 野尻牧師夫妻はお二人とも早稲田の出身です。法学部校舎にキリスト同盟の部室があって、お二人は学生時代から結ばれていたそうです。奥さまの明子さんは救世軍の山室軍平さんの直系です。旧約聖書に関する奥さまの薀蓄は群を抜いていて、全部を暗記しているやに伺いました。「旧約聖書に関しては、うちの奥方に敵う人はまずいないでしょう」と野尻牧師は鼻を蠢かします。

 その奥さまが一昨日、車椅子で帰国なさいました。勿論、旦那さまも一緒です。「ガン治療のための帰国」と伺い、心が塞ぎました。そういえば、7月から8月にかけて滞在したとき、奥さまの顔色が悪く、食事が細くなっているのに気が付きました。日本人がタイで病院に罹ると法外な治療費をとられます。私が食中毒らしきものでバンコック病院へ入院した時、一泊で9万円しました。幸い、傷害保険に入っていたので助かりました。野尻先生のご子息は、日本の牧師をされているので、そのご家族として国民保険に入れば高額医療還付の恩恵が受けられます。病院が決まれば早速、お見舞いに伺う積りです。

 思えば、野尻先生ご夫妻はチェンマイ教会の場所を定め、アプライトピアノを購入し、奥さまが奏者を務め、数十年に亘って身を削って尽くして来られました。73歳を機にご自分の後任を必死で探され、新潟山ノ下教会から女性の長谷部牧師を招聘することに成功しました。牧師にも定年制があることを、野尻牧師によって知りました。

 異国にあって教会に席を置くことは、そのお付き合いは家族も同然となります。どれだけの人々が野尻ご夫妻のお世話になったことでしょう。どれだけの人々の心の師であったことでしょう。私はチェンマイに行くたびに、ご夫妻を伴って食事の機会を作ってもらっていました。「中沢さん、早く受洗しなさい」「中沢さん、今から牧師になる教育を受けてはどうですか」と云われて続けて来ました。同じ早稲田出身であったため、忌憚のないお付き合いがいただけたのでした。

 日本での治療を受け、奥さまが快癒なされば、野尻ご夫妻は再びチェンマイに戻られ、陰になり日向になり、新任の牧師さんを支えるのではありますまいか。それほど、ご夫妻はチェンマイを愛し、その人々に尽くされてきたのです。野尻牧師ご夫妻を讃えて止みません。

 

2017年11月20日        量子コンピュータ  

 今日のアメリカ物理学会で、日本の東大グループが「量子コンピュータ」の可能性を発表しました。今年の5月、神戸の理化学研究所へ行って日本の「高速コンピュータ『京』」を見学してきました。和ダンス位の大きさのコンピュータが何台も並んでいました。並ぶ個体の数を多くすればするほど機能は高まるという説明でしたが、電力の消費が多くなるので考え物だ、とのことでした。この度発表された「量子コンピュータ」ならば電力消費はテレビ一台分で済む、というからこれは全くの驚きです。微小物質の世界は素人の思考の領域を遥かに超えるのですが、分子、原子、電子、中性子、量子、光子となるようです。仄聞する情報によれば、量子と光子に計算させるそうなのです。回路は螺旋形になっているそうで、場所をとらないらしいです。しかも、電力の消費は微量だそうで、これはオドロキ、モモノキそのものです。もし、このコンピュータをいち早く日本が作り上げれば、これはノーベル賞ものでしよう。コンピュータの世界に革命が起きる筈です。現在、高速コンピュータの世界では中国がNO1、NO2を占めていて日本の「京」は7番目です。

 民主党政権時代、時の行革大臣だった蓮舫さんが、「京」の予算折衝の際、一番を主張した通産省に対して「なぜ、二番では駄目なのですか」と鋭い質問を投げかけました。その時以来、私は蓮舫さんが好きになりました。閑話休題。

 今になって見れば技術の進歩が蓮舫さんを支持し始めているのではないでしょうか。小型化され、エネルギーを使わず、しかも超高速で膨大な計算をコナシテしまうコンピュータが、今のところ理論上ではありますが実現可能になったのです。

 恐ろしい進歩です           

 

2017年11月16日            

 国技館の相撲取りの中で、モンゴル出身の力士の活躍は目覚ましいものがあります。先月末、鳥取巡業の際、モンゴル出身者だけの夜の飲み会で横綱日馬富士が酔っぱらった勢いで同じモンゴル出身で貴乃花部屋の「貴ノ岩」を殴りつけました。ビール瓶で頭を殴ったらしいのですが、止めに入った横綱白鵬はビール瓶は否定しています。

 貴ノ岩は巡業を続けますが、何せ頭に受けた傷ですから次第に悪化し、休場となりました。この事件が大きくなったのは、自分の部屋の力士の傷害事件として貴ノ花親方が告訴に踏み切ったからです。日馬富士と伊勢が浜親方が貴ノ花に会いに行ったところ、丁度、入口ですれ違ったのに、貴ノ花は彼らを無視したようです。

 テレビはいまこの件で持ち切りです。トランプのアジア歴訪も終わり、北朝鮮も鳴りを潜めているため、これといった話題がないせいでしょう。世間は大騒ぎとなりました。「何もここまで」とやり切れなさを感じているのは私だけでしょうか。

 初代若乃花は立派でしたが、弟の藤島親方をはじめ、藤島部屋の「若乃花」「貴乃花」には昔からヘンなものがありました。宮沢りえとの婚約解消の時に私はそれを強く感じました。ことを大きくし、世間の耳目を集めていたい、という変な性格がこの部屋にあるような気がしてなりません。

 これを機に、モンゴル力士との軋轢が高まるのは必須のようです。酒の上の出来事は、出来るだけ早く、当事者間で穏便に始末すべきであったのです。残念なことです。 

 

2017年11月13日        銀座を歩く

 昨日は築地の朝日新聞本館2階の「アラスカ」で販売旧友会がありました。5、60人が集まり旧交を温め合いました。半世紀にわたって、年一回、苦楽を共にしてきた仲間たちと語り合うのは楽しく、また貴重な時間でもありました。

 代表取締役会長を務め、今年の6月の株主総会でお役御免となった飯田真也君も今年から仲間入りしました。席上、増井販売局長から各社の販売部数が発表されましたが、軒並み20万~30万部の前年比減。飯田君に依れば読売にはまだ200万以上の売れない紙があるが、ナベツネのお蔭で切れないとのこと。読売の山口社長は、売れていない読売の紙は「60万部です」と奏上しているとのこと。読売の名だたる販売所長らが「朝日さん、頼むから読売の上層部へ切るように働きかけてくれ」と悲鳴があがっていること、などなど。

 「新聞が読まれない、売れない、触らない」という未だかって経験したことのない「未知の領域」に踏み込み、苦戦している後輩たちが思いやられてなりませんでした。

 ほろ酔い機嫌のまま銀座に向かって歩き出しました。朝日の建物の隣がいつの間にか国税庁の膨大なビルになっていました。向かいの国立ガンセンターもビルが増築されています。料亭の金田中は客足が今一つの感じ。遥かに聳え立つているのは歌舞伎座です。表面入り口付近は昔の儘でも、後ろが巨大ビルです。千疋屋ビルもリニューアルされました。このパーラーだけにある「若鳥の壺煮」は團伊玖磨が特に好んでいましたっけ。並木通りの両側も新築のビルだらけです。しかし、人通りはあまりありません。そういえば銀座全体から人の臭いが無くなっています。行き交う人は殆どが外国人です。昔、良く通ったビル4階の「バーダルトン」の看板が目に入りました。チョット寄って石沢親分に挨拶していくか、と思ったのはいいけれど、ビル入り口のすべてが閉鎖されていました。看板だけが昔の儘に掲げられていたのです。松田ビルの一階にあった旭屋書店は既になく、巨大な構えは「ロッテ免税店」の看板でした。銀座は「夢の中で思うもの」となったようです。

 

2017年11月12日        可笑しな国

 客人を持てなすには、その人の身になって細部に至るまで神経を使いたいものです。予め調査して、ケチャップとハンバーグとステーキが大好物であれば、それを用意するのが「お持てなし」というものでしょう。

 大韓民国が一夜限りのアメリカ大統領に供した夕食は「340年前の醤油で味付けした煮物」「独島付近でとれた海老一匹」「カネの箸」「テーブルに置かれたお膳」「てんこ盛りのご飯」「申し訳程度のステーキ」、、、、

 これは、古式に則った韓国にあっては最高級の宮廷料理でありました。しかし、アメリカ大統領トランプはどうやって食べたらいいか迷ったのでした。

 晩餐会には88歳になる旧日本軍の慰安婦が正式招待されていました。文大統領が彼女を紹介します。不意を喰らったに違いないトランプは、それでも彼女を抱擁します。大統領が慰安婦を抱かせられる、、、、

 この上ない「いやな感じ」です。恐らく日本人の誰もがそう感じたでありましょう。「そこまでやるか!」と。

 大韓民国はアメリカ大統領の歓迎晩餐会を「独島エビ」「慰安婦」を潜ませて「反日」の宣伝の機会にしたのでした。卑劣な行為といっていいのではないでしょうか。思えば前大統領の朴ウネもそうでした。反日を標榜し、日本の悪口を各国首脳に「告げ口」して回りました。習金平に擦り寄り、重慶に伊藤博文を暗殺した「安重根」の記念館を作ることを懇願しました。そして今は失脚し、彼女はいま独房の中です。

 思えば、ソウルの日本大使館や釜山の総領事館前に建てられている「慰安婦像」は10億円と引き換えに撤去されるはずでした。「以後、この件は蒸し返さない」という約束が国と国との間に締結されました。ところが、いま慰安婦像は撤去されるどころか、公共バスの最前列にまで進出しています。しかも、10億円は戻って来ていません。約束を反古にしたければ「金」を返すのが筋でしょう。それをしない国とは、一体、何でしょうか。

 韓国とは可笑しな国です。 

 

2017年11月7日         食品添加物

 私の胃袋はガンの兆候も、潰瘍もなく、おまけにピロリ菌までいないにも拘わらず、時々「胃がヘンだ」と感じることがあります。それはどんな時か。

 葡萄の巨峰をほんの申し訳程度に洗って食べたとき、20世紀梨を食べたとき、バナナを食べたとき、リンゴを皮を剥かずに食べたとき、即席ごはん「ユメピリカ」を食べたとき、市販のスープで鍋を作ったとき、、、、

 案の定、今日の新聞には「即席ご飯に大量の微生物が発生しているので回収された」とありました。買ってきた五個の二十世紀梨の内一個を食べてオカシかったので残り四個をテーブルに置いたままにしているのですが、もう二か月になろうといのに腐りません。そのままの状態でいるのです。不気味です。

 市販の食品のほとんどに「酸化防止剤」「腐敗防止剤」が使われているのは、殆ど常識ですが、私の胃袋はこれらに対して拒否反応を示しているのかもしれません。

 生鮮食品や調理品を、出来るだけ長く店頭に置くために、腐敗防止剤を含むコーテイング技術は、驚くべき進化を遂げているやに仄聞します。これらの薬品が人体に無害だ、と果たして言い切れるでしょうか。

 私の家の周りには、車で行ける範囲に九っのスーパーがあります。それぞれに特徴があって、「今日は何を食べようか」と思案しながらスーパーを選び、歩き回るのは一日の息抜きでもあります。極力、出来合いものやレトルトものは避けるようにしています。料理の元となる「ダシ」は博多の「やまや」から取り寄せる「無添加アゴだし」を使っているのですが、上等の鰹節と日高昆布で自分で「ダシ」を作ろうかな、と思い始めているこのごろです。

 

2017年11月5日          時 差

 アメリカと日本の間には12時間の時差があります。日本の夜明けはアメリカの日没です。反対に、アメリカの夜明けは日本の夕方です。余程、強じんな体力を持っていないと時差という、得体のしれない怪物にやられてしまいます。

 トランプがやってきました。エアホースワンで横田に着いたのが午前10時。それからヘリで川越の霞が関ゴルフ場へ行って安倍と松山秀樹を交えての一戦。恐らくハーフラウンドだけだったでしょうが、トランプは夜中の12時頃から午前3時頃までゴルフをしたことになります。あの年でです。これだけは褒めてあげましょう。

 私がアメリカを嫌いなのは、このいまわしい時差のせいです。アメリカへは三度行きましたが三度とも痛い目に遇いました。最も苦しかったのは日本新聞協会が派遣する「アメリカ新聞事情視察団」の団長をおおせつかって行ったときです。読売ー三角、毎日ー平野、日経ー斎藤、サンケイー幡、河北ー森田、信毎ー宮沢、京都ー太田、山陽ー田中、西日本ー永利、それに協会から勝又、協会のニューヨーク駐在の佐藤さん等、それに朝日の金子、中沢の二名が加わり、総勢13名によるアメリカ国内15日間の旅でした。最大の目的はアメリカ全土から集まって催される「ICMA(インターナショナル・サーキュレーションマネージャー・アソシエーション)」つまり、全アメリカの新聞社の販売責任者が一堂に会し、どうやったら新聞が売れるか、を研究し合う会合に、日本も参加させて貰うという趣旨で始まったもので、毎年、日本から10名前後が出席させてもらっているのでした。われわれの時は、アメリカ本土の中ごろに位置する「ルイ・ビル」で開催され、慣れない英語の研究発表を同時通訳の助けを借りながら、勉強させてもらいました。とはいっても、こと販売に関しては、アメリカより日本の方が遥かにきめ細やかで、優れていました。つまり、アメリカから学ぶことなどない、と言った方が当たっていたのですが、やがて、紙を媒体とする情報伝達手段が、電波に押されて退潮していくに違いない、という予感を感じとることが出来ました。ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、など有力新聞社の見学も予定に入っていました。何しろ日本の新聞協会からは、一人当たり15日間で120万円の予算を組んでもらっていたので、旅は潤沢でした。

 往きも帰りも、勿論、ビジネスクラスでした。日経の斉藤君(故人)と席が隣り合わせになり、酒豪の彼に負けじと大吟醸の日本酒を何本も空けました。何故なら、飛行機の中で寝てはいけない、と誰かから教わっていたからです。ニューヨークへ着いたのが朝6時頃、ホテルはホリデイ・イン。街中を歩き回り、メトロポリタンへも行き、夜は中華街での大宴会。その頃から眠さを感じなくなりました。ホテルへ戻ってベッドへ入っても眠れません。眠れないまま朝となりました。

 予定されているニューヨークタイムズへは、フラフラしながら辿り着きました。会議室へ通され、お偉方と面談です。団長である手前、挨拶が欠かせません。予め暗記していた挨拶をメモを見ることなし述べました。しかし、質問されるや、たちまち化けの皮が剥がれました。その晩の予定はブロードウエイです。申し訳なかったが私だけ失礼してホテルへ戻りました。部屋に戻ってからフロントに医者を呼んでもらいました。若い医者が往診してくれました。単なる睡眠不足とのこと。300ドルとられました。しばらくして黒人の子どもが睡眠薬を届けてくれました。50ドル上げました。時差は私に350ドルの損害を与えたのでした。

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