女性議員数

2018年8月19日         日出の偉人たち 

 九州は大分県の、宮崎県との県境近くに日出(ヒジと読みます)という小さな町があります。城下カレイで有名です。その町の朝日新聞は代々続いている手島さんという方が扱っています。九州小倉で単身赴任時代、その街に泊まって手島さんと一献傾けたことがありました。局長に泊まって貰ったのは初めてだ、と喜んでもらえたのはいいけれど、自分がどんなに新聞経営に情熱をかけているかを語りに語り、とうとう夜が明けてしまいました。覚えているのは、自分が商売できているのは街の人々のお蔭だとということでした。私は彼の中に一途で全うな人間性感じ、好感を持ちました。

 同じ日出町で魚屋をやっていた男が、今、世間の耳目を集めています。赤いシャツを着て、赤いタオルを頭に巻き、自分で軽自動車を運転して全国を飛び回りボランテア活動をしている78歳の男です。山口県の周防大島町で2歳の男の子が道に迷って2日間行方不明になりました。彼が駆けつけて「人には上に登る習性がある。子供とて同じ」との確信のもと20分で藤本よしきチャンを見つけ出し、抱きかかえて母親に渡しました。

 それだけでも凄いことなのに、世間は彼のボランテア精神を知るに及んで拍手喝采しています。私もその一人です。何と彼は自分のボランテア活動に対する一切の見返りを拒否します。金品を受け取らないばかりか、お茶もお菓子も拒否します。「お風呂へお入り下さい」とそくされても辞退しました。自分の食事はというと、レトルトご飯に水をかけて柔らかくし、梅紫蘇をまぶして掻き込みます。そして、魚肉ソーセージを一本放りこんで終わりです。夜は自分の軽自動車の中に蹲って寝ます。一切を年金の範囲でやっているそうです。

 正に無償の行為、自分を無にして人に尽くす、理屈では分かっていても、それを実際に実行している78歳の老人の出現はなんと爽やかであることか。ほとんどのマスコミ・テレビが取り上げたので、このオヤジは有名になっています。この人の名は尾畠春夫。実にいい話です! 

 宮沢賢治が「雨にも負けず」で描いた人間の写しが、この赤鉢巻のオヤジに投影されています。       


2018年8月16日           運 勢      

 今から70数年前の戦争の記憶を辿りながら、自分の越し方振り返ってみると、確実に言えることが一つあります。それは、私という男は生まれつき「強い運勢を持って生まれてきている」かもしれない、ということです。

 仮にもし、私が昭和12年生まれではなく、その12,3年ぐらい前に生まれていたとしたらどうでしょう。学徒出陣による出征を余儀なくされたでしょう。そうなればガタルカナルか、レイテ沖で死んでいたでしょう。あるいは、特攻隊員になっていたかもしれません。幸いというか、申し訳なかったというべきか、私がまだ小学生だったからそれを免れたのでした。私の代わりにどれだけの人が命を落としたことか! 誠に申し訳ありません。

 もう一つ。私は何度も空襲に遇い、真っ赤に燃える空を見てきましたが、戦火の故に亡くなった人を一人として実際に見たことがありません。大勢の人が亡くなったというのに、3月22日は東京の下町が空襲で焼かれ、5月25日には自分の家を含めて東京の山の手が焼かれ、6月23日には沖縄が玉砕し、24万余人が戦火で亡くなったというのに、なお且つ、8月6日は広島、9日には長崎に原爆が落とされ、無数の死者が出たというのに、どうしたことか、私は肉親、知人の死以外、事故や戦火で亡くなった人をこの目で実際に視ることなく齢80歳に達することができているのです。有難いことです。


2018年8月15日         戦争の記憶(1)

 〇 昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発しました。ラジオは盛んに「戦争状態に突入せり」とガナリたてます。何を思ったか母親は私を急きたてパン屋へ急ぎます。食パンなどは既に売り切れていて、カステラ状の菓子パンだけが残っています。母親はそれらを全部買い占めます。連日、そればかり食べていました。  

 〇 栃木県佐野市田島の親戚を尋ねて東武線の館林に着いたときです。空襲警報が発令され、乗客は全員館林駅構内の防空壕に避難させられました。30機ほどのB29の編隊が隣町の太田飛行場を目がけてやってきました。青空に銀翼が映えて綺麗でした。高射砲は打たれても、遥か低いところで炸裂し当たりません。飛行場から三機の戦闘機が舞い上がり応戦しますが、二機はB29に撃ち落とされました。三機目がB29に体当たりしました。だが、翼の一部を破損させただけで自身は矢のように墜落しました。その内、体当たりされたB29がヒラヒラしだし、太田飛行場の近くに轟音をたてて墜落しました。防空壕に避難していた乗客は一斉に出て拍手しました。

 〇 防空壕は家にもありました。敵機の襲来があるとラジオが喚きます。「東部軍管区情報、東部軍管区情報、敵B29の大編隊、房総半島より本土に近接しつつあり、空襲警報発令、空襲警報発令」それと共に近くのサイレンが響き渡ります。電燈に黒い布を垂らして光が漏れないようにし、綿の入った防空頭巾を被り、懐中電灯を持って防空壕に入ります。遠くで爆弾の炸裂する音がしてきます。次はここか、と不安で胸が高鳴ります。

 〇 ある昼間、突然、空襲警報が発令されました。今まで見たこともない戦闘機が超低空で飛来し、機銃掃射をしていました。カーチスP38という双胴の戦闘機でした。もっとよく見よう、と防空壕から出たところ、機銃掃射されました。操縦士の赤ら顔をハッキリ見ました。

 〇 中野に向かう新井薬師の駅前通りを、隊列を組み,鉄砲を担ぎ、軍歌をガナリながら行進する兵隊さんを何度も見ました。どの顔も虚ろでした。軍歌や国民歌謡は何度も聴かされていたので、そのほとんどを今でも歌うことが出来ます。

 〇 その同じ道を、今度は上高田国民学校の一年から六年までの生徒が、見送りの父母を伴いながら行進します。中野駅から福島浜通りまで、特別列車がが仕立てられました。学童集団疎開です。母親は食入るような険しい目で私を見つめ目を離しませんでした。

 〇 常磐線富岡駅前の旅館「大東館」に柳行李一つで雑魚寝となって一番困ったのはシラミの大群の襲来でした。一夜にして下着はシラミの巣窟になってしまいました。食べ物もありません。空腹の余りツツジの花を毟って食べました。訓練と称して真夜中に起こされ、近くの洞窟まで駆け足させられました。

 

2018年8月14日        長野の丸ナス

 大東亜戦争敗戦となった8月は、私は母親と共に長野市東鶴賀の母方の祖母の実家である出水家に身を寄せていました。明治の昔、鹿児島薩摩の出水市に生まれ、大阪に出て事業に失敗し、信州善光寺に来て油商人として成功した出水周助が建てた、古いが大きな家でした。周助の孫出水キヨが中沢丙三と東京で所帯を持ち一男五女をもうけます。三番目が私の母親志づです。中沢丙三は信州松代藩に仕えた祐筆係中沢愛之進の孫で、代々の家は今は松代町の郵便局になっています。何でこんな昔のことを述べるかというと、私にも僅かではあっても、今流行りの人気ドラマ「西郷どん」と同じ薩摩の血が流れていることを言いたいためでありました。

 昭和二〇年五月二五日の東京大空襲で、中野新井薬師の家が焼けました。父親は馬の軍医として応召中、独り、家を守っていた母親は苦労して福島に学童集団疎開している国民学校一年生の私を迎えに来てくれました。福島での宿舎は最初は浜通り富岡駅前の大東旅館でした。アメリカ軍艦による艦砲射撃が始まったため、宿舎の移転を余儀なくされ、会津の山奥、野沢の大山神社の旗後旅館に移っていました。そこへ母親が来てくれたのです。どんなに嬉しかったか!

 八月一五日の正午、箱型のラジオを廊下に置き、全員が中庭に土下座して玉音放送を聴きました。何を言っているのか、サッパリ分かりませんでした。大人全員は大泣きに泣いていました。殊に私の母親は草や庭の土を掻き毟り、身を捩って泣き崩れていました。空はあくまでも青く澄み渡り、白い雲が浮いていました。その雲の容を今でもハッキリ思い浮かべることが出来ます。

 もう一つ思い出すのが、食事の度に出てくるナスです。ロクな食べ物の無い時節、ナスだけはありました。信州独特の丸いナスです。ナスの味噌汁、油味噌、お焼きの具などなど。だから、八月になるとどうしても辛かった時と共にナスの味が思い出されるのです。現在の幸せを改めて噛みしめるためにも、丸ナスを食べずにはおられなくなるのです。先日、長野駅前のデパートに頼んで丸ナスを取り寄せました。濃い紫色を見ながら、改めて戦争の悲惨さを思っています。明日はいよいよ敗戦記念日です。

 

2018年8月9日        その後の黒部

 朝日新聞に入社し、販売部長として東北6県信越富山を担当していた頃です。各新聞社の販売責任者の定例会合の一つ、北陸地区協が富山の立山の室堂に新設されたホテルで開催されました。標高2000メートル超える穴倉のようなホテルだ、と聞き及んでいました。

 さて、その日は松本更科でのゴルフでした。仲良し四人組に別れを告げ、アルプス特急で信濃大町へ着きました。大町から扇沢まで最終バス。そのバスは扇沢からクロヨンダムへの最終トロリーバスに接続していました。乗客は何と私一人。轟音を立てているクロヨンダムは、まだ夏の終わりだというのに粉雪が舞っていました。従業員に急かされ、巨大なダムの上を小走りで対岸に渡りました。そこからはケーブルカーとロープウエイです。乗客は私一人。

 雄大な後ろ立山の暮れなずむ姿に見とれました。針の木、蓮華、五竜、唐松…かつて、踏破した懐かしい山々です。立山別山のあたりでロープウエイを下りると今度は地下道をバスで走り抜けました。着いたところが何とホテルのフロント前。これを進歩というべきか、自然破壊のお節介というべきか、兎に角、感無量でした。

 翌日は更に度胆を抜かれました。全員うち揃って、逆コースをたどりクロヨンダムに着きました。関西電力の係員が我々一行を待ち構えていて、一般の人は立ち入り禁止のところへ案内してくれます。バス一台が入れそうな巨大なエレベーターに乗込みました。降りたところに電車が待っていました。どの位走ったか、着いたところがクロヨンの秘部というべき発電所でした。轟音を立てて何台もの発電機が回っていました。落下の力で発電機を回した黒部の水は、夜になると余った電力で汲み上げられ、元のダム湖へ戻るとのこと。これを称して揚水発電所というのだ、という説明を受けましたが、こちとら、分かったような分からないような。驚いたのは地下深くの貴賓室にいたわれわれ一五,六人に対し豪華弁当が振る舞われたことです。日本海の珍味が詰まった御馳走を黒部の地下深くで味わうのは、何とも奇妙な体験でした。

 

2018年8月8日       一番長かった山旅

 8月8日で思い出すのは8日間の北アルプスの山旅です。長野北高から東大を経て日立の社員になったばかりの日高さん、北高から教育大の山岸さん、それに現役の北高3年生の私。夜、信濃大町に着いて安宿に一泊。翌朝一番のバスで終点まで行って北アルプスの針の木雪渓を登り、針の木小屋で小休止して一気に駆け下り黒部川の平の小屋に一泊。黒部ダムがまだない頃です。小屋のオジサンから竿を借りて黒部川に垂らしましたが、釣果はなし。翌朝からは急な登りです。立山別山のお花畑が見事でした。室堂でテント泊。翌日、黒部川の桟道を登り、内蔵助平から剣沢を登ってきた本隊と合流。柏与印刷の清水さん、川口の味噌屋の大熊さん、直江津駅前の旅館の主いかやさん。それに国鉄職員の飯田さん、全員が東京経済大学の同級生たちです。全員で剣沢にテントを張り、翌日は3003メートルの剣山にアタックしました。実に峻険な山で、脚が震える箇所が幾つもありました。全員が登頂を果たし、剣沢に戻ったところで、私はリックから長野から背負ってきた青林檎4個を取り出し8つに割りました。「君はここまで長野の林檎を持って来てくれたのかね!」大熊さんが感に堪えぬ声で叫びました。

 翌日、下山です。長い長い下りでした。トロッコが通っている欅平で本隊と別れ私たち3人は黒部川の桟道を遡り十字峡、白竜峡を目指しました。切り立つ崖に鉄杭を打ち込み板を渡しただけの通路を桟道といいます。関西電力が調査のため作った名ばかりのものです。板の隙間から200メートルほど下の激流が丸見えです。ザックが針金に引っかかると桟道自体が揺れます。4,5時間かけて剣沢と後ろ立山の棒小屋沢の出会いである十字峡の僅かばかりの地面にテントを張りました。ここから先は桟道はありません。荷物を置き、黒部の激流沿いに白竜峡へ行きました。巨大なドームになっている淵でした。

 いま、十字峡・白竜峡はどうなっているでしょう? 巨大な黒部ダムの底に眠っている筈です。

 

2018年8月7日       既に決まっている

 昨日、去る病院の待合室で、読売新聞を精読しました。相変わらず巨人軍の勝利をデカデカと扱っていました。高校野球の記事は申し訳程度、大きく扱っては朝日に悪いと思っているのでしょう。

 特筆すべきは、9月の自民党総裁選での票読みを特集したことです。「圧勝!」とありました。その記事によれば、野田聖子はたったの2票。「彼女の前夫が暴力団員」という文春の記事が影響しているのでしょう。宏池会の岸田文雄は既に白旗を上げています。こともあろうに早々と安倍支持を打ち出したのです。石破茂は出馬するでしょうが、何せ、彼のグループは30人足らずです。参議院の古株青木幹雄や山崎拓がどんなに動いても7〜80人がせいぜいでしょう。石破は、穿ったコトを言い、たとえそれが正論であっても何故か人がつきません。きっと「オタク」的色彩が濃いからでしょう。週刊誌によれば「石破は徹底的に干される」そうです。「彼にはどんな役職も与える気が安倍にはない」とのこと。読売の記者が自民の議員の一人ひとりに聞いて回った結果、総数の70%を安倍が勝ちとり、彼の圧勝となるそうです。

 首相の大嘘が整然とまかり通る日本の政治の世界。役人をして忖度させながら、その依って来る責任をうやむやにしているオゾマシイまでに堕落しきった内閣。しかしここで「なぜそうなるのか」と考えてみる必要があります。ご承知のように経団連は安倍支持を打ち出しています。これは、今の株高の経済政策を続けて欲しいという現れです。日銀の逆サヤ長期金利に対する若干の修正はありましたが、大量にお札を刷って赤字経営を続ける日本経済でいい、といっているのです。異端とも言うべき日本の経済政策のもと、どれだけの利権構造が蠢いているか、それは推して知るべしでありましょう。その利権の前には「森・加計」問題など「小さい、小さい」のでありましょう。

 トルコにエルドアンという猛者がいます。250もの部屋を持つ金ぴかの別荘を所有しています。息子は石油商人でロシアから密輸する油をシリアに売っています。大規模なクーデターがありましたがエルドアンは辛くも逃れ、その報復は苛烈を極めました。その大統領が再選されたのです。つまり、彼の施政下で利権にあり付いていた勢力が民衆の変革の力に押し勝ったのでありました。

 「国がどうなろうとも、変化は望まない。嘘を平気でつく首相であってもいい。なぜなら、俺(俺の会社)は、いま、儲かっているのだから」

 いやはや、なんともはやであります。

 

2018年8月6日         東京医大の大罪

 大学交付金を目当てにして、文部科学省高官の子弟の裏口入学を許した事件が発覚したついでに、それにも勝る忌まわしい出来事が明るみに出ました。同大学の入学試験で、女子の入学者の数を制限するため、女子受験者の点数を軒並み一律に下げ、意識的に女子入学者の数を減らしてきた、というものです。

 何たる女性蔑視でしょうか! 何という前近代的なやり口でしょうか!

 女性よ怒れ、合格していたかもしれないのに、操作にあって落とされた女性たちよ、同大学の前に結集してムシロハタを上げよ、と言いたい気持ちで一杯です。男女は一切平等であるべきです。少しの差別もあってはならないのです。その解りきった原則をこともあろうに最高学府が裏切っていたとは!

 調べてみると、大学付属病院の医師の数の男女の割合は、世界の先進諸国では女子の数が50%を超えている国がザラです。

 女性医師の数が50%を超える国…スペイン、ポルトガル、ポーランド、

           スロベニア、エストニア、フィンランド、ラトビア

 女性医師の数が40%〜50%の国…スエーデン、オーストリア、スイス、

           ドイツ、フランス、アメリカ、ハンガリー

 日本はどうでしょう? 何と、何と、19%なのであります。お隣の韓国でさえ22%なのにです。女性よ、怒れ! これを怒らずに何に怒るか!

 ちなみに、私の主治医は東京女子医大の宇野洋美先生です。小柄で可愛い女医さんです。私が生きながらえていられるのは、専ら、この先生のお蔭です。 

 

2018年8月5日       上原ひろみのピアノ

 一昔前、ヤマハのピアノ教室が全盛を極めていた頃、「オリジナルコンサート」という番組がありました。自分が作曲したピアノ曲を自作自演して優劣を争うのです。私はこの番組が好きで好きで、その度に思わぬ天才が現れるのを喜んでいました。浜松生まれで、ヤマハのピアノの申し子のようだった上原ひろみはこの時分からその天才振りを現していました。

 最近、ふとしたことでジャズピアニストとして世界的に活躍している彼女の独演を聴きました。驚嘆を通り越して感動の余り、身体中に震えが来て止まらなくなりました。それほど、彼女の演奏は凄いのです。自分のオリジナルばかりだそうですが、彼女の演奏はピアノで表現できるあらゆる可能性を余すところなく演じ切っています。ミスタッチ、音のかすりなど一つもありません。口を半開きにし、歓喜に充ちた笑みを浮かべ、髪を振り乱し、全身全霊でピアノが持つ音の美しさ、リズムの面白さを表現します。タッチはあくまでも軽く、ピアノをして語らせようとします。この演奏者のお蔭でヤマハピアノがまるで人格を得たように喜びを表現し始めるのです。

 驚嘆しました。ヤマハピアノが持つ音の美をここまで表現して貰えたら、ピアノはその存在冥利に尽きるのではないでしょうか。上原ひろみはピアノ音楽表現者の天才だ、と私は思います。

 おまけに彼女は法政大学法学部を中途退学し、ボストンのバークレー音楽院に留学します。何と、彼女はそこを首席で卒業するのです。チックコリアなどの名だたるジャズメンに見いだされ、ジャズのメッカ・ブルーノートに9週連続で出演します。彼女が行くところどこの会場も大入り満員で、チケットが入手困難だそうです。いまや39歳になった彼女、今日はどこで、どんな即興をピアノにたくしているのでしょうか。

 ついでながら、彼女は何時の時もヤマハのフルコンサートピアノでなければ弾きません。流石は浜松出のヤマハの申し子です。オリジナルコンサートが産んだ一人の天才ピアニストと出会えて私も幸せです。

 このところユーチューブで彼女の演奏ばかり聴いています。

 

2018年8月3日          痛 い

 朝起きて二階の寝室から階下へ降りようとすると、妙に左足の膝蓋骨部分が痛い。時々激痛が走る。階段をうまく下りられない。昨夜までは何ともなかったのにです。原因を探りました。何も思い当りません。仕方が無いので、連日の猛暑による「熱中症が膝に来た」と思うことにしました。

 周囲を見渡すまでもなく、身体のある部分に常に痛みを抱え、痛みから逃れる術を見つけようと涙ぐましい努力をしている友人知人が数多くいることに気が付きます。曰く、脊椎狭窄症、坐骨神経症、骨粗相症、リューマチ、パーキンソンなどなど。

 20年は共にゴルフをしてきた長沢君は、痛みのため50メートルも歩けなくなりました。元気者だった倉石君は血液のガンからくる痛みと戦っています。一緒に相撲をとった山本君は血小板減少による腕の痛みが悩みのようです。北七会会長の若麻績君は脊椎狭窄症の手術をしました。その上、パーキンソンの奥さまを抱えています。

 お互い、幸運にも八〇歳を超えるまで生きてこられたのだから、ちょっとやそっとの痛みぐらい仕方ないではないか、どんな優秀な器械であっても長年使っていればガタが来て当然、という考え方もありましょう。でも、どうにかして「痛みからは逃れていたい」というのが正直なところです。その気になって探してみると、針灸、整体、マッサージ、ペインクリニックなどなど、「痛みからの解放産業」が花盛りであることが分かりました。

 どういう訳か、私はこの歳まで痛みに悩まされたことがありませんでした。だからこそ、これからが痛みとの付き合いが本番になるような気がします。最大の痛みは恐らく死ぬときでありましょう。どうやったら痛くない死に方が出来るか? 切実な問題であるからして、一生懸命研究しようと思います。

 

2018年8月2日       甲子園へ行きたい

 今年は全国高校野球が100回目を迎える節目の年に当たります。何としても甲子園へ行きたい、開会式当日でなくてもいいから行きたい、そして世紀の節目の感動を共にしたい、と心から願っているのです。

 私たち朝日新聞の販売人は地方大会が始まるとすぐ、裏方の仕事をしてきました。予選が行われる地方球場の旗張りは販売店の仕事となっていました。それぞれの地区の朝日会は従業員を動員し、黙々としてその仕事をこなしてきました。県代表となった高校の所在地では、街中はおろか、駅にまで朝日の連旗を掲げてきました。あまり派手にやったので、自粛のお達しが出たほどです。

 全国優勝、あるいは準優勝校が凱旋するときは街をあげてのパレードとなります。ここからは宣伝部の仕事となるのです。福島県担当の時、磐城高校が準優勝しました。さあ大変です。勿来の駅にオープンカーを用意し、磐城平の駅まで6号線をパレードしました。何せ福島の浜道りの高校の勝ち名乗りは初めてだったので、沿道は黒山の人だかりでした。

 茨城担当の時は木内監督率いる取手二高が同じく準優勝しました。これも取手駅から学校までパレードとなりました。

 九州小倉へ営業局長として赴任しているときは、佐賀商業が優勝しました。博多駅から佐賀まで凱旋パレードに付き合わされました。パレードではないけれど九州の時は「福岡国際マラソン」とのお付き合いがありました。西部本社代表に替わって大濠公園競技場で開会の挨拶をさせられ、先導車に乗込みます。交通規制が行き届いた博多の市内を42.195キロ、私一人を乗せた車がマラソンの先頭を走りました。大いなる役得でありました。閑話休題。

 今年の甲子園は100回目の記念大会です。何としても行きたいではありませんか!

 

2018年7月26日       政治が出来る人材がいない      

 宏池会の岸田文雄が9月の総裁選への立候補をしない、と発言しました。故池田勇人を頭としていたこのグループは、穏健派で知られていましたが、何故に安倍晋三支持を早々と打ち上げたのでしょうか? 全く理解に苦しみます。野田聖子はどうでしょう。彼女の前夫がヤクザであったことから、今週の新潮も文春もこれでもか、と囃し立てています。残るは慶応出の赤ら顔、石破茂です。考え方に置いては納得できても、所詮『オタクの寝言』の域を出ません。

 どうして、次世代を託したい政治家が日本という国にいないのでしょうか?悲しくて悲しくて堪らない思いなのは私だけでしょうか。

 このまま9月まで推移すると安倍晋三が再選されるらしいのです。

 『おお、いやだいやだ』それだけは願い下げだ。そうなったときは私は日本を見捨てる積りです。

 註 6月26日から7月23日までタイ・チェンマイでした。日本は水害や熱中症やらで大変のようでしたが、現地は涼しく、快適な毎日で申し訳ないような日々を過ごしてきました。今回もピアニカを持参し、タイ奥地のカレン族という少数民族の小学校に寄贈することが出来ました。電気もマトモでない隔絶されたその小学校には玉のような67人の小学生がいました。

 いずれ、この欄でご報告させていただきます。 

 

2018年7月3日       凄まじいアフリカ勢

 サッカーにさしたる興味を持ち合わせない私ですが、16強入りした最初のベルギーとの深夜の試合、ハラハラしながらテレビを見てしまいました。

 前半で2点入れながら、後半、立て続けに3点入れられ惜敗しました。大きなため息が日本の明け方の空に響き渡ったことでしょう。

 勝ち上がった16強の中に、アフリカ大陸の国々の名前はほとんどがありません。ヨーロッパ勢ばかりです。流石、アングロサクソンと思いきや、実態はアフリカ大陸などから大金を積まれて引き抜かれた、いわゆる「カラード」たちによってチームが成り立っているのが分かります。

 産業革命以後、特に19世紀のヨーロッパはアングロサクソンといわれる白人が全盛を謳歌していました。スポーツもそうでした。カラードの入り込む余地はなかったのです。一方、アフリカ、南米大陸では、「スポーツは金を生む」とばかりに子供の頃から「身体強健」を目指して励みに励みます。その結果、世界陸上はカラードに席巻されました。バスケット、バレーなどの球技もそうなりました。いま、野球もサッカーもカラードで溢れています。その侵食を受けていないのは、僅かに水泳だけでしょうか。

 日本の善戦が光ったベルギーチームも、大活躍したのは2メートル近い身長の上に、強健にして俊敏な身体機能を持つカラードでした。

 試合は後半の20分の間に立て続けに3点奪われました。2点の先取得点が守り切れなかったのです。これは日本が守りに入った結果だと言っていいでしょう。攻撃こそが最大の防御であることを何故忘れてしまったのでしょう。それは予選のポルトガル戦で、パス回しで時間を稼ぎながら勝ちを占めた、いわば「姑息な手段」が尾を引いたかもしれない、と私には思われました。

 残り時間3分、ベルギーのコーナーキックです。高く上がったボールをヘッドで受け止めたのは長身のカラードです。絶妙な角度でポストぎりぎりに押し込みました。正に神業でした。

 ヨーロッパの国々は、莫大な金を投じて屈強なカラード選手集めにしのぎを削っているかに見えます。「国の威信をかけて」だそうですから何とも言えませんが、私には面白くありません。もし、サッカーが民族対民族の試合に限定されたら、私は夜を徹して見るでしょう。

 

2018年6月23日      「嘘も方便」を許す政治

 私たち高齢者は、特に子供の頃、「何があっても嘘をついてはいけないよ。嘘つきは泥棒の始まりだから」と教え込まれてきました。93歳にして世を去った私の母親は、その点について実に厳格でした。お蔭で、貧乏ではあっても正直な人生を送って、現在に至ることが出来ています。

 戦後最大の会社「東芝」が大きな粉飾決算で世間を誤魔化してきたことが発覚しました。神戸製鋼もその偽りが発覚して話題になっています。経済界の嘘もさることながら、いま、嘘は政治の世界に蔓延しています。その嘘つきの張本人が内閣委総理大臣安倍晋三であるに至っては、何おかいわんやでしょう。

 いままで無言を通してきた加計学園の学長が、ついに表に出てきたのはいいけれど、安倍を援護する嘘をつきました。その記者会見は唐突に行われたので地元新聞の記者以外は取材出来ませんでした。姑息な手段を用いたのです。

 曰く「加計学園の獣医学部新設について安倍と話したことは一切なかった」とノタマッタノデス。従弟同士で、長年の付き合いで、何回となくゴルフをしながら、自分の計画を話したことがない、などと弁解したところで、誰が信じますか?

 国会の追求にあって安倍は最初の嘘をつきました。その嘘に辻褄を合わせるため周囲は嘘に嘘を重ねました。役人も嘘が露見しないよう、公文書の書き替えという前代未聞の悪事を行いました。

 こういう無様な政治の現状をつくりだした張本人は誰でしょう。云わずと知れた安倍晋三昭恵夫妻です。ただ困るのは、この能天気な夫妻に「自分たちこそがその依って来る所以だ」という自覚がないことです。全くと言っていいほど普通の神経を持ち合わせていない総理夫妻。かてて加えて、またまた総裁に再選しようという今の動き。それを是認するかのような自民党の大勢。世界の政治が大きく変わろうとしているのに、「日本はカヤの外にいる」ことでしかない情けない状況なのに、敢て、安倍三選を是認しようという「蠢き」。

 つらつら思ってみると、今の若手の自民党議員たちは、安倍が再選され勢いに乗じて、安倍チルドレンとして、その能力にお構いなしに成りあがった者たちなのです。わが身保身のために、現状維持が続くのを願っている能無しばかりなのです。

 小選挙区制はダメだなあ、と改めて思うと同時に、選挙民よ、シッカリしようよ、と呼びかけたい気持ちです。

 

2018年6月20日       安らかに眠るな

 神田の如水会館で故岸井成挌さんを偲ぶ会がありました。この会場は毎日新聞の本社がある竹橋の近くです。関係のあった歴代首相を始め報道関係者約1000余名が集まりました。わが朝日新聞の渡辺社長も出席したことでしょう。

 新聞が専売制に突入した昭和27,8年頃、一番威勢の良かった新聞は毎日でした。また、日本で一番早く発刊された新聞でもありました。そのため、関係各社の集まりがあると毎日の担当者がいつも上座を占めていました。有楽町の駅の真向かいが毎日の社屋、日劇と並んで朝日、少し離れて読売新聞がそれぞれ輪転機を回していました。朝日の社屋は輪転機設置場所をガラス張りにしていましたから、いつも人々が覗いていました。暫くして毎日は竹橋、読売は大手町、朝日は築地へそれぞれ新社屋を建てて移ります。実は、その頃から新聞の部数伸長には陰りが見え始めていました。

 そして今や、新聞は「読まない、とらない、触らない」「部屋が汚れるからタダでもいらない」となり、新聞産業は青息吐息となっています。わが後輩が、最近、新潮社から「新聞社崩壊」という本を出しましたが、これが正に現実味を帯びてきているのです。

 慶応が母校の岸井さんは、恐らく就職に当たって毎日、読売、朝日を受験したに相違ありません。そして、三社から合格通知を貰ったでしょう。なぜ毎日を選び朝日ではなかったのか? それは当時、毎日新聞が一番羽振りがよかったからでしょう。しかし、しばらくして毎日は倒産し新社を設立します。岸井さんが論説主幹になってから盛り返しましたが、ライバル読売の猛攻を受け、衰退の一途をたどります。そして今や、栄華を誇った毎日新聞の販売網はズタズタに引き裂かれ昔日の面影は失われてしまいました。岸井さんが、もし、読売か朝日を選んでいたら状況は大きく変わっていたでしょう。読売は少しはマシな新聞になり、朝日に来ていれば社長になっていたでしょう。詮無いことではありますが残念でなりません。岸井さんの慶応の時からの友達に佐高信がいます。いまだ、左翼の影をチラつかせている強者ですが、この辺のクダリについて聞いてみたいものです。

 ジャーナリストとしての岸井さんの偉大さは「その誠実な人柄」にあったと言えるのではないでしょうか。政官財の針のような動きをも、それを素早く見極め、成り行きを予見できる「能力」がありました。岸井さんには、人をして信用させる真面目さを絵に描いたような「風貌」がありました。だからこそ、大勢の人々に惜しまれるお別れ会になったのでしょう。

 日曜日朝8時、6チャンネルの「サンデーモーニング」の主役ともいえる岸井さんがいると、さて、どんな穿った発言があるか興味津々でしたが、もうその魅力がなくなりました。しかし、岸井さん、あなたが絶えず危惧していたように日本はオカシナ方向に向かっています。サンデー毎日の追悼記事の中で、佐高信がいみじくも言い放ちました。

 「岸井よ、安らかに眠るな!!」  私も同感です。

 

2018年6月16日          恥を知れ、自民党

 自民党が数の力をカサに着て、またまた、愚劣法案を強行採決しました。カジノ法案がそれです。この法案そのものに数々の不備が指摘され、また、ギャンブル依存症をどうやって防ぐかの議論も未決のまま、衆議院は可決してしまったのです。

 ギャンブル依存症の依って来る所以は日本全国どんな小さな町にも存在するパチンコ屋です。パチンコによる生活破綻者は500万人を超えると云われているにも拘わらず、またまたカジノを作って依存症患者を量産しよう、というのです。しかも、それを国が音頭をとって進めるというのです。

 パチンコによる収益は毎年数十兆円に上るそうです。その収益が日本のインフラ整備などに使われるならまだしも、経営者の殆どが第三国人であるため、朝鮮半島に流れている事実は、これはもう、誰でも知っています。それなのにまたまた、日本人の財を他国に貢ぐ仕儀となるのは目に見えているカジノ建設を日本自民党は数の力をもって強行採決したのです。何たる愚かなことか!

 販売店が組織する朝日会の旅行で香港・マカオの時がありました。マカオのカジノは貧民窟の中に聳えるドでかい建物でした。新聞協会のICMA視察団の時はラスベガスでカジノホテルに泊まり、ルーレットをやりました。スロットマシーンにものめり込みました。いずれの時も損しました。損するものと決めていましたから、損害は軽微でしたが。

 沖縄本島を車で廻っている時、それはそれは豪華な宮殿を野原の只中に見つけました。周りには車がゴマンと密集しています。パチンコ屋でした。収入に関しては47都道府県の最下位なのに、沖縄県民は更にナケナシの金を吸い上げられているのです。私の半生は旅がらすでしたから、東北・信越・北関東・千葉埼玉のどんな小さな町にもパチンコ屋があることを目で見ています。貧相ななりをした人たちが、顔をくしゃくしゃにして店から吐き出されるのを見てきました。

 ハッキリ言って、パチンコは日本国民をスポイルしている害毒です。世界の先進国でパチンコギャンブルが存在するのは日本だけです。タイにもカンボジアにもベトナムにもラオスにもマレーシアにもミャンマーにもパチンコ屋はありませんでした。何となれば国が許可しないからです。

 歴代の自民党政治は、日本の莫大な財が第三国に流れているのを黙認してきました。そして、更に、依存症患者が間違いなく増えるのを承知の上で、カジノ法案を国家として容認したのです。

 何におかイワンヤ、です。

 

2018年6月12日          映 像

 テレビは8時頃から、二人が泊まったホテルの周辺の様子を映し出しました。厳重な警備の中、セントーサに向かう車列。トランプがどちらか乗っているらしい二台の厳めしい黒塗り。夥しい警備の群れ。そして、ホテルのバルコニーに現れて握手する二人。トランプは左手を正恩の肩に回そうとしましたが、次の瞬間手を放しました。

 いまは、少し予定より遅れてワーキングランチの時間です。双方6,7人が向き合っています。メインはシュリンプとアボガドのサラダ。流石に食べる場面までは映しませんでしたが。映像とは大したものです。

 昨夜の正恩はシンガポールの街に出たようです。そして「この国をお手本にして国造りをしたい」と記者団に語りました。その言や良しです。核兵器作りにどんなにウツツを抜かしても、国民は幸せになれません。シンガポールへ行った人は、先ずチャンギ空港の大きさに度胆を抜かれます。それに街そのものが綺麗です。塵一つ落ちていません。タバコのポイ捨ては留置場行きだからです。犬の糞なぞ死刑でしょう。思えば、リ・カンユーという政治家は偉大でした。

 私は金正恩に期待しています。異母兄や叔父を殺しはしましたが、彼の本質は凶暴ではないと踏んでいます。なぜなら、肥った人間に悪人はいません。ただ、気が弱いだけです。

 朝鮮戦争が終結し、核兵器が根絶され、南北が連邦制をとりつつ統一される、、、そうなったとき、日本は? ビジョンの一かけらも提示できない、現自民党政治を憂います。

 

2018年6月11日          お持ち帰り

 二人の、尋常でない時の人がシンガポール入りをしました。世界中から集まった報道人は2500余人。これだけでも二人は男を上げましたネ。

 驚くべき報道がありました。北朝鮮側は金正恩がひり出したウンチとオシッコを特製の容器に入れて本国に持ち帰る、という報道です。彼がひり出した固形物と液体が他国籍諜報機関によって検査されれば、たちどころに本人の体調が解読されてしまいます。それを恐れるがためだというのです。

 遠い昔、パリ郊外のベルサイユ宮殿には、毎夜のように豪華な舞踏会が催されました。周知のように、あそこにはトイレがありません。今でこそ、観光客用のものがありますが、当時のパリの貴婦人たちは庭の茂みに出て、落下傘スカートの中にオマルをあてがい、一息ついていたそうです。お付の者たちはその臭いものをお持ち帰りになったとか。中には不心得従者がいて、庭の茂みにブチマケ、、、お蔭で宮殿の植物の育ちは抜群、、、だったとか。

 一方、トランプ側にはそんな準備はありません。何となれば自由主義陣営にはトランプの代わりなどいくらでもいるからです。

 お持ち帰るか、どうでもいいか、ここに民主主義国と独裁的専制社会主義国家との違いが垣間見えます。たかが糞尿、されど糞尿です。 

 

2018年6月8日        灼熱のゴルフ

 来る6月12日、アメリカのトランプと北朝鮮の金正恩の会談がシンガポールのセントーサ島のホテルで行われます。渡し船を使ってこの島へ行くのですが、隔絶されているので会談の場所としては打ってつけでしょう。

 問題は尋常な神経の持ち主とはとても云えない二人が、どんな話し合いをし、いかなる結論を紡ぎ出すか、です。尋常でないが故に、お互い気が合って肩を組み、抱き合って、いまだ休戦状態にある朝鮮戦争を終結に至らせるかもしれないし、青筋立てて怒鳴り合い、喧嘩別れにならない、という保証はありません。

 しかし、二人の側用人がしきりに行き来していましたから、結論はとっくに出ていて世界をあっと言わせる筋書になっている、と見るのが妥当なところでしょう。間違っても、核ボタンを押す雰囲気にはならないこことだけを祈りましょう。

 遠い昔、私はこの島でゴルフをして死に損ないました。東京都の新聞販売協同組合が催した親睦旅行の、社側の代表各社一名としてシンガポールへ行きました。ゴルフをしたのは高輪の田窪さん、笹塚の岸さん、それに私の三人です。昼間は猛烈に暑くなると聞いていたので、一番早い船で島に渡りました。朝は思いのほか涼しく、念のため水も用意してコースへ出ました。鬱蒼とした熱帯雨林の中での快適なゴルフの積りでしたが、太陽が昇るにつれ、その暑さは尋常ではなくなりました。恐らく40度以上になっていたでしょう。水は既に飲み尽くしました。売店はありません。ゴルフが苦痛に替わりました。切株に溜まった水さえも飲みたくなりましたが、何とか自制できました。タオルをその水に漬け、頭から被り、気化熱で何とか凌ぎました。ぶっ倒れそうになりながらクラブハウスに戻るとそこはギンギンに冷えていました。その途端、気が遠くなりかけました。岸さんも田窪さんも青息吐息だったのは言うまでもありません。

 三人は死に損なった記念に、シンガポールのチャンギ空港で当時流行していたパターを買いました。そのパターを私は今でも使っています。

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