最近のエッセイ(72)

2021年9月14日       共有する苦労

 二階の仕事場の小さなベランダに出て、大空に行き交う雲を眺めていると、時に、モンシロチョウや黄アゲハが飛んできます。時に、大きな蜂が部屋に突入してくることもあります。刺されたら大変なので、窓を全開し、蜂を傷つけないように追い出します。どうやら、庇の一隅に巣を構えているらしく、困ったなあとは思うものの、共存を図るより仕方がありません。

 車椅子生活になった亡妻は、一階のベランダに沖縄のガバの木を植え、小鳥たちのために餌場と水場を作ってやっていました。ヒヨドリ、椋鳥、鳩などがヒマワリの種を食べに毎日、同じ時間にやってきていました。メジロのつがいも決まった時間に来ていました。鳩が来ると餌場は荒れました。今の練馬は、緑地が建売住宅地と化し、畑も、緑もなくなり、鳥たちも姿を見せなくなりました。寂しい限りです。

 九州小倉に赴任していた時です。暇にまかせて裏山の八幡山にはよく登りました。関門海峡に連なる山並みです。下関に続く大橋が見える山の頂に立った時です。沢山の鳥が集まっていて、大騒ぎをしていました。数百羽の鳥たちが上昇気流を捉えて越冬するところだったのです。数十羽ずつ、それらしい気流を捉えて、大空に舞い上がっていきました。どこを目指しているのか、恐らく朝鮮半島まで行くのか、鳥に聞かなければ分からないが、実に壮大にして荘厳な眺めでした。

 新潟を担当している時は、下越の新発田近くに白鳥の越冬池があって、正に数百羽の白鳥が大海原を渡り切り、降りしきる雪をものともせず、着地するのを見ました。今のご時世、人間も命を長らえようとするために苦難を強いられています。生きとし生きる者、苦労は尽きないようです。

           てふてふが一匹 韃靼海峡を渡っていった 

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2021年9月13日        身障者のテナー

 何度目かの「斎藤記念」で、小澤征爾がバッハの「マタイ受難曲」を全曲演奏した時です。4人のソリストの内、ソプラノ、アルトは日本人の女性、バスは日本人の男性、テナーは外国人でした。その歌手は手足がほとんどない身体障碍者でした。子供の背丈ほどなのに、椅子にチョコンと座りながら発する声は、実に、実に、声量豊かで、しかも美声でした。聞きほれました。

 しばらくして、ベルリンから入って東ドイツを通り、ウイーンからハンガリーへ抜けるツアーに参加しました。ウイーンでの自由時間の日、楽聖たちが眠っている墓地へ行くことにしました。72番の路面電車に乗って市民墓地へ着いたはいいいが、楽聖たちの奥津城所へ、どう行ったらいいのか、皆目、見当がつきません。丁度、そこへ墓参に見えた夫人が、親切にも案内してくれました。その一角にベートーベン、シューベル、モーツアルトの石碑が三つ並んで建っていました。ふと、見回すと、少し離れたところから、足を組んだブラームスの石像が、羨ましそうにこちらに向けて視線を飛ばしているではありませんか。さもありなん、と思いました。再び、72番電車に乗って市中に戻り、路面に張り出たヒュッテで休んでいると、隣の席が俄かに慌ただしくなりました。妙齢の女性二人と男性が席に着きました。見ると、その男性こそ身障者ながら、松本の「サイトウ記念」に出演した美声のテナー歌手さんではありませんか!私の方から「あなたを松本で見た、感動した」と、話しかけました。彼は相好を崩し、「それはありがとう、日本はいいところだ。聴衆も素晴らしい。小澤征爾は偉大だ、松本へまた行きたい」といいました。お邪魔していても悪いので、手のない手と握手して、早々に退散しました。彼の名前はしばらく前まで覚えていたのですが、いまは忘れて出てきません。悪しからず。

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2021年9月12日      サイトウ記念

 桐朋音楽大学で斎藤秀雄の薫陶を受けて育った音楽家たちが、毎年9月、長野の松本に集まって開く音楽会は、今年も開催されましたが、団員にコロナ感染者が出たため、演奏会は一部中止となり、去年と同じように小規模の開催となったようです。幸い、小澤征爾は車椅子に頼りながらもご健在で、音楽監督を務めたと聞いています。この会の名称もしばらく前から「セイジ・オザワ記念松本フェステバル」と変更されています。

 15年ほど前まで、そのプラチナチケットを信濃毎日新聞社に籍を置いていた同級生内山貢君にとってもらい、毎年、車を駆使して訪れていました。どの年も小沢が指揮する演奏は圧巻で、深い感動を受けましたが、特に印象深かったのは、チャイコフスキーの「悲愴」でした。アップテンポで歯切れのよかった第三楽章と、陰鬱な第四楽章との対比は絶妙でした。バッハの「マタイ受難曲」全曲の時も「ヨハネ受難曲」の時も驚きでした。小沢はスコアを見ないで暗譜で指揮したのです。不思議に思って、休憩時間に指揮台の傍まで行ってみました。分厚い譜面は確かに指揮台に載っていました。でも、小澤は指揮の最中、一度たりとも捲らなかったのです。

 小澤征爾はギター一丁担いで、貨物船に乗ってヨーロッパに渡り、ブザンソンの指揮者コンクールに飛び入りで参加し、そして優勝します。チェリストでありながら指導者として優れていた斎藤秀雄の音楽性が、そのまま、小澤征爾に引き継がれたからこそ、斎藤記念は今に至るまで続いているのでしょう。去年も、今年も斎藤記念ははコロナ禍のためボロボロでしたが、来年までにはワクチン接種が行き届くでしょうから、一年後のチケットの予約を内山君に頼もうと思っています。 

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2021年9月11日     選手村の動画拡散

 いま、日本人の大抵の人はスマホを持っています。恐らく世界のほとんどの人も同じように持っているでしょう。この便利なものは写真や動画が即座に撮れてしまうことです。撮影には素人であってもスマホが自ら動作して、立派な画面を作ってくれます。

 8月から9月にかけてのオリンピックとパラリンピックで、世界から約3万人の選手、報道関係者が東京に集まり、選手村は大賑わいとなりました。彼らはまず、選手村の食事の質に驚きました。菜食主義者、豚肉を嫌うイスラム教徒専用の「ハラール」もありました。上等の寿司もありました。味の素社製の「餃子」が大評判となりました。ネイルサロンも、バーバーも無料でした。トイレも世界に類を見ないほど完備されていました。場内では運転手なしのバスが走っていました。

 選手・関係者は驚きのあまり、動画を撮りまくりました。そして、帰国してからその動画を自分のサイトに載せました。フォロアーたちはそれを見て、日本の凄さを改めて認識したようです。そして、動画は国中に拡散し始めます。一人の選手のフォロワーが5000人いたとします。俄かフォロワーが5000人できたとします。すると、世界中で3億人が既に選手村の動画を見た計算になります。

 今、ユーチューブは東京に来た選手や関係者の謝辞で溢れに溢れています。一人として苦情を述べている人はいません。特に日本のボランテアの人たちの笑顔が、選手や関係者の心を打ったようです。そういえば、ある日のニュースで大勢のボランテアがその制服姿で、帰国する選手をオリンピックの旗を振って笑顔で送り出している姿が放映されました。心が和みました。

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2021年9月10日           湧 水

 10時ごろベット入りして、IPADと戯れているうちに、いつの間にか寝てしまいますが、いつも決まって午前2時ごろ目が覚めます。その時、サイドテーブルの水を飲みます。ペットボトルの水は三種類あって、富士山のバナジウム入りのもの、南アルプス水と北アルプスの天然湧水です。気分に応じて飲み分けます。次に気が付くのは朝7時です。熟睡できるのは水のお陰かもしれません。

 東南アジアを旅していた頃、飲み水には神経を使いました。従弟の靖輝君一家と総勢9人で上海に行ったとき、私だけ水に当って、大変な苦労をしてしまいました。行く先々でトイレのご厄介になりましたが、中国のトイレは団体で入るようになっています。しかも、その姿は外から丸見えです。個室トイレはホテル以外ありませんでした。森の中の一軒家を借りて逗留した、タイチェンマイも水事情はよくありませんでした。水道の蛇口に何種類もの浄化装置を付けても、洗い物専用で、ボトル水を買ってきて飲料用にしていました。カンボジアのトンレサップ湖へ行ったときは驚きました。何千もの湖上生活者たちは、排せつ物が浮いている湖水を使って煮炊きしていました。東南アジアの国々の中で、あるいは世界中を見渡してみて、安心して水道水が飲める国はそうありません。文化程度の高いヨーロッパに於いてさえ、スイス以外の国ではボトル水に頼っているように思います。

 日本はその点良い国です。どこへ行っても安心して水道水を飲むことが出来ます。だから、私も水をわざわざ買ってこないで、水道の水を飲めばいいのですが、しかし、水には水の味があります。いくら飲めても水道の水には味がありません。その点、北アルプスの湧水には深い味わいが潜んでいます。しかも、学生時代、登山に明け暮れてお世話になった思い出も詰まっている水です。今わの極までこの湧水のお世話になろうと決めています。

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2021年9月9日        バイデンの無言

  昨年12月から歯の治療で通っていた歯医者さんで、先生の娘さんが感染したという通知があり、今月は歯の清掃に行くのを止めました。当分、近寄るわけにはいかないでしょう。外国への小包を出し続けていた近くの郵便局に張り紙が出ていました。コロナ感染があったので、二週間休業すると。私が住む練馬区全体では感染者は1万6000人を超え、危機は身近に迫りつつあります。

 ところで、日頃、疑問に思っていることがあります。闘病生活を終えて、無事、娑婆に生還できている人も大勢いるわけで、その人に接したら感染するのかしないのか、という疑問です。調べてみました。

 1)発症する3日前~発症後5日間が最も感染性が強い  

 2)軽症~中等症の人は、発症10日後には感染性は無くなる

 3)重症の人も最長で発症20日後には感染性はなくなる。                                         免疫不全の場合はその限りではない。

 と、分かりました。ただし、一旦、快癒しても味覚障害や倦怠感などは何時までも続くそうです。幸いにして職場に復帰できても「奴は保菌者だ、近づくな」という差別が横行するのではないでしょうか。それを阻止したいなら、この際日本人全員がコロナに罹って、その頃には治療のための新薬が出回るでしょうから、全員が娑婆に戻ればいいのです。村八分の発生は阻止されるでしょう。

 コロナは2年前の今月、つまり9月に中国で発生しました。12月まで隠蔽され、翌年1月末、中国の春節の大移動でヨーロッパを中心に広がり始めました。8月26日、バイデンが発した命令により、諜報機関による発生のメカニズムが、全世界に発表されることになっていたのに、なぜかバイデンは無言です。大いなる疑問です。 

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2021年9月8日        路上生活者

 アメリカのアフガニスタン撤退により、アメリカの空港には大勢のアフガニスタン人の家族が降り立ちました。米軍に協力したアフガニスタン人の一家眷属です。この人たちは この後、どうやってアメリカで生活していくのでしょうか?そうでなくても、アメリカ国内には57万人の路上生活者がいます。その仲間入りをすることのないよう、心から願いました。シリアのアサドは、自分の権力を失いたくないという勝手な理屈で、自国民400万人を難民にしました。彼らは徒歩でイギリスを目指しました。イギリスは医療費がタダだからです。俺たちの医療費が難民に使われるのは承服しがたい、との思いから国民投票が二回も実施され、昨年12月イギリスはEUから離脱しました。でも、ロンドンに約2万人の路上生活者がいます。そのほとんどがシリア難民だそうです。プーチンの独裁政治が始まったロシアにも路上生活者はいて5万人を超えているとか。パリ市内にも3000人がウロウロしているようです。

 日本はどうでしょうか? 確かに隅田川の岸辺や、新宿の地下道の青テントは見かけなくなりましたが、2019年の統計では4、553人の路上生活者がいました。主に、大阪の愛隣地区だそうですが、このところ、コロナの影響で職を失って路上生活を強いられている人は、日増しに増えているようです。

 その昔、新聞協会のICMAの9人の団体でロスに立ち寄った際、ガイドから、絶対足を踏み入れるな、といわれた街の一角がありました。大勢の黒人が路上で雑魚寝していました。アメリカにはそういう人たちが57万人もいるのです。日本の比ではありません。多民族・自由主義国家の宿命でしょうが、一方、軍事費に莫大な予算を振り向けてもいます。大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか? 

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  路上生活者は、中国ではどうなっているのでしょうか?
 タイ・チェンマイでは、ほとんど見かけませんでした。
ベトナムでも、カンボジアでも、ラオスでもミャンマーでも、
マレーシアでも見かけませんでした。なぜなのでしょう?

 

2021年9月7日   数字が意味する面白さ

 暇にまかせて、パラリンピックの世界各国別メダル獲得表を眺めていたら、奇妙にして面白いことに気付きました。

 先ず、オランダ(金25・銀17・銅17・合計59)と、デンマーク(金3・銀1・銅1・合計5)の差です。両国はお隣同士、似たような国です。それなのに、どうして10倍もの差がうまれたのでしょうか? 次にイギリス(金41・銀28・銅45・合計124)です。人口ではアメリカ(金37・銀36・銅31・合計104)に遥かに及ばないのに、イギリスはアメリカを超えて第二位です。更に、イギリスはヨーロッパの中で、イタリア(金14・銀29・銅26・合計69)、フランス(金11・銀15・銅28・合計54)、ドイツ(金13・銀12・銅28・合計43)、スペイン(金9・銀15・銅12・合計36)を抜いて、遥かに飛びぬけています。また、政情不安定な国ウクライナ(金24・銀47・銅27・合計98)が健闘していたのにも、驚かされました。一方、政治的に最も安定して、民度が高いといわれる北欧三国は、ノルウエー(金2・銀0・銅2・合計4)、スエーデン(金1・銀5・銅2・合計8)、フィンランド(金1・銀3・銅1・合計5)と低調だったのはどうしてなのでしょう。

 また、日本の食べ物は放射能に汚染されているから、選手には食べさせられない、とまたしても日本を蔑視し、料理人と食材を別途送り込んだ韓国はどうであったか? 金は二つだけの合計24個でした。日本国民は、韓国のとった今回の食事にまつわる嫌がらせを、末代まで忘れないでしょう。意外だったのは台湾でした。たったの銅一個。ケニア、ウガンダなどと一緒では困ったものです。

 数字は単に結果だけを表すものではありません。深い意味が内在していることを私たちは知っておく必要があるようです。

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2021年9月6日          お祭り終わった

 東京パラリンピックが終わりました。世界から8000人を超える障碍者が東京に集まり、選手村で健常者と同じ食事をとり、東京開催に感謝しながらそれぞれの国に帰っていきます。選手や関係者たちは、この世界的に大変な状況の中で開催は、日本だから、東京だから出来たのだと口々に感謝の言葉を述べています。

 私も、本当にそうだ、と思います。コロナ感染者は激増してはいても、世界の趨勢から見れば10分の2程度の感染率です。オリンピックと共に開催に踏み切った 政府の英断と関係者のご苦労を讃えたい思いで一杯です。

 障害を抱えながら、精一杯躍動する選手たちの姿はそれを見る人たちに様々な感動を与えました。約1万5000人の生徒の観戦が許されましたが、どれだけの教育的効果があった、計り知れません。障害を抱えながら全力で競技と取り組む姿勢は、観戦する生徒のみならず、世界中の人々に感動を与えました。

 獲得したメダルの数を国別にみると、日本も健闘しましたが圧倒的に中国でした(金96・銀60・銅51・合計207)。これはアメリカの二倍、日本の四倍です。しかし、障碍者の発生率が人口に比例するとすれば、人口は中国14億5000万、アメリカ3億5000万、日本1億2600万ですから、中国の獲得数はまだまだ少ないとみるべきでしょう。しかし、中国はカンフーの国です。肉体を極限まで痛めつけ、強靭な身体を造り上げることに於いて伝統のある国です。同じ多くの人口を持つインドの(金5・銀8・銅6・合計19)と比べると雲泥の差です。ここにも国力と民族の違いが現われていることに気づき、面白いと思いました。ともあれ、猛暑は去り、雨模様の毎日で急に秋めいてきました。「お祭り終わった、さあ、働こう」です。                                 

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2021年9月5日      成田空港建設の言い出しっぺ

 今から50年ほど前です。成田の三里塚に国際空港を造ることが、突如発表されました。高度成長期であり、羽田空港が手狭になっていて、一県一空港の設立が叫ばれ始めていました。当時、私は助手を使って千葉県全県を担当していました。三里塚は高台に位置し、広大な御料牧場もあり、朝日新聞部数800部の鈴木典弘さんもそこで元気に働いていました。反対運動は激烈を極めました。学生運動が最も激しかったころです。何人もの死者まで出ました。

 成田の旅館で千葉県通信会議が開かれました。やがて、朝日新聞社長になる新任の一つ柳編集局長、編集幹部、県内の支局・通信局員全員が、コップ酒を片手に深夜まで激論を交わしました。兎に角、成田はアクセスが悪い、しかし、首都圏全域を見回して、空港建設の適地は他にあるか、なぜ、東京湾を埋め立てないのか、議論は深夜まで尽きました。私と私の助手を務める鈴木俊明君もその議論に加わっていました。

 何人もの死者まで出した学生を主体とする、さしもの反対運動も権力には勝てず、空港は建設され、出来上がった滑走路の真ん中に強引に居座り続けた民家も撤収され、いま、成田空港は東洋のハブ空港の一つになっています。一方、羽田空港も、周辺の海が埋め立てられ、滑走路は増え、都心に近いことから大賑わいになっています。これも、成田空港という緩衝材があったからこその時の流れでありましょう。つまり、かなりの死者までだした激烈な反対運動があったとはいえ、いま、学生運動は全く鳴りを潜め、強引を極めた時の政府のやり方は、仕方がなかったといえるようです。

 さて、この空港建設を最初に言い出した者こそ、誰あろう、河野一郎、時の運輸大臣であったことを忘れてはなりません。河野洋平の父、河野太郎の祖父であります。当時、河野一郎は蛇蝎のごとく世間から叩かれましたが、いま、我々は彼に先見の明があったことを思い知らされているのです。その血を受けついでいる河野太郎、彼なら今の日本の閉塞感を打開してくれる大芝居を打ってくれるでしょう。私はそれを期待しているのです。

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2021年9月4日          老害大国日本

 昨日、菅総理は「自分は総裁選に出ない」と表明しました。政権与党内が騒然となったのは言うまでもありません。兼ねてより、現総理の継続では来るべき衆議院総選挙には勝てないという風評はありました。しかし、党内には「この人こそ」という後継者は見当たりません。加えて、党三役の人事を刷新して選挙に臨まねばなりません。菅は5年の任期を超える二階幹事長の辞任を取り付けることには成功しました。この80歳を超えて、尚、権力にしがみ付こうとする男は「俺がお前を総理にしてやったのに、俺に辞めろとは何事か」と秘かに各派閥に手をまわしました。その結果、どの派閥も党三役を含む役員を出さなくなりました。二階を恐れた結果です。

 私は、菅は菅なりにやることはやった、と思っています。万難を排してオリンピック開催に踏み切ったのは世界から称賛されました。福島原発のトリチウム汚染水の海への投棄を決断したのも彼でありました。韓国は異常なまでに反対しましたが、なに、韓国を含めて世界の原発国は海外投棄をしているのです。ただ、コロナの感染が拡大し、自宅待機者が2万人を超えるまでに膨れ上がったのは、彼の医学会に対する弱腰の結果でありましょう。「全病院にコロナ用のベッドを増やせ」との命令を発するべきだったのです。病院があるのに受け入れてもらえない事態は、病院の怠慢をあらかじめ視野に入れて、命令のカタチで自宅待機を減らしてこそ、政治というものです。その力量が彼にはありませんでした。一方、二階はあらゆる非難を浴びつつも、今後も隠然たる力をもって、人事介入してくるでしょう。奴が死なない限り自民政治の独りよがりが続いていくでしょう。読売のナベツネ然り、老害大国日本の不幸はまだまだ続きそうです。

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    私は、昔から河野太郎の大ファンです。
ある会で河野洋平の妻、彼の母親と同席
したことがります。今まで出会ったこともない
素晴らしい女性でした。彼は自分の腎臓一つを
父親に提供しています。彼は
アメリカ留学経験があり、語学堪能です。

 

2021年9月3日         許せない

 池袋のサンシャインビルの通りで、アクセルとブレーキを踏み違え、9人を傷つけ、母と娘を轢き殺した飯塚幸三の裁判が結審しました。あくまでも車の故障だ、と言い張っていた彼に対する審判は求刑では禁固7年、結審は5年でした。裁判長は被告に対し、心からの謝罪を促しましたが、飯塚は無言でした。

 ハラワタが煮えくり返る思いをしたのは私一人ではないでしょう。日本国民すべてが断腸の思いであったでしょう。この東大卒・元工学院院長は両腕に杖を携え、ヨチヨチ歩きの障害者のくせに、自分に過失はない、車の故障だと言い張り続けてきました。思い上がりも甚だしい傲慢不遜な元官僚です。恐らく、彼の家族や身内の者は末代まで世間から村八分同然の扱いを受けることでしょう。

 翻って考えてみると、車の運転における自己過信は、わが身にも及んでいる事実をこの際、再認識しなければならないでしょう。幸いというか、神の加護のお陰か、84歳の私には、まだ、運転を阻害する少しの客観的兆候はありません。でも、それは近いうちに私自身の身に必ず起きてくるはずです。それを事前に察して、自発的に免許証を返上するのは何時になるのか、願わくは、その時まで自分を見つめる判断力を失わずにいることが出来るか、それが問題でしょう。

 それは何も運転だけに限った問題ではありません。いま、生きている自分の上にもう一人の自分を置いて、絶えず自分を見つめている、監視している、そういう生活態度を死ぬまで維持していきたいものです。幸いというか、習慣というか、高校生の時から聖書に親しみ、洗礼は受けてはいなくても、一日は朝食時の祈りから始まります。自分を客観視し、自分は生かされている身であり、有難いことなのだ、としながらその日、その日を送らせてもらっています。

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2021年9月2日         中国の食卓

 上海の去る百貨店の食堂へ入った時のことです。煌々たるシャンデリアの元、100人余りの中国人が大声でおしゃべりしながら食事をしています。テーブルには料理が山と積まれ、見ると、魚や鳥、豚の骨がテーブルの下や隅に散乱しています。彼らは料理を残したまま、骨などを片付けるでもなく席を立っていきました。

 「中国少年報社」の招待で、朝日学生新聞社の私と編集長の佐藤君、副編集長の松本君と三人で北京へ行った時です。視察という名目で北京から西安・上海へ行きました。小年報社の編集長王儀之さんと女性社員馬衛東(マ・エイトン)さんと通訳が同行してくれました。当時、中国全土には子供を対象とする新聞社が345社存在していました。閉口したのは、食事のたびごとにマ・エイトンさんが食べきれないほどの料理を注文してテーブルに並べることでした。聞けばそれが中国古来からの客人をもてなす作法であるから、と言って聞き入れてくれませんでした。

 いま、中国全土を洪水が襲い、田畑は水浸しです。結果、各地で食糧危機が起きていると仄聞します。14億の人が住む中国は、元々、食糧の輸入国です。テーブルに食べきれない料理を並べることなど、既に出来なくなっているのではないでしょうか。中国共産党の政治姿勢に文句はあっても、中国の普通の人たちは人懐こい善良な人々です。きれいな水も飲めず、粗末な食糧で日々を送っていることを思うと、同じ人間として気の毒でなりません。

 翌々年、中国少年報社から三人の方が日本へきました。副社長他、懐かしいマ・エイトンさんも一緒でした。広島や京都へ行っていただきました。私は丁度、帯状疱疹に罹っていて苦痛の最中でしたが京都はご一緒しました。苦痛のあまり翌日は大阪本社の医務室に駆け込み治療を受けました。その折、マ・エイトンさんから贈り物をもらいました。鉛でできた小さな象です。それは今もパソコンの横にあって私を見ています。

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中国料理の最高峰 「満漢全席」

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2021年9月1日          権力闘争

 ミャンマーのヤンゴンへ行った時です。ホテルで紹介してもらった日本語を話せるガイド・カリヤさんの案内で、外人墓地などで献花したり、アウンサン将軍の娘・スーチーさんの居宅を外から垣間見たりした後、ふと、動物園にも入りました。折からサル山でボス同士の激しい喧嘩の真っ最中でした。数百匹の猿たちが身じろぎもせず、二匹の争いを見守っていました。壮絶な、死にもの狂いの争いでした。

 猿が進化したといわれる人間社会でも世界のあちこちで権力闘争が行なわれています。その最たる権力者はロシアのプーチンかもしれません。かつてのスターリン同様、あらゆる政敵を毒殺してまで葬ってきました。この独裁者は死ぬまで権力者の座を守り続けるかもしれません。

 日本でも権力闘争が始まりました。衆議院の任期解散を前にして、自民党総裁、つまり、次の首相が誰になるのか、派閥のボスどもが次々に名乗りを上げ始めました。角栄さんの娘・田中真紀子が「冷凍透明人間」と評した岸田文夫が真っ先に名乗り出ました。大派閥の領袖下村博文も一時立候補を表明しましたが、何故か、取り下げました。前回、第三位だった「納豆餅」こと石破茂は、現在のところ出馬は白紙だそうです。一方、女性では元法相の高市早苗が出馬を表明しました。シマウマ似の顔を矯正しての出馬です。それに触発されてか、野田聖子幹事長代行、稲田朋美元防相の出馬も取りざたされていますが、日本の政界に、ドイツのメルケルさんのような方がいないのが残念です。

 翻って考えてみるに、日本には一国の総理たる識見を持った人物はいないのでしょうか? そんなことはありません。学識経験者や霞が関で働く国家公務員、あるいは財界を見回してみても100人はいるでしょう。なぜ、彼らには門戸が開かれていないのでしょうか。その弊害の一つが選挙制度でありましょう。しかも、日本は小選挙区制です。選挙で勝つためには現職を退き、地盤、看板、カバンが必要です。運よく当選すればいいが、落選の場合は復職できるのか、どうなのか?勢い、政治は世襲制になり、職業としての政治に堕落します。そして政治屋が跳梁跋扈することになるのです。ウエーバーの「職業としての政治」を読み返したくなりました。

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日本では短期間に首相が9人も替わった。世論調査が行われた。<最悪の首相は誰でしょう?>

                        <この次出てくる首相> が圧倒的多数だった

 

2021年8月31日           ヒジャブ

 ヒジャブとは女性のイスラム教徒が、顔だけ出して頭から首筋迄覆っている、様々な柄の布切れを指します。イスラム教の聖書に相当するコーラン(正式にはクラーン)の中のムハンマドの言行録・ハディースの中に「成人に達した女性は、顔と手を除き、他のどの部分も見られてはならない」との教えがあるからです。

 いま、ヒジャブの女性は爆発的に増えているのが、世界の趨勢です。ものの本に寄ると、世界の宗教人口はキリスト教徒24億人、イスラム教徒18億人、仏教徒5億人、ヒンズー教徒3億人のようですが、特筆すべきはイスラム教徒が一日2万人ずつ増加していることです。なぜなら、飯山陽(あかり)さんの「イスラム教の論理」によれば、「他のいかなる宗教をも駆逐し、世界をイスラム教徒で満たせ。そのためには暴力による異教徒の殺害も許される、自爆テロを行うものは、その人物の家族親類を含めて天国に召される、勇気をもって異教徒の殲滅を計れ」というのが、イスラムの根本思想なのです。排他主義の際たるもの、それこそがイスラムの根本理念であることに世界はようやく気付き始めました。9・11事件を契機にアメリカは民主主義を片手に中東へ触手を伸ばしました。いわば、パンドラの函を開けてしまったのです。そして、どうにもならず今回の全面撤収です。これは、大きく言えばキリスト教・愛の思想の敗北と言えるでしょう。

 いま、ヒジャブを付ける女性は爆発的に増えて来ているように、私には思えます。仏教国のタイ、ミャンマーはそれほどでもありませんでしたが、ベトナム、カンボジア、中でもマレーシア、インドネシアでは、ほとんどの女性がヒジャブです。イスラエルもそうでした。少なくともユダヤ教徒より多かったのではないでしょうか。今回のアフガニスタンからの民主主義陣営の撤退は、イスラミズムの宗教的暴力革命の一時的勝利でありましょう。ヒジャブ姿の女性はますます増えていくことでしょう。

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2021年8月30日      悩み・瞬間的記憶力の減退

 

 今年の2月ごろ、中学生時代からの友人に触発されて、ピアノの先生に付き、毎日ピアノに向うことを日課にしてきて半年が経ちました。ドビッシーのアラベスク、パスピエなど、テンポの速い曲や、シューベルトの前奏曲集一番など上げてはきましたが、再び、弾き直してみるとアラが目立ちます。つまり、音符が記憶の底に残っていないのです。年を取るとはこういうことか、と今更ながら「老いることの悲しみ」を思い知らされ、暗澹たる日常を過ごしています。モーツアルトのトルコ行進曲付き変奏曲303番を長野高校の文化祭で、すべて暗譜で弾いたことなど、夢のようです。

 ピアノ演奏は、ある意味で記憶力との勝負です。一度犯したミスタッチを二度と繰り返さないのは、学習能力が旺盛だからでありましょう。84歳にしてそれが出来なくなった以上、この辺でピアノから撤退すべきなのでしょうが、一方では、命のある限りピアノの音と共にありたい、という心からの願いもあります。

 一か月前からシューマンの「子供の情景」全曲と、ショパンのノクターンに挑戦しているのですが、遅々として進まず、「何で昔は弾けたのに今はダメなのか」と心から落胆してしまい、昨日など癇癪を起し、「もうピアノを止そう」と思ったほどです。なぜ、そうなるかと分析してみると、やはり、瞬間的記憶力の減退が原因なのでした。ショパンのほとんどの曲は、ノクターンなど特にそうですが、鍵盤の低音から高音迄、幅広く使います。記憶力の旺盛な時は、楽譜に目をやらなくても次の音を幅広い鍵盤に目をやって瞬時に音を出せていたのですが、いまは、楽譜から目を離さず、ブラインドで鍵盤を探し出してたたきます。だから、ミスタッチが生まれるのでしょう。どうやったら、楽譜を見ないでも次の音を出せるか? 問題はここなのです。分かっちやいるけど、できないでいるのです。

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 ショパン(1810~1849)が使っていた
     プレイエルのピアノ (1996年10月ワルシャワにて撮影)                      

 

2021年8月29日     若年層感染の脅威

 コロナ感染は老齢者に多く、若年層、それも子供達には比較的感染しないのではないか、と言われていましたが、オリンピック開催の頃から20代、30代、そして子供たちにまで、感染が広がり始めました。感染源の元凶はどうやら変異種のデルタ株のようです。感染力が強烈のようで一層の拡大が懸念されています

 夏休みが終わり、ほとんどの学校は明日から2学期の始まりです。学校関係者は、いま、休校を延長するか、それとも登校に踏み切るか、悩みに悩んでいることでしょう。出来ることなら、大学で実施しているようなパソコンによるズーム学習に切り替えればいいのですが、生徒全部の家庭がズームの機器を備えているわけもありません。そこに不公平が生じては教育の機会均等の精神が損なわれます。学校関係者は悩みに悩んでいるでしょう。

 問題はこの先です。全国的に拡大した「非常事態宣言」により、この先、感染は今をピークにして次第に収まっていくでしょうか? そうは考えられません。なぜならコロナは、つい最近ラムダ株が出現したように、次々に変異していくからです。より強力な「日本株」の出現はあるはずがない、と言い切れないからです。

 私は思います。学校という「ミツ」を避け、次の世を背負う子供たちの命を守るために、すべての学校は向こう半年間以上休校にすべきだと。無理をしてでもパソコンなどの機器を全家庭に用意させて、ズーム授業にすべきであると。半年あれば、不足しがちのワクチンも全若者に行き渡るでしょう。それを国策として財政出動すべきであると。

 いまは異常事態であるとともに非常事態です。若者の命を国を挙げて守べき時が「いま」です。年よりなんぞ、放っておいてもよかったのです。 

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2021年8月28日            パルスオキシメーター

 パルスオキシメーターとは、指に挟んで血液中の酸素濃度を瞬時に測定するあれです。いま、飛ぶように売れているようです。日本人の、それも新潟県人の発明によるもので、一時はノーベル賞候補にもなりました。

 数年前のことです。JTBのスイス旅行に参加しました。5月末だったので、山々は雪に覆われ、下界だけに緑が芽吹いていました。マッターホルンの麓街ツェルマットに着きました。この街はガソリン車の乗り入れは禁止です。タクシーも電気自動車でした。翌日、マッターホルンの真向かいに聳える4000メートル級の山ゴルナグラートへ登る登山電車に乗りました。登るに従って眼前のマッターホルンはその雄飛を次々に変えていきます。電車の終点から頂上のヒュッテまではかなりの距離があります。何度も転びながらやっと到達し、スイスの山々の全貌を視野に収めることが出来ました。日本の北アルプス・南アルプスに何度も登っている私ですが、スイスの山々は別格であり、やがて訪れる今はの際にはこの景色を思い浮かべながら旅立とうと思いました。

 再び、登山電車で降りてきましたが、体調が変です。小さな眩暈と息苦しさを感ずるのです。「もしかして高山病かな」と思いました。旅先で病気にでもなればこれは大ごとです。ガイドさんに申し出て、病院へ連れて行ってもらいました。最初に応対してくれた看護婦さんは、いきなり、指に器具を取り付けました。件のパルスオキシメーターです。幸い、数値は下がっているものの、重症ではありません。若い医者は笑いながら、「よくあることです。これからは2700メート以上の山には、行かないでください、と言いビタミン剤らしきものを処方してくれました。料金は400フラン。随分高い診察料だと思いましたが、保険に入っていたので助かりました。余計な手間をかけさせたのでガイドさんにも100フラン差し上げました。その夜のホテルのチーズフォンデュには、なぜか、手が伸びません。近くのコンビニへ行ったら日本の寿司がありました。日本のものとは似て非なるものでしたが、何か、一息つける感じがしました。有難いことに、ぐっすり寝たら体力は回復していました。

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ゴルナグラート(3,089メートル)から見る
マッターホルン

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マッターホルン(4,478メートル)

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