エッセイ

2013年12月18日          ベトナム見聞録

      はじめに

 ベトナム戦争は1960年に始まり、1975年に南側のサイゴンが陥落し、アメリカが撤退するまで、15年間続きました。500万人のベトナム人が命を落としました。負傷した人も300万人を超えた、と言われています。終戦から25年経って21世紀に入り、13年が経過しました。38年の月日が流れました。

 北側の指導者ホーチミンが掲げた、社会主義革命は成就したのでしょうか? 民衆が主体となる国家となったのでしょうか? 社会のインフラは整備されたのでしょうか? 貧富の差は無くなったのでしょうか?

 つまり、新しい社会が築かれたのでしょうか? あるいは、築かれつつあるのでしょうか?

 今回、ホーチミン市(昔のサイゴン 南側の拠点 北側によって陥落されたので名前が替わった)と、南北の中間地点に位置し、激戦があったフエ市、そして、北側の都市ハノイの三か所を8日間の日程で見て歩きました。丸一日かけて、市内観光もしました。歩き回りもしました。三都市の市場へも行きました。

 結論から先に申し上げましょう。民衆が主体となる国家の息吹は感じられませんでした。貧富の差は無くなっていませんでした。、社会のインフラは全く整備されていませでした。ハノイの中心部に巨大な窓のない建物があって、そこに、ホーチミンのモラトリアムがありました。薄暗がりの中にホーチミンの遺体が安置され、顔だけに光が当てられていました。壁には巨大な赤旗が掲げられ、ロシア革命の象徴である鎌とレーニンの禿げ頭と、ヒゲを延ばしたホーチミンの顔がありました。大いなる違和感を覚えました。

 私が早稲田の学生だった頃、共産党宣言に始まって、資本論、反デユーリング論など、争って読まれました。マルクスエンゲルス全集は、私もアルバイトの金を振り絞って買い、解らないまでも、知ったかぶりをして友人らの議論の輪に加わった覚えがあります。向坂逸郎など神さま扱いでした。砂川闘争、安保闘争などのデモにも参加しました。文学部の露文科は一種のブントで、それらの勢いは、10年後の学園紛争まで続いていきました。いまはどうでしょう? どうしたことか、日本全国の学園は呆れるほど静かです。マルエン全集や資本論は、古本屋からも影を潜めてしまいました。あの熱狂は一体何だったのでしょう!

 第二次世界大戦は、日本の軍国主義に対する、ドイツのナチズムに対する、いわば狂気に対する戦争でした。連合国側が勝利したのは、いわば当然でした。朝鮮動乱に始まって、インドシナ戦争、ベトナム戦争になると、これは、思想対思想の戦いになりました。自由主義・民主主義対社会主義・共産主義との闘いになったのです。

 ベトナムの北側、民族解放戦線を率いるホーチンミン将軍には、次の味方がつきました。ソビエット連邦、中華人民共和国、南ベトナム解放戦線、民主カンプチア、パテトラオ、北朝鮮などです。

 ベトナムの南側、ベトナム共和国を標榜するグエン・カオ・キ将軍、グエン・バンチュー将軍には、次の味方がつきました。アメリカ合衆国、オーストラリア、韓国、台湾、フィリピン、タイ、ニュージーランド、クメール共和国、ラオス王国などです。

 これを人物的にみれば、ソ連はフルシチョフ、コスイギン、ブレジネフ。中国は周恩来、林彪。北朝鮮は金日成。対抗するアメリカはケネデイ、ジョンソン、ニクソン。長官の名前を言えばマクナマラ、ウエストモーランド、エイブラムス、ウエイアンド。韓国では朴正き。フィリピンはマルコス。

      枯葉剤

 ベトナムの不幸は、世界の大国がそれぞれの側についたことです。アメリカ対ソ連・中国の図式になってしまったことです。その原因を作ったのはホーチミンでありましょう。レーニンを信奉するあまり、ソ連に武器弾薬の支援を頼んだのです。アメリカにもメンツがあります。何と言ったって世界の警察を自ら任ずる合衆国なのですから…  激戦が続きました。国土が破壊されました。苦境を強いられたアメリカは、禁じ手の枯葉剤まで撒きました。次の一連の写真は、ベトナムの苦悩を象徴しているのではないでしょうか。

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    (写真をクリックしていただくと拡大されます。消す時は最上段中央の小さな×印クリック) 

 ベトナムの国土の大半は密林です。兵士が迷彩服を着てそこへ潜めば、容易に識別できません。しかも、北側は地下トンネルを無数に掘り、南側に奇襲攻撃をかけます。ごうを煮やしたアメリカは化学兵器を使用しました。大量の枯葉剤を散布したのです。この枯葉剤はありとあらゆる生きとし生けるものに作用します。味方であるアメリカ兵とて例外はありません。アメリカの製薬会社は、今なお、枯葉剤で被害を受けたアメリカ兵には手厚い保護をしています。ところが、それによって被害を受けたベトナム人がアメリカの製薬会社に賠償請求しても、すべて却下されました。同じ人間なのに、アメリカ人もベトナム人も同じ人間なのに、アメリカ人被害者には手厚く、ベトナム人にはソッポを向く。国際法を犯して禁じ手を使ったのはアメリカなのですぞ。

 ホーチミンからフエまでの約一時間、飛行機の窓から密林を見下ろします。ところどころに、赤茶けた、それらしいところを発見します。フエが近づくにつれ、それらの数が多くなりました。

 枯葉剤について執拗な取材を重ね、優れた写真記録を残した日本人がいます。ベトナム人は彼のことを忘れません。戦争記念館には彼の顕彰碑がありました。胸のすく思いがしました。

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      ホーチミンの街 

 ホーチミンの戦争記念館の屋外には、38年前まで実際に使われた、航空機、戦車、高射砲、弾薬などが展示されていました。

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 ホーチミン市はチェンマイよりも、バンコックよりも南に位置しますので気温は上昇します。海に近いためか、湿気もあって、まるで、日本の梅雨時の終わりを思わせます。空港から街中のホテルまで約40分あまり。驚いたのは道路を行き交う車とバイクの量です。いたるところで渋滞が起きていました。英語で言えばトラフィック・ジャム。バンコックと同等か、それ以上でしょう。これを活力と言っていいものかどうか。とにかく、道路一つ横切るのさえ一苦労です。もとより、ところどころに横断歩道はあっても、車やバイクが優先です。大きな交差点以外、信号機はありません。命がけで向こう側に渡るしかないのです。

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     マーケット

 ホテルの近くにマーケットがありました。衣料品、履物、野菜、果物、乾物、精肉、鮮魚、それぞれがブロックに分かれて商品を山と積んで商いをしていました。マーケット内の通路はひと一人がやっと通れるくらいに狭く、夜は一体、並べられた商品はどうするのか、疑問が湧きました。そこで、マーケットがホテルから近かったせいもあって、再び、店仕舞いの様子を見に行きました。丁寧に、キレイに、整然と並べられていた商品を店の中へしまいこんでゆきます。店内に収納できないものは、人間が三人ほどは入れそうな大きな袋に入れ、鍵をかけて店の前に置きます。瞬く間にマーケットは空間だらけとなりました。
 朝6時、マーケットの周りの道路では、小さな椅子に腰かけ、人々はフォーの朝飯です。フォーとは湯がいた細麺に薬草を入れ、肉汁をかけたどんぶりです。一方、マーケット内では、人々は昨日とは逆の手順で開店の準備を始めます。その手際のいいこと。彼らはこの労働を毎日繰り返しているのです。有り余る商品を持つのも大変だなあ、とつくづく思いました。ともかく、ホーチミンのマーケットは活力が漲り、騒音の坩堝となっていました。

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     フエで「花は咲く」を弾く

 ホーチミンから約一時間、フエに向かうにつれ、天候が悪化しました。大雨です。よくも、こんな悪天候の中着陸できたものだ、とパイロットの技量に感謝しながら、フエの田舎の駅のような空港に着きました。バイクは数えるほどしか走っていません。差があるなあ、と思いながらインペリアルホテルに着きました。中国風の実に立派なホテルです。このホテルを訪れた各国のVIPの写真の中に、日本の浩宮さまのものもありました。雅子さまは宮様の陰に隠れて、お顔の半分しか見えないのが残念でした。

 大雨ですから、どうしようもありません。大粒の雨がまるで滝の様に降っているのです。一階ホールにグランドピアノが鎮座していました。 蓋を開けてみると戦前のヤマハのものです。鍵盤が象牙の逸品です。弾いてもいいかと、問うと、どうぞ、と言うのです。 そういうこともあるか、と用意していた楽譜をスーツケースから取り出し、この激戦の地で亡くなった人々への鎮魂の気持ちを込めて 弾き始めました。

 ドヴィッシーのアラベスク1番、スタッカットが連続する「パスピエ」、ショパンのワルツ3番、アンプロンプチュから「雨だれ」を含む4曲、グリークの抒情小曲集から4曲、日本の歌曲中国地方の子守歌、出船、雪の降る街、夏の思い出などなど。ピアノの音はドームになっている一階ホールに響きに響きわたりました。感無量でした。

 そうそう、今、日本で大流行の「花は咲く」もやりました。11月9日のOB会で、宮沢君が歌いたいというので、インターネットで楽譜を取り寄せ、仕込んでおきました。ところが、当日、キーが高くて声が出ない、というのです。考えてみればその通りで、あらかじめ3度ほど下げた楽譜を作っておくべきでした。迂闊でした。宮沢君には申し訳ないことをしてしまいました。この曲は一つのフレーズが何度もリフレインされる変わった曲ですが、繰り返される度に違った情感で弾ける不思議な曲です。激戦地フエでやるには最もふさわしい曲ではなかったか、と思いました。翌日piano.JPG
のチエックアウトは12時なのに、ハノイ行きは夜です。ホテルは約6時間無料で時間を延長してくれました。
 で、その日の午後も、同じレパートリーでやらせてもらいました。5,6人の外国人が聴き入っていてくれました。従業員が親しく笑いかけてくれました。旅はいいなあと、つくづく思いました。
 

      フエでの半日

 雨の中、半日観光に出かけました。幅300メートルはあろうかという、増水したフエ河を夫婦が舵取りをする小型船に乗り込みます。雄大な景色の連続ではありましたが、船内では雑貨品の売りつけに迫られました。 一時間ほど遡った岸に観光タクシーは先回りしていました。車はデコボコ道を走り、山の中のパゴタに向かいます。周囲は貧しげな全くの農村です。年中暑いから衣服の心配はない。野菜や果物は有り余るほど収穫される。雨露の凌ぐ屋根が有りさえすれば、生きていくことに何不自由しない。それがベトナムの現実であることが、イヤというほど分かりました。

 だとすれば、どこに虐げられた労働者がいたのでしょう? 約半世紀前、民衆を搾取する資本家がいたのでしょうか? 文化がなくても、生活に便利な文化製品がなくても、人々はその日、その日を平和に暮らしていたはずです。 何で、この柔和にして穏やかな眼差しの人たちに、社会主義的イデーが必要だったのでしょうか? フランスからの独立戦争はまだしも、世界を二分するまでの戦争を、ここの人たちは必要としたのでしょうか?

 私は、断じてそうは思わない。この民族にとって、降って沸いた災難以外の何物でもなかったのではないか? 負傷者を含めて800万人の被害を出した戦争は、このベトナムにあってはならないことではなかったか? その不幸を招来した人物こそホーチーミンではなかったか? ホーチミンこそ断罪されるべきではないのか?
 

     ベトナム料理

 フエ・インペリアルホテルの朝食は、申し分のないものでした。「ベトナム料理は美味しい。日本人の口に合う」とは、よく言われます。全くその通りでした。ほとんどの料理が薄味で、素材の持ち味を生かしています。定番は生春巻き、肉春巻き、そしてフォーですが、どれも美味でした。

 薄く伸ばされた餃子の皮みたいなものに、揚げた肉状の切片を入れ、ネギ、香菜、タレなどを加え、クルリと巻いて口にするのですが、口内が絶妙なハーモニーで満たされます。世界の三大珍味北京ダックにひけをとりません。フォーもまたいい。ホーチミンで、フォーの専門店へ行って昼食を摂りましたが、肉汁に味の素が入りすぎていました。日本の味の素は、東南アジアを席巻していますが、これは日本が振りまく害毒でありましょう。チェンマイには「この店では味の素を一切使っていません」という表示が、店頭にある店もあります。味の素さんよ、恥ずかしいと思いなさい。

 パンが美味しいことも、ベトナムの大きな特徴です。ベトナム航空の機内食で供されるパンですら美味しいのです。最初、口にほおばったときは、普通のパンと変わりはないのに、後味がいいのです。仄かな奥ゆかしい後味が尾を引きます。フランスの植民地時代から受け継がれている独特のイースト菌があるのではないか、と勘ぐりました。ホーチミンーフエ、フエーハノイの機内食のパンはどうか、と期待したのでしたが、不思議なことに、供されたのは、たった水一杯でした。 

 フエでの写真をたくさん撮りたかったのですが、あいにくカメラの電池が切れ、一枚だけとなりました。

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      通貨はドン

 ベトナムの通貨には呆れます。単位はドンと言うのですが、度重なるインフレのせいか、天文学的数字になっていました。春のスイス旅行の際、使い残したユーロが1000ユーロばかりありましたので、まず、空港で100ユーロの両替をしました。出てきたお金が、何と、2、849、860ドン。面食らいましたねえ。いっぺんに金持ちになったような気がしました。日本円に換算すると、500円が約10万ドンに当たります。チップの相場が2万ドンだそうでしたから、約100円。タイではドアボーイに20バーツ、60円が相場でしたから、少し高いかという感じでした。タクシーのメーターは5000ドン、25円から始まります。2万ドンから3万ドンでかなりのところまで行けました。一杯のフォーが2万ドン前後。100円から150円です。夜店の屋台で買った精巧な紙切り細工が2万から5万ドン、100円から250円でした。通貨は円が弱く、ドルよりもユーロが高値でした。ベトナムにユーロを持ってきたのは正解でした。正月の二日に長男、次男一家らが集まるのが恒例ですが、その時の引き出物にすべく、民芸店でマフラーを9枚買いました。一枚11万ドン、600円です。日本でなら2000円以上はするでしょう。

 日本でお金を貯め、ベトナムへ来て生活したら、どんなに優雅な暮らしになるか、それはタイでも同じことで、いかに日本が異常な国なのかを、改めて知りました。
 

     ハノイのホテル

 ハノイは昔のサイゴンに代わってベトナムの首都になっていますが、緑と花に囲まれた好感の持てる街です。戦時の空爆にも耐えてきたのでしょう、フランス植民地時代の名残まで留めています。旧市街と新市街が截然と分かれていて、旧市街はそれこそごった返していました。ホテルは小さいけれど、ルビーエレガンスホテルと名乗るだけあって、清潔で、行き届いていました。従業員の誰もが笑顔で応対してくれました。朝食はチョイス方式です。ジュースは、卵は、パンは、フォーは、お茶は、と好みを聞いてくれました。

    アオザイの大学生たち

 一般論として、ベトナム人は男も女も小柄です。  DSC00052.JPG
170センチを超える者は極めて稀です。その証拠が次の動画です。市内のさるお寺へ行ったときです。大勢の大学卒業生の集団と遭遇しました。11月末日でしたから、卒業式と重なったのかもしれません。お寺に集まって集合記念写真を撮りあっていました。なぜ、お寺なのか? とにかく、凄い集団です。女子学生は一様にアオザイ姿で、男は黒の背広。貸衣装らしいガウンと房のついた角帽をかぶり集合写真を撮っています。クライマックスに角帽を空中に投げ上げるのでした。 昔の早稲田の卒業式の亜流だな、と思いました。(画像をクリックすると拡大されます。消すには上段中央の×印)

 ベトナムの、次の時代を担う若者たちのさんざめきを眺めるのは、誠に気持ちのよいものでした。

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       前神後仏

 ホーチミンでも、ハノイでも、一日観光コースの中にはお寺が含まれていました。南のお寺はインドやスリランカの気配が漂い、北側は中国色の濃い仏像でした。ベトナムは中国を祖とする大乗仏教のはずですが、同じ大乗仏教である日本とは全く違った佇まいでした。寺のあちこちには漢字が使われ、教典も漢字でした。日本人としては親近感が持てたのですが、どのお寺のご本尊も、前に神様がいて、後ろの仏様が控えています。密教、浄土教、道教、禅宗などに加えて、土地信仰の神様までが混然一体となっていました。

 国民の70%が仏教徒だそうです。1986年のドイモイ(刷新運動)までは制約があったようですが、いまでは宗教の自由は憲法に定められているそうです。何しろ、国中には14000を越すお寺があり、僧侶の数も3万人を超えるとか。大学生までもが、卒業式の記念写真をお寺で撮る国です。こういう心優しい国民が、何故南北に分かれて、壮絶な殺し合いをしなければならなかったのか? ホーチミンの罪は重い、と改めて言わざるを得ません。

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       戦争記念館

 ハノイの戦争記念館には、それこそ各種の戦争道具が展示されていました。中に、ジャングルで掘られた地下トンネルの入口模型がありました。北側の勝利はトンネル作戦にあった、と言われています。本当は、実際に掘られたトンネル跡へ行きたかったのですが、いつの日か、再び訪れることを自分に期待しています。

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       首都ハノイの停車場

 戦争記念館からハノイ駅まで、地図上で見ると近かったので、たむろしていたタクシーを捕まえました。ところが、このタクシーはメーターを改造したインチキタクシーでした。ほんの2,3分乗っただけなのに18万ドンを請求されました。10倍の料金請求です。駅前にパトカーらしきものが止まっていたので、お巡りさんを呼ぼうとしました。生憎、乗っていません。やり取りをしようにも、言葉が通じません。通行人が寄ってきたので、記念館から駅まで18万ドンはオカシイ、と説明しようにも、相手もカタコト英語。

 言葉ができないというのは、実にもどかしいものでした。もう少し若かったら、ベトナム語を勉強してこよう、と思うでしょうが、もう、この歳では…… 人だかりがしてきたので、仕方なく10万ドンやったら、タクシーは素早く去って行きました。

 駅は、首都の駅らしからぬ佇まいでした。それでも、ミャンマーの首都ヤンゴン駅よりはマシです。つまり、インフラの整備ができないでいるのです。これに比べて、日本のJR,地下鉄、私鉄、それに高速バス。つくづく過剰投資ではあるまいか、と思えてなりませんでした。

 社会主義国である以上、人民の利便性の追求がなされなければなりません。駅はお粗末、単線運転、しかも、運行はまばら。地下鉄もなく、バスもほとんど見かけず、これ以上隙間がないほどの車とバイクの洪水。
社会主義がきいて呆れます。 

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https://www.youtube.com/watch?v=u9DXiTNdZ3c

      人間ホーチミン 

 さて、いよいよハノイの中心部に位置する「ホーチミン廟」についてです。動画でお分かりいただけるように、異様な、黒い建物が緑の中に聳えています。ホーチミンの居宅もありました。質素な書斎もありました。林の中に会議室もありました。見物人がぞろぞろと押しかけています。軍人が目を光らせ、廟の中は撮影禁止となっていました。

 1890年に貧しい家に生まれた彼は、船でフランスに渡り、厨房の料理人になります。皿洗いが彼の出発点です。船のコックになってアメリカにも渡ります。再びフランスに戻り、マルクスレーニン主義を学びます。フランスの民族解放同盟に入党し、イッパシの理論家となって、ベトナムに戻り、ベトナム独立運動の闘士になります。1890年に生まれた彼は、15年続いたベトナム戦争が始まって9年後に79歳で没するのですが、戦争は彼の死後6年間続き、勝利します。遺言では、遺体は火葬にして故郷の村に葬って欲しい、とあったのに、精神的支柱を失った北側が、無理やりに象徴としての「廟」を作り上げてしまう、というのが真相のようでありました。結局、彼は、ドイツで東西の壁が崩れたことも、ソ連邦が崩壊したことも、つまり、マルクスレーニン主義が力を失っていく世界的趨勢を見ることなしに、この世を去ったわけですが、廟のなかで生き恥をさらしていることを、一番苦々しく思っているのは、彼自身ではなかろうか? と私は思えてなりません。レーニン然り、北朝鮮キム一族然り、毛沢東も確かそうだったと思うのですが、社会主義国の欠点は度を過ぎた個人崇拝にある、と私は思います。

 時代は変わりゆくものです。思想も変遷を重ねていきます。マルクスレーニン主義では、「社会主義共産主義は、資本主義が爛熟した末にやってくるもの」 と定義しています。ロシア革命などは、資本主義以前に行われたため、スターリンの専制政治を招来してしまいました。北朝鮮もそうです。貧しさの果ての国になぜ、ツチエ思想を信奉する社会主義が必要だったのでしょうか。おぞましい権力闘争が、そこに介在していなかったでしょうか。ベトナムもそうです。頭でっかちの社会主義者がリーダーとなった結果の不幸だったように思えてなりません。

 本人の謙虚な遺言に反して、ご大層な廟に入れられ、毎日見物人の目に晒されているホーチミンは、歴史的背景を除けば、質素にして、無私の清廉潔白な人物であったようです。生涯に亘って、女性を近づけなかった、と言われています。なぜか? 私は彼の生前そのまま、素朴な書斎を見たとき、なんとそこに、日本の童人形が飾られていることに気が付きました。そうか、そういう性癖の持ち主であったのか、と妙に納得できました。稚児潅腸、正にそれです。もちろん、私の想像に過ぎません。

 余談ながら、世界の趨勢は資本主義の爛熟に向かって動いています。社会主義国といえども商業主義、市場原理主義が幅をきかせています。中国がその良い例でしょう。世界の富の80%を、世界の人口の20%の人間が占めてゆくこの異状現象。アメリカなどはすでにその極みに達していると見ていいのです。一体、次に来る社会制度は何でしょう? 今から30年を待たずに、数量統制経済による共産社会に移行していくのではないでしょうか?

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 以上で、ベトナム見聞録は終わらせていただきます。お読みいただき、ありがとうございました。
 再び、チエンマイに戻り一週間、フラマホテル、インペリアルホテルに滞在しました。

 


 2013年12月26日          王様の誕生日

 87歳を迎えるタイのプミポン国王とその夫人の肖像写真は、タイのいたるところに掲げられ、写真の前には祭壇が設けられています。ホテルとて例外ではありません。滞在したフラマホテルの入口にもそれはありました。奇しくも、12月5日は王様の誕生日でありました。夜7時、ホテルのほとんどの従業員がホールに集まり、手に手にロウソクを持ち、大きな画面から流れて来る歌に合わせて大声で唱和しているではありませんか。 祭主の祈りの文句に合わせて唱えているではありませんか。私もその仲間に加わりました。従業員の一人がやってきて、火の点いたロウソクを持たせてくれました。タイ人になったような気がしました。

 夕食のためレストランへ行き、馴染みのシンハービールを注文しました。何と、「今日は王様の誕生日のため、アルコールの販売はしません」 と 言われてしまいました。今日一日朝から夜まで、タイ全土のすべてのレストラン、ホテルではアルコール類の販売を行っていないというのです。驚きましたね。こんな国もあるんだ、と嬉しくなりました。普通の日でも、タイではアルコール類は午後5時にならねば買うことができません。コンビニではビール売り場はロックされています。

 タイは誠に気候的にもいいところだが、欠点は旨い酒がないのが玉に瑕だなあ、と思っていたのでしたが、背景は王様にあったんだ、と納得しました。そして、この国が一層好きになりました。



2013年12月27日          日本語キリスト教会

 チェンマイには中国のプロテスタント教会があって、その建物の三階を借りて、日本語キリスト教会があります。総数では100人を超える会員で成り立っているようですが、毎回の礼拝では30人程度の集まりになっています。この教会の牧師であるN先生は、私より7歳年下ですが、公私に亘って、精力的に会員の面倒を見ています。実に頭が下がる活動をしておいでです。夫人は明治時代に救世軍を起こした山室軍平の血を継いでいる才媛です。旧約聖書に関するオーソリテイで、その知識は、驚く程緻密で、多岐に亘っています。礼拝のときは賛美歌の伴奏をピアノでなさいます。ご一緒の食事をしていただいた際、N先生が「旧約に関して彼女ほど深い知識を持っている牧師夫人はいません」 とまでおっしゃいました。夫人は、身を捩って、「そんな…」 と言いました。この仲の良い御夫妻は、奇しくも二人とも早稲田大学の後輩であり、しかも、お二人が同級生であったとは… 不思議なご縁を感じました。法学部校舎の4階にキリスト者同盟の部室があって、お二人はその時から結ばれていたそうです。

 都合二回、延べ8時間余に亘って、会友のHさんも同席して、私の話を聴いていただきました。当然、私がいま自分自身の最大問題としている「どうやって崖を飛び越えるか?」 そして、「先生の場合は?」という質問に及びます。
 高校時代、好感を抱いた女性が「私、よく解らないの、でも、信じているの」 この一言が転機になった、と先生は仰言います。やはり、高校時代であったのだ… 私の高校時代は、受験勉強そっちのけで、聖書が真っ赤になるくらい読み込んでは線を引き、真夜中歩き回っていた… 私と、先生は同じであったのだ、ただ、私には転機となる女性は周囲にいなかった、憧れた女性との文通はあったが、彼女にはすでに許婚がいた……

 「聖書です。聖書を読むことです。どんな理屈より、まず、一所懸命に読むことです」と先生は仰言います。 「中澤さん、牧師になりませんか。二年間、神学校へ行って資格を取る必要がありますが、行き手のいない地区がこの近くにあります。高齢者こそ、そこの牧師に相応しいのです」とも仰ってくれました。

 考えてみれば、私は朝日新聞に入社させてもらって、朝日新聞を増やすことに大袈裟に言えば命をかけてきました。当時400万だった部数を、800万まで押し上げた販売戦士の一人でした。その後の6年間は小学生、中学生の新聞社の経営に携わり、無借金経営を更に飛躍させることに貢献させてもらいました。次の7年間は身障者になった亡妻の車椅子を押しました。12,3年前からは、「モノを作りだすことに人生の至福あり」 と悟り、NN工房を自称し、本作りに没頭してきました。そして、お陰様で喜寿まで生きながらえることがてきました。不思議なことに、「モノを作って」いると、歳を取っていくという感覚がなくなります。これからこそがオレの本当の人生だ、と思えてくるのです。私が自分に望んでいる本当の人生とは何か? それは、〈自分を無にして、自分という器を神そのものに委ねて、何らかのお役に立って終わりたい〉、そういう人生なのです。

 牧師になる…… そうなれたらいいなあ…… 一つ、やってみるか…… 

 


2013年12月29日          一人ゴルフ

 チェンマイにもゴルフ場が数箇所あります。バッグを担いだ日本人の四人組を しばしば空港で見かけます。「何も、ここまで来てやることないじゃないか」 と軽蔑の眼差しを向けるのが常ですが、ふと、私としたことが、ゴルフをやってしまいました。言行不一致です。

 「この土地に最初に出来たジムカーナゴルフ場は、名門であると同時に、素晴らしい大木が聳えている」
 その大木が見たくなりました。300バーツ払ってタクシーで行ってみました。

 「一人でもできるの?」 「OK」 400バーツ払いました。「レンタルバックは?」 「OK」 300バーツ払いました。 「靴は?」 「OK」 50バーツ払いました。 「ボールは?」 「OK」 100バーツ払いました。「キャデイは?」 「OK」 150バーツのところ200バーツ先渡ししました。ウンちゃんという若い女性キャデイが付きました。 「手袋は?」 これは無料で貸してくれました。締て、日本円で3000円弱です。

 さて、12月だというのに、半袖で日よけ傘さしての一番ホールです。
 結果は?  聞いて下さいますな。 ただ、パーが二つ取れたことが望外の喜びでした。

 噂に聞いた大木を眺めながら、飲んだビールの旨かったこと!

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2013年12月30日           ラン、らん、蘭

ハワイと、ほぼ、同緯度にあるチェンマイでは、蘭の花が至るところで見られます。デンファレなどは、ほとんどタダ同然で、一抱えが50バーツ、つまり150円もしません。フラワーフェステバルが山間部の公園で、いま、開催中と聞いたので、ソンテウを300バーツで頼んで行ってみました。公園内はシャトルバスで移動です。珍しい熱帯植物、食虫植物専用の大きな温室もありました。とにかく全ての植物がデカイ、そして、成長著しい。

 日本の、四季豊かに咲く花を愛でるのもいいが、わずかな変化の四季しかなく、乾季と雨季に別れるタイという国の、特にタイの高地に位置するチェンマイは、植物の植生観察には 持って来いのところだなあ、と思ったことです。圧巻は無数の蘭が咲き乱れている温室でした。温室というよりネットの囲いのあるエリアでした。虫害を避けるためか、細かな目のネットが張られていました。

 圧巻でした。これほどの蘭が咲いているところは、世界でも稀なのではないでしょうか。植物の名前や生態に疎い私は、唯唯、その見事さに圧倒されました。何の解説も要しないでしょう。どうか、動画をご覧ください。

 一ヶ月に亘った旅行の最後を飾るに相応しい写真ではないか、と信じます。ありがとうございました。

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2013年12月31日       ベトナム戦争のもう一つの面

 昨晩のNHKBS放送で、オリバーストーンの「もう一つのアメリカ」という番組を見ました。ベトナム戦争におけるアメリカの裏面を痛烈にえぐった実写画面に息を呑みました。

 ケネデイがキューバ危機を寸前で回避したのは、実によかった、としても、国内では赤狩りが台頭し始め、共産主義への嫌悪が高まり、ベトナムの左傾化に待ったをかけるため、ケネデイは戦争介入します。この底流には軍需産業からの突き上げがあり、キューバ危機回避がケネデイの弱腰、と見られた反動でもありました。ジョンソンの時代に、何でもあり、の攻勢をかけます。北爆の開始、無差別爆弾投下、ついには、枯葉剤散布。しかし、ジョンソン末期からアメリカ国内では厭戦ムードが高まり始めます。ニクソンがウオーターゲイト事件で失脚すると共に、アメリカはベトナムから手を引いたのでした。アメリカ軍兵士の死者数53、452人。負傷者数20万人。ベトナム人の死者は363万人、負傷者300万人。枯葉剤等によるガン、奇形児の数150万人。

 アメリカ軍は、とにかく、虫けらのようにベトナム人を殺しまくったのでした。ベトナム人死者が折り重なった写真をアメリカ人に見せて、感想を聞くと「なんとも思わない」  かって、日本人の原爆死者の夥しい群れの写真を見せても、アメリカ人は「何とも思わない」  これがアメリカの実体なのです。

 東洋人を人間とは思わないアメリカの体質は、アメリカが戦争を絶やさない国になってしまったからでしょうか。アメリカの軍需産業に従事している人口は膨大です。武器弾薬は消費されねばならないのです。その後ろ側にはユダヤ資本が存在しているのは自明の理でしょう。アメリカがベトナムの次にアフガニスタンやイラクと戦火を交えてのも、軍需産業からの圧力が政治を動かしたからです。

 ある意味では、アメリカの膨大な軍事力に抵抗し、四等国と言われようが、虫けらのように扱われようが、最後には勝利を勝ち取ったホーチミンに始まる北側の抵抗作戦は、大したものだった、といえるでしょう。あくまでも結果論ですが。

 アメリカのライフル協会が、どんな乱射事件が起こっても、銃規制に同意しないように、アメリカのロビー活動は次の戦争の機会を狙っているのではないでしょうか。一方、国内与論は、他国のためにアメリカ人の血を流すことは、もう御免だ、という流れも顕著です。例え、尖閣列島で中国と日本の間で小競り合いが起きても、アメリカが日本のために血を流すことは、もはや有り得ない。第一、いまのアメリカには、そんな余裕はない。これは一年前の朝日旧友会で元論説主幹が演説で述べていたことです。

 今日は2013年最後の日。明日から2014年が始まります。仕事場の壁に貼ってある10年カレンダーは、すでに4年間が塗りつぶされ、余すところ6年になりました。来年は私にとってどんな年になるのでしょう。期待に胸が膨らみます。

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